2025年7月30日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝安天皇

 前392年孝安元年春正月乙酉朔辛卯の「皇太子即天皇位」と元年秋八月辛巳朔の「尊皇后曰皇太后」は正しい日干支だが、『舊事本紀』には日干支を記述しない。孝昭天皇は出石心と奧津余曾だったが、孝安天皇は奧津余曾の子の彦國押人、大臣を賜姓する朝廷は併合された。

前367年孝安廿六年春二月己丑朔壬寅の「立姪押媛爲皇后」から天戸目が天皇になり、葛󠄀木避姫が押媛、繩伊呂泥の婿が天戸目である。余曾多本毘賣の子の大倭帶日子國押人は忍鹿比賣・蝿伊呂杼の婿だろう。すでに、実質の天皇は瀛津世襲に遷っているので首都の秋津嶋も掖上に行幸した時に名付けた、池心宮と同じ場所である。大臣を賜姓した朝廷は出石心から瀛津世襲へ。そして、磯城の朝廷に吸収された。

前355年孝安卅八年秋八月丙子朔己丑の「葬觀松彦香殖稻天皇于掖上博多山上陵」は奇異である。葬儀は通常、王朝末年か元年に行っているし、『古事記』もその王朝内で埋葬している。葬儀を行うことで、その王朝が終わったことを天下に示し、皇后を新しい都に皇太后として迎え、遷都を宣言して皇位に就く。すなわち、孝安朝は孝昭天皇から皇位を簒奪し、38年間併存したことを示している。それが、「三年八月・・・六見命三見命並爲足尼」の記事で二柱の天皇が存在した。出雲大臣の子となっているが、世代が異なるので瀛津世襲大臣と出石心大臣の子なのだろう。

前317年孝安七十六年春正月己巳朔癸酉の「立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代だろう。前291年孝安百二年春正月戊戌朔丙午の「天皇崩」は正しい日干支である。大倭帯日子の子が孝靈天皇、天足彦國押人は天戸目で、子の建斗禾は木国造、娘が坂戸由良都姫(倭國香媛)と絚の妹、絚の姉の婿が大水口と絚の妹の婿の大矢口だろう。大水口と倭國香媛の子に『日本書紀』に記述されない日子刺肩別・欝色雄、大矢口と絚の妹の子に彦狹嶋(大綜杵)が生まれたと考えられる。欝色雄は大綜杵の1代前なので、大水口を欝色雄に想定し、その娘婿が彦五十狹芹彦・大綜杵なのだろうか。東鯷人は20国に分かれ、主導権を競っていたのだから、数人の天皇がいてもおかしくはない。

2025年7月28日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝照(孝昭)天皇2

前447年、孝昭廿九年春正月甲辰朔丙午の「立世襲足媛爲皇后」の記事は、正しい日干支で、世襲足媛が皇后になった。すなわち、『日本書紀』の大臣が居ない朝廷と、出石心大臣・瀛津世襲大連が居る朝廷(最大3朝廷)に分裂したことを意味する。兄倉下の政権と弟倉下の政権(あるいは、物部氏の政権も)に。

神武天皇即位前紀戊午年六月乙未朔丁巳の「軍至名草邑則誅名草戸畔者」の記事は孝昭三十年前446年の記録で、出雲醜の勢力が、まだ残っていたようだ。日臣が名草戸畔を滅ぼして、名草戸畔を襲名して、木国の天道根の後裔の伊勢主の娘と建甕槌の子の豊御氣主と姻戚関係になったと考えられる。伊勢主は天道姫の末裔の天忍男の分家筋である。同じく、神武天皇即位前紀戊午年九月甲子朔の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」の記事も前446年、高島の出雲醜朝廷が崩壊し、高倉山で勝利宣言を行ったのだろうか。

 そして、翌年の前445年三十一年春正月に「瀛津世襲命爲大臣」と物部氏の政権が皇位を継承した。『日本書紀』は大臣の賜姓を記述していないので、和知都美とは別の朝廷が存在した。和知都美の娘も「はへ」、『日本書紀』の皇后は「一書云」で磯城縣主「はへ」の娘や姪が安寧天皇から孝安天皇まで続く。しかも、孝霊天皇の皇后も磯城縣主の娘である。すなわち、磯城縣主は何時も皇后の父、三百年間にわたって、皇后の父、すなわち、婿が「はへ」を襲名した天皇だった。大臣を持たない「はへ」の朝廷と、大臣を持つ、懿徳・孝昭の朝廷である。

