2020年7月31日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十二  推古天皇 1

  『日本書紀』慶長版は

豊御食炊屋姫天皇天國排開廣庭天皇中女也橘豊日天皇同母妹也幼曰額田部皇女姿色端麗進止軌制年十八歲立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后三十四歲渟中倉太珠敷天皇崩三十九歲當于泊瀬部天皇五年十一月天皇爲大臣馬子宿祢見殺嗣位既空群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女以將令踐祚皇后辭讓之百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇璽印冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豊浦宮元年春正月壬寅朔丙辰以佛舍利置于法興寺刹柱礎中丁巳建刹柱夏四月庚午朔巳卯立厩戸豊聰耳皇子爲皇太子仍錄攝政以万機悉委焉橘豊日天皇第二子也母皇后曰穴穗部間人皇女皇后懷姙開胎之日巡行禁中監察諸司至于馬官乃當廐戸而不勞忽産之生而能言有聖智及壯一聞十人訴以勿失能辨兼知未然且習內教於髙麗僧恵慈學外典於博士覺哿兼悉達矣父天皇愛之令居宮南上殿故稱其名謂上宮廐戸豊聰耳太子秋九

月改葬橘豊日天皇於河內磯長陵是歲始造四天王寺於難波荒陵是年也太歲癸丑

【豊の御食炊屋姫の天皇は、天国の排開廣庭の天皇の中の娘だ。橘の豊日の天皇と同じ母の妹だ。幼いころ額田部の皇女と言った。容姿端麗で、行いは筋道を通した。十八歳の時、渟中倉の太玉敷の天皇の皇后と為った。三十四歳のとき、渟中倉の太珠敷の天皇が崩じた。三十九歳のとき、泊瀬部の天皇の五年の十一月に、天皇が、大臣の馬子の宿禰の為に殺された。皇太子もいなかった。群臣は、渟中倉の太珠敷の天皇の皇后の額田部皇女に、皇位を継ぐよう願った。

皇后は他の人に頼むよう固辞した。官僚達は、表でお願いした。三度目でやっと了承した。それで天皇の璽印を奉上した。冬十二月の朔が壬申の己卯の日に、皇后は、豊浦の宮で天皇に即位した。元年の春正月の朔が壬寅の丙辰の日に、佛の骨を、法興寺の心柱の土台に置く石の中に置いた。丁巳の日に、心柱を建てた。夏四月の朔が庚午の己卯の日に、廐戸の豊聰耳の皇子を、皇太子に立て、それで摂政に取り上げ、天皇の政務を残らず委ねた。橘の豊日の天皇の第二子で、母の皇后を穴穗部の間人の皇女という。皇后が、身ごもって出産の日に、宮中をめぐり歩いていて、官僚達を取り締まっていて馬の世話をする場所について、それで廐の扉につき当たった時、苦なくすぐに生まれた。生まれながら弁舌がたち、 あらゆるものにたいする優れた知恵があった。大人になると、一度に十人の訴状を間違いなく聞きわけ、聞く前から理解していた。また、仏典を高麗の僧の慧慈に習って、儒教・道教などを博士の覺哿に学び、どちらも残らず目的を達した。父の天皇は、可愛がって、宮の南の上殿に置いた。そのため、上宮の廐戸の豊聰耳の太子とたたえて言った。秋九月に、橘豊日の天皇を河内の磯長の陵に改葬した。この歳に、

はじめて四天王寺を難波の荒陵に建立した。この年は、太歳が癸丑だった。】とあり、四月庚午朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

推古天皇紀は入鹿若しくは蘇我山田石川麻呂が記述した可能性が高く、入鹿が書けば倭国の目、蘇我山田石川麻呂なら俀国を含めた目で記述したことになる。

崇峻天皇3で625年法興寺着工としたが、推古天皇が34歳の時敏達天皇が崩じ、39歳で崇峻天皇が崩じたと記述して、用明天皇の在位期間が無い、すなわち用明天皇は敏達天皇と同時に天皇だったことを示し、崇峻天皇と用明天皇が崇峻天皇に含まれ、この王朝が滅んだときが法興寺着工、すなわち、628年着工の可能性が高く、629年に新しい倭国王朝が始まった。

すなわち、推古天皇の36年間は秦王国が難波に都を置いていた期間で、内容は御井夫人と豊御食炊屋姫と『隋書』に「開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤」とあるように、姓阿毎多利思北孤とその皇太子たち利歌彌多弗利と厩戸豊聰耳と贄子達の説話が記述され、それを分別する必要がある。

敏達天皇の立太子が554年欽明天皇十五年と廿九年に568年に立爲皇太子となり、立太子は俀国の政権交代を記述したと述べてきたが、同一の王では無かった。

ところが、この矛盾であるが、この「廿九年」は621年推古29年の事で、621年には「上宮皇太子薨」となっていて、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と上宮法皇が病で臥せって、立太子の翌年に政権が遷っていることが解る。

立太子の翌年が政権交代というのは安寧天皇の立太子が21歳綏靖25年で9年後30歳で即位して38年死亡で57歳となっているが67歳になってしまうが、立太子の翌年の綏靖26年が安寧元年なら安寧38年が57歳になる。

この法興帝には太子の弟がいて、『隋書』に「日出便停理務云委我弟」と弟が政務を行い、開皇二十年は法興10年にあたり、阿毎多利思北孤が法興帝で、兄が法興帝とよばれたのだから、この弟も帝号があって当然で、それが聖徳太子の利歌彌多弗利で621年に俀国王となった。

推古元年の立太子は629年の俀国王の政権交代と考えられ、倭国も629年に天皇の璽を得て先代の馬子の妻の崇峻天皇の御井夫人から正式に豊御食炊屋姫が天皇位を奪ったのである。

2020年7月29日水曜日

最終兵器の目  崇峻天皇4

  『日本書紀』慶長版は

四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也秋八月庚戌朔天皇詔群臣曰朕思欲建任那卿等何如群臣奏言可建任那官家皆同陛下所詔冬十二月巳卯朔壬午差紀男麻呂宿祢巨勢臣比良夫狭臣大伴囓連葛城烏奈良臣爲大將軍率氏氏臣連爲裨將部隊領二万餘軍出居筑紫遣吉士金於新羅遣吉士木蓮子於任那問任那事五年冬十月癸酉朔丙子有獻山猪天皇指猪詔曰何時如斷此猪之頸斷朕所嫌之人多設兵仗有異於常壬午蘇我馬子宿祢聞天皇所詔恐嫌於已招聚儻者謀弑天皇是月起大法興寺佛堂與步廊十一月癸卯朔乙已馬子宿祢詐於群臣曰今日進東國之調乃使東漢直駒弑于天皇是日葬天皇于倉梯岡陵丁未遣驛使於筑紫將軍所曰依於內亂莫怠外事是月東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻馬子宿祢忽不知河上娘爲駒所偸而謂死去駒姧嬪事顯爲大臣所殺

