2025年12月31日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 宣化天皇

  二月壬申朔の大連任命は正しい日干支、倭国の武小廣國押盾が即位したのだろう。以降、倭国の記録も正しい日干支で記されている。『古事記』が太陽暦で記されているように、倭国蘇我氏は太陽暦、正しい日干支への換算が容易だったと考えられる。俀国は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』から解るように、中国風の旧暦である。

二月壬申朔の皇后擁立は正しい日干支で崩じた麁鹿火の皇后の代わり、押甲の妃が皇后になったようだ。三月壬寅朔の皇后擁立は俀国の日干支で3月2日の日干支、2月は小の月である。『舊事本紀』は宣化二年と記し、押甲と麁鹿火が分裂王朝だったようだ。麁鹿火大連の薨は元年七月、安閑二年が押甲即位である。 夏五月辛丑朔の調に関する詔勅は正しい日干支、秦王国の記録で、筑紫・肥・豊の国はやはり統治下ではない。

二年冬十月壬辰朔は「新羅冦於任那」とあるように朝鮮の暦である。新羅は秦王国にとっては友好国、倭国と俀国が百済と友好関係だった。大伴金村・磐親子が俀国と友好関係にあり、筑紫に留まった磐が俀国に婿入りした可能性が高い。

 四年春二月乙酉朔の「天皇崩」、冬十一月庚戌朔の「葬天皇」は正しい日干支で、皇后橘皇女の子の上殖葉が江田船山古墳の被葬者の主君なのだから、二代目金村の上殖葉が磐、その父の初代の金村崩御だ。倭と秦王国の反乱だったのだろうか。天皇・橘皇女・孺子が同時の崩薨、さらに、大連も尾輿に代わっているので、押甲も同時に崩じ、流行り病かクーデターが考えられる。

2025年12月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安閑天皇2

  二年春正月戊申朔は2月朔日が正月だ。計算で求めると、1月30日が雨水なので、中気の決め方によって、閏月になる。534年12月に閏月があれば、正月朔日になる。梁書には大同元年春正月戊申朔とあり、大寒が12月29日晦日、雨水が1月30日、太陽の位置計算による閏月は2月にある。ユリウス数で算出した中気と日割りで決めた中気の違いである。古代人が簡単に決めることができるのは、冬至と夏至、春分と秋分。中気は簡単ではない。

夏四月丁丑朔は正しい日干支、「置勾舍人部 勾靭部」は秦王国の記事のようだ。五月丙午朔も同じく秦王国が中心になって恩賞を与えた。筑紫・豐國・火國・播磨國・備後國・婀娜國・阿波國・紀國・丹波國・近江國・尾張國・上毛野國・駿河國で領土が決まったようだ。

秋八月乙亥朔も正しい日干支だが、犬養部を置いたのだから、蘇我氏の記事のようだ。入鹿を殺害したのも稚犬養連網田、縣犬養連に天武朝で大伴鞍馬が記される。倭国は太陽暦と日干支を使用したため、変換が容易だったのかもしれない。九月甲辰朔は倭国の記事で櫻井田部連、縣犬養連、難波吉士が配下にいた。

冬十二月癸酉朔も正しい日干支で、秦王国の記録、麁鹿火の妃の春日山田皇女が崩じたようだ。「時年七十」と535年から70年前の466年(雄略十年)に春日大娘皇女の姉妹が分家した糠若子郎女(糠君の娘)、その娘が春日山田皇女なのだろう。

2025年12月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安閑天皇1

  継体廿五年春二月辛丑朔は九州の暦、安閑即位の記事で大漢国王が即位したのだろう。 安閑531年元年三月癸未朔は間違いの日干支、534年が正しい。『百濟本記』に合わせた結果のようである。『日本書紀』は中国や朝鮮の史書を無いはずの景初3年があったとしたように間違っていても、他王家の事も信用して、自王家の説話にしていた。