孝昭六十八年春正月丁亥朔庚子の「立日本足彦國押人尊皇太子」の記事は倭国王の王朝交代の記事だろう。そして、393年孝昭八十三年秋八月丁巳朔辛酉の「天皇崩」によって、孝昭朝は終わった。

年候補

乙未6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296

甲子9月朔 -663 -570 -539 -446 -420 -353 -322

2025年7月25日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝照(孝昭)天皇1

  神武天皇三一年の「登腋上嗛間丘・・・秋津洲之號」の記事が前506年の日干支で、懿徳5年に当たり、懿徳天皇が腋上を行幸して秋津国と名付けたと記述していることに。この時に息石耳(?劔根)が同行していて、葛川近辺に遷った可能性がある。そして、腋上宮が93年続いているので、20年後の懿徳25年に、天忍男が十八歳の時に、賀奈良知姫の居る腋上宮に婿入りしたようだ。

神武即位前紀戊午年秋八月甲午朔の「天皇使徴兄猾及弟猾者」の記事の日干支は前482年と考えられ、息石耳は大伴氏の祖の日臣と宇迦能山(宇治)の宇都須山祇の後裔の王(?太玉)を滅ぼして、弟猾の娘に婿入りし、宇治王となったのだろう。また、戊午年、冬十月癸巳朔の「先撃八十梟帥於國見丘破斬之」と野洲の梟帥を撃破した。さらに、十一月癸亥朔の「皇師大擧將攻磯城彦」と安寧天皇波延の子の師木津日子と長男を殺害した。天忍人は劔根の娘と考えられる葛木出石姫を妃に、高倉下の子の弟倉下(天忍男)も劔根の娘の賀奈良知姫を妃にして姻戚関係になった。

そして、神武四年春二月壬戌朔甲申の「詔曰我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬今諸虜已平」の記事の日干支は前476年の事績と考えられ、出石心は前475年元年春正月丙戌朔甲午の「皇太子即天皇位」とあるように即位した。同じく、前475年夏四月乙卯朔己未の「尊皇后曰皇太后」、「秋七月都遷腋上謂池心宮」と御井宮の前皇后出石姫を皇太后と呼び、首都は劔根が住む腋上に遷した。同日、『舊事本紀』には「出石心命為大臣」と自ら政務を執ったようだ。

 

年候補

乙酉4月朔 -630 -537 -506 -413

甲午  8月朔 -663 -606 -539 -513 -482 -420 

癸巳  10月朔 -663 -606 -539 -482 -420

癸亥 11月朔 -663 -606 -539 -482 -420 

壬戌  2月朔 -631 -600 -507 -476 -414

2025年7月23日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 懿徳天皇

  前510年懿徳元年春二月己酉朔壬子の「皇太子即天皇位」の記事は、『舊事本紀』も記述する前510年の正しい日干支である。安寧天皇の子であり、妹の河俣毘賣の娘の真鳥姫の婿の政大夫だった出雲醜が皇位を奪った。本来は波延の娘婿の師木津日子が皇位継承するのだから、王朝交代である。そのため、前510年懿徳元年八月丙午朔の「葬磯城津彦玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵」の日干支は間違いの日干支である。この日干支は7月晦日の日干支なので、九州の暦を使った、倭王の埋葬日を使用した可能性がある。勿論、前603年や、前546年の他の天皇の埋葬の可能性もある。畿内でも、複数の王朝があった可能性大だから。安寧十一年春正月壬戌朔の「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」も前王11年に倭王の交代があったのだろう。

前510年懿徳元年九月丙子朔乙丑の「尊皇后曰皇太后」や前509年懿徳二年春正月甲戌朔戊寅の「遷都於輕地」も正しい日干支で高島の安曇川沿いが首都になったと考えられる。高島は加須屋大海祇や高御産巣日の末裔の地と考えられ、その土地の姫が豐津媛である。

