2019年12月30日月曜日

最終兵器の目 履中天皇2

 『日本書紀』慶長版は
當是時倭直吾子籠素好仲皇子預知其謀密聚精兵數百於攪食栗林爲仲皇子將拒太子時太子不知兵塞而出山行數里兵衆多塞不得進行乃遣使者問曰誰人也對曰倭直吾子籠也便還問使者曰誰使焉曰皇太子之使時吾子籠憚其軍衆多在乃謂使者曰傳聞皇太子有非常之事將助以備兵待之然太子疑其心欲殺則吾子籠愕之獻己妹日之媛仍請赦死罪乃免之其倭直等貢采女蓋始于此時歟太子便居於石上振神宮於是瑞齒別皇子知太子不在尋之追詣然太子疑弟王之心而不喚時瑞齒別皇子令謁曰僕無黑心唯愁太子不在而參起耳爰太子傳告弟王曰我畏仲皇子之逆獨避至於此何且非疑汝耶其仲皇子在之獨猶爲我病遂欲除故汝寔勿黒心更返難波而殺仲皇子然後乃見焉瑞齒別皇子啓太子曰大人何憂之甚也今仲皇子無道群臣及百姓共惡怨之復其門下人皆叛爲賊獨居之無與誰議臣雖知其逆未受太子命之故獨慷慨之耳今既被命豈難於殺仲皇子乎唯獨懼之既殺仲皇子猶旦疑臣歟冀見得忠直者欲明臣之不欺太子則副木菟宿祢而遣焉爰瑞齒別皇子歎之曰今太子與仲皇子並兄也誰從矣誰乖矣然亡無道就有道其誰疑我則詣于難波伺仲皇子之消息仲皇子思太子巳逃亡而無備時有近習隼人曰刺領巾瑞齒別皇子陰喚刺領巾而誂之曰爲我殺皇子吾必敦報汝乃脱錦衣褌與之刺領巾恃其誂言獨執矛以伺仲皇子入厠而刺殺即隸于瑞齒別皇子於是木菟宿祢啓於瑞齒別皇子曰刺領巾爲人殺己君其爲我雖有大功於巳君無慈之甚矣豈得生乎乃殺刺領巾即日向倭也夜半臻於石上而復命於是喚弟王以敦寵仍賜村合屯倉是日捉阿曇連濱子
【この時に、倭直の吾子篭が、日ごろから仲皇子と親しくしていた。前々からそのもくろみを知っていて、密かに精兵数百人を撹食の栗林に集めて、仲の皇子の為に、太子をこばもうとした。その時太子は、兵を妨げることを知らないで、山を数里出て来た。軍勢の多くが邪魔をされ、進むこと出来ない。それで使者を派遣して、「誰だ」と問いかけると、「倭直の吾子篭だ」と答えた。それで再び使者に「誰の死者だ」と問いかけ、「皇太子の使者です」といった。その時、吾子篭は、その軍勢がたくさんいることにためらって、使者に「伝え聞いたところ、皇太子が、非常事態と聞き、助けようと兵を準備して待っていました」と言った。しかし太子は、その心根を疑って殺そうとした。それで吾子篭は怯えて、妹の日之媛を献上した。それで死罪を許してほしいと願った。それで免じた。倭直等が、采女を献上するのは、思うにこれが始まりだろうか。太子は、石上の振神の宮に居た。ここに、瑞齒別の皇子は、太子がいないことを知って、追いかけておとずれた。しかし太子は、弟王の心根を疑って声をかけなかった。その時、瑞齒別の皇子は、お目通りして、「私は、悪い考えは無い。ただ太子が居ないこと愁いて、やってきただけです」と言った。そこで太子は、弟王に伝えて「私は、仲の皇子の反逆を畏れて、一人で逃げてここに来た。どうしても、お前を疑わずにいられない。仲の皇子がいるだけが、私の苦労の種だ。絶対に取り除きたい。それで、お前が、本当に反逆心が無いのなら、難波に帰って、仲の皇子を殺せ。そうしたら、会見しよう」と告げた。瑞齒別の皇子は、太子に「お大人様、何をそんなに心配しているのです。今、仲の皇子は、非道で、群臣や百姓共に、許しがたく不満に思っている。また、その食客も、皆、叛いて敵となっている。孤独で誰も相談に乗らない。私は、その反逆を知っていても、まだ、太子に命令されていなかった。だから、一人で激しくいきどおり嘆いていました。今、やっと命令された。どうして仲の皇子を殺さないはずが有りましょうか。だだ一つ気がかりなのは、仲皇子を殺しても、それでもなお、私を疑わないですか。できましたら、忠義で正直に見て仕える人物をつけてわたしがあざむかないことを明らかにしたい。」と表明した。太子は、木菟の宿禰を見届けに派遣した。瑞齒別の皇子は、「今、太子と仲の皇子共に兄だ。どちらかに従い、どちらかに叛く。だから、道理に従わない者を亡し、道理が有る者につけば、誰が私を疑うだろうか」といった。そして難波に行き、仲の皇子の様子を探った。仲の皇子は、太子がすでに逃亡したと思って、何も備え無かった。その時、近習の隼人がいた。刺領巾と言った。瑞齒別の皇子は、ひそかに刺領巾を呼んで、「私の為に皇子を殺してくれ。私は、必ず手厚くお前に報いよう」と頼んだ。それで、錦の衣と褌を脱いで与えた。刺領巾は、その頼まれた約束を頼りに、一本の矛をとって、仲の皇子が廁に入ったすきまをねらって刺し殺し、瑞齒別の皇子につきしたがった。そこで、木菟の宿禰は、瑞齒別の皇子に「刺領巾は、人の為に自分の主君を殺した。それは、私の為に大変功績があったと言っても、自分の主君にいつくしむことが無い事甚だしい。どうして生かしておけようか」話した。それで刺領巾を殺した。その日すぐに、倭へ向った。夜半に、石上に来て復命した。そこで、弟王を呼んでとても手厚い待遇で村合の屯倉を与えた。この日、阿曇の連の濱子を捕まえた。】とある。
『日本書紀』の仁徳天皇即位前紀に吾子篭は額田の大中彦皇子が、倭の屯田や屯倉を淤宇の宿禰に渡さないで、すなわち、大山守の土地だから額田の大中彦が支配すると渡さなかったので、吾子篭がその実情を知っているからということで聞くと、この土地は垂仁天皇の時代から天皇の領地で天皇のものということで、額田の大中彦に伝えたと記述して、大山守が皇太子になれなかったのが不満だったと記述して終わっている。
これは、額田の大中彦が仲足彦の皇子またはその上司の大足彦の皇子だったので、額田の大中彦が後継天皇になるのだから、倭の屯田や屯倉が自分のものと納得した可能性が高い。
そして吾子篭が大井河に引っ掛っていた木で船を造った年に額田の大中彦が氷室を見つけた記事もあり、大中彦と吾子篭が同世代だが、履中前期の記述からこの吾子篭が仲皇子と親密としていて、どうやら、額田の大中彦皇子が実際の建内の宿禰の継承者でその子が仲皇子となり皇太子とすると世代的にも説話の意味が良く通り、吾子篭が韓地に行っていたのは葛城の襲津彦と共に出国していたことがわかる。
吾子篭は雄略天皇二年まで記述されていて、大鷦鷯が400年即位の履中天皇なら吾子篭が455年以降まで生存していても矛盾がなく、雄略天皇二年には大倭の國造吾子篭の宿禰と倭直で逆臣だったものが雄略紀には出世しており、吾子篭を許すように尽力したのだろう。
また、瑞齒別は隼人の刺領巾を配下にしているようで、葛城氏の支配地日向との関係が解り、阿曇の連も『古事記』に「綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也故阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神」と九州の氏族で墨江の大神と「墨江之中津王」の配下と矛盾が無く、『舊事本紀』に「天造日女命阿曇連等祖」と阿曇連は天国の王の家系で、葛城氏が『三国志』の投馬國や邪馬壹國との繋がりが認められる。
そして、『後漢書』辰韓に「國出鐵濊倭馬韓并从市之凡諸貿易皆以鐵為貨」、『三國志』弁辰傳に「國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢」、倭人伝に「竹箭或鐵鏃或骨鏃」、『晋書』倭人に「有刀楯弓箭以鐵爲鏃」と倭には鉄が豊富に輸入され、北部九州には鉄製品が多く出土するが、畿内では出土数が少なく、『梁書』扶桑國に「多蒲桃其地無鐵有銅」と対応している。
九州や畿内の砥石を研究されている新潟大学の森貴教氏は古代学研究会での発表で、砥石の目の粗さが細かいものが鉄器用に用いられ、畿内は遺跡に雑多の砥石が出土するのに対して、九州は地域で別れて分業されていていると報告され、すなわち、分業するほど鉄器生産が盛んな九州と片手間の畿内が見て取れ、この豊富な鉄器によって倭国と葛城氏の連合に尾張王朝は敗れ去ったようだ。