 春日山田皇女は麁鹿火の妃、安閑天皇は大伴大連を「大伴伯父今作何計」とあるように伯父と呼び、麁鹿火の伯父は大目、大伴大連と大目大連は兄弟か親子で同じ王朝である。531年即位は倭国王廣國押武金日、534年即位は秦王国王の麁鹿火だ。

 元年夏四月癸丑朔も間違いの日干支の534年、東国王位の象徴の「珠」を差し出すように求められ、東国は斯鬼宮大王の上毛野君(?獲加多支鹵)が勢力下に置いた可能性がある。東山道十五國都督は須羽に置かれていた可能性がある。秋七月辛巳朔も534年倭国九州の日干支、河内の領地を奪い合った。冬十月庚戌朔も間違いの日干支で534年、大伴大連金村の言葉で、新たな領地に屯倉や部を置いた。閏十二月己卯朔壬午は535年1月2日(12月は小の月)のようだ。三島県主は仁賢朝大連の木蓮子の妃が三尾君の祖の娘、宣化妃の橘皇女はその娘と思われ、その説話のようだ。

 

年候補

辛丑2月朔日 495 562 624

辛丑130日晦日531

癸未3月朔日 498 534 565 591 622

癸丑4月朔日 534 565 627

辛巳7月朔日 498 565 622

辛巳630日晦日 477 508 534 601

庚戌10月朔日 472 534 565

己卯 52911月朔日 53512(12月小の月) 53911月晦日

2025年12月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 継体天皇2

  廿年秋九月丁酉朔の磐余玉穗遷都は間違いの日干支で、おそらく490年9月2日、8月は小の月の九州の暦である。巨勢氏は白雉年間に豊足臣の子の巨勢臣薬が記されるように豊国に関係をもつ。『古事記』では大長谷若建が489年に崩じ、490年が袁本杼元年である。倭国勢力に追われて、磐余から弟国へ逃れたのだろうか。

 秋八月辛卯朔の磐井に関する記事も間違いの日干支で527年7月30日晦日の日干支だ。廿一年夏六月壬辰朔は正しい日干支で磐井が反乱を起こし、八月に「筑紫以西汝制之」と分割案を示し、よく符合する。廿二年冬十一月甲寅朔は九州の日干支で、九州での記録、翌月糟屋を葛子は割譲した。筑紫以西を得たのは蘇我氏の大漢国、 『古事記』によれば527年男人は薨じた。

継体二十五年531年の天皇崩は3年のズレがあり、継体二十二年528年の崩御だろう。「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とあるように、継体二十二年に女国王、翌年、太子の襲名した二世男人が薨じた。巨勢王朝の滅亡である。

 二十三年夏四月壬午朔は正しい日干支で任那が助けを求め、対応者は金村大連、任那・百済は俀国が後ろ盾、新羅・高句麗は畿内が友好関係を持っている。金村は俀国側の人物とわかる。廿四年春二月丁未朔も正しい日干支で、武烈天皇時から金村が皇位を奪取して24年たったと述べた。

 継体帝は「時年八十二」なので、531年か534年から82年前、大伴氏の室屋は450年か453年に倭王(漢直)興の分家した東漢直、後の俀国王の家系のようだ。

 

年候補

丁酉9月朔日 464 593 650

丁酉830日晦日 500

丁酉92 490(8月は小の月)

 

辛卯8月朔日 491 496 553 620

辛卯730日晦日 527

2025年12月22日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 継体天皇1

  元年春正月辛酉朔は正しい日干支で、品太五世の孫は巨勢男人の経歴だろう。一世代20年、394年崩御が品太なのだから、相応しい。『古事記』は袁祁と小長谷若雀の内容が乏しいのに対し、袁本杼は少し記述がある。それは『古事記』を編んだ蘇我氏の建国の原因だったからだろう。安閑天皇と思われる麁鹿火は宣化元年の崩、安閑二年に崩御したのは大漢国王の広国押建金日だ。

