2018年1月19日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察5

7.金石文と飛鳥浄御原宮3

資料11の大村骨臓器銘文は707年作成でありピッタリの対象時期である。
資料11
『大村骨臓器銘文』
卿諱大村。 檜前五百野宮御宇 天皇之四世。 後岡本聖朝、紫冠 威奈鏡公之第三子也。卿温良在性。恭倹為懐。簡而廉隅。柔而成立。後清原聖朝、初授務廣肆。藤原聖朝小納言闕。於是、高門貴兜、各望備員。天皇特擢卿、除小納言。授勤廣肆。居無幾進位、直広肆以、大宝元年律令、初定更授従五位下、仍兼侍従卿 ・・・(中略)・・・
以、慶雲四年歳在丁未四月廿四日。寝疾終、於越城。時年卌六。粤以其年冬十一月、乙未朔廿一日乙卯。帰葬。於大倭国葛木下郡山君里狛井山崗。・・・
『日本書紀』
天武天皇十三年十月己卯朔 是日。守山公。路公。高橋公。三國公。當麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏賜姓曰眞人。
『続日本紀』
大宝元年三月甲午 ・・・始依新令。改制官名位号。・・・
大宝元年五月癸酉朔 太政官處分。王臣五位已上上日。本司月終移式部。然後式部抄録。申送太政官。
大宝元年五月己亥 始改勤位已下之号。内外有位六位已下者。進階一級。
大宝元年七月戊戌 太政官處分。
大宝元年八月癸夘 ・・・五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。
大宝元年八月甲辰 太政官處分。
大宝元年十一月乙酉 太政官處分。
大宝三年十一月癸夘 太政官處分。
大宝三年十月丁夘任 太上天皇御葬司。以二品穗積親王爲御裝長官。從四位下廣瀬王。正五位下石川朝臣宮麻呂。從五位下猪名眞人大村爲副。
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。
慶雲三年閏正月庚戌 以從五位上猪名眞人大村。爲越後守。
和銅二年八月乙酉 廢銀錢。一行銅錢。」太政官處分。
和銅五年五月丙申 太政官處分。

銘文には天武天皇から与えられた「賜姓真人」に言及せず、「清原聖朝」に「後」を冠して、初授としているのは、前「清原聖朝」の存在を表している。
持統天皇を後「清原聖朝」に当てているようだが、日本書紀どおりなら持統天皇は前「藤原聖朝」でもあるはずであり、後「藤原聖朝」が文武天皇である。
すなわち、704年に「定藤原宮」と決まったため705年から文武天皇を「藤原聖朝」といったのではないか。
したがって、藤原に遷都したという持統天皇抜きで、天武天皇が後「清原聖朝」となり前「清原聖朝」は天智天皇・大友太政大臣になる。
持統天皇・天武天皇紀に大村への務廣肆授号記事が無いので言及できないが、浄御原令発効後の681年以降683年初出が初授で、この頃が授号となり天武天皇が後「清原聖朝」と別に前「清原聖朝」を裏付ける。
しかし、700年より前に後「清原聖朝」が出現しないということは、それ以降に後「清原聖朝」が出現したと考えるほかない。
そして、701年のクーデターと大宝律令によっての「無幾進位」と4回の「太政官處分」との対応があり、701年の大混乱が解る。
日本書紀どおりなら、「藤原聖朝」に前後、「清原聖朝」に後は不要で、あちらを立てればこちらが立たずだが、骨臓器銘文は後代に書き換えることはなく一番の資料となり、704年遷都の藤原宮を証明している。

2018年1月17日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察4

6.金石文と飛鳥浄御原宮2

資料9の采女氏塋(うねめしのえい)域碑はいつ直大弐に昇進したかわからないため評価できないが、689年は持統天皇で、少なくとも天武天皇と持統天皇の前後飛鳥浄御原などの区別がされておらず、宮ごとで天皇を表記している。
資料9
『采女氏塋域碑』 
「飛鳥浄原大朝廷大弁官直大貳采女竹良卿所請造墓所形浦山地四千代他人莫上毀木犯穢傍地也  己丑年十二月廿五日」
『日本書紀』
「朱鳥元年九月甲子 ・・・次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事・・・」

