2020年5月29日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 7

 『日本書紀』慶長版は
十二月越國言於佐渡嶋北御名部之𥔎岸有肅愼人乗一舩舶而淹留春夏捕魚充食彼嶋之人言非人也亦言鬼魅不敢近之嶋東禹武邑人採拾椎子爲欲熟喫著灰裏炮其皮甲化成二人飛騰火上一尺餘許經時相鬪邑人深以爲異取置於庭亦如前飛相鬪不巳有人占云是邑人必爲魃鬼所迷惑不久如言被其抄掠於是肅愼人移就瀬河浦浦神嚴忌人不敢近渇飲其水死者且半骨積於巖岫俗呼肅愼隈也六年春三月遣膳臣巴提便使于百濟夏五月百濟遣奈卒其㥄奈卒用歌多施德次酒等上表秋九月百濟遣中部護德菩提等使于任那贈吳財於日本府臣及諸旱岐各有差是月百濟造丈六佛像製願文曰蓋聞造丈六佛功德甚大今敬造以此功德願天皇獲勝善之德天皇所用弥移居國倶蒙福祐又願普天之下一切衆生皆蒙解脱故造之矣冬十一月膳臣巴提便還自百濟言臣被遣使妻子相逐去行至百濟濱日晩停宿小兒忽亡不知所之其夜大雪天曉始求有虎連跡臣乃帶刀擐甲尋至巖岫拔刀曰敬受絲綸劬勞陸海櫛風沐雨藉草班荊者爲愛其子令紹父業也惟汝威神愛子一也今夜兒亡追蹤覔至不畏亡命欲報故來既而其虎進前開口欲噬巴提便忽申左手執其虎舌右手刺殺剥取皮還是歲髙麗大亂被誅殺者衆
十二月に、越の国が、「佐渡の嶋の北の御名部の碕の岸に、肅愼人が漂着して、一艘の船が停泊した。春から夏に魚を取って食事に充てた。その嶋の人は、人と思えないと言った。また鬼や化け物のようだと言って、敢えて近づこうとしなかった。嶋の東の禹武の邑の人が、椎の実を採取して煮て食べようと思った。灰の中に置いて焙った。その皮が、二人の人間になって、火の上に30cm以上飛上った。少し経って二人は戦った。邑の人はとても奇妙に思い、庭に放置した。また前の様に飛んで、二人とも戦いを止めなかった。或る人が占て『この邑の人は、きっと鬼や化け物に迷わされた』と言った。まもなく、言った通り掠め取られた。それで、肅愼人は、瀬波河の浦に移って行った。浦の神は厳しく出入りを禁じるので、敢て近づかなかった。のどが渇いてそこの水を飲んだら半分が死んだそうだ。屍を巖の岫に積み上げた。俗に肅愼の隈と呼んだ」と言った。六年の春三月に、膳の臣の巴提便を派遣して、百済への使者とした。夏五月に、百済は、奈卒の其㥄と奈卒の用奇多と施徳の次酒達を派遣して表を奏上した。秋九月に、百済は、中部の護徳の菩提達を派遣して、任那への使者とした。呉の財物を日本府の臣および諸々の旱岐に夫々差をつけて贈った。この月に、百済は、丈六の佛像を造った。願文を作って、「概略を聞いたが、丈六の佛像を造ると功徳がとてもある。今、敬って造った。この功徳で、できたら、天皇が、勝れた徳を得て、天皇が使う、弥移居の国、が共に天のめぐみを被るように、また出来ましたら、大地をあまねくおおい、この世に生きているすべてのものが皆、解脱出来るようにと造った」と願った。冬十一月に、膳の臣の巴提便が、百済から帰って、「私が使者で派遣されたとき、妻子が、相次いで死んだ。百済の浜に行き着いて、日が暮れたので停泊した。小児が急死したと知らせが有った。その夜は大雪だった。空が明るくなって初めに辺りを見ると、虎が歩いた跡が有った。私は、それで刀を帯びて甲を身に着けて、巖の岫に探し至った。刀を拔いて、『つつしんで詔勅を受けて、陸に海に雨や風にさらされて苦労して働き、草を敷いて、茨の中を分け入ることは、我が子を愛するので父の地位を受け継がせるためだ。よく考えれば、お前は人を恐れさせる神だから、愛する子など一噛みだ。今夜、子が死んだ。跡を追って探し求めてやってきた。命を落とすことを恐れず、復讐するためにやってきた』と言った。すでにその虎は、前に進んで、口を開けて噛みつこうとした。巴提便は、すぐに左手を伸ばして、その虎の舌を掴んで、右の手で刺し殺して、皮を剥ぎ取って帰った」と言った。この年に、高麗で大乱があり、誅殺された者が多かった。】とある。
前項でも記述したように、この百済の仏像記事は朔の日干支も記述されず、俀国の記事の可能性が高く、丈六は1.8m位と考えられるが、飛鳥佛四天王立像持国天が133cm、増長天が135cm、広目天が133cm、多聞天が134cm、救世観音像は高さ180cmで丈六は135cmの可能性が高い。
百済は『三国史記』に枕流王元年384年に「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉 佛法始於此」と384年から仏教が導入されていて、日本は『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と457年に仏教が入り、記事は合致せず、それに対して、俀国はその友好国の新羅が『三国史記』で法興王十五年528年に「肇行佛法」と仏教流入が遅く、545年、実際はもう少し以前に天皇への贈り物を奪い、驚きをもって目の当たりにしただろう。
『三国史記』では545年は陽原王元年で大乱の様子が無く、十三年557年に「夏四月立王子陽成爲太子遂宴群臣於内殿冬十月丸都城干朱理叛伏誅」と反乱があり、高句麗も立太子は普通記述されず、王が即位した時長男が幼少の時は弟が太子になり、長男が大きくなった時に太子を交代した可能性が有り、557年は皇太子の交代があり、前皇太子が反乱を起こし誅殺された可能性が有り、『日本書紀』の記事はこの事件が対応していそうで、ある王の6年が557年に当たり、俀国王葛子の子の可能性が有る。

