2020年10月30日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉3

  『日本書紀』慶長版は

四年夏五月辛亥朔壬戌發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧道嚴道通道光惠施覺勝弁正惠照僧忍知聡道昭定惠安達道觀學生巨勢臣藥氷連老人百二十一人倶乗一舩以室原首御田爲送使又大使大山下髙田首根麻呂副使小乙上掃守連小麻呂學問僧道福義向幷一百二十人倶乗一舩以土師連八手爲送使是月天皇幸旻法師房而問其疾遂口勅恩命六

月百濟新羅遣使貢調獻物修治處處大道天皇聞旻法師命終而遣使吊幷多送贈皇祖母尊及皇太子等皆遺使吊旻法師喪遂爲法師命畫工狛堅部子麻呂鯽魚戸直等多造佛菩薩像安置於川原寺秋七月被遣大唐使人髙田根麻呂等於薩麻之曲竹嶋之門合舩沒死唯有五人繋胸一板流遇竹嶋不知所計五人之中門部金採竹爲筏泊于神嶋凡此五人經六日六夜而全不食飯於是褒美金進位給祿是歲太子奏請曰欲冀遷于倭京天皇不許焉皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等往居于倭飛鳥河邊行宮于時公卿大夫百官人等皆隨而遷由是天皇恨欲捨於國位令造宮於山𥔎乃送歌於間人皇后曰舸娜紀都該阿我柯賦古磨播比枳涅世儒阿我柯賦古麻乎比騰瀰都羅武箇

【四年の夏五月の朔が辛亥の壬戌の日に、大唐に遣使を送り大使の小山上の吉士の長丹、副使の小乙上の吉士の駒、学問僧の道嚴と道通と道光と惠施と覚勝と辨正と惠照と僧忍と知聴と道昭と定惠と安達と道観と、学生の巨勢の臣の藥と氷の連の老人、百二十一人が、一緒に船に乗った。室原の首の御田を、送使とした。また大使の大山下の高田の首の根麻呂と副使の小乙上の掃守の連の小麻呂、と学問僧の道福と義向、併せて百二十人が、一緒に船に乗った。土師の連の八手を、送使とした。この月に、天皇は、旻法師の房に行幸して、見舞いに行って、ありがたい言葉を直接述べた。六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。あちこちに大きい道を造った。天皇は、旻法師が絶命したと聞いて、使者を派遣して弔問した。併せて多くの贈答品を送った。皇祖母の尊と皇太子達が、皆、使を派遣して、旻法師の喪をいたんだ。それで法師の爲に、絵師の狛の竪部の子麻呂と鯽魚戸の直達に命じて、たくさんの佛や菩薩の像を造って川原寺に安置した。秋七月に、大唐に派遣した使者の高田の根麻呂達が、薩麻湾と竹嶋の間で、船が衝突して沈んで死んだ。ただ五人だけ板の上に胸を載せて、竹嶋に流着いた者がいた。他になすすべが無かった。五人の中に、門部の金が竹を採って筏を作り、神嶋に停泊した。全てこの五人は、六日六夜をずっと、全く食べられなかった。金を褒賞して、位を昇進して俸給した。この歳に、太子が、「できましたら倭の京に遷りたい」と願い出た。天皇は、許さなかった。皇太子は、それで皇祖母の尊と間人の皇后を先頭にして、一緒に皇弟達を率いて、倭の飛鳥の河邊の行宮にいた。その時に、公卿や高官と役人達が、皆一緒に遷った。これで、天皇は、恨んで国や位を捨てようと思って、宮を山碕に造らせた。それで歌を間人皇后に送って()】とあり、標準陰暦と合致する。

ここでも、唐に行く道光が694年持統八年に「贈律師道光賻物」と死亡して贈り物を与えていて、694年が60代とすると、渡唐が654年の20代の半人前なら最後に記述される可能性が高く、660年の30代の渡唐に現実味があり、鎌足の長男の定惠が665年に「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」、天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」と帰国し、定惠が654年の渡唐なら、帰りももっと早く、斉明天皇四年「奉勅乘新羅船往大唐國」や斉明天皇五年「遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐國」と渡唐した人々と帰えればよい。

また、鎌足は648・9年に『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と647年に制定された錦冠を初授され、659年に次男の不比等が生まれているのだから、654年に鎌足は20歳程度で、定惠が13歳を越えているとは思えず、663・4年に渡唐したと考えられる。

旻法師の為の仏像を奉納した川原寺は、天武天皇二年「始冩一切經於川原寺」、天武天皇十四年「幸于川原寺施稻於衆僧・・・誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺」、朱鳥元年「運川原寺伎樂於筑紫仍似皇后宮之私稻五千束納于川原寺・・・因以於川原寺説藥師經・・・遣百官人等於川原寺・・・悉集川原寺」と飛鳥浄御原関連の寺で、白雉年間では辻褄が合わないため山田寺と解釈しているが、白鳳4年の664年頃の話なら、既に斉明天皇が飛鳥川原宮に遷都して、そこに川原寺を建立した可能性が有る。

その飛鳥だが、顕宗天皇元年「近飛鳥八釣宮」と遠い飛鳥と近い飛鳥が有り、崇峻天皇即位前紀「本願於飛鳥地起法興寺」、崇峻天皇元年「此地名飛鳥眞神原亦名飛鳥苫田」、舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍。是謂岡本宮」、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」、斉明天皇元年「災飛鳥板盖宮故遷居飛鳥川原宮」斉明天皇二年「飛鳥岡本更定宮地」と接頭語に倭など一切つけていない。

それにも関わらず、倭を付加したのは、奈良県にある飛鳥は別に記述しなくても大和の飛鳥で、飛鳥寺の近くに八釣があり、近飛鳥と呼ばれているのだから、遠い飛鳥が倭飛鳥で、この倭は倭国の倭、斉明天皇は七年に「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と倭国の地の朝倉に遷都していて、 皇極天皇二年以降の飛鳥は朝倉の地の飛鳥の可能性が高く、飛鳥浄御原宮の時はほとんどが筑紫で饗応していて、饗応は首都で行うのが普通で、飛鳥浄御原宮は筑紫に有り、遠飛鳥・倭飛鳥は筑紫に有ったと考えられ、川原寺も筑紫に有った可能性が高い。

2020年10月28日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉2

 『日本書紀』慶長版は

二年春三月甲午朔丁未丈六繡像等成戊申皇祖母尊請十師等設齋六月百濟新羅遣使貢調獻物冬十二月晦於味經宮請二千一百餘僧尼使讀一切經是夕燃二千七百餘燈於朝庭內使讀安宅土側等經於是天皇從於大郡遷居新宮号曰難波長柄豊𥔎宮是歳新羅貢調使知万沙飡等著唐國服泊于筑紫朝庭惡恣移俗訶嘖追還于時巨勢大臣奏請之曰方今不伐新羅於後必當有悔其伐之狀不湏舉力自難波津至于筑紫海裏相接浮盈艫舳召新羅問其罪者可易得焉三年春正月已未朔元日禮訖車駕幸大郡宮自正月至是月班田既訖凡田長三十步爲段十段爲町三月戊午朔丙寅車駕還宮夏四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於內裏使講無量壽經以沙門惠資爲論議者以沙門一千爲作聽衆丁未罷講自於此日初連雨水至于九日損壞宅屋傷害田苗人及牛馬溺死者衆是月造戸籍凡五十戸爲里毎里長一人凢戸主皆以家長爲之凡戸皆五家相保一人爲長以相撿察新羅百濟遣使貢調獻物秋九月造宮巳訖其宮殿之狀不可殫論冬十二月皆請天下僧尼於內裏設齋大捨燃燈

【二年の春三月の朔が甲午の丁未の日に、丈六の繍像等が完成した。戊申の日に、皇祖母が、十師達に食事を施す法会を開くことを頼んだ。夏六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。冬十二月の晦の日に、味経の宮に、二千一百余の僧尼に、一切経の読経を頼んだ。この夕に、二千七百余の燈明を朝廷の庭の中に灯して、安宅経と土側経等の読経させた。そこで、天皇は、大郡から、新しい宮に遷った。難波の長柄の豊碕の宮と名付けた。この歳に、新羅の年貢を納める使者の知萬沙飡達が、唐の国の服を着て、筑紫に停泊した。朝庭は、勝手気ままに風俗を変えたことを嫌って、責め立てて追い返した。その時に、巨勢の大臣が、「今すぐ新羅を伐たなければ、あとできっと後悔する。その討つ方法は全勢力は使ってはならない。難波の津から、筑紫の海の中まで、 船尾と船首を連ねて隙が無いほど浮かべて、新羅を呼びつけて、罪を問えば、簡単に目的が果たせます」と裁可を求めた。三年の春正月の己未が朔の日に、年の始めの儀式が終わって、駕籠の車に乗って大郡の宮に行幸した。正月からこの月までに、人々へ均等に分け終わった。全ての田は、長さ三十歩で段として、十段を町とした。三月の朔が戊午の丙寅の日に、駕籠の車に乗って宮に帰った。夏四月の朔が戊子の壬寅の日に、修行僧の惠隱を内裏に呼んで、無量寿経を教えてもらった。修行僧の惠資と問答をさせ、それを修行僧の千人の前で行い、丁未の日に、講義が終わった。この日から、雨が九日間降り続いて、家屋を損壊して苗が壊滅した。人や牛馬がたくさんおぼれ死んだ。この月に、戸籍を作った。おしなべて、五十戸で里とし里毎に頭を一人、戸主には、皆、家長がなり、一戸は皆、五家を隣組として一人を代表者とし互いに見張り合った。新羅と百済が使者を派遣して年貢を献上した。秋九月に、宮を造り終わった。その宮殿の威容は、言い尽くせないほど立派だった。冬十二月の晦に、天下の僧や尼を内裏に集めて 愛憎の心を捨てる斎食を施す法会を開かせ燈明を灯た。】とあり、夏四月戊子朔は4月2日で3月が小の月で、大の月なら標準陰暦と合致するが、これまで2日が朔とするより他の年を考えた方が理に適った日付の事が多く、他を探すと621年の推古天皇二九年にあたり、629年元年の推古天皇29年、すなわち657年のことだった可能性が有り、その他は標準陰暦と合致する。

651年に新羅が唐様式の正装で来ることはあまり考えられず、『三国史記』654年眞德王八年三月の「贈開府儀同三司賜綵段三百」、654年武烈王元年五月「唐遣使持節備禮冊命爲開府儀同三司新羅王王遣使入唐表謝 」と唐の官位を得た654年以降で、660年斉明天皇六年「新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子」と同じことを記述している。