新しい年表では689年の朝廷は大友皇子がいる天皇を付加していない飛鳥浄御原で間違いはないが、昇進時期が気になる。
資料10の文忌寸祢麻呂墓誌板が一番の難題で、壬申年672年に本当に政変があったなら、私の論は全くの空想になるが、逆に672年の壬申の乱を正当とすると私が述べてきた矛盾点が解消されない。
資料10
『文忌寸祢麻呂墓誌板』
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
『日本書紀』
天武天皇元年七月辛卯 ・・・且遣村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍。率數萬衆。・・・
天武天皇十四年六月甲午 大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。
持統六年十一月戊戌 務大貳川内忌寸連等祿。
『続日本紀』
文武二年四月壬寅 遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。
大宝元年正月己丑。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。
大宝元年七月壬辰 勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行。阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。
大宝三年閏四月辛酉朔 是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。
慶雲四年冬十月戊子。從四位下文忌寸祢麻呂卒。遣使宣詔。贈正四位上。並賻?布。以壬申年功也。
霊亀二年夏四月癸丑。詔。壬申年功臣・・・贈正四位上文忌寸祢麻呂息正七位下馬養・・・
○壬申の功生前恩賞
天武天皇十一年七月壬子。摩漏臣以壬申年之功贈大紫位及祿。更皇后賜物亦准官賜。
持統五年五月辛卯 褒美百濟淳武微子壬申年功、賜直大參。
持統七年九月壬寅。以直廣參贈蚊屋忌寸木間。并賜賻物。以褒壬申年之役功。
文武元年九月壬寅。賜勤大壹丸部臣君手直廣壹。壬申之功臣也。
文武三年五月辛酉。詔曰。圖勲之義。肇自前修。創功之賞。歴代斯重。蓋所以昭壯士之節。著不朽之名者也。汝坂上忌寸老。壬申年軍役。
大宝元年七月壬辰。勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。
大宝三年六月壬子。贈從五位下民忌寸大火正五位上。正六位上高田首新家從五位上。並遣使弔賻。以壬申年功也。

671年までにやってきた中国軍は体調の悪い天智天皇に対してお見舞いにでも来たのだろうか。
九州の饗応は持統天皇が続けても良いし九州が都なら天武天皇が筑紫で饗応する必要がないし、大宰府の朝堂院建築は何を意味するのだろうか。
軍果を受け取りに来ただけの軍で、大友皇子に天皇位を継がせたくなくて天武天皇に肩入れするための軍だったのだろうか。
しかし、史実は逆で、郭務悰が日本滞在中に皇太子を変更しているということは、郭務悰も望んだものであるから、大友皇子に継承されたことを確認して帰国したように思われ、しかも1年程度の駐留が妥当であろうか。
そして、壬申の乱という大きな事件があったにも関わらず、九州年号では元号を変えることなく白鳳が続いており、壬申の乱はやはり695年大友中国傀儡政権の打倒の成功日の壬申の勝利で、恩賞はほとんど死後に追賞で、最初が天武天皇5年、生前に送られた恩賞は天武天皇11年で本当に恩賞を与えたかすらわからない。
さらに、716年壬申の乱後44年もあとに子供に恩賞を与えているが、孫の間違いではないかと思われるぐらいで、701年の壬申の日のクーデターによる禅譲なら子供の世代であり、恩賞は翌月すぐにはじまり、701年のクーデターは形式上禅譲であるためどのように呼ぶことになったのだろう。
そして、文氏は天武天皇十四年685年に忌寸を賜姓されておらず、初出は持統九年695年で、祢麻呂は707年まで出現しないし671年では祢麻呂が将軍になるには若すぎ、実際に壬申の乱時には将軍と書かれていないし、大宝元年七月の記事に村國小依に連姓が付いていない。
持統天皇時、阿倍朝臣御主人(みうし)や大伴連御行(みゆき)は昇進しているが壬申の功の言及がなく、701年1月阿倍朝臣御主人は死亡時に右大臣を贈られているが壬申の功と書かれていない。
やはり、壬申の乱は701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天皇がクーデタで追放された、壬申の勝利の日であった。