2020年5月27日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 6

  今回も原文が長文なので解説を先に記述する。
百済の史書の初見は『晉書』の372年咸安二年「二年春正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物 」、『三国史記』の近肖古王二十七年に「春正月遣使入晉朝貢」と対応して記述され、中国に百済と認知されたが、『晉書』は『後漢書』・『三国志』と同様「韓種有三一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓」と韓地は認めているが、中国に臣従する国とは認めていないが、馬韓が「韓割東界以居之」と辰韓を分け与えたと馬韓の主導権を認めている。
そして、『宋書』からは百済が、『梁書』から新羅が記述され、『梁書』の新羅の項に521年「普通二年王募名秦始使使隨百濟奉獻方物」と百済に従って梁に奉献したと記述し、『三国史記』にも法興王八年に「遣使於梁貢方物」と記述され、521年に倭国と百済が対新羅に対しては逆転してしまったようだ。
的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞」と的臣が新羅を抑えたのは聖明王の「曽」と「文周王・三斤王」の475~480年頃の話で、この説話は倭王武や磐井の頃の491年仁賢天皇四年の「的臣蚊嶋穗瓮君有罪皆下獄死」や、527年継体天皇二一年の「欲往任那爲復興建新羅所破南加羅喙己呑而合任那於是筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・於是磐井掩據火豐二國勿使修職外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船内遮遣任那毛野臣軍」の状況と合致している。
神功皇后摂政四七年から雄略天皇まで『百濟記』、継体天皇から欽明天皇十七年の556年まで『百濟本記』を引用して解説しているということは、解説文以外は百済の資料ではなく、他の資料で、もちろん、蘇我氏や物部氏の資料なら姓・名を記述でき、使わない文字をあえて書く必要が無い。
すなわち、この元資料は倭国や毛野臣の資料だと言うことが解り、蘇我氏の倭国ではなく後の俀国の韓地の説話を蘇我氏が日本の朝廷から見た視点で記述したもので、後の俀国が新羅と結託して日本と百済に対抗していることが解り、そのため、朔の日干支が全く記述されていない。
そのため、『日本書紀』本文に「安羅人者以日本府爲天」と『三国志』の「馬韓國邑各立一人主祭天神名之天君」と天国が韓地の支配者で、本来天皇が天なのに現在日本府を牛耳って天皇に逆らっている国が天国王と安羅人はみなしているとしている。
もし、これらが百済の史書からのものなら、それに加えて『百濟本記』云うなどと書かないか、最初に『百濟本記』にあると書いて、全文使えばよく、現にそのように記述した部分もあり、『梁書』に「新羅・・・無文字刻木爲信」と新羅の資料では有り得ない。
なお、神功皇后摂政四七年からの『百濟記』は近肖古王三十年「冬十一月王薨古記云百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有書記然高興未嘗顯於他書」と375年から文字として高興が記述したとあり、応神天皇十六年の「習諸典籍於王仁」は390年即位の応神天皇が405年に典籍を学び、『百濟記』は375年以降記述され初めて随時日本にも提出されていたことが解る。
『日本書紀』慶長版は
五年春正月百濟國遣使召任那執事與日本府執事倶荅言祭神時到祭了而往是月百濟復遣使召任那執事與日本府執事日本府任那倶不遣執事而遣微者由是百濟不得倶謀建任那國二月百濟遣施德馬武施德髙分屋施德斯那奴次酒等使于任那謂日本府與任那旱岐等曰我遣紀臣奈率彌麻沙奈卒巳連物部連奈率用歌多朝謁天皇弥麻沙等還自日本以詔書宣曰汝等冝共在彼日本府早建良圖副朕所望爾其戒之勿被他誑又津守連從日本來宣詔勅而問任那之政故將欲共日本府任那執事議定任那之政奉奏天皇遺召三𢌞尚不來到由是不得共論?(圖)計任那之政奉奏天皇矣今欲請留津守連別以疾使具申情狀遣奏天皇當以三月十日發遣使於日本此使便到天皇必湏問汝汝日本府卿任那旱岐等各宜發使共我使人往聽天皇所宣之詔別謂河內直自昔迄今唯聞汝惡汝先祖等倶懷姧偽誘說爲歌可君專信其言不憂國難乖背吾心縱肆暴虐由是見逐軄汝之由汝等來住任那恒行不善任那日損軄汝之由汝是雖微譬猶小火焼焚山野連延村邑由汝行惡當敗任那遂使海西諸國官家不得長奉天皇之闕今遣奏天皇乞移汝等還其本處汝亦往聞又謂日本府卿任那旱岐等曰夫建任那之國不假天皇之威誰能建也故我思欲就天皇請將士而助任那之國將士之粮我當湏運將士之數未限若干運粮之處亦難自決願居一處倶論可不擇從其善將奏天皇故頻遣召汝猶不來不得議也日本府荅曰任那執事不赴召者是由吾不遣不得往之吾遣奏天皇還使宣曰朕當以?()歌臣遣於新羅以津守連遺於百濟汝待聞勅際莫自勞往新羅百濟也宣勅如是會聞?()歌臣使於新羅乃追遣問天皇所宣詔曰日本臣與任那執事應就新羅聽天皇勅而不宣就百濟聽命也後津守連遂來過此謂之曰今余被遣於百濟者將出在下韓之百濟郡令城主唯聞此說不聞任那與日本府會於百濟聽天皇勅故不往焉非任那意於是任那旱岐等曰由使來召便欲往參日本府卿不肯發遣故不往焉大王爲建任那觸情曉示覩茲忻喜難可具申三月百濟遺奈率阿亡得文許勢奈率歌麻物部奈卒歌非等上表曰奈卒彌麻沙奈卒已連等至臣蕃奉詔書曰爾等宜共在彼日本府同謀善計早建任那爾其戒之勿被他誑
又津守連等至臣蕃奉勅書問建任那恭承來勅不敢停時爲欲共謀乃遣使召日本府與任那倶對言新年既至願過而往久而不就復遣使召倶對言奈時既至願過而往久而不就復遣使召而由遣微者不得同計夫任那之不赴召者非其意焉是阿賢移那斯佐魯麻都姧佞之所作也夫任那者以安羅爲兄唯從其意安羅人者以日本府爲天唯從其意今的臣吉備臣河內直等咸從移那斯麻都指撝而已移那斯麻都雖是小家微者專擅日本府之政又制任那障而勿遣由是不得同計奏荅天皇故留己麻奴跪別遣使迅如飛烏奉奏天皇假使二人在於安羅多行姧佞任那難建海西諸國必不獲事伏請移此二人還其本處勅喩日本府與任那而圖建任那故臣遣奈率彌麻沙奈率巳連等副已麻奴跪上表以聞於是詔曰的臣等往來新羅非朕心也曩者?()支弥與阿鹵旱岐在時爲新羅所逼而不得耕種百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞若已建任那移那斯麻都自然却退豈足云乎伏承此詔喜懼兼懷而新羅誑朝知匪天勅新羅春取㖨淳仍擯出我久禮山戎而遂有之近安羅處安羅耕種近久禮山處斯羅耕種各自耕之不相侵奪而移那斯麻都過耕他界六月逃去於?()支弥後來許勢臣時新羅無復侵逼他境安羅不言爲新羅逼不得耕種臣嘗聞新羅毎春秋多聚兵甲欲襲安羅與荷山或聞當襲加羅頃得書信便遣將士擁守任那無懈息也頻發鋭兵應時往救是以任那隨序耕種新羅不敢侵逼而奏百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種是上欺天朝轉成姧佞也曉然若是尚欺天朝自餘虛妄必多有之的臣等猶住安羅任那之國恐難建立宜早退却臣深懼之佐魯麻都雖是韓腹位居大連廁日本執事之間入榮班貴盛之例而今反著新羅奈麻禮冠即身心歸附於他易照熟觀所作都無怖畏故前奏惡行具錄聞訖今猶著他服日赴新羅城公私往還都無所憚夫㖨國之滅匪由他也㖨國之函跛旱岐貳心加羅國而內應新羅加羅自外合戰由是滅焉若使函跛旱岐不爲內應㖨國雖少未必亡也至於卓淳亦復然之假使卓淳國主不爲內應新羅招冦豈至滅乎歷觀諸國敗亡之禍皆由內應貳心人者今麻都等腹心新羅遂着其服往還且夕陰搆姧心乃恐任那由茲永滅任那若滅臣國孤危思欲朝之豈復得耶伏願天皇玄鑒遠察速移本處以安任那冬十月百濟使人奈卒得文奈卒歌麻等罷歸十一月百濟遣使召日本府臣任那執事曰遺朝天皇奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非等還自日本今日本府臣及任那國執事宜來聽勅同議任那日本吉備臣新(安)羅下旱岐大不孫久取柔利加羅上首位古殿奚卒麻君斯二岐君散半奚君兒多羅二首位訖乾智子他岐旱久嵯旱岐仍赴百濟於是百濟王聖明略以詔書示曰吾遣奈卒彌麻佐奈卒巳連奈卒用竒多等朝於日本詔曰早建任那又津守連奉勅問成任那故遣召之當復何如能建任那請各陳謀吉備臣任那旱岐等曰夫建任那國唯在大王欲冀遵王倶奏聽勅聖明王謂之曰任那之國與吾百濟自古以來約爲子弟今日本府印岐祢既討新羅更將代(伐)我又樂聽新羅虛誕謾語也夫遣印支祢於任那者本非侵害其國往古來今新羅無導食言違信而滅卓淳股肱之國欲快返悔故遣召到倶承恩詔欲冀興繼任那之國猶如舊日永爲兄弟竊聞新羅安羅兩國之境有大江水要害之地也吾欲據此修繕六城謹請天皇三千兵士毎城充以五百幷我兵士勿使作田而逼惱者久禮山之五城庶自投兵降首卓淳之國亦復當興所請兵士吾給衣粮欲奏天皇其策一也猶於南韓置郡令城主者豈欲違背天皇遮斷貢調之路唯庶剋濟多難殲撲強敵凡厥凶黨誰不謀附北敵強大我國微弱若不置南韓郡領城主修理防護不可以禦此強敵亦不可以制新羅故猶置之攻逼新羅撫存任那若不爾者恐見滅亡不得朝?()欲奏天皇其策二也又吉備臣河內直移那斯麻都猶在任那國者天皇雖詔建成任那不可得也請移此四人各遣還其本邑奏於天皇其策三也宜與日本臣任那旱岐等倶奉遣使同奏天皇乞聽恩詔於是吉備臣旱岐等曰大王所述三策亦協愚情而巳今願歸以敬諮日本大臣安羅
王加羅王倶遣使同奏天皇此誠千載一會之期可不深思而熟計歟
【五年の春正月に、百済国が、使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。二人とも、「神を祭る時期になった。祭りが終わったら行く」と答えた。この月に、百済は、また使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。日本府と任那はどちらも庶務官を派遣しないで、身分の低い者を派遣した。これで、百済は、一緒に任那国を建てる相談が出来なかった。二月に、百済が、施徳の馬武と施徳の高分屋と施徳の斯那奴次酒達を派遣して、任那に使者として、日本府と任那の旱岐達とが「私は、紀の臣の奈率の弥麻沙と奈率の己の連と物部の連の奈率の用奇多を派遣して、天皇に拝謁した。弥麻沙達は、日本から還って、詔書で『お前たち、そちらにある日本府と一緒に、早くいい案を考えて、私が望むようにしなさい。自ら戒めて騙されてはいけない』と宣下した。また津守の連が、日本からやって来て、詔勅を宣下して、任那の政策を問いただした。それで、日本府と任那の庶務官と共に、任那の政策を相談して決め、天皇に奏上しようとして、召喚の使者を三回も派遣したが、それでも来なかった。これで、一緒に任那の政策を討議して考え、天皇に奏上することが出来なかった。今、津守の連にとどまってもらい、早駆けの特使を使って詳しい状況を天皇に奏上するよう派遣したい。それで、三月十日に、使者を日本に出発させた。この使者が、着いたら、天皇は、きっとお前に問いかけるだろう。お前は日本府卿と任那の旱岐達が、それぞれ使者を送って、私の使者と共に、天皇の元に行って宣下する詔勅を聞きなさい」と言った。特に河内の直が「昔から今までに、お前の悪事ばかり聞く。お前の先祖達は、みなよこしまな心で言いくるめた。それで、爲哥可の君はお前たちの言葉を真に受けて、国難を気にもかけなかった。私の思いに背き、勝手気ままにむごい仕打ちをして苦しめる。これで職が解かれたのはお前が原因だ。お前たちは、任那にやって来て留まり、いつも悪さをした。