高島の王家は加須屋の分家のため、九州倭国の暦を使用していたようだ。前509年懿徳二年二月癸卯朔の「癸丑立天豐津媛命爲皇后」の日干支は1月晦日の日干支で、ほかに相応しい日は見当たらない。皇后の名前も豊国の津の姫を名乗り、九州の勢力下の王家のようだ。前489年春二月丁未朔戊午の「立觀松彦香殖稻尊爲皇太子」も1月晦日の日干支、九州の暦で、倭王の政権交代の記事のようだ。

天皇出雲醜の末裔は、亀岡の出雲神社に逃れ、和迩君の祖の阿田賀田須は島根県や曲浦へ進出した。また、大物主建飯賀田須は亀岡の出雲神社に残ったようで、子の大田田祢古は河内に住んだ。これらの人々が九州の暦を使ったのだろう。 

前477年懿徳卅四年秋九月甲子朔辛未の「天皇崩」の記事は前477年の日干支ではなく、前446年、孝昭二九年の日干支である。神武天皇即位前紀の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」もこの時の記事である。孝昭天皇の大臣出石心が懿徳朝の出雲醜と兄弟である理由は、在位期間が重なっている、同世代の人物だったことを示している。元年に出石心が大臣、二十九年に世襲足姫が皇后に、三十一年に奧津余曾が大臣になり、それまで、出雲大臣と出石心大臣が並立していたのだろう。

年候補

丙午9月朔 -629 -603 -546 -479 

甲子9月朔 -570 -539 -446 -420 -353 -322 -296 -260

2025年7月21日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 綏靖天皇・安寧天皇

綏靖元年春正月壬申朔己卯の「神渟名川耳尊即天皇位」は前648年・前581年・前524年に当たるが、前581年で間違いないようだ。『舊事本紀』も同じ日干支で、『舊事本紀』は安寧天皇の即位日を記述しない。それは、安寧天皇の彦湯支が綏靖朝で足尼に就いたのが前581年だったからと考えられる。足尼は物部氏にとっては天皇と同等だったのだろう。

前557年綏靖廿五年春正月壬午朔戊子の「立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」は「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」と同じで、倭の王が即位25年後の1月7日にその王朝が変わったと理解した。

安寧元年冬十月丙戌朔丙申の「葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵尊皇后曰皇太后」は前548年で正しいようだ。実質の安寧即位は前546年安寧三年春正月戊寅朔壬午の「立渟名底仲媛命爲皇后」だ。2年間の空白中に沼河耳が統治した可能性が高い。そして、前546年に彦湯支・縣主波延が即位したと考えられる。

前538年安寧十一年春正月壬戌朔の「立大日本彦耜友尊爲皇太子也」も倭王朝の王の即位11年目の1月朔日に王が変わったのだろう。皇太子は天皇が即位した時すでに決まっていて、即位30年後に皇太子を決めていては、とっくに政変が起こる。

前511年安寧卅八年冬十二月庚戌朔乙卯の「天皇崩」も前511年で間違い無さそうだ。前後は綏靖朝4年の前578年と孝昭朝30年の前454年で相応しくない。崩御日も安寧天皇は記述されたが、綏靖天皇は記述されていない。綏靖天皇は記録できない都合があった。おそらく、神武天皇の甥にあたる阿比良比賣の子の多藝志美美と、神八井と日子八井、沼河耳と渟名底仲媛の婿の彦湯支の皇位争いの結果の不記載だろう。

2025年7月18日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇

  辛酉年春正月庚辰朔の日干支、この紀元前660年1月朔日は正しい日干支で「天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と神武天皇は即位した。そして、翌年の春二月甲辰朔乙巳に「天皇定功行賞」と論功に沿って官位・賜姓を行った。新政権誕生が間違いの日は有り得ないだろう。

四年春二月壬戌朔甲申の「詔曰我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬今諸虜已平」の記事は即位前の即位宣言で、「朝廷4年」記事としては奇妙である。朔の日干支を調べると、孝昭天皇即位前年の前476年が相応しい。孝昭天皇・和知都美は大祢を継いだ淡道の御井宮の王、御上神社で祀ったのだろう。葛木天皇なら、大臣を記述する。