倭国の同盟国百済や高句麗に新羅を攻撃させ、660年武烈王七年三月「唐高宗命左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管金仁問爲副大摠管帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬??伐百濟勅王爲嵎夷道行軍摠管使將兵爲之聲援」、義慈王二十年「如月新者微也意者國家盛而新羅寖微者乎王喜高宗詔左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管 率左驍衛將軍劉伯英·右武衛將軍馮士貴左驍衛將軍龐孝公統兵十三萬以來征兼以新羅王金春秋爲嵎夷道行軍摠管 將其國兵與之合勢蘇定方引軍」と新羅と百済の記述が合致し、『舊唐書』新羅「顯慶五年命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管統水陸十萬仍令春秋爲嵎夷道行軍總管與定方討平百濟俘其王扶餘義慈」、百濟「顯慶五年命左衛大將軍蘇定方統兵討之大破其國」と唐の記述も合致している。

推古天皇十六年に「是時遣於唐國學生・・・志賀漢人惠隱」、舒明天皇十一年「大唐學問僧惠隱」、舒明天皇十二年「大設齋因以請惠隱僧令説旡量壽經」と推古16年が644年、舒明11年が662年、舒明12年が663年で、「夏四月戊子朔」を657年に推定した論理が正当化され、俀国記事の遣隋使に644年の遣唐使を「是時」以降に付け加えたことを意味し、もしかしたらもっと後の、次項で述べる653年白雉四年の「發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧」の時の可能性もある。

すなわち、「是歳」記事は659年の記事と考えられ、さらに、657年に推定した法会記事に続く大雨も『三国史記』の660年義慈王二十年五月「風雨暴至震天王道讓二寺塔又震白石寺講堂玄雲如龍東西相鬪於空中」、661年武烈王八年五月「至誠告天忽有大星落於賊營又雷雨以震」と自然災害が続いていて、この頃、異常気象が続いて、白鳳2・3年の記事の可能性がある。

そして、大化2年の班田収授法説明記事が重複して記述され、次に記述されるのが持統六年「遣班田大夫等於四畿内」記述されるので、大化2年の班田収授法開始は696年での可能性が有る。

白雉記事を記述したのが俀国の王朝の天武天皇か倭国・秦王国の王朝の元明天皇かによって、この白雉記事の評価が全く異なる。


2020年10月26日月曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉1

  今回も白雉改元記事なので分量が多く、原文と翻訳は後回しにして検証を先に行う。

白雉元号は『新唐書』に「永徽初其王孝德即位改元曰白雉」、『宋史』に「白雉四年律師道照求法至中國從三藏僧玄奘受經律論當此土唐永徽四年也」と永徽元年650年が白雉元年、永徽四年653年が白雉4年と中国史書が検証しているが、『二中歴』に「常色五年丁未白雉九年壬子国々最勝会始行之白鳳廿三年辛酉」と白雉元年が652年で白鳳元年が661年で白雉年号が9年間となり、これがズレると元号ではなくなってしまう。

中国史書は『日本書紀』を記述した政権と国交があっ中国で官僚になった人物もいて『日本書紀』どおりでなくてはおかしく、また、1060年完成の『新唐書』は「永徽初」で永徽元年ではなく、永徽元年から数年間の幅を持ち、1345年完成の『宋史』が永徽初年と考えた可能性が有り、『二中歴』を記述した人物も3史書を知っているにもかかわらず、あえてこれらの元号を記述していて、より真実を内蔵していると思われる。

この記述では『論衡』の儒増篇第二六「周時天下太平越裳獻白雉倭人貢鬯草食白雉服鬯草不能除凶」や『魏書』「靈徵志」に麒麟から温泉まで吉兆を載せ赤雀・白鹿・白雉や三足烏等も記載され、『後漢書』永平十一年「是歲漅湖出黃金廬江太守以獻時麒麟白雉醴泉嘉禾所在出焉」も引用され、景行天皇四〇年「日本武尊化白鳥」、雄略天皇九年「解鞍秣馬眠之。其明旦赤駿變爲土馬」がここで記述された説話をもとに記述されたものと思われる。

以前、『日本書紀』舒明天皇三年「百濟王義慈入王子豐章爲質」記事は655年以降としたが、ここでは百済君すなわち百済王と呼んでいて豊章が王となったのは『三国史記』義慈王二十年「古王子扶餘豊嘗質於倭國者立之爲王」と660年でこの改元は白雉ではなく白鳳の改元と考えられ、661年の記事を650年に挿入したのである。

だから、天皇が味經宮に行って年賀の儀式に行ったのは、白鳳を建元した人物が斉明天皇では無く他の象徴的人物が改元したのであり、だから、天皇が変わっても白鳳元号は続いたのであり、『日本書紀』の天皇は首都の年号だ。

また、この改元の王は穴戸を祖先神が統治したと『書』の「文身國」の末裔、すなわち、俀国から倭国の祖地粕屋を奪った倭国の王、蘇我氏の王だ。

『日本書紀』慶長版は

白雉元年春正月辛丑朔車駕幸味經宮觀賀正禮是日車駕還宮二月庚午朔戊寅穴戸國司草壁連醜經獻白雉曰國造首之同族贄正月九日於麻山獲焉於是問諸百濟君曰後漢明帝永平十一年白雉在所見焉云云又問沙門等沙門對曰耳未所聞目所未覩冝赦天下使悅民心道登法師曰昔髙麗欲營伽藍無地不覽便於一所白鹿徐行遂於此地營造伽藍名白鹿薗寺住持佛法又白雀見于一寺田莊國人僉曰休祥又遣大唐使者持死三足烏來國人亦曰休祥斯等雖微尚謂祥物況復白雉僧旻法師曰此謂伾祥足爲希物伏聞王者旁流四表則白雉見又王者祭祀不相踰宴食衣服有節則至又王者清素則山出白雉又王者仁聖則見周成王時越裳氏來獻白雉曰吾聞國之黃耈曰久矣無別風(?)雨江海不波溢三年於茲矣意中國有聖人乎盍往朝之故重三譯而至又晉武帝咸寧元年見松滋是即休祥可赦天下是以白雉使放于園甲申朝庭隊仗如元會儀左右大臣百官人等爲四列於紫門外以粟田臣飯(?)等四人使執雉輿而在前去左右大臣乃率百官及百濟君豊璋其弟塞城忠勝髙麗侍醫毛治新羅侍學士等而至中庭使三國公麻呂猪名公髙見三輪君甕穗紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前時左右大臣就執輿前頭伊勢王三國公麻呂倉臣小屎執輿後頭置於御座之前天皇即召皇太子共執而觀皇太子退而再拜使巨勢大臣奉賀曰公卿百官人等奉賀陛下以清平德治天下之故爰有白雉自西方出乃是陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋公卿百官及諸百姓等冀磬忠誠勤將事奉賀訖再拜詔曰聖王出世治天下時天則應之示其祥瑞曩者西土之君周成王世與漢明帝時白雉爰見我日本國譽田天皇之世白烏樔宮大鷦鷯帝之時龍馬西見是以自古迄今祥瑞時見以應有德其類多矣所謂鳳凰騏驎白雉白烏若斯鳥獸及于草木有苻應者皆是天地所生休祥嘉瑞也夫明聖之君獲斯祥瑞適其冝也朕惟虛薄何以享斯蓋此專由扶翼公卿臣連伴造國造等各盡丹誠奉遵制度之所致也是故始於公卿及百官等以清白意敬奉神祇並受休祥令榮天下又詔曰四方諸國郡等由天委付之故朕倊臨而御寓今我親神祖之所知穴戸國中有此嘉瑞所以大赦天下改元白雉仍禁放鷹於穴戸堺賜公卿大夫以下至于令史各有差於是褒美國司草壁連醜經授大山幷大給各有差復穴戸三年調役夏四月新羅遣使貢調冬十月爲入宮地所壞丘墓及被遷人者賜物各有差即遣將作大匠荒田井直比羅夫立宮堺標是月始造丈六繡像侠侍八部等四十六像是歲漢山口直大口奉詔刻千佛像遣倭漢直縣白髮部連鐙難波吉士胡床於安藝國使造百濟舶二隻