任那が、毎日仕事が邪魔されるのはお前が原因だ。お前はほんの少しと言っても、たとえばほんの小さな火で山野が焼けて、村邑に延焼するのと同じだ。お前の行いが悪いから、疑いもなく任那が失敗した。海の西の諸国の官家を、長く天皇の朝廷に仕えることがとうとう出来なくなってしまった。今、天皇に奏上しに派遣して、お前たちを本国に移し返そうとお願いした。お前たちも行って聞きなさい」と言った。また日本府卿と任那の旱岐達に「任那の国を建てることは、天皇の力を借りなければ、誰も建てられない。それで、私は、天皇のもとに行って、軍隊の派兵をお願いして、任那の国を助けようとおもう。兵糧は、私が運ぶ。軍人の数は、少しとは限らない。兵糧を運ぶ場所は、決めかねる。出来たら一ヶ所に居て、一緒に可否を相談して、最善策に従って、天皇に奏上しようとした。それで、何度も呼び出す使者を派遣したが、お前たちが来なければ相談できない」と言った。日本府が答えて「任那の庶務官を呼んでも来ないのは、私が派遣しなかったから訪問できなかった。私は、天皇に奏上するため派遣して、帰った使者が『私は印奇の臣を、新羅に派遣し、津守の連を、百済に派遣するべきだ。お前は、詔勅を聞くまで待ちなさい。新羅と百済に、わざわざ行くな』と宣下した。詔勅はこのように宣下された。たまたま、印奇の臣が新羅に行くことを聞いて、それで追いかけて天皇が宣下したことを問いただした。『日本の臣と任那の庶務官とが、新羅に行って、天皇の勅を聞きなさい』と詔勅した。百済に行って命令を聞けと宣下されなかった。後で津守の連が、やっとここを通り過ぎようとして、『私が、百済に派遣されて、今、下韓に居るのは、百済の郡令と城主を出仕させるというからだ』といった。ただこの言葉だけを聞いた。任那と日本府とが、百済に集まって、天皇の詔勅を聞くようには聞いていない。だから、来なかったのは、任那の本意ではない」と言った。そこで、任那の旱岐等は「使者が来て呼び出すので、都合が良いので参上しようとしたが、日本府卿が派遣させなかったので来なかった。大王は、任那を建てる為に、情に訴えはっきりと指示し、この様子を見てとてもよろこんではいますが、詳しく申し述べれません」と言った。三月に、百済が奈率の阿亡得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達を派遣して、上表文で、「奈率の彌麻沙と奈率の己の連達は、私の蕃に来て、詔書で、『お前たち、そこに居る日本府と一緒に、同じ思いで最善の計画を出して、早く任那を建てろ。お前はそれを自分で決めたことと思って、人の言葉に惑わされてはいけない』と奏上した。また津守の連達は、私が蕃に来て勅書を奉上して、任那を建てることを問いかけた。つつしんで勅をきいて、時間をかけようとしないで、詔勅の実現の為に考えようと使者を派遣して日本府と任那とを招集した。どちらも『もう新年になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。どちらも、『祭の時期になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。それなのに、身分の低い物を派遣した為、一緒に相談できなかった。この任那が、呼んでも来ないのは、本意ではない。これは阿賢移那斯と佐魯麻都が、こびへつらって騙したからだ。この任那は、安羅を兄として、ただその考えだけに従う。安羅人は、日本府を天神と考え、ただその考えだけに従う。唯其の意にのみ從ふ。今、的の臣と吉備の臣・河内の直達は、ことごとく、移那斯と麻都の指図に従うだけだ。移那斯と麻都は、多少身分が低い家系だが、日本府の政治をかって気ままにしている。また任那を抑えて、使者の邪魔をする。このため、同じように、天皇に答えることが出来なかった。それで、己麻奴跪を留めて、別に飛ぶ鳥のような早駆けの使者を派遣して、天皇に奏上した。仮に二人が、安羅にいて、なんどもこびへつらって騙したなら、任那を建てれなく、海の西の諸国は、きっと仕えてくれない。土下座してお願いします。この二人を本国に帰国させてほしい。勅書で日本府と任那とを説得して、任那の再建を図ってください。それで、私は、奈率の彌麻沙と奈率の己の連達を派遣して、己麻奴跪に従わせて、上表文で聞いた。そこで、『的の臣達が、新羅に行ったのは、私の本意ではない。以前、印支祢と阿鹵旱岐がいる時に、新羅に迫られて、耕して種を播けなかった。百済は、遠くて、急に救えなかった。的の臣達が新羅に行くことで、耕して種を播くことが出来たのは、私の曽祖父が言っていたことだ。もし任那を建てたら、移那斯と麻都は、自ずと退くだろう。言うまでもない』と詔勅した。土下座してこの詔勅をきいて、嬉しいやら畏まるやら、二つの気持ちが湧いてきた。それで新羅が、朝廷を騙したのは、天勅ではなかったことを知った。新羅は、春に㖨淳を奪い取る。それで私の久禮山の郡を退けて、占領した。安羅に近い所で、安羅が耕し種を播いている。久禮山に近き所を、斯羅が耕し種を播く。夫々自分で耕してお互いに侵略して略奪しなかった。しかし、移那斯と麻都は、他国の境界を越えて耕し、六月になると逃げ去った。印支弥が後から来て、許勢の臣の時に、新羅は、やはり他国の境界を侵略しなかった。安羅は、新羅に攻められて耕して種を播くことが出来ないと言わなかった。私は、かつて、新羅が、春と秋いつも、たくさん兵を集めて、安羅と荷山とを襲おうと思っていると聞き、あるいは加羅を襲うべきだと聞いたちょうどこの時期に、それは、兵士を派遣して、任那を助けて守れと言われと手紙を貰って、くつろぐ暇がなく、精鋭の兵を何度も派兵して、時期に合わせて救いに行った。これで、任那は、順を追って耕し種を播いた。新羅は、敢えて侵略しなかった。それで百済が、遠いので、急いで救うことが出来ないので、的の臣達が、新羅と行き来するから、耕して種を播けると奏上するのは、もっぱら天朝にこびへつらって欺いたことということです。このように、よく知っていても、天朝を欺く。それ以外でも、うそいつわりがきっと多く有る。的の臣達が、それでも安羅に住むなら、任那の国は、恐らく再建できない。早く退却させてほしい。私が、一番恐れているのは、佐魯麻都が、韓の生まれと言っても、位は大連である。日本の庶務官の中に混じって、どんどん偉くなって分け前で栄えた一人だ。それで今、反逆して新羅の奈麻禮の冠をつけている。すなわち、身も心も他国に付き従ているのが解りやすい。慣れた行いを見ていると、恐れ怯えることが全くない。それで、以前に、聞いた汚い行いを詳しく記して奏上した。今もなお、他国の服を着て、いつも新羅の城に赴いて、公私関係なく行き来しても、全くためらわない。その㖨の国が滅んだのはそれ以外の理由ではない。㖨の国の函跛旱岐が、加羅の国を裏切って、新羅と打ち合わせて、加羅が、内と外の敵と一緒に戦った。このために滅びた。もし函跛旱岐が、裏切らなかったら、㖨の国が小国とはいえ、必ずしも滅びなかったかもしれない。卓淳もまた同じだ。仮に卓淳の国の主が、敵の新羅と共謀して引き入れなければ、どうして滅びることになろうか。諸国の敗れて滅びるという災難を見てみると、皆、敵と共謀して裏切る者がいたからだ。今、麻都達は、新羅に心底信頼して、とうとうその服を着て、朝出かけて夜に帰って、密かによこしまな計画を立てている。それで、恐れているのは、任那がこれで永遠に滅んでしまうことです。任那がもし滅んだら、私の国が孤立して危ない。朝廷に仕えようと思っても、どうしたらずっと仕えることが出来ましょうか。土下座してお願いするのは、天皇が、先のことを見通して思いやり、裏切り者を速やかに本国に引き戻して、任那を安心させてください」と言った。冬十月に、百済の使者の奈率の得文と奈率の奇麻達が帰った。十一月に、百済は、使者を派遣して、日本府の臣と任那の庶務官を呼び出して、「天皇に派遣した、奈率の得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達が、日本から帰った。今、日本府の臣と任那の国の庶務官が、やって来て詔勅を聞いて、みなで任那をなんとかしろ」と言った。日本の吉備の臣と安羅の下の旱岐の大不孫と久取柔利と加羅の上の首位の古殿奚と卒麻の君と斯二岐の君と散半奚の君の子と、多羅の二首位の訖乾智と、子他の旱岐と、久嗟の旱岐が、一緒に百済へ赴いた。それで、百済の王の聖明は、「私は、奈率の彌麻佐と奈率の己の連と奈率の用奇多達を派遣して、日本に朝貢した。『早く任那を建てよ』と詔勅があった。また、津守の連が、詔勅を受けて、任那を再建したかと問われた。それで、招集のため派遣した。いつどうやって、任那を建てられるか、どうか皆考えを述べなさい」と詔勅の中身の概略を示して言った。吉備の臣と任那の旱岐達が「任那の国を建てられるのは、ただ大王だけだ。おねがいです、王に従って一緒に奏上して詔勅を実行しましょう」と言った。聖明王は「任那の国と私の百済と、昔から、子だ弟だと約束した。今、日本府の印岐祢が、もう新羅を討って、私も征伐しようとしている。また、喜んで新羅のでたらめやごまかしの言葉を聞く。その印岐祢を任那に派遣したのは、本来その国を侵略して危害を与えようとしてのことではない。昔から今に至るまで、新羅は、導かないでうそをつき信頼を損なって、卓淳を滅ぼした。頼みとする国が、気持ちよく助けようとしても、くやしい気持ちが返ってくる。それで、召集の使者を派遣して、一緒に情け深い詔勅を聞いて、出来たら、任那の国を再興して引き継ぎ、一層昔の様に、ずっと兄弟でいたい。ひそかに聞いたところ、新羅と安羅の、両国の国境に、大きな河が有る。地形がけわしく守りに有利な土地だ。私は、これを拠点に、六城を元のように取り返そうと思う。つつしんで天皇の三千の兵士を要請して、城毎に五百人を充て、あわせて私の兵士で、田を作らせないよう、煩わせるようにすれば、久禮の山の五城の人は、自づからに武器を放り出して頭を下げてくるだろう。貞淳の国も、再興できる。願い出る兵士には、私の、軍服と兵糧を与えよう。天皇に奏上しようと思う、これが策の一つだ。やはり南の韓に、郡令と城主を置くことは、決して天皇の約束に背き、調を貢ぐ路を遮ろうとしない。ただ、民衆も、多くの困難が有っても、助けて、強敵をたいらげて皆ごろしにして打ち勝つだけだ。ほとんどのその悪者の仲間が、誰につくか考えさせてはいけない。北の敵は強く大きな国だが、私の国は小国で弱い。もし南の韓に、郡領と城主を置いて、再建して守らなければ、この強敵を防げない。まただから新羅も抑えられない。それでやはり置いて、新羅を攻撃して、任那をそのままにしておこう。もしそうでなければ、おそらく滅亡して、朝貢出来ない。天皇に奏上しようとする、その策の二つ目だ。また吉備の臣と河内の直の移那斯と麻都が、相変わらず任那国に居るのなら、天皇は、任那の再建をしろと詔勅しても、できない。できるなら、この四人を免職して、夫々の本邑に返してほしい。天皇に奏上する、その策の三つ目だ。日本の臣と任那の旱岐達とが、一緒に使者を派遣して、同じく天皇に奏上して、情け深い詔勅を聞かせてほしいと言った。そこで、吉備の臣と旱岐達は、「大王の述べた三つの策は、やはり、私の気持ちにかないます。今、出来たら、帰ってつつしんで日本の大臣と安羅の王と加羅の王に言って、一緒に使者を派遣して同じように天皇に奏上しよう。これは本当に千回運んだ中の一回の機会かどうかの約束で、よく考えて、よく計画を練りましょう」と言った。】とある。