弘計の埋葬が519年と考えられたのは、この前年が武烈朝大連の麻佐良の崩御なのではないだろうか。継体天皇は最初から磐余玉穗宮で即位しているので、樟葉宮、五年山背筒城、十二年春三月丙辰朔甲子の弟国遷都は異なる王朝、おそらく、男人や麁鹿火達の遷都だ。517年に継体年号の建元、518年武烈崩御と武烈の後継者が弟国へ遷都、後継者が安閑二年の崩御を想定している。『舊事本紀』は継体の崩を継体二十八年534年と書き直している。531年の継体崩御は磐井の崩御だろう。

元年三月庚申朔は正しい日干支で、麁鹿火が手白香皇女を皇后にした、すなわち即位した。二年冬十月辛亥朔も正しい日干支で、倭彦王の埋葬と考えた。六年夏四月辛酉朔も正しい日干支で、穗積臣押山の記録。磐井が献上品の馬を奪った。百済の記事の、七年秋八月癸未朔は2日、前の月は小の月だ。七年冬十一月辛亥朔は正しい日干支で前の月は大の月、百済は倭国と同じ中国風の暦と解る。

七年十二月辛巳朔は正しい日干支で継体天皇が即位したことを記す。海内は黄海を示し、「懿哉摩呂古」と倭媛の子の椀子皇子に呼び掛けている。九年春二月甲戌朔は正しい朔日の日干支で、百済の使者が帰った。十二年春三月丙辰朔も正しい日干支で、巨勢大臣が弟国へ遷都した。

2025年12月19日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 武烈天皇

仁賢十一年秋八月庚戌朔、冬十月己酉朔は正しい日干支、崩御・埋葬は通常の皇位継承のようだ。『古事記』は武烈天皇が編んだようで、袁祁から小長谷若雀の崩御日を記さず、父の意祁の英雄譚が記される。袁祁は分家筋、本家の自分の王家は父親がまだ生存しているから、父の崩御日を記していない。完成させた蘇我氏は平群・巨勢氏を継承しているので、袁本杼の崩御日は記した。斉の時、乙祁の名を記すだけなので、宮も列城宮のままだ。小長谷若雀は意祁の名を継承した可能性がある。

仁賢十一年冬十一月戊寅朔戊子は正しい日干支。『日本書紀』は鮪と稚鷦鷯の戦乱を記し、『舊事本紀』は武烈元年として、同じく冬十一月戊寅朔に平和的に皇位に就いた。実質は、平群氏と巨勢氏の戦いだったのだろう。

元年春三月丁丑朔は正しい日干支で天皇即位ではなく皇后が即位した。春日娘子は同時に麻佐良も大連に即位していて、須羽直の娘の妹古の可能性がある。旧扶桑国の再統一だ。

六年秋九月乙巳朔は9月2日、8月が小の月の日干支で九州・吉備の暦だ。小泊瀬舍人を置いた。八年冬十二月壬辰朔も同様で、12月2日、11月が小の月の日干支で九州・吉備の暦だ。正しい日干支の継体二年冬十月辛亥朔癸丑に埋葬と記す。倭彦王の可能性が高い。三尾君の妹の倭媛は倭彦王の子か妹か。目大連の妃で、子の椀子は上殖葉大王の父だろう。椀子という有名な人物がいるのに、椀子の名をつけるなら、修飾が必要だ。天皇の埋葬で、河内の争奪戦が女国巨勢大臣と麻佐良の太子の麁鹿火大連、そして、倭を後ろ盾にした大伴氏によって始まる。そして、戦乱に乗じて、蘇我氏が倭国からの独立を図った。