【四年の夏四月の朔が壬子の甲子の日に、譯語田天皇を磯長の陵に葬った。これは亡き母の皇后を葬った陵だ。秋八月の庚戌が朔の日に、天皇は、群臣に「私は、任那を建てようと思う。お前たちはどう思う」と詔勅した。群臣は「任那の官家を建てなければならないのは皆も陛下の詔勅と同じ思いです」と奏上した。冬十一月の朔が己卯の壬午の日に、紀の男麻呂の宿禰と巨勢の猿の臣と大伴の囓の連と葛城の烏奈良の臣を大將軍に指名した。夫々の臣連を率いて、補助の将軍や部隊として、二萬余の軍を率いて、筑紫に出向いて停泊した。吉士の金を新羅に派遣、吉士の木蓮子を任那に派遣して、任那の事情を調べさせた。五年の冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、猪を献上された。天皇は、猪を指さして「いつかこの猪の頚を斬り落とすように、私が嫌いな人も」と詔勅して、いつもよりいやに多く武器を準備した。壬午の日に、蘇我の馬子の宿禰が、天皇の詔勅を聞いて、自分を嫌っていることを恐れた。中間を呼び集めて天皇を殺害しようと計画した。この月に、大法興寺の佛堂と回廊が建った。十一月の朔が癸卯の乙巳の日に、馬子の宿禰は、「今日、東国の年貢を献上する」と群臣をだました。それで東の漢の直の駒に、天皇を殺害させた。この日に、天皇を倉梯の岡の陵に葬った。丁未の日に、急行の使者を筑紫の將軍の所に派遣して、「内乱ごときで、役割を怠ってはいけない」といった。この月に、東の漢の直の駒が蘇我の妃の河上娘を密かに盗んで妻とした。馬子の宿禰は、知らない間に河上娘が、駒にぬすまれたことを知らずに、死んだと思っていたが、駒が妃と夫婦になったことが露見したので、大臣に殺された。】とあり、標準陰暦と合致する。

この4年記事は敏達13年記事で、敏達天皇14年に崩じた敏達天皇の父で敏達天皇14年に崩じるまだ即位していない皇太子だから亡き母の陵、目の前の亡き天皇の妻皇后の陵に埋葬したと記述している。

敏達天皇十三年「遣難波吉士木蓮子使於新羅。遂之任那」、敏達天皇十四年の「天皇思建任那」と同じ内容で尼の善信も敏達14年に記述され、さらに、馬子は百済と同盟していて新羅とは没交渉で、新羅と同盟しているのは俀国である。

そして、崇峻天皇の暗殺記事も実際は穴穗部皇子の説話の可能性もあるが、この、崇峻天皇で馬子や推古天皇が書いた部分が終わり、次からは記述者が変わるが、推古天皇の内容の中には、秦王国の内容がちりばめられている。

ここで、疑問なのだが、どうして、推古天皇たちは628年まで記述しなかったかと言うことである。

この項で見たように、敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇は欽明天皇の内容をそれぞれ焼き直し、すなわち、同じ事件を別の王を中心に記述しているようにしか見られないのである。

それは、593年以前の干支と628年までの資料と対応できていないことを示していて、この頃の『日本書紀』は『古事記』と同じで完全な紀伝体の史書だったことを示し、恐らく完成させた720の完成時に当てはめた可能性があり、最初にその手法を取ったのが、『舊事本紀』で推古天皇の記述に矛盾があっても気にしておらず、『舊事本紀』「十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之」と淨御原朝まで記述しているのでこの頃記述されている。

当然、計算で内容に干支は当て嵌められないので、宮の資料に朔日の干支が延々と記述されていたものに、ある王の年干支と朔は記述されないけれど、王の在位年数と春夏秋冬の季節と日干支が記された『日本書紀』の原本があり、季節と日干支が解れば朔の日干支に合わせた干支にはめ込めばよいのだ。

『史記』の周本紀の武王發の項には「十一年十二月戊午師畢渡盟津諸侯咸會・・・二月甲子昧爽武王朝至于商郊牧野」と記述され、周時代からこのような記録が残っていたのであり、『尚書』の堯典に「帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歳」と義和が暦を堯に教え、義和は『山海經』の「大荒南經」に「東南海之外甘水之間有羲和之國」と日本の関東らしき場所に住んでいた義和が教えたのである。

だから、周と同じ暦の知識が有り得て『二中』に紀元前53年から刻木で元号公布が始まったと記述され、墨と竹ではなく違う方法、結縄刻木という方法で残され、木に刻んだ文字は『室見川銘版』に刻まれた篆書で、その木片を縄で結んだ、中国の竹簡をまねた、竹は帰化植物でいつ日本に入ったかわからないが、竹は有ったとしても刻みにくいので木片を使ったのだろう

2020年7月27日月曜日

最終兵器の目  崇峻天皇3

  『日本書紀』慶長版は

元年春三月立大伴糠手連女小手子爲妃是生蜂子皇子與錦代皇女是歲百濟國遣使幷僧惠倊令斤惠寔等獻佛舍利百濟國遣恩率首信德率蓋文那率福富味身等進調幷獻佛舍利僧聆照律師令威惠衆惠宿道嚴令開等寺工太良未太文賈古子鑪盤博士將德白昧淳瓦博士麻奈文奴陽貴文㥄貴文昔麻帝弥畫工白加蘇我馬子宿祢請百濟僧等問受戒之法以善信尼等付百濟國使恩率首信等發遣學問壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家始作法興寺此地名飛鳥真神原亦名飛鳥苫田是年太歲戊申二年秋七月壬辰朔遣近江臣溝於東山道使觀蝦夷國境遣完人臣鴈於東海道使觀東方濱海諸國境遣阿倍臣於北陸道使觀越等諸國境三年春三月學問尼善信等自百濟還住櫻井寺冬十月入山取寺材是歲度尼大伴狹手彥連女善德狛夫人新羅媛善妙百濟媛妙光又漢人善聡善通妙德法定照善智聡善智惠善光等鞍部司馬達等子多湏奈同時出家名曰德齊法師

【元年の春三月に、大伴の糠手の連が娘の小手子を立てて妃とした。この妃は蜂の子の皇子と錦代の皇女とを生んだ。この歳に、百済国が、使者と一緒に僧の惠總と令斤と惠寔達を派遣して、佛の骨を献上した。百済国は恩率の首信と徳率の蓋文と那率の福富味身達を派遣して、年貢を献上し併せて佛の骨と僧の律師の聆照と令威と惠衆と惠宿と道嚴と令開達と寺の大工の太良未太と文賈古子と鋳造技術者の將徳の白昧淳、瓦技術者の麻奈文奴と陽貴文と㥄貴文と昔麻帝禰、装飾技術者の白加を献上した。蘇我の馬子の宿禰は、百済の僧達に頼んで、戒律を授かる方法を聞いた。善信の尼僧達を、百済国の使者の恩率の首信達と一緒に、学問のために出発させた。飛鳥の衣縫の造の祖の樹葉の家を壊して、法興寺を作り始めた。ここを飛鳥の眞神の原と名付けた。あるいは飛鳥の苫田と名付けた。この年は、太歳が戊申だった。二年の秋七月の壬辰が朔の日に、近江の臣の滿を東山道の使者として派遣して、蝦夷の国の境を見分させた。