【白雉元年の春正月の辛丑が朔の日に、天皇が車に乗って味経の宮に行幸して、賀正の儀式を観た。この日に、天皇が車に乗って宮に帰った。二月の朔が庚午の戊寅の日に、穴戸の国司の草壁の連の醜経が、白雉を献上して「国造首の同族の贄が、正月の九日の日に、麻の山で捕まえた」と言った。それで、百済君にいろいろ聞いた。百済君が「後漢の明帝の永平十一年に、白雉をある所で見つけた」云云と言った。また、修行僧達に聞いた。修行僧達が「聞いたことも見たことも無い。天下に恩赦を発令して、人々を喜ばせるべきだ」と答えた。道登法師が「昔、高麗が伽藍を建立しようとするのに、土地を見ないで決めません。それである所に、白鹿がゆっくり歩いて行った。それでここに、伽藍を建立した。白鹿園寺と名付けて、仏の教えをかたく守った。また、白雀を、ある寺の所有する田で見つけた。国中の人が『よい前兆だ』と言った。また、大唐に派遣した使者が、死んだ三足の烏を持ち帰った。国の人がまた『よい前兆だ』と言った。こんな些細なことでも目出度い物と言うのだから白雉なら当然目出度い」と言った。僧旻法師が「大変良い前兆と言って、とても珍しいものと十分言える。聞いて納得したが、王道で四方全てまでを治めると、白雉を見る。また、王道が神を祀ってもお互いに領分を越えず、宴の食物や衣服は節度を持つ。また王が慎ましく美しいときは、山に白雉が出る。また、王が思いやりを持った天子だと見る。また、周の成王の時に、越裳氏が来て白雉を献上して『私が聞いたところ、国の若者も年寄りも長らくとりわけ風も吹かず長雨も無く、大河や海で溢水が無く、三年経った。それはきっと、中国には聖人がいるからだ。どうして朝廷に出向いて仕えずにいれましょう。それで、三つの通訳を重ねて遣って来た』と言った。また、晋の武帝の咸寧元年に、松滋がこれは吉祥だ。天下に恩赦を発令すべきだ」と言ったと知っている。そこで白雉を、庭園に放った。甲申の日に、朝庭の護衛は元旦の儀礼のようだった。左右大臣と役人達が、四列で庭園のしばを編んでつくった門の外に並んだ。粟田の臣飯蟲達四人で、雉を輿に乗せて、皆の前を通り過ぎた。左右大臣はそれで役人及び百済の君の豊璋とその弟の塞城と忠勝と高麗の侍医の毛治と新羅の教師達を率いて、中庭に着いた。三国の公の麻呂と猪名の公の高見と三輪の君の甕穗と紀の臣の乎麻呂岐太の四人が代って雉を輿に乗せて、殿の前に進み出た。その時に、左右の大臣が輿を手にして前方を担いで、伊勢の王と三国の公の麻呂と倉の臣の小屎が、輿の後を担いで、天皇の座席の前に置いた。天皇は、それで皇太子を呼んで、一緒に手に取って見た。皇太子は、退去してもう一でお辞儀した。巨勢の大臣が「公卿や役人達がお祝いして、陛下は、清らかに統治する徳で、天下を治めたため、白雉が、西方で出現した。それでこれは、陛下が千年も万年も、けがれなくあまねく大八嶋を統治して、公卿や役人と諸々の百姓達が、忠義を持って誠実に駆けつけて遣って来て勤しんで仕えてほしい」とお祝いした。お祝いしてからもう一でお辞儀をした。「徳を持った君主がこの世にあらわれて、天下を治める時に、天が呼応して、その目出度い前触れを見せる。昔、西方の国の君主で、周の成王の時と、漢の明帝の時に、白雉をその国で見た。我が日本国の譽田の天皇の時に、白烏が宮に巣を作った。大鷦鷯の帝の時に、龍馬を西で見た。それで、昔から今までに、良い兆しが時々目られて、徳が有る王に答えたようなことは多くある。所謂、鳳凰や麒麟や白雉や白烏のような鳥獣から、草木まで、天からの徴が有るのは、みなこれは、天地が生まれた頃からの、吉祥・吉兆だ。それは、知徳のすぐれ君主がこの吉兆を得たのは、本当に天の思し召しだ。私は騙されやすくて軽薄だ。どうしてこのようなものを受け取ったのかと考えたら、一所懸命に助けてくれた公卿や臣や連や伴造や国造達が、夫々真心を尽くして、決まりを聞いて従ったからだ。このために、公卿から、役人達まで、けがれない気持ちで、神祇を敬拝して、一緒に良い兆しを受けて、天下を繁栄させよう」と詔勅した。また、「四方の諸国郡達は、天が委ねて授けたのだから、私は全てを見渡して少しの間、国を預かる。今、我が祖先神が統治した、穴戸の国の中に、この吉兆が有った。それで、天下に大赦を発令する。白雉元年に改める」と詔勅した。それで鷹を穴戸の境界に放つことを禁じ、公卿高官より下から、事務官までに夫々差をつけて下賜物が有った。そこで、国司の草壁の連の醜經に褒美として大山位を授けた。それと併せて多くの手当を与えた。穴戸での三年の税と労役を免除した。夏四月に、新羅が、使者を派遣して貢物を差し出した。冬十月に、宮域に編入されて墓を壊したり遷された者に差をつけて物を与えた。それで木工の棟梁頭の荒田井の直の比羅夫を派遣して、宮の堺の標識を立てた。この月に、はじめて丈六の刺繍の像と本尊の両脇の像と天と竜と夜叉と乾闥婆と阿修羅と迦楼羅と緊那羅と摩睺羅伽の天竜八部衆等の三十六像を造った。この歳、漢の山口の直の大口が、詔勅を受けて千佛の像を刻んだ。倭の漢の直の縣と白髮部の連の鐙と難波の吉士の胡床を、安芸の国に派遣して、百済の大船二隻を造らせた。】とあり、標準陰暦と合致する。

2020年10月23日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化8

  今回も分量が多く、原文と翻訳は後回しにして検証を先に行う。

この事件は590年崇峻天皇三年「大伴狛夫人・・・同時出家」が590年ではなくて検証したところ舒明3年の631年に夫人が出家した夫の大伴狛と、舒明天皇即位前紀「即遣三國王櫻井臣和慈古二人」の記事の恐らく646年から白雉元年「新羅侍學士等而至中庭使三國公麻呂」の652年まで登場する三国公と斉明天皇四年「左大臣巨勢徳大臣薨」早ければ658年遅いと664年に薨去した巨勢左大臣が出現しているので3人が重なりそうな649年頃の事件としても良いようだ。

ところで、蘇我倉山田麻呂大臣・蘇我大臣・蘇我山田大臣といろいろ呼び方を変えているけれど、石川の記述が無く、皇極天皇四年に「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」とフルネームがあるが大化元年「次妃蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘」、天智天皇七年「蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘」と「倉」が無くなっている。

「倉」というのは敏達天皇前紀「渟中倉太珠敷天皇」、崇峻天皇前紀「宮於倉梯」、崇峻天皇五年 「葬天皇于倉梯岡陵」と敏達天皇が生まれ宮を置き葬られた場所で、敏達天皇は稲目の内容が含まれ「渟中倉太珠敷」は稲目の役職名と考えられて、物部目天皇が倉の地で統治し欽明天皇の子たちの一部はそこで生まれた稲目の兄弟達であると考えられる。

『古事記』に「皇娶檜隈天皇之御子石比賣命生・・・娶其弟小石比賣命生御子上王・・・又娶春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂古王次宗賀之倉王」と皇后の妹の子は上王で春日臣の娘の子が宗賀之倉王であるが、『日本書紀』では欽明天皇二年「皇后弟曰稚綾姫皇女是生石上皇子次有皇后弟曰日影皇女是生倉皇子」で『舊事本紀』も「皇后弟日稚綾姬皇女生一男石上皇子次妃皇后弟日影皇女生倉皇子」おなじである。

すなわち、『古事記』の倉王と『日本書紀』の倉皇子の二人のがいて、『古事記』の倉王は推古天皇の後継で活躍した、蘇我倉大臣と664年の入鹿暗殺時の、蘇我山田石川麻呂すなわち山田で生まれた襲名した倉王で、皇極天皇元年に「息長山田公奉誄日嗣」と『日本書紀』の息長足日廣額天皇の周辺人物が山田生まれを名乗り、敏達天皇十三年「馬子宿禰亦於石川宅脩治佛殿」と石川の土地は馬子の邸宅である。

すなわち、同じ人物を蘇我氏から見たか、物部氏から見たかによって異なり、そして、この項の事件は天智天皇が同じ人物を記述した文章なのである。

ここで、『日本書紀』と『舊事本紀』の記述時期を検証すると、『舊事本紀』には「孫物部馬古連公 目大連之子此連公難波朝御世授大華上氏(?)大刀賜食」と大化五年二月「制冠十九階」の649年以降も記述され、「孫内大紫位物部雄君連公・・・飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮」、「十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と石上朝臣賜姓まで記述される。

したがって、『日本書紀』朱鳥元年「次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事」と直廣參位が記述されないので685年以前に記述されていて、『舊事本紀』は『日本書紀』の舒明天皇までの内容を参照して記述されている。

『日本書紀』慶長版は

三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨天皇幸朱雀門舉哀而慟皇祖母尊皇太子等及諸公卿悉隨哀哭戊辰蘇我臣日向譖倉山田大臣於皇太子曰僕之異母兄麻呂伺皇太子遊於海濱而將害之將反其不久皇太子信之天皇使大伴狛連三國麻呂公穗積嚙臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虛實大臣荅曰被問之報僕面當陳天皇之所天皇更遣三國麻呂公穗積嚙臣審其反狀麻呂大臣亦如前荅天皇乃將興軍圍大臣宅大臣乃將二子法師與赤猪自茅渟道逃向於倭國境大臣長子興志先是在倭營造其寺今忽聞父逃來之事迎於今來大槻近就前行入寺顧謂大臣曰興志請自直進逆拒來軍大臣不許焉是夜興志意欲焼宮猶聚士卒已巳大臣謂長子興志曰汝愛身乎興志對曰不愛也大臣仍陳說於山田寺衆僧及長子興志與數十人曰大爲人臣者安構逆於君何失孝於父凡此伽藍者元非自身故造奉爲天皇誓作今我見譖身刺而恐横誅聊望黃泉尚懷忠退所以來寺使易終時言畢開佛殿之戸仰發誓曰願我生々世々不怨君王誓訖自經而死妻子殉死者八是日以大伴狛連與蘇我日向臣爲將領衆使追大臣將軍大伴連等及到黒山土師連身采女臣使主麻呂從山田寺馳來告曰蘇我大臣既與三男一女倶自經死由是將軍等從丹比坂歸庚午山田大臣之妻子及隨身者自經死者衆穗積臣嚙捉聚大臣伴黨田口臣筑紫等者枷反縛是夕木臣麻呂蘇我臣日向穗積臣嚙以軍圍寺喚物部二田造塩使斬大臣之頭於是二田塩仍拔大刀刺舉其宍叱咤啼叫而始斬之甲戌坐蘇我山田大臣而被戮者田口臣筑紫耳梨道德髙田醜雄額田部湯坐連秦吾寺等凡十四人被絞者九人被流者十五人是月遣使者收山田大臣資財資財之中於好書上題皇太子書於重寶上題皇太子物使者還申所收之狀皇太子始知大臣心猶貞淨追生悔恥哀歎難休即拜日向臣於筑紫大宰帥世人相謂之曰是隱流乎皇太子妃蘇我造媛聞父大臣爲塩所斬傷心痛惋惡聞塩名所以近侍於造媛者諱稱塩名改曰堅塩造媛遂因傷心而致死焉皇太子聞造媛徂逝愴然傷怛哀(?)極甚於是野中川原史滿進而奉歌々曰耶麻鵝播爾烏志賦拖都威底陀虞毗預倶陀虞陛屢伊慕乎多例柯威爾雞武模騰渠等爾婆那播左該騰摸那爾騰柯母于都倶之伊母我磨陀左枳涅渠農皇太子慨然頽歎褒美曰善矣悲矣乃授御琴而使唱賜絹四匹布二十端綿二褁夏四月乙卯朔甲午於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣於小紫大伴長德連授大紫爲右大臣五月癸卯朔遣小華下三輪君色夫大山上掃部連角麻呂等於新羅是歲新羅王遣沙㖨部沙食金多遂爲質從者三十人