2018年1月15日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察3

5.金石文と飛鳥浄御原宮1
 金石文は後代に作り直すことがあり、骨臓器以外は要注意であるが、幸いなことにこの時代になるとたくさんの金石文が残っていて、理論との確認ができる。
資料6の小野毛人墓誌は677年葬となっているが、小野毛人は日本書紀に684年に朝臣を賜姓されている。
資料6
『小野毛人墓誌』
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
『日本書紀』
天武天皇十三年十一月戊申朔 ・・・ 小野臣。 ・・・ 凡五十二氏賜姓曰朝臣。

日本書紀は内容が前に記述されることは少ないし、日本書紀の記事の挿入場所天武天皇十三年以前には朝臣が出現しないので、作成日自体が朝臣賜姓後で、後追いで684年以降特に飛鳥浄御原宮治天下天皇の賜姓の朝臣を銘記したのだろう。
飛鳥浄御原宮治天下天皇は672年からで全く問題が無い。
資料7の長谷寺銅板法華説相図の降婁(こうろう)は686年のことを指しているとしているが、私が知るところでは確たる証拠があっての戌歳ではないようである。
降婁は普通十二次の2月を指す言葉であり、漆菟(しつと)という知識を持った人物が如何にも2月を意味する言葉を選択して戌年に当てることがあるのだろうか。少なくとも持統天皇は出現していない。
資料7
『長谷寺銅板法華説相図』
惟夫霊(應)□□□□□□□□ 立稱巳乖□□□□□□□□ 真身然大聖□□□□□□□ 不啚形表刹福□□□□□□ 日夕畢功。慈氏□□□□□□ 佛説若人起窣堵(波其量下如) 阿摩洛菓、以佛駄都(如芥子許、) 安置其中、樹以表刹(量如大針、) 上安相輪如小棗葉或造佛(像) 下如穬麦、此福無量。粤以、奉為天皇陛下、敬造千佛多寳佛塔。
上厝舎利、仲擬全身、下儀並坐。 諸佛方位、菩薩圍繞、聲聞獨覺翼聖、金剛師子振威。伏惟、聖帝 超金輪同逸多。真俗雙流、化度 无央。廌冀永保聖蹟、欲令不朽。
天地等固、法界无窮、莫若崇據 霊峯、星漢洞照、恒秘瑞巗、金石相堅。敬銘其辞曰遙哉上覺、至矣大仙、理歸絶妙、事通感縁、釋天真像、降茲豊山、鷲峯寳塔、涌此心泉。負錫来遊、調琴練行。披林晏坐、寧枕熟定。
乗斯勝善、同歸實相、壹投賢劫、倶値千聖。歳次降婁漆菟上旬、道明率引捌拾許人、奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造。

資料8の那須国造碑では持統天皇永昌元年689年のことを建造時に記述しているが、どうして藤原宮を銘記しないのだろうか。
資料8
『那須国造碑』
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂
 等立碑銘偲云尓仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以曽子之家
无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

日本書紀通りの歴史なら、碑を建造した700年に、天武天皇か持統天皇かわからないような飛鳥浄御原大宮天皇を使用する必要がなく695年以降なら藤原宮天皇もしくは後飛鳥浄御原大宮天皇とすればよい。
天武天皇から賜ったのなら年号も中国年号を使う必要がない。
これは、郭務悰が695年まで九州の都督府に滞在していて、都督府発の公示であったための中国年号使用で、大友皇子が朝廷を飛鳥浄御原で切り盛りしていた天皇を付加しない飛鳥浄御原大宮を記述し、天皇は近江にいた。