宍人の臣の鴈を東海道の使者として派遣して、東の方の海沿いの諸国の境を見分させた。阿倍の臣を北陸の道の使者として派遣して、越達の諸国の境を見分させた。三年の春三月に、学問する尼の善信達が、百済から還って、桜井寺に居住した。冬十月に、山に入って寺の材料の木を取った。この歳に出家した尼は、大伴の狹手彦の連の娘の善徳と大伴の狛の夫人の新羅の媛の善妙と百済の媛の妙光と、それから漢人の善聰と善通と妙徳と法定照と善智聰と善智惠と善光達だった。鞍部の司馬達等の子の多須奈も一緒に出家した。徳齊法師と名付けたという。】とあり、標準陰暦と合致する。

法興寺の建立の記述が述べられているが、前にも書いたように、考古学資料で考えれば、寺の基礎の層にあった須恵器を焼いた窯の狭山池の樋管が613年と同定され、それ以降の須恵器が使用されているのだから、625年着工だと述べた。

この須恵器が別の狭山池窯の作とされると言う考古学者も存在するが、寺の建立前に生活していた、前項の萬達が住んでいた場所の上に建立したのであり、『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年」に意柴沙加宮の彦人に送ったのが563年では彦人は生まれていないので623年である。

『上宮聖徳法王帝説』の裏書に「或本云播磨水田二百七十三町五段廿四歩云云又本云三百六十町云云 有本云請願造寺恭敬三寶十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云云」と記述されるが、播磨の水田や請願造寺恭敬三寶はこの法興寺の記述であるが、何故か急に舒明天皇13年に飛んで浄土寺と名前を変えてしまっている。

そして、注書で舒明天皇から654年の孝徳天皇の死亡までを記述してからまた元の「曾我大臣」、 「推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣臥病 爲大臣之男女」、「又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥之卅五年夏六月辛丑薨之」と馬子の話に戻している。

これは、『上宮聖徳法王帝説』を記述した人が、『日本書紀』と合わない「十三年辛丑」が記述された資料を見たため、浄土寺を持ってきてあいまいにして注釈を入れたと考えるべきで、辛丑は敏達天皇十年581年か舒明天皇13年641年で、「曾我大臣云豊浦大臣云云觀勒僧正惟古天皇即位十年壬戌來之」と推古10年以降の馬子や蝦夷の話を記述しているのだから581年では奇妙である。

従って、法興寺建立は641年で、『船王後墓誌』に「阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月」とこの年に飛鳥天皇が亡くなっていて、『上宮聖徳法王帝説』の裏書の文末の「又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥之卅五年夏六月辛丑薨之」と普通に読めば『日本書紀』の推古天皇三四年「夏五月戊子朔丁未大臣薨」の記述間違いと言われそうだが、1年ずれ、月もずれていて、実際は「辛丑薨之」が「十三年歳次辛丑」に続く記述なのではと考えている。

このように、注釈・解説というのは、自分の理解を越えた事象に対しては、まことしやかに理屈をこねて、知ったかぶりをする、現代と全く同じであり、私も同じ轍を踏まないように、証拠だけを見つけてまとめて世間に示して判断してもらう方法を続けたい。


2020年7月24日金曜日

最終兵器の目  崇峻天皇2

 

 今回は萬の犬の説話が長いので、文の訳は後にして、解説を先にする。

この戦いで分かる通り、守屋の領地は摂津で難波も含まれて、欽明天皇十三年「佛像流弃難波堀江復縱火於伽藍燒燼更無餘於是天無風雲忽炎大殿」、敏達天皇十四年「并燒佛像與佛殿既而取所燒餘佛像令棄難波堀江」と敏達天皇も馬子大臣も守屋もいた首都が難波で、敏達天皇十二年「遣大夫等於難波舘使訪日羅」と賓客を饗応するのも難波で、饗応は首都で行い、そして、敏達天皇六年「遂安置於難波大別王寺」と577年に首都難波にはすでに寺も存在し、仏師も552年に存在していた。

首都のど真ん中が守屋の領地であるのだから、皇太子に任命した父も難波に存在し、馬子たちはその場所を得て、四天王寺を建立して、守屋の配下の半分を四天王寺の下僕、あとの半分を寺の為の田の小作人にしたのである。

そして「蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺」と625年に寺を建立し、613年の狭山池の樋管が出土した場所の上層にある窯の須恵器が法興寺の基礎の所で出土し(別の狭山窯の説有り)、この窯には隋様式の硯が出土し、法興寺が587年の建立ではない可能性が高く、625年着工なら狭山池の窯の須恵器を守屋の朝廷が使っていてその上に法興寺を建立した可能性が高い。

また、『舊事本紀』に「孫物部馬古連公目大連之子・・・物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と天皇だった目の孫に石上姓が与えられているが、天武紀の賜姓に石上部造はあるが石上部や石上姓は無いのは、馬古の配下が石上部や石上造であった可能性が高い。

そして、実際には朱鳥元年次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事、『舊事本紀』に「弟娣生物部石上贄古連公」と石上姓が出現していて、贄子連も目大臣の子で、姓のない天皇から降格して石上姓が与えられた、すなわち、目天皇の子たちが皇位継承権を失った時が白鳳年号の終了と時期を同じくしている。

『日本書紀』慶長版は

秋七月蘇我馬子宿祢大臣勸諸皇子與群臣謀滅物部守屋大連泊瀬部皇子竹田皇子廐戸皇子難波皇子春日皇子蘇我馬子宿祢大臣紀臣()麻呂宿祢巨勢臣比良夫膳臣賀拖夫葛城臣烏那羅倶率軍旅進討大連大伴連嚙阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手春日臣倶率軍兵從志紀郡到澁河家大連親率子弟與奴軍築稻城而戰於是大連昇衣揩朴枝間臨射如雨其軍強盛塡家溢野皇子等軍與群臣衆怯弱恐怖三𢌞却還是時廐戸皇子束髮於額而隨軍後自?()度曰將無見敗非願難成乃斮取白膠木疾作四天王像置於頂髮而發誓言今若使我勝敵必當奉爲護世四王起立寺塔蘇我馬子大臣又發誓言凢諸天王大神王等助衞於我使獲利益願當奉爲諸天與大神王起立寺塔流通三寶誓已嚴種種兵而進討伐爰有迹見首赤檮射墮大連於枝下而誅大連幷其子等由是大連之軍忽然自敗合軍悉被皁衣馳獦廣瀬勾原而散是役大連兒息與眷属或有逃匿葦原改姓換名者或逃亡不知所向者時人相謂曰蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也大臣妄用妻計而殺大連矣平亂之後於攝津國造四天王寺分大連奴半與宅爲大寺奴田庄以田一萬頃賜迹見首赤檮蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅而聞大連滅騎馬夜逃向茅渟縣有真香邑仍過婦宅而遂匿山朝庭議曰万懷逆心故隱此山中早須滅族可不怠歟万衣裳幣垢形色憔悴持弓帶剱獨自出來有司遣數百衞士圍萬々即驚匿篁藂以繩繋竹引動令他惑己所入衞士等被詐指搖竹馳言萬在此万即發箭一無不中衞士等恐不敢近万便弛弓挾腋向山走去衞士等即夾河追射皆不能中於是有一衞士疾馳先万而伏河側擬射中膝萬即拔箭張弓發箭伏地而?(號)曰萬爲天皇楯將效其勇而不推問翻致逼迫於此窮矣