2025年12月17日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁賢天皇

  元年春正月辛巳朔の即位は吉備の暦の記録のようだ。488年、二月辛亥朔は正しい暦で皇后春日大娘石上廣高宮の記録だ。巨勢大臣の説話の可能性が高い。489年に大長谷若建が崩じている。弘計と億計の戦いには、平群氏と巨勢氏も参戦し、共に、損害が大きかったようだ。男人が女国大臣、億計(小前)が河内の天皇に即位した。億計は498年崩じ、新しい王を知らなかった斉朝が永元元年499年に記録する。扶桑国王は「乙祁」、合致する。

 冬十月丁未朔は間違いの日干支で、顕宗天皇の埋葬を519年に行った可能性がある。難波小野皇后が自死したということは、正常な皇位継承ではなかったことをここでも示している。継体天皇が即位して、葬ったのだろう。519年でなかったら、太陽暦からの変換で9月と間違えたか。『古事記』は太陽暦で編まれている。三年春二月己巳朔、城郭が不要だったところに石上部舍人を置いて守り、五年春二月丁亥朔、政敵の的臣蚊嶋・穗瓮君を排除、六年秋九月己酉朔、友好国の高句麗に日鷹吉士を送った。

 七年春正月丁未朔も正しい日干支だが、立太子は倭国の政権交代、武から磐井の家系に代わったようだ。継体年号は俀国の元号と考えられ、葛子か葛子の弟か子供が継体天皇なのだろう。倭国の権力闘争、畿内の権力闘争が磐井の乱だったのだろう。葛子は筑紫君、磐井は肥後に逃れ、葛子の子は筑紫・火君、その弟が火中君、磐井の領地を継承し。

 

年候補

丁未10月朔日 519 545 586 612年 

丁未930 462 555

丁未9月朔日 488

2025年12月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 顕宗天皇

  元年春正月己巳朔は正しい日干支、「大臣大連等奏言」は平群大臣と木蓮子大連の勢力が拮抗して、河内の主導権を取れなかったのだろう。その結果、難波小野王の婿の億計(小前)が木蓮子の子(?大前の婿の子)を近飛鳥八釣宮で即位させた。穴穂(大前)の甥の小前大連が皇太子なのだろう。

 二月戊戌朔壬寅は九州の暦、吉備も九州の暦を使っていた。逃れた播磨も吉備の領域だ。三月上巳(?己巳)の「幸後苑曲水宴」は『古事記』を編んだ仁賢・武烈の説話で、古代から続く、羲和が創った太陽暦の3月3日である。485年は春分が乙卯、これが3月の朔日とすると丁巳が3日になる。『古事記』は紀伝体、王朝が代わると暦が変わる。

『古事記』はほとんど仁賢天皇が創り、太陽暦を使っていた。豊御食炊屋比売の崩御日が戊子年の三月十五日癸丑、『日本書紀』は戊子年3月6日癸丑と異なる。羲和の太陽暦は1年366日なので、1年で1日ずれた。夏五月五日の「藥獵」も太陽暦、夏至の後に行わないと意味がない。陰暦の場合、30日の誤差も発生する。蘇我氏は文身国・大漢国を統治した氏族、吉備も含めて同じ暦を使っていたようだ。俀国は太陽暦と中国式陰暦を併用していた。

 夏四月丁酉朔・二年秋八月己未朔・冬十月戊午朔・三年春二月丁巳朔・夏四月丙辰朔は正しい日干支。『舊唐書』曰く「頗有文字」。文字が無かった倭国が文字に溢れる畿内に進出したのだろう。畿内朝廷内は文字が盛んで、城郭を造らなくても良いほど平和だった。仏教を導入し大別の屋敷には仏像が安置され、銀銭も使用し、経済も文化も良好だったようだ。

