2020年2月28日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇15

 『日本書紀』慶長版は
十五年秦民分散臣連等各隨欲駈使勿委秦造由是秦造酒甚以爲憂而仕於天皇天皇愛寵之詔聚秦民賜於秦酒公公仍領率百八十種勝奉獻庸調御調也絹縑充積朝庭因賜姓曰禹豆麻佐十六年秋七月詔宜桑國縣殖桑又散遷秦民使獻庸調十七年春三月丁丑朔戊寅詔土師連等使進
應盛朝夕御膳清器者於是土師連祖吾笥仍進攝津國來狹狹村山背國內村俯見村伊勢國藤形村及丹波但馬因幡私民部名曰贄土師部冬十月詔聚漢部定其伴造者賜姓曰直十八年秋八月己亥朔戊申遣物部菟代宿祢物部目連以伐伊勢朝日郎朝日郎聞官軍至即逆戰於伊賀青墓自矜能射謂官軍曰朝日郎手誰人可中也其所發箭穿二重甲官軍皆懼菟代宿祢不敢進擊相持二日一夜於是物部目連自執大刀使筑紫聞物部大斧手執楯叱於軍中倶進朝日郎乃遙見而射穿大斧手楯二重甲幷入身肉一寸大斧手以楯翳物部目連目連即獲朝日郎斬之由是菟代宿祢羞
愧不克七日不服命天皇問侍臣曰菟代宿祢何不服命爰有讚岐田?()別進而奏曰菟代宿祢怯也二日一夜之間不能擒執朝日郎而物部目連率筑紫聞物部大斧手獲斬朝日郎矣天皇聞之怒輙奪菟代宿祢所有猪名部賜物部目連
十五年に、秦の民を臣連達に分けて、それぞれの求めるまゝに使い、秦の造に委ねなかった。
それで、秦の造の酒は、とても心配しながら、天皇に仕え、天皇は、特別に可愛がった。詔勅して秦の民を集めて、秦の酒公に与えた。公は、それで百八十種の勝を引き連れて、固く絞った絹を奉納物にして奉献し、朝庭にいっぱい積んだ。それで姓を貰って禹豆麻佐と言った。十六年の秋七月に、桑に都合の良い國縣に桑を殖えさせた。又秦の民を散ら遷し作らせて産物を上納させた。冬十月に、「漢部を集めて、その代表者を決めろ」と詔勅した。姓を与えて直いう。十七年の春三月の朔が丁丑の戊寅の日に、土師連達に「朝夕の御膳を盛るけがれの無い器を献上しなさい」と詔勅した。そこで、土師連の祖の吾笥が、摂津国の来狹狹村と、山背の国の内村、俯見の村と、伊勢の国の藤形の村、および丹波・但馬・因播の配下の民達を献上した。贄土師部と名付けた。十八年の秋八年の朔が己亥の戊申の日に、物部の菟代の宿禰・物部の目の連を派遣して、伊勢の朝日郎を伐たせた。朝日郎は、官軍がやってくると聞いて、それで伊賀の青墓で防戦した。自ら上手く弓を射るとほこり、官軍に「朝日郎の腕に、誰があてられるか」と言った。その放つ矢は、二重の鎧を打ちぬく。官軍は、みな、怖じ気づいた。菟代の宿禰は、あえて進軍しないで撃ち合わなかった。相対峙して二日一夜が経った。そこに、物部の目の連が、自分で大刀を手に取り、筑紫の聞の物部の大斧手に、楯を手にして軍中に叫びながら、一緒に進軍した。朝日郎は、遠くから見て、大斧手の楯と二重の鎧を打ちぬいた。そして、3cm位の手傷を負った。大斧手は、楯で物部の目の連を翳して隠した。目の連は、それで朝日郎を獲えて殺した。これで、菟代の宿禰は、自分が勝てなかったことを恥じて、七日間、命に服しなかった。天皇は、侍臣に「菟代の宿禰は、どうして命に服しない」と問いかけた。そこで讚岐の田蟲の別という人がそこに居て、進み出て「菟代の宿禰は、二日一夜の間怯えて、朝日郎を捕虜に出来なかった。それなのに物部の目の連が、筑紫の聞の物部の大斧手を引き連れて、朝日郎を獲えて殺した」と奏上した。天皇は、それを聞いて怒った。それで菟代の宿禰の所有する猪使部を取り上げて、物部の目の連に与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。
漢直は神功皇后に「是時俘人等今桑原佐糜高宮忍海凡四邑漢人等之始祖」と新羅の捕虜や漢の工人や呉の工人の集団のように感じるが、新羅人をなぜ漢人と呼ぶのか理由が解らない。
それに対して、応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、履中天皇「時平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直祖阿知使主三人啓於太子」と漢直の祖は十七縣を統治する王で、十七縣の漢人を十七縣の王が居るのに勝手に帰属させることなどできない。
すなわち、新羅の捕虜が阿知使主が支配する人たちの配下であり、新羅と戦って捕虜になった人々で、新羅と戦ったのは倭国、従って、阿知使主が倭王ということだ。
倭国は漢の倭奴国王を叙されて、漢の配下の王だったので、倭にいる漢の配下の王で倭漢王、雄略17年に正式に畿内政権の配下になり、倭国は編入され()漢直だ。