神武天皇は神倭王朝、綏靖天皇は神王朝なので、神国は三国、君子国の朝廷で、伊邪那岐と伊邪那美を祀る根国の朝廷だった。伊邪那美が葬られた伊根と伊邪那岐が坐す多賀がある彦根なのだろう。そして、和知都美は天照大神を祀るため伊勢遺跡のある場所の御井に宮殿を建て、そこに入って、宣言したのが「今諸虜已平」なのだろう。

天皇が卅有一年夏四月乙酉朔に「登腋上嗛間丘・・・秋津洲之號」と秋津の地名の命名説話が記述される。腋上は奧津余曾が実質天皇の大臣になって、首都だった場所である。大臣賜姓者は天皇なのだから、首都を置く場所を視察するのは当然で、その日干支は前506年を指していると考えられる。秋津は吾の国()の津、葛川の東の琵琶湖の津を意味し、奈良県の「あきつの」は山の中である。

『日本書紀』は前629年卅有二年、『舊事本紀』は前619年四十有二年の春正月壬子朔甲寅、「立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」が記述される。立太子は倭国の王位継承がある王の32年にあったことを示すと論じてきた。倭国の朔の日干支は晦なので、12月晦が壬子の日干支を調べると、『舊事本紀』が正しかった。倭国の初代王の在位40年目の1月2日に新王が即位したことを示すのだろうか。

前585年七十有六年春三月甲午朔甲辰の「天皇崩于橿原宮」の記事は、前647年か前621年の記録だろうか。前667年が立太子なので13歳、前647年崩なら33歳、前621年崩なら59歳である。天皇は天日方奇日方が継承したと考えられ、別名が阿多の津の尼の阿田都久志尼、久志は櫛川だろう。史書の兄弟関係が親子、親子関係は世代の関係で、鞴五十鈴の娘婿が2代目の阿田都久志尼、次世代が娘の五十鈴依姫で婿が手研耳(恐らく神倭彦)、その次の世代の阿田氏の娘が渟名底仲媛で婿が彦湯支だろう。

 

年候補

壬戌 2 朔 -631 -600 -507 -476 -414 -383 -290 

乙酉 4 -630 -537 -506 -413 -320 -289 -227 -196 -170 -103

甲午 3 -647 -621 -554 -497 -430 -368 -311 -244 -187 -120 -63

2025年7月16日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇即位

  神武即位前紀の己未年春二月壬辰朔の「因改號爲磐余」と磐余に改名した記事は、393年に曾都毘古(品陀和気)が磐余に住居を造って、実質的に最高権力者になった年なのではないだろうか。他に磐余に関係した場所はなく、神武天皇の磐余宮は履中天皇の磐余若櫻宮のことと考えられる。曾都毘古は翌年に薨じ川内惠賀へ葬られている。神武天皇は神倭磐余彦ではなく天皇の姪、子が皇后の姪を妃にする、皇室の一族の神倭彦なのだろう。

『舊事本紀』で、己未年春二月辛卯朔庚辰の道臣命の記事は197年が相応しく、神功皇后と武内宿禰と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連が熊襲と戦っている。三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣」記事も大伴氏の記録で、357年に充てれば若帯日子が355年に薨じ、大伴氏が曾都毘古の後ろ盾になった意味合いを持つ。

那賀須泥毘古と饒速日の戦いの日干支すら、正しくなかったということは、『舊事本紀』の日干支も『日本書紀』の日干支が基準だったことを示した。神武天皇火火出見・小椅君も日干支を知らなかったようだ。火火出見が蹈鞴五十鈴媛と遭遇した、庚申年秋八月癸丑朔戊辰に「天孫當立正妃政廣求」の記事から、記録に結び付けることが始まった。

欠史八代と言われるように、開化天皇までの記事は少ないのに、神武天皇だけは記事が多かった。ところが、神武即位前紀は神武天皇の事績では無かった。だから、神武天皇の記事も欠史八代と同程度の記事内容になるので、相応しい記事内容である。其々の氏族の建国神話を集めたから、神武天皇の説話が膨大になった。

