2020年1月31日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇3

 『日本書紀』慶長版は
元年春三月庚戌朔壬子立草香幡梭姫皇女爲皇后是月立三妃元妃葛城圓大臣女曰韓媛生白髮武廣國押稚日本根子天皇與稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠次有吉備上道臣女稚媛生二男長曰磐城皇子少曰星川稚宮皇子次有春日和珥臣深目女曰童女君生春日大娘皇女童女君者本是采女天皇與一夜而脤遂生女子天皇疑不養及女子行步天皇御大殿物部目大連侍焉女子過庭目大連顧謂群臣曰麗哉女子古人有云娜毗騰耶皤磨珥徐步清庭者言誰女子天皇曰何故問耶目大連對曰臣觀女子行步容儀能似天皇天皇曰見此者咸言如卿所噵然朕與一宵而脤産女殊常由是生疑大連曰然則一宵喚幾𢌞乎天皇曰七𢌞喚之大連曰此娘子以清身意奉與一宵安輙生疑嫌他有潔臣聞易彦腹者以褌觸體即便懷脤況與終?()而妄生疑也天皇命大連以女子爲皇女以母爲妃是年也大歲丁酉
【元年の春三月の朔が庚戌の壬子の日に、草香の幡梭姫皇女を皇后に立てた。この月に、三人の妃を立てた。はじめの妃は葛城圓大臣の娘を韓媛という。白髮武廣國押稚日本根子天皇と稚足姫皇女とを生んだ。この皇女は、伊勢大神の祠につかえた。次に吉備の上道の臣の娘の稚姫がいた。二人の男子を生んだ。長子を磐城皇子という。弟を星川の稚宮皇子という。次に春日の和珥の臣の深目の娘がいた。童女君という。春日の大娘皇女を生んだ。童女君は、元々采女だ。天皇と一夜の関りで妊娠して女子を生んだ。天皇は、疑って女子が歩き出すまで養わなかった。天皇が、大殿に居た時、物部の目の大連が仕えていた。女子が、庭を過ぎた。目の大連は、振り返って臣下に「何と麗しい女子だ。昔、ある人が言った。しとやかな人は養って磨き上げろ。清々しく庭をゆっくりと歩く者は、誰の女子か」といった。天皇が「どうして問うのか」と言った。目の大連は、「私が女子の歩く様を観るところ、礼儀にかなった身のこなしが天皇によく似ている」と答えた。天皇が「これを見る者が、みな言うことは、お前が言っていることと同じようだ。しかし私は、一晩の関りで妊娠して女を生むのは普通でない。それで、疑っているのだ」と言った。大連は、「それでは一夜に何回引き寄せたのですか」と言った。天皇は、「七回引き寄せた」と言った。大連は、「このむすめごは、清らかな体と心構えを持って、一晩関りました。どうして簡単に疑って他人が潔癖なのを見て嫌われるのか。私は、子をもうけやすい者は褌が体に触れるだけで妊娠すると聞いています。まして、一晩中関わって、みだりにうたがうとは。」と言った。天皇、大連に命じて、女子を皇女として、母を妃とした。この年、大歳は丁酉だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
幡梭姫皇女は『古事記』では「若日下部王」、『舊事本紀』では「草香幡援姬」と微妙に異なるが、天皇名が大泊瀬幼武と大国に支配される泊瀬に住む幼()国の武が実際の名前であり、『古事記』は大長谷若建と字面は異なるが同じで、子も稚足姫で『古事記』には記述されない妃が稚姫で子供が巨勢氏にも存在する星川皇子が稚宮と呼ばれる。
この、雄略天皇からは推古天皇が記述させており、『古事記』の天皇名を流用している可能性が高く、『古事記』を書いた仁賢天皇の家系の王名が記述されていて、雄略天皇の時仁賢天皇の家系はまだ天皇では無いので、名前は配下の役職名が記述されている。
『古事記』は小柄の宿禰(役職名で押磐皇子も含まれる)と記述しているので『日本書紀』の統治内容と比べると、『日本書紀』は狂暴なのに対して、『古事記』は凶暴さが少なく、「阿岐豆志麻登布故自其時号其野謂阿岐豆野也」と秋津野の命名説話や一言主と張り合った説話、「ナンパ」して忘れてしまっていた話と優雅な話が続く。
従って、小柄の宿禰の王朝は若国王の若足彦を背景、すなわち、吉備の上道の臣の娘が稚姫なのだから、若国は吉備を含んだその近辺で、吉備を背景に力をつけて王朝を奪取したことが解る。
すなわち、木国を背景にした平群氏が中足姫によって「なか国」を領有し、押磐皇子の領有する若国の領域も手に入れて強大な軍事力・経済力を有する王朝が出来上がり、『日本書紀』の神武東征で最終出発地となったのも吉備の高嶋宮で3年過ごした後だった。

2020年1月29日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇2

 『日本書紀』慶長版は
冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇曽欲以市邊押磐皇子傅國而遙付囑後事乃使人於市邊押磐皇子陽期狡獵勸遊郊野曰近江狹狹城山君韓帒言今於近江來田綿蛟屋野猪鹿多有其戴角類枯樹末其聚脚如弱木林呼吸氣息似於朝霧願與皇子孟冬作陰之月寒風肅殺之晨將逍遙於郊野聊娯情以?()射市邊押磐皇子乃隨馳獵於是大泊瀬天皇彎弓驟馬而陽呼曰猪有即射殺市邊押磐皇子皇子帳內佐伯部賣輪抱屍駭惋不解所由反側呼?()往還頭脚天皇尚誅之是月御馬皇子以曽善三輪君身狹故思欲遣慮而往不意道逢邀軍於三輪磐井側逆戰不久被捉臨刑指井而詛曰此水者百姓唯得飲焉王者獨不能飲矣十一月壬子朔甲子天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位遂定宮焉以平群臣真鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連
【冬十月の癸未が朔の日に、天皇、穴穗天皇が、市邊の押磐の皇子に、後々まで国を受け継いぐように頼もうとしたことを恨んで、人を市邊の押磐皇子に送り、昼間に郊外で狩を勧める様に見せかけて約束させようと、「近江の狹狹城山の君の韓帒が、『今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿が、たくさんいる。その頭に載った角は、枯樹の枝のようだ。その集まった脚は、若い木の林のようだ。呼吸する息は、朝霧のようだ』と言っていた。できたら、皇子と、厳冬の長い影を落とす寒風で静まり返った冬至の頃に、郊外の野でぶらぶらとさまよい歩いて、一寸した遊びで馬を走らせて矢を射てみよう」と言った。市邊の押磐皇子はそれで一緒に狩をした。そこで、大泊瀬天皇は、弓を引いて馬を走らせ、陽気に呼びかけて、「猪がいた」と言って、すなわち市邊の押磐皇子を射殺した。皇子の護衛の佐伯部の賣輪が、屍を抱いて驚き嘆いて、わけがわからず、反逆だと叫び回って、右往左往した。天皇は、なおも誅殺した。この月に、御馬皇子は、以前から三輪の君の身狹と仲が良くて、用心するようにと知らせに出かけて思いがけず、道に軍が待ち受けていて、三輪の磐井の側で反乱軍と戦って時を経ず捕らわれた。首をきられようとしたので井戸を指さして「この水は、百姓だけが飲むことができる。王者は、勝手に飲むことができない」とそしって言った。十一月の朔が壬子の甲子の日に、天皇は、役人に銘じて、祭壇を泊瀬の朝倉に設けて、天皇に即位した。そして宮を定めた。平群臣眞鳥を大臣とした。大伴連室屋と物部連目を大連とした。】とあり、標準陰暦と合致する。
市邊押磐皇子傅國」は雄略天皇が韓媛を得る前で皇位継承の要件を満たしていないため、葦田宿禰の姫の黒媛の子で荑媛が妃の市邊押磐皇子が要件を満たしているので、皇太子だったことがあることを示している。
すなわち、女系の葛城朝の皇位継承順は磐之媛→黒媛(髪長媛)→(大中姫)→中帯姫(?圓の義兄弟)→荑媛→韓媛でその夫が天皇で、男系は玉田→葦田(?妻大中姫)→蟻臣(大草香皇子)→(穴穂)→(義理の甥市邊押磐)→(大泊瀬)と考えられ、玉田から葦田は圓が若くて皇位継承できなかったと考えられ、蟻臣が大草香皇子で圓 が眉輪を匿った。
皇太后が仲姫・大中姫・中帯姫以降は欽明天皇まで皇太后に即位できず、韓媛は皇太夫人で皇太后に即位できる血統が存在することを意味し、皇太夫人も他に堅鹽媛のみで、皇太夫人に即位できるのは建内の宿禰の家系で皇后になった人物のみ、皇太后や皇太夫人に即位できなかった皇后や夫人は実際は、他に朝廷が存在した可能性がある。
『古事記』では皇后と呼ばれる人物すら本文では「長田大郎女爲皇后」しか存在せず、また、『舊事本紀』では中帯姫が皇太后に即位せず、矢田皇女が皇太后に即位していて、矢田皇女は和珥臣の家系で欽明天皇の時皇太后に即位したのも和珥臣の家系で橘仲皇女とやはり仲皇女である。
そして、市邊の押磐皇子の父は履中天皇ではなく、巨勢小柄宿禰の子の乎利と考えられ、乎利の兄弟に星川建日子がいて、吉備上道臣の妻が圓の兄弟の毛媛で、娘の稚媛が雄略天皇の妃で星川稚宮皇子を生んでいる。
すなわち、葛城の天皇にとっては雄略天皇は武内宿禰の子で家臣の平群木菟宿禰の子孫で娘婿に過ぎず、雄略天皇にとっては、自分は武内宿禰の正統な後継者で葛城襲津彦の子たちに奪われた皇位を奪い返したに過ぎず、前天皇の家系は葛城大臣の家系に過ぎず、後の『古事記』・『日本書紀』を記述した巨勢氏や蘇我氏にとっては、雄略天皇は平郡大臣の家系に過ぎず、蘇我氏や巨勢氏が天皇として記述している。