【三月の朔が乙巳の辛酉の日に、阿倍の大臣が薨じた。天皇は、朱雀門に行幸して、死者に哀悼の意を表して悼んだ。皇祖母の尊と皇太子達及び諸々の高官が、残らず一緒に哀悼した。戊辰の日に、蘇我の臣の日向が倉山田の大臣を皇太子に「私の異母兄の麻呂が、皇太子の海辺で遊んでいるの隙をねっらって、殺害しようとしている。反乱はそんなに遅くは無い」と偽った。皇太子は信じて天皇が、大伴の狛の連と三国の麻呂の公と穗積の噛の臣を蘇我の倉の山田の麻呂の大臣の所に派遣して、反逆の真否を問いただした。大臣は「問いかけの返事は、私が天皇の面前で言います」と答えた。天皇は、また三国の麻呂の公・穗積の噛の臣を派遣して、その反逆の状況を詳しく判断させた。麻呂の大臣は、また以前のとおりの答だった。天皇は、それで軍を集めて、大臣の邸宅を囲んだ。大臣は、それで法師と赤猪の二人の子を連れて、茅渟の道から、逃げて倭国の境に向かった。大臣の長子の興志は、これより前に倭に居て、そこに寺を建立していた。今、急に父が逃げて来たと聞いて、今来の大槻まで迎え出て、近くで先頭に立って寺に入った。振り返って大臣に「興志は、私が直ぐに進軍してやってくる軍を逆らい防ぎたい」と言った。大臣は許さなかった。この夜、興志は都に撃って出て焼こうと思ってより多くの兵士を集めた。己巳の日に、大臣は、長子の興志に「命が惜しいか」と言った。興志は「惜しくは無い」と答えた。大臣はそれで山田寺の僧達及び長子の興志と数十人に「人は臣下となったら、どうして主君に逆らって構えられるのか。そんなことをしたら父への孝行が成り立たない。全て、この伽藍は、元々自身の為に作ったのではない。天皇に奉公すると誓って造った。今、私は身刺に騙されて、汚名を着て誅殺されることを恐れている。今願うのは、あの世に行っても忠誠心を持つつもりで死にたい。寺に遣って来た理由は、安らかに死の時を迎えたいからだ」と述べ説いた。言い終わって、佛殿の戸を開いて、空を仰いで「お願いします。私が何度生まれ変わっても君主を恨まないように」と誓いを立てた。誓い終わって、頚を括って自殺した。妻子など八人が殉死した。この日に、大伴の狛の連と蘇我の日向の臣とを将軍に、兵士を率いて大臣を追わせた。將軍の大伴の連達は、黒山に着いて、土師の連の身と采女の臣の使主麻呂が、山田寺から、馳せ参じて「もう、蘇我の大臣は、三人の男子と一人の女子と、一緒に頚を括って自殺した」と告げた。これで、將軍達は、丹比の坂から帰った。庚午の日に、山田の大臣の妻子と護衛の者が、頚を括って多くの者が自殺した。穗積の臣の噛は、大臣の中間の田口の臣の筑紫達を捕え集めて、拘束して後ろ手に縛った。この夕方に、木の臣の麻呂と蘇我の臣の日向と穗積の臣の噛が、軍で寺を囲んだ。物部の二田の造の鹽を呼んで、大臣を斬首した。そこで、二田の鹽は、それから大刀を抜いて、その切った物を刺して掲げて、斬ったぞと大声でうれし泣きした。甲戌の日に、蘇我の山田の大臣に連座して、殺された者は、田口の臣の筑紫と耳梨の道徳と高田の醜雄と額田部の湯坐の連と秦の吾寺達の全てで十四人だった。絞められた者九人、流罪が十五人だった。この月に、使者を派遣して、山田の大臣の財産を没収した。財産の中で、好書の上には、皇太子の書物と記した。重要な宝の上には、皇太子の物と記した。使者は、帰って没収した状況を上申した。皇太子は、はじめて大臣の心根が節操を持ち一つの濁りも無いことを知って、つくづく悔い恥じて、止めなく嘆き悲しんだ。それで日向臣を筑紫の大宰の長官にした。世の人は「本当は流刑にしたのだろう」と噂した。皇太子の妃の蘇我の造の媛は、父の大臣が、鹽の為に斬られたと聞いて、悲しみに傷つきとても恨んで、鹽の名聞くだけで嫌がった。それで、造媛の近習が、鹽の名を言うのを嫌って、改めて堅鹽と言った。造媛は、とうとう心痛で死んでしまった。皇太子は、造媛が死んだと聞いて、悲しみに心をいためて、とても悲しんで泣いた。そこで、野中の川原の史の滿が進み出て歌を奏上した。歌()。皇太子は崩れ落ちるように悲しんで、「いい歌だ。悲しいな」と褒めた。それで琴を授けて唱わせた。絹を四匹と布を二十端と綿二袋を与えた。夏四月の朔が乙卯の甲午の日に、小紫の巨勢の徳陀古の臣に、大紫を授けて、左の大臣とした。小紫の大伴の長徳の連に、大紫を授けて、右の大臣とした。五月の癸卯が朔の日に、小花下の三輪の君の色夫と大山上の掃部の連の角麻呂達を新羅に派遣した。この歳に、新羅の王、沙㖨部の沙食の金多遂を派遣して人質とした。従者が三十人いた。】とあり、夏四月乙卯朔は637年、五月癸卯朔は639年で、660年や662年の652年即位の舒明9年や11年に挿入しようとしたが冠位から巨勢徳陀記事に追加して649年に挿入されたようで、他は標準陰暦と合致する。



2020年10月21日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化7


 今回は冠位制定をまとめてしまったので長文となったので本文は後半にした。

勤務時間は以前記述した通り、仕事が忙しいと記述しているのだから、日の出から日没が勤務時間と考えられ、時間の基準は夏至か冬至の観測点が遺跡に有り、夏至の日の出から日没で、午前4時頃に明るくなり、夏至の日の出は5時前で日没は19時の労働時間14時間で大化元年に「收牒者昧旦執牒奏於內裏」と日の出前に牒を届けなさいと記述し、「旦夕」などの用法はたくさん現れる

この冠位は『藤氏家伝』の「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と崗本天皇が即位したすぐに錦冠を授けられ、錦冠は647年から大化五年「制冠十九階・・・小紫七曰大華上」と649年以降、天智天皇三年「其冠有廿六階・・・大錦上」と664年まで錦位を授与できず、646年に『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に死亡した池邊天皇を継いだ崗本天皇が十三階を制定して鎌足に錦冠を与えた。

冠位十九階は大化元年「三輪色夫君額田部連甥爲法頭」と645年に無冠の色夫君が大化五年「遣小華下三輪君色夫大山上掃部連角麻呂等於新羅」と649年に小華下、斉明天皇七年「遣前將軍大華下阿曇比邏夫連」と661年、阿曇比邏夫に大華下を授与されている。

この短い期間に官位を変えるのはこの間に政権交代が有ったことを示し、冠位十三階は是年となっていて、池邉天皇の後を継いだ崗本天皇が冠位十三階を制定し、12月に有馬温泉に行っている隙に太子が殺害され、翌年崗本天皇が崩じて新しい皇太子となっていたのは、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」の皇太子は古人大兄で16歳だったので皇位継承の20歳に届かず、皇后の皇極天皇が即位し、冠位一十三階が気に入らない左右の大臣が政権を取って冠位十九階を制定したと考えられる。

また、金春秋は『三国史記』に648年眞德王二年「遣伊金春秋及其子文王朝唐・・・春秋還至海上 遇高句麗兵・・・ 春秋乘小船至國」と唐からの帰りに高句麗に攻撃されて、恐らく捕まって小舟で逃げ出して帰国し、「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質」と人質として新羅に居た高向黒麻呂達も一緒に逃げ出して送ってくれたと考えられ、650年には眞德王四年 「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇帝」と唐に出かけているので、俀国の姫が天皇なのですぐに返したと考えられる。

それ以外なら、650年眞德王四年に「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇帝」と、この帰りだが、654年白雉五年「遣大唐押使大錦上高向史玄理」で遅すぎ、倭国の冠位の高向玄理が新羅に行くことは考えられず、俀国の冠位小徳の冠位は理解でき、「初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子」と皇極天皇の前夫と同姓で、前夫の子が漢皇子、漢人は中国人なら呉人で、中国の漢から官位を受けた邪馬台国の人が漢人と考えられ、俀国の王室に関係がある。

『日本書紀』慶長版は

是歳壞小郡營宮天皇處小郡宮而定禮法其制曰凡有位者要於寅時南門之外左右羅列候日初出就庭再拜乃侍于廳若晩參者不得入侍臨々到午時聽鍾而罷其擊鍾吏者垂赤巾於前其鍾臺者起於中庭工人大山位倭漢直荒田井比羅夫誤穿溝瀆控引難波而改穿疲勞百姓爰有上䟽諫者天皇詔曰妄聽比羅夫所詐而空穿瀆朕之過也即日罷役冬十月甲寅朔甲子天皇幸有間温湯左右大臣群卿大夫從焉十二月晦天皇還自温湯而停武庫行宮是日灾皇太子宮時人大驚恠是歲制七色一十三階之冠一曰織冠有大小二階以織爲之以繡裁冠之縁服色並用深紫二曰繡冠有大小二階以繡爲之其冠之縁服色並同織冠三曰紫冠有大小二階以紫爲之以織裁冠之縁服色用淺紫四曰錦冠有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之以織裁冠之縁其小錦冠以小伯仙錦爲之以大伯仙錦裁冠之縁服色並用真緋五曰青冠以青絹爲之有大小二階其大青冠以大伯仙錦裁冠之縁其小青冠以小伯仙錦裁冠之縁服色並用紺六曰黑冠有大小二階其大黒冠以車形錦裁冠之縁其小黒冠以薐形錦裁冠之縁服色並用緑七曰建武黒絹爲之以紺裁冠之縁別有鐙冠以黒絹爲之其冠之背張漆羅以縁與鈿異髙下形似於蟬小錦冠以上之鈿雜金銀爲之大小青冠之鈿以銀爲之大小黒冠之鈿以銅爲之建武之冠無鈿也此冠者大會饗客四月七月齋時所着焉新羅遣上臣大阿飡金春秋等送博士小德髙向黒麻呂小山中々臣連押熊來獻孔雀一隻鸚鵡一隻仍以春秋爲質春秋美姿顏善談咲造渟足柵置柵戸老人等相謂之曰數年鼠向東行此造柵之兆乎四年春正月壬午朔賀正焉是夕天皇幸于難波𥔎宮二月壬子朔於三韓遣學問僧己來阿倍大臣請四衆於四天王寺迎佛像四軀使坐于塔內造靈鷲山像累積鼓爲之夏四月辛亥朔罷古冠左右大臣猶著古冠是歲新羅遣使貢調治磐舟柵以備蝦夷遂選越與信濃之民始置柵戸五年春正月丙午朔賀正焉二月制冠十九階一曰大織二曰小織三曰大繡四曰小繡五曰大紫六曰小紫七曰大華上八曰大華下九曰小華上十曰小花下十一曰大山上十二曰大山下十三曰小山上十四曰小山下十五曰大乙上十六曰大乙下十七曰小乙上十八曰小乙下十九曰立身是月詔博士髙向玄理與釋僧旻置八省百官