2020年2月26日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇14

 『日本書紀』慶長版
十四年春正月丙寅朔戊寅身狹村主青等共吴國使將吴所獻手末才伎漢織吴織及衣縫兄媛弟媛等泊於住吉津是月爲吴客道通磯齒津路名吴坂三月命臣連迎吴使即安置吴人於檜隈野因名吴原以衣縫兄媛奉大三輪神以弟媛爲漢衣縫部也漢織吴織衣縫是飛鳥衣縫部伊勢衣縫之先也夏四月甲午朔天皇欲設吴人歷問群臣曰其共食者誰好乎群臣僉曰根使主可天皇即命根使主爲共食者遂於石上髙拔原饗吴人時密遣舍人視察裝錺舍人復命曰根使主所著玉縵大貴最好又衆人云前迎使時又亦著之於是天皇欲自見命臣連裝如饗之時引見殿前皇后仰天歔欷
啼泣傷哀天皇問曰泣耶皇后避床而對曰此玉縵者昔妾兄大草香皇子奉穴穗天皇勅進妾於陛下時爲妾所獻之物也故致疑於根使主不覺涕垂哀泣矣天皇聞驚大怒深責根使主對言死罪死罪實臣之愆詔根使主自今以後子子孫孫八十聯綿莫預群臣之例乃將斬之根使主逃匿至於日根造稻城而待戰遂爲官軍見殺天皇命有司二分子孫一分爲大草香部民以封皇后一分賜茅渟縣主爲負嚢者即求難波吉士日香香子孫賜姓爲大草香部吉士其日香香等語在穴穗天皇紀事平之後小根使主夜臥謂人曰天皇城不堅我父城堅天皇傳聞是語使人見根使主宅實如其言故收殺之根使主之後爲坂本臣自是始焉
十四年の春正月の朔が丙寅の戊寅の日に、身狹村主の青達を、呉国の使者と共に、呉が献上した手工芸者の、漢織・呉織および衣を縫う兄媛と弟媛達を連れて、住吉の津に停泊した。この月に、呉の客が通る道を造って、磯歯津の路につなげ、呉坂と名付けた。三月に、臣連に命じて呉の使者を迎え、それで呉の人を桧隈の野に留め、それで呉原と名付けた。衣を縫う兄媛を、大三輪神に奉納した。弟媛を漢衣の縫部とした。漢織と呉織の縫製工は、飛鳥衣の縫部で伊勢の衣縫の先祖だ。夏四月の甲午が朔の日に、天皇は、呉の人と宴席を設けようと、群臣に一人一人に「供物をそなえ、それを共に食べる者は誰が好いか」と聞いて回った。家臣が、ことごとく、「根の使主ならできる」と言った。天皇は、それで根の使主に命じて、供物をそなえ、それを共に食べる者とし、それで石上の高拔の原で、呉の人を饗応した。その時に密かに雑役夫を派遣して、装いを観させた。雑役夫は、服命して「根の使主が蔓のように巻いたヒスイは、はなはだ気品があって見た中でいちばん好い。また周りの人が、『以前に使者を迎えた時にも、着けていた』と言った」と言う。そこで、天皇は、自分でも見てみようとして、臣連に命じて、饗宴で装う時のように装い、殿の前へ引き出した。皇后は、上を仰ぎ観て咽び泣いて、さらに、声をあげて泣き悲しんだ。天皇は、「どうしてそんなに泣くのか」と聞いた。皇后は、床から顔を上げて、「この蔦のように巻きついたヒスイは、昔、私の兄の大草香の皇子が、穴穗の天皇の詔勅を受けて、私を陛下に進呈した時に、私の為に献上した物だ。どうしてと、根使主を疑い、知らず知らずに涙が流れ落ちて泣いたのです」と答えた。天皇は、聞いて驚きとても怒った。心の奥底から根の使主を責めた。根の使主は、「死罪です、死罪です。本当に私の罪です」と答えた。「根の使主は、これ以降、子子孫孫、八十代の果てまで連綿と、群臣の例に入れないぞ」と詔勅して、まさに斬ろうとした。それで根の使主は、逃げ隠れて、日根に着いて、稲城を造って待ち伏せて戦った。とうとう官軍に殺された。天皇は、 役人に命じて、二つに子孫を分けて、一方を大草香部の民として、皇后に封じた。もう一方をば茅渟の縣主に与え、袋担ぎの人足にした。それで難波の吉士の日香香の子孫を探して、姓を与えて大草香部の吉士とした。その日香香達の話は、穴穗天皇紀に在る。事が終わってから、小根の使主は、夜寝ころんで人に「天皇の城は堅固でない。私の父の城は堅固だ」と語った。天皇は、人伝にこの話を聞いて、人を派遣して根の使主の宅を見させた。本当にその言葉通りだった。それで、とらえて殺した。根の使主の後裔が坂本臣となったのはここから始まる。】とあり、四月甲午朔は3月30日で3月が小の月なら合致し、正月朔日は標準陰暦と合致している。
ここで、根使主の滅亡が記述してあるのに後裔が坂本臣と何か腑に落ちない記述がなされているが、坂本臣は『古事記』に「木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)」と解説文ではあるが 木角宿祢者の後裔と記述されている。
『古事記』「天津日子根命者(・・・山代國造・・・等之祖也)」、「天菩比命之子建比良邊命(此出雲國造・・・等之祖也)」、『日本書紀』「天津彦根命(是凡川内直山代直等祖也)」、「天穂日命(是出雲臣土師連等祖也)」とあるように、山代直と 山代國造、出雲國造と出雲臣は氏姓と役職の違いで同じことで、木臣は木国造の可能性が高く、根使主は木国造の可能性が高い。
『古事記』の允恭天皇に「定賜天下之八十友緒氏姓」と大量に賜姓し、『日本書紀』では允恭天皇までに延べ128個の氏姓の祖が出現しているが、『古事記』は延べ197個の氏姓の祖が出現し、文字数の断然少ない『古事記』に約70回の祖を多く記述して、雄略天皇の時記述した後、仁賢天皇の時までにそれだけの新たな氏姓を配下にしたことを意味している。
その象徴が建内宿禰の家系の氏姓で、『日本書紀』では「紀直遠祖菟道彦」、「甘美内宿禰・・・仍賜紀伊直等之祖」、「曰木菟宿禰是平群臣之始祖也」だが、『古事記』は「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢(此者山代内臣之祖也)又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」、「波多八代宿祢者(波多臣林臣波美臣星川臣淡海臣長谷部之君之祖也)次許勢小柄宿祢者(許勢臣雀部臣軽部臣之祖也)次蘇賀石河宿祢者(蘇我臣川邊臣田中臣高向臣小治田臣桜井臣岸田臣等之祖也)次平群都久宿祢者(平群臣佐和良臣馬御樴連等祖也)次木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)次久米能摩伊刀比賣次怒能伊呂比賣次葛城長江曽都毗古者(玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也)又若子宿祢(江野財臣之祖)」と雲泥の差の詳細記述である。
すなわち、雄略天皇の時にはまだ紀直や紀伊直、平群臣、坂本臣の氏姓しか無いか、有っても認めていないということで、平群王朝を倒す時にこれらの氏族が協力したことが考えられ、雄略天皇以降、祖の記述無しに記載され、根使主は実際は雄略天皇の後ろ盾だったことが解る。
だから、結果を見れば、雄略天皇の策略で根使主に命じて大草香を排除したが、皇后の手前、根使主は誅殺されたが、子孫は残され、城が天皇の城より立派だったのである。