可共語者來願聞殺虜之際衞士等競馳射万万便拂捍飛矢殺三十餘人仍以持剱三截其弓還屈其剱投河水裏別以刀子刺頸死焉河內國司以萬死狀牒上朝庭朝庭下苻稱斬之八段散梟八國河內國司即依苻旨臨斬梟時雷鳴大雨爰有万養白犬俯仰𢌞吠於其屍側遂嚙舉頭收置古冢横臥枕側飢死於前河內國司尤異其犬牒上朝庭朝庭哀不忍聽下苻稱曰此犬世所希聞可觀於後湏使万族作墓而葬由是万族雙起墓於有眞香邑葬万與犬焉河內國言於餌香川原有被斬人計將數百頭身既爛姓宇難知但以衣色收取其身者爰有櫻井田部連膽渟所養之犬嚙續身頭伏側

固守使收已至乃起行之八月癸卯朔甲辰炊屋姫尊與群臣勸進天皇即天皇之位以蘇我馬子宿祢爲大臣如故卿大夫之位亦如故是月宮於倉梯

【秋七月に、蘇我の馬子の宿禰の大臣は、諸々の皇子と群臣とに、物部の守屋の大連を滅ぼそうと言った。泊瀬部の皇子と竹田の皇子と廐戸の皇子と難波の皇子と春日の皇子と蘇我の馬子の宿禰の大臣と紀の男麻呂の宿禰と巨勢の臣の比良夫と膳の臣の賀頴夫と葛城の臣の烏那羅が、共に軍勢を率いて、進撃して大連を討った。大伴の連の噛と阿倍の臣の人と平群の臣の神手と坂本の臣の糠手と春日の臣が一緒に軍隊を率いて、志紀の郡から、渋河の家についた。大連は、自ら子弟と下僕の兵士を率いて、稲城を築いて戦った。そこで、大連は、衣揩のほおのきの枝の間に昇って、見下ろして雨のように矢を射た。その兵は、強く勢いがあり、家をうずめ野に溢れかえっていた。皇子達の兵と群臣の軍隊とは、臆病で恐れおののいて、三回も退却した。この時に、廐戸の皇子は、額のところで髪を束ねて、兵の後をついて回った。自分の考えでみんなの気持を考えて「なんとか負けないようにしたい。願をかけないと成功できない」と言った。それでぬりでを切り取って、すぐに四天王の像を造って、頭の上に置いて、「今、もし私を敵に勝たしてくれたなら、きっと世の中を守る四天王の為に、寺塔を建立する」と言った。蘇我の馬子の大臣は、

やはり「全ての諸天王と大神王達よ、どうか私を助けてそして守って、利益を獲たなら、きっと諸天と大神王の為に、寺塔を建立して、三宝を普及する」と誓いをたてた。誓い終わって其々の兵に命令して、進軍させて討伐した。そこで迹見の首の赤梼がいて、大連を枝の下に射落して、大連と一緒にその子達を誅殺した。このため、大連の軍隊は、にわかに自滅していった。兵士が一緒になって残らず黒い衣を着て(見つかりにくいように)、廣瀬の勾原で狩りをするように駆けまわって散り散りになった。この闘いで、大連の子息と血縁は、或る者は葦原を逃げまどって隠れ、姓を改めたり名を換える者も、あるいは逃げ亡せて消息不明の者もいた。当時の人は、「蘇我の大臣の妻は、物部の守屋の大連の妹だ。大臣は、つつしみもなく妻の計略を用いて、大連を殺した」と言い合った。乱を平定した後で、摂津国に、四天王寺を建立した。大連の下僕の半分と邸宅を分けて、大寺の下僕と田地にした。田を一萬頃(1001万町?10Km四方:身頃は30㎝四方約0.1㎡、32m四方)を、迹見の首の赤梼に与えた。蘇我の大臣は、また願掛けのとおりに、飛鳥の地に、法興寺を建立した。物部の守屋の大連の下級官職の捕鳥部の萬が、百人を纏めて、難波の邸宅を守っていた。それで大連が滅んだと聞いて、馬で夜逃げして、茅渟の縣の有眞香邑に向かった。それで婦人の家をとおり過ぎて、山中に隠れた。朝庭は相談して「萬は、反逆を考えているから、山の中に隱れた。すぐに一族郎党を滅ぼせ。ぼさぼさするな」と言った。萬の着衣はぼろぼろになって垢まみれで、顔色は憔悴しきっていて、弓を持ち剱を帯びて、一人自分から出てきた。官僚は、数百の衞士を派遣して萬を囲んだ。萬は、それに驚いてたけやぶに隠れてしまった。縄で竹を繋ぎ、引き動かして出入りするのが他人か自分かを解らなくした。衞士達は、だまされて、揺れる竹を目指して走って近づき「萬は、ここにいる」と言った。萬は、そこに箭を放って百発百中だった。衞士達は、おそれて近づこうとしなかった。萬は、それで弓をたゆませて腋に挾み、山に向って走り去った。衞士達は、それで河を挟んで追いかけて矢を射た。誰も当てることが出来なかった。ここに、一人の衞士がいて、素早く走って萬を待ち伏せた。それで川岸に伏せて、贋の矢を膝に命中させた。萬は、箭を拔いた。弓を張って矢を放った。地面に伏せて「萬は天皇の楯として、その勇ましく尽力したのに、取り調べない。それなのに差し迫ってこのように身うごきができなくなった。さしで話そう。殺されたいのか捕らわれたいのか聞かせろ」と叫んだ。衞士達は、競い合うように走り回って萬を射た。萬は、すぐに飛ぶ矢を払って防ぎ、三十余人を殺した。なおも、持った剱で、三つ弓を叩ききった。また、その剱をひん曲げて、河の中に投げた。別の刀で、頚を刺して死んだ。河内の国司は、萬の死に様を、朝庭に文書で奏上した。朝庭は、「八つ切りにして、八つの国にばらしてさらせ」と文書を下した。河内の国司は、それで命令書どおりに、斬ってさらす時になって、雷が鳴って大雨が降った。ここに萬の養っていた白犬がいた。俯せで上目でその屍の側を回って吠えた。頭を咥え挙げて、先祖代々の冢に收めるように置いた。冢の横の頭側にうつぶせにして、冢の前で飢え死んだ。河内の国司は、その犬が際立ってすぐれていると、朝庭に文書で奏上した。朝庭は、悲しさがこらえきれず聞き入れた。「この犬は、世にまれなことをした。後々まで語り継げ。萬の一族に、墓を作って葬らせよ」と文書で命じて褒め称えた。これで、萬の一族は、墓を有眞香の邑に2つ並べて作り、萬と犬とを葬った。河内の国司は「餌香の川原で、斬られた人がいる。計算すると丁度数百だ。頭や身は既に爛れて、誰なのか見分けがつかない。ただ、衣服の色で、屍骸を修め分けた。ここに桜井の田部の連の膽渟が養っていた犬がいた。遺骸を咥え続けて、横に伏せて身動きせず守った。自分の主を運ぶとき、起き上がって付いて行った」と言った。八月の朔が癸卯の甲辰の日に、炊屋姫の尊と群臣とが、天皇を後押しして、天皇に即位させた。蘇我の馬子の宿禰を大臣にしたのは以前のとおりだ。卿や大夫の位もまた以前のとおりだ。この月に、倉梯に宮を置いた。】とあり、標準陰暦と合致する。


