『日本書紀』慶長版は
「豊御食炊屋姫天皇天國排開廣庭天皇中女也橘豊日天皇同母妹也幼曰額田部皇女姿色端麗進止軌制年十八歲立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后三十四歲渟中倉太珠敷天皇崩三十九歲當于泊瀬部天皇五年十一月天皇爲大臣馬子宿祢見殺嗣位既空群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女以將令踐祚皇后辭讓之百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇璽印冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豊浦宮元年春正月壬寅朔丙辰以佛舍利置于法興寺刹柱礎中丁巳建刹柱夏四月庚午朔巳卯立厩戸豊聰耳皇子爲皇太子仍錄攝政以万機悉委焉橘豊日天皇第二子也母皇后曰穴穗部間人皇女皇后懷姙開胎之日巡行禁中監察諸司至于馬官乃當廐戸而不勞忽産之生而能言有聖智及壯一聞十人訴以勿失能辨兼知未然且習內教於髙麗僧恵慈學外典於博士覺哿兼悉達矣父天皇愛之令居宮南上殿故稱其名謂上宮廐戸豊聰耳太子秋九
月改葬橘豊日天皇於河內磯長陵是歲始造四天王寺於難波荒陵是年也太歲癸丑」
【豊の御食炊屋姫の天皇は、天国の排開廣庭の天皇の中の娘だ。橘の豊日の天皇と同じ母の妹だ。幼いころ額田部の皇女と言った。容姿端麗で、行いは筋道を通した。十八歳の時、渟中倉の太玉敷の天皇の皇后と為った。三十四歳のとき、渟中倉の太珠敷の天皇が崩じた。三十九歳のとき、泊瀬部の天皇の五年の十一月に、天皇が、大臣の馬子の宿禰の為に殺された。皇太子もいなかった。群臣は、渟中倉の太珠敷の天皇の皇后の額田部皇女に、皇位を継ぐよう願った。
皇后は他の人に頼むよう固辞した。官僚達は、表でお願いした。三度目でやっと了承した。それで天皇の璽印を奉上した。冬十二月の朔が壬申の己卯の日に、皇后は、豊浦の宮で天皇に即位した。元年の春正月の朔が壬寅の丙辰の日に、佛の骨を、法興寺の心柱の土台に置く石の中に置いた。丁巳の日に、心柱を建てた。夏四月の朔が庚午の己卯の日に、廐戸の豊聰耳の皇子を、皇太子に立て、それで摂政に取り上げ、天皇の政務を残らず委ねた。橘の豊日の天皇の第二子で、母の皇后を穴穗部の間人の皇女という。皇后が、身ごもって出産の日に、宮中をめぐり歩いていて、官僚達を取り締まっていて馬の世話をする場所について、それで廐の扉につき当たった時、苦なくすぐに生まれた。生まれながら弁舌がたち、 あらゆるものにたいする優れた知恵があった。大人になると、一度に十人の訴状を間違いなく聞きわけ、聞く前から理解していた。また、仏典を高麗の僧の慧慈に習って、儒教・道教などを博士の覺哿に学び、どちらも残らず目的を達した。父の天皇は、可愛がって、宮の南の上殿に置いた。そのため、上宮の廐戸の豊聰耳の太子とたたえて言った。秋九月に、橘豊日の天皇を河内の磯長の陵に改葬した。この歳に、
はじめて四天王寺を難波の荒陵に建立した。この年は、太歳が癸丑だった。】とあり、四月庚午朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
推古天皇紀は入鹿若しくは蘇我山田石川麻呂が記述した可能性が高く、入鹿が書けば倭国の目、蘇我山田石川麻呂なら俀国を含めた目で記述したことになる。
崇峻天皇3で625年法興寺着工としたが、推古天皇が34歳の時敏達天皇が崩じ、39歳で崇峻天皇が崩じたと記述して、用明天皇の在位期間が無い、すなわち用明天皇は敏達天皇と同時に天皇だったことを示し、崇峻天皇と用明天皇が崇峻天皇に含まれ、この王朝が滅んだときが法興寺着工、すなわち、628年着工の可能性が高く、629年に新しい倭国王朝が始まった。
すなわち、推古天皇の36年間は秦王国が難波に都を置いていた期間で、内容は御井夫人と豊御食炊屋姫と『隋書』に「開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤」とあるように、姓阿毎多利思北孤とその皇太子たち利歌彌多弗利と厩戸豊聰耳と贄子達の説話が記述され、それを分別する必要がある。
敏達天皇の立太子が554年欽明天皇十五年と廿九年に568年に立爲皇太子となり、立太子は俀国の政権交代を記述したと述べてきたが、同一の王では無かった。
ところが、この矛盾であるが、この「廿九年」は621年推古29年の事で、621年には「上宮皇太子薨」となっていて、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と上宮法皇が病で臥せって、立太子の翌年に政権が遷っていることが解る。
立太子の翌年が政権交代というのは安寧天皇の立太子が21歳綏靖25年で9年後30歳で即位して38年死亡で57歳となっているが67歳になってしまうが、立太子の翌年の綏靖26年が安寧元年なら安寧38年が57歳になる。
この法興帝には太子の弟がいて、『隋書』に「日出便停理務云委我弟」と弟が政務を行い、開皇二十年は法興10年にあたり、阿毎多利思北孤が法興帝で、兄が法興帝とよばれたのだから、この弟も帝号があって当然で、それが聖徳太子の利歌彌多弗利で621年に俀国王となった。
推古元年の立太子は629年の俀国王の政権交代と考えられ、倭国も629年に天皇の璽を得て先代の馬子の妻の崇峻天皇の御井夫人から正式に豊御食炊屋姫が天皇位を奪ったのである。