2020年5月25日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 5

 『日本書紀』慶長版は
四年夏四月百濟紀臣奈卒弥麻沙等罷之秋九月百濟聖明王遣前部奈卒真牟貴文護德巳州已婁與物部施德麻奇牟等來獻扶南財物與二口冬十月丁亥朔甲午遣津守連詔百濟曰在任那之下韓百濟郡令城主宜附日本府幷持詔書宣曰爾屢搆表稱當建任那十餘年矣表奏如此尚未成之且夫任那者爲爾國之棟梁如折棟梁誰成屋宇朕念在茲爾湏早早建汝若早建任那河內直等(河內直已見上文)自當止退豈足云乎是日聖明王聞宣勅巳歷問三佐平內頭及諸臣曰詔勅如是當復何如三佐平等荅曰在下韓之我郡令城主不可出之建國之事宜早聽聖勅十二月百濟聖明王復以前詔普示群臣曰天皇詔勅如是當復何如上佐平沙宅已婁中佐平木?()麻那下佐平木尹貴德卒鼻利莫古德卒東城道天德卒木?()昧淳德卒國雖多奈卒燕比善那等同議曰臣等禀性愚闇都無智略詔建任那早湏奉勅今宜召任那執事國國旱岐等倶謀同計抗表述志又河內直移那斯麻都等猶住安羅任那恐難建之故亦幷表乞移本處也聖明王曰群臣所議甚稱寡人之心是月乃遣施德髙分召任那執事與日本府執事倶荅言過正且而往聽焉
【四年の夏四月に、百済の紀の臣の奈卒の彌麻沙達が退いた。秋九月に、百済の聖明王が、前部の奈卒の眞牟貴文と護徳の己州己婁と物部の施徳の麻奇牟達とを派遣して、やって来て扶南の財物と下僕二人とを献上した。冬十一月の朔が丁亥の甲午の日に、津守の連を派遣して、百済に「任那の下韓に居る、百済の郡令と城主は日本府に従いなさい」と詔勅した。それに合わせて詔書を持たせて、「お前に度々上表文で、任那を建よと言ってから、十余年になった。表で言ってもこのようにまだ建っていない。またその任那は、お前の国の屋台骨だ。もし屋台骨が折れたら、誰も家を完成できない。私が考えているのもここにある。早く建てなさい。お前がもし早く任那を建てたなら、河内の直達は、自分で止めて帰国するのは言うまでもない」と宣下した。この日に、聖明王は宣勅を聞いて、三人の佐平の内頭および諸臣に「詔勅はこのようだ。さあ、どうしよう」と夫々に問いただした。三人の左平達は「下韓に居る、私の郡令と城主は出せないが、国を建てる件は、すみやかに尊い詔勅に従います」と答えた。十二月に、百済の聖明王は、また以前の詔勅を、多くの群臣に示して、「天皇の詔勅は、この通りだ。さあどうしたものか」と言った。上の佐平の沙宅己婁と中の佐平の木刕麻那と下の左平の木尹貴と徳卒の鼻利莫古と徳卒の東城道天と徳卒の木刕昧淳と徳卒の國雖多と奈卒の燕比善那達はみな考えて、「私達は、うまれながらに愚かで知恵が足ず、まったく、知恵をはたらかない。任那を建てろと詔勅された。すみやかに詔勅に従わなければなりません。さっそく、任那の庶務官や国々の旱岐達を召集して、一緒に考え意見をまとめて、上表文に対して考えを述べましょう。また河内の直の移那斯と麻都達が、ずっと安羅に居ると、任那は、おそらく、建てることが出来ない。それで、また、意見をまとめて上表して、本国に戻すよう求めてください」と言った。聖明王は、「群臣の考えたことは、本当に私の考えと同じだ」と言った。この月に、それで施徳の高分を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。二人とも「元旦を過ごしたら行って聞こう」と答えた。】とあり、十月丁亥朔は標準陰暦と合致する。
任那日本府記事は、氏姓だけ記述して人名が無かったり、伊賀臣を印奇臣と書くように、物部・蘇我王朝の人物とは考えられず、王朝内の人物なら宣化以前と同じ記述方法が出来る。
朝鮮の玄関口の筑紫の那津は「阿蘇仍君加運河內國茨田郡屯倉・・・修造官家那津之口」と各氏族が那津に屯倉を作って食糧を集めて、運んだ責任者は阿蘇仍君のように蘇我大臣稻目宿祢・物部大連麁鹿火と異なる政治勢力の王が運んで、しかも、河内国から阿蘇仍君が運び、任那では河内直が日本府卿を断罪しているが、直は国造の氏姓である。
そして、朝鮮経営は「大伴金村大連遣其子磐與狹手彥以助任那是時磐留筑紫執其國政以備三韓狹手彥往鎮任那加救百濟」と大伴氏が530年まで経営し、物部連奈率用歌多は物部至至の子に思われる。
そして、『日本書紀』と異なる氏名は『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」から伺え、「武寧王」と同型の遺物が副葬された事典曹人无利弖が日本府の執事で磐井を助けたのではないだろうか。 
武寧王」と同型の遺物が副葬されるということは、形式上、武寧王」と「无利弖」が同等の立場で、肥後の地域では銀錯銘なのだから、肥後の王が剣を副葬していたら金錯銘で「武寧王」が肥後の王の配下の可能性があり、「阿蘇仍君」が筑紫君の後継者の可能性が高いが、武烈天皇七年の法師君是倭君之先也」の倭王も可能性が考えられ、「前進調使麻那者非百濟國主之骨族也故謹遣斯我奉事」と百済王との姻戚の斯我を派遣しその子法師君が倭君と世代も、百済の王家との近親関係、雄略紀には「蘇我韓子宿禰」と韓の地の王のような名と、地理的にも倭君の領地が九州の可能性が高く、名も「斯我」と「蘇我」に近く、馬子が『隋書』の倭王との仮説を補完している。

2020年5月22日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 4

  今回は百済聖明王の記述で長文の為、本文と解釈分を後に付け足し、検証を先に記述したい。
聖名王が日本の事を父だ兄だと述べているが、百済は『後漢書』に「馬韓割東界地與之」と新羅に土地を分割して建国させているが、元々三韓は「其諸國王先皆是馬韓種人焉・・・馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と日本の天神天君を祀り、天君は天(あま)王で、同じ馬韓人の新羅は辰韓と呼び、「有似秦語故或名之為秦韓」と地域名が辰韓なのに秦語と書き換え、もし、秦朝語なら中国語で記述がおかしく、本来は辰語で、この秦は大秦国の秦だ。
三韓は天君・天神を戴く国々であったのだから、アカホヤ噴火の頃に韓地と九州は同じ型式の土器を使い、九州は「三身国」と呼ばれていて、「三身」の綱で大国は建国出来、『山海經』は大国を「大人国」と呼び、大人国は朝鮮半島にも「大人之市」を建設し、大国は畿内に天降って「神国」と呼ばれ三韓の地を影響下にある国として経営し、神国は天神ではなく大神を祀っているので、天神を祀る天君が父で、大神を祀る物部王朝は兄になる。
そして、衛満が馬韓・辰韓しか記述しないのでおそらくこの2国を征服して建国し、建武20年西暦44年に馬韓が衛満を破ったが、『後漢書』に「朝鮮王准為衛滿・・・馬韓破之自立為韓王准後滅絕馬韓人復自立為辰王」と馬韓王朝が滅び、辰王を戴くことで平定されたようだ。
『三国志』では「桓靈之末韓濊強盛・・・二郡遂滅韓」と韓が滅ぼされ、『晉書』まで名目上は中国の支配下と考えているようだが、『三国志』に「馬韓國邑各立一人主祭天神名之天君」と天君を戴き、『晉書』でも「辰韓常用馬韓人作主」と辰韓は馬韓を王と戴いて、弁辰は『三国志』に「弁辰亦十二國其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と卑弥呼の時代でも辰国が存在し、『日本書紀』には朝鮮人が神功紀に「吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇必其國之神兵也」と時代背景もピッタリだ。
『三国史記』は卑弥呼を王朝2代前に誤入若しくは建国時期が間違いかだが(百済の建国は44年以降の可能性が大だが新羅は紀元前27年に王子が来日)、各国の史書が関連付いていて、弁辰が聖明王の言葉と符合するように、日本が支配するだけで、百済に自治をさせていたと6世紀に至るまで合致している。
なお、中国が百済国を認めたのは『晉書』372年の「咸安元年二年春正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物」からで、中国はそれまで三韓の地は中国に臣従しない日本の領土と考えていたようである。
しきりに、聖明王は「速古王貴首王之世」と述べているが、これは、『三国史記』の372年近肖古王二十七年の「春正月遣使入晉朝貢」の貢献で南朝に認知されて、倭と対等な地位を得たことで、南部朝鮮の主導権を得ることが出来たが、畿内日本に対しては臣従しているようだ。