この歳に、小郡を壊して宮を造った。天皇は、小郡の宮で、礼法を決めた。その決まりには「全ての位を持つ者は、必ず、寅の時(日の出前夏は4)に南門の外に、左右に並んで、日の出を見ながら、庭に行って二礼してから役所で仕事しなさい。もし遅く来た者は、入室してはならない。午の時(?12時では早いので14時間18)(日の入りに)、鍾を聞いてから帰りなさい。その鍾を撃つ官吏は、赤の布を前に垂らせ。その鍾の台は、中庭に立てなさい」と決めた。用水造の職人の大山位の倭の漢の直の荒田井の比羅夫が、間違えて用水を掘って、難波に引き込んだ。それで掘りなおして百姓を疲労させた。そこで書面で上司を諫めた者が有った。天皇は、「簡単に比羅夫に騙されて、意味も無く用水を掘ったのは、私の誤りだ」と詔勅した。直ぐに用水づくりを止めた。冬十月の朔日が甲寅の甲子の日に、天皇は、有間の温泉に幸行した。左右大臣と高官が従った。十二月の晦の日に、天皇が、温泉から帰って、武庫の行宮で停泊した。この日に、皇太子の宮が火事となった。当時の人は、とても驚いて怪しんだ。この歳に、七色の十三階の冠を決めた。第一は織冠で大小二階、織って作り、冠は縁を刺繍して、服の色はおそろいで深紫を用いなさい。第二は、繍冠で大小二階、縫い取りで作り、冠の縁と服の色は、おそろいで織冠と同じだ。第三は、紫冠で大小二階、紫で作り、織った冠の縁を裁ち、服の色は薄紫を用いなさい。第四は、錦冠で大小二階、大錦冠は、大伯仙模様の錦で作り、織った冠の縁を裁ち、小錦冠は、小伯仙模様の錦で作り、大伯仙の錦で、冠の縁を裁て。服の色はおそろいで真緋にしろ。第五は、青冠で青絹で作り、大小二階、大青冠は、大伯仙模様の錦で、冠の縁で裁ち、小青冠は、小伯仙模様の錦で、冠の縁で裁ち、服の色はお揃いで紺にしろ。第六は、黒冠で大小二階、大黒冠は、車形の錦で、冠の縁で裁ち、小黒冠は菱形の錦で、冠の縁で裁ち、服の色はお揃いで緑にしろ。第七は、建武で黒絹で作り、紺で冠の縁で裁ち、それとは別に鐙冠が有る。黒絹で作りなさい。冠の後ろには、漆を塗った織物を張って、縁とかんざしで、地位の高低によって変える。形は蝉のようにしなさい。小錦冠より上のかんざしは、金銀をまじえて作り、大小青冠のかんざしは、銀で作り、大小黒冠のかんざしは、銅で作り、建武の冠は、かんざしがない。この冠は、大法会や饗応、四月と七月の儀礼の時に、着けるものだ。新羅は、上臣の大阿飡の金春秋達を派遣して、博士の小徳の高向の黒麻呂と小山中の中臣の連の押熊を送って来て孔雀一隻と鸚鵡一隻を献上した。それで春秋を人質にした。春秋は、顔貌が美しくて巧みな話で笑わせた。渟足柵を造って、柵戸を置いた。老人達は、「何年か鼠が東に向って行くのは、この、柵を造る兆だったか」と噂した。四年の春正月の壬午が朔の日に、年賀の儀式を行った。この夕に、天皇は、難波の碕の宮に行幸した。二月の壬子が朔の日に、三韓に学問僧を派遣した。己未の日に、阿倍の大臣が、四つの信者達に頼んで四天王寺へ、佛像四躯を迎えて、仏塔の中に鎮座させた。釈迦仏が経典を説いている像を造った。鼓を作って積み上げた。夏四月の辛亥が朔の日に、古い冠位を止めた。左右の大臣は、古い冠を着けていた。この歳に、新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。磐舟の柵を作って統治して、蝦夷に備えた。それで越と信濃との人々の中から見張りを選んで柵戸に置いた。五年の春正月の丙午がの朔の日に、年賀の儀式を行った。二月に、冠位十九階を決めた。第一は、大織、第二は小織、第三は大繍、第四は小繍、第五は大紫、第六は小紫、第七は大花上、第八は大花下、第九は小花上、第十は小花下、第十一は大山上、第十二は大山下、第十三は小山上、第十四は小山下、第十五は大乙上、第十六は大乙下、第十七は小乙上、第十八は小乙下、第十九は立身だ。この月に、博士の高向玄理と僧の僧旻に詔勅して、八省と役人を置かせた。】とあり、十月甲寅朔甲子は10月2日で前月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致するが、あまり2日になる事が少ないので他を調べたが621年しか無く、647年の事と考えた。

夏四月辛亥朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、五年春正月丙午朔は2月1日で2月が閏月で12月が閏月なら標準陰暦と合致し、他の候補なら675年となるが、これ以上の分析はできず、また他は標準陰暦と合致する。


2020年10月19日月曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化6

『日本書紀』慶長版は

秋八月庚申朔癸酉詔曰原夫天地陰陽不使四時相亂惟此天地生乎萬物萬物之內人是最靈最靈之間聖爲人主見以聖主天皇則天御寓思人獲所暫不廢胸而始王之名名臣連伴造國造分其品部別彼名名復以其民品部交雜使居國縣遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割由是爭競之訟盈國(?)朝終不見治相亂弥盛粤以始於今之御寓天皇及臣連等所有品部冝悉皆罷爲國家民其假借王名爲伴造其襲據祖名爲臣連斯等深不悟情忽聞若是所宣當思祖名所借滅由是預宣使聽知朕所懷王者之兒相續御寓信知時帝與祖皇名不可見(??)於世而以王名輕掛川野呼名百姓誠可畏焉凡王者之号將隨日月遠流祖子之名可共天地長往如是思故宣之始於祖子奉仕卿大夫臣連伴造氏氏人等咸可聽聞今以汝等使仕狀者改去舊職新設百官及著位階以官位敘今發遣國司幷彼國造可以奉聞去年付於朝集之政者隨前處分以收數田均給於民勿生彼我凡給田者其百姓家近接於田必先於近如此奉宣凢調賦者可收男身調凡仕丁者毎五十戸一人宜觀國々壃堺或書或啚持來奉示國懸之名來時將定國々可築堤地可穿溝所可墾田間均給使造當聞解此所宣九月遣小德髙向博士黒麻呂於新羅而使貢質遂罷任那之調是月天皇御蝦蟇行宮是歲越國之鼠晝夜相連向東移去三年春正月戊子朔壬寅射於朝庭是日髙麗新羅並遣使貢獻調賦夏四月丁巳朔壬午詔曰惟神我子應治故寄是以與天地之初君臨之國也自始治國皇祖之時天下大同都無彼此者也既而頃者始於神名天皇名々或別爲臣連之氏或別爲造等之色由是率土民心固執被此深生我汝各守名々又拙弱臣連伴造國造以彼爲姓神名王名逐自心之所歸妄付前前處處爰以神名王名爲人賂物之故入他奴婢穢汙清名遂即民心不整國政難治是故今者隨在天神属可治平之運使悟斯等而治國治民是先是後今日明日次而續詔然素頼天皇聖化而習舊俗之民未詔之間必當難待故始於皇子群臣及諸百姓將賜庸調」、【秋八月の朔が庚申の癸酉の日に、「物事のはじめは天地があってそこに万物の陰陽があり四季はみだれることが無い。それは天地が万物を生み万物の中に人がいて、人が一番不思議だ。一番不思議な人の中で聖人が人の主で、聖人が天皇を主とし、身を天に委ねて仮住まいして人を得ようと思って、しばらくは我慢強く王の名から名を始めて、臣と連と伴造と国造を分けて、その部民が名を別け、名がまた民となる。また、民と部民が、一緒になって国縣に居る。それで父子が姓を交換し、兄弟で氏が違い、夫婦も互に氏名が違う。一家で五つに分れて六つに分割する。これで、争ってどちらが継ぐかを競って訴え、国でも朝廷でも事欠かない。とうとうおさまりがつかずに、互いに争って益々頻繁になった。それで、今の世に仮住まいされている天皇から臣や連達まで、領有している部民は残らずみなやめて、国家の民とする。それは王の名を使って伴造とし、初代の名を襲名して臣や連とする。この者達は、まったくわからず、急にこのように言われてきっと『先祖の名は借り物で消える』と思うだろう。だから予め申し述べて、私の考えを知らせた。王者の子が、仮住まいと深く信じて相続し、時には帝と皇祖の名が世の中で死んで見られなくなっても、王の名が河や野に気軽に名を付けて掲げれば、百姓はとても畏怖すべき事だ。おおよそ王者の名は、日月とともに遠い昔の事となるが、皇祖や子孫の名は、天地とともに長く続く。このように思って宣下した。皇祖の子達から、仕える高官や臣と連と伴造と氏の人達は、残らず聞け。今からお前達が仕える体制は、古い役職を捨て去って改め、新たな官吏を設けて、位階を付けて、官位を授ける。今から使者を派遣するから国司とその国造も一緒に聞きなさい。去年朝廷に集まって与えた政策は、前の決まりのままにする。調べて記帳した田を均等に人々に与え、あちらのだ私のだなどの争いが起こらないようにしなさい。おほよそ田を与えるのに、百姓の家の近くの田に纏められるなら、必ず近い田を先にしなさい。このような宣下を聞け。だいたい年貢は、男の人数で年貢を治めなさい。おおよそ雑役夫は、五十戸毎に一人だ。国々の境界を調べて、あるいは文書にしてあるいは絵をかいて、持参して示しなさい。国縣の名は、来た時に決める。国の堤防を築かければならないところ、水路を掘らなければならないところ、開墾するべき隙間は、差がなく与えて造らせなさい。この宣下をよく聞いて理解しなさい」と詔勅した。九月に、小徳の高向の博士の黒麻呂を新羅に派遣して、人質を貢上させ、ついに任那の年貢を止めた。この月に、天皇は、蝦蟇の行宮にいた。この歳に、越国の鼠が、昼から夜まで連なって、東に向って移って行った。三年の春正月の朔が戊子の壬寅の日に、朝庭で射礼をした。この日に、高麗と新羅が、一緒に使者を派遣して年貢を貢献した。夏四月の朔が丁巳の壬午の日に、「神の御心のまま我が子が統治しようとするのに応じることを名目に、天と地が別れてから、主君が国家を統治する国だ。はじめて国を治めた皇祖の時から、天下はみながあれこれと言わず一緒になった。それが今では、神の名はもとより天皇の名があるいは臣・連の氏に別れ、或いは造達のたぐいに別れた。それで、国の果ての人々の心それぞれを団結させて、強く各々の区別が出来て名を守った。また、弱い臣や連や伴造や国造は、その姓となる氏神の名や王の名を自分の心の拠り所として、簡単に本家についた。そこで神の名や王の名を、贈り物にするから下男下女になってきれいな名を汚してしまう。それで民心はまとまらなく、国を治めることを難しくする。そのため、今は、天神の御心のままに、平穏な世に出来るのでこれを解らせて、国を治め人々を治め、これを先に、これを後で、今日やる、明日やる、と次々に詔勅した。しかも、元々から天皇の徳に頼んで感化しようと、しきたりで動く人々がまだ詔勅を聞かないうちは、きっと待ち遠しいに違いない。それで、皇子や役人から始めて、諸々の百姓まで、必ず税を与えなさい」と詔勅した。】とあり、標準陰暦と合致する。