2020年1月27日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十四 雄略天皇1

  日本書紀』慶長版は
大泊瀬幼武天皇雄朝津間稚子宿祢天皇第五子也天皇産而神光滿殿長而伉健過人三年八月穴穗天皇意將沐浴幸于山宮遂登樓兮遊目因命酒兮肆宴爾乃情盤樂極間以言談顧謂皇后曰吾妹汝雖親眤朕畏眉輪王眉輪王幼年遊戲樓下悉聞所談既而穴穗天皇枕皇后膝晝醉眠臥於是眉輪王伺其熟睡而刺殺之是日大舍人驟言於天皇曰穴穗天皇爲眉輪王見殺天皇大驚即猜兄等被甲帶刀卒兵自將逼問八釣白彥皇子皇子見其欲害嘿坐不語天皇乃拔刀而斬更逼問坂合黑彥皇子皇子亦知將害嘿坐不語天皇忿怒弥盛乃復幷爲欲殺眉輪王案劾所由眉輪王曰臣元不求天位唯報父仇而已坂合黑彥皇子深恐所疑竊語眉輪王遂共得間而出逃入圓大臣宅天皇使使乞之大臣以使報曰蓋聞人臣有事逃入王室未見君王隱匿臣舍方今坂合黑彦皇子與眉輪王深恃臣心來臣之舍誰忍送歟由是天皇復益興兵圍大臣宅大臣出立於庭索脚帶時大臣妻
持來脚帶愴矣傷懷而歌曰飫瀰能古簸多倍能波伽摩鳴那那陛鳴絶伱播伱陀々始諦阿遙比那陀湏暮大臣裝束已畢進軍門跪拜曰臣雖被戮莫敢聽命古人有云匹夫之志難可奪方属乎臣伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區請以贖罪天不皇許縱火燔宅於是大臣與黒彦皇子眉輪王倶被燔死時坂合部連贄宿祢抱皇子屍而見燔死其舍人等收耴所焼遂難擇骨盛之一棺合葬新漢擬本南丘冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇
【大泊瀬の幼武天皇は、雄朝嬬の稚子の宿禰の天皇の第五子だ。天皇は、産れてから、神聖な姿が殿中に満ちていた。成長してつよくすこやかで、人より優れていた。三年の八月に、穴穗天皇が、沐浴をしようと思って、山の宮に行幸した。それで高殿に登ってあちこち眺めて目を楽しませた。それで酒の準備を命令して楽しみ笑い興じた。それで思いっきり遊んで楽しい心情が極まって、合間に談笑して、皇后を思って「私の妻よ、お前は縁つづきでなれ親しんでいるといっても、私は、眉輪王を恐れている」と言った。眉輪王は、幼少で高殿の下で楽しんで遊んでいて、残らず話す事柄を聞いてしまった。それで穴穗天皇は、皇后の膝枕で、昼から酔って寝ころんでいた。そこに、眉輪王が、そのぐっすりとよく眠っているのを伺って、刺し殺した。この日に、大舍人が天皇に「穴穗天皇が、眉輪王のために殺された」と速やかに連絡した。天皇は、大変驚いて、すぐに兄等をうたがって、甲冑を被って刀を帯びて、軍をを率いて自から将軍となって、八釣の白彦皇子に迫って問い正した。皇子は、その殺そうとするのを見て、黙って座って何も語らなかった。天皇は、それで刀を拔いて斬った。また坂合の黒彦皇子に迫って問いただした。皇子は、また殺そうとしていることを知って、黙って座って何も語らなかった。天皇は、怒り心頭だった。それでまた一緒に眉輪王も殺そうと思ったので、その殺害をどう考えているか正した。眉輪王は「私は、元から、天皇位を求めていません。ただ父の仇に報いようとしただけだ」と言った。坂合の黒彦皇子は、執念深く疑うことを畏れて、密かに眉輪王に語った。とうとう共にころあいを待って、屋敷を出て圓の大臣の家に逃げ入った。天皇は、使者を送って願った。大臣は、使者に、報告して「たしか聞いたところ、人臣は、何かあったら、逃げて王室に入るという。いまだ王君が、臣下の屋敷に隠れたところを見たことが無い。今まさに坂合の黒彦皇子と眉輪王が、思慮深く私の心情にたのんで、私の家にやってきた。どうして、忍んで送り返せましょうか」と言った。これで、天皇は、また増兵して、大臣の屋敷を取り囲んだ。大臣は、庭に出てきて、脚帯を探した。その時に大臣の妻が、脚帯を持って来て、悲しみに心がいたんで歌った()大臣は、既に身なりを整え終わって、陣営の門に進んで両ひざをついてお辞儀をして「私が、槍で突きさされても、命令に服することは有りません。いにしえの人が、身分の低い人の志でも、奪うことは難しいと言うのは、まさに私のことだ。土下座して願うのは、大王が私の女の韓媛と葛城の屋敷の七区画を献上することで、罪を贖わせてください」と言った。天皇は、許さないで、火を着けて屋敷を焼いた。そこで、大臣と、黒彦皇子と眉輪王と、ともに焼き殺された。その時、坂合部の連の贄の宿禰が、皇子の屍を抱いて焼き殺された。その護衛達は、焼死体を引き取ったが、贄の宿禰の骨をよることが出来なかったので、一つの棺に積み重ねて、新漢の擬本の南の丘に合葬した。】とある。
『日本書紀』は黒彦と眉輪と大臣が一緒に殺されたが、『古事記』は黒彦は別で白彦より前に殺害している。
これは、『日本書紀』が正史で記録としては雄略天皇側に立った記述であり、『古事記』は『日本書紀』と異なる葛城・巨勢氏の歴史を記述し、平群氏から政権を奪っているので、平群氏のことは客観的に記述されている可能性が高いし、雄略紀以降はまだ記述されていないので、『日本書紀』をまねる必要も無い。
したがって、真実は『古事記』の可能性が高く、眉輪と大臣より前に黒彦・白彦を先に殺害しないと皇位継承順が雄略天皇より高いので、雄略天皇が皇位に就くためには、先に白彦・黒彦を殺害し、本来の皇太子の大臣およびその甥を最後に殺害したのである。
黒彦と眉輪と大臣が仲間内だったと思わせる必要があったため、このような資料を残し、巨勢氏は雄略天皇が皇位を簒奪するため、皇位継承の権利を有する人々を容赦なく殺害したと記述したようだ。
安康天皇と前天皇の長男の圓大臣はどちらが天皇になっても正統な相続で、より権勢が強い安康天皇が前天皇の長女の中帯姫を奪い、皇位に就いていたのであり、実際の皇位は中帯姫が皇位継承者であったのであり、『日本書紀』の世界は女系によって持統天皇まで継承されている可能性が高い。