2019年12月27日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十一 履中天皇1

 『日本書紀』慶長版は
去來穗別天皇大鷦鷯天皇太子也母曰磐之媛命葛城襲津彥女也大鷦鷯天皇三十一年春正月立爲皇太子八十七年春正月大鷦鷯天皇崩皇太子自諒闇出之未即尊位之間以羽田矢代宿祢之女黑媛欲爲妃納采既訖遣住吉仲皇子而告吉日時仲皇子冒太子名以姧黑媛是夜仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉明日之夜太子不知仲皇子自姦而到之乃入室開帳居於玉床時床頭有鈴音太子異之問黑媛曰何鈴也對曰昨夜之非太子所齎鈴乎何更問妾太子自知仲皇子冒名以姦黑媛則默之避也爰仲皇子畏有事將殺太子密興兵圍太子宮時平群木菟宿祢物部大前宿祢漢直祖阿知使主三人啓於太子太子不信故三人扶太子令乗馬而逃之仲皇子不知太子不在而焚太子宮通夜火不滅太子到河內國埴生坂而醒之顧望難波見火光而大驚則急馳之自大坂向倭至于飛鳥山遇少女於山口問之曰此山有人乎對曰執兵者多滿山中宜𢌞自當摩侄踰之太子於是以爲聆少女言而得免難則歌之曰於朋佐箇珥阿布夜烏等謎烏瀰知度沛麼哆駄珥破能邏孺哆摩知烏能流則更還之發當縣兵令從身自龍田山踰之時有數十人執兵追來者太子遠望之曰其彼來者誰人也何步行急之若賊人乎因隱山中而待之近則遣一人問曰曷人且何處往矣對曰淡路野嶋之海人也阿曇連濱子爲仲皇子令追太子於是出伏兵圍之悉得捕
【去來穗別天皇は、大鷦鷯天皇の太子だ。母は磐之媛命という。葛城の襲津彦の娘だ。大鷦鷯天皇の三十一年の春正月に、皇太子となった。八十七年の春正月に、大鷦鷯天皇が崩じた。太子は、喪に服する期間が明けて、まだ皇位に就いていない時に、羽田の矢代の宿禰の娘の黒媛を妃にしようと思った。結納を取り交わして、住吉の仲皇子を派遣して、吉日を告げる時に仲皇子は、太子の名を名のって、黒媛を犯した。この夜、仲皇子は、手に飾る鈴を黒媛の家に忘れて帰った。翌日の夜に、太子が、仲皇子が姦淫したことを知らないで媛の元に赴いて、部屋に入ってたれぎぬをあけると、媛は寝床にいた。その時、床の上部で鈴の音が鳴った。太子は、奇妙に思って、黒媛に「どういう鈴だ」と問いかけた。「昨夜、太子が持って来た鈴ではありませんか。どうして今更私に聞くのですか」と答えた。太子は、仲皇子が、名をかたって黒媛を犯したことを知って、黙って去った。そこで仲皇子は、太子が武力に訴えることを畏れて、太子を殺そうとした。秘密裡に挙兵して、太子の宮を囲んだ。その時に平群の木菟の宿禰と物部の大前の宿禰と漢の直の祖の阿知使主の三人が、太子に教えたが、太子は、信んじなかった。それで、三人は、太子をたすけて、馬に乘せて逃げた。仲皇子は、太子がいいない事を知らないで、太子の宮を焚いた。夜どうし、火が消えなかった。太子は、河内国の埴生の坂について目が醒めた。難波を振り返って臨み見た。炎が放つ光を見て大変驚いた。それで急いで馬を走らせて、大坂から倭へ向った。飛鳥山についた時、少女に山の入口で遇った。「この山に誰かいるか」と問いかけた。「軍を指揮して、山中に満ちています。遠回りして當摩の小道を越すといい」と答えた。太子は、少女の言葉を聞けば、難を免れることが出来ると思って、歌った()。それで、さらに進んで倭に帰って、倭の縣の兵を起こして従わせ、龍田の山を越した。その時、数十人の、兵を従えて追ってくる者があった。太子は、遠くを望み見て「その向こうから来るのは、誰だ。どうして急いで歩いて来る。若しかした盗賊か」と言った。それで山中に隱れて待ち伏せした。近づいてきた時、一人を派遣して、「何者だ。そしてどこへ行く」と問いかけた。「淡路の野嶋の海人です。阿曇の連の濱子といい、仲皇子の爲に、太子を追いかけている」と答えた。そこで、伏兵を出撃して取り囲んだ。残らず捕えることが出来た。】とある。
去來穗別は氏姓がなく天皇の名前には違いがないが、別が不満で、最初の天皇名を持つ応神天皇は『日本書紀』応神天皇即位前紀に「譽田天皇足仲彦天皇第四子也」と記述されて別がつかない。
雄略天皇が記述した一書に「大神本名譽田別神太子元名去來紗別尊然無所見也未詳」と幼名が定かでないと述べるが、天皇の名を譽田と呼ぶのだから、幼名が譽田別なら定かでなければ理に適わない。
すなわち、雄略天皇にとっての血縁の天皇は譽田で譽田別や去來紗別などの別がつく跡取りでない分家の皇子が他の氏族の文献に残っていたと考えられる。
すなわち、雄略天皇は譽田天皇の血統だが、皇位継承権が無い木菟の宿禰という木国の王の地位で、『日本書紀』仁徳元年に「則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰」と仁徳天皇の血統と主張しなければならなかった。
『舊事本紀』に「十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣・・・品太天皇御世賜尾治連姓」、「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」と尾綱根が390年即位の応神天皇の時の実際の天皇で実質は譽田天皇建内の宿禰が力を持っていて、尾張氏の髙城入姫の命と建内の宿禰の子の家系の葛城の襲津彦(大鷦鷯)の家系が天皇の地位を得る血統の人間となり、尾綱根が皇位を奪われて尾張氏を名乗り皇太子の意乎巳も大臣となった。
大鷦鷯は建内の宿禰の子ではあるが、実際の建内の宿禰の後継者の羽田の矢代の宿禰の媛を得ることで盤石な血統を得られるため、大鷦鷯の正当な後継者の仲皇子がその媛を得てしまったため、分家の去來穗別が横やりで政権を奪ったのが実情で、勝った天皇は正義で負けた王は逆賊だ。
去來穗別は難波に出仕していたが、地元の倭に戻って挙兵するのであるが、難波から飛鳥山までは仲皇子の領域だったことを記述している。
『古事記』にも「本坐難波宮之時坐大嘗而爲豊明之時」と難波で大嘗が行われており、難波の朝廷が皇位継承の儀式を行っている。

2019年12月25日水曜日

最終兵器の目 仁徳天皇11

 『日本書紀』慶長版は
六十五年飛騨國有一人曰宿儺其爲人壹體有兩面面各相背頂合無項各有手足其有膝而無膕踵力多以輕捷左右佩剱四手並用弓矢是以不隨皇命掠略人民爲樂於是遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之六十七年冬十月庚辰朔甲申幸河內石津原以定陵地丁酉始築陵是日有鹿忽起野中走之入役氏(民)之中而仆死時異其忽死以探其痍即百舌鳥自耳出之飛去因視耳中悉咋割剥故号其處曰百舌鳥耳原者其是之縁也是歲於吉備中國川嶋河派有大虬令苦人時路人觸其處而行必被其毒以多死亡於是笠臣祖縣守爲人勇捍而強力臨派淵以三全瓠投水曰汝屡吐毒令苦路人余殺汝虬汝沉是瓠則余避之不能沈者仍斬汝身時水虬化鹿以引入瓠瓠不沈即舉剱入水斬虬更求虬之黨類乃諸虬族滿淵底之岫穴悉斬之河水變血故号其水曰縣守淵也當此時妖氣稍動叛者一二始起於是天皇夙興夜寐輕賦薄斂以寛民萌布德施惠以振困窮吊死問疾以養孤孀是以政令流行天下太平二十餘年無事矣八十七年春正月戊子朔癸卯天皇崩冬十月癸未朔己丑葬于百舌鳥野陵
【六十五年に、飛騨国に宿儺という人がいた。そのからだつきは、体が一つで顔が2つ有った。顔はそれぞれ反対を向いていた。頭はつながっているがうなじが無い。それぞれ手足は有った。その人は膝や膝窩(ひかがみ)が有って、踵が無い。多才で軽やかで素早い。左右に剱を差して、四本の手に2本の弓矢を用いる。それで、皇命に隨がわない。人民からかすめとって喜んでいる。そこに、和珥臣の祖の難波根子武振熊を派遣して誅殺させた。六十七年の冬十月の朔が庚辰の甲申の日に、河内の石津の原に行幸して、陵にする土地を定めた。丁酉の日に、陵を築き始めた。この日に、鹿がいて、にわかに野の中から出てきて、走って役に就いた民の中に入ってきて仆れて死んだ。その時、鹿がにわかに死んだことを奇妙に思って、そのきずついた原因を探した。それで百舌鳥が、耳から飛び出して去っていった。それで耳の中を視ると、のこらず咋いさきはぎとっていた。それで、其処を百舌鳥の耳原と名付けたのは、これが由来だ。この歳に、吉備の中国の川嶋河の支流に、大きなみづちがいて人を苦めた。人が歩いて、それに触れていけば、必ずその毒で被害にあって、多くが死亡した。そこで、笠臣の祖の縣守の人柄は、勇敢で力強い。支流の川渕にやって来て、三個の丸のままの瓢箪を川に投げ入れて、「お前はしきりに毒を吐いて、路上の人を苦しめる。私は、お前を殺す。お前がこの瓢箪を沈めることが出来れば、私は立ち去ろう。沈めることが出来なければ、すなわちお前を斬り殺す」と言った。その時、みづちは、鹿に化けて、瓢箪を川に引き入れたが沈まなかった。それで剱を振り上げて水に入って、みづちを斬った。さらにみづちの中間を探した。それで諸々のみづちたちが、川淵の底のくぼみに満ちていた。残らず斬り殺した。河の水が血に染まった。それで、その川を縣守の淵と名付けた。この時に、あやしい気配がだいぶ動き出して、反逆者が一人・二人と出現しだした。そこで、天皇は、早くから起き出し暗くなってから寝て、割り当てを軽くし、とりたてを薄くして、困り苦しんでいたら助ける。死を弔い病を問いただし、一人っきりのやもめを養った。このようにして、まつりごとやいいつけが拡がり、国じゅうが平和に治まり穏やかだった。二十年余り何事もなかった。八十七年の春正月の朔が戊子の癸卯の日に、天皇、が崩じた。冬十月の朔が癸未の己丑の日に、百舌鳥野の陵に葬った。】とあり、六十七年十月庚辰は標準陰暦と合致し、八十七年正月戊子は前年の12月30日で小の月なら朔日になる。
『舊事本紀』では「八十二年春二月乙巳朔詔侍臣物部大別連公・・・改賜矢田部連公姓」と、『日本書紀』の崇神天皇紀に「則遣矢田部造遠祖武諸隅」と物部氏か尾張氏か解らない武諸隅を述べたが、賜姓された物部氏と尾張氏が天皇の家系だったように、矢田部氏は近江の伊勢遺跡の朝廷に対する賜姓の可能性があり、父物部印葉連は「輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連」で「以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と恐らく印葉の子が大臣すなわち没落側の皇太子を示している。
これまで、造陵は元年や末年で、孝元天皇六年の「葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵」、開化天皇五年の「葬大日本根子彦國牽天皇于劒池嶋上陵」が長期間造陵にかかったが、それでも、死後に造っている。
ところが、仁徳天皇はすでに即位して67年も経ってから、仁徳陵が正しければ当然作るのに時間がかかるのは当然なので、67年在位した高齢の天皇がまだ20年生きることが解っていたような記述だ。
実際は、この築陵の後20年生存が重要で、だいたい、天皇の一代は20年が平均と言われ、それは当然で、天皇の長男が生まれる時期が20歳頃なので、20年毎に即位する循環が出来、すなわち、何代目かの仁徳天皇が崩じて、長男が仁徳天皇を襲名して、すぐに埋葬し、また、20年後、その天皇が崩じて百舌鳥野陵に葬られたのである。
築陵は竪穴を掘って、石で囲んでお棺を納め、蓋をして土を被せれば埋葬は終わり、祭礼場所が完成すれば天皇陵が出来上がり、短時間で終了するのだから、次の天皇即位前の数か月で終えることが出来る。
そうでなければ、他の天皇も同じように任期中に築陵を始める記事が無ければ理解できない。
そして、この、笠臣の祖も笠臣が出現するのが大化元年の吉備笠臣垂、和珥臣が雄略天皇元年の春日和珥臣深目女で前項の始祖と同じで、武振熊は神功皇后摂政元年に「武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」とあるように、武内宿禰と共に出現し、この事件は実際は390年に武内宿禰が即位する前の377年頃がまさによく合い、忍熊王の戦いの結果、難波根子の役職名を得ることが出来た。