2025年12月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇2

清寧三年九月壬子朔は九州や吉備の暦で、倭王武が巡視したのだろう。冬十月壬午朔は正しい日干支で「犬馬器翫不得獻上」と生き物を献上するなと命じた。

清寧三年十一月辛亥朔と四年春正月庚戌朔は九州や吉備の暦で「宴臣連於大庭賜綿帛皆任其自取盡力而出」とあるように、倭王武が征東大將軍に昇進して、祝いの品が届いたのだろうか。四年春正月庚戌朔も九州や吉備の暦で、「宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差」と倭王武が朝堂に海岸沿いの王を集めて、賜物した。朝堂は643年皇極二年、660年斉明天皇六年の倭国の時代や690年の大宰府に存在した。鎮東大将軍武の朝廷にはピッタリだ。

483年清寧四年九月丙子朔も九州の日干支で、「天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差」と賭射を行ったと述べている。倭王武は478年升明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國」と216国を勢力下にしたと宣言した。それらの国からの贈物を自国の配下に湯水の如く分け与えたのだろう。毛人の海岸は4つ有り1国15㎞とすると、吉備が境界になる。

清寧四年秋八月丁未朔癸丑は正しい日干支で、「天皇親録囚徒」とあるように、天皇自らが囚人から聞き取りを行い、それによって、蝦夷や隼人を配下にしたと述べている。『宋書』を見て、毛人を蝦夷ととらえたのだろうか。

清寧五年春正月甲戌朔己丑は九州や吉備の暦で、「天皇崩于宮」と記述される。この崩御した天皇は皇太子星川の兄の磐城(?大伴談)と考えられる。484年清寧五年冬十一月庚午朔戊寅は正しい日干支で、「河内坂門原陵」と河内に葬られ、この王が河内で生まれた天皇だったことが解る。『舊事本紀』に「六年十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」とあるように、後継女王が無く、分家の丘稚子の娘の難波小野王を妃にした億計が後継者だったが、弘計に譲った。

2025年12月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇1

  『古事記』では伊波禮甕栗宮で即位した天皇が「無皇后亦無御子故御名代定白髪部」と記述され、皇后がいなかった。そして、女国天皇は飯豊王で首都は「葛城忍海之高木角刺宮」と高島にあったようで、兄弟が平群志毘臣だろう。489年に真鳥と同時に崩じたと考えられる。清寧天皇は前皇后の草香幡梭媛の姪と考えられる吉備上道臣の娘の稚姫で、婿の星川が実権を握ったと考えられる。

磐城が『舊事本紀』に「皇太子雖是我弟」と言うように、星川が皇太子であり、大蔵を管理するのは当然である。星川は草香幡梭媛の子、星川は栲幡娘姫の婿と考えられる。

雄略二三年冬十月己巳朔は正しい日干支で、大伴室屋(?磐城が襲名)大連が「率臣連等奉璽於皇太子」と皇太子に天皇の璽を渡し、皇太子の星川は殺害され磐城が皇位を継承した。そして、清寧元年春正月戊戌朔も正しい日干支で、「設壇場於磐余甕栗陟天皇位・・・以大伴室屋大連爲大連」、すなわち磐余甕栗宮の天皇の位に就いた。大連は談(磐城皇子)が室屋を襲名したのだろう。「平群眞鳥大臣爲大臣」は男浅津間若子が454年甲午年正月十五日に崩じ、女国は平群大臣が継承した。

清寧元年冬十月癸巳朔辛丑も正しい日干支で「葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵」と河内に埋葬しているので、河内出身の王だったことが解る。埋葬されたのは星川皇子か。清寧三年春正月丙辰朔は正しい日干支で、磐城王と考えられる大伴談が億計と弘計を迎え入れた。弘計は磐城皇子の孫娘の婿で、皇位を継承した。

清寧三年夏四月乙酉朔辛卯も正しい日干支だが、「以億計王爲皇太子」とあり、これまでは、倭国の王朝交代だった。しかし、倭王武は少なくとも、477年から502年天監元年「倭王武進號征東大將軍」まで、王位にあった。従って、億計が実際に太子になったか、後の倭国王となる、蘇我氏が分身国王に即位した可能性がある。