\\済み

2020年1月24日金曜日

最終兵器の目 安康天皇2

 日本書紀慶長版
元年春二月戊辰朔天皇爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女則遣坂本臣祖根使主請於大草香皇子曰願得幡梭皇女以欲配大泊瀬皇子爰大草香皇子對言僕頃患重病不得愈譬如物積舩以待潮者然死之命也何足惜乎但以妹幡梭皇女之孤而不能易死耳今陛下不嫌其醜將滿荇菜之數是甚之大恩也何辭命辱故欲呈丹心捧私寶名押木珠縵附所使臣根使主而敢奉獻願物雖輕賤納爲信契於是根使主見押木珠縵感其麗美以爲盜爲己寶則詐之奏天皇曰大草香皇子者不奉命乃謂臣曰其雖同族豈以吾妹得爲妻耶既而留縵入巳而不獻於是天皇信根使主之讒言則大怒之起兵圍大草香天皇之家而殺之是時難波吉師日香蛟父子並仕于大草香皇子共傷其君无罪死之則父抱王頸二子各執王足而唱曰吾君無罪以死之悲乎我父子三人生事之死不殉是不臣矣即自刎之死於皇尸側軍衆悉流涕爰取大草香皇子之毒中蒂姫納于宮中因爲妃復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子是年也太歲甲午二年春正月癸巳朔己酉立中蒂姫命爲皇后甚寵也初中蒂姫命生眉輪王於草香皇子乃依母以得免罪常養宮中三年秋八月甲申朔壬辰天皇爲眉輪王見弑三年後乃葬菅原伏見陵
元年の春二月の朔の戊辰の日に、天皇は、大泊瀬の皇子の為に、大草香の皇子の妹の幡梭皇女を呼び寄せようと思った。それで、坂本臣の祖の根使主を派遣して、大草香の皇子に「出来ましたら、幡梭皇女を貰って、大泊瀬の皇子の妻にした」と願った。そこで大草香の皇子は、「私は、最近重罹って治らない。たとえば物を船に積んで潮を待つ者のように死ぬのを待っています。死をまつ命などどうして惜しむに足りましょう。ただ妹の幡梭の皇女がのひとりぼっちになることを思うと、簡単には死ねません。今、陛下が、醜いことを厭わず、アサザの葉の数が満ちるほどすごい大恩です。どうして命令に拒否して辱めましょう。それで、真心を示すために、私の宝の名は押木の珠縵を捧げます。使者の根使主に持たせて躊躇せず奉します。できました、軽く卑しい物ではありますが、手に納めて信頼の証しとしてください」と答えた。そこで、根使主は、押木の珠縵を見て、そのうるわしくうつくしいことに心が動き、盗んで自分の宝にしようとし、それで詐って天皇に「大草香の皇子は、命令を聞かず、それで私に『天皇が同族といっても、どうして私の妹を妻として送り出せるか』といった」と奏上し縵を自分の手元に残して献上しなかった。そこで、天皇は、根使主の讒言を真に受けた。それで大変怒って、軍を起して大草香の天皇の家を取り囲んで殺した。この時、難波の吉師の日香蚊の父子が一緒に大草香の皇子に仕えていた。共にその主君が罪も無いのに死んだことを傷んで、それで父は王の頚を抱き、二人の子は各々、王の足をかたくつかんで離さず、「わが君は、罪も無いのに死んだことが悲しい。私達父子三人が、生きていた時に仕え、死んだときに殉じないのは、臣下とは言えない」と唱えた。それで自ら首を切って、皇帝の屍の側で死んだ。軍勢は、一人残らず涙を流して悲しんだ。そこで大草香の皇子の妻の中蒂姫を娶って、宮中に住まわせた。それで妃とした。またとうとう幡梭の皇女を呼び寄せて、大泊瀬の皇子と結婚させた。この年は太歳が甲午だった。二年の春正月の朔が癸巳の己酉の日に、中蒂姫命を皇后に立てた。度合をこえて寵愛した。はじめ中蒂姫命は、大草香の皇子との間に眉輪王を生んだ。それで母のおかげで罪を免れることが出来た。いつも宮中で育てられた。三年の秋八月の朔が甲申の壬辰の日に、天皇は、眉輪王の為に殺された。三年の後、菅原の伏見の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
大草香殺害は当然安康天皇の謀略で、幡梭皇女が目的ではなく、中蒂姫で、天皇をだました臣下が許されて坂本臣の氏姓を得るることは有り得ず、大草香を殺害したと考えられる。
前天皇の皇后は皇太后として迎えたが、その皇后が「なか国」の後継女王では無かったようで、「なか国」女王の中帯姫が皇后に必要で、死なれると困るから、眉輪王の命を保障することで得ることが出来たようだ。
皇太子の木梨輕皇子を殺害したが、次の皇位継承順が大草香、実際に慶長版では「大草香天皇之家」と記述していて、『古事記』では「大日下王之御名代定大日下部爲若日下部王之御名代定若日下部」と大日下部と若日下部がいて、これは大足彦と若足彦の関係と同じで、中彦の主筋にあたり、平群氏は木国・若国王で若日下の子孫の可能性がある。
後代の版本、江戸末期の版本は江戸時代末期の解釈に沿って書き換えられていて、当然、慶長版も同じことが考えられるし、誤植もあって、間違いも有るかもしれないが、慶長版は赤字や注書きで残していて、古い原本に近い内容が残っているように感じる。
しかし、穴穗という国名も役職名も別も「大」・「若」・「中」も付加されない天皇の名として恥ずかしくないない名前で記述された、すなわち、天皇になった。
そして、平群王朝の2代目の雄略天皇が第一陣の『日本書紀』を完成させ、自家の役職名の変遷を首都の歴史の王名に付与し、「なか国」と葛城氏を中心にして、平群・葛城の朝廷奪取の歴史を紀伝体で記述した。
次項からは、『日本書紀』を推古天皇のとき、蘇我氏が記述しているため、巨勢氏の王朝や物部氏の王朝については、『古事記』および『舊事本紀』の内容が重要になってくる。

2020年1月22日水曜日

最終兵器の目 安康天皇1

 『日本書紀』慶長版は
穴穗天皇雄朝津間稚子宿祢天皇第二子也母曰忍坂大中姫命稚渟毛二岐皇子之女也四十二年春正月天皇崩冬十月葬禮畢之是時太子行暴虐淫于婦女國人謗之群臣不從悉隸穴穗皇子爰太子欲襲穴穗皇子而密設兵穴穗皇子復興兵將戰故穴穗括箭輕括箭始起于此時也時太子知群臣不從百姓乖違乃出之匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍之大前宿祢出門而迎之穴穗皇子歌之曰於朋摩弊烏摩弊輸區塗餓訶那杜加礙訶區多智豫羅泥阿梅多知夜梅牟大前宿
祢荅歌之曰瀰椰比等能阿由臂能古輸孺於智珥岐等瀰椰比等等豫牟佐杜弭等茂由梅乃啓皇子曰願勿害太子臣將議由是太子自死于大前宿祢之家十二月己巳朔壬午穴穗皇子即天皇位尊皇后曰皇太后則遷都于石上是謂穴穗宮當是時大泊瀬皇子欲聘瑞齒別天皇之女等於是皇女等皆對曰君王恒暴強也儵忽忿起則朝見者夕被殺夕見者朝被殺今妾等顏色不秀加以情性拙之若威儀言語如毫毛不似王意豈爲親乎是以不能奉命遂遁以不聽矣
【穴穗天皇は、雄朝津間稚子の宿禰の天皇の第二子だ。母を忍坂の大中姫命という。稚渟毛二岐の皇子の娘だ。四十二年の春正月に、天皇が崩じた。冬十月に、葬礼が終わった。この時、太子はむごい仕打ちをして人を苦しめ、婦女子を姦淫した。国中の人がそしった。臣もついてこなかった。残らず穴穗皇子についた。そこで太子は、穴穗皇子を襲撃しようと、密かに軍をおこした。穴穗皇子もまた、軍をおこして戦おうとした。それで、穴穗様式の括り方の箭と・軽様式の括り方の箭がはじめてこの時に起った。この時、太子には臣下が従わず、百姓も叛いて従わないことを知って、それで、宮から出て、物部の大前の宿禰の家にかくまわれた。穴穗皇子は、それを聞いたので屋敷を取り囲んだ。大前の宿禰が、門で出迎えた。穴穗皇子は、歌った()。大前の宿禰が答歌した()それで皇子に「できましたら、太子を傷つけないでください。私が太子に話します」と考えを言った。それで、太子は、自ら大前の宿禰の家で死んだ。十二月の朔が己巳の壬午の日に、穴穗皇子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言った。それで都を石上に遷した。
これを穴穗の宮という。この機会に、大泊瀬皇子は、瑞齒別の天皇の娘達を手元に置こうとした。そこで、皇女達は皆「王君は、いつも荒々しくてこわい。たちまち怒り出すので、朝見かけた者が夕には殺されている。今、私たちは、顔色がすぐれず、加えて、落ち込んでいます。もし、立ち居振る舞いや言い方がほんの少しでも王の思いと違っていたら、親しくなれません。そのため、命令を承ることが出来ません」と答えた。とうとう逃げて従わなかった。】とあり、標準陰暦と合致する。
皇太子の木梨輕は允恭天皇で書いたように、衣通の郎姫が『古事記』では「娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女・・・次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女」と允恭天皇の娘で、『日本書紀』の「妾弟名弟姫・・・時人号曰衣通郎姫也天」と忍坂大中姫の妹ではなく、娘だったように、実際は木梨輕も襲名で殺害された木梨輕は允恭天皇が42年間在位していたことから考えると2代目の可能性が大きく、安康天皇は木梨輕の叔父で、しかも、母親が兄弟の可能性が高い。
そして、中彦・中姫は、垂仁天皇十五年「皇后日葉酢媛命生・・・大足彦尊第三曰大中姫命」、景行天皇五一年「初日本武尊娶兩道入姫皇女爲妃・・・次足仲彦天皇」、仲哀天皇二年「娶叔父彦人大兄之女大中姫爲妃」、応神天皇二年「立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子・・・皇后姉高城入姫爲妃生額田大中彦皇子・・・次妃河派仲彦女弟媛」、応神天皇二二年「次以上道縣封中子仲彦是上道臣」、仁徳天皇二年「后生大兄去來穗別天皇住吉仲皇子瑞齒別天皇雄朝津間稚子宿禰天皇」、履中天皇元年「次妃幡梭皇女生中磯皇女」、允恭天皇二年「立忍坂大中姫爲皇后」、安康天皇二年「立中蒂姫命爲皇后」と天皇や皇后またはそれに準じた人物で、安寧天皇三年「立渟名底仲媛命爲皇后」から始まる名門の名前で、雄略天皇を最後に姿を消す。
すなわち、これまで述べて来た葛城王朝は葛城氏が「なか国」の王者で、その支配者の王名・王女名が中彦・中姫だったことを示し、『日本書紀』の神話も「葦原中國」を統治するために天降ったのである。
また、中臣烏賦津使主が衣通郎姫を迎える時に活躍するが、使主は畿内政権ではない地域の臣で、景行天皇が周芳から日向国へ遠征する時「是時祷神則志我神直入物部神直入中臣神三神矣」と中臣氏賜姓以前に記述され、すなわち、中臣氏も「なか国」王の王朝であることから、神話から記述されたことが解り、中臣氏は「なか国」王家の氏で主を使う、主と呼ばれる王を使う王である。
そして、王朝が交替する時、前王朝の姫達をすべて新しい王朝の皇子が手に入れてしまい、新しい王朝の天皇は前王朝の皇后を皇太后として迎え入れて、バックとなる氏族の女王を皇后にして天皇というシステムが完成する。
垂仁天皇以前は全ての天皇が皇太后を迎え入れているが、景行天皇・履中天皇・反正天・允恭天皇は迎え入れておらず、 景行天皇は垂仁天皇と同じ王朝で、成務天皇が新しく朝廷を奪取したことを示し、 履中天皇から允恭天皇は仁徳天皇と同じ王朝であることが示されている。
そして、葛城中彦(なか国)王朝の最後の天皇が木梨輕で『舊事本紀』に「二十三年三月甲午朔庚子木梨輕子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」と物部の大前の宿祢が後ろ盾であったことを示している。