2020年7月22日水曜日

最終兵器の目  崇峻天皇1

    『日本書紀』慶長版は

泊瀬部天皇天國排開廣庭天皇第十二子也母曰小姉君二年夏四月橘豊日天皇崩五月物部大連軍衆三度驚駭大連元欲去餘皇子等而立穴穗部皇子爲天皇及至於今望因遊獵而謀替立密使人於穴穗部皇子曰願與皇子將馳獵於淡路謀泄六月甲辰朔庚戌蘇我馬子宿祢等奉炊屋姫尊詔佐伯連丹經手土師連磐村的臣真嚙曰汝等嚴兵速往誅殺穴穗部皇子與宅部皇子是日夜半佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮於是衞士先登樓上擊穴穗部皇子肩皇子落於樓下走入偏室衞士等舉燭而誅辛亥誅宅部皇子善穴穗部皇子故誅甲子善信阿尼等謂大臣曰出家之途以戒爲本願向百濟學受戒法是月百濟調使來朝大臣謂使人曰率此尼等將渡汝國令學戒法了時發遣使人荅曰臣等歸蕃先噵國主而後發遣久不遲也

【泊瀬部天皇は、天國排開廣庭の天皇の弟で十二番目の子だ。母を小姉の君という。稻目の宿禰の娘で、すでに前の巻に見える。二年の夏四月に、橘の豊日の天皇が崩じた。五月に、物部の大連の軍隊が三度も攻め、非常に驚いていた。大連は、元々、余有る皇子等を見捨てて、穴穗部の皇子を天皇にしようとした。急に今になって、狩りをすると理由をつけて、天皇候補を取り替えて擁立しようと思い、密かに人を穴穗部の皇子のもとに使者を送って、「出来たら皇子と、淡路で狩りをしよう」と言った。謀略はもれた。六月の朔が甲辰の庚戌の日に、蘇我の馬子の宿禰達が、炊屋姫の尊を後ろ盾に、佐伯の連の丹經手と土師の連の磐村と的の臣の眞噛に「お前たち、軍を整えてすぐにいって、穴穗部の皇子と宅部の皇子とを誅殺しなさい」と詔勅した。この日の夜更けに、佐伯の連の丹經手達は、穴穗部の皇子の宮を圍んだ。そこで、衛士がまず物見やぐらに登って、穴穗部の皇子の肩を撃った。皇子は、物見やぐらの下に落ちて、傍の家に走って入った。衞士達は、火をつけて誅殺した。六月の辛亥の日に、宅部の皇子を誅殺した。穴穗部の皇子と仲がよかったので誅殺した。甲子の日に、善信の阿尼達が、大臣に「出家して修行のあいだは、戒律を守ることが根本だ。出来ましたら、百済に行って、戒律の法を学んで受け入れたい」と言った。この月に、百済の年貢の使者が来朝した。大臣は、使者に、「この尼達を連れて、お前の国に渡って、戒律の法を学ばせなさい。用が済んだら出発させなさい」と言った。使者は「私達は、蕃に帰って、先づ国主に手引きします。その後で派遣しても遅くはない」と答えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

守屋が穴穗部皇子を天皇にしようとしたのは、泊瀬部皇子の妻が大伴氏の娘に入り婿し、物部目の伯父倭古が穴穗部天皇だったのだからで、物部目の兄弟では若過ぎて皇位どころではないと考えられ、長男守屋が父物部倭古を守るために戦うのは当然である。

敵は守屋の「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と妹御井夫人を妻にする初代馬子で、『舊事本紀』に「物部守屋大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と御井夫人が泊瀬部崇峻天皇の後ろ盾のもう一人の物部家の用明天皇(敏達天皇の最後の2年間)の皇后および推古天皇で、馬子が皇太子である。

そして、『古事記』に「長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮治天下肆歳」と『日本書紀』では5年で異なっているが、若雀は初代馬子の天皇の名乗った名前なのだろうからで、崇峻4年に崩じていて、崇峻四年「夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」と橘豊日の陵の「語田天皇於磯長陵」と自分の陵に埋葬され、物部目である敏達天皇の陵墓は「磐余池上陵」に葬られている。

御井夫人はおそらく即位後すぐに『舊事本紀』「弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と4人の子を得たのだから泊瀬部を受け継いだ贄子が皇太子になり、推古天皇のもう一人の皇太子である。

そして『舊事本紀』に「孫物部鎌束連公贄子大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と贄子大連の子の鎌媛大刀自が摂政の2代目馬子の「廐戸皇子豐耳聰」の嶋の妻となって、『船王後墓誌』に「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑」と譯語田・豊浦・飛鳥と宮が変わったが、崇峻四年「夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」の譯語田天皇は初代馬子で628年だった。

そして、推古天皇即位前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」と629年に豐浦宮に遷都し、推古天皇十一年に「遷于小墾田宮」と記述され、629年即位の推古11年は639年に当たり、翌640年に命長に改元されているので首都が変わったと考えてもよい。

641年が飛鳥宮末年ということで、『舊事本紀』に「物部恵佐古連公・・・此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と恵佐古も小治田豐浦が連続してあったことを示し、630年頃に蝦夷が生まれたので豊浦大臣と呼ばれたことを示し、「阿須迦天皇之末」と天皇が崩じ、年号は変らないのだから天皇では無い人物が改元の権限があることを示し、623年の仁王元年から続く、すなわち用明天皇の皇后の穴穗部間人皇女すなわち馬子の妻の御井夫人が元号命名者と考えられる。