2025年12月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇4

  雄略十八年秋八月己亥朔戊申も正しい日干支、目連は磐余甕栗宮大連で布都久留連の弟の清寧天皇である。目連の妃は記されないが、稚姫に婿入りした星川皇子なのだろう。反乱を起こした伊勢朝日郎は女国の王と考えられる。

雄略十九年春三月丙寅朔戊寅も正しい日干支で、穴穗部を置いた女国の真鳥の説話だろう。室屋の力を借りて伊勢朝日郎に勝った真鳥が穴穂の王だったと考えられる。勝利した後の説話で負けた王が大津の自領に新たに穴穂部を置く必要がない。室屋の協力が必要なほど、真鳥の勢力がまだ弱かったのだろう。伊勢朝日郎は圓の子の可能性があり、娘が伊勢の女王の稚足姫と思われる。

478年雄略廿二年春正月己酉朔は九州の暦で、「白髮皇子爲皇太子」とあるように、倭国の王朝交代だろう。『宋書』の、478年順帝昇明二年に「安東大將軍倭王」、「興死弟武立・・・安東大將軍倭國王」と記述される。弟が王位を継承すると言うことは、分家に王権が遷る、皇后が代わる、王朝交代である。ただし、雄略朝以降は倭王馬子が記述しているので、蘇我氏の王朝交代を記述した可能性も否定できない。

『舊事本紀』には「物部布都久留連公為大連」と記述されるが、二代目大長谷若建が即位したのだろう。大長谷若建の在位は454年から489年までの36年間、2から3代の大長谷若建が存在する。

雄略天皇二三年秋七月辛丑朔も八月庚午朔丙子も正しい日干支で、室屋が崩じ、室屋を襲名した談連と東漢掬直が遺言を代読したのだろう。遺言の中の「四夷賓服」は四方志の対象国の文身国・大漢国・倭国・女国なのだろう。大泊瀬幼武の薨去日は489年仁賢二年己巳年八月九日なので、大伴氏の雄略天皇陵の丹比高鷲原、河内の朝廷だった。古代は母が葬られている土地に葬られたようだ。

2025年12月5日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇3

  雄略天皇十年秋九月乙酉朔戊子と冬十月乙卯朔辛酉は正しい日干支だ。水間君が呉から献上された鵝を死なせてしまい、鳥養人と鴻十隻を輕村と磐余村に置いた説話である。この水間君は継体紀に水間城之王と呼ぶように、318年に薨じた御間城入彦の後裔が磐余に住んだようだ。女国の倭直から磐余の倭へ、倭を持って移住し、娘が大長谷若建の皇太子の婿、それが三尾(御大)君、娘が倭媛だ。

雄略十一年夏五月辛亥朔の川瀬舍人の説話、十二年夏四月丙子朔己卯と十四年春正月丙寅朔戊寅の身狹村主の説話、十二年冬十月癸酉朔壬午の秦酒公の説話は正しい日干支である。葛木氏に代わり、平群氏が台頭したことを示しているのだろう。

雄略十四年夏四月甲午朔は九州の日干支、根使主の誅殺の記録なので、吉備の記事だろう。根使主に「自今以後子子孫孫八十聯綿」と以後、孫子を登用しないと言いながら、子の小根使主は三野縣主である。大伴室屋大連と敵対し、平群真鳥大臣の配下だったことが解る。根使主は平群氏に婿入りして、坂本臣を賜姓される。

雄略十七年春三月丁丑朔戊寅は正しい日干支で、贄土師部の賜姓説話である。摂津國、山背國、伊勢國、丹波、但馬、因幡を領有する朝廷、すなわち、平群真鳥の朝廷の説話である。

2025年12月3日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇2

    室屋は安康元年に、目は雄略十八年に大連を賜姓され、目は甕栗宮大連なので、この時、皇太子の年齢に達したのだろう。目大連は清寧・継体・欽明の大連、すなわち、目大連は大伴室谷の後継者で、金村の皇太子も目大連だったのではないだろうか。天皇室屋・金村大連、太子目大連だ。