2020年1月20日月曜日

最終兵器の目  允恭天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二十三年春三月甲午朔庚子立木梨輕皇子爲太子容姿佳麗見者自感同母妹輕大娘皇女亦艶妙也太子恒念合大娘皇女畏有罪而默之然感情既盛殆將至死爰以爲徒非死者雖有罪何得忍乎遂竊通乃悒懷少息因以歌之曰阿資臂紀能椰摩娜烏菟?(糸+勾)利椰摩娜箇弥斯哆媚烏和之勢志哆那企貳和餓儺勾菟摩箇哆儺企貳和餓儺勾菟摩去鐏去曽椰主區津娜布例二十四年夏六月御膳羹汁凝以作氷天皇異之卜其所由卜者曰有內亂蓋親親相姧乎時有人曰木梨輕太子姧同母妹輕大娘皇女因以推問焉辭既實也太子是爲儲君不得罪則流輕大娘皇女於伊豫是時太子歌之曰於裒企彌烏志摩珥波夫利布儺阿摩利異餓幣利去牟鋤和餓哆哆瀰由瑇去等烏許曾哆多瀰等異泮梅和餓菟摩烏由梅又歌之曰阿摩儾霧箇留惋等賣異哆儺介縻臂等資利奴陪瀰幡舍能夜摩能波刀能資哆儺企邇奈勾四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩時年若干於是新羅王聞天皇既崩驚愁之貢上調舩八十艘及種々樂人八十是泊對馬而大哭到筑紫亦大哭泊于難波津則皆素服之悉捧御調且張種種樂器自難波至于京或哭泣或歌儛遂參會於殯宮也冬十一月新羅吊使等喪禮既闋而還之爰新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山則到琴引坂顧之曰宇泥咩巴椰弥弥巴椰是未習風俗之言語故訛畝傍山謂宇泥咩訛耳成山謂瀰瀰耳時倭飼部從新羅人聞是辭而疑之以爲新羅人通采女耳乃返之啓于大泊瀬皇子皇子則悉禁固新羅使者而推
問時新羅使者啓之曰無犯采女唯愛京傍之兩山而言耳則知虛言皆原於是新羅人大恨更減貢上之物色及舩數冬十月庚午朔己卯葬天皇於河內長野原陵
【二十三年の春三月の朔が甲午の庚子の日に、木梨の輕皇子を皇太子に立てた。顔立ちが整っていて美しかった。見る者は、自然と心が動いた。妹の輕の大娘皇女もまた 妖しいほどに美し過ぎた。太子は、いつも大娘の皇女といっしょになろうと願い罪と畏れて默っていた。しかし、心を動かす気持ちが強くなって、死ぬほど気持ちが高ぶった。そこで思い直して、ただ空しく死ぬよりは、刑罰を受けようとも、どうして忍んで入れようかと考えた。それでひそかに通じ合った。それで、ふさぐ気持ちが少しはれた。それで歌った()。二十四年の夏六月に、御膳の吸い物が、凍ったように固まった。天皇は、奇妙に思って、その理由を占わせた。占い師が「身内に秩序を乱すことが有った。きっと、同祖がよこしまな関係に違いない」と言った。その時、ある人が「木梨の輕の太子が、妹の輕の大娘の皇女を犯した」と言った。それで、良く考えて問いただした。その話は本当のことだった。太子は、私の跡継ぎの王で、刑罰を加えることが出来ない。それで大娘の皇女を伊豫に移り住まわせる。その時、太子は、歌った()。四十二年の春正月の朔が乙亥の戉子の日に、天皇が崩じた。その時、年齢はまだ若かった。それで、新羅の王は、天皇が崩じたことを聞いて、驚きき悲しんで、年貢として船を八十艘、および種々の楽器奏者八十人を貢上した。それで、對馬で停泊して、大声をあげてないた。筑紫に着いて、また大声をあげてないた。難波の津に停泊して、それで皆、喪服を着た。全ての年貢捧げて、また種々の樂器の弦を張って、難波から京に着くまで、あるいは哭き叫び、あるいは舞い歌った。それで殯の宮に集まった。冬十一月に、新羅の弔使達は、葬礼が終わって帰った。ここで新羅人は、いつも京城の辺の耳成山や畝傍山を愛でた。それで琴引の坂に着いて、振り返って、「うねめはや、みみはや」と言った。このような風習や言葉を習ったことが無い。それで、畝傍山を訛って、うねめと言い、耳成山を訛って、みみというのだろう。その時、倭の飼部が、新羅人に一緒にいて、この言葉を聞いて、疑いを抱いて、新羅人が、采女に通じたと思った。それで返って大泊瀬の皇子に教えた。皇子は、それで残らず新羅の使者を監禁して、よく考えて問いかけた。その時、新羅の使者は、「采女を犯してはいない。ただ京の辺の二つの山を愛でて言っただけだ」と教えた。すなはち、でまかせと知らせて、皆の誤解をはらした。このことで、新羅人は、大変恨みに思って、貢ぎ物の種類や船の数を減した。冬十月の朔が庚午の己卯の日に、天皇を河内の長野の原の陵に葬った。】とあり、二十三年三月朔は乙未で甲午は2月30日で2月が小の月なら合致し、他は標準陰暦と合致する。
前項でも記述したように、木梨輕皇子兄弟は、実際のところは日觸使王の娘の宮主宅媛の子の菟道稚郎子皇子と菟道稚郎姫皇女か木事の娘の津野媛の子の圓皇女と圓大臣なのか解らない。
これまで考えてきたように、人名は同じ名の場合、義兄弟でも従弟でも同じ宮で生まれた場合、同じ名前が付けられ、直系の人物は同じ名前を襲名して、系図上は兄弟になってしまう。
また、延喜式祝詞の大祓詞には祓わなければならない罪科として兄弟の姦淫は含まれず、母子相姦や獣姦が記述されるだけで、古代においては取り立てて非難されるものではなかったようだ。
さらに、この允恭天皇は死亡時の年齢が若干と記述され、天皇は20歳にならないと即位できず、3代目の允恭天皇と考えられ、皇太子は弟か叔父なので、儲君と皇太子を呼んでいる。
また、この天皇は42年1月に崩じて10月に葬っているが230mの墳丘長で頂高45mの市野山古墳が9ヶ月もしないで盛り土をして踏み固めて竪穴を掘って石室を整え石棺を設置できたとは思えない。
現在残っている堀の跡には水が溜まらないから、建設当初から空堀と言われているが、外堀を埋め立てた場所の名前が長池と呼ばれていたそうで、水もない、あっても水たまりが池と呼ばれ、しかも、長い池などと名前を付けるのはナンセンスで、おそらく、名前が出来た頃は外堀に水がたっぷり有ったのではないだろうか。
同様に、履中天皇(3月崩→10月葬)も7ヶ月、神功皇后(4月→10月)も6ヶ月、垂仁天皇(7月→12月)も多くとも5ヶ月、崇神天皇(12月→10月)も11ヶ月、開化天皇(4月→10月)も6ヶ月、円墳の孝安天皇(1月→9月)も9ヶ月で、景行天皇は2年仁徳天皇は死亡する20年も前だが孝元天皇も5年、孝霊天皇も6年、ほとんどの大古墳に葬られた天皇も大きい陵墓に葬られなかった天皇と大差がなく、安寧天皇が8月で孝昭天皇は死後38年後の8月で、それ以降用明天皇が7月に葬るまで葬る月が9月から2月で埋葬を待ったのは農民の繁忙期を避けた時期を選んだ季節要因及び6ヶ月は埋葬しないという習慣と思われ、すなわち、既にある盛り土に陵墓を造った可能性が高い。
安康天皇の3年、反正天皇の5年や仁徳天皇の20年も差が有るのは前後の天皇がダブっていた可能性があり、仁徳陵は『日本書紀』を書いた平群王朝の木菟の宿禰の墓なので、実際に墓を造った溜池造りから墳墓の完成までの期間が解っていたから記述したと考えれる。
ちなみに、それ以外では神武天皇11月、綏靖天皇10月、懿徳天皇10月に葬られ、敏達天皇は「四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」と4月に葬り直しているが、既にある陵に安置し、しかも、横穴式石室なので、石棺を移動させるだけで、これ以降も9月から2月で、崇峻天皇は暗殺されたその日に葬られていて、この頃から寺が多く建立され、墳墓も横穴式石室で複数の人物を葬っていて無関係とは思えない。
孝昭天皇が死後38年後、天智天皇は記述されないように、宮という王朝の主が皇位を簒奪されても、宮が残る限り天皇陵を造らず、宮の主はもちろん宮の中に廟をつくり、宮の主が死んだとき宗廟も含めて天皇陵となることを示している。