『日本書紀』慶長版は
夏四月安羅次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利加羅上首位古殿奚卒麻旱岐散半奚旱岐兒多羅下旱岐夷他斯二岐旱岐兒子他旱岐等與任那日本府吉備臣往赴百濟倶聽詔書百濟聖明王謂任那旱岐等言日本天皇所詔者全以復建任那今用何策起建任那盍各盡忠奉展聖懷任那旱岐等對曰前再三𢌞與新羅議而無荅報所圖之旨更告新羅尚無報今宜倶遣使往奏天皇夫建任那者爰在大王之意祗承教旨誰敢間言然任那境接新羅恐致卓淳等禍聖明王曰昔我先祖速古王貴首王之世安羅加羅卓淳旱岐等初遣使相通厚結親好以爲子弟冀可恒隆而今被誑新羅使天皇忿怒而任那憤恨寡人之過也我深懲悔而遣下郡中佐平麻鹵城方甲肖昧奴等赴加羅會于任那日本府相盟以後繋念相續圖建任那旦夕無忘今天皇詔稱速建任那由是欲共爾曹謨計樹立任那國宜善圖之又於任那境徵召新羅問聽與不乃倶遣使奏聞天皇恭承示教儻如使人未還之際新羅候隙侵逼任那我當往救不足爲憂然善守備謹警無忘別汝所導恐致卓淳等禍非新羅自強故所能爲也其㖨巳荅居加羅與新羅境際而被連年攻敗任那無能救援由是見亡其南加羅蕞爾狹小不能卒備不知所託由是見亡其卓淳上下携貳主欲自附內應新羅由是見亡因斯而觀三國之敗良有以也昔新羅請援於髙麗而攻擊任那與百濟尚不剋之新羅安獨滅任那乎今寡人與汝戮力幷心翳頼天皇任那必起因贈物各有差忻忻而還秋七月百濟聞安羅日本府與新羅通計遣前部奈率鼻利莫古奈率宣文中部奈率木?()昩淳紀臣奈卒彌麻沙等使于安羅召到新羅任那執事謨建任那別以安羅日本府河內直通計新羅深責駟之乃謂任那曰昔我先祖速古王貴首王與故旱岐等始約和親式爲兄弟於是我以汝爲子弟汝以我爲父兄共事天皇倶距強敵安國全家至于今日言念先祖與舊旱岐和親之詞有如皎日自茲以降勤修隣好遂敦與國恩踰骨肉善始有終寡人之所恒願未審何縁輕用浮辭數歲之間慨然失志古人云追悔無及此之謂也上達雲際下及泉中誓神乎今改咎乎昔一無隱匿發露所爲請誠通靈深自克責亦所宜取蓋聞爲人後者貴能負荷先軌克昌堂構以成勳業也故今追崇先世和親之好敬順天皇詔勅之詞拔取新羅所折之國南加羅㖨巳荅等還属本貫遷實任那求作文()兄恒朝日本此寡人之所食不甘味寢不安席悔往戒今之所勞想也夫新羅甘言希誑天下之所知也汝等妄信既墮人權方今任那境接新羅宜常設備豈能施柝爰恐陷罹誣欺網穽喪國亡家爲人繋虜寡人念茲勞想而不能自安矣竊聞任那與新羅運策席際現蜂蛇怪亦衆所知且夫妖祥所以戒行灾異所以悟人當是明天告戒先靈之徵表者也禍至追悔滅後思興孰云及矣今汝遵余聽天皇勅可立任那何患不成若欲長存本土永御舊民其謨在茲可不愼也聖明王更謂任那日本府曰天皇詔稱任那若滅汝則無資任那若興汝則有援今冝興建任那使如舊日以爲汝助撫養黎民謹承詔勅悚懼填胸誓效丹誠冀隆任那永事天皇猶如往日先慮未然然後康樂今日本府復能依詔救助任那是爲天皇所必褒讚汝身所當賞禄又日本卿等久住任那之國近接新羅之境新羅情狀亦是所知毒害任那謨防日本其來尚矣匪唯今年而不敢動者近羞百濟遠恐天皇誘事朝庭偽和任那如斯感激任那日本府者以未禽任那之間偽示伏從之狀願今?()其間隙諾其不備一舉兵而取之天皇詔勅勸立南加羅㖨己荅非但數十年而新羅一不聽命亦卿所知旦夫信敬天皇爲立任那豈若是乎恐卿等輙信甘言輕被謾語滅任那國奉辱天皇卿其戒之勿爲他欺秋七月百濟遣紀臣奈卒彌麻沙中部奈卒巳連來奏下韓任那之政幷上表之
【夏四月に、安羅の次旱岐の夷呑奚と大不孫と久取柔利、加羅の上首位の古殿奚と、卒麻の旱岐と、散半奚の旱岐の子、多羅の下の旱岐の夷他と、斯二岐の旱岐の子の子他の旱岐達が、
任那の日本府の吉備の臣に連れられて百済に行って、吉備の臣が宣下する詔勅を一緒に聞いた。百済の聖明王は、任那の旱岐達に「日本の天皇の詔勅のすべては、任那を再建するよう言っているが、今となってどういう方法で任那を再建すればよいのか。どうか夫々忠義を尽くして、天皇の気持ちを満足させてほしい」と言った。任那の旱岐達が「以前に再三、新羅と考えた。しかし答えがなかった。話し合う内容をもう一度新羅に告げても、同じように答えが無かった。今は、一緒に使者を派遣して、天皇に奏上するべきだ。すなわち任那の再建が、百済大王の考えだから、敬って教えられたことを聞いた。それなのに誰が敢えてその間に立って言えましょう。しかし、任那の境界は新羅と接しています。おそらく、卓淳達が禍をまねき寄せるでしょう」と答えた。聖明王は、「昔、私の先祖の速古王(近肖古王)や貴首王(仇首王)の時代に、安羅と加羅と卓淳の旱岐達が、はじめて使者を派遣して互いに行き来して、手厚く友好関係を約束した。それで子弟の世代となっても、いつも栄えることが出来るように願った。それで今、新羅に欺かれて、天皇をひどく怒らせて、任那が腹を立てて怨むのは、私自身の失敗だ。私は、とてもこりて後悔し、下部の中佐平の麻鹵と城方の甲背昧奴達を派遣して、加羅に行って、任那の日本府に集まって同盟した。それより後、何代も想いをかけて、任那の再建を考えて、朝から晩まで忘れたことが無かった。今、天皇の『速く任那を建てよ』との詔勅を聞いた。これで、お前たちと共に考えて、任那の国を樹立しようと思う。よく考えなさい。また任那の国境に、新羅を呼び出して、考えに従うかどうか聞こう。それで一緒に使者を派遣して、天皇に奏上して、つつしんで考えを示して答を聞こう。もし、使者が帰る前に新羅が隙を見て、任那を侵略しようと迫ってきたら、私は、きっと出かけて行って救う。心配しなくてもよい。しかし、いいな、警戒することは忘れるな。特にお前が卓淳達に禍が及ぶことを恐れるのは、新羅が、強いからできたのではない。あの㖨己呑は、加羅と新羅との境界に居て、何年も攻められて敗れた。任那は救援できなかった。このため亡ぶこととなった。あの南加羅は、とても小さくて狭く、急に備えることが出来ずに、頼りにする国を知らないで滅ぶことになった。あの卓淳は、上下が二つになり、主が自ら新羅に付こうと内通して、そのため滅びることとなった。これらの原因を見ても、三国が敗れたのには、こんな理由が有った。昔、新羅は、高麗に助けを求めて、任那と百済とを攻撃したけれどそれでも勝てなかった。新羅は、どうやって一国で任那を滅ぼせようか。今、私は、力をあわせ、心を一つに、天皇の頼みを支えれば、任那はきっと起こせる」と言った。それで、贈り物を渡したが夫々差をつけ、みな、大喜びで帰った。秋七月に、百済は、安羅の日本府が新羅と共謀したと聞いて、前部の奈率の鼻利莫古と奈率の宣文と中部の奈率の木刕昩淳と紀臣の奈率の彌麻沙達を安羅に派遣して、新羅にいた任那の庶務を執り行う者を呼んで、任那を建てようとした。特に安羅の日本府の河内の直が、計画を新羅に教えていたので、強く責め罵った。それで任那に「昔、私の先祖の速古王と貴首王とは、以前の旱岐達と、はじめて和親を約束して、兄弟となった。そこで、私はお前を子や弟と同じように思い、お前は私を父や兄と同じように思う。共に天皇に仕えて、一緒に強敵を拒んできた。国を安定させ家をまとめて、今に至っている。心の中で、先祖と昔の旱岐とが仲よくする言葉が有れば輝かしい日々のようだと思っていた。これ以降は、せいを出して良い隣人となって、夫々の国を貴ぶようになろう。情けは肉親を超越する。はじめ良いから、終りまでと、私はいつも願っている。そもそも、どういう理由で上辺だけの言葉を軽々しく真に受けて、何年もの間、嘆き憂えて信念を失ってしまったのだ。先人が、『後悔先に立たず』と言うのは、これを言うのだ。上は雲の際に達っし、下は泉の中に及ぶまで、神に今、誓って、昔の過ちを改めろ。ひとえに、隠し事をせず、言ったことを正直に言って、誠意をもって、よく、自分を克服して、実行してほしい。たしか聞いたのだが、人に従う者は、うまく、前を歩く足跡どおりに安全に荷物を背負って、力を尽くしてお家を栄えさせ、君主に尽くして成功させることを貴ぶ。それで、今、先祖の時の和親の約束を崇め従って、天皇の詔勅の言葉を敬って従い、新羅が勢力を押さえた国の南加羅と㖨己呑達を奪い取って、元の戸籍に返して所属させ、元の任那に遷して、父兄を戸籍に載せ、いつも日本を朝廷としよう。今は任那が無いので、私は食べても美味くもなく、寝ていても安らげない。昔を悔い今を戒めて、苦労している所だ。あの新羅は甘言を弄して欺こうとしている事はみんな知っている。お前たちは、むやみやたらに信じて、もう、人をだますような計画に陥っている。ただ今、任那の国境に、新羅が接している。いつも備えて、決して間違いなく拍子木を置いて警戒を緩めてはいけない。そうしないと、おそらく、有りもしないことに騙されて、網を張った穴の中に閉じ込められて、国を失い家が滅び、繋がれた奴隷になってしまう。私は、このように思って、安心できないでいる。『任那と新羅とが、策をめぐらしている席のすぐ側では、おかしなことに蜂や蛇が現れた。』とこっそり聞いた。またこれもみんなが知っている話だ。またそんな怪しい兆しは行いを戒めるためだ。災害は人に真意を知らせるためのものだ。本当にこれが、明日のために戒めているのであり、守護霊の徴だ。誰が禍に後悔し滅んだあとで再興しようと思っても、こうなってしまうことを誰が言えたのか。今、お前が私に従って、天皇の詔勅を聞いて、任那を立てるべきだ。どうして出来ないと悩むのだ。もし長く本土をながらえようと、昔からの人民をずっと治めようとするなら、その方策はこれしかない。つつしんで受けるべきだ」と言った。聖明王は、また任那の日本府に、「天皇が、『任那がもし滅んだなら、すなわち、お前は無一文だ。任那がもし再興出来たら、すなわち、お前に手をさしのべて助けてやる。今、任那を再興して、昔の様になったら、お前が人民をかわいがってやしなう私の補佐にしてやる』と詔勅した。謹んで詔勅を聞いて、恐れおののく気持ちが胸一杯になった。真心を持って努力して、できたら、任那を栄えさせたいと誓った。永く天皇のために生きてきたのは、相変わらず昔のとおりだ。まず、なにか起こる前に考えれば、その後は無事に楽しめる。今、日本府もまた、詔勅の様にうまく、任那を救って助ければ、それは、天皇に、きっと褒め讃えてもらえて、お前に恩賞が授けられるだろう。また、日本の宰相達は、永く任那の国、新羅に接するように国境の近くにに住みついたので、新羅の実情もまたよくわかる場所でもある。日本を防衛しようとする任那を傷つけ害って、ただ今年だけではなく、このような事になって久しい。それなのに敢えて動かないのは、身近では百済の恥となり、遠くは天皇に恐れ多い。朝廷に仕えると思わせて偽って任那と仲良くする。このように任那の日本府を感激させたのは、まだ任那を捕えるまで、従うように見せ掛けている為だ。できたら今、その隙を伺って、その十分に備えていないのに乗じて、軍隊を一挙に派兵してこれを取りましょう。天皇は、詔勅で、南加羅と㖨己呑を立てなさいと言ったのは、ほんの数十年のことでは無い。それなのに新羅は、一向に命令を聞かないのは、宰相のよく知っていることだ。しかもその詔勅は任那を立てる為、天皇を信じて、どうして敬おうとしないのか。おそらくは宰相達が簡単に甘言を真に受けて、軽々しく天皇を辱めようとする讒言を聞いて、任那の国を滅ぼしてしまう。宰相よそのようなことを警戒して、人に欺かれてはいけない」と言った。秋七月に、百済は、紀の臣の奈率の彌麻沙と中部の奈率の己連を派遣して来て、下韓と任那の政策と同時に上表文を奏上した。】とある。