白雉五年「遣大唐押使大錦上高向史玄理或本云夏五月遣大唐押使大華下高玄理大使小錦下河邊臣麻呂」と大錦上は天智天皇三年「其冠有廿六階大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中」の7番目、大化五年「八曰大華下」と8番目、大化三年「送博士小徳高向黒麻呂」と3番目の地位恐らく大徳が紫冠で6か7番目と考えられて、二人、玄理と黒麻呂がいて、654年頃に渡唐中に死んだ高向氏と天智天皇の時代に生きた高向氏で、冠位が異なる十年以上の差があり、ここでも長男が襲名しているようだ。

このように、襲名の説を述べてきたが、ここで「襲據祖名」と祖の名を襲名と記述していて、天皇も最初は王名を得てそれを「相續御寓」と襲名し、それが借り物の名と示し、王名は仮の名が変わるたびにまたそれを襲名したのである。

そして、とうとう、天皇も天智天皇から日本()根子と借りの名ではなく真実の名、「天御寓」ではなく「日本御宇天皇」となって、臣や連ではなく、天武天皇十三年「更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下萬姓一曰眞人二曰朝臣三曰宿禰四曰忌寸五曰道師六曰臣七曰連八曰稻置」と制度変更したが、664年天智天皇三年では「其大氏之氏上賜大刀小氏之氏上賜小刀其伴造等之氏上賜干楯弓矢亦定其民部家部」とある、氏姓が変わったわけではない。

また、ここの記事には、『日本書紀』が天照大神が主神としているはずが、「今者隨在天神」と天神が主神と述べ、皇極天皇四年「伊勢大神之使」から天武天皇二年「欲遣侍大來皇女于天照大神宮」まで大神が記述されなず、この間、大神を主神とする人たちと対立していた可能性があり、壬申の乱の勝者が大神を信奉していたと考えられる。

2020年10月16日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化5

 今回は「大化の改新」でかなり長文で事細かな事例を記述しているので、まとめて後半にして、検証を先に記述する。

ここに出現する人物はここ以外に出現する者が蘇我右大臣」と「鹽屋鯯魚」で、斉明天皇四年に「絞有間皇子於藤白坂是日斬鹽屋連鯯魚舎人新田部連米麻呂於藤白坂」と有間皇子の反逆記事に「鹽屋鯯魚」が記述され、蘇我右大臣は孝徳天皇前紀に「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」で649年に「誓訖自經而死」して、647年に制定された大紫も与えられる大化五年「大伴長徳連授大紫爲右大臣」とあるが蘇我右大臣の授号は無く、天智天皇一〇年「中臣金連爲右大臣」、持統四年「正廣參授丹比嶋眞人爲右大臣」と647年に授号もされないのに645年の右大臣は考えにくく、664年の就任の時に紫冠を授けられた右大臣の可能性が高い。

ところが、詔勅の内容は「明神御宇日本倭根子天皇」と『続日本紀』の文武天皇前紀「母天命開別天皇之第四女平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也」、文武元年「現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜」と大宝三年「誄太上天皇謚曰大倭根子天之廣野日女尊」、元正天皇前紀「日本根子高端淨足姫天皇諱氷高天渟中原瀛眞人天皇之孫」と持統天皇から日本倭根子天皇と呼ぶが、天武天皇は呼ばれず、神亀元年「挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と天智天皇は呼ばれる。

『日本書紀』で開化天皇までは「()日本根子彦 」と彦と呼ばれる天皇の臣下で天武天皇が天武天皇前紀に「天渟中原瀛眞人天皇」と眞人はやはり臣下だが、『日本書紀』では持統天皇は日本根子天皇と呼ばずに天武天皇が天武天皇十二年に「明神御大八洲日本根子天皇勅命者」と呼ばれている。

すなわち、『日本書紀』の天武天皇は本来の天武天皇では無く、『続日本紀』の天武天皇で、『続日本紀』の持統天皇は『日本書紀』の持統天皇では無い持統十一年の「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と持統天皇は天皇では無く臣下が皇位を文武天皇に決めたと記述して、この大化の倭根子天皇と天武紀の倭根子天皇は『続日本紀』のことと解る。

そして、慶雲四年「近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典」、神亀元年「挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」、天平勝宝元年「挂畏近江大津乃宮尓御宇之天皇乃不改常典」と皇位継承を定めたのが天智天皇と言い、「皇祖大兄御名入部」の大兄が彦人と後代の人々は解釈しているが、倭根子天皇の皇祖は天智天皇で、元々皇極天皇を皇祖母と呼ぶこと自体が皇祖天智天皇の母だから皇祖母と呼び、それ以外の皇祖など皇極紀以降の『日本書紀』では有り得ず、「今分離失業」と日本統一という大業が今失われたと、大化と大宝の元号を持つ2王朝が並立していることを表している。

そして、平地に造るとき、墓に後から盛り土をすると記述されているので、横穴石室の記述と考えられ、石舞台古墳が正しそうで、玄室を造るところで中止したことが解り、石舞台古墳は玄室が高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6mと諸王より各段に大きく天皇と同じで、持統・天武合葬の檜隅大内陵は直径50m、高さ6.36mでやはりかなり大きい。

『日本書紀』慶長版は

二月甲午朔戊申天皇幸宮東門使蘇我右大臣詔曰明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓朕聞明哲之御民者懸鍾於門而觀百姓之憂作屋於衢而聽路行之謗離蒭蕘之說親問爲師由是朕前下詔曰古之治天下朝有進善之旌誹謗之木所以通治道而來諫者也皆所以廣詢于下也管子曰黃帝立明堂之議者上觀於賢也堯有衢室之問者下聽於民也舜有告善之旌而主不弊也禹立建鼓於朝而備訊望也湯有総術之廷以觀民非也武王有靈臺之囿而賢者進也此故聖帝明王所以有而勿失得而勿亡也所以懸鍾設匱拜收表人使憂諫人納表于匱詔收表人毎旦奏請朕得奏請仍又示群卿便使勘當庶無留滯如群卿等或懈怠不懃或阿黨比周朕復不肯聽諫憂訴之人當可撞鍾詔已如此既而有民明直心懷國土之風切諫陳䟽納於設匱故今顯示集在黎民其表稱縁奉國政到於京民官官留使於雜役云云朕猶以之傷惻民豈復思至此然遷都未久還似于賓由是不得不使而強役之毎念於斯未嘗安寢朕觀此表嘉歎難休故隨所諫之言罷處々之雜役昔詔曰諫者題名而不隨詔命者自非求利而將助國不言題不諫朕癈忌又詔集在國民所訴多在今將解理諦聽所宣其欲決疑入京朝集者且莫退散聚侍於朝髙麗百濟任那新羅並遣使貢獻調賦乙卯天皇還自子代離宮

二月の朔が甲午の戊申の日に、天皇は、宮の東の門に行幸した。蘇我の右大臣を呼んで「神を明確にして統治する日本倭根子天皇は、集まり仕える高官達や臣や連や国造や伴造及び諸諸の百姓に詔勅して、私が聞いたのだが、聡明で物事の道理に通じている人々を治めるのに、

鍾を宮門の両脇につけ掛けて、百姓の苦労をよく見て、小屋を辻々に作り、路を行く人の悪口をよく聞いた。卑しい人の言葉と言っても、自分で問いかけて模範となったと。このため、私は以前に詔勅を下して古くに天下を治めたことは、朝廷に良い方向に進めていく旗印の、悪口を刻んだ木があった。政道を行っていると過ちを正す者がやってきた理由だ。みなが広く下々に相談したからだ。管子(※管子桓公問第五十六管仲:黃帝立明臺之議者,上觀於賢也,堯有衢室之問者,下聽於人也。舜有告善之旌,而主不蔽也禹立諫鼓於朝,而備訊唉。湯有總街之庭,以觀人誹也。武王有靈臺之復,而賢者進也。)がいうのに、黄帝が宮殿で話し合いをしたら、お上が賢人の考えを知った。堯が巷の部屋の者に問いかけ、下民に話を聞いた。舜は善を告げる旗印が有って、主は隠さなかった。禹が大太鼓を朝廷に立てて、望みを尋ねるのに備えた。湯人が集まる庭に居て、民の間違いを観察する。武王が気象を調べる庭に居て、賢者に進言した。このため、聖帝明王が、いつも失敗せず、滅びなかった理由だ。それで、鍾を取り掛けて大箱を作って言いたいことを取り上げた人を呼ぶ。心配して忠告する人によって、訴えを大箱に納める。訴えを取り上げる人に詔勅して、毎朝、願いを奏上させる。私は奏上された願いを得ることで、役人に示して、叱り、滞ることが無いよう願う。もし高官達が、あるいは怠けて務めなかったら、あるいは権力のある者におもねり人をしりぞけたら、私までも忠告を聞かなかったら、心配して訴えた人は、鍾を撞けと詔勅した。これは詔勅したとおりだ。すでに人々はしっかりと仏道に向かう心や、郷土を考える習慣があり、大雑把に述べて強くいさめる文を設営した大箱に納める。それで、今、集まっている人々に解るように示している。その訴えには、国の政策に従うために京に来た人々を、役所に止めて雑役夫に使っている云云。わたしもこれに心を傷めている。人々がどうしてここに来たと思う。しかし都を遷して未だそう経っていない。帰った早々の客人に似ていて、使わざるを得ず、あえて使っている。そこで思い悩んで、いまだに安眠できない。私はこの訴状を見て、悦んだり嘆いたりと休めもしない。それで、いさめる言葉どおり、そこここの雑役を取りやめる。前に諫める者は名を書けと詔勅した。しかし詔勅に従わなかった。この者は、自分の為ではなく国の助けとしたからだ。書こうが書くまいが、私が葬り去らないように諫めなさい」と詔勅した。また 「集まった人々は、訴えがとてもたくさんある。今その訳を調べている。真実をよく見て、いうことをよく聞くべきだ。その疑をはっきりさせようと、京に入ってきて、朝廷に集まった者、少しの間退散しないで、朝廷に集まって側に居なさい」と詔勅した。高麗と百済と任那と新羅が、一緒に使者を派遣して年貢を献上した。乙卯の日に、天皇は、子代の離の宮から帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