2020年1月17日金曜日

最終兵器の目  允恭天皇3

 『日本書紀』慶長版は
七年冬十二月壬戌朔讌于新室天皇親之撫琴皇后起儛儛既終而不言禮事當時風俗於宴會儛者儛終則自對座長曰奉娘子也時天皇謂皇后曰何失常禮也皇后惶之復起儛儛竟言奉娘子天皇即問皇后曰所奉娘子者誰也欲知姓字皇后不獲已而奏言妾弟名弟姫焉弟姫容姿絁妙無比其艶色徹衣而晃之是以時人号曰衣通郎姫也天皇之志存于衣通即姫故強皇后而進皇后知之不輙言禮事爰天皇歡喜則明日遣使者喚弟姫時弟姫隨母以在於近江坂田弟姫畏皇后之情而不參向又重七喚猶固辭以不至於是天皇不悅而復勅一舍人中臣烏賦津使主曰皇后所進之娘
子弟姫喚而不來汝自往之召將弟姫以來必敦賞矣爰烏賦津使主承命退之糒褁裀中到坂田伏于弟姫庭中言天皇命以召之弟姫對曰豈非懼天皇之命唯不欲傷皇后之志耳妾雖身亡不參赴時烏賊津使主對言臣既被天皇命必召率來矣若不將來必罪之故返被極刑寧伏庭而死耳仍經七日伏於庭中與飲食而不湌密食懷中之糒於是弟姫以爲妾因皇后之嫉既拒天皇命旦亡君之忠臣是亦妾罪則從烏賊津使主而來之到倭春日食于檪井上弟姫親賜酒于使主慰其意使主即日至京留弟姫於倭直吾子籠之家復命天皇天皇大歡之美烏賊津使主而敦寵焉然皇后之色不
平是以勿近宮中則別構殿屋於藤原而居也適産大泊瀬天皇之夕天皇始幸藤原宮皇后聞之恨曰妾初自結髮陪於後宮既經多年甚哉天皇也今妾産之死生相半何故當今夕必幸藤原乃自出之燒産殿而將死天皇聞之大驚曰朕過也因慰喩皇后之意焉八年春二月幸于藤原密察衣通姫之消息是夕衣通郎姫戀天皇而獨居其不知天皇之臨而歌曰和餓勢故餓勾倍枳豫臂奈利佐瑳餓泥能區茂能於虛奈比虛豫比辭流辭毛天皇聆是歌則有感情而歌之曰佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝阿麻哆絆泥受邇多儾比等用能未明且天皇見井傍櫻華而歌之曰波那具波辭佐區羅能梅涅許等梅涅麼波椰區波梅涅孺和我梅豆留古羅皇后聞之且大恨也於是衣通郎姫奏言妾常近王宮而晝夜相續欲視陛下之威儀然皇后則妾之姉也因妾以恒恨陛下亦爲妾苦是以冀離王居而欲遠居若皇后嫉意少息歟天皇則更興造宮室於河內茅渟而衣通郎姫令居因此以屢遊獵于日根野九年春二月幸茅渟宮秋八月幸茅渟冬十月幸茅渟十年春正月幸茅渟於是皇后奏言妾如毫毛非嫉弟姫然恐陛下屢幸於茅渟是百姓之苦仰願冝除車駕之數也是後希有之幸焉十一年春三月癸卯朔丙午幸於茅渟宮衣通郎姫歌之曰等虛辭陪邇枳彌母阿閇椰毛異舍儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘時天皇謂衣通郎姫曰是歌不可聆他人皇后聞必大恨故時人号濱藻謂奈能利曾毛也先是衣通郎姫居于藤原宮時天皇詔大伴室屋連曰朕項(?)得美麗孃子是皇后母弟也朕心異愛之冀其名欲傳于後葉奈何室屋連依勅而奏可則科諸國造等爲衣通郎姫定藤原部
【七年の冬十二月の朔が壬戌の日に、新しい宮殿の広間で酒盛りをした。天皇は、親ら琴を弾いた。皇后は、立ち上がって舞った。舞い終わって、礼の言葉を言わなかった。この当時の風習は、宴の時に舞った者は、舞い終わったら、座の主に対して自ら「娘を捧げます」と言った。その時天皇は、皇后に「どうして決まった儀礼を行わなかった」と言った。皇后は、かしこまって、もう一度立ち上がって舞った。舞終えて、「娘を捧げます」と言った。天皇は、それで皇后に「奉げる女は誰だ。姓を知りたい」と問いかけた。皇后は、「私の妹の、名を弟姫といいます」と仕方なく奏上した。弟姫は、容姿がこの上なくすぐれ並ぶものが無かった。その艶やかな色気は、衣より漏れ出るほど輝いている。これを聞いて、当時の人は、衣通の郎姫と名付けた。天皇の気持ちが、衣通郎姫に移ってしまった。それで、皇后に話を進めることを強いた。皇后、それを知って、嫌々承諾した。そこで天皇は、大喜びして、すぐ翌日使者を派遣して弟姫を呼んだ。弟姫は、母に付き従って、近江の坂田にいた。弟姫は、皇后の気持ちをおそれて、参上しなかった。また七度も呼び出した。それでもなお、固辞して来なかった。それに、天皇は、悦ばず、それでまた、近習の護衛の一人の中臣の烏賊津の使主に「皇后の進上する娘の弟姫は、呼んでも来ない。おまえが往って、弟姫を召し連れて来たなら、きっと手厚い褒美をやろう」と詔勅した。そこで烏賊津の使主は、命令を承まって退席した。干し飯を袋の中につつんで、坂田に到った。弟姫の庭で土下座して、「天皇の、命令で呼びに来ました」と言った。弟姫は、「どうして天皇の命令を恐れません。皇后の気持ちの痛みを思うだけです。私は、身を滅ぼしても参上できません」と答えた。その時、烏賊津の使主は、「私は、すでに天皇の命令を承り、かならず召し連れてこいと命令された。もし連れて参上しなければきっと罪を与えると言われた。それで、返って極刑になるよりは、むしろ庭で土下座したまま死にます」と答えた。それで七日間も、庭で土下座した。飮食を与えても食べなかった。隠れて懐の中の干し飯いを食べた。それで、弟姫は、「考えてみれば、私が、皇后の嫉妬によって、天皇の命令を拒んだ。また王の忠臣を亡したら、これはまた私の罪になる」と思って、それで、烏賊津の使主に付き従って参上した。倭の春日に着いて、くぬぎの井戸の辺りで食事をした。弟姫親ら酒を使主に与えて、その心根を慰めた。使主は、その日に京に着いた。弟姫を倭の直の吾子篭の家に留めて、天皇に復命した。天皇は、大変喜んで、烏賊津の使主を誉めて手厚くかわいがった。しかし皇后の顔色がすぐれなかった。それで、宮中に近づけないで、別に殿屋を藤原に立てて住まわせた。大泊瀬天皇が産れた夕に、天皇は、はじめて藤原の宮に行幸した。皇后は、それを聞いて恨みに思って 「わたしが、はじめ髪を結ってから、後宮で過ごして、すでに何年も経った。しかし、このようなことは初めてで、天皇は、今、私が産後で、生死相半ばの時だ。どうしてこんな時に限って藤原に行幸するのか」と言って、それで、自分で産殿を焼いて死のうとした。天皇は、それを聞いて、大変、驚いて「私が悪かった」と言って、そのため皇后の気分を癒し和らげた。八年の春二月に、藤原へ行幸した。密かに衣通の郎姫の動静を見ていた。是の夕に、衣通の郎姫は、天皇に会いたくて一人で館に居た。天皇が見ていることを知らないで、歌った()天皇が、この歌を聞いて、心を動かされた。それで歌った()。天皇は、井戸の傍の桜の花を見て、歌った()。皇后が、これを聞いて、また大変恨みに思った。そこで、衣通の郎姫が、「私は、いつも王宮に近づいて、昼夜ずっと、陛下の立居振舞を視ていたい。しかし皇后は、私の姉です。私が原因でいつも陛下を恨んでいる。また私の為に苦しんでいる。それで、出来ましたら、王居を離れて、遠くに居たい。それで皇后の妬む気持ちが少しは癒えるでしょう」と奏上した。天皇は、それで、更に宮室を河内の茅渟に造って、衣通の郎姫を住まわせた。この為に、何度も日根野で猟をして楽んだ。九年の春二月に、茅渟の宮に行幸した。秋八月に、茅渟に行幸した。冬十月に、茅渟に行幸した。十年の春正月に、茅渟に行幸した。そこで、皇后が、「私は、ほんの少しも(論衡:採毫毛之善)、弟姫を妬んではいない。しかし恐れているのは、陛下が、何度も茅渟に行幸することです。このことで、百姓が苦しんでいるではないですか。できましたら、何度も行幸することを止めてください」と奏上した。この後は、回数を減らして行幸した。十一年の春三月の朔が癸卯の丙午の日に、茅渟の宮に行幸した。衣通の郎姫が、歌った()。その時に天皇が、衣通郎姫に「この歌を他人にも聞かせよう。皇后は、これを聞いたらきっとものすごく怒るだろう」と言った。それで、その当時の人は、濱藻を奈能利曾毛と名付けた。これより前に、衣通の郎姫は、藤原の宮に住んでいた。その時、天皇は、大伴の室屋の連に「私は、丁度良い時に美しくあでやかな娘を自分のものにした。この娘は皇后の妹だ。私の特に愛しい気持ちでいっぱいだ。できたら、その名を後世に伝えたいと思うが、どうしたらいいのか」と詔勅した。室屋の連は、詔勅を拠り所に奏上を許された。それで諸々の国造達から取り立てて、衣通の郎姫の為に、藤原部を定めた。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話の衣通の郎姫は『古事記』では稚渟毛二岐皇子の娘の忍坂大中姫命の妹ではなく、「娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女・・・次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女」と允恭天皇の娘で『日本書紀』の允恭天皇は『古事記』の允恭天皇の娘長田大郎女の婿で『日本書紀』は平群氏が記述した史書なのだから、平群氏の皇位の正統性を記述していて、『古事記』はその平郡氏に滅ぼされた側の史書である。
すなわち、実際の雄朝津間稚子宿禰は允恭天皇の娘婿、木梨輕皇子が正統な皇太子で平群氏の雄朝津間稚子宿禰が政権を奪ったということで、更に、允恭天皇は去來穗別や瑞齒別以外の兄弟なのだから仲皇子、その皇后が忍坂大中姫になり、『日本書紀』の説話の内容は皇后の妹が弟媛と言えば、木事の娘の津野媛・弟媛姉妹で、弟媛がいた近江の坂田は伊勢遺跡から4Km程度の場所に坂田宮伊勢斎王禊祓所の跡があり、やはり、伊勢遺跡の王朝の姫だ。
他の登場人物の烏賊津使主は神功皇后摂政前紀に「武内宿禰令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者」と出現し、倭の直の吾子篭は仁徳天皇即位前紀に「吾子篭遣於韓國」と額田大中彦皇子が「掌倭屯田及屯倉」と支配権を主張した時の関係者でやはり大中媛と大中皇子で仲皇子・中媛も兄弟若しくは夫婦というセットの名前で、応神天皇の妃も仲媛と弟媛が存在し、この名前は王朝末期の政権交代に重要な役割を持つ名前のようだ。