2020年5月20日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 3

  『日本書紀』慶長版は
二年春三月納五妃元妃皇后弟曰稚綾姫皇女是生石上皇子次有皇后弟曰日影皇女是生倉皇子次蘇我大臣稻目宿祢女曰堅鹽媛生七男六女其一曰大兄皇子是爲橘豊日尊其二曰磐隈皇女初侍祀於伊勢大神後坐姧皇子茨城解其三曰臘鳥皇子其四曰豊御食炊屋姫尊其五曰椀子皇子其六曰大宅皇女其七曰石上部皇子其八曰山背皇子其九曰大伴皇女其十曰櫻井皇子其十一曰肩野皇女其十二曰橘本稚皇子其十三曰舍人皇女次堅鹽媛同母弟曰小姉君生四男一女其一曰茨城皇子其二曰葛城皇子其三曰泥部穴穗部皇女其四曰泥部穴穗部皇子其五曰泊瀬部皇子次春日日抓臣女曰糠子生春日山田皇女與橘麻呂皇子
【二年の春三月に、五人の妃を後宮に引き入れた。最初の妃は、皇后の妹の稚綾姫の皇女といい、この妃は石上の皇子を生んだ。次の妃は皇后の妹で日影の皇女という。この妃は倉の皇子を生んだ。次に蘇我の大臣稻目の宿禰の娘で堅鹽媛という。七人の男子と六人の女子を生んだ。第一子を大兄の皇子といい、橘の豐日の尊と呼んだ。第二子を磐隈の皇女という。はじめ伊勢大神に仕えて祀った。のちに皇子の茨城と共に道を外れたため任を解いた。第三子を臘嘴鳥の皇子という。第四子を豐御食炊屋姫の尊という。第五子を椀子の皇子という。第六子を大宅の皇女という。第七子を石上部の皇子という。第八子を山背の皇子という。第九子を大伴の皇女という。第十子を櫻井の皇子という。第十一子を肩野の皇女という。第十二子を橘の本の稚皇子という。第十三子を舍人の皇女という。次の妃は堅鹽媛の同母の妹の小姉の君という。四人の男子と一人の女子を生んだ。長女を茨城の皇子という。第二子を葛城の皇子という。第三子を泥部の穴穗部の皇女という。第四子を泥部の穴穗部の皇子という。第五子を泊瀬部の皇子という。次の妃に春日の日抓の臣の娘で糠子という。春日の山田の皇女と橘の麻呂の皇子を生んだ。】とある。
皇后は「武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后」と宣化天皇の娘とあるが、最初の妃の稚綾姫はたしかに宣化天皇の娘だが、次の日影皇女も宣化天皇の娘としているが注釈でも解らないと記述し、蘇我氏や物部氏の王以外の王を宣化天皇に当てている王がいることを表している。
その王を特定できないが、『古事記』では宣化天皇の子の小石媛でその子が上王と記述されるが、『日本書紀』では『古事記』に記述されない日影皇女の子が倉皇子で、『古事記』では春日の日抓の臣の娘で糠子の子だ。
宣化天皇の娘で欽明天皇の妃の稚綾姫が宣化紀に倉の稚綾姫と記述され稚綾姫と義兄弟の可能性が有り、宣化天皇は蘇我馬子の倭国の家系の可能性が高く、蘇我氏の役職名か義兄弟の名の譯語田渟中倉太珠敷尊も倉と呼ばれる宮で過ごしたと考えらる。
従って、仁賢天皇の娘の橘仲皇女が馬子の宮の妃となり、倭王馬子を襲名した倭王馬子の兄妹の石姫の子も襲名した倭王馬子(譯語田渟中倉太珠敷尊)、義父が秦王国王物部目天皇、先代の秦王国王の物部目天皇の娘が倭王馬子の宮に輿入れした日影皇女で生まれた子が倉皇子と想像される。
そして、馬子の父の稲目の襲名した長男の広国王の稲目の領地の豊国の領地に宮を置く堅鹽媛に婿入りした目天皇の皇子の子が橘豊日や豊御食炊屋姫で、その領地はかつて磐井に領有された石の宮の領地で、磐隈皇女や石上部皇子と名付けられたと考えられる。
『舊事本紀』に「孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と目天皇の姫が豊で生まれて、守屋大臣(皇太子)の子の妃となっていて、「孫物部馬古連公目大連之子」と目天皇の子に馬古がいて、馬子の子も豊浦大臣と呼ばれている。
この、目天皇、倭王馬子、広国・豊国王稲目の宮は570年稲目の薨去まで、 目天皇、倭王馬子は629年の舒明天皇即位までの系図関係で、基本的に『古事記』と同じで、推古天皇の時代に馬子が記述させた史書なのだから、雄略天皇から崇峻天皇までの系図には物部氏に配慮されているのは当然のことだ。

2020年5月18日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 2

  『日本書紀』慶長版は
元年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔曰立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后是生二男一女長曰箭田珠勝大兄皇子仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊少曰笠縫皇女二月百濟人己知部投化置倭國添上郡山村今山村巳知部之先也三月蝦夷隼人並率衆歸附秋七月丙子朔己丑遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮八月髙麗百濟新羅任那並遣使獻並脩貢職召集秦人漢人等諸蕃投化者安置國郡編貫戸籍秦人戸數愡七千五十三戸以大藏掾爲秦伴造九月乙亥朔己卯幸難波祝津宮大伴大連金村許勢臣稻持物部大連尾輿等從焉天皇問諸臣曰幾許軍卒伐得新羅物部大連尾輿等奏曰少許軍卒不可易征曩者男大迹天皇六年百濟遣使表請任那上哆唎下哆唎娑陀牟婁四縣大伴大連金村輙依表請許賜所求由是新羅怨曠積年不可輕爾而伐於是大伴金村居住吉宅稱疾不朝天皇遣青海夫勾子慰問慇懃大連怖謝曰臣所疾者非餘事也今諸臣等謂臣滅任那故恐怖不朝耳乃以鞍馬贈使厚相資敬青海夫人依實顯奏詔曰久竭忠誠莫恤衆口遂不爲罪優寵彌深是年也太歲庚申
元年の春正月の朔が庚戌の甲子の日に、役人が、皇后を立ててほしい願った。「正妃は武小廣國押盾の天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」と詔勅した。この皇后は二人の男子と一人の女子を生んだ。長男を箭田珠勝の大兄の皇子という。間の子を譯語田の渟中倉の太珠敷の尊という。一番下を笠縫の皇女という。二月に、百済の人の己知部が帰化した。倭国の添の上の郡の山村に置いた。今の山村の己知部の先祖だ。三月に、蝦夷と隼人が一緒に軍を率いて従った。秋七月の朔が丙子の己丑の日に、都を倭国の磯城の郡の磯城嶋に遷した。それで磯城嶋の金刺の宮と名付けた。八月に、高麗と百済と新羅と任那が、一緒に使者を派遣して税を献上し納めた。技能を持つ秦人と漢人等を呼び集めて、諸国の帰化した者を国や郡に大切に置き、戸籍に一纏めにした。秦人の戸数、七千五十三戸の人々がまとまらず、大藏の掾を、秦の伴の造とした。九月の朔が乙亥の己卯の日に、難波の祝の津の宮に行幸した。大伴の大連金村と許勢の臣稻持と物部の大連尾輿等を連れて行った。天皇が、緒臣に「いくらかの兵士で、新羅を伐ことが出来るか」と問いかけた。物部の大連尾輿が「少しぐらいの兵士では簡単には征伐できない。以前、男大迹の天皇の六年に、百済が、使者を派遣して、任那の上哆唎と下哆唎と娑陀と牟婁の、四縣を上表文で招いた。大伴の大連金村は、もっぱら上表文で招いて、求てくる領土を許可して与えた。それで、新羅が悲しみうらんで何年にもなる。軽々しく討ってはいけない」と奏上した。そこで、大伴の大連金村が、住吉の宅に居て、病気だと言って朝廷に参内しなかった。天皇は、青海の夫人勾子を派遣して、丁寧礼儀をもって見舞ってなぐさめた。大連は、「私が病気なのは、他事ではなく、今、諸臣達は、私が、任那を滅したという。だから、怖くて朝廷に参内しないだけだ」と畏まってわびた。それで、鞍を載せた馬を使者に贈らせて、手厚くそれに加えて尊んだ。青海の夫人は、実際のとおりにはっきりと奏上した。「永く忠誠を尽くした。大勢の人の言うことを憂いてはいけない」と詔勅した。そして罪に問わずに、余有るかわいがりはとてもこまやかだった。この年は太歳が庚申だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
諸藩を外国としているが、梁武帝の大同6年540年頃に中原で大騒乱があったわけでもなく、中国人はこの時期はまだ呉人で、漢人も秦人も同じ中国人で見分けがつかないし、この当時日本は『隋書』に「至竹斯國又東至秦王國其人同于華夏以爲夷洲疑不能明也」のように秦王国と呼ばれていて、この国の人々が秦人ではないのだろうか。
そして、秦王国の王が秦人と他人事のように記述するのは奇妙で、この記録は朝鮮人でも、隼人でも、蝦夷でも漢人(俀國人)でも、秦人でもない、倭国人(蘇我氏)の王が記述したと考えられ、山背國紀伊郡の秦大津父が大藏省を任され、その役人が秦伴造になったということは、山背國を蘇我氏が領有したということを示す。
さらに、『三国志』での一国の戸数のほとんどが五千戸未満で、 秦人の七千五十三戸は大きい一国の戸数とわかり、安閑2年に得た「紀國經湍屯倉河邊屯倉丹波國蘇斯岐屯倉近江國葦浦屯倉」の屯倉群を得たのも蘇我氏の可能性が高い。
そして、この大伴金村記事は531年の仁賢天皇とその太子の殺害後の武烈天皇が即位した後のことで、仁賢天皇の対朝鮮政策の責任者の大伴金村を許した説話で、この後記述されず、巨勢王朝の完全な滅亡の時、金村が殉じた可能性が高い。
これを踏まえて、6世紀前半を俯瞰すると、仁賢天皇の悪政で国が混乱し、517年に物部目が秦王国を建国し、仁賢天皇は531年に磐井を征討したが、秦王国と物部麁鹿火の反乱で天皇も皇太子も殺害され、皇位継承者が巨勢男人しかいなかったが、成人していないので、その後継者を探し、大伴金村が武烈天皇を、物部麁鹿火が蘇我稲目を見つけて来て、武烈天皇が即位し、蘇我稲目は広国や山代を、葛子が那珂川以西と筑後・火を、蘇我馬子が那珂川以東の倭国(現代の大分・宮崎・熊本南部を含む)を領有したが、539年武烈天皇も秦王国によって滅ぼされ、540年に物部目が名実ともに日本の天皇となったということだ。
本来、継体年号より前から仁賢天皇も武烈天皇も元号を発布していたが、王朝交代によって残らなかっただけで、『二中歴』にも継体年号より前に元号が有ったと記述していて、残った元号が秦王国・倭国・日本国の元号が残り、700年から王朝が分裂した為に大化・大長と大宝・慶雲・和銅が重複して存在し、正史である『日本書紀』は大化以前の年号をあえて記述せず、必要な所では利用した。
欽明元年が『舊事本紀』では「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申」と539年12月、「二年春正月庚戌朔」と540年1月、「七月丙子朔」と540年7月に記述されるが、『日本書紀』では欽明天皇元年が540年1月、そして明要元年は541年で「元年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔曰立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后」と皇后が決まった時が元年だということがわかり、書記の天皇の交代ではなく、皇后や太后の交代が重要で、白鳳年号が671年天智天皇が崩じても683年まで続いたことが証明している。