御井夫人のような存在が王朝交代の時に存在し、前王朝の皇女が他王朝の皇后となり、その皇子達が皇位を継承し、御井夫人のような存在が王朝交代をスムーズになし得た。

2020年7月20日月曜日

最終兵器の目 用明天皇3

  『日本書紀』慶長版は

二年夏四月乙巳朔丙午御新嘗於磐余河上是日天皇得病還入於宮群臣侍焉天皇詔群臣曰朕思欲帰三寶卿等議之群臣入朝而議物部守屋大連與中臣勝海連違詔議曰何背國神敬他神也由來不識若斯事矣蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助詎生異計於是皇弟皇子引豊國法師入於內裏物部守屋大連耶睨大怒是時押坂部史毛屎急來密語大連曰今群臣圖卿復將斷路大連聞之即退於阿都集聚人焉中臣勝海連於家集衆隨助大連遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像厭之俄而知事難濟歸附彥人皇子水派宮舍人迹見赤檮伺勝海連自彥人皇子所退拔刀而殺大連從阿都家使物部八坂大市造小坂漆部造兄謂馬子大臣曰吾聞群臣謀我我故退焉馬子大臣乃使土師八嶋連於大伴毗羅夫連所具述大連之語由是毗羅夫連手執弓箭皮楯就槻曲家不離晝夜守護大臣天皇之瘡轉盛將欲終時鞍部多湏奈進而奏曰臣奉爲天皇出家修道又奉造丈六佛像及寺天皇爲之悲慟今南淵坂田寺木丈六佛像挾侍菩薩是也癸丑天皇崩于大殿七月甲戌朔甲午葬于磐余池上陵

【二年の夏四月の朔が乙巳の丙午の日に、磐余の河上で御新嘗を行った。この日に、天皇は、病気になり宮へ帰った。群臣が傍に仕えていた。天皇は、群臣に「私は、仏に帰依しようと思う。

お前たち相談しろ」と詔勅した。群臣は、朝廷に参内して相談した。物部の守屋の大連と中臣の勝海の連と、詔勅の考えに背いて、「どうして国神に背いて、他神を敬うのか。経緯も解らず、どうしてこんなことになる」と言った。蘇我の馬子の宿禰の大臣は、「詔勅に従ってお助けしましょう。

誰か妙案を出せ」と言った。そこで、天皇の弟の皇子は、豊国の法師を連れて、内裏に入った。

物部の守屋の大連は、睨みつけて大変怒った。この時に、押坂部の史の毛屎が、慌ただしくやって来て、大連に「今、群臣は、あなたを、謀って退路を断とうとしています」とひそひそ話をした。

大連はそれを聞いて、すぐに阿都に退いて、人を集めた。中臣の勝海の連は、家に軍隊を集めて、大連の援軍となった。とうとう太子の彦人の皇子の呪いの像と竹田の皇子の呪いの像を作ってお祓いした。しばらくしても成功しないことを知って、帰って、彦人皇子がいる水派の宮で様子を伺った。舍人の迹見の赤梼は、勝海の連が彦人の皇子の所から退くところを伺って、刀を拔いて殺した。大連は、阿都の家から、物部の八坂と大市の造の小坂と漆部の造の兄を使者にして、

馬子の大臣に「私は、群臣が私に謀反したと聞いた。私は、それで引退する」と言った。馬子の大臣は、それで土師の八嶋の連を大伴の毗羅夫の連の所へ使者として行かせて、詳しく大連の言葉を述べた。それで、毗羅夫の連は、手に弓箭と皮の楯を持って槻曲の家に赴いて、昼夜離れずに大臣を守った。天皇のハレモノがどんどんひどくなり、死のうかという時に、鞍部の多須奈が進み出て「私は、天皇の為に、出家して道義をおさめたい。また丈六の佛像と寺を建立したい」と奏上した。天皇の為に、悲しみなげいて大声で泣いた。今、南淵の坂田の寺の木造の丈六の佛像と両脇の菩薩がこれだ。癸丑の日に、天皇は、正殿で崩じた。秋七月の朔が甲戌の甲午の日に、磐余の池上の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。

この頃になると、金石文が多数現れて、実際の事件発生年が解ってくるが、『日本書紀』や『舊事本紀』の干支は多くが私の標準陰暦の計算通り若しくは大の月の指定に由来する誤差がほとんどで、用明天皇が実際は敏達天皇と崇峻天皇の記事の一部にも拘らず堂々と記述されている。

これは、何度も述べるように、『日本書紀』や『舊事本紀』も『古事記』と同じように紀伝体の資料であり、本来は干支などほとんど記述されていなかったものを、首都宿殿の記録が紀元前600年以前から延々と引き継がれて日記のような記録が既に有ったのである。

そして、その都の記録に、それぞれの王朝の王の記録を考えられるところにおさめていった記録が、今我々が見ている『日本書紀』や『舊事本紀』で、天皇名は最初に『日本書紀』を書かせた雄略天皇の先祖の役職名の歴史が記述され、皇后や妃や皇子を含めた何人かの王の妻(母系の為妻が本来の王と見做すべきだろう)とその子供たちが記述された。

そして、雄略天皇から仁賢天皇までは『古事記』が書かれたため、巨勢氏の家系の役職名が雄略天皇から当て嵌められ恐らく継体天皇までが巨勢氏の名前で、それ以降は推古天皇や馬子が書かせているため、蘇我氏の役職名が記述されている。

従って、用明天皇の記事は豊御食炊屋姫を皇后とする物部目天皇が用明天皇即位前紀「宮於磐余名曰池邊雙槻宮」と皇后の邸宅に移ったことを示し、それが686年だったことを示していて、橘豊日の馬子とは無縁の話で、623年に豊御食炊屋姫尊が皇后になった、すなわち、その夫のが天皇になったことを示し、稲目の姫の邸宅が宮すなわち首都になったことが解る。

崇峻天皇が在位した5年後が推古36年で翌年宮が変わって、政権も完全に豊御食炊屋姫王朝に変わり、馬子が皇太子で摂政となって626年推古天皇三四年に「大臣薨仍葬于桃原墓」と摂政馬子が崩じ、2代目馬子の「廐戸皇子豐耳聰」が摂政を継続した。

そして、629年に倭国王朝が正式に始まり推古天皇の在位期間の36年後は、私が664年の6月が乙巳の変と証明したその年である。

だから、押坂で生まれた皇太子彦人も豊御食炊屋姫宮の姫「立豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女・・・其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女のいる水派に婿入りし、皇太子彦人は敏達天皇の死亡時はまだ成人しておらず、物部倭古に政権を奪われ、守屋が皇太子である大臣となったが、推古天皇と馬子が書かせた『日本書紀』は倭古天皇おそらく倭古を襲名した穴穗部皇子を天皇と認めず、義理の兄弟で皇太子の守屋も大臣と記述しなかった。