前661年八月癸丑朔戊辰、「天皇當立正妃・・・媛蹈鞴五十鈴媛」によって、神武は天皇になった。しかし、九月壬午朔乙巳に、「納媛蹈韛五十鈴媛命以爲正妃」と重複している。この日干支は間違いの日干支、恐らく、藝志美美が伊須氣余理比賣を妃にしたと考えられる前635年が妥当と考えた。前後の前692年も前568年も五十鈴媛に無関係な時期で、前635年が一番相応しい。

候補は年代幅が広いので、略す。

2025年7月14日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇即位前2

神武東征は曾都毘古の記録の流用のみで無く、尾張氏や和珥氏や物部氏などの東征も含まれていたようだ。

神武即位前紀戊午年の六月乙未朔丁巳の「軍至名草邑則誅名草戸畔者」記事は建甕槌の子が紀伊名草姫を妃にしているので、紀元前446年孝昭天皇の時代が相応しい。孝安天皇の子と考えられる、建斗禾の妃の中名草姫の兄が紀伊國造智名曽なので、名草邑は木国になっている。この説話を、師木侵攻記事に当て嵌めた。この年、余曾多本毘賣を皇后にして、朝廷を開いている。神武即位前紀戊午年の九月甲子朔の「天皇陟彼菟田高倉山之巓」の八十梟帥との戦乱記事も前446年、八十梟帥は野洲の八国の十人の将軍の事で、それを打ち破ったのだろう。

神武即位前紀戊午年の秋八月甲午朔の「天皇使徴兄猾及弟猾者」は紀元前482年、孝昭天皇即位前の記事が相応しく、まず、大津(宇治川)を手中にした。神武即位前紀戊午年の冬十月癸巳朔の「天皇嘗其嚴瓮之粮勒兵而出」の記事も前482年の兄猾との戦いの記事の続きが相応しい。神武即位前紀戊午年十一月癸亥朔の「皇師大擧將攻磯城彦」の記事も同じく前482年に師木を手中に収めた。師木の天皇と葛木の物部氏が賜姓した大臣との戦いである。

那賀須泥毘古の甥の宇摩志麻治は神武元年に足尼、翌年に政大夫に就いているので、元年には二十歳以上、少なくとも13歳以上である。神武即位前紀戊午年の十有二月癸巳朔丙申の「皇師遂撃長髄彦・・・時忽然天陰而雨氷」の記事は雨氷、雪が雨に変わる季節なので1月の記事を挿入しており、紀元前688年が相応しい。饒速日達の記録なので、神武天皇の親の世代の説話と考えられる。

神武即位前紀の己未年春壬戌朔の「詔日天孫饒速日尊兒」が前662年1か3月なら、20代の年齢になっていて、理に適う。すると、前663年の五月丙寅朔の五瀬の戦死も物部氏の都合の悪い説話だったことが解り、饒速日の子の戦死だった可能性がある。神武即位前紀戊午年の十有二月癸巳朔丙申の「皇師遂撃長髄彦」には五瀬の戦死と「長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻」のように饒速日が那賀須泥毘古と争った記録が同時に記述される。

日干支を持たない『古事記』の大国主系と持つ物部氏、大神君系の神武天皇達だ。

年候補

乙未  6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296 -265 -203 -136 -79 -12 15 46 139 263 325 356 382 

甲午  8月朔 -663 -606 -539 -513 -482 -420 -296 -203 -172 -79 15 46 139 232 263 325 356 

甲子  9月朔 -663 -570 -539 -446 -420 -353 -322 -296 -260 -229 -172 -136 -105 -12 15 82 139 206 232 263 325 356 

癸巳 10月朔 -663 -606 -539 -482 -420 -296 -203 -172 -146 -105 -79 -22 46 139 232 263 289 356

癸亥 11月朔 -663 -606 -539 -482 -420 -353 -296 -229 -172 -105 -43 15 82 139 206 232 263 325 

癸巳 12月朔 -570 -446 -420 -379 -353 -322 -296 -229 -105 -43 15 82 139 206 263 325 392 