2020年2月24日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇13

 『日本書紀』慶長版は
十三年春三月狹穗彥玄孫齒田根命竊姧采女山邊小嶋子天皇聞以齒田根命收付於物部目大連而使責讓齒田根命以馬八匹大刀八口秡除罪過既而歌曰耶麼能謎能故思麼古喩衞爾比登涅羅賦宇麼能耶都擬播鳴思稽矩謀那欺目大連聞而奏之天皇使齒田根命資財露置於餌香市邊橘本之土遂以餌香長野邑賜物部目大連秋八月播磨國御井隈人文石小麻呂有力強心肆行暴虐路中抄劫不使通行又斷商客艖䑧悉以奪取兼違國法不輸租賦於是天皇遣春日小野臣大樹領敢死士一百並持火炬圍宅而焼時自火炙中白狗暴出逐大樹臣其大如馬大樹臣神色不變
拔刀斬之即化爲文石小麻呂秋九月木工猪那部真根以石爲質揮斧斲材終日斲之不誤傷刃天皇遊詣其所而恠問曰恒不?()中石耶真根荅曰竟不?()矣乃喚集采女使脱衣裙而著犢鼻露所相撲於是真根暫停仰視而斲不覺手?()傷刃天皇因嘖讓曰何處奴不畏朕用不貞心妄輙荅仍付物部使刑於野爰有同伴巧者歎惜真根而作歌曰婀拕羅斯枳偉儺謎能陀倶弥柯該志湏弥儺皤旨我那稽摩?()例柯柯該武預婀?()羅湏弥儺皤天皇聞是歌反生悔惜喟然頽歎曰幾失人哉乃以赦使乗於甲斐黒駒馳詣刑所止而赦之用解徽纒復作歌曰農播?()磨能柯彼能矩盧古磨矩羅枳制播伊能致志儺磨志柯彼能倶盧古磨
【十三年の春三月に、狹穗彦の玄孫の歯田根の命が、隠れて女官の山邊の小嶋子を凌辱した。
天皇が、それを聞いて、歯田根の命を、物部の目の大連に任せて、責めて問い詰めた。歯田根の命は、馬を八匹と大刀を八口で、罪過を許し免れた。それで歌った()。目の大連が、それを聞いて奏上した。天皇は、歯田根の命を、持っている財宝を隠さず見させ、餌香の市邊の橘の昔からの領地に置かせた。それで餌香の長野の邑を、物部の目の大連に与えた。秋八月に、播磨の国の御井隈の人で文石の小磨呂が、力持ちで強情だ。勝手気ままに乱暴なむごい仕打ちをして人を苦しめる。道の途中でかすめて奪い取り、通行をさせない。また商人の筏や小舟を遮って、残らず奪い取る。あわせて国の法を違えて、租税を治め入れない。そこで、天皇は、春日の小野の臣の大樹を派遣して、決死隊百人を率いて、松明を並んで持ち、邸宅を囲んで焼いた。その時、火炎の中から、白い犬が、暴れ出て、大樹の臣を追いかけた。その大きさは、馬の様だ。大樹の臣は、顔色を変えないで、刀を拔いて斬った。それは文石の小麻呂の化身だった。秋九月に、大工の韋那部の眞根が、石でできた、斧を振り回して材木を削った。一日中削っても、誤って刃先を傷つけなかった。天皇は、そこにやって来て、奇妙に思って「いつも石で失敗なく削れるのか」と問いかけた。眞根は、「最後まで失敗しない」と答えた。それで女官を呼び集めて、肌着を脱いで、褌姿で、目の前で相撲を取らせた。そこで、眞根は、すこしの間作業を止めて、仰ぎ視てから削った。思わず手技を誤って刃を傷つけた。天皇は、それで「何処のどいつだ。私を畏れないで、投げやりな心で、でたらめで軽率に答えた」と叱責した。それで物部に預けて、野原で処罰した。そこに連れの技術者がいて、眞根を歎き惜んで、作歌した()。天皇は、この歌を聞いて、後悔して考え直して、ため息をついて座り込み、「どれだけの人を失ったか」と言った。それで赦免の使者が、甲斐の黒馬に乗って、駆けつけて刑所に着いて、処刑を止めて赦免した。それで徴の纏いを解いた。また作歌した()。】とある。
 狹穗彦は垂仁天皇が殺害した正統な尾張朝廷の皇子で、その4世代後の人物が400年以上隔てて出現しているが、何度も書いている通り、狹穗彦の宮が4世代移った、すなわち、宮は1世代100年程度長男襲名があり、5世代程度の分家襲名が行われていることを示している。
雄略紀に現れた物部目大連は『日本書紀』には記述されないが『舊事本紀』に欽明天皇に「物部目連公為大臣」と大臣になっていて、この、『日本書紀』で消された大臣が欽明・敏達・用明・崇峻天皇の宮の主だ。
この時に得た狹穗彦の領地の餌香の長野の邑は「物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅」と守屋の配下の萬が河内で死んだ、その地域である。
すなわち、目が尾張朝廷の地を得るということは、その姫も手に入れ、2つの朝廷の血筋を得ることになり、目の宮の最後の皇太子が守屋だったのであり、その宮の始まりが雄略天皇の時代だった。
『日本書紀』では目大連は雄略天皇にのみ出現するが、『舊事本紀』では「此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連」、「此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」、「此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」、と清寧・継体・欽明の大連を襲名し、『日本書紀』で消された目大連が皇祖の祖廟を奉齋した天皇として記述されていたと思われる。