2018年1月12日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察2

3.郭務悰はいつ帰ったか
 郭務悰は白村江の戦後処理の対日担当者で何度も来日しているが、最終的にいつ帰ったかというと、壬申の乱の新しい年表の695年である。
資料1の造仏記事は中国や朝鮮から送ったものでなく九州から送ったもので、資料2の天智天皇に対しては死後も九州から東を向いて再拝して、5月に帰国と記述されている。
おそらく、在日中は海軍力増強をしないかと監視し政治に口出しを行い、そして、口出しする郭務悰は中国との中継基地九州の都督府に駐留していたのではないか。
数千人は軍にしては少なく、使節団には多過ぎ、九州での駐留の人員としては適正な規模で、日本は軍隊として数万人を百済に送っている。
その後、天武天皇は郭務悰帰国後695年壬申の勝利の乱で郭務悰お気に入りの大友皇子の首を掲げた。
天武天皇元年郭務悰離日後、天武天皇治世中に唐からの来日はなく、天武天皇十三年に大唐學生が来日するまで空白であるが、天武天皇十三年は新しい年表の707年で、持統天皇四年の新しい年表の706年の大唐學問僧と同じ記事と思われ、すなわち、天武天皇に対して中国は交流を止めた。

4.戦場の飛鳥浄御原宮
  天智天皇は667年から694年まで在位したと論じたが、新しい年表には4つの宮で在位したことになる。資料4のように、665年の小墾田宮は難波京の東宮有間皇子が入っていた場所に天智天皇が入り、668年近江に遷都、678年飛鳥川原宮に遷都した。
685年の遷都記事は無いが天智天皇は近江大津宮天皇と呼ばれているので、近江大津宮に戻ったのだろう。
そして、皇太子は、天智天皇が若くして天皇になったため、長男ではなく弟、おそらく孝徳天皇の弟が東宮大皇弟となり、671年には、資料4のとおり正月には大皇弟が五月には皇太子となっていて、大皇弟は皇嗣から外され、居場所のない皇太子の弟大友皇子はどこに宮を置いていたのだろうか。
大友皇子が宮を作る年齢になったときはおそらく飛鳥川原宮に遷都した時期ではないだろうか。資料2の天智天皇10年671年には大友皇子がおそらく13歳そこそこで太政大臣にして、逆に既に病弱になって2年以上たっての太政大臣も異様だ。
この671年に飛鳥遷都時に近江大津宮での政務を新しい皇太子に任せ、681年に皇太子を廃位して大友皇子を皇太子にして、再度685年近江に遷都するとき大友皇子は飛鳥川原宮に残し政務をまかせたのではないか。
この飛鳥川原宮はおそらく都督府と同じ場所にあり、郭務悰と調整しながら政務を行っていたのではないかと思われ、672年から690年まで饗応記事はほとんど筑紫になっている。
郭務悰は670年から695年まで九州に常駐していたので、造仏以外全く現れないのは、筑紫に朝廷があったからと思われる。
そして、郭務悰が帰国するまで、大友皇子が天智天皇の代理として郭務悰と共に飛鳥川原宮を朝廷として統治していた。
すなわち、飛鳥川原宮と近江大津宮は並行して続き、郭務悰に認められた大友皇子を後継にしようと681年に天武天皇を皇太子から引きずり下ろし、眞人という臣下にし、東宮大友皇子とし、694年に崩じた。
日本書紀での饗応を確認すると、筑紫の饗応が668年から690年までしかなく、21回筑紫で、その間、4回が飛鳥寺、難波が1回、解らないすなわち都で3回で、合計29回とほとんどが筑紫で饗応しているということは、郭務悰が滞在中は首都が実質筑紫にあったことが解かる。
ちなみに、上記以外では宣化天皇以降47回饗応があり、飛鳥寺2回、難波9回で圧倒的に都で行っている。
飛鳥寺、難波もどこに指定するかで議論が異なるだろうが、饗応は普通、首都で元首が行うもので、記述しているのは首都以外で元首が行った饗応、天智天皇の川原の宮遷都も川原の宮に常駐した饗応で、近江宮が名目上の首都だったと思う。
もちろん、飛鳥寺も神社仏閣の寺ではなく、鴻臚寺すなわち役所の寺で、657年から688年までしか現れておらず、九州の鴻臚館の前身か。
すなわち、筑紫で饗応したとき、首都機能は別にあったが、郭務悰がいる筑紫が結果的に首都となり、天皇もしくは最高実力者も筑紫に滞在していた。
天武天皇元年、新年表695年、大友皇子が皇位を受け継いだことを見届け郭務悰が帰国すると、天武天皇が中国傀儡政権打倒を合言葉にしたか蜂起し皇位を奪い、飛鳥川原宮と日本書紀に記述した飛鳥浄御原宮で、天武天皇元年、新年表695年7月26日壬申の日に勝利したが、中国に警戒感を与えた。
天智天皇に、ついて回る宮資料は4回変わって最後は近江大津宮であるが、大友皇子の宮飛鳥浄御原宮は天皇になっていないので、天皇の宮としては残らなかったが、朝廷の宮としては672年以降飛鳥浄御原の時代であった。その後、文武天皇が701年2月29日壬申の日に吉野から帰った天武天皇をクーデターで飛鳥浄御原宮から追い出し、その守りは基肄城・大野城などが役に立った。
すなわち、資料5のように671年大友太政大臣就任から704年まで日本の首都は飛鳥浄御原であった。