2020年1月15日水曜日

最終兵器の目  允恭天皇2

 『日本書紀』慶長版は
是日爲皇后定刑部皇后生木梨輕皇子名形大娘皇女境黑彥皇子穴穗天皇輕大娘皇女八釣白彥皇子大泊瀬稚武天皇但馬橘大娘皇女酒見皇女初皇后隨母在家獨遊苑中時鬪鶏國造從傍徑行之乗馬而莅籬謂皇后嘲之曰能作園乎汝者也且曰壓乞戸母其蘭一莖焉皇后則採一根蘭與於乗馬者因以問曰何用求蘭耶乗馬者對曰行山撥蠛也時皇后結之意裏乗馬者辭旡禮即謂曰首也余不忌矣是後皇后登祚之年覓乗馬乞蘭者而數昔日之罪以欲殺爰乞蘭者顙搶地叩頭曰臣之罪實當萬死然當其日不知貴者於是皇后赦死刑貶其姓謂稻置三年春正月辛酉朔遺使求良醫於新羅秋八月醫至自新羅則令治天皇病未經幾時病已差也天皇歡之厚賞醫以歸于國
四年秋九月辛巳朔己丑詔曰上古之治人民得所姓名勿錯今朕踐祚於茲四年矣上下相爭百姓不安或誤失己姓或故認髙氏其不至於治者蓋由是也朕雖不賢豈非正其錯乎群臣議定奏之群臣皆言陛下舉失正枉而定氏姓者臣等冒死奏可戊申詔曰群卿百寮及諸國造等皆各言或帝皇之裔或異之天降然三才顯分以來多歷萬歲是以一氏蕃息更爲萬姓難知其實故諸氏姓人等沐浴齊戒各爲盟神探湯則於味橿丘之辭禍戸碑坐探湯瓮而引諸人令赴曰得實則全偽者必害於是諸人各著木綿手繦而赴釜探湯則得實者自全不得實者皆傷是以故詐者愕然之豫退無進自是之後氏姓自定更無詐人 五年秋七月丙子朔己丑地震先是命葛城襲津彥之孫玉田宿祢主瑞齒別天皇之殯則當地震夕遣尾張連吾襲察殯宮之消息時諸人悉聚無闕唯玉田宿祢無之也吾襲奏言殯宮大夫玉田宿祢非見殯所則亦遣吾襲於葛城令視玉田宿祢是日玉田宿祢方集男女而酒宴焉吾襲舉狀具告玉田宿祢宿祢則畏有事以馬一匹授吾襲爲禮幣乃密遮吾襲而殺于道路因以逃隱武內宿祢之墓域天皇聞之喚玉田宿祢宿祢疑之甲服襖中而參赴甲端自衣中出之天皇分明欲知其狀乃令小墾田采女賜酒于玉田宿祢爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇天皇設兵將殺玉田宿祢乃密逃出而匿家天皇更發卒圍玉田家而捕之乃誅冬十有一月甲戌朔甲申葬瑞齒別天皇于耳原陵
【この日に、皇后の為に刑部を定めた。皇后は、木梨の輕皇子・名形の大娘皇女・境の黒彦皇子・穴穂天皇・輕の大娘皇女・八釣の白彦皇子・大泊瀬の稚武天皇・但馬の橘の大娘皇女・酒見皇女を生んだ。最初、皇后は、母と一緒に家にいた時、一人庭でたのしんでいた。その時、鬪鶏の国の造(都祁国?)が付き従ってほとりの路を行った。馬に乗って垣根を臨み見て、「上手に庭園を造るな、お前は」と皇后をけなした。また「壓乞(?一寸来い)、奥さん、そのあららぎを一茎」と言った。皇后は、それで一根のあららぎを採って、馬に乗った者に与えた。それで、「何のためにあららぎが欲しいのか」と問いかけた。馬に乗った者は、「山に行く時に蚊を追い払うためだ」と答えた。その時、皇后は、心の底で、馬に乗る者の言葉が無礼だったので、「お頭よ、私は絶対忘れないぞ」と呟いた。この後で、皇后に、即位した年に、馬に乗ってあららぎをねだった者を探し求めて、何日も前の罪で殺そうとした。そこであららぎねだった者は、額を地面につけ、頭を打ちつけて「私の罪は、本当に万死に値します。しかしその日は、尊い人とは知りませんでした」と言った。そこで、皇后は、死刑を免じて、その姓を稻置に降格した。三年の春正月の朔が辛酉の日に、使者を派遣して良いくすしを新羅で求めた。秋八月に、くすしが新羅からやってきた。それで天皇の病を治療した。いくらかの時を経ないで、病が癒えた。天皇は、喜んでくすし手厚いほうびをして帰国させた。四年の秋九月の朔が辛巳の己丑の日に、「昔、人民を治める地域を得たら姓と名を間違えることが無かった。今、私が、皇位を継いで、四年たった。上下が争いあって、百姓は落ち着かなかった。または間違いをおこして自分の姓を失った。あるいは古くて今に合わない高い氏を認めてしまった。この治められなくなったのはこの理由からだと思う。私は、愚かとはいえ、どうして間違いを正さないことがあろうか。群臣は、相談して決めて奏上しろ」と詔勅した。群臣は、「陛下が、間違いをあげて歪みを正し、氏姓を定めてもらえば、わたしたちは、命がけで実行します」と奏上し、許された。戊申の日に、「群卿百寮と諸国の国造たちが皆それぞれ、『ある帝皇の子孫は、間違って天降った』といった。しかし天と地と人が明らかに別れてから、もう萬年を歴た。これで、一つの氏族が繁栄して、さらに萬姓となった。それが本当か知ることが出来ない。それで、諸々の氏姓の人たちは、祭祀を前に沐浴して心身を清めて、それぞれ盟神探湯しなさい」と詔勅した。それで味橿の丘の辭の禍戸の碑で、探湯の容器を据え付けて、諸々の人を引きたてて、「正しいと出た者は無事である。偽りならきっとそこなう」と言った。そこで、諸々の人は、それぞれ、木綿のたすきをつけて、釜に赴いて盟神探湯をした。それで正しいと出た者は何もなかったように無事で、正しいと出なかった者は皆害った。これで、由緒を詐称する者は、慌てふためいて、最初から尻込みして前に出られなかった。これより後、氏姓は自然に定って、詐称する人はいなかった。五年の秋七月の朔が丙子の己丑の日に、地震があった。この年より前に、葛城の襲津彦の孫の玉田の宿禰に命じて、瑞齒別天皇の殯を担当させて。それで地震の夕にあたって、尾張連の吾襲を派遣して、殯の宮の動静を調べさせた。その時、人々が、みな欠けることなく集ったがただ玉田の宿禰だけ居なかった。吾襲が、「殯の宮の責任者の玉田の宿禰が、殯の場所に見かけなかった」と奏上した。すなわちまた吾襲を葛城に派遣して、玉田の宿禰を調べさせた。この日に、玉田の宿禰は、丁度、男女を集めて、酒宴をもようしていた。吾襲は、状況を具体的に挙げて玉田の宿禰に告げた。宿禰は、それで武力による制裁を畏れて、馬一匹を、吾襲に渡して貢ぎ物とした。それで密かに吾襲の行くてを邪魔して、道路で殺した。それで武内の宿禰の墓域に逃げ隱れた。天皇はそれを聞いて玉田の宿禰を召喚した。玉田の宿禰は、疑って、よろいを衣の中に着て、参上した。よろい端が、衣の中からはみ出していた。天皇は、見極めてその状況を知ろうとして、小墾田の采女に命じて、酒を玉田の宿禰にふるまわせた。そこで采女は、衣の中に鎧が有ることを見極めて、詳しく天皇に奏上した。天皇は、兵を用意して殺そうとした。玉田の宿禰は、それで密かに逃げ出して家に匿れた。天皇は、出兵して、玉田の家を圍んで、捕えて誅殺した。冬十有一月の朔が甲戌の甲申の日に、瑞齒別天皇を耳原の陵に葬った。】とあり、標準陰暦と合致する。
允恭天皇は皇位について玉田の宿禰を殺害しているのだから、葦田の宿禰の家系が皇位を継承し、尾張氏・物部氏・武氏の影響下の家系の選別を行い、外交も百済ではなく新羅の薬師を呼んでいる。
『三国史記』に百済の416年腆支王十二年に「東晉安帝遣使冊命王爲使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と百済が晋の冊封体制に組み入れられ将軍位を得ると、 428年毗有王二年「春二月 ・・・倭國使至從者五十人」を最後に608年武王九年「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」、653年義慈王十三年に「秋八月王與倭國通好」と白村江の時代まで百済と倭は対等関係で戦争もしていない。
それに対して、新羅は500年炤知麻立干二十二年の「春三月倭人攻陷長峰鎭」までずっと倭と戦かっていて、允恭天皇は、旧来の尾張氏日本の外交を受け継ぎ扶桑国と名のり、南朝中国と南朝の冊封関係の倭・百済連合と『梁書』扶桑国に「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と高句麗の官名を使っているように、高句麗・新羅・扶桑国の対峙の関係を構築したことを示している。
そして、これは『古事記』も『日本書紀』の雄略紀以降も扶桑国とは異なる王朝が記述したことが、この對盧という官位が記述されないこと、『梁書』扶桑国に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と仏教流入も記述されないことからも良く理解できる。
『三国史』に「始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐」、『梁書』扶桑国も「貴人有罪國乃大會坐罪人於坑對之宴飲分訣若死別焉以灰繞之」と家族が酒宴をもようすことは常識であり、玉田宿禰の親の瑞齒別天皇のために酒宴を開いていた、すなわち、天皇が崩じて酒宴が出来るのは家族、他の人物が酒宴を開けば殺害されることは当然解っており、玉田の宿禰は皇太子であったから酒宴を開いていた。