2019年12月23日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇10

  『日本書紀』慶長版は
五十五年蝦夷叛之遣田道令擊則爲蝦夷所敗以死于伊寺水門時有從者取得田道之手纏與其妻乃抱手纏而縊死時人聞之流涕矣是後蝦夷亦襲之略人民因以掘田道墓則有大虵發瞋目自墓出以咋蝦夷悉被虵毒而多死亡唯一二人得兔耳故時人云田道雖既亡遂報讎何死人之無知耶五十八年夏五月當荒陵松林之南道忽生兩歷木挾路而末合冬十月吳國髙麗國並朝貢六十年冬十月差白鳥陵守等充役丁時天皇臨于役所爰陵守目杵忽化白鹿以走於是天皇詔之曰是陵自本空故欲除其陵守而甫差役丁今視是恠者甚懼之無動陵守者則且授土師連等六十二年夏五月遠江國司表上言有大樹自大井河流之停于河曲其大十圍本一以末兩時遣倭直吾子籠令造舩而自南海運之將來于難波津以?(充)御舩也是歲額田大中彥皇子獵于鬪鶏時皇子自山上望之瞻野中有物其形如廬乃遣使者令視還來之曰窟也因喚鬪鶏稻置大山主問之曰有其野中者何窨矣啓之曰氷室也皇子曰其藏如何亦奚用焉曰掘土丈餘以草蓋其上敦敷茅荻取氷以置其上既經夏月而不泮其用之即當熱月漬水酒以用也皇子則將來其氷獻于御所天皇歡之自是以後毎當季冬必藏氷至春分始散氷也
【五十五年に、蝦夷が、反逆した。田道を派遣して撃たせた。それで蝦夷によって敗れて、伊峙の水門で死んだ。この時に供の者がいて、田道の弓籠手を持ち帰ることが出来て、その妻に渡した。それで弓籠手を抱きしめて首を括って死んだ。当時の人は、それを聞いて涙を流した。この後、蝦夷は、また来襲して人民を略奪した。それで、田道の墓を掘ると、大蛇がいて、かっと目をむいて墓から這い出して蝦夷を噛んでのこらず蛇の毒の被害にあい、たくさんの死者が出た。ほんの一人か二人が免れることが出来ただけだった。それで、当時の人が「田道は、すでに死んだと言っても、かたきにしかえしをなしとげた。どうして、死人が何もできないというのか」と言った。五十八年の夏五月に、ちょうど荒陵の松林の南の道に、急に2本の歴木が生えた。路を挟んで幹の先が合わさっていた。冬十月に、呉国・高麗国が、一緒に朝貢した。六十年の冬十月に、白鳥陵の墓守等を使って役丁に充てた。その時、天皇は、みづから役丁の働く所を臨み見ると、そこの墓守の目杵が、たちまち白鹿になって逃げた。そこで、天皇は、「この陵は、本々、だれも葬っていない。それで、その墓守をなくそうと思って、役丁に充てはじめた。今、このあやしい現象をみると、とても恐ろしい。墓守をそのままにしておけ」と詔勅した。それでまた、土師連等に授けた。六十二年の夏五月に、遠江の國司が、「大きな樹が有って、大井河から流れて、川隈に引っかかった。其の大きさ十かかえで、本々は一本だが途中で二股になっている」と上表した。その時、倭直の吾子篭を派遣してその木で船を造った。それで南の海から運んで、難波津の引いてきて、御用船に充てた。この歳、額田大中彦の皇子が、闘鶏へ狩猟をしに出掛けた。その時、皇子は、山の上から望み見て、野の中をみたら、なにかが有った。其の形は質素な小屋のようだった。それで使者を派遣して調査した。帰って来て「ほらあなでした」と言った。それで闘鶏の稲置の大山主を呼んで、「その野の中に有る洞穴は、何だ」と問いただした。「氷室です」と説明した。皇子は、「それはどのようなものを所蔵するのか。また何に使うのか」と言った。「土を1丈余り掘って、草をその上に覆う。てあつく茅や荻を敷いて、氷を取りだしてその上に置いておく。ひと夏既に経ったのに解けていない。その使い道は、すなわち熱い月になったら、水酒に漬して用います」と言った。皇子は、それでその氷を持って来て、御所に献上した。天皇は、歓んで、これ以後、冬の終わりになる毎に、必ず氷を蔵に収めた。春分になると、氷をばらまき始めた。】とある。
田道は上毛野君の祖竹葉瀬の子供であるが、上毛野君の始祖が崇神天皇四八年に記述される豐城命が始祖、続いて垂仁天皇五年の上毛野君遠祖八綱田、さらに、応神天皇十五年の遣上毛野君祖荒田別、そして、仁徳天皇五三年上毛野君祖竹葉瀬で、上毛野君の初出は安閑天皇元年ある。
木菟の宿禰の「平群臣之始祖也」と平群臣で出現するのが雄略前紀の平群臣眞鳥爲大臣、応神天皇二二年の下道臣の始祖、上道臣の始祖、三野臣之始祖、苑臣之始祖はやはり雄略天皇七年の吉備下道臣前津屋、雄略天皇元年の吉備上道臣女稚媛、三野臣、苑臣は記述されない。
さらに、応神天皇十六年の書首等の始祖は雄略天皇九年の「古市郡人書首加龍之妻」、崇神天皇八年の三輪君等の始祖は雄略天皇即位前紀の「御馬皇子以曾善三輪君身狹」、孝元天皇七年の「大彦命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凡七族之始祖」、孝霊天皇二年の「稚武彦命是吉備臣之始祖」、孝昭天皇六八年の「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」、安寧天皇十一年の「弟磯城津彦命是猪使連之始祖」、綏靖天皇即位前紀の「神祇者是即多臣之始祖」、神武天皇即位前紀の「名爲井光此則吉野首部始祖」、神話の「火闌降命是隼人等始祖火明命是尾張連等始祖」とすべて、実際に臣や君として出現するのは雄略天皇以降や記述されない。
すなわち、祖と呼ばれる人々は雄略天皇が臣下として認めた人々であり、記述されない氏族が有ると言うことから、やはり、雄略天皇が『日本書紀』の安康天皇まで記述し、これらの始祖と記述される氏族の神話や説話が『日本書紀』に反映されたのである。
そして、仁徳紀末に倭武の白鳥陵の説話を記述し、この田道の対蝦夷の神話を記述したのは、この頃、蝦夷との戦いがあり、建内宿禰の蝦夷説話が360年頃の説話、倭との新羅征伐も『三国史記」の364年の奈勿尼師今「九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵 列立吐含山下伏勇士一千於斧峴東原倭人恃衆直進伏發擊其不意倭人大敗走追擊殺之幾盡 」の可能性がある。
呉・高句麗の朝貢に関して、高句麗は故國原王の十三年343年から小獸林王の七年377年より前まで晋と関係が良好で南朝との交流開始は倭がこれ以降、南朝の将軍に叙せられて、良く理解が出来、これに対して尾張王朝はかなり平和そうだ。