資料3
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物。
持統四年十月乙丑 天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。
天智天皇十年十一月癸卯 對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。
『旧唐書 仁軌伝』
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅
資料4
『日本書紀』
天智天皇即位前紀斉明天皇七年 ・・・皇太子遷居于長津宮。・・・
皇極天皇元年十二月壬寅 天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮。
天智天皇六年三月己卯 遷都于近江。
斉明天皇元年是冬。災飛鳥板盖宮。故遷居飛鳥川原宮。
天智天皇一〇年正月 甲辰。東宮太皇弟奉宣
天智天皇一〇年五月丁酉朔辛丑。天皇御西小殿。皇太子。
資料5
『日本書紀』
持統八年十二月乙卯 遷居藤原宮。・・・710年
『続日本紀』
慶雲元年十一月壬寅 始定藤原宮地。 ・・・704年

2018年1月10日水曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 飛鳥浄御原宮の考察1

1.飛鳥浄御原宮の前提 天智天皇
天智天皇は近江大津宮天皇と呼ばれ、671年までの在位と日本書紀に記述されているが、持統6年692年に郭務悰が天智天皇のために阿彌陀像を造仏している。
普通造仏は資料1のように目の前の人物のためにせいぜい死後すぐに作成していて、この用例を考えると692年には天智天皇はまだ生きて近江宮に在位していた。
 そして、天智天皇は662年より摂政をしていたが、摂政ということは、他に天皇として在位しているということで、摂政の対象は理論上 孝徳天皇になり、『野中寺弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座』の框に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に中宮天皇が存在する。
資料2の『藤氏家伝』に記述してある通りであり、なぜ摂政をしているかというと、百済を助ける戦いと白村江への天萬豐日出陣や訪中のためである。
『藤氏家伝』では665年に「白鳳五年 秋八月・・・超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲」と鎌足に紫冠超拝後に天萬豐日天皇が崩じている。
『旧唐書』は664年の帰国記事と665年の渡中記事で、先遣隊に671年はすでに何度も郭務悰が来日しており不要で664年記事に最もふさわしい。
 
2.上送記事
 日本書紀に上送記事は資料3のとおり5例しかなく、689年・690年の上送は天智天皇に送らなくてはならないため、すなわち、最終的に天智天皇に送らなければならなかったからと思われる。後代上送なら、法隆寺金堂薬師仏のように、天智天皇の世に寺に奉納した像を送ると書くはずだ。
上送という言葉は、天皇以外に政権を支える人物が別にいて、支える人が自分で判断できないものを政権中枢の天皇に判断を仰ぐことのようで、もし、それ以外ならもっと頻繁(天皇以外に上送も)に上送記事があるはずである。