『二中歴』や『隅田八幡神社人物画像鏡』・『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』・『上宮聖徳法王帝説』を史書と比較することで、『日本書紀』を入鹿が記述する時に『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の俀国王を推古天皇の中に記述し、『日本書紀』と『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を参考に『上宮聖徳法王帝説』が完成されたことが解り、『舊事本紀』が7世紀初頭に完成した時、『日本書紀』の天智天皇までを基に変更したことが解る。

その為、これらが記述されるときまだ記述されていない668年作成の『船王後墓誌』と全く合致しないのである。

2020年7月17日金曜日

最終兵器の目 用明天皇2

 『日本書紀』慶長版は

夏五月穴穗部皇子欲姧炊屋姫皇后而自強入於殯宮寵臣三輪君逆乃喚兵衞重璅宮門拒而勿入穴穗部皇子問曰何人在此兵衞荅曰三輪君逆在焉七呼開門遂不聽入於是穴穗部皇子謂大臣與大連曰逆頻無禮矣於殯庭誄曰不荒朝庭淨如鏡面臣治平奉仕即是無禮方今天皇子弟多在兩大臣侍詎得恣情專言奉仕又余觀殯內拒不聽入自呼開門七𢌞不應願欲斬之兩大臣曰隨命於是穴穗部皇子陰謀王天下之事而口詐在於殺逆君遂與物部守屋大連率兵圍繞磐余池邊逆君知之隱於三諸之岳是日夜半潛自山出隱於後宮逆之同姓白堤與横山言逆君在處穴穗部皇子即遣守屋大連曰汝應往討逆君幷其二子大連遂率兵去蘇我馬子宿祢外聞斯計詣皇子所即逢門底將之大連所時諫曰王者不近刑人不可自往皇子不聽而行馬子宿祢即便隨去到於磐余而切諫之皇子乃從諫止仍於此處踞坐胡床待大連焉大連良久而至率衆報命曰斬逆等訖於是馬子宿祢惻然頽歎曰天下之亂不久矣大連聞而荅曰汝小臣之所不識也是年也太歲丙午

【夏五月に、穴穗部の皇子は、炊屋姫の皇后を自分のものにしようと考えて強引に殯の宮に入った。お気に入りの臣下の三輪の君の逆は、それで武官を呼んで、宮の門を小さく幾重にも守って侵入を許さなかった。穴穗部の皇子は「誰の命令でいる」と問いかけた。武官は「三輪の君の逆だ」と答た。七回「門を開け」と呼びかけたが、とうとう聞き入れなかった。そこで、穴穗部の皇子は、大臣と大連とに「逆は、本当に無礼だ。殯の庭で『朝庭を荒らさないで鏡のように浄め、私は、世の中を平穏に治め、私心を捨てて力を尽くす』と哀悼した。それなのにこんな無礼にあった。たしかに今のところ、天皇の子弟はたくさんいて、二人の大臣がついている。どうして自分の思いのままに天下を得て、国を治めようとするか。また、わたしが、殯の中をみようと思ったが、拒まれて聞き入れてもらえなかった。私自ら『門を開けろ』と七回叫んでも答えが無かった。斬り殺してやりたい」と言った。二人の大臣が「あなたのご随意に」と言った。そこで、穴穗部の皇子は、密かに王の天下にしようと考えて、嘘を言い立てて逆君を殺そうとしていた。それで物部の守屋の大連と、軍隊を率いて磐余の池邊を取り囲んだ。逆の君はそれを知って、三諸の岳に隱れた。この日の夜更けに、山から出て、後宮に潜入して隱れた。逆の同族の白堤と横山とが、逆の君の居場所を告げ口した。穴穗部の皇子は、それで守屋の大連を派遣して、「お前が行って、逆の君と一緒にその二人の子を討て」と言った。大連は軍を連れて討ちに行った。蘇我の馬子の宿禰は、別の離れた場所でこの計画を聞いて、皇子の所に行こうとし、途中の門を出たところで会った。丁度、大連の所に行こうとしていたのだ。その時に「王という者は罰を受ける人に近づいてはならない。のこのこ出かけて行ってはいけない」と諫めた。皇子は、聞き入れずに行った。馬子の宿禰は、それで一緒に行って磐余に着いて、心から諫めた。皇子は、それで諌言どうりに止めた。それで、その場の床の高い台に体を丸めてしゃがんで大連を待った。大連は、だいぶ経って帰った。軍隊を率いて「逆達を斬り終わりました」と復命した。そこで、馬子の宿禰は、あわれに思って心をいため「今に天下が乱れる」と倒れ込んで嘆いた。大連は、それを聞いて「お前のような身分の低い家臣の知った事か」と答えた。この年は太歳が丙午だった。】とある。

『舊事本紀』に用明天皇紀に「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」、「蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助」と記述し、「兩大臣」と2人の大臣を証明しており、同じ大臣でも「大連聞而荅曰汝小臣之所不識也」と地位が雲泥の差で、大臣は大王クラスで天皇に次ぐ皇太子も大王と呼ばれ、允恭天皇即位前紀に「願大王雖勞猶即天皇位」と大王が天皇に即位し、天皇が天皇に即位することはありえない。

『日本書紀』の「更名豐耳聰聖徳或名豐聰耳法大王」、『上宮聖徳法王帝説』でも「于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天之雖恐懐心難止使我大王与母王如期従遊」と聖徳太子も大王と呼ばれた。

大王クラスの人々の序列で馬子大臣を小臣と呼べるのは恐らく皇太子若しくは天皇の身内しか考えられず、守屋は皇后や天皇の兄弟や叔父に当たる人物であれば馬子大臣を小臣と呼べ、実際に馬子は守屋の義理の新参者の弟で、倭古の娘が守屋の妹で御井夫人の穴穗部間人皇女で婿が用明天皇、実際の用明天皇は『舊事本紀』の崇峻天皇で「物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と御井夫人、夫が馬子で橘豊日、実際の用明天皇は敏達天皇の最後の2年間で天皇は物部目で皇后は豊御食炊屋姫、兄の橘豊日は先代馬子である。

すなわち、この両大臣というのは、二人の用明天皇を示し、この年は秦王国が倭国に奪われた朝廷を取り戻そうとしていたということで、豊御食炊屋姫が皇后になった時、倭国朝廷が始まったのであり、仁王元年623年がその年にあたり、甥の竹田皇子に馬子が『隅田八幡神社人物画像鏡』を「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年に送って、妹の豊御食炊屋姫を味方にしようとした。

だから、同じ大臣・皇太子と呼ばれながら、新参者の俀国から領地を奪って独立した倭国皇太子に対しての紀元前の辰国・神国・秦()国・日本と延々と引き継いできた歴史ある王朝の皇太子の言葉が「小臣」なのである。