2020年1月13日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十三  允恭天皇1

 『日本書紀』慶長版は
雄朝津間稚子宿祢天皇瑞齒別天皇同母弟也天皇自岐㠜至於総角仁惠儉下及壯篤病容止不便六年春正月瑞齒別天皇崩爰群卿議之曰方今大鷦鷯天皇之子雄朝津間稚子宿祢皇子與大草香皇子然雄朝津間稚子宿祢皇子長之仁孝即選吉曰跪上天皇之璽雄朝津間稚子宿祢皇子謝曰我不天久離篤疾不能步行旦我既欲除病獨非奏言而密破身治病猶勿差由是先皇責之曰汝患病縱破身不孝孰甚於茲矣其長生之遂不得繼業亦我兄二天皇愚我而輕之群卿共所知夫天下者大器也帝位者鴻業也旦民之父母斯則聖賢之職豈下愚之任乎更選賢王宜立矣寡人弗
敢當群臣再拜言夫帝位不可以久曠天命不可以謙距今大王留時逆衆不正号位臣等恐百姓望絶也願大王雖勞猶即天皇位雄朝津間稚子宿祢皇子曰奉宗廟社稷重事也寡人篤疾不足以稱猶辭而不聽於是群臣皆固請曰臣伏計之大王奉皇祖宗廟最宜稱雖天下萬民皆以爲冝願大王聽之元年冬十有二月妃忍坂大中姫命苦群臣之憂吟而親執洗手水進于皇子前仍啓之曰大王辭而不即位位空之既經年月群臣百寮愁之不知所爲願大王從群望強即帝位然皇子不欲聽而背居不言於是大中姫命惶之不知退而侍之經四五剋當于此時季冬之節風亦烈寒大中姫所捧鋺水溢而腕凝不堪寒以將死皇子顧之驚則扶起謂之曰嗣位重事不得輙就是以於今不從然今群臣之請事理灼然何遂謝耶爰大中姫命仰歡則謂群卿曰皇子將聽群臣之請今當上天皇璽符於是群臣大喜即日捧天皇之璽符再拜上焉皇子曰群卿共爲天下請寡人寡人何敢遂辭乃即帝位是年也太歲壬子二年春二月丙申朔己酉立忍坂大中姫爲皇后
【雄朝津間の稚子の宿禰天皇は、瑞齒別天皇の同母弟だ。天皇は、知恵が伸びる子供のころから(詩經の生民「誕實匍匐克岐克嶷以就口食」より)あげまきをする頃まで、思いやりの心が有ってつつましくへりくだっていた。大人になって重病を患って、たちいふるまいが滞った。六年の春正月に、瑞齒別天皇が崩じた。そこで群卿は、相談して「ちょうど今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝津間の稚子の宿禰皇子と、大草香皇子がいる。しかし雄朝津間の稚子の宿禰皇子は、年長でいつくしみの心があって孝行だ」と言った。それで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の璽を上呈した。雄朝津間の稚子の宿禰皇子は、「私に天の助けが無く、長い間、重病を患って歩けなかった。また私はすでに病を治そうと、ひとりで誰にも言わないで、しかも密に体を壊すまで病を治そうとしたが、まだ大した差が無い。それで、先皇が『お前は病を治そうとしたとはいえ、勝手に体を傷めた。親に従わないで、誰がこのように酷くした。それで長く生きても、何時まで経っても皇位を継ぐことが出来ない。』と責めた。また、我の兄の二柱の天皇は、私を愚かと軽んじた。群卿の皆に知れわたっている。天下は、大きなる器だ。帝位は、大業だ。また民の父母と同じだ。すなはち賢く徳が高てあがめられる勤めだ。どうして愚かな私に任せられるだろうか。私より賢い王を選んで立てるべきだ。徳の無い者が敢えて担当すべきでない」とことわった。群臣は、「帝位は、長く空白にしてはならない。天命は、遠慮して拒むことは出来ない。今、大王は、時の流れを止めて、人々の願いに逆らって、地位を正統に名乗ることをせず、臣下達は、百姓が絶望することを恐れている。大王、出来ましたら、困憊ではありましょうが、それでも天皇に即位してください」と再度、拝んで願った。雄朝津間の稚子の宿禰皇子は「皇統や朝廷の地位に就くのは重大な事だ。私は、重病を患って、天皇には能力が足りない」と言ってなお固辞してきかなかった。それで、臣下は「私たちは、頭を突き合わせて考えたが、大王が、皇祖を祀る社の管理を守る天皇に、最もふさわしい人です。天下は広く大袈裟と思うでしょうが、すべての民が皆、宜しくと願っています。出来ましたら、大王、聞き入れてください」と揃って固く願い求めた。元年の冬十二月に、妃の忍坂の大中姫命は、臣下が憂いを口にしているのを苦にして、みづから洗手水を携えて、皇子の前へ進み出た。それで「大王は、辞退して天皇に即位しないで空位のまま、既に年月を経てしまった。臣下や役人は思いなやんで成す術がない。できましたら、大王、群臣の望みどおりに、しいて帝位に就いてください」とみちびいた。それでも皇子は、きかないで背を向けて何も言わなかった。そこで、大中姫の命は、かしこまって、退くことを知らないかのように側にいて、四五刻の時間が過ぎた。この時は、冬だったので、風も烈しく寒かった。大中姫は両手で持った容器の水が、溢れて腕で凍った。寒さに堪えられずに死にそうだった。皇子は、驚いて思いめぐらした。それで「皇位を継ぐのは、重大な事だ。かるがるしく就任することは出来ない。それで、いままで皆に従わなかった。しかし、今、臣下が願うことは、ものごとの道理に明らかに適っている。どうしていつまでも断り続けられようか」と言って助け起こした。それで大中姫の命は、天を仰いで喜んで、「皇子が、臣下の願い聞き入れた。今こそ天皇の璽符を献上しなさい」と群卿にいった。それで、臣下は、大変喜んで、すぐその日に、天皇の璽符を捧げて、二度拝礼して献上した。皇子は「群卿が、一緒に天下の為に私にいった。私は、どうしていつまでも断り続けられようか」と言って、それで帝に即位した。是歳は、太歳が壬子だった。二年の春二月の朔が丙申の己酉の日に、忍坂の大中姫を皇后に立てた。】とあり、二年二月丙申朔は標準陰暦と合致する。
反正天皇には高部皇子がいるのだから、高部皇子が皇太子で、反正天皇が葦田の宿禰なら高部皇子は蟻臣で黒媛が履中天皇の玉田の宿禰の妃で子が圓大臣でその妃が圓皇女の可能性がある。