雄略二年冬十月辛未朔癸酉は正しい日干支で、「幸于吉野宮」の吉野宮は日吉大社の気比宮と考えられる。同じく「行幸吉野宮」の四年秋八月辛卯朔戊申は九州の日干支で、8月1日が7月晦に当たる。「行幸」はこの日と安閑元年閏十二月己卯朔壬午に記述されるのみで、行幸したのは大伴大連金村である。すなわち、室屋と金村と日向出身の大連の「幸」を「行幸」と記録したことが解る。雄略五年六月丙戌朔も正しい日干支で、「筑紫各羅嶋産兒仍名此兒曰嶋君」とあるように、武寧王が加唐島で生まれた。

雄略六年春二月壬子朔乙卯は正しい日干支で、「天皇遊乎泊瀬小野」と国見を行った。雄略六年三月辛巳朔丁亥は九州の日干支で、「賜姓爲少子部連」と九州出身の少子部の賜姓説話なのだろう。雄略七年秋七月甲戌朔丙子は正しい日干支で、少子部連蜾蠃に「欲見三諸岳神之形」と三諸山の神を連れてくるように指示した。蜾蠃は蠶と嬰兒を聞き間違える、九州出身の人物の説話だからだろう。

雄略九年春二月甲子朔は正しい日干支で、「凡河内直香賜」と香賜の誅殺の説話である。『古事記』の「志幾大縣主」の説話の続きなのだろう。雄略天皇は丹比高鷲原陵に埋葬されるのだから、河内の天皇で、凡河内直は大草香の後継者と考えられる。眉輪は安康三年に7歳なのだから、雄略九年は16歳で、大草香の後継者の眉輪の姉の婿の凡河内直香賜が既に成人している可能性が高い。秋九年七月壬辰朔も正しい日干支で、河内国の誉田陵の埴輪の馬の説話だ。凡河内直を剥奪され、後継者の小根三野縣主が継承した。

2025年12月1日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇1

 456年安康三年冬十月癸未朔は正しい日干支で、磐坂市邊押羽と平群真鳥が王位を争った。後継者の大前の弟の小前(磐坂市邊押羽)、履中天皇の姪の荑媛を妃にした人物である。大前・圓が失脚し、女国の後継者は大津の小前と圓の娘婿の平群真鳥が皇位を争った。大長谷若建は伊莒弗の娘の童女君の婿、布都久留に相当する。455年に大前から皇位を継いだ大泊瀬幼武は大伴室屋に追い出され、河内から朝倉に首都を変えた。

『舊事本紀』の元年十一月壬子朔甲子は安康三年で、「天皇令有司設壇於泊瀨朝倉即天皇位」とあるように、天皇が即位した。天皇は大伴室屋で「還定謁宮」と朝倉から帰って謁宮を定めたと、朝倉とは異なる場所が首都になった。これは、河内に遷都、皇后が代わった、稚姫に代わったことを意味する。

元年春三月庚戌朔壬子は正しい日干支で、「立草香幡梭姫皇女爲皇后」とあるように、大伴室屋が河内王の難波の志幾の大縣主の大草香の妹の草香幡梭姫を皇后にした。依羅連柴垣の娘の太姫の名は大縣主の姫に相応しい名前で、婿が大長谷朝の布都久留大連である。室屋の甥にあたる。雄略天皇の陵が丹比高鷲原なので、扶桑国河内の天皇で、「東千餘里有女國」と記述されるように、扶桑国難波・女国琵琶湖間は約50㎞で、短里では千里だ。

『舊事本紀』は二年丁酉春三月庚戌朔壬子のように元年が二年と1年のズレが有るが、『舊事本紀』の元年は安康三年である。すなわち、457年雄略元年に、「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連目為大連」と真鳥が女国王に即位した。