2020年2月21日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇12

 『日本書紀』慶長版は
十年秋九月乙酉朔戊子身狹村主青將吴所獻二鵝到於筑紫是鵝爲水間君犬所囓死由是水間君恐怖憂愁不能自默獻鴻十?(俟・隻)與養鳥人請以贖罪天皇許焉冬十月乙卯朔辛酉以水間君所獻養鳥人等安置於輕村磐余村二所十一年夏五月辛亥朔近江國栗太郡言白鸕鷀居于谷上濱因詔置川瀬舍人秋七月有從百濟國逃化來者自稱名曰貴信又稱貴信吴國人也磐余吳琴彈壃手屋形麻呂等是其後也冬十月鳥官之禽爲菟田人狗所囓死天皇瞋黥面而爲鳥養部於是信濃國直丁與武藏國直丁侍宿相謂曰嗟乎我國積鳥之髙同於小墓旦暮而食尚有其餘今天皇由一鳥之故而黥人面太無道理惡行之主也天皇聞而使聚積之直丁等不能忽備仍詔爲鳥養部
十二年夏四月丙子朔己卯身狹村主青與檜隈民使博德出使于吴冬十月癸酉朔壬午天皇命木工鬪鶏御田始起樓閣於是御田登樓疾走四方有若飛行時有伊勢采女仰觀樓上恠彼疾行顚仆於庭覆所擎饌天皇便疑御田姧其采女自念將刑而付物部時秦酒公侍坐欲以琴聲使悟於天皇横琴彈曰柯武柯噬能伊制能伊制能奴能娑柯曳鳴伊裒甫流柯枳底志我都矩屢麻泥爾飫裒枳瀰爾柯?()倶都柯陪麻都羅武騰倭我伊能致謀那我倶母鵝騰伊比志?()倶弥皤夜阿?(拕羅陀倶弥皤夜於是天皇悟琴聲而赦其罪
【十年の秋九月の朔が乙酉の戊子の日に、身狹村主の青達は、呉が献上したつがいのシナガチョウを持って、筑紫に着いた。このシナガチョウが、水間の君の犬に噛み殺された。それで、水間の君は、恐れ憂いて、一人で黙っていることが出来ず、おおとり十つがいと鳥を養う人とを献上して、罪を贖うことを願った。天皇は、許した。冬十月の朔が乙卯の辛酉の日に、水間の君が献上した鳥を養う人達を、輕の村と磐余の村の二ヶ所に置いた。十一年の夏五月の辛亥が朔の日に、近江の国の栗太の郡が「白い鵜が、谷上の濱にいる」と言った。それで詔勅で川瀬の護衛を置いた。秋七月に、百済の国から逃げて来た者がいた。自ら貴信と名乗った。また、貴信は呉の国の人と名のったという。磐余の呉風の琴彈の壃手の屋形麻呂達は、その後裔だ。冬十月に、鳥の官の鶏が、菟田の人の犬に噛み殺された。天皇は怒って、顔に入れ墨をして鳥養部にした。そこで、信濃の国の雑役夫と武藏の国の雑役夫とが、寝所近くで警護していた。お互いに「ああ、わが国に群がる鳥は、小さい墓と同じくらいまで群がる。明日の夜まで食べても、まだ余ってしまう。今回、天皇は、一羽の鳥のために、人の顔に入れ墨をした。はなはだしく道理をわきまえていない。人の道に外れた悪い行いの主だ」と語り合った。天皇はそれを聞いて、雑役夫を集めた。雑役夫達は、すぐに護衛をする必要が無いと、詔勅して鳥養部にしてしまった。十二年の夏四月の朔が丙子の己卯の日に、身狹の村主の青と桧の隈の民使の博徳とを、呉に派遣した。冬十月の朔が癸酉の壬午の日に、天皇は、木工技術者の鬪鷄の御田に命令して、はじめて樓閣を造った。そこで、御田が、やぐらに登ると、四面に疾走し、飛んで行くような気がした。その時に伊勢の采女がいて、やぐら上を仰ぎ観て、その素早く行くのを怪しんで、庭に転んで倒れ、手に持った食べ物をこぼしてしまった。天皇は、すぐに天皇の田に、入って盗もうとしていると疑って、処刑しようと思って、物部に付託した。その時、秦の酒の公が、近くに待機していた。琴の音で、天皇に気づかせようと思った。琴を横にして彈いて()。天皇は、琴で弾き語りする声で気が付いて、その罪を赦した。】とあり、標準陰暦と合致する。
これまで、歌に関しては主観が入りすぎるため略してきたが、ここで少々触れようと思う。
琴彈曰『柯武柯噬能伊制能・・・』」と「神風の伊勢の」を分析してみよう。
『日本書紀』垂仁天皇二五年に「倭姫命爰倭姫命求鎮坐大神之處而詣菟田筱幡更還之入近江國東廻美濃到伊勢國時天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也」と記述され、垂仁天皇の項で伊勢に近い菟田から近江・美濃の遠回りは奇妙で名張や伊賀を通ったほうが近い。
近江の伊勢神宮、そして皇大神宮の分布から福知山・敦賀にも、美濃の安八郡にも皇大神宮が有り、日本海が出発点と述べたが、『日本書紀』の安康天皇までを雄略天皇が記述したことをふまえると、菟田は宇迦の可能性が高く、それで、筱幡「ささはた」を調べてもそれらしい地名が見つからなかったが、「ささはた(佐々畑)さん」という苗字が島根県に偏在すると「なまえさあち」に記載されていた。
宇迦は「なか国」の首都で、常世の国は橘を求めて常世の国から持ち込んだが、在来の橘は古くから自生しており、異なる種に高麗橘が萩市に自生しており、原産地は済州島で、常世の国は済州島の可能性が高い。
そして、萩市は常世の波が幾重もやってくる場所だから、萩市にある、すなわち、傍國が萩市で、その隣が可怜國で「なか国」、その都が太柱が立つ宇迦の地で、大国主の子の事代主が大和の地を支配していたが、その国が「東鯷国(神国)」だった。
そして、「六合」は黄海から日本海をつなぐ「天」がつく島々のある地域、神が生まれる地域で、そこから宇迦の土地に風が吹き、神風と言われたのであり、宇迦にあった伊勢神宮が分朝廷のある近江に移り、尾張氏も美濃に伊勢神宮を遷し、雄略天皇が三重県の伊勢に遷したと考えた方が合理的である。
神武天皇が「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能」と歌ったのは道臣が活躍した戦いで、その配下に久米の兵がいて、その後裔の大伴氏は足仲彦に賜姓され、やはり「なか国」の豪族である。
そして、その足仲彦の父の倭武が伊勢を出発しているが、文脈からみると、近江の伊勢と思われ、その倭武は倭姫から草薙劒を渡されており、倭姫説話は足仲彦説話の1世代前の話だったことになり、足仲彦の子が390年くらいに即位した応神天皇で、伊勢神宮はその時代まで近江に存在した。
そして、神功皇后が「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神」と足仲彦の皇后で敦賀を宮(皇大神宮?)にしていた姫が伊勢を述べているのであるから、やはり、近江の可能性が高く、「與稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠」と「若国」を支配する姫が伊勢神宮に仕え、稚足彦は「近江國居志賀」と近江の支配者だった。
すなわち、伊勢神宮を三重の伊勢に遷したのは二代目雄略天皇の娘の栲幡娘姫皇女がその最初だったのだろう。