資料1 
『日本書紀』
持統六年閏五月乙酉 復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。
持統十一年六月辛卯 公卿百寮。始造爲天皇病所願佛像。
朱鳥元年七月是月 諸王臣等爲天皇造觀音像。則諡觀世音經於大官大寺。
白雉四年六月 天皇聞旻法師命終。多造佛菩薩像安置於川原寺。
白雉元年十月 爲入宮地所壌丘墓及被遷人者。始造丈六繍像侠侍八部等四十六像。
大化元年八月癸卯 小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。
推古天皇十四年五月戊午 今朕爲造丈六佛以求好佛像
推古天皇十三年四月辛酉朔 以始造銅繍丈六佛像各一躯
用明天皇二年四月丙午 奉造丈六佛像及寺。
欽明天皇六年九月是月 百濟造丈六佛像。製願文曰。盖聞。造丈六佛功徳甚大。

資料2 
 『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」
天智天皇三年十二月乙酉 「郭務悰等罷歸」
天智天皇四年九月壬辰 「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等・・・上柱國郭務悰。凡二百五十四人」
天智天皇四年十二月是月 「劉徳高等罷歸」
天智天皇六年十一月乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府・・・上柱國司馬法聰・・・石積等於筑紫都督府」
天智天皇八年是歳 「佐平鬼室集斯等。男女七百餘人遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人」
天智天皇一〇年正月癸卯 「以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣爲左大臣。以中臣金連爲右大臣」
持統六年閏五月乙酉 「復上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像」
天智天皇八年十月庚申 「天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏」
天武天皇元年三月壬辰朔己酉。 「郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。」
天武天皇元年五月庚申 「郭務悰等罷歸。」
持統四年九月丁酉 「大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。・・・還至筑紫」
天武天皇十三年十二月癸未 「大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。
『旧唐書』 仁軌伝
麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅
『藤氏家伝』
白鳳五年 秋八月 詔曰 尚道任賢 先王彜則 褒功報德 聖人格言 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 
『続日本紀』
慶雲元年七月甲申朔。正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時。有人來問曰。何處使人。荅曰。日本國使。
慶雲元年十月辛酉。粟田朝臣眞人等拜朝。

資料3
 『日本書紀』
天智天皇二年二月是月 佐平福信上送唐俘續守言等。---663年
持統三年正月壬戌 詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。 ---689年
持統三年四月壬寅 新羅遣級さん金道那等奉弔瀛眞人天皇喪。并上送學問僧明聡。觀智等。別獻金銅阿彌陀像。金銅觀世音菩薩像。大勢至菩薩像。各一躯。 ---689年
持統四年十月戊午 准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞賜物一依詔書。 ---690年
大化元年八月癸卯・・・於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。


2018年1月8日月曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明3

5.宮天皇
 694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということは、「近江大津天皇」が694年まで在位したことになる。『日本書紀』では持統紀となって2代ずれてしまうが、『新唐書』で「次用明亦曰目多利思比孤」と「推古天皇」にあてている「タリシヒコ」が『用明天皇』と2代ずれている。
そして、『日本書紀』に「女曰酢香手姫皇女。歴三代以奉日神」と「用明天皇」の皇女が37年間斎王となっているが、「用明天皇」の在位期間が2年でその後の崇峻・推古とまたがって斎王職を務めて本来の形ではないが「推古天皇」が「用明天皇」ならこれもピタリと合致する。
ということは、「天智天皇」は49歳まで生存して、『藤氏家伝』に「冬十一月 天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原 十四年 皇太子攝政」と摂政になったのが17歳、その理由は『日本書紀』に「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と「舒明天皇」13年に太子が16歳と書いてあり、『藤氏家伝』に天皇名を書いていない。
しかし、天皇の死亡を13年と書いているので斉明7年ではなく舒明13年が661年となり、「皇極・孝徳・斉明天皇」が662年から694年までに埋もれてしまうことになる。
ということは、「天智天皇」を含めて4人が1人の天皇だということになり、これらの天皇は小墾田天皇・後岡本天皇・飛鳥板盖宮天皇・近江大津宮天皇と呼ぶ事が出来る。
すなわち、「天智天皇」がこれらの宮に遷都したと考えられ、『日本書紀』は複数の天皇を1人に、1人の天皇を複数の天皇にしていることが解り、私はこれを宮天皇と呼んでいる。