2019年12月20日金曜日

最終兵器の目 仁徳天皇9

 日本書紀慶長版

四十一年春三月遣紀角宿祢於百濟始分國郡壃場具錄鄕土所出是時百濟王之孫酒君无禮由是紀角宿祢訶責百濟王百濟王懼之以鐵鎖縛酒君附襲津彥而進上爰酒君來則逃匿于石川錦織首許呂斯之家則欺之曰天皇既赦臣罪故寄汝而活焉久之天皇遂赦其罪四十三年秋九月庚子朔依網屯倉阿弭古捕異鳥獻於天皇曰臣毎張網捕鳥未曽得是鳥之類故奇而獻之天皇召酒君示鳥曰是何鳥矣酒君對言此鳥類多在百濟得馴而能從人亦捷飛之掠諸鳥百濟俗号此鳥曰倶知乃授酒君令養馴未幾時而得馴酒君則以韋緡著其足以小鈴著其尾居腕上獻于天皇是日幸百舌鳥野而遊獵時雌雉多起乃放鷹令捕忽獲數千雉是月甫定鷹甘部故時人号其養鷹之處曰鷹甘邑也五十年春三月壬辰朔丙申河內人奏言於茨田堤鷹産之即日遣使令視曰既實也天皇於是歌以問武內宿祢曰多莽耆破屢宇知能阿曽儺虛曽破豫能等保臂等儺虛曾波區珥能那餓臂等阿耆豆辭莽揶莽等能區珥珥箇利古武等儺波企箇輸揶武內宿祢荅歌曰夜輸瀰始之和我於朋枳瀰波于陪儺于陪儺和例烏斗波輸儺阿企菟辭摩揶莽等能倶珥珥箇利古武等和例破枳箇儒五十三年新羅不朝貢夏五月遣上毛野君祖竹葉瀬令問其闕貢是道路之間獲白鹿乃還
之獻于天皇更改日而行俄且重遣竹葉瀬之弟田道則詔之日若新羅距者舉兵擊之仍授精兵新羅起兵而距之爰新羅人日日挑戰田道固塞而不出時新羅軍卒一人有放于營外則掠俘之因問消息對曰有強力者曰百衝輕捷猛幹毎爲軍右前鋒故伺之擊左則敗也時新羅空左備右於是田道連精騎擊其左新羅軍潰之因縱兵乗之殺數百人即虜四邑之人民以歸焉
四十一年の春三月に、紀角宿禰を百済に派遣して、はじめて国郡の境を設けて、つぶさに土地の由来を記録した。この時、百済の王の氏族の酒君が無礼で、紀角宿禰が、百済の王を咎めて責めた。その時、百済王は、びくついて、鉄の鎖で酒君を縛って、襲津彦が引き連れて進上した。そこで酒君が来て、石川錦織の首の許呂斯の家へ逃げて隠した。それで「天皇は、既に臣の罪を赦した。なので、お前の館に身を寄せて働こう」と欺いた。だいぶ経って天皇が、とうとうその罪を赦した。四十三年の秋九月の朔の庚子の日に、依網の屯倉の阿弭古が、奇妙な鳥を捕えて、天皇に献上して、「私が、いつものように網を張って鳥を捕っていると、いまだかってこのような鳥を捕ったことが無い。それで、奇妙に思って献上した」と言った。天皇は、酒君を呼んで、鳥を示して「これはどういう鳥か」と言った。酒君は、「このような鳥は、たくさん百済にいる。飼いならすことが出来たら人の後をいつもついて回る。また素早く飛んでいろいろな鳥を狩る。百済の人々は、此の鳥を倶知となづけた」と答えた。これが、今の鷹だ。それで酒君に授けて飼いならした。それほど経たないで訓練できた。酒君は、なめし皮の細い縄をその足に、小さな鈴をその尾につけて、腕の上に載せて、天皇に献上した。この日に、百舌鳥野に行幸して狩りをした。その時に雌の雉が、たくさん飛び立った。それで鷹を放って捕らせた。たちまち数十の雉を得ることが出来た。この月に、はじめて鷹甘部を定めた。それで、当時の人は、その鷹を養う所を鷹甘の邑と名付けた。五十年の春三月の朔が壬辰の丙申の日に、河内の人が、「茨田の堤に、鴈が産まれた」と奏上した。その日に、使者を派遣して調べて、「本当です」と言った。天皇はそれで、武内宿禰に歌で問いかけた()。武内宿禰が答えて歌った()。五十三年に、新羅が朝貢しなかった。夏五月に、上毛野の君の祖の竹葉瀬を派遣して、その朝貢しなかったことの理由を問わせた。新羅への行程の途中で、白鹿が獲れた。それで帰って天皇に献上した。さらに日を改めて行った。しばらくして、また竹葉瀬の弟の田道を派遣した。そして「もし新羅が拒んだら、挙兵して討て」と詔勅した。それで選りすぐりの兵士を授けた。新羅は、兵を起して防いだ。そこで新羅人は、毎日戦いを挑んできた。田道は、要塞を固く守って出撃しなかった。ある時、新羅の軍人の一人が、陣営の外に放たれたことが有った。それで捕虜として捕えた。それでなりゆきについての事情を聞いた。「とても力強い者がいる。百衝といいます。簡単に戦に勝ち働きは勇猛だ。いつも軍隊の右翼に配置され、先頭に立って進軍する。それで、ようすをうかがいみて、左翼を撃てば敵軍は敗れる」と答えた。その時に新羅は、左翼を空けて右翼に備えた。そこで、田道は、精鋭の騎馬隊を連ねてその左翼を撃った。新羅の軍は、壊滅した。それで兵を放ってつけこみ、数百人を殺した。それで四邑の民を捕虜にして帰った。】とあり、五十年三月壬辰は標準陰暦と合致するが、四十三年九月庚子は合致せず、386年もしくは453年の日干支である。
三國史記』の新羅の364年奈勿尼師今九年「夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧峴東原倭人恃衆直進伏發擊其不意倭人大敗走追擊殺之幾盡」とあるように、倭国と戦争を行い、翌年の365年、尾張王朝に朝貢する余裕が有ったのだろうか。
また、葛城王朝と倭国の連合が新羅からの朝貢を遮って、尾張王朝と連合させないようにした可能性も考えられ、友好国の尾張王朝に裏切られた新羅に百済が接近したようで、「十一年春三月百濟人來聘・・・十三年春百濟遣使進良馬二匹」と368年に 遣使を百済が行っている。
その百済は、高句麗が343年故國原王の十三年「春二月王遣其弟稱臣入朝於燕貢珍異以千數燕王乃還其父尸猶留其母爲質秋七月移居平壤東黄城城在今西京東木覓山中遣使如晉朝貢」と晋朝に朝貢していたが、377年小獸林王 七年「冬十月無雪雷民疫百濟將兵三萬來侵平壤城十一月南伐百濟遣使入苻秦朝貢」と百済と戦い南朝の晋朝から北朝の後秦朝に乗り換え、それに対して百済は、384年枕流王の時代のに「秋七月遣使入晉朝貢九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉佛法始於此 」と晋朝に朝貢して仏教まで誘致して、晋と新羅との友好を後ろ盾に倭および葛城王朝と386年から戦った。
386年は建内の宿禰の家系が王で、その子の紀角の宿禰の家系が配下となっていた時代で、『好太王碑文』に391年「倭以辛卯年來渡海破百残」と倭が百済を破ったと記述され、そして、397年に、阿莘王六年「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」のように倭の軍門に降って皇太子を倭への人質に送った。
この人質のことは以前に応神天皇八年、応神天皇十六年、応神天皇二五年、応神天皇三九年の項で390年即位、396年即位の2人の応神天皇が存在すると記述したが、この項の天皇は390年即位の応神天皇で平群王家の直系の血統の建内の宿禰の説話と解り、応神天皇八年は397年で人質となった翌年の八年春三月に『日本書紀』「百濟記云阿花王立旡禮於貴國故奪我枕彌多禮及峴南支侵谷那東韓之地是以遣王子直支于天朝」、405年、応神天皇十六年に「是歳百濟阿花王薨天皇召直支王謂之曰汝返於國以嗣位仍且賜東韓之地而遣之」となり、その「是年」に『三国史記』「阿莘王十四年春三月白氣自王宮西起如匹練秋九月王薨」と死亡記事が記述される。
『日本書紀』を編年体としてはいけないことをよく示していて、複数の王をまとめて記述した紀伝体の史書として扱わなければならないことを示している。