2020年2月19日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇11

 『日本書紀』慶長版は
夏五月紀大磐宿祢聞父既薨乃向新羅執小鹿火宿祢所掌兵馬舩官及諸小官專用威命於是小鹿火宿祢深怨乎大磐宿祢乃詐告於韓子宿祢曰大磐宿祢謂僕曰我當復執韓子宿祢所掌之官不久也願固守之由是韓子宿祢與大磐宿祢有隙於是百濟王聞日本諸將縁小事有隙乃使人於韓子宿祢等曰欲觀國堺請垂降臨是以韓子宿祢等並轡而往及至於河大磐宿祢飲馬於河是時韓子宿祢從後而射大磐宿祢鞍瓦後橋大磐宿祢愕然反視射墮韓子宿祢於中流而死是三臣由前相競行亂於道不及百濟王宮而却還矣於是采女大海從小弓宿祢喪到來日本遂憂諮於大伴室屋大連曰妾不知葬所願占良地大連即爲奏之天皇勅大連曰大將軍紀小弓宿祢龍驤虎視旁?(眺)八維掩討逆節折衝四海然則身勞萬里命墜三韓冝致哀?()?()視葬者又汝大伴卿與紀卿等同國近隣之人由來尚矣於是大連奉勅使土師連小鳥作冢墓於田身輪邑而葬之也由是大海欣悅不能自默以韓奴室兄麿弟麿御倉小倉針六口送大連吉備上道蚊嶋田邑家人部是也別小鹿火宿祢從紀小弓宿祢喪來時獨留角國使倭子連奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰僕不堪共紀卿奉事天朝故請留住角國是以大連爲奏於天皇使留居于角國是角臣等初居角國而名角臣自此始也秋七月壬辰朔河內國言飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者古市郡人書首加龍之妻也伯孫聞女産兒往賀聟家而月夜還於蓬蔂丘譽田陵下逢騎赤駿者其馬時濩略而龍翥欻聳擢而鴻驚異體峯生殊相逸發伯孫就視而心欲之乃鞭所乗驄馬齊頭並轡爾乃赤駿超攄絁於埃塵驅驅騖迅於滅沒於是驄馬後而怠足不可復追其乗駿者知伯孫所欲仍停換馬相辭取別伯孫得駿甚歡驟而入廐解鞍秣馬眠之其明旦赤駿變爲土馬伯孫心異之還覔譽田陵乃見驄馬在於土馬之間取而代而置所換土馬
【夏五月に、紀の大磐の宿禰は、父が既に薨じたと聞いて、新羅に向って、小鹿火の宿禰の兵馬と船官および諸々の家来を使って、大磐だけのために従わせた。そこで、小鹿火の宿禰は、根深く大磐の宿禰を怨んだ。それで詐して韓子の宿禰に「大磐の宿禰は、私に『私は、絶対に韓子の宿禰の配下の役人を使うことは無い』といった。できたら、堅固に守りなさい」と言った。それで、韓子の宿禰と大磐の宿禰に仲たがいが出来た。百済の王が、日本の諸將が、小さな事で仲違いしたと聞いた。それで人を韓子の宿禰達のもとに派遣して、「国の境界を見せたい。馬に乗ってきて降りてみてください」と言った。そこで、韓子の宿禰達は、轡を並べて赴いた。河に着いて、大磐の宿禰が、馬で河に行き水を飲んだ。この時に、韓子の宿禰は、後から大磐の宿禰の騎坐の後橋を射た。大磐の宿禰は、おどろいて振り返って、韓子の宿禰を射おとし、中流で死んだ。この三人の臣は、昔から競い合っていて、違う道を行進して、百済王の宮に行かないで帰った。そこで、采女の大海は、小弓の宿禰の喪に従って、日本に帰ってきた。それで大伴の室屋の大連に憂いて「私は、葬むる所を知らない。できたらよい所を占ってください」と頼んだ。大連は、すなわち大海の為に奏上した。天皇は、大連に「大將軍の紀の小弓の宿禰は、龍のように速く走り虎ように眼光鋭く、八方を纏めて眺める。時流に逆らう者を襲い討って、四つの海を股にかける。それで萬里の地に身を置いて力を尽くしてはたらき、三韓の地に命を堕とした。かなしんであわれみ、葬礼を担当する者をあてがおう。また大伴卿よ、紀卿達と、同じ国で近隣の者なのだから、繋がりが長い」と詔勅した。それで、大連は、詔勅を受けて、土師の連の小鳥が、冢墓を田身輪の邑に作り、葬った。これで、大海は、よろこんで、默っていることが出来ず、韓の奴の室と兄麻呂と弟麻呂と御倉と小倉と針の、六人を大連に送った。吉備の上道の蚊嶋田の邑の家人部が、これだ。別に小鹿火の宿禰が、紀の小弓の宿禰の喪のために帰ってきた。その時に一人で角國に留まった。倭子の連に八咫鏡をもたせて大伴の大連に奉上して、祈って「私は、紀の卿と一緒に天朝に奉職することに堪えられない。それでお願いします。角國に留り住わせ手ほしい」と願った。それで、大連は、その為に天皇に奏上して、角國に留り住まわせた。この角臣達は、最初、角國に居た。この時から角臣と名付けられた。秋七月の壬辰が朔の日に、河内の国が、「飛鳥戸の郡の人で田邊の史の伯孫の娘が、古市の郡の人で書の首の加龍の妻だ。伯孫の娘が、兒を産んだと聞いて、婿の家へ喜びの祝いに行って、月夜に帰った。蓬蔂の丘の誉田の陵の麓に、赤い駿馬に騎上する者に逢った。その馬は、時に雨だれのように軽やかに走り、龍のように勢いよく飛び、にわかに高く抜きんでて、おおとりのように驚かす。奇妙な体は刀のようで、特にすぐれた顔は世に知られていなかったがいまやっとわかった。伯孫は、近づいてみて、心から欲しいと思った。それで乗った葦毛の馬に鞭打って、頭を揃えて轡を並べた。それで、赤い駿馬は、拡げた太絹を飛び越えて塵を巻き上げて走りに走り、素早く駆け回り、見えなくなった。そして、葦毛の馬は遅れ、力のない走りで追いつけなかった。その駿馬に乗った者は、伯孫の願いを知って、停まって馬を取り換えて、挨拶を交わして別れた。伯孫は、駿馬を得て甚だ歓んで、走らせて廐に入った。鞍を降ろして馬にわらを引いて眠た。翌朝、赤い駿馬は、土馬に変わっていた。伯孫は、心から奇妙に思い、譽田の陵に戻って馬を探したが、葦毛の馬が土馬の間に見つけた。取り代えて、代わりに土馬を置いた」という。】とある。
『古事記』に「木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)」と注釈で木角は木臣都奴臣の祖と記述され、仁賢天皇の時代には都奴臣が賜姓されていたことを示している。
木国は『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内の宿禰のより以前、平群の氏を賜姓される前からの領地で、角鹿は神功皇后の都があった場所で、小鹿火が気ままに滞在し、雄略天皇が気ままに領地を与えていることから平群王朝の力の源泉であったようだ。
誉田陵で化けて出た亡霊の主が310年に崩じた応神天皇では465年現在の150年以上も前の亡霊でいかにも頓珍漢である。
もし、応神天皇の「廿五年百濟直支王薨即子久爾辛立爲王」が420年、396年が元年の応神天皇の44年、439年に死亡した応神天皇誉田の墓なら26年後、この一つの王朝は応神天皇が2・3代が襲名している。
合理的に考えれば允恭天皇も追葬され453年で13年後、巨大な前方後円墳が完成するのに10年以上、仁徳陵は20年かかっているので、葛城王家の為の前方後円墳も墓として造ったのなら13年後でまだ完成されていない誉田陵の亡霊、すなわち允恭天皇の亡霊で、葛城王朝の後継者を皆殺しにした亡霊を皆が恐れたとすれば、非常に理に適う。