すなわち、允恭天皇は正統の天皇ではなく、簒奪した天皇で、大王と呼ばれた雄朝津間の稚子の宿禰というある地域の王だったことを意味し、大王は天皇ではなく、天皇でなかった人物が天皇になったのであり、天皇(大王)が天皇に即位するなどという日本語は存在しない。
そして、ここで活躍するのが大中媛で、仲皇子は大鷦鷯の正統な王で、額田の大中彦の子と想定されると述べたが、大中媛は『古事記』の品陀和気に「娶迦具漏比賣生御子川原田郎女次玉郎女次忍坂大中比賣次登富志郎女次迦多遅王」と応神天皇と迦具漏比賣との子で、同じく『古事記』の大帯日子游斯呂和気に「若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等(柴)野入杵之女此等(柴)野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也」、「品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日賣真若比賣命生子大郎子亦名意富々杼王次忍坂之大中津比賣命」とあるように、大中比賣は「香坂王忍熊王之御祖」で、応神天皇の親の世代が大中比賣で応神天皇の孫に大中津媛のように当然大中媛も襲名で足仲彦も対の襲名、当然、足仲彦の親が大中彦、大中媛は仲彦皇子の兄弟若しくは妃だった可能性が高い。
すなわち、譽田王が王位を譽田別王に簒奪されたのを取り返し、同じく正統な血統の「なか国」の大中姫の協力で取り返したことを意味し、『古事記』では若帯日子、『日本書紀』では足仲彦と「なか国王」で「若国王」という大王だった。
そして、正統な皇后の血筋の大中姫を皇后に迎え入れ、天皇の璽も手に入れた。

2020年1月10日金曜日

最終兵器の目  反正天皇

 『日本書紀』慶長版は
「瑞齒別天皇去來穗別天皇同母弟也去來穗別天皇二年立爲立爲皇太子天皇初生于淡路宮生而齒如一骨容姿美麗於是有井曰瑞井則汲之洗太子時多遲花落有于井中因爲太子名也多遲花者今虎杖花也故稱謂多遲比瑞齒別天皇六年春三月去來穗別天皇崩元年春正月丁丑朔戊寅儲君即天皇位秋八月甲辰朔己酉立大宅臣祖木事之女津野媛爲皇夫人生香火姫皇女圓皇女又納夫人弟弟媛生財皇女與髙部皇子冬十月都於河內丹比是謂柴籬宮當是時風雨順時五穀成熟人民富饒天下太平是年也太歲丙午六年春正月甲申朔丙午天皇崩于正寢」
【瑞齒別天皇は、去來穗別天皇の同母弟だ。去來穗別天皇の二年に、皇太子になった。天皇は、淡路の宮で生まれた。生まれつき歯が、一つの骨のようで、姿形は人の目にとまるほど美しかった。生まれた時、井戸が有って、瑞の井戸と言った。その井戸の水を汲んで太子を洗った。その時にタジイの花が井戸の中に有った。それで太子の名にした。タジイの花は、今のイタドリの花だ。それで、多遲比の瑞齒別の天皇ととなえた。六年の春三月に、去來穗別の天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁丑の戊寅の日に、儲の君が、天皇に即位した。秋八月の朔が甲辰の己酉の日に、大宅の臣の祖の木事の娘の津野媛を、皇夫人に立てた。香火姫皇女・圓皇女を生んだ。また、夫人の妹の弟媛を妃にして、財皇女と高部皇子とを生んだ。冬十月に、河内の丹比に都を造った。これを柴籬の宮といった。この時に、季節通りに、五穀が良く実り、人民は富んで豊かになり、天下太平だった。是年は、太歳が丙午だった。六年の春正月の朔が甲申の丙午の日に、天皇は 正殿で崩じた。】とあり、元年正月丁丑朔は前年の12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、六年春正月甲申朔は合致せず、伊丹屋善兵衛出版の原本には五年春正月甲申朔とあり、五年なら標準陰暦と合致し、元年八月甲辰朔も標準陰暦と合致する。
『古事記』前川茂右衛門寛永版では大宅臣の祖の木事を「天皇取丸迩之許碁登臣之女都怒郎女生御子甲斐郎女次都夫良郎女又娶同臣之女弟比賣生御子財王次多訶弁郎女」のように、木事は丸迩臣と記述し、丸迩臣は同じく『古事記』の品陀和気に「娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王」と日觸と同じだ。
しかも、『古事記』では大臣すなわち伊勢遺跡の王朝の皇太子で履中天皇は雌鳥皇女を皇后に出来なかったが、反正天皇は伊勢遺跡の王朝の直系の姫ではあるが、すでに皇后位継承の家系でない分家なので皇夫人とし、皇女の名が圓皇女と履中天皇と同じ屋敷の中で生まれた可能性がある。
そして、反正天皇の葦田の宿禰は仲皇子と兄弟で履中天皇である玉田の宿禰が葦田の宿禰の娘の黒媛の婿、すなわち、この履中天皇は2代目の玉田宿禰・1代目圓大使主で、叔父甥も系図で見れば兄弟で、雄朝津間稚子の宿禰が2代目の玉田宿禰・1代目圓大使主なのだろうか。
史書の天皇は宮のことなので、個々の王はその宮に当てはめただけなのだから、宮の交代イコール王の死亡とは言えず、記録として日干支を含めて残っているのは宮の始まりから終わりまでであり、短い宮は前後の天皇が遷都しただけの可能性を忘れてはならなず、反正天皇は太子を決めておらず、遷都の可能性を否定できない。
396年に始まった葛城氏の王朝が420年の「百濟直支王薨」を応神天皇二五年と記述して、少なくともこの時期まで建内の宿禰すなわち誉田から王朝が続いたということで、去來穗別・瑞齒別・雄朝津間稚子宿禰は葛城王朝の天皇名ではなく平群王朝の天皇に即位する以前の王名である。
反正天皇に説話が無いのは390年即位の応神天皇や396年即位の応神天皇の説話や仁徳天皇の説話に含まれている可能性があり、允恭天皇二四年より後の説話が無く、396年即位の応神天皇44年の439年まで続き、その後葦田の宿禰に継承された葛城王朝の中に含まれ、平郡王朝の仁徳天皇87年は390年即位の応神天皇で476年にあたると思われ、それ以降鮪が継承していると思われ、仁徳天皇は玉田の宿禰の妹磐之媛を皇后に、同じく平郡氏の雄略天皇は圓の娘を妃にしている。