6.『古事記』の天皇
 このことから、『古事記』も当然2代ずれなければならなず、『日本書紀』では「豊浦宮」にも拘らず『古事記』の「小治田宮」の「推古天皇」は『日本書紀』の「皇極天皇」の宮「小墾田天皇」から始まる「天智天皇」となって宮の一致は偶然とは思えない。
『船王後墓誌』には「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇」というように「譯語田・豊浦・飛鳥」と記述され「小墾田宮」は記述されないことも2代のズレを物語っている。
『古事記』は「元明天皇」の前々代の「元明天皇」の夫またはその父までの歴史を記述していて、天智天皇と違う系図を持った元明天皇が存在している。
しかし、『日本書紀』は「元明天皇」の家系でなく、『古事記』も以前の政権の『帝皇日継』と『先代旧辞』を写したと言っているのだからさらにもう一つ天皇だった家系が有ることを示している。
神話から「天御中主」を主神とする淡島出身の王から王位を奪った淡路島出身の「大物主」を祀る地域を奪って建国した家系と「國常立尊」を主神とする淡路洲の王から王位を奪った大日本豐秋津洲出身の「事代主」を祀る地域を奪って建国した家系の王朝が有ったということが解る。

7.結語
 以上のとおり、実は『日本書紀』と『古事記』が同一の天皇を記述したと考えられていたが、実際は古事記は2代少ない天皇しか書かれていないことがわかった。
どこかに2代分まとめた天皇があるか、『日本書紀』の天皇が2代分分割されているか、さらに、もっと多くの天皇が複数の宮を持ち、複数の天皇が複数の天皇をまとめて書いていることになる。
紀伝体の資料しか持っていない「元明天皇」は編年体に当てはめる作業によって矛盾のある『日本書紀』を創って、紀伝体の資料の部分が移動してしまった。
「平群眞鳥大臣」の子「鮪」の事件が『日本書紀』では「武烈天皇」前紀すなわち「仁賢天皇」の時代に書かれていて、『古事記』では2代前の「清寧天皇」の時代に書かれていて『古事記』と『日本書紀』の間に2代のズレがある。
なお、以前報告した通り、700年建造した『那須国造碑』以前には「藤原宮」が出現せず、707年作成 『大村骨臓器銘文』、710年作成『伊福吉部臣徳足比売墓誌』には「藤原」が出現して704年「藤原」遷都を否定していない。
しかし、『日本書紀』に「都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波」と683年に宮を2・3造ると宣言してまず「難波」を造って、692年に「藤原宮」を建造するため地鎮祭を行っているので、695年に「藤原京」が完成していたのは間違いはない。
藤原宮の名も694年の天智天皇崩なら鎌足薨は692年で「賜姓爲藤原氏」と無関係と思えず、藤原賜姓後藤原京と臣下の姓を都の名前にすることは奇妙だが、都の名前を姓に与えることは臣下にとって最高の栄誉となる。
『日本書紀』は「宮天皇」という時計の箱を作り、そこに複数の王を当てはめた、または、分割した史書だということが解る。