2019年12月18日水曜日

最終兵器の目 仁徳天皇8 

 『日本書紀』慶長版は
秋七月天皇與皇后居髙臺而避暑時毎夜自菟餓野有聞鹿鳴其聲寥亮而悲之共起可憐之情及月盡以鹿鳴不聆爰天皇語皇后曰當是夕而鹿不鳴其何由焉明日猪名縣佐伯部獻苞苴天皇令膳夫以問曰其苞苴何物也對言牡鹿也問之何處鹿也曰菟餓野時天皇以爲是苞苴者必其鳴鹿也因語皇后曰朕比有懷抱聞鹿聲而慰之今推佐伯部獲鹿之日夜及山野即當鳴鹿其人雖不知朕之愛以適逢獮獲猶不得已而有恨故佐伯部不欲近於皇居乃令有司移鄕于安藝渟田此今渟田佐伯部之祖也俗曰昔有一人往菟餓宿于野中時二鹿臥傍將又鶏鳴牝鹿謂牝鹿曰吾今夜夢之白霜多降之覆吾身是何祥焉牝鹿荅曰汝之出行必爲人見射而死即以白鹽塗其身如霜素之應也時宿人心裏異之未及昧爽有獵人以射牡鹿而殺是以時人諺曰鳴牡鹿矣隨相夢也四十年春二月納雌鳥皇女欲爲妃以隼別皇子爲媒時隼別皇子密親娶而久之不復命於是天皇不知有夫而親臨雌鳥皇女之殿時皇女織縑女人等歌之曰比佐箇多能阿梅箇儺麼多謎廼利餓於瑠箇儺麼多波揶步佐和氣能瀰於湏譬鵝泥爰天皇知隼別皇子密婚而恨之然重皇后之言亦敦于攴之義而忍之勿罪俄而隼別皇子枕皇女之膝以臥乃語之曰孰捷鷦鷯與隼焉曰隼捷也乃皇子曰是我所先也天皇聞是言更亦起恨時隼別皇子之舍人等歌曰破夜步佐波阿梅珥能朋利等弭箇
慨梨伊菟岐餓宇倍能娑弉岐等羅佐泥天皇聞是歌而勃然大怒之曰朕以私恨不欲失親忍之也何舋矣私事將及于社稷則欲殺隼別皇子時皇子率雌鳥皇女欲納伊勢神宮而馳於是天皇聞隼別皇子逃走即遣吉備品遲部雄鯽播磨佐伯直阿俄能胡曰追之所逮即殺爰皇后奏言雌鳥皇女寔當重罪然其殺之日不欲露皇女身乃因勅雄鯽等莫取皇女所齎之足玉手玉雄鯽等追之至菟田迫於素珥山時隱草中僅得兔急走而越山於是皇子歌曰破始多氐能佐餓始枳揶摩茂和藝毛古等赴駄利古喩例麼揶湏武志呂箇茂爰雄鯽等知兔以急追及于伊勢蔣代野而殺之時雄鯽等
探皇女之玉自裳中得之乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命皇后令問雄鯽等曰見皇女之玉乎對言不見也是歲當新嘗之月以宴會日賜酒於內外命婦等於是近江山君稚守山妻與采女磐坂媛二女之手有纏良珠皇后見其珠既似雌鳥皇女之珠則疑之命有司問其玉所得之由對言佐伯直阿俄能胡妻之玉也仍推鞫阿俄能胡對曰誅皇女之日探而取之即將殺阿俄能胡於是阿俄能胡乃獻己之私地請免死故納其地赦死罪是以号其地曰玉代
【秋七月に、天皇と皇后が、物見にでて暑さを避けていた。その時に毎夜、菟餓野から、鹿の鳴き声が聞こえた。その声は、とてもひっそりして悲し気だった。2人ともにかわいそうと思った。晦日になって、鹿の鳴き声が耳をすましても聞こえなかった。そこで天皇は、皇后に「今宵は、鹿が鳴ない。それはどうしてだろうか」と語った。あくる日に、猪名の縣の佐伯部が、わらで束ねて食糧を献上した。天皇は、料理人に命じて「その荒巻はどういう食べ物か」と問いただした。「牡鹿です」と答えた。「何処の鹿だ」と問いかけた。「菟餓野です」と答えた。その時、天皇は、この荒巻にした肉は、きっとあの鳴いていた鹿なのだろうと思った。それで皇后に「私は、ずっと心に有った棘が鹿の声を聞いて慰められた。今、佐伯部が鹿を獲った夜の日にちと山野の場所を推しはかると、あの鳴いていた鹿にちがいない。かの人は、私の可愛がっていた気持ちを知らず、たまたま見つけて得て、やむをえないことといっても恨めしい。それで、佐伯部を皇居に近づようとは思わない」と語った。それで役人に安藝の渟田に領地を遷すよう命じた。これが、今の渟田の佐伯部の祖だ。俗に「むかし、ある人がいて、菟餓に行って、野宿をした。その時、二匹の鹿が、横たわっていた。明け方になろうとした時、牡鹿が、牝鹿に『私は、今夜、夢を見て、白霜がたくさん降りて、私の身を覆ったが、これは、どういうきざしだ』といった。牡鹿は、『お前が、出ていくとき、きっと人にに射殺される。それで塩をその身に塗ったようになる徴しだ』と答えた。その時、野宿した人が、奇妙に感じた。まだ夜明け前に、漁師がやって来て、牡鹿を射殺した。それで、その当時の人が、『鳴く牡鹿が鳴いたら、夢の吉凶のとうりに』と言い伝えた」といった。四十年の春二月に、雌鳥の皇女を妃にしようとして、隼別の皇子にとりもってもらった。その時、隼別の皇子は、密かに自分が娶って、何時まで経っても復命しなかった。そこで、天皇は、夫が有ることを知らないで、自から雌鳥の皇女の御殿に臨んだ。その時、皇女の為にかとりぎぬを織る女等が歌った()。そこで天皇は、隼別の皇子の密かに縁を結んだことを知り、恨んだ。しかし、重い皇后の言葉と人のための厚情で忍んで罰しなかった。しばらくして隼別の皇子が、皇女の膝枕で寝ていた。それで「鷦鷯と隼とどちらが速い」と語った。「隼が速い」と言った。それを聞いて皇子が、「これは、わたしが先ということだ」と言った。天皇は、この言葉を聞いて、さらにまた恨んだ。その時、隼別の皇子が召使たちに、歌った()。天皇が、この歌を聞いて、顔色を変えて大変怒って「私は、私怨で、親族を失いたくないので、仲たがいという私事を政治に及ばすことが出来ようか我慢したがもう我慢できない。」と言って、隼別の皇子を殺そうとした。その時、皇子は、雌鳥の皇女を連れて、伊勢神宮に奉納しようと馬を走らせた。そこで、天皇は、隼別の皇子が逃走したと聞いて、吉備の品遲部の雄鯽と播磨の佐伯直の阿俄能胡を派遣して「追って捕まえたら直に殺せ」と言った。そこで皇后は、「雌鳥の皇女は、本当に重罪に当たる。しかしながらその殺そうとした日に、皇女は身を隠さなかった」と奏上した。そのため雄鯽達に「皇女のもたらした足玉手玉を取りなさい」と詔勅した。雄鯽たちは、追って菟田に着いて、素珥の山に迫まった。その時に草の中に隱れ、かろうじて免れることが出来た。急いで走って山を越えた。そこで、皇子が歌った()。そこで雄鯽達は、免れることを知って、急いで伊勢の蒋代の野で追いついて殺した。その時、雄鯽等は、皇女の玉を探して、腰から下にまとった衣の中から得た。それで二人の王の屍を、廬杵河の辺に埋づめて、復命した。皇后は、雄鯽等に「もしかしたら皇女の玉を見たか」と問いかけた。「見なかった」と答えた。この歳は、新嘗の月に当たって、宴会の日に、酒を全ての女官に与えた。ここに、近江の山君の稚守山の妻と采女の磐坂媛の、二人の女の手に、上等な珠を纏っていた。皇后は、その珠を見て、すでに雌鳥の皇女の珠に似ていると感じた。それで疑って、役人に命令して、その玉を得た出所を推し量るために問わせた。「佐伯直の阿俄能胡が妻の玉だ」と答えた。それで阿俄能胡を聞きただして調べた。「皇女を誅した日に、探がして取った」と答えた。すなわち、ちょうど阿俄能胡を殺そうとした。そこで、阿俄能胡は、すなわち自分の領地を献上して、死罪をあがなうと申し出た。それで、その地を国庫に納めて死罪を赦した。それで、その土地を玉代と名付けた。】とある。
白霜多降之覆吾身」と白くなった鹿は倭武の「化白鹿立於王前」を連想させ、「角鹿」に対抗勢力が存在し、尾張王朝にとって鹿は敵の象徴で、その鹿に憐れみをもつ余裕が出来たことを示しているように感じる。
そして、雌鳥皇女の「足玉手玉」の足は統治する徴の意味で、宮主の娘の雌鳥の皇女は伊勢遺跡の女王で「櫻井田部連男鋤之妹糸媛」の子の隼総別の皇子が正統な難波宮の天皇だったことが解る。
『舊事本紀』に『日本書紀』で記述されない物部多遅麻の妹が「物部五十琴姫命此命纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦命是也」が景行天皇に記述されたが、景行天皇に「五十八年春二月辛丑朔辛亥幸近江國居志賀三歳是謂高穴穗宮」と近江に宮を造り移ったと記述され、この128年の記事が伊勢遺跡の王朝の始まりで五十功彦がその王なのだろう。
物部印葉の姉「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎子皇子次矢田皇女次嶋(?)鳥皇女」とこの姫も『日本書紀』では宮主宅媛と「和珥臣祖日觸使主之女」で、この項の主人公だ。
さらに、山無媛の弟に「弟物部大別連公此連公難波高津宮御宇天皇御世詔為侍臣」と大別連が存在し、「矢田皇女・・・而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」とこの時矢田部連が賜姓され、仁徳天皇「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と大別が天皇と記述している。
201年忍熊王によって物部王朝の分派の勢力が衰え、350年に莵道の稚郎子の死によって男王が、そして、352年に女王が薨じ、播磨王が天皇の璽である「足玉」の「手玉」を手に入れたが尾張王朝によって八田皇女という象徴と天皇の璽を奪い、本来は 雌鳥皇女も長男の皇后として迎え入れたなら完璧であったのだろう。
だから、雌鳥皇女の命を助けて、とにかく、天皇の璽の足玉手玉を手に入れたかったと考えられる。