2025年7月11日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神武天皇即位前1

  神武天皇は阿多小椅君と考えられ、阿多君の祖の火照の子である。小椅君が神武天皇彦火火出見と考えられる。『古事記』の神武天皇の皇后が『日本書紀』の綏靖天皇の皇后なのだから当然だ。阿多君の生まれた場所は天祖が天降り、領地になって一百七十九萬二千四百七十餘歳過ぎたと記述される。この詳しい数値は意味ある数値と考えられ、私は、数値的に日数と考え、約5千年と理解するのが合理的だと感じた。歳は干支なのだから、干支は年干支と日干支しかない。日干支を知らない、火照と小椅が東征して、小椅が即位するまでの間に、神武前紀のような日干支がある記録を残せるはずがない。神武即位前紀に乙卯年や戊午年などを記述するのは、記録の干支と異なる、既に年干支が一般に記録された時代の記録と考えるべきなのだろう。神武前紀の日干支は後代の記録を東征の記事に入れ込んだと考えるべきだ。

神武即位前紀甲寅年の冬十月丁巳朔辛酉の「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」の記録は、武内宿禰の義父の説話である。従って、武内宿禰は133年に大臣になっているので、109年が相応しく、東征ではなく、女王国の東の「拘奴國」への西征の記事だろう。穴門からでは「拘奴國」が待ち構えているので、関門海峡から小倉の宇佐へ向かったのだろうか。関門海峡を進むために珍彦の力が必要だったと考えられる。

十一月丙戌朔の「至筑紫國崗水門」は192年、和迩君が香椎に来た記録だろう。卑弥呼(壹国王夏磯媛)を女王に指名したのがこの和迩君と考えられる。192年ならば「桓靈」の後に当たる。

十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は166年が相応しい。初代曾都毘古が安芸の中日賣に婿入りして安芸王の帯中日子になったと考えられる。

春三月甲寅朔の「徙入吉備國」の記事は353年あたりと考えられる。この年に「紀角宿禰於百濟」と曾都毘古を加羅へ迎えに行って、それに応えて、曾都毘古が吉備に入ったもようだ。

春二月丁酉朔の「到難波之碕」の記事と三月丁卯朔の「遡流而上徑至河内國」の記事と五月丙寅朔の「軍至茅淳山城水門」の記事は356年に河内から山城への曾都毘古の侵攻記事に相応しい。そして、四月丙申朔の「乃還更欲東踰膽駒山」は382年に相応しく、395年に意乎巳が退位して大別が大連になっている。神武東征は襲名した曾都毘古の東征だった。そして、『古事記』では、394年に品陀和気(曾都毘古)が薨じているのは偶然ではないだろう。

年候補(参考までにその他の同じ日干支の候補を明記した)

丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352

丙戌 11月朔 -636 -579 -512 -455 -450 -393 -326 -269 -202 -176 -145 -52 42 166 192 259 290 316 383 440 

丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352 

甲寅  3月朔 -666 -640 -609 -547 -516 -423 -330 -299 -206 -175 -113 -82 12 105 136 198 229 255 322 353 

丁酉  2月朔 -637 -513 -487 -446 -420 -389 -327 -296 -203 -172 -110 -79 -53 15 72 108 139 196 232 258 325 356 382 

丁卯  3月朔 -663 -637 -570 -513 -446 -389 -384 -327 -260 -203 -136 -110 -79 -12 46 108 232 325 356 

丙寅  5月朔 -663 -637 -596 -570 -539 -513 -446 -322 -260 -203 -136 -79 -12 46 51 108 175 232 299 325 356

丙申  4月朔 -637 -570 -513 -446 -420 -389 -203 -110 -79 -53 -12 15 46 72 139 196 263 325 382 

2025年7月9日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 暦の変遷2

日付が解っている、中国の歴史の始まりは『漢書』の紀元前205年11月の高祖三年「冬十月甲戌晦日有食之」が最初である。『史記』の出来事としては前181年二月の呂太后「七年正月己丑日食晝晦」だ。

それまでの記録は、王の在位で求められ、重なりや空白が有れば、正確とは言えない。しかし、日本以外の史書は95%以上が正しい日干支、『漢書』は97%以上が正しい日干支で、史書の内容が正しい証拠となる。中国の史書は臣従する倭国に対して、日本国は記述していないが、孔子達は君子国の王を尊敬しており、君子国は『山海經』に日本列島の中の存在と述べた。丁度、孔子が存在した頃の孔子が認める君子と違う君子国王ならば、『山海經』は何か説明が必要になるが、同一対象だから説明しない。