2020年2月17日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇10

 『日本書紀』慶長版は
「九年春二月甲子朔遣凢河內直香賜與采女祠胸方神香賜既至壇所及將行事姧其采女天皇聞之曰詞神祈福可不慎歟乃遣難波日鷹吉士將誅之時香賜退?(逃)亡不在天皇復遣弓削連豊穗普求國郡縣遂於三嶋郡藍原執而斬焉三月天皇欲親伐新羅神戒天皇曰無往也天皇由是不果行勅紀小弓宿祢蘇我韓子宿祢大伴談連小鹿火宿祢等曰新羅自居西土累葉稱臣朝聘無違貢職允濟逮乎朕之王天下投身對馬之外竄跡匝羅之表阻髙麗之貢呑百濟之城況復朝聘既闕貢職莫脩狼子野心飽飛飢附以汝四卿拜爲大將宜以王師薄伐天罰龔行於是紀小弓宿祢使大伴室屋大連憂陳於天皇曰臣雖拙弱敬奉勅矣但今臣婦命過之際莫能視養臣者公冀將此事具陳天皇於是大伴室屋大連具爲陳之天皇聞悲頽歎以吉備上道采女大海賜於紀小弓宿祢爲隨身視養遂推轂以遣焉紀小弓宿祢等即入新羅行屠傍郡新羅王夜聞官軍四面鼓聲知盡得喙地與數百騎馬軍亂走是以大敗小弓宿祢追斬敵將陣中喙地悉定遣衆不下紀小弓宿祢亦收兵與大伴談連等會兵復大振與遣衆戰是夕大伴談連及紀崗前來目連皆力鬪而死談連從人同姓津麻呂後入軍中尋覓其主從軍覔出問曰吾主大伴公何處在也人告之曰汝主等果爲敵手所殺指示屍處津麻呂聞之踏叱曰主既已陷何用獨全因復赴敵同時殞命有頃遣衆自退官軍亦隨而却大將軍紀小弓宿祢値病而薨」
【九年の春二月の甲子が朔の日に、凡河内の直香賜と女官を派遣して、胸方神を祠らせた。香賜は、すでに祭壇に着いて、もう行事の準備をしていた時、その女官を犯した。天皇は、これを聞いて「神を祠って幸運を祈るときは、あやまちがないように気を配らなければならない」と言った。それで難波の日鷹の吉士を派遣して誅殺しようとした。その時、香賜は、どこかに逃げて身を隠して見つからなかった。天皇は、さらに弓削の連の豐穗を派遣して、くまなく国郡縣を探し求めて、とうとう三嶋の郡の藍原で捕えて斬った。三月に、天皇は、親ら新羅を伐とうと思ったが、神が、天皇に「行くな」と戒めた。天皇は、それで、行くことを止めた。それで紀の小弓の宿禰と蘇我の韓子の宿禰と大伴の談のと小鹿火の宿禰達に「新羅は、むかしからずっと西方に居て、幾世代も累々と臣下と呼んでいる。朝見して、物を献ずることに叛くことが無く、職責は十分に成就された。わたしが天下の王となって、(新羅は)身を粉にして、對馬の海の外に船を投入し、絹で包んだ表を改ざんし、高麗の貢献を妨げ、百済の城を侵略した。さらにまして、朝見を既に欠かし、職責を果たしていない。狼の子のような野心が有って、飽いたら飛び去って、飢えたら食いつく。お前たち四卿に、大將の官位をさずける。王者の軍隊として迫って討伐して、天罪をうやうやし行え」と詔勅した。そこで、紀の小弓の宿禰は、大伴の室屋の大連に、天皇が憂えて「臣下の私が、つたなく弱いと言っても、つつしんで詔勅を奉ります。ただし今、私の妻が、死んだので、私の世話をするものが居ません。君よ、出来たらこの事を詳しく天皇に申し立ててほしい」と申し立てた。そこで、大伴の室屋の大連は、詳しく申し立てた。天皇は、それを聞いて嘆き悲しんで、吉備の上道の采女の大海を、紀の小弓の宿禰に与えて、身の周りの世話をさせようと推薦して派遣した。紀の小弓の宿禰達は、それで新羅に入って、行屠傍郡に進軍してその傍らの郡で、家畜を殺してその肉をとるように撃破した。新羅の王は、夜、官軍が四面から鼓の音を立てるのを聞いて、残らず喙の地を盗られたことを知って、数百の騎兵とバラバラに逃げた。これで、大敗した。小弓の宿禰は、追って敵將を陣中で斬った。喙の地がすべて定っても、残軍は投降しなかった。紀の小弓の宿禰は、さらに兵を集めて、大伴の談の連達と会った。軍をまた大きく動かして、残軍と戦った。この夕方、大伴の談の連と紀の岡前の來目の連が、皆、力の限り戦って死んだ。談の連につき従う人で同姓の津麻呂が、後を追って軍中に入って、その主を尋ねて回った。軍の中で見い出せず「私の主の大伴の君は、何処にいるのか」と問いかけた。人が、「お前の主達は、敵の手にかかって殺された」と告げて、屍のある場所を指で示した。津麻呂はそれを聞いて、地団駄を踏んで「主は、既に欠け、 一人で何の働きをまっとうするのか。」と怒鳴った。それでまた敵陣に行って、一緒に命を落とした。しばらくして、残軍は、ばらばらに逃げた。官軍もまた、退却した。大將軍の紀の小弓の宿禰は、病のために薨じた。】とあり、標準陰暦と合致する。
『宋書』に順帝昇明二年に「上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳」と王自ら戦場を駆け巡ったと上表文に記述しているが、雄略天皇は天皇即位前の皇太子でもない時期に自ら戦った時と同じ気持ちで新羅に自ら侵攻しようとしたが、天皇の地位に即位したからには責任があって自らの出撃を諫められているが、倭国王は自ら出撃している。
これは、まさに、倭国と日本の立場の違いを如実に表し、多数の王の中の一人の倭国王、福岡平野以外で使用されない須恵器が示すように、倭王は福岡平野以西の13縣を支配する王と倭国を含む多くの国々を統治する天皇との立場の違いである。
そして、自分の名代は紀氏・蘇我氏・大伴氏・小鹿火氏で平群氏の背景の戦力になり、宗像神が守り神となり、葛城氏は既に現れない。
平群王朝から出現する蘇我氏と宗像神の繋がり、「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸」と17縣の王の倭王が阿知使主、漢直祖阿知使主の子孫の磐井は倭国建国の地粕屋を奪われ、『隋書』で倭国の後裔に俀国と倭国が存在し、蘇我王朝が『舊唐書』で倭国と呼ばれ、そして、蘇我馬子の娘婿「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪」「東漢直駒東漢直磐井子のように、ここから蘇我氏と倭国の繋がりの始まったようだ。