2020年7月15日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十一  用明天皇1

 『日本書紀』慶長版は

橘豊日天皇天國排開廣庭天皇第四子也母曰堅塩媛天皇信佛法尊神道十四年秋八月渟中倉太珠敷天皇崩九月甲寅朔戊午天皇即天皇位舘於磐余名曰池邊雙槻宮以蘇我馬子宿祢爲大臣物部弓削守屋連爲大連並如故壬申詔曰云云以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀元年春正月壬子朔立穴穗部間人皇女爲皇后是生四男其一曰廐戸皇子此之皇子初居上宮後移斑鳩於豊御食炊屋姫天皇世位居東宮捴攝萬機行天皇事語見豊御食炊屋姫天皇紀其二曰來目皇子其三曰殖栗皇子其四曰茨田皇子立蘇我大臣稻目宿祢女石寸名爲嬪是生田目皇子葛城直磐村女廣子生一男一女男曰麻呂子皇子此當麻公之先也女曰酢香手姫皇女歷三代以奉日神

【橘豐日天皇は、天國排開廣庭天皇の第四子だ。母を堅鹽媛という。天皇は、佛法を信じて神道も尊んだ。十四年の秋八月に、渟中倉太珠敷天皇が崩じた。九月の朔が甲寅の戊午の日に、天皇は、即位した。磐余に宮を造った。名付けて池の邊の雙槻の宮と言った。蘇我の馬子の宿禰を大臣とし、物部の弓削の守屋の連を大連とし、共に前のとおりだ。壬申の日に、云々と詔勅した。酢香手姫の皇女を、伊勢の神の宮を礼拝して、日の神を祀って仕えるようにした。この皇女は、この天皇の時から、炊屋姫天皇の時代まで、日の神を祀って仕え、自分で葛城に引退して薨じた。炊屋姫の天皇の紀に見える。元年の春正月の壬子が朔の日に、穴穗部の間人の皇女を立てて皇后とした。皇后は四人の男子を生んだ。一人目を廐戸の皇子という。この皇子は、はじめ上宮に住んでいた。後に斑鳩に移った。豊の御食炊屋姫の天皇の時に、東宮の位についた。帝王の政務をすべてを統治して、天皇の仕事をこなした。この事は豊の御食炊屋姫の天皇の紀に見える。二人目を来目の皇子という。三人目を殖栗の皇子という。四人目を茨田の皇子という。蘇我の大臣の稻目の宿禰の娘の石寸名を下位の妃にした。田目の皇子を生んだ。葛城の直の磐村の娘の廣子は、一人の男子と一人の女子を生んだ。男を麻呂子の皇子という。この皇子は當麻の公の先祖だ。女を酢香手姫の皇女という。三代に跨って日の神に仕えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

欽明天皇は32年間も皇位にありながら、欽明天皇三一年「四月甲申朔乙酉・・・朕承帝業若干年」、欽明天皇三二年「是月天皇遂崩于內寢時年若干」と即位31年に即位後若干や即位後32年に崩じて年若干と用明天皇の記述そのもので、敏達天皇の死も敏達天皇十四年「天皇與大連卒患於瘡」、「秋八月乙酉朔己亥天皇病彌留崩于大殿」と敏達天皇の死因が瘡である。

『舊事本紀』の敏達天皇紀に「五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后」と敏達5年に皇后になったと記述され、推古天皇紀に「年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后」とその時18歳だったと記述され、同じく 推古天皇紀に「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為」と34歳の時敏達天皇が崩じ、5年後天皇に即位して、『日本書紀』と同様に用明天皇が含まれず、『日本書紀』は『舊事本紀』をもとに記述している。

『舊事本紀』の敏達5年が576年なら、敏達天皇崩が592年で、推古天皇即位が597年になり、用明天皇が592年に崩じた敏達天皇ということになり、廐戸皇子は崇峻元年に「秋七月・・・是時廐戸皇子束髮於額而隨軍後」と13歳になって初めて参戦していて、用明天皇の皇太子には13歳未満でなれなかったので、甥の彦人が皇太子で義兄弟の穴穗部皇子が皇位を奪おうとした。

この闘いの前の「四月・・・歸附彦人皇子於水派宮」と前年に『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と彦人が水派宮に行く前の忍坂宮にまだいる時に竹田皇子に鏡を送り、その年が563年では欽明天皇時で意味不明になり、623年だったということで、この年に仁王年号が始まりおそらく皇太后が変わったことを示し634年までは少なくとも皇太后が変わっていない。

酢香手姫の斎王職の「或本云、卅七年間」は用明元年586年から622年までを述べたもので、推古天皇の時にこの記述をしているので、推古朝は含まれず、三代は欽明・敏達・用明のことなのだろう。

すなわち、穴穗部間人皇后が推古天皇で『舊事本紀』に「奉齋神宮弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒」と子が4人で「穴穗部間人皇女爲皇后是生四男」と合致し、父が弓削の祖なのだから、「弟物部守屋大連公子日弓削大連」と姉妹の夫の()兄弟に守屋弓削がいる。

『舊事本紀』に「妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と守屋の妹の御井夫人が崇峻天皇の夫人となっているが、守屋の妹は馬子の夫人なのだから、崇峻天皇は馬子ということになり、馬子の長男嶋が皇太子馬子大臣を襲名したのだろう。

御井夫人は後に『舊事本紀』「弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と贄子の夫人になりもう一人の崇峻天皇で欽明天皇三一年三月の「蘇我大臣稻目宿禰薨」は崇峻4年のことで四年夏四月「葬譯語田天皇於磯長陵」と敏達天皇を埋葬しており、推古朝の正式な太子が物部石上贄古の子、そして、俀国の上宮法皇の少なくとも3名が推古天皇の太子として記述され、推古天皇まで記述した『古事記』には「日子人太子」、「崗本宮治天下之天皇」は記述されるが「上宮之厩戸豊聡耳命」と上宮皇子に過ぎない

そして、2代目馬子は崇峻天皇が死んだ時も20歳に達していないので、天皇になれずに皇太子のまま義母の推古天皇の摂政に就任して、すなわち、聖徳太子は馬子で厩戸で生まれたから馬子、豊国の皇子だから「豐聰耳」で用明天皇とされる人物も豊日で豊国の王で、豊御食炊屋姫も豊国の姫である。

そして、敏達天皇五年「豐御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女其一曰菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」、敏達天皇七年「菟道皇女侍伊勢祠即奸池邊皇子」と用明天皇「豐聰耳」は男性と関係を持ってはいけない斎王と関係をもって、聖人とは思えない。

廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭と朝廷内では下位の身分だった蘇我氏の人々は、渟中倉太珠敷・橘豐日と天皇家と姻戚になったことで名前の様相が変わり、泊瀬部・額田部は部民を任された王で、少なくとも『舊事本紀』に「大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」と前天皇が退位して与えられた部が付加された姓で大王クラスの名前、だから 泊瀬部・額田部大王が天皇になった。