2019年12月16日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇7

 冬十月甲申朔遣的臣祖口持臣喚皇后爰口持臣至筒城宮雖謁皇后而默之不荅時口持臣沾雪雨以經日夜伏于皇后殿前而不避於是口持臣之妹國依媛仕于皇后適是時侍皇后之側見其兄沾雨而流涕之歌曰揶莽辭呂能菟菟紀能瀰揶珥茂能莽烏輸和餓齊烏瀰例麼那瀰多遇摩辭茂時皇后謂國依媛曰何爾泣之對言今伏庭請謁者妾兄也沾雨不避猶伏將謁是以泣悲耳時皇后謂之曰告汝兄令速還吾遂不返焉口持則返之復奏于天皇十一月甲寅朔庚申天皇浮江幸山背時桑枝江水而流之天皇視桑枝歌之曰菟怒瑳破赴以破能臂謎餓飫朋呂伽珥枳許瑳怒于羅遇破能紀豫屢麻志枳箇破能區莽愚莽豫呂明譬喩玖伽茂于羅愚破能紀明日乗輿詣于筒城宮喚皇后皇后不參見時天皇歌曰菟藝埿赴揶摩之呂謎能許久波茂知于智辭於朋泥佐和佐和珥儺餓伊弊齊虛曾于知和多湏椰餓波曳儺湏企以利摩韋區例亦歌曰菟藝泥赴夜莽之呂謎能許玖波茂知于智辭於朋泥泥士漏能辭漏多娜武枳摩箇儒鶏麼虛曾辭羅儒等茂伊波梅時皇后令奏言陛下納八田皇女爲妃其不欲副皇女而爲后遂不奉見乃車駕還宮天皇於是恨皇后大忿而猶有戀思三十一年春正月癸丑朔丁卯立大兄去來穗別尊爲皇太子三十五年夏六月皇后磐之媛命薨於筒城宮三十七年冬十一月甲戌朔乙酉葬皇后於那羅山十八年春正月癸酉朔戊寅立八田皇女爲皇后
冬十月の朔が甲申の日に、的臣の祖の口持臣を派遣して皇后呼び寄せようとした。そこで口持臣は、筒城の宮に着いて、皇后にお目通しても、押し黙って返答が無かった。その時、口持臣は、降る雪に濡れて昼から夜まで、皇后の御殿の前に土下座して雨を避けようとしなかった。そこで、口持臣の妹の国依媛が、皇后に仕えていた。この時に、皇后の側近くつかえていた。その兄が雨に濡れているのを見て、涙を流して歌った()。その時、皇后は、国依媛に「どうしてお前が泣いている」と言った。それに、「今、庭で土下座して 伏して面会を願っているのは、私の兄です。雨に濡れても避けようともしない。さらに土下座してお目通りを待っている。それで、何もできないので、泣き悲しんでいます」と答えた。その時、皇后は、「お前の兄に早く帰るように告げなさい。わたしは絶対帰らない」と言った。口持は、それで返って、天皇に復命を奏上した。十一月の朔が甲寅の庚申の日に、天皇は、桟橋から山背に行幸した。その時、桑の枝を水滴が滴となって流れた。天皇は、桑の枝を視て歌った()。輿に乗って、筒城の宮に着いて、皇后を呼んだ。皇后は、天皇の前に会いに来なかった。その時天皇が歌った()。また歌った()それで皇后は、「陛下は、八田皇女を妃にした。それは皇女の中の一人ではなく皇后にしたいのでしょう」と奏上して、とうとう奉見しなかった。それで車駕に乗って、宮に帰った。天皇は、皇后がとても怒って許さなかったことを恨んだ。そのためまだ恋しい気持ちが無くならなかった。三十一年の春正月の朔が癸丑の丁卯の日に、大兄の去來穗別の尊を皇太子に立てた。三十五年の夏六月に、皇后の磐之媛の命が、筒城の宮で薨じた。三十七年の冬十一月の朔が甲戌の乙酉の日に、皇后を乃羅の山に葬むった。三十八年の春正月の朔が癸酉の戊寅の日に、八田皇女を皇后に立てた。】とあり、十月甲申は9月30日で9月が小の月なら合致し、その他は標準陰暦と合致する。
ここも尾張王朝の説話で、ここでの皇后は宇遅之若郎女で伊勢遺跡の別朝廷の王女の八田姫を皇后に迎えて朝廷を統一しようとした説話である。
宮主矢河枝比賣の子の八田は皇后である宮主の妹の袁那辨の郎女の娘の宇遅之若郎女とでは格が八田姫が高く、皇后の悔しい思いが想像に難くなく、また、天皇としても、伊勢遺跡の王朝のもう一方の後継者を皇后として迎え入れなければ、伊勢遺跡の王朝の配下が臣従しないことが解っているので引くに引けないと思われる。
そして、伊勢遺跡の王朝の終焉が『舊事本紀』に「以大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部
斤葉連公為大臣」と印葉大臣(皇太子)が存在し、仁徳朝の初期ではなく、342年もしくは八田皇后の就任時の350年の可能性が有り、菟道の稚郎子と譲り合っている時に既に難波の宮が有ったこともそれをうかがわせる。
ここで、遣的臣祖口持臣に関して「一云和珥臣祖口子臣」とあるが、これまで、一云を後代に挿入したものだから無視をしてきたが、これまでの分析から、後代挿入は本文の中に一云とことわり書き無しに挿入され、日干支の記録があればその日に、無ければ、是年などとして挿入されていた。
そうすると、一云や一書は『日本書紀』を書いた葛城・平群王朝の資料ではない資料が記述された、すなわち別王朝の資料だったと解り、さらに、別王朝で葛城・平群王朝に無い資料に年号と対応させているということは、それまでの『日本書紀』の内容がすでに存在し、一云や一書はその時の天皇の次の世代が追記したものと考えなければ辻褄が合わない。
記述した時に解っていれば、一云や一書などとせず、そのまま書き入れればよいのであり、『日本書紀』の日干支は日記のように日々書き残していたとしなければ、なかなか計算では、これほど標準陰暦と合致しないはずだ。
従って、口持臣の 「一云和珥臣祖口子臣」は尾張王朝が伊勢遺跡の資料をもとに書き加えたと考えるべきで、口子臣は皇后と八田媛の氏族で、氏族の存続を賭けた説得だったのだろう。

2019年12月13日金曜日

最終兵器の目 仁徳天皇6

 日本書紀慶長版
十六年秋七月戊寅朔天皇以宮人桑田玖賀媛示近習舍人等曰朕欲愛是婦女苦皇后之妬不能合以經多年何徒棄其盛年乎即歌曰瀰儺曾虛赴於瀰能烏苫咩烏多例揶始儺播務於是播磨國造祖速待獨進之歌曰瀰箇始報破利摩波揶摩智以播區娜輸伽之古倶等望阿例揶始儺破務即日以玖賀媛賜速待明日之夕速待詣于玖賀媛之家而玖賀媛不和乃強近帷內時玖賀媛曰妾之寡婦以終年何能爲君之妻乎於是天皇聞之欲遂速待之志以玖賀媛副速待送遣於桑田則玖賀媛發病死于道中故於今有玖賀媛之墓也十七年新羅不朝貢秋九月遣的臣祖砥田宿祢小泊瀬造祖賢遺臣而問闕貢之事於是新羅人懼之乃貢獻調絹一千四百六十疋及種種雜物幷八十艘
二十二年春正月天皇語皇后曰納八田皇女將爲妃時皇后不聽爰天皇歌以乞於皇后曰于磨臂苫能多菟屢虛等太氐于磋由豆流多由磨菟餓務珥奈羅陪氐毛餓望皇后荅歌曰虛呂望虛曾赴多弊茂豫耆瑳由廼虛烏那羅陪務耆瀰破箇辭古耆呂介茂天皇又歌曰於辭氐屢那珥破能瑳耆能那羅弭破莽那羅陪務苫虛層曾能古破阿利鶏梅皇后荅歌曰那菟務始能譬務始能虛呂望赴多弊耆氐箇區瀰夜儾利破阿珥豫區望阿羅儒天皇又歌曰阿佐豆磨能避箇能烏瑳箇烏箇多那耆珥瀰致喩區茂能茂多遇譬氐序豫枳皇后遂謂不聽故默之亦不荅言三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀國到熊野岬即取其處之御綱葉而還於是曰天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女而大恨之則其所採御綱葉投於海而不著岸故時人号散葉之海曰葉濟也爰天皇不知皇后忿不著岸親幸大津待皇后之舩而歌曰那珥波譬苫湏儒赴泥苫羅齊許辭那豆瀰曾能赴尼苫羅齊於朋瀰赴泥苫禮時皇后不泊于大津更引之泝江自山背𢌞而向倭明日天皇遣舍人鳥山令還皇后乃歌之曰夜莽之呂珥伊辭鶏苫利夜莽伊辭鶏之鶏阿餓茂赴菟摩珥伊辭枳阿波牟伽茂皇后不還猶行之至山背河而歌曰菟藝泥赴揶莽之呂餓波烏箇破能朋利涴餓能朋例磨箇波區莽珥多知瑳箇踰屢毛毛多羅儒揶素麼能紀破於朋耆瀰呂箇茂即越那羅山望葛城歌之曰菟藝泥赴揶莽之呂餓波烏瀰揶能朋利和餓能朋例麼阿烏珥湏辭儺羅烏輸疑烏陀氐夜莽苫烏輸疑和餓瀰餓朋辭區珥波箇豆羅紀多伽瀰揶和藝弊能阿多利更還山背興宮室於筒城岡南而居之
十六年の秋七月の朔が戊寅の日に、天皇は、宮人の桑田の玖賀媛の、近くで身の回りを担当する雑役達に示して「私は、この婦女をいとしく思っているが、皇后が妬むことが苦になって、いっしょになることができず、多くの年を経てしまった。どうしたらその若い盛りを無駄にしないで済ませるか」と言った。それで歌()で問いかけた。播磨国造の祖の速待が、一人だけ進み出て歌った()その日に、玖賀媛を待に与えた。明日の夕に、速待が、玖賀媛の家に行ったが、玖賀媛は仲違いした。それでむりやりたれぎぬの中に近づいた。その時玖賀媛は、「私は、寡婦のまま終わりたい。どうしてあなたの妻になりましょうか」と言った。そこで、天皇は、速待が思いを遂げたと思って、玖賀媛を、速待に従わせて、桑田へ送るようにした。それで玖賀媛は、発病して道中で死んだ。それで、今でも玖賀媛の墓が有る。十七年に、新羅が、朝貢しなかった。秋九月に、的臣の祖の砥田宿禰と小泊瀬造の祖の賢遺臣を派遣して、朝貢しなかった事を問わせた。それで、新羅の人がびくついて、貢献した。絹を一千四百六十匹、そして種雑多の物を併せて八十艘を納めた。二十二年の春正月に、天皇は、皇后に「もしかしたら八田皇女を妃にするかもしれない」と語った。その時、皇后は聞き入れなかった。そこで天皇は、皇后にねだって歌()った。皇后は、答えて歌った()天皇は、また歌()った。皇后は答えて歌()った。天皇は又歌()った。皇后は、絶対に許さないと言って、ただ黙して答えなかった。三十年の秋九月の朔が乙卯の乙丑の日に、皇后は、紀国に遊行して、熊野の岬に着いて、すなわちそこの御綱の葉を取って還った。そこで、天皇は、皇后の不在を狙って、八田皇女を娶として宮中に呼んだ。
その時、皇后は、難波の渡りに着いて、天皇が、八田皇女を側に迎えたと聞いて、大変恨んだ。それでその採った御綱の葉を海に投げ入れて、著岸しなかった。それで、当時の人は、葉を散した海を葉の渡りと名付けた。ここで天皇は、皇后が怒って着岸しないことを知らなかった。それで自ら大津行幸して、皇后の船を待った。それで歌った()皇后は、大津に停泊せず、さらに引き返して河を遡って、山背を廻って倭に向った。翌日、天皇は、舍人の鳥山を派遣して、皇后を還らせようとした。それで歌った()皇后は、還らずなお遠く行ってしまった。山背河に着いて歌った()それで那羅山を越えて、葛城を望見て歌った()さらに山背に還って、宮室を筒城の岡の南に興して居た。】とあり、十六年七月は6月2日が戊寅で、5月は閏月の小の月で5月が閏月で無かったら合致し、三十年九月朔日は標準陰暦と合致する。
十六年でなかったら302年と395年と426年で、しいて、合致させる意味が見当たらず、尾張王朝が国を統一した余裕が感じられて、否定する必要を感じない。
伊勢遺跡の王朝を倒す忍熊との戦いで、武内の宿禰の力を借りた結果、その子の葛城襲津彥の子の砥田の宿禰や小泊瀬の造は巨勢氏の小泊瀬の稚鷦鷯天皇を、さらに平群氏の大泊瀬の幼武を思わせ、尾張王朝内で武内の宿禰の力が増大した様子がうかがえる。
ところが、『古事記』に「娶丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣生御子宇遅能和紀郎子次妹八田若郎女次女鳥王又娶其矢河枝比賣之弟袁那弁郎女生御子宇遅之若郎女」、「娶庶妹八田若郎女又娶庶妹宇遅能若郎女」と『古事記』のみに妃にしたと記述される宇遅能若郎女が本来の皇后で、磐之媛は雄略天皇によって上書きされた可能性がある。
平群氏や葛城氏の大稚鷦の妃なら隠す必要が無く、両氏に関係が無く、巨勢氏に関係する人物が宇遅能若郎女なのであり、すなわち、尾張朝廷の皇后が宇遅能の若郎女で、もともと、山背の筒城の姫で、木菟の宿禰の名前も関係が有り、主筋のだったから記述しなかった可能性があり、葛城の襲津彥との名前交換だけではなく、菟道の稚郎子との名前交換の可能性がある。
西暦321年を元年とした武内の宿禰の政権を想定すると55年の「百濟肖古王薨」、五十六年の「百濟王子貴須立爲王」、六十四年の「百濟國貴須王薨」、六十五年の「百濟枕流王薨」が合致するように、西暦321年に建国した王権内の政権争奪戦や倭との共同の新羅侵略と尾張朝廷のゆとりある政権運営と新羅援助の見返り要求を背景にした内容だ。