2020年2月14日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇9

 『日本書紀』慶長版は
「八年春二月遣身狹村主青檜隈民使博德使於吳國自天皇即位至于是歲新羅國背誕苞苴不入於今八年而大懼中國之心脩好於髙麗由是髙麗王遣精兵一百人守新羅有頃髙麗軍士一人取假歸國時以新羅人爲典馬而顧謂之曰汝國爲吾國所破非久矣其典馬聞之陽患其腹退而在後遂逃入國說其所語於是新羅王乃知髙麗僞守遣使馳告國人曰人殺家內所養鶏之雄者國人知意盡殺國內所有髙麗人惟有遣髙麗一人乗間得脱逃入其國皆具爲說之髙麗王即發軍兵屯聚筑足流城遂歌舞興樂於是新羅王夜聞髙麗軍四面歌舞知賊盡入新羅地乃使人於任那王曰髙麗王征伐我國當此之時若綴旒然國之危殆過於累卵命之脩短大所不計伏請救於日本府行軍元帥等由是任那王勸膳臣斑鳩吉備臣小梨難波吉士赤目子往救新羅膳臣等未至營止髙麗諸將未與膳臣等相戰皆怖膳臣等乃自力勞軍令軍中促爲攻具急進攻之與髙麗相守十餘日乃夜鑿險爲地道悉過輜車設奇兵會明髙麗謂膳臣等爲遁也悉軍來追乃縱奇兵步騎夾攻大破之二國之怨自此而生膳臣等謂新羅曰汝以至弱當至強官軍不救必爲所乗將成人地殆於此役自今以後豈背天朝也」
【八年の春二月に、身狹の村主の青と桧隈の民使の博徳を呉国に使者として派遣した。天皇に即位してから、この歳になるまで、新羅国は、背いてでたらめを言いい、土地の産物が日本に入らないことが八年になった。それでいて、なか国の怒りを大変恐れて、高麗とよしみを通じた。これで、高麗王は、精兵を百人派遣して新羅を守った。しばらくして、高麗の軍士が一人、暇を取って国に帰った。その時、新羅の人を馬の世話役にした。それで「お前の国は、私の国に破れるのは遠くない」と周りを見回して言った。その馬の世話役は、聞いて、腹が病んだ真似をして、後方に後ずさりした。そして国に逃げ帰って、その語った事を説いた。そこで、新羅王は、高麗が偽って守るふりをしていたことを知って、使者を派遣して馬で国中の人に、「家中に養う鷄の雄を殺せ」と告げて回った。国中の人は、真意を知って、残らず国中に居る高麗人を殺した。ここに生き残った高麗人の一人が、隙に乗じて脱出することが出来て、高麗に逃げ帰って、全てを詳しく説明した。高麗王は、それで軍を起こして、筑足流城に集まった。そして、舞い歌って軍楽隊を起こした。ここで、新羅王は、夜に、高麗の軍が四方取り囲んで歌い舞うのを聞いて、賊がの残らず新羅の土地に入ったことを知った。それで任那の王のもとに使者を送って、「高麗王が、我が国を攻撃した。この時に、吹き流しが風に吹かれるようだった。国のあやうさは、卵をブツケ合って割るよりも危うかった。命の長短は、大きな視野でも測れない。日本府の元師等を引き連れて救ってもらえることを土下座してお願いします」と言った。これで、任那王と膳の臣の斑鳩と吉備の臣の小梨と難波の吉士の赤目子とを繰り返し、新羅を救いに行かせた。膳の臣達はまだ着く前で野営してとどまった。高麗の諸將は、まだ膳の臣達と対戦しないで皆、怖れた。膳の臣達はそれで自分の力で軍衆を労った。軍中に命じて、せきたてて攻撃する準備をし、急いで進軍して攻撃した。高麗と相対すること十日余の後、夜、急峻な穴を掘って、地下道を造り、兵糧を運ぶ車をのこらずそのままにして、急襲する部隊を編成した。夜明けに、高麗は、膳の臣達が何かに身をかくして逃げたと言った。軍隊がのこらずやって来て敵軍を追った。それで急襲する部隊を、歩兵と騎兵を挟撃して、大破した。二国の怨はここから始まった。膳の臣達は、新羅に「お前は、弱いくせに強い相手と戦った。官軍が救わなかったら、きっとつけこまれた。この戦いで危うく人の土地に成るところだった。これ以後、朝廷に決して叛いてはならない」と言った。】とある。
前項の『三国史記』の412年實聖尼師今十一年に「以奈勿王子卜好質於高句麗」 、418年訥祇麻立干二年に「春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還」424年年訥祇麻立干八年「春二月遣使高句麗修聘」、高句麗長壽王十二年「春二月新羅遣使修聘王勞慰之特厚」、450年訥祇麻立干三十四年に「秋七月高句麗邊將獵於悉直之原何瑟羅城主三直出兵掩殺之麗王聞之怒使來告曰孤與大王修好至歡也今出兵殺我邊將是何義耶乃興師侵我西邊王卑辭謝之乃歸」、高句麗長壽王三十八年「新羅人襲殺邊將王怒將擧兵討之 羅王遣使謝罪乃止」 とある。

高句麗に裏切られた説話は464年の話ではなく、新羅を叱ったのが464年で、話は450年よりも前で、雄略天皇になって8年で、それより以前の416年から朝貢が滞っていて、414年允恭天皇三年に「遺使求良醫於新羅」以降453年允恭天皇四二年まで国交が記述されていない。
すなわち、新羅は412年に高句麗と友好を結び、414年に日本と絶縁し、418年倭国とも絶縁していたが450年に高句麗と対立関係になった。
そして、453年に新羅が泣きついてきた時に丁度允恭天皇が崩じ、454年高句麗 長壽王 四十二年「秋七月遣兵侵新羅北邊」、新羅訥祇麻立干三十八年に「八月高句麗侵北邊」と高句麗が侵略してきたので、日本が配下の百済とともに新羅と同盟して、455年訥祇麻立干三十九年には「冬十月高句麗侵百濟王遣兵救之」と記述され、新羅を救っている。
しかし、459年百済蓋鹵王十五年「秋八月遣將侵高句麗南鄙」まで戦いが記述されず、455年の戦いは日本と新羅が主体の戦いと思われる。 