2020年5月15日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十九 欽明天皇 1

  『日本書紀』慶長版は
天國排開廣庭天皇男大迹天皇嫡子也母曰手白香皇后天皇愛之常置左右天皇幼時夢有人云天皇寵愛秦大津父者及壯大必有天下寐驚遣使普求得自山背國紀伊郡深草里姓字果如所夢於是忻喜遍身歎未曾夢乃告之曰汝有何事荅云無也但臣向伊勢商價來還山逢二狼相鬪汙血乃下馬洗漱口手祈請曰汝是貴神而樂麁行儻逢獵士見禽尤速乃抑止相鬪拭洗血毛遂遣放之倶令全命天皇曰必此報也乃令近侍優寵日新大致饒富及至踐祚拜大藏省四年冬十月武小廣國押盾天皇崩皇子天國排開廣庭天皇令群臣曰余幼年淺識未閑政事山田皇后明閑百揆請就
而决山田皇后怖謝曰妾蒙恩寵山海詎同萬機之難婦女安預今皇子者敬老慈少禮下賢者日中不食以待士加以幼而穎脱早擅嘉聲性是寛和務存矜宥請諸臣等早令臨登位先臨天下冬十二月庚辰朔甲申天國排開廣庭皇子即天皇位時年若干尊皇后曰皇太后大伴金村大連物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿祢大臣爲大臣並如故
【天國排開廣庭天皇は、男大迹天皇の嫡子だ。母を手白香皇后という。男大迹天皇は、天皇をかわいがって、いつも、かたわらに連れて歩いた。天皇が幼いころに、夢に人が出てきて、「天皇は、秦の大津父という者を寵愛すれば、成長した時に、きっと天下を手にする」と言った。夢を見て驚いて使者を派遣して広く隅々まで探して、山背国の紀の郡の深草の里で見つけた。氏も名も、夢で思い描いた通りだった。それで、 とてもよろこんで、体全体を使って見たことのない夢のようだと感心した。それで「お前にも、何かあったのか」と夢見を告げた。「何もありません。ただ、私が、伊勢に向って、値打ちのある物を商って帰って来た時に、山で互いに闘って血で汚れた二匹の狼に遭遇した。それで、馬から降りて口や手を洗い漱いで、『あなたは貴い神だが、荒々しい行いを喜ぶ。もし漁師に出会ったら、真っ先に生け捕られるだろう』と祈った。すると、戦いを止めたので、血の付いた毛を洗いい拭って、二匹とも逃がして命を救ってやった」と答えた。天皇は「きっとその報いだろう」といった。それでとても気に入って天皇の傍に仕えさせたら、日に日にとても豊かなになった。皇位を受け継いだ時に、大藏省の官位をさずけた。四年の冬十月に、武小廣國押盾天皇が崩じた。皇子の天國排開廣庭天皇は、群臣に、「私は、年が若くて見識が狭くて、まだ政事がおろそかとなってしまう。山田の皇后は、疑いのなくどんなことでも無駄がない。天皇に就くようお願いして決めなさい」と命令した。山田の皇后は、「私は、神のめぐみを身に受けたが、山と海は同じではありません。多くの重要な事柄の難しさを婦女子がどうして預かれましょう。今、皇子は、老人を敬い、幼い人を慈しみ、道理に通じた人には敬意が下される。昼日中は部下を待って食べないで、加えて、若いころから抜きんでていて、早くから人望を独り占めにして、性格もゆとりが有って穏やかで、務めて、悲しんでいる人をなだめている。お願いだから、諸臣達よ、早く皇子を即位させて天下に臨ませて欲しい」と畏まって断った。冬十二月の朔が庚辰の甲申の日に、天國排開廣庭の皇子が、天皇に即位した。この時に年齢は若干だった。皇后を尊んで皇太后といった。大伴の金村の大連と物部の尾輿の大連を大連とし、蘇我の稻目の宿禰の大臣を大臣としたのは共に以前と同じだ。】とあり、十二月庚辰は539年で標準陰暦と合致する。
ところが、同じ蘇我氏が記述させた『舊事本紀』では「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と『日本書紀』の欽明天皇元年が540年と違い、大伴大連が記述されない。
本来の元年は当然539年になるのだが、『日本書紀』は宮を天皇としているので遷都した540年が元年で、実際は、以前に記述した通り、やはり、襲名した継体天皇が相変わらず天皇である。
また、大伴大連が『舊事本紀』では記述されず、さらに、継体天皇・安閑天皇・宣化天皇にも「物部麁鹿火大連爲大連、蘇我稻目宿祢大臣爲大臣」を含めて記述されておらず、安閑天皇も宣化天皇も勾金橋宮と桧隈廬入野宮に遷都しただけでずっと継体帝だったことを意味し、継体天皇イコール欽明天皇を意味して、『舊事本紀』の欽明すなわち継体即位の説話で、武烈天皇が即位して尾輿を大連に、目を大臣にし、540年6月以前に武烈天皇を殺害して物部目が天皇に即位したのだろう。
物部麁鹿火も、継体天皇を発掘し、対磐井戦争の時に筑紫以西を取れと言われ、安閑天皇・宣化天皇に記述されているのだから、蘇我氏の王朝内の説話と考えられ、そうでないなら、『舊事本紀』から安閑天皇・宣化天皇での大連就任記事を削除する必要がない。
『舊事本紀』には「孫物部麁鹿大連公・・・此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」と系図部分には安閑天皇の大連とするが、天皇紀には継体天皇の時に継体天皇を推挙する大連とするだけで、系図部分は欽明天皇世代に配置され、最も矛盾を持つ人物で、実際は継体天皇イコール欽明天皇で、この中に物部目・蘇我稲目・蘇我馬子・葛子などの王の事績が割り振られているのである。
また、皇太后に襲名するのは安閑天皇の皇后の春日山田皇后ではなく仁賢天皇の春日皇后で、本来なら欽明天皇即位時の皇后と呼べるのは宣化天皇の皇后の橘仲媛しか有り得ない。
したがって、春日皇后に皇位継承を催促して、女だからと拒絶しているが、古代の天皇はこれまで記述した通り、前皇后を宮に迎え入れて皇太后に就任させることが皇位継承の必須で、迎え入れられない時は、皇后という天皇の宮という分王朝が併立することになる。
この皇后の説話は巨勢王朝の最高の皇位継承者の皇后を皇太后として迎え入れ、天皇というシステムが継承されたことを記述しているのである。