続けて、『日本書紀』慶長版は

三月癸亥朔甲子詔東國々司等曰集侍群卿大夫及臣連國造伴造幷諸百姓等咸可聽之夫君於天地之間而宰万民者不可獨制要湏臣翼由是代々之我皇祖等共卿祖考倶治朕復思欲蒙神護力共卿等治故前以良家大夫使治東方八道既而國司之任六人奉法二人違令毀譽各聞朕便美厥奉法疾斯違令凢將治者若君如臣先當正己而後正他如不自正何能正人是以不自正者不擇君臣乃可受殃豈不愼矣汝率而正孰敢不正今隨前勅而處斷之辛巳詔東國朝集使等曰集侍群卿大夫及國造伴造幷諸百姓等咸可聽之以去年八月朕親誨曰莫因官勢取公私物可喫部內之食可騎部內之馬若違所誨次官以上降其爵位主典以下決其笞杖入巳物者倍而徵之詔既若斯今問朝集使及諸國造等國司至任奉所誨不於是朝集使等具陳其狀穗積臣咋所犯者於百姓中毎戸求索仍悔還物而不盡其介富制臣巨勢臣紫檀二人之過者不正其上云云凢以下官人咸有過也其巨勢德祢臣所犯者於百姓中毎戸求索仍悔還物而不盡與復取田部之馬其介朴井連押坂連二人者不正其上所失而翻共求巳利復取國造之馬臺直湏弥初雖諫上而遂倶濁凡以下官人咸有過也其紀麻利耆拖臣所犯者使人於朝倉君井上君二人之所而爲牽來其馬視之復使朝倉君作刀復得朝倉君之弓布復以國造所送兵伐之物不明還主妄傳國造復於所任之國被他偸刀復於倭國被他偸刀是其紀臣其介三輪君大口河邊臣百依等過也其以下官人河邊臣磯泊丹比深目百舌鳥長兄葛城福草難波癬龜犬養五十君伊岐史麻呂丹比大眼凡是八人等咸有過也其阿曇連所犯者德史有所患時於國造使送官物復取湯部之馬其介膳部臣百依所犯者草代之物收置於家復取國造之馬而換他馬來河邊臣磐管湯麻呂兄弟二人亦有過也大市連所犯者違於前詔前詔曰國司等莫於任所自斷民之所訴輙違斯詔自判菟礪人之所訴及中臣德奴事中臣德亦是同罪也涯田臣之過者在於倭國被偸官刀是不謹也小緑臣丹波臣是拙而無犯忌部木菓中臣連正月二人亦有過也羽田臣田口臣二人並無過也平群臣所犯者三國人所訴有而未問以此觀之紀麻利耆拖臣巨勢德祢臣穗積咋臣汝等三人所怠拙也念斯違詔豈不勞情夫爲君臣以牧民者自率而正孰敢不直若君或臣不正心者當受其罪追悔何及是以凢諸國司隨過輕重考而罰之又諸國造違詔送財於巳國司遂倶求利恒懷穢惡不可不治念雖若是始處新宮將幣諸神属乎今歲又於農月不合使民縁造新宮固不獲已深感二途大赦天下自今以後國司郡司勉之勗之

勿爲放逸冝遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨別塩屋鯯魚(鯯魚此云舉能之慮)神社福草朝倉君椀子連三河大伴直蘆(?尾直?)此六人奉順天皇朕深讚美厥心冝罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々(?貸)稻以其屯田班賜群臣及伴造等又於脱籍寺入田與山斉明天皇四年鹽屋連鯏魚送紀温湯斬鹽屋連鯯魚

三月の朔が癸亥の甲子の日に、東国の国司達に「集まって側に仕える高官や役人および臣や連や国造や伴造と諸々の百姓達、残らずよく聞け。天と地の間で君主として萬民をとりしきることは、一人ではできない。臣下の補佐が欠かせない。それで、代々の私の皇祖達が、お前達の親と一緒に治めて来た。私も神のご加護によって、高官達と共に治めよういと思っている。それで、以前に良家の高官を、東の方の八道を治めさせた。すでに国司に任せて、六人が法を聞き、二人は命令に背いた。評判はそれぞれ聞いた。私はその法を聞いたら誉めて、この命令に背いたら憎む。だいたいが統治する者は、君主も臣下もまず自分の襟を正してから、他を正せ。もし自分が正しくなかったら、どうやって他人を正せるのか。これで、自分を正さない者は、君主でも臣下でもなく、わざわいを受けるだろう。どうして慎まないでいられようか。お前達が率いて正せば正しくならないはずが無い。今、前の詔勅を守って決断しなさい」と詔勅した。辛巳の日に、東国の朝廷に集まった使者達に「側に集まった役人や高官と国造と伴造と諸々の百姓達は、残らずよく聞け。去年の八月に、私は親ら『役人の力を使って、公私の物を取ってはならない。自分達の食糧を食べなさい。自分達の馬に乗りなさい。もし教えに違反したら、次官より上は、その爵位を降格して、主典より下は、笞刑か杖刑を最終的に定める。既に入れたらその物の倍を徴収しなさい』と教えた。詔勅はこのようだった。今、朝廷に集まった使者と諸々の国造達に、国司の任地に来た者は、教え道理かどうかと問いかけた。朝廷に集まった使者達は、詳しくその状況を述べ、穗積の臣の咋が犯したことは、百姓の、家毎に物を求めた。それで悔いて物を還した。しかし全ては返さなかった。その副官の富制の臣と巨勢の臣の紫檀の、二人の過失は、その上司を正さなかった云云。すべてで、以下の官吏に、過失があった。巨勢の徳禰の臣が犯したことは、百姓の、家毎に物を求めた。また悔いて物を還した。しかし全ては返さなかった。また、屯倉の耕作者の馬を取った。その副官の朴井の連と押坂の連の二人は、その上司の過失を正さなかった。態度をかえて一緒に自分の利益を求めた。また、国造の馬を取った。臺の直の須彌は、はじめは上司を諫めたのだが、最後は同罪になった。すべて、以下の官吏に、あやまちがあった。紀の麻利耆頴の臣が犯したことは、人を朝倉の臣と井上の君の二人の所に派遣して、その為の馬を引っ張って来て観た。また、朝倉の君に刀を作らせた。また、朝倉の君の弓や布取った。また、国造が送った武器代わりの物を、調べもしないで、持ち主に返して、国造に嘘の報告をした。また、任地の国で刀を盗まれた。また、倭国で、刀を盗まれた。これは、紀の臣とその補佐の三輪の君の大口と河邊の臣百依達のあやまちだ。それ以下の官吏の河邊の臣の磯泊と丹比の深目と百舌鳥の長兄と葛城の福草と難波の癬龜と犬養の五十の君と伊岐の史の麻呂と丹比の大眼の、あわせて、八人達は、残らず過ちがある。阿曇の連が犯したことは、和徳の史が病気になった時に、国造に言って、国の税の物送った。また、湯部の馬を取った。その補佐の膳部の臣の百依が犯したのは、馬草の代わりに納める物を、自分の家に納めさせた。また、国造の馬を取って、他の馬に取り換えて来た。河邊の臣の磐管と湯麻呂の兄弟二人にも過ちがあった。大市の連が犯したのは、以前の詔勅を守らなかった。以前に『国司達は、任地で、人々が訴えたことを勝手に判断してはいけない』と詔勅した。すなわちこの詔勅を破って、菟砺の訴えを勝手に中臣の徳の下男の事を判断した。中臣の徳も同罪だ。涯田の臣の過ちは、倭国にいて、官吏が管理する刀をぬすまれた。これは慎重でなかったからだ。小緑の臣と丹波の臣は、すこしまずかったが罪は犯さなかった。忌部の木菓と中臣の連が正月に、二人とも過ちがあった。羽田の臣と田口の臣の二人には過ちが無かった。平群の臣が犯したのは、三国の人の訴えが有ったが未だに調べていないという。これをみれば、紀の麻利耆頴の臣と巨勢の徳祢の臣と穗積の咋の臣、お前達三人が詔勅を破って怠たったから拙いことになったと思えば、心を傷めずに居られないだろう。君主や臣下となった人々を養う者は自ら率先して正さなければ誰が正すと言うのか。もし、君主あるいは臣下の、心が正しく無かったら、必ず罰を受けるべきだ。後から悔やんでもどうしようもない。これで、だいたいの諸々の国司の過ちの重い軽いによって、罰を考える。また、諸々の国造が、詔勅を破って、財を自分の国司に送ってついでに利益を求めていつも汚らわしいことを考えて治めてはならない。このように考えているが初めて新しい宮に居て、諸神神前にきぬを供えようと思ったのが今年だ。また、農繁期の月で、人々を使ってはならないが、新しい宮を造ったので本当にやむを得ない。とてもこの二つの事に気を取られて、他のことがなおざりになったので、全ての罪を許す。今より後、国司と群司ははげんで努力しなさい。勝手気ままに振る舞ってはならない。使者を派遣して、諸国の流人や獄中の囚人も一緒に放免しなさい。別に鹽屋鯯魚と神社福草と朝倉の君と椀倉の連と三河の大伴の直と蘆尾の直の六人は、天皇に従った。私は、とてもその気持ちをほめたたえた。官吏のあちこちの屯田と、吉備嶋皇祖母のあちこちの稲を貸与え利息を取ることをやめなさい。その屯田を、役人や伴造達に分け与えなさい。また、戸籍から外れて漏れた寺は、田と山記入しなさい」と詔勅した。】とあり、三月癸亥朔は2月30日で、2月が小の月なら標準陰暦と合致する。

続けて、『日本書紀』慶長版は

壬午皇太子使使奏請曰昔在天皇等世混齊天下而治及逮于今分離失業属天皇我皇可牧万民之運天人合應厥政惟新是故慶之尊之頂戴伏奏現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰其群臣連及伴造國造所有昔在天皇日所置子代入部皇子等私有御名入部皇祖大兄御名入部及其屯倉猶如古代而置以不臣即恭承所詔奉荅而曰天無雙日國無二王是故兼幷天下可使万民唯天皇耳別以入部及所封民簡(?)仕丁從前處分自餘以外恐私駈役故獻入部五百二十四口屯倉一百八十一所