2019年12月11日水曜日

最終兵器の目 仁徳天皇5

 『日本書紀』慶長版は
十一年夏四月戊寅朔甲午詔群臣曰今朕視是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乗舩道路亦埿故群臣共視之決横源而通海塞逆流以全田宅冬十月掘宮北之郊原引南水以入西海因以号其水曰堀江又將防北河之澇以築茨田堤是時有兩處之築而乃壞之難塞時天皇夢有神誨之曰武藏人強頸河內人茨田連衫子二人以祭於河伯必獲塞則覓二人而得之因以禱于河神爰強頸泣悲之沒水而死乃其堤成焉唯衫子取全匏兩箇臨于難塞水乃取兩箇匏投於水中請之曰河神崇之以吾爲幣是以今吾來也必欲得我者沉是匏而不令泛則吾知真神親入水中若不得沈匏者自知偽神何徒亡吾身於是飄風忽起引匏沒水匏轉浪上而不沈則潝々沉以遠流是以衫子雖不死而其堤旦成也是因衫子之幹其身非亡耳故時人号其兩處曰強頸斷間衫子斷間也是歲新羅人朝貢則勞於是役十二年秋七月辛未朔癸酉髙麗國貢鐵盾鐵的八月庚子朔己酉饗髙麗客於朝是日集群臣及百寮令射髙麗所獻之鐵盾的諸人不得通的唯的臣祖盾人宿祢射鐵的通焉時髙麗客等見之畏其射之勝巧共起以拜朝明日美盾人宿祢而賜名曰的戸田宿祢同日小泊瀬造祖宿祢臣賜名曰賢遺臣也冬十月掘大溝於山背栗隈縣以潤田是以其百姓毎豊年也十三年秋九月始立茨田屯倉因定舂米部冬十月造和珥池是月築横野堤十四年冬十一月爲橋於猪甘津即号其處曰小橋也是歳作大道置於京中自南門直指之至丹比邑又掘大溝於感玖乃引石河水而潤上鈴鹿下鈴鹿上豊浦下豊浦四處郊原以墾之得四萬餘頃之田故其處百姓寛饒之無凶年之患
【十一年の夏四月の朔が戊寅の甲午の日に、臣に「今、私が、この国を視ると、町はずれの池は広いが遠く、伝来の畑は小さく乏しい。また河の水は横にそれてて、流れが馬のように速い。ほんの少し、長雨にあえば、海潮は溯上して、住宅に船が乗り上げ、道路は泥まみれだ。それで、お前たちよ、一緒に視て、横にそれる源を探して海に真っすぐ通して、逆流を防いで田宅としての役割を全うさせろ」と詔勅した。冬十月に、宮の北の街はずれの野原を掘って、南側から水を引いて西の海に流した。それで其の用水を名付けて堀江といった。また、北の河の洪水を防ぐため、茨田の堤防を築いた。この時、両所を築くとき、崩れ落ちて漏水を塞ぐことが出来なかった。その時に天皇は、夢見で、神が出てきて「武藏の人の強頚、河内の人の茨田連衫子の二人に、河の長に据えれば、きっと塞ぐことができる」と教えた。それで二人を求めて連れてくることが出来た。それで、河の長にして人柱の役を与えた。すると強頚は、泣き悲んだが、水に沈めて死んだ。それでその堤防が完成した。ただし衫子はまるのままの瓢箪2個を取って、塞ぐことが出来ない水辺を臨み見て、2箇の瓢箪を取り出して、水の中に投げ入れて、「河神よ、祟って、私をお供えとしろ。それで、今、私のところに、やってきて、かならず私を得ようと思うのなら、この瓢箪を沈め泛ばせろ。そうすれば私は、本当の神と解って、自分から水の中に入ろう。もし瓢箪を沈めることが出来なかったら、偽物の神と解る。どうだすぐに私を殺せ」と願い求めた。そこに、つむじかぜが急に起って、瓢箪を水に引き込んで沈めたが、瓢箪は、浪の上で転がって沈まなかった。則ち、どんどんと引き込むように遠くへ流れ去った。それで、衫子は、死ななかったが、その堤防は完成した。それで、衫子は才能で、その身は亡さなかった。それで、その周りの人は、その2か所を、強頚斷間と衫子斷間と名付けた。この歳、新羅の人が朝貢した。それでこの役で働かせた。十二年の秋七月の朔は辛未の癸酉日に、高麗国が、鐵の盾と鐵の的を貢上した。八月の朔が庚子の己酉の日に、高麗の客を宮殿でに饗応した。この日に、群臣及び百寮を集めて、高麗が献上した鐵の盾を的に射させた。諸人は、的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖の盾人の宿禰だけが、鐵の的を射通した。そのときに高麗の客等が見て、その射ることの勝れた技を畏れて、一緒に起き上がって礼拝した。明日、盾人の宿禰を褒めたたえて、賜名されて的の戸田の宿禰と名乗った。同日に、小泊瀬の造の祖の宿禰の臣に、賜名して賢遺の臣と名乗った。冬十月に、大きな用水を山背の栗隈の縣に掘って田に水を引いて潤した。そのため、そこの百姓は、毎年豊作だった。十三年の秋九月に、はじめて茨田の屯倉を立てた。それで舂米の部を定めた。冬十月に、和珥の池を造った。この月に、横野の堤を築いた。十四年の冬十一月に、猪甘の津に橋を造った。それでそこを、小橋と名付けた。この歳、大道を京の中心に作った。南の門から真っすぐに向って、丹比の邑に至る。また大きな用水を感玖に掘った。それで石河の水を引いて、上鈴鹿と下鈴鹿と上豐浦と下豐浦の4か所の街はずれの野原を潤し、開墾して、四萬余の位いの田を得た。それで、そこの百姓は、ゆとりがあるほど豊饒で、凶作の年の憂いが無かった。】とあり、十一年夏四月戊寅朔は合致せず、354年か447年で324年も含めて十二年秋七月辛未朔が前月が小の月で7月2日にあたり、穴穂と雄朝津間の稚子の宿禰は兄弟なのだから、436年に穴穂が437年に雄朝津間の稚子の宿禰が宮を開いたことは十分にあり得る。
的戸田宿禰が『古事記』の大倭根子日子國玖琉に「葛城長江曽都毗古者(玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也)」と葛城曽都毗古の子孫なのだから、436年までは少なくとも葛城襲津彥が襲名した天皇の可能性が高くそれ以降の447年が正しそうである。
前にも記述したように、茨田の堀のそばにも栗隈縣の久世郡、豊浦にも多くの古墳群があり、用水などの残土の一部は堤防に、一部は盛土として後に古墳になった可能性があり、これだけの用水や池を造れば多くの古墳のもととなる盛り土の背景となる。
前項の高麗国は416年に比定した、高麗国の高飛車な外交は、広開土王の活躍によって、絶好調の時代を背景にした記述と述べたが、この項の高麗国はかなり下手に貢献している。
すなわち、この高麗国は『三国史記』の高麗国の美川王に320年「二十一年冬十二月遣兵寇遼東慕容仁拒戰破之」など中国が五胡十六国時代に突入し合従連衡や主導権を争って、330年にも「三十一年遣使後趙石勒致其矢」と後趙の石勒に貢献して矢を届けていて、まさに、『日本書紀』の記述と似通っていて、北の後趙に対する南の日本との連携を目指していたと考えられる。
それに対して、新羅は『三国史記』の新羅の訖解尼師今に339年「三十六年春正月拜康世爲伊伐飡二月倭王移書絶交」、340年「三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戶又進圍金城急攻王欲出兵相戰」と倭と一体になって新羅と戦う平群王朝の不遇時代は新羅と敵対関係で、新羅人を「新羅人朝貢則勞於是役」と労役に使ったと記述することは良く理解できる。