2020年2月12日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇8

 『日本書紀』慶長版は
「是歲吉備上道臣田狹侍於殿側盛稱稚媛於朋友曰天下麗人莫若吾婦茂矣綽矣諸好備矣曄矣温矣種相足矣鈆花弗御蘭澤無加曠世罕儔當時獨秀者也天皇傾耳遙聽而心悅焉便欲自求稚
媛爲女御拜田狹爲任那國司俄而天皇幸稚媛田狹臣娶稚媛而生兄君弟君田狹既之任所聞天皇之幸其婦思欲求援而入新羅于時新羅不事中國天皇詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰汝冝往罰新羅於是西漢才伎歡因知利在側乃進而奏曰巧於奴者多在韓國可召而使天皇詔群臣曰然則宜以歡因知利副弟君等取道於百濟幷下勅書令獻巧者於是弟君銜命卒衆行到百濟而入其國國神化爲老女忽然逢路弟君就訪國之遠近老女報言復行一日而後可到弟君自思路遠不伐而還集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中託稱候風淹留數月任那國司田狹臣乃喜弟君不伐而還密使人於百濟戒弟君曰汝之領項有何窂錮而伐人乎傳聞天皇幸吾婦遂有兒息今恐禍及於身可蹻足待吾兒汝者跨據百濟勿使通於日本吾者據有任那亦勿通於日本弟君之婦樟媛國家情深君臣義切忠踰白日節冠青松惡斯謀叛盜殺其夫隱埋室內乃與海部直赤尾將百濟所獻手末才伎在大嶋天皇聞弟君不在遣日鷹吉士堅磐固安錢使共復命遂即安置於倭國吾礪廣津邑而病死者衆由是天皇詔大伴大連室屋命東漢直掬以新漢陶部髙貴鞍部堅貴畫部因斯羅我錦部定安那錦譯語卯安那等遷居于上桃原下桃原真神原三所」
この歳、吉備の上道臣の田狹が、大御殿の側で仕えて、盛んにに稚媛を朋友に自慢して「天下の麗人で、私の妻に勝るものが無い。才能や徳などがすぐれてりっぱで落ち着いてゆとりがあって、いろんな好いところが備わっている。輝かしくて心温まり、見栄えがよい。鉛花(化粧?)もつくろわず、匂いも(蘭澤:フジバカマ。芳香のある植物を意味)も足すことが無い。広い世間でもたぐいまれだ。現代にたった一人の秀でた者だ」と褒めた。天皇は、耳を傾けて遠くで聞いて、好きになってしまった。それでどんどん稚媛を寝所に仕えさせたくなった。田狹を拝み倒して、任那の国司にした。しばらくして、天皇は、稚媛を寵愛した。田狹の臣は、稚媛を娶って、兄君と弟君を生んだ。田狹は、すでに任所にあって、天皇が、その婦人を寵愛していることを聞いて、援軍を求めて新羅に行こうと思った。そのとき、新羅は、「なか国」に仕えておらず、天皇は、田狹の臣の子の弟君と吉備の海部の直の赤尾とに「お前たち、新羅に行って討伐しなさい」と詔勅した。そこで、西の漢の渡来人の歡因知利が近くに居た。それで「私より技術が上の者が、多く韓国にいます。招集して使うべきだ」と進み出て奏上した。天皇は、臣下に「それなら、歡因知利を、弟君達につかせて、行先を百済にして、一緒に勅書を下して、技術者を献上させなさい」と詔勅した。そこで、弟君は、承り、大ぜいの人を引き連れて、その国に入った。国神が、老女に化けて、突然道に現れた。弟君は、近づいて国が遠いか近いかを聞いた。老女は、「一日行くと着きます」と答えた。弟君は、路が遠いことに気が付いて、伐たないで還った。百済が貢いだ新しく来た技術者を大嶋の中に集めて、 風向きを見て、数か月留まり続けた。任那の国司の田狹の臣は、それで弟君が自分を伐たないで還ることを喜んで、密かに百済に使者を派遣して、弟君に「お前の襟頚が、どんなに固く守られていても、誰かがお前を討伐する。天皇は、私の妻を寵愛して、とうとう子供ができたと人づてに聞いた。今、恐れているのは、禍が身に及ぶことで、踏みつぶす準備をして待っていなさい。わが子のお前は、百済を拠点に日本と双方で行き来している。わたしは、任那に拠点にしているが、日本には行けない」と戒めた。弟君の婦人の樟媛は、国家を思う気持ちが深く、君臣の義を大切にしていた。忠義の心も昼日中を越えて1日中忘れることが無く、松が青々と茂る季節も越えるくらいだ。この謀反に怒り、密かにその夫を殺して、寝室の内に隱して埋め、それで海部の直の赤尾と一緒に百済が献上した物を造る技術者を連れて、大嶋にいた。天皇は、弟君の不在を聞いて、日鷹の吉士の堅磐固安錢を派遣して、一緒に復命させた。それで倭国の吾砺の廣津邑に置いた。病んで死んだ者が多かった。それで、天皇は、大伴の大連の室屋に東の漢の直の掬に命じて、新しく来た漢の陶部の高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等を、上桃原・下桃原・眞神原の三所に遷して居住させた。】とある。
新羅を攻撃した建内の宿禰の王朝の分家のため、平群王朝も新羅とは倭国ほどではないが、倭国は「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と日本の配下となった国であるので、『三国史記』の345年訖解尼師今三十六年二月倭王移書絶交」と共に当然疎遠となるのは仕方がない。
しかし、412年實聖尼師今十一年に「以奈勿王子卜好質於高句麗」と高句麗と友好関係になると、414年允恭天皇三年に「遺使求良醫於新羅」と日本より上の立場で国交を再開したが、450年訥祇麻立干三十四年に「秋七月高句麗邊將獵於悉直之原何瑟羅城主三直出兵掩殺之麗王聞之怒使來告曰孤與大王修好至歡也今出兵殺我邊將是何義耶乃興師侵我西邊王卑辭謝之乃歸」と対高句麗に劣勢にり、453年允恭天皇四二年に「於是新羅人大恨更減貢上之物色及船數」と日本が上位の立場に立った。
その原因は、新羅は463年慈悲麻立干六年に「春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智・德智領兵伏候於路要擊大敗之王以倭人侵疆埸緣邊築二城」と倭国との戦いで疲弊したことに乗じたからである。
また、稚媛は「次有吉備上道臣女稚媛生二男長曰磐城皇子少曰星川稚宮皇子」と上道臣の女と記述されるが、『日本書紀』記述時に「玉田宿禰之女也」と親が異なっているが、ここでも、長女は一心同体の人物とする表現を示していて、実際は玉田宿禰の孫で、それならば、韓媛と同世代となって雄略天皇の妃にふさわしい。
東漢直掬が使われているが賜姓されず、倭漢直祖阿知使主を記述した時期と雄略天皇を記述した時期が異なることからくる誤記か描き分けたのか解らないが、履中天皇までは応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主」、履中天皇即位前紀「漢直祖阿知使主」倭漢直や漢直で、雄略天皇以降、雄略天皇七年「天皇詔大伴大連室屋命東漢直掬」、崇峻天皇五年「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と東漢直、推古天皇から推古天皇十六年「遣於唐國學生倭漢直福因」、斉明天皇五年「便東漢長直阿利麻」と併用になっている。
東漢直駒東漢直磐井子也」と筑紫国造磐井が東漢直なのだから、糟屋郡の王者が東漢直で筑紫君葛子が君に出世したため、筑紫君が任命した縣主が漢直ということになる。