2018年1月5日金曜日

最終兵器の古代史 天皇は宮の名前の証明2

3.『日本書紀』と『古事記』

 『日本書紀』は正史であるのだが、「元正天皇」やまだ生存中の「元明天皇」が認めているにも関わらず偽書説や官僚が勝手に書いた物語やら継体天皇以降は信じられるなどと恣意的に正しい部分を決めたりしている。
しかし、これも『古事記』と同じで、在位年数や寿命が長いと言って、他国の史書と合わないと言って間違いとしているが、これらの人々は中国史書が間違いなどと言っている人物がほとんどで、自説が正しく古文書が間違いという、論理とは言えない妄想を唱えている。
しかし、『古事記』と同じ理由でこれらの人物は論証しなおすべきで、古書の矛盾は矛盾とならない読み方をまず考えるべきであり、そして、まさに『日本書紀』には矛盾が存在しているために偽書扱いしているのだが、矛盾を矛盾でない読み方を私は考えている。
矛盾の一つが「元明天皇」の夫の名前で、『日本書紀』では「草壁皇子」、『続日本紀』では「日並知」なのだが、巷間では諱だと言って意に介していない。
しかし、『日本書紀』の皇太子を見ると2つ名を持つ太子はいるが、無い太子もあり、有る皇子は臆病者で、ない皇子は勇敢とでもいうのだろうか。
さらに、「元明天皇」の姉妹で義母でもある「持統天皇」の母親の名前が解らないのではなく、誰だったかわからないというのは異常で、「元明天皇」と「持統天皇」の血縁関係を疑わざるを得ず、「元明天皇」と「日並知」は「持統天皇」と血縁がない無関係の可能性が高い。
さらに、『古事記』の序文では「元明天皇」を「可謂名高文命、徳冠天乙矣」と中国の著名な初代皇帝より優れていると、初代皇帝になぞらえ、従来「天武天皇」と考えられてきた序文の「飛鳥浄御原天皇」だが、その天皇を「道軼軒后、徳跨周王」と中国の殷末の著名な臣下と対比して臣下の様に記述した。
しかも、まだ即位していないのに「飛鳥浄御原天皇」の時代に潜伏していて突如帝位を奪ったと記述している。
この後から帝位を奪った人物が「元明天皇」の先代の人物の「文武天皇」以外考えられない記述をしていて、すなわち、これは「天武天皇」から「文武天皇」に政権が遷ったことを示している。
したがって、『日本書紀』の持統紀は「文武天皇」と併存していたことになり、『日本書紀』を1代後にずらさなければならない。
本来の皇位は天智→天武→文武→元明とつながって「持統天皇」が正当な天皇で、「元明天皇」は707年から「安万侶」が『古事記』を記述しだした和銅四年711年までに正式な皇位を得ることになったと読まなければ辻褄が合わない。

4.飛鳥浄御原京と藤原京
 したがって、持統11年が707年から711年と想定されるということは持統元年は696年から700年の間となる。
そして、『古事記』序文に「飛鳥浄御原天皇」が天皇の時政権を奪ったと書かれているのだから、696年まで「天武天皇」が即位していたことになる。
しかし、この時期は「飛鳥浄御原京」ではなく「藤原京」になってしまうということは、『日本書紀』の「藤原京」も一代ズレて「飛鳥浄御原京」だといえる。
実際、『続日本紀』の704年に「始定藤原宮地」と都を藤原に始めて定めたと記述してあり、すると、694年12月に遷った宮は「藤原」ではなく「飛鳥浄御原」だということになり、「天武天皇」は「飛鳥浄御原」に即位してから入っている。
したがって、「天武天皇」は695年の即位ということになり、天武15年は709年にあたり『続日本紀』では翌年「平城京」に遷り、『続日本紀』では704年から「藤原京」が首都だ。
しかし、『日本書紀』では「藤原京」が消えてしまって「飛鳥浄御原京」ということになり、「飛鳥浄御原京」の「天武天皇」は実際には「天武天皇」・「文武天皇」・「元明天皇」の「平城京」に遷都するまでのことになる。
そして、これらの天皇と並行して「持統天皇」がいて「藤原京」に途中で移っており、すなわち、『続日本紀』に翻訳すると持統9年が710年と考えられる。
すなわち、701年から712年まで続いた正式な天皇が存在して712年に正式に「元明天皇」に皇位を譲った天皇ということになり、臣下の「文武天皇」、初代天皇「元明天皇」と『古事記』序文とピタリと当てはまる。