君子国王が朝廷を持ち、尊敬される君子国王が「尊敬される立派な人物だけど、文盲」などとは考えられない。何らかの文字を操り、暦を残すことは可能であり、それらしい文字(神代文字)が残っている。実際、『日本書紀』や『舊事本紀』には日干支を使った日付が残されている。ところが、『古事記』には日付が残されていないということは、『古事記』は大臣という行政官、『舊事本紀』は足尼・大祢・大連という宮で神(皇后)のお告げを聞く禰宜の長官を扱ったことの違いである。

従って、神を祀る神の宮に記録を残す人物がいたことが解る。天皇は皇后の宮へ婿入りして、皇后の家系が皇位を継承する。その為、皇后の宮に記録が有るのではなく、天照大神を祀る宮や大國魂神を祀る宮か物部氏の宮の石上神宮に記録があったことを示している。その記録を、おそらく、倭国の入鹿が倭国の宮殿に記録を集め、九州に遷され、九州の朝廷が711年に滅びた時、大和の平城朝に戻り、『日本書紀』を完成できたのだろう。鸕野皇女が遠智か美濃津子の娘か解らないように、藤原宮より前の記録、天智天皇の記録までは九州にあったと考えられる。

ただし、『日本書紀』の神武天皇の彦火火出見が皇太子になった時、「太歳甲寅」と記述されるだけで、日干支を知らなかった。日干支を知っていたなら、記念すべき日を記録できないはずがない。天皇に即位してから、日干支と事績が対応できるようになったと考えられる。

2025年7月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 暦の変遷

  羲和は一年366日と決めたが、日本は陰暦、中国は太陽暦を選んだと考えられる。なぜなら、日本は朔を基準にし、中国は晦を基準にしているからである。晦は30日の意味で、本来、中国ではひと月を30日と31日にして、それを、ひと月29日の陰暦に変えたため、朔日イコール晦日になったと考えられる。日本人は晦日を「つごもり」と呼び、朔日(ついたち)と対だ。

漢では、紀元前105年まで二日を朔日と呼んだことがある。「元鼎五年十一月辛巳朔旦」と「太初元年十一月甲子朔旦」の記事はこの日が冬至だったので11月2日をわざわざ朔日にしたと記事にしている。紀元前188年、「惠帝紀八年春正月辛丑朔」と1月1日を朔と初めて記述しているが、前日が12月30日で大の月、すなわち、晦日だったから、次の日は朔日だった。漢で最初に29日の次が朔日だったのは、前84年の「始元三年十一月壬辰朔」から小の月の後の朔日を朔と記述した。『史記』の曆書第四に「王者易姓受命必慎始初改正朔易服色」と朔は自由に変えられた。始皇帝は在位26年に「改年始,朝賀皆自十月朔」と十月を年始とし、武帝は太初元年まで、年初は十月だったのが、二年は春正月から冬十二月と、年始を変えた。

江戸時代の日本の時計の文字盤は季節ごとに位置が変わったが、これは、日本では、時間の長さが季節によって違ったことを示している。時間は満月がどの位置から見えるか、その位置から日の出は3単位あとの寅の時刻とし、それから6(午・うま)単位のあとが日の入りの時刻としたと考えられる。すなわち、春分や秋分なら、6時から18時までである。

大化元年の禮法で「寅時南門之外左右羅列候日初出」「臨到午時聽鍾而罷」とある。仕事は日の出から始めて、「午時(うまどき)」の鐘がなったら帰れとした。日の出は一定でないので、日の出が出勤時間で日の出から12(午)時間後に鐘を鳴らすから帰れとした。当然、午時も一定ではないので、約12時間後、すなわち、日の入り後に帰れと言う意味だ。古代の労働は明るくなったら働いて、日が暮れて暗くなったら帰る習慣だった。

そして、天皇(天子)は夜襲に備え、月や星の運行を観て時刻を知り、夜明けと共に、皇太子に統治を任せた。これが、『隋書』の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」の理由だろう。

2025年7月4日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 歴史が始まった

歴史は暦を持った記録が有って、いつの記録なのか解る、歴史と言える。『史記』の帝堯の項に「命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時」と、羲和は堯の命令で天空の運行を観察し、太陽・月・星を観測して人々に農事の為の暦を授けたとされている。