2020年5月13日水曜日

最終兵器の目 宣化天皇 2

 『日本書紀』慶長版は
夏五月辛丑朔詔曰食者天下之本也黃金萬貫不可療飢白玉千箱何能救冷夫筑紫國者遐邇之所朝届去來之所關門是以海表之國候海水以來賓望天雲而奉貢自胎中之帝洎于朕身收藏穀稼蓄積儲粮遙設凶年厚饗良客安國之方更無過此故朕遣阿蘇仍君加運河內國茨田郡屯倉之穀蘇我大臣稻目宿祢冝遣尾張連運尾張國屯倉之穀物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀修造官家那津之口又其筑紫肥豊三國屯倉散在懸隔運輸遙阻儻湏如要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永爲民命早下郡縣令知朕心秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歲丙辰二年冬十月壬辰朔天皇以新羅冦於任那詔
大伴金村大連遣其子磐與狹手彥以助任那是時磐留筑紫執其國政以備三韓狹手彥往鎮任那加救百濟四年春二月乙酉朔甲午天皇崩于檜隈廬入野宮時年七十三冬十一月庚戌朔丙寅葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵以皇后橘皇女及其孺子合葬于是陵
夏五月の辛丑の朔の日に、「食は天下の根本だ。黄金が萬貫有っても、飢を癒すことが出来ない。白い玉が千箱有っても、冷たくなってしまった男をどのように救うことが出来ようか。筑紫国は、遠近の者たちが朝廷に遣ってくる行き来の関所の門となるところである。それで、海の向こうの国は、海の状態をじっと伺って、客人が来て、雲の様子を見て奉献する。お腹の中にいた天皇から、私まで、収穫された穀物を蔵に納め、その余を農作物の出来が非常に悪い年に備えて長い間たくさんたくわえた。国を安らかで平穏にする方法はこれ以上のものは無い。それで、私は、阿蘇仍(?のの)君を派遣して、追加で、河内国の茨田の郡の屯倉の穀物を運ばせた。蘇我の大臣の稻目宿禰は、尾張の連を派遣して、尾張国の屯倉の穀物を運ばせなさい、物部の大連の麁鹿火は、新家の連を派遣して、新家の屯倉の穀物を運ばせなさい、阿倍臣は、伊賀臣を派遣して、伊賀の国の屯倉の穀物を運ばせ、官家を、那の津の入口に繕い直しなさい。またその筑紫と肥と豊の、三国の屯倉は、散らばってかけはなれて、物を運ぶのに遠いので妨げられてい望み求めることが急に有っても備えとはならない。また諸郡に割り当てて那津の入口に集めて官家を建てるのが良い。それで、思いがけない時に備えて、永く人民の為のものとするべきだ。早く郡縣に命令を下して、私の気持ちを知らしめなさい」と詔勅した。秋七月に、物部の麁鹿火の大連が薨じた。この年は太歳が丙辰だった。二年の冬十月の壬辰が朔の日に、天皇は、新羅の任那に侵略したので、大伴の金村の大連に詔勅して、その子の磐と狹手彦とを派遣して、任那を助けた。この時に、磐は、筑紫に留まって、その国の政策を執り行い、三韓に備えた。狹手彦は、任那に行って鎮圧し、それに加えて百済を救った。四年の春二月の朔が乙酉の甲午の日に、天皇は、桧隈の廬入野の宮で崩じた。この時の年齢は七十三歳だった。冬十一月の朔が庚戌の丙寅の日に、天皇を大倭国の身狹の桃花鳥坂の上の陵に葬った。皇后の橘の皇女とその子供を、この陵に合葬した。】とあり、二年十月壬辰は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
官家の那の津の食糧を畿内から運んでいるが、これは、那の津以外の九州の地が天皇の領地ではないことを表し、天皇の直轄領は阿蘇仍君に運ばせ、那の津の官家を運営し、何かあった時に磐などのように、適時任命された責任者が官家に滞在して、狹手彦が現地の責任者として戦う方法を採用したようだ。
そして、この磐も狹手彦も賜姓も役職名も記述されていないが、これも、物部氏や蘇我氏の配下でないためと考えられ、俀国の人物と考えた方が理に適い、畿内の人物ではまた失敗しそうなので、手慣れた俀国王に任せたと思われ、磐は倭武と同じように倭磐かも知れず、石姫皇女、小石姫皇女・倉稚綾姫・上殖歯皇子は葛子と兄弟の可能性がある。
東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻河上娘蘇我馬子宿禰女也」と直は縣主や国造の氏姓なのだから、磐井の乱で奪った、磐井が東漢直なのだから駒は糟屋の縣主で、糟屋の縣主が蘇我馬子の配下で義理の息子になった。
だから、俀国の分国の倭国の継体天皇が稲目でその子、倭国の宣化天皇である馬子の子が義子の上殖歯皇子すなわち東漢直駒ということも、磐が馬子若しくは磐井とも考えられ、馬子は推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と626年に死亡しており、磐井の死亡年も再検証が必要だ。
何度も述べるが、継体・安閑・宣化・・・の各天皇も首都である宮の歴史にすぎず、そこに、多数の王を当て嵌めたにすぎず、安閑・宣化・・・の各天皇名は蘇我氏の役職名で、内容は倭国王・俀国王・秦王国などの王の事績を記述していることを忘れてはならない。
巨勢王朝の崩壊によって、屯倉の穀物を運ばせた意味は、蘇我氏が尾張氏を配下に、物部麁鹿火が新家連を配下、阿倍臣が伊賀臣を配下にしたことを示し、ここには大伴氏が出現せず、代わりに大夫阿倍火麻呂臣が登場していることから、大伴氏は巨勢王朝の側の人物だった可能性が高い。
また、この天皇は陵墓造りに農繁期を含めて9ヶ月しかかかっていないので、竪穴式石棺で溜池用に造った盛り土の頂上に竪穴を掘って石棺をおさめ、やはり皇后も共に埋葬し皇后と天皇が一緒になっての天皇システムという体制をもった王朝の陵墓だと解る。
任那鎮圧記事は『三国史記』法興王十九年532年の「金官國主金仇亥與妃及三子長曰奴宗仲曰武德季曰武力以國帑寶物來降王禮待之授位上等以本國爲食邑子武力仕至角干」と 金官国が敗れたことを受けての戦いなのだろう。

)崇峻天皇までは馬子達が記述しているので、解説文も資料の直引きではないが、同じ王朝内の感想と考えるべきだろう。磐を馬子から見れば自分の親類なのだから氏姓等不要で、物部天皇から見れば蘇我氏、役職名は武小廣國押盾と考えられる。

2020年5月11日月曜日

最終兵器の目 宣化天皇 1

 『日本書紀慶長版
武小廣國押盾天皇男大迹天皇第二子也勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也二年十二月勾大兄廣國押武金日天皇崩無嗣群臣奏上剱鏡於武小廣國押盾尊使即天皇之位焉是天皇爲人器宇清通神襟朗邁不以才地矜人爲王君子所服元年春正月遷都于檜隈廬入野因爲宮號也二月壬申朔以大伴金村大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故又以蘇我稻目宿祢爲大臣阿倍大麻呂臣爲大夫三月壬寅朔有司請立皇后巳酉詔曰立前正妃億計天皇女橘仲皇女爲皇后
是生一男三女長曰石姫皇女次曰小石姫皇女次曰倉稚綾姫皇女次曰上殖葉皇子亦名椀子是丹比公偉那公凢二姓之先也前庶妃大河內稚子媛生一男是曰火焰皇子是椎田君之先也
武小廣國押盾天皇は、男大迹天皇の第二子で、勾大兄廣國押武金日天皇の同母弟だ。二年の十二月に、勾大兄廣國押武金日天皇が崩じたが継嗣が無かった。群臣が、剱と鏡を武小廣國押盾尊に奏上して、天皇に即位した。この天皇は、人と為りは、心のもちかたが広くて、筋が通っていてわかりやすく、心のうちは何のこだわりもなく時が過ぎた。君子才能や地位がある人ではなく、哀れな人のために王となることを身に着けるべきものだとした。元年の春正月に、都を桧隈の廬入野に遷し、宮と呼んだ。二月の壬申が朔の日に、大伴の金村の大連を大連、物部の麁鹿火の大連を大連とすることは、共に以前と同じだ。また蘇我の稻目の宿禰を大臣とした。阿倍の大麻呂の臣を大夫とした。三月の壬寅が朔の日に、役人が、皇后を立てようと願った。己酉の日に、「以前の正妃すなわち億計天皇の娘の橘仲皇女を立てて皇后としよう」と詔勅した。皇后は一人の男子と三人の女子を生んだ。長女を石姫の皇女といい、次を小石姫の皇女といい、次を倉の稚綾姫の皇女といい、次を上殖葉の皇子といい、またの名は椀子だ。この皇子は丹比の公と偉那公全てで二姓の先祖だ。以前の側室の下の妃の大河内の稚子媛が、一人の男子を生んだ。この子を火焔の皇子といい、この皇子は椎田の君の先祖だ。】とあり、三月壬寅は3月2日で2月は小の月のため、大の月なら標準陰暦と合致し、二月壬申朔も合致する。
『舊事本紀』には「二年春正月都遷檜前謂廬入宮三月壬寅朔」と元年が535年安閑二年で実際の物部氏の天皇と異なる人物が天皇で、この天皇も安閑天皇が12月に崩じたにもかかわらず、1月が元年だが、やはり、遷都が1月で、宮が変わった時に天皇が変わる例になっていて、実際は536年に宮が変わったから天皇が変わったのである。
天皇の一人の生き死には関係が無く、武小廣國押盾を桧隈廬入野天皇に割り当てたにすぎず、王朝の交代に記述される璽すなわち玉と書付が含まれず、武小廣國押盾は天皇より下位の大王の徴ということが解る。
この天皇の皇子に上殖葉皇子がいるが、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖」と「獲□□□鹵大王」がこの皇子ではないかと考えた。
なぜなら、「鹵」は「ル」の可能性が低いと『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』でのべたように、学者が「ル」と読ませたくて『日本書紀』では「ロ」と読ませているにもかかわらず「鹵」を当てただけで、朝鮮語の「Lo」が「鹵」で日本語にこの発音が無く、実際は「齒」なのではないかと考えたのである。
江田船山古墳で523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾と同型飾が出土したが、当然、江田船山古墳被葬者が武寧王より先に同型飾を使用して副葬されることは考えにくく、武寧王が倭王に送り、それが下賜されたと考える方が合理的だ。
副葬の朝鮮由来物の時代が離れているため、追葬との説が発表されているが、私は、倭武とともに朝鮮に出兵した時の取得物と、530年代に俀国王とともに出兵した時の戦利品が副葬されたため、副葬品の年代が離れていると考えた。
530年頃に上殖葉が天皇ではなく火国の大王となって朝鮮に出兵し、事典曹の「无利弖」に下賜し、死後副葬されたと考えるべきで、同古墳の出土須恵器も日本の須恵器ではなく朝鮮の全羅南道に出土例が多く有り、副葬品との関連が理解できる。
江田船山古墳はかなり副葬が豪華で、かなりの高位の近習のようで、その主君の「獲□□□鹵大王」すなわち「「獲□□□鹵」君が上殖葉なら、斉明天皇七年「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と朝倉に廣庭があり、江田船山の近傍で、蘇我氏の役職名と考えられる天國排開廣庭の名前も関連し、上殖葉は偉那鏡王の祖としているが、『大村骨臓器銘文』に「大村檜前五百野宮御宇天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」と年齢が合わず、当然上殖葉は襲名され大王なのだから大臣の可能性が高く、稲目も威奈目とも考えられる。