2019年12月9日月曜日

最終兵器の目 仁徳天皇4

 『日本書紀』慶長版は
四年春二月己未朔甲子詔群臣曰朕登髙臺以遠望之烟氣不起於域中以爲百姓既貧而家無炊者朕聞古聖王之世人人誦詠德之音家家有康哉歌今朕臨億兆於茲三年頌音不聆炊烟轉踈即知五穀不登百姓窮乏也封畿之內尚有不給者況乎畿外諸國耶三月己丑朔己酉詔曰自今以後至于三載悉除課役息百姓之苦是日始之黼衣絓履不弊盡不更爲也温飯煖羹不酸鯘不易也削心約志以從事乎無爲是以宮垣崩而不造茅茨壞以不葺風雨入隙而沾衣被星辰漏壞而露床蓐是後風雨順時五穀豊穰三稔之間百姓富寛頌德既滿炊烟亦繁七年夏四月辛未朔天皇居臺上而遠望之烟氣多起是日語皇后曰朕既富矣豈有愁乎皇后對諮何謂富焉天皇曰烟氣滿國百姓自富歟皇后旦言宮垣壞而不得脩殿屋破之衣被露何謂富乎天皇曰其天之立君是爲百姓然則君以百姓爲本是以古聖王者一人飢寒顧之責身今百姓貧之則朕貧也百姓富之則朕富也未之有百姓富之君貧矣秋八月己巳朔丁丑爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部九月諸國悉請之曰課役並免既經三年因此以宮殿朽壞府庫已空今黔首富饒而不拾遺是以里無鰥寡家有餘儲若當此時非貢税調以脩理宮室者懼之其獲罪于天乎然猶忍之不聽矣十年冬十月甫科課役以構造宮室於是百姓之不領而扶老携幼運材負簣不問日夜竭力争作是以未經幾時而宮室悉成故於今稱聖帝也
【四年の春二月の朔が己未の甲子の日に、群臣に「私が、高台に登って、遠くを望み見ると、煮炊きの烟が領域内に発たない。今、百姓が貧しくて、家で食料を煮炊きする者がいないからなのだろう。私は「古く、聖王の時代には、人々が、教えを歌声で唱えて家毎に無事を祝う歌が聞こえた。」と聞いた。今、私は、万民の前にして三年経った。 功績や人柄をほめたたえることばが耳を澄ましても聞こえてこない。 煮炊きする烟はどんどんまばらになった。それでわかって、五穀を納められないのは、百姓が窮乏しているからだ。邦畿の内にさえ、足りないことが有るのだから、畿外諸国はなおさら不足しているだろう」と詔勅した。三月の朔が己丑の己酉の日に、「今から後、三年の間、全て課役を取り払い、百姓の苦難をやすませなさい」と詔勅した。この日から始めて、絹糸で縫った衣服や編んだはきものが破れ尽くすまで新たに作らない。焚いたご飯やおかずは腐って酸っぱくなければ変わりなく食べよう。本心を我慢して政策目標も簡素にして、出来事にただ対応して余分なことはしない。それで、宮垣が崩れても造らず、茅や茨が崩れ落ちても葺かないで、風雨が隙間から入り、服を頭に被って凌いだ。星が隙間から漏れ差し、床は被いが破れてむしろがあらわになった。この後、季節が過ぎて、五穀が豊かに実った。三回実り三年の間に、百姓は富んでくつろぎ、徳をたたえる声が満ち、煮炊きの煙が盛んになった。七年の夏四月の朔が辛未の日に、天皇は、物見の上にいて、遠くをに望見したところ、煮炊きの煙が多く立ち上っていた。その日、皇后に「私は、すでに富んだ。もう愁いは無い」と語った。皇后は、「何が富んだというのです」と答えた。天皇は「煮炊きの烟が、国に満ち、百姓が、自然に富めると言うのか」と言った。皇后はまた、「宮垣が崩れ、直すことが出来ない。宮殿が壊れて、衣を被って露をしのいでいる。何を富んだというのですか」と言った。天皇は、「天君に立つのは、百姓の為だ。それなら君子は百姓を大本とするべきだ。それで、昔の聖王は、一人が飢え寒がるときは、反省して自分を責めた。今、百姓が貧しいのは、私が貧しいのだ。百姓が富んだら、私が富んだことになる。百姓が富んで君子が貧しといふことは未だかってない」と言った。秋八月の朔が己巳の丁丑の日に、大兄去來穗別皇子の為に、壬生部を定めた。また皇后の為に、葛城部を定めた。九月、諸国全てが、「課役を諸国一緒に免ぜられて、すでに三年経った。それで、宮殿が朽ちて壊れ、朝廷の蔵は既に空だ。今では庶民が富んで有り余る程で、残り物を拾おうともしない。そして、里には夫や妻を戦下でなくした人も無く、家には余った儲けが有る。もしこの時に、租税を納めさせて、宮室を修繕しなければ、おそらく、天罰が下る」と請い願った。しかしそれでもなほ、我慢して聞き入れなかった。十年の冬十月に、やっと課役を科して、宮室全体を造った。そこで、百姓は、取り締まらなくても、老人を扶け、幼子を背負って、資材を運び、もっこを背負った。日夜を問わず、力を尽くして競って作った。それで、それほど月日を経ないで、宮室が完成した。それで、現在に至るまで聖帝と賞賛されている。】とあり、四年二月己未朔、三月己丑朔は標準陰暦と合致するが、七年四月辛未朔は3月30日、八月己巳朔は合致せず、443年ならどちらも日干支が合致し、439年に即位した安康天皇が454年に正式に皇位に就いて首都を変えた可能性が有る。
『三国史記』に新羅の312年即位の訖解尼師の今項には「三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」 、新羅の440年は訥祇麻立干に「二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊」と440年は戦乱で余裕がなさそうで、嫁取りを行う平和な時代である尾張王朝のことと考えるべきで、聖王は『日本書紀』の垂仁2年に「于斯岐阿利叱智于岐傳聞日本國有聖皇」と聖王と呼ばれているのは尾張王朝である。
そして、『日本書紀』の仲哀天皇二年に「聖王所賞之魚焉」、神功皇后摂政前紀に新羅王波沙寐錦が記述された部分に「吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と景行天皇と思われる時期の聖王がいる。
さらに、神功摂政五十一年の「百濟王父子並致地啓曰貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉聖王在上」の聖王は久氐が記述され、「七枝刀一口」を献上された時期、すなわち、372年と証明した時期で、380年に葛城王朝が始まったのだから、372年の時期の聖王を平群氏の大鷦鷯が聖王と述べている可能性が高く、雄略天皇は372年の頃の聖王を手本として統治すると言っているのだ。
尾張王朝は伊勢遺跡の王朝との戦いで農民が疲弊し、戦勝の財を我が物にして課税しなくても余裕があったと考えられるが、440年は允恭天皇、すなわち平群氏から王位を奪った葛城王朝の時代で、平群氏が天皇を讃える理由がない。
尾張氏の宮殿跡の纏向遺跡は方角も一定に整然と作られていることから、税制も支配法も中国を手本に整備されている可能性が高く、纏向遺跡から出土した桃の種のC14年代測定では西暦135年から230年の値が得られ、成務天皇が『日本書紀』に「令諸國以國郡立造長縣邑置稻置並賜楯矛以爲表則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横山陽曰影面山陰曰背面是以百姓安居天下無事焉」とまさに国境を決めるのに日で東西南北を定め、造長・縣・邑・を定めて稻置を置いて国家の体制を定めて、徴税の倉庫を造っている。
日によって区画するのに影を使うと労力が必要だが、鏡を使えば簡単で、三角縁神獣鏡が国産なのだから、卑弥呼以降にする必要が無く、多紐文鏡のように鏡を造る技術を持ち、多数の銅鐸から分かるように、材料も含めて、多くの鏡を作成する能力を持つのであるから、纏向遺跡の頃に三角縁神獣鏡があったとしても矛盾が無く、それで、国境を決めればよく、国境の整備が終わったら鏡は不要なので墓に埋納してもよいのである。
それに対して、纏向遺跡と同じように整備された伊勢遺跡の地域では、大国と同様に銅鐸と銅剣が埋納され、纏向遺跡には初期の前方後円墳が有り、祭祀が異なることを示し、古墳時代が始まる纏向遺跡、弥生時代の終わりの伊勢遺跡で、古墳時代は尾張氏の政権で弥生時代は物部氏の政権である。
すなわち、纏向遺跡も卑弥呼の呪縛が解けるのであるから、紀元前28年から尾張王朝が存在し、ここから古墳時代が始まったと考えればよく、箸墓は崇神天皇が池や用水を造った結果出来た盛り土で作った墓で、古墳時代が始まるきっかけであったと思われる。