『山海經』に「東海之外甘水之閒有羲和之國有女子名曰羲和方浴日于甘淵」とあるように、東海の外、すなわち、黄海の外、九州の太平洋岸側、『大荒南經』・『大荒東經』に記述されているので、日本列島の太平洋岸の東と南の接点の南九州から瀬戸内を含む紀伊半島の辺りに羲和がいた。その羲和が、「歳三百六十六日以閏月正四時」と1年366日、閏月で四季を調整したと記述している。すなわち、1年を四分割して、八十八夜のように91夜と92夜を決めた。『古事記』にも、壹拾肆島、參拾伍神、伍佰捌拾歳を記録して、数の概念は持ち合わせていた。縄文遺跡には、日時計と考えられる遺物も有る。

月や日や時間も鳥獣を表す文字の十二支を最小単位とした。勿論、鳥獣と言っても、中国人から見た鳥獣で、日本人を指し、『山海經』には、日本人を『海外南經』だけでも、「翼鳥」、「身生羽」、「鳥一脚」、「人面有翼」などとあり、「一身三首」、「小人」、「短小」と獣どころか化け物と見ている。勿論、服装や、土器の模様、祀るシンボルを表しているのだろう。すなわち、「子」は根、「丑」は主、「寅」は門(人達)、などを漢字と置き換えたのではないだろうか。

「子」や「申」や「未」は鳥獣を表す文字ではなく、他も暦や方位の為に造られた文字のようで、中国語では鳥獣と言えない。十干の文字も暦や鳥獣の意味ではなく、五行思想と関連する文字でもない。日本が五行説を取り入れて、「木・火・土・金・水」を使ったとされるが、日本の最初の日干支は紀元前666年の甲寅である。日本人は甲寅を、漢字が無いので仮名を表す記号で「木の兄の門等」と記したはずで、紀元前659年以降に書かれた『書経』より古い。しかも、「火」は「か・ほ」ではなく、「ひのえうま」はあまりにも有名で「ひ」と読み、「五行思想」ならば、日本から輸出したことになってしまう。

2025年7月2日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 序

  「新しい古代の神話」では、住む場所の宮を神の代理人が居る場と考え、地名が神、交流することで、地名を付加していった。また、地名は人々の移動によって運ばれた。地名が神、人々は埋葬された墓所を「し」と呼んで、その土地の人々を「氏」と呼んだようだ。「しかばね」は死んだ神が埋められた場に建てた木が根と言う意味だと考えられる。

『山海經』にあるように、日本人の国と考えられる、海外の東西南北經の52、海内の南・東經の34、大荒の東・南經の68の計154、但し重複する国があるので140位の人種が集まったのが日本人と考えられた。『漢書』にも「分為百餘國」と記述され、弥生期でも百以上の言語(方言)を話す人々が存在したと考えられる。

日本人のY遺伝子の構成から、日本人には周辺国に無い遺伝子が存在し、6.8から3.9万年前頃にアフリカを出発した人々が中国や日本に住み着き、その後、3.5万年以降にアフリカを出発した人々が後から遣って来て、日本列島の先住民と混血し、辺地に追いやったようだ。それらの多数の種族の人々の言語も神を「ま・け・み・き・ち」などと呼んで、其々、独自の言葉(方言)を話していたようだ。

移動生活では土器は邪魔だったが、日本に来た人々は土器を発明して定住し、舟を発明して黒曜石などを交易した。日本人は交易で交流するため、身振り手振りや擬態や擬音に声を載せて意思疎通しただろう。そして、交易範囲が拡大する毎に言葉が付加される膠着語の日本語が生まれた。また、其々の神を葬った木の根()・墓標がある土地の人々を纏めて死んだ神の「氏・主」と呼んだのだろう。「新しい古代の神話」では、その土地に繋がる氏族を検証した。

定住した日本人は舟による交易を行ったが、海は季節によって海流や風向きが変わり、また、日本は四季があるので、それに合った作業が必要だったと考えられる。それには、作業カレンダーが必要で、日本人は暦を理解した。『真実の古代』は暦という記録を考えてみたい。