の日に、皇太子は、使者を派遣して「昔の天皇達の世ではバラバラな天下を一つにして治め、今は別れて大業を失った。天皇と一緒に私の天皇が、萬民を養って連れて行き、天も人も一緒応えて、その政治を変革した。これで、慶び尊んで、いただきひれ伏して奏上する。威厳と徳のある神の為に現れた八島の国を御す天皇が、臣下に問いかけて『多くの臣と連及び伴造と国造がもつ、昔から天皇が置いた曰く子代の人部が、皇子達の私有する御名の入部が、皇祖の大兄の御名人部及びその屯倉は、まだ古い時代のように、置くか否か』と問いかけた。私は、それで恭んで詔勅を聞いて、『天に二つの日が無く。国に二人の王はいない。それで、天下を均衡させて、萬民を使うのは、ただ天皇だけだ。特に、入部及び与えた領民を、雑役夫に連れてきて充てることは、前からの扱いに従う。それ以外は、私用でこき使うことは恐ろしい。それで、入部五百二十四口と屯倉百八十一ヶ所を献上した』と答えた」と裁可を求めた。】とある。

続けて、『日本書紀』慶長版は

甲申詔曰朕聞西土之君戒其民曰古之葬者因髙爲墓不封不樹棺槨足以朽骨衣衿足以朽完

而巳故吾營此丘墟不食之地欲使易代之後不知其所無藏金銀銅鐵一以以瓦器合古塗車蒭靈之義棺漆際會奠三過飯含無以珠玉無施珠襦玉柙諸愚俗所爲也又曰葬者藏也欲人之不得見也廼者我民貧絶專由營墓爰陳其制尊卑使別夫王以上之墓者其內長九尺濶五尺其外域方九尋髙五尋役一千人七日使訖其葬時帷帳等用白布有轜車上臣之墓其內長濶及髙皆准於上其外域方七等尋髙三尋役五百人五日使訖其葬時帷帳等用白布擔而行之下臣之墓者其內長濶及髙皆准於上其外域方五尋髙二尋半役二百五十人三日使訖其葬時帷帳等用白布亦准於上大仁小仁之墓者其外長九九尺髙濶各四尺不封使平役一百人一日使訖大禮以下小智以上之墓者皆准大仁役五十人一日使訖凢王以下小智以上之墓者宜用小石其帷帳等冝用白布庶民亡時收埋於地其帷帳等可用麁布一日莫停凡王以下及至庶民不得營殯凡自畿內及諸國等宜定一所而使收埋不得汙穢散埋處處凡人死亡之時若經自殉或絞人殉及強殉亡人之馬或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄如此舊俗一皆悉斷縱有違詔犯所禁者必罪其族復有見言不見不見言見聞言不聞不聞言聞都無正語正見巧詐者多有奴婢欺主貧困自託勢家求活勢家

仍強留買不送本主者多復有妻妾爲夫被放之日經年之後適他恒理而此前夫三四年後貪求後夫財物爲巳利者甚衆復有恃勢之男浪要他女而未納際女自適人其浪要者嗔求兩家財物爲巳利者甚衆復有亡夫婦若經十年及二十年適人爲婦幷未嫁之女始適人時於是妬斯夫婦使祓除多復有爲妻被嫌離者特由慙愧所惱強爲事瑕之婢復有屢嫌(?)姧他好向官司請決假使得明三證而倶顯陳然後可諮詎生浪訴復有被役邊畔民事了還鄕之日忽然得疾臥死路頭於是路頭

之家乃謂之曰何故使人死於余路因留死者友伴強使祓除由是兄雖臥死於路其弟不收者多復有百姓溺死於河逢者乃謂之曰何故於我使遇溺人因留溺者友伴強使祓除由是兄雖溺死於河其弟不救者衆復有被役之民路頭炊飯於是路頭之家乃謂之曰何故任情炊飯余路強使祓除復有百姓就他借甑炊飯其甑觸物而覆於是甑主乃使祓除如是等類愚俗所染今悉除斷勿使復爲

復有百姓臨向京日恐所乗馬疲痩不行以布二尋麻二束送參河尾張兩國之人雇令養飼乃入于京於還鄕日送鍬一口而參河人等不能養飼翻令痩死若是細馬即生貪愛工作謾語言被偸失若

是牝馬孕於巳家便使秡除遂奪其馬飛聞若是故今立制凢養馬於路傍國者將被雇人審告村首(首長也)方授詶物其還鄕日不湏更報如致疲損不合得物縱違斯詔將科重罪罷市司要路津濟渡子之調賦給與田地凡始畿內及四方國當農作月早務營田不合使喫美物與酒冝差清廉使者告於畿內其四方諸國國造等冝擇善使依詔催勤

甲申の日に、「私は聞いたが、西の国の君主は、その民に『昔の葬式は、高い丘を墓として、

土を盛らず樹も植えない。お棺や槨は骨が朽ちるのに足りる大きさで、衣服は肉体が朽ちるにのを包む程度だ。それで、私、此の小高い丘の、食べ物を造れない土地に作って、代が変わったらそこが解らないところにしてほしい。金や銀や銅や鐵をおさめてはいけない。第一に須恵器の容器で、昔の埴輪の車や人形の儀礼はふさわしい。棺は隙間への漆は三度塗りでよい。ご飯代わりに珠玉を含ませるな。上着や宝石箱は置くな。多くの俗人がすることだ』と戒めた。また『葬儀は隠せ。人に見られないようにしてほしい』と言った。お前は我が民がこの上なく貧しいのは、主に墓を造るためだ。それでその尊卑の違いの決まりを知らしめよう。王より上の墓は、奥域九尺(2.5m)で広さ五尺(1.5m)。外域は、縦横九尋(15m)で、高さ五(9m)尋。人夫は千人で、

七日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いなさい。喪車を使え。上臣の墓は、

奥行広さ高さは、皆、上にならえ。外域は、縦横七尋(12m)、高さ三尋(6m)。人夫は五百人で、五日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いなさい。棺は担いで行け。下臣の墓は、奥行広さ高さは、皆、上にならえ。外域は、縦横五尋(9m)、高さ二尋半(5m)。人夫は二百五十人で、三日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いることも上にならえ。棺は担いで行け。大仁と小仁の墓は、奥行九尺(2.5m)、高さと広さは各々四尺(1m)。土は盛らずに平らにしろ。人夫は百人で、一日で終わらせなさい。大禮より下、小智より上の墓は、

皆、大仁にならえ。人夫は五十人で、一日で終わらせなさい。だいたい王より下、小智より上の墓は、小い石を用いなさい。垂れ絹等は、白布を用いなさい。庶民が死んだ時は、土の中に埋めろ。垂れ絹等は、織目のあらい布を用いなさい。一日かかってはならない。だいたい王より下、庶民に至るまで、仮安置の場所を造ってはならない。だいたい畿内から、諸国等まで、一所に決めて、埋葬させ、あちこちに埋葬して汚してはならない。だいたい死ぬ時に、もし殉死で自害し、あるいは人を絞め殺して殉死させて、無理やり亡人の馬を殉死させ、あるいは亡人の為に、宝を墓に納め、あるいは亡人の為に、髮を切り股を刺して哀悼する。このような事は古くからの因習だから、一切やめなさい。かりに詔勅に反してきんじた事を犯したら、必ずその一族を罰しなさい。また、見たのに見ないと言い、見てもいないのに見たと言い見ずして見たりと言ひ、聞いたのに聞かないと言い、聞いてもいないのに聞いたと言う物がいた。嘘、無駄話、二枚舌、悪口を言わなかったり真理を正しく知ることを全て失くし、うまくだます者が多い。また、下部の主が貧しく困っているのをいつわって、勝手に勢力が有る屋敷に託して豊かさを求める。勢力のある家は、無理やり物をわたして留めて、元の主に送り返さない者が多い。また、妻や妾が、夫に捨てられて、年が経ったら、他に嫁ぐのは当たり前だ。それをこの前夫が、三四年の後に、上夫の財産を貧り求めて、自分の利益とする者がとても多い。また、男が権力でほしいままに他人の娘を要求して、輿入れする前に娘が嫁いだら、ほしいままに要求した者が、怒って両家の財産を求めて利益とする者がとても多い。また、未亡人が、たとえば十年・二十年経って、人に嫁いだ妻、併せて、未婚の娘が、はじめて嫁ぐ時に、夫婦を妬んで、お祓いさせることが多い。また、妻に、嫌われた者が、ことさら恥をかかされたと思って無理やり離縁(?非があると)して下女にする。復、しばしば好いてすでにみだらな異性関係をもったと疑って、役所に行って判断を願い出てる。もし明白な三人の証言が有っても、二人揃って証言させてから、上司に意見を求めなさい。そうでなければ簡単に訴えなどしない。また、労役につかされた辺境の民が、仕事が終わって里に帰る日に、急病で路頭で不慮の死を迎えることがある。それで、道端の家が『どうして我が家の前で死なせるのか』と言って、死人の同伴者を引き留めて無理やりお祓いをさせる。このように、兄が路頭で不慮の死が有っても、弟が知らんふりする者が多い。また、百姓が、河で溺れ死ぬ。通り合わせた者が、それで、『どうして私が溺死に遭遇させるのか』と言って、溺れた同伴者を引き留めて、無理やりお祓いさせる。こんな理由で兄が河で溺れても、弟が救いもしない者が多くいる。また、労役につかされた民が道端で飯を炊いて食う。そこの道端の家が『どうして自分勝手に私の家の前で飯を炊いて喰う』と言って、無理やりお祓いさせる。また、百姓が、人の仕事で蒸し器を借りて飯を炊いて

蒸し器に触れて転がる。そこで、蒸し器の持ち主がお祓いさせる。このような事は、愚かな風俗に影響されたことだ。もう皆止めて二度とするな。また、百姓が、都に来るのに、乗る馬が、やせ細るのを恐れて行けないと、布を二尋と麻を二束とを、三河と尾張、二国の人に送って、飼育をしてもらおうと雇った。それで都に入った。里に帰る日に、鍬を一口送った。それで三河の人達は、飼育できず、それどころか痩せて死なせてしまう。もし是が良馬なら、むやみに欲しがり、上手い作り事で盗まれたと言う。もしこれが牝馬なら、自分の家で孕んだら、お祓いさせ、それでその馬を奪う。噂でこのように聞いた。だから今決まりを作った。全ての道端の国の馬養は、雇った人を連れて、村の頭に言って、返礼を与えなさい。里に帰る日に、さらにお礼はいらない。もしやせ細ったりしたら、物を貰ってはならない。もしこの詔勅を破ったら、重罪を課すぞ。市の役人と要路の渡し舟の船頭の年貢を止めて、田地を与えなさい。全て畿内から四方の国まで、農繁期の月には、すぐに田の仕事に励め。美味い物や酒を食わすな。私利私欲がない使者を選んで、畿内に告げよ。四方の諸国の国造達にも、行いの正しい人を選んで、詔勅のとおりに義務をつとめはたせ」と詔勅した。】とある。