2024年11月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話7 建飯勝の矛盾

  安寧皇后渟中底姫の婿は縣主波延であり、渟中底姫の兄・建飯勝は、出雲臣の娘である沙麻奈姫を妃にしている。しかし、崇神朝に記述される出雲振根も出雲臣の遠祖なので、出雲臣は懿徳朝の大臣である。そのため、皇后の兄である建飯勝が大臣の娘を妃にしていることは、世代的に矛盾することになる。建飯勝は皇后が叔母、懿徳天皇の娘婿・皇太子にあたる。

この矛盾を解消するには、建飯勝が襲名して2世代以上存在していると考えるのが理に適っている。建飯勝から建氏と氏族が代わっているので建氏は日向賀牟度美良姫の血筋である。賀牟度は「神門」で三国の皇族、阿多君の孫が相応しい。阿比良比賣、すなわち、阿多の比良姫と美良姫は名が似ている。したがって、1代目の建飯勝として相応しい人物は、日子八井が2代目天日方奇日方の綏靖天皇ならば、妃の伊須氣余理比賣の子である沼河耳は有力である。

沼河耳は、安寧天皇波延の妹の河俣毘賣を妃とし、その子である師木津日子玉手見は、その名からも王の側近であり、重要な役割を果たしていたと考えられる。玉手見は、安寧天皇波延の娘・阿久斗比賣に婿入りしている。

『日本書紀』において、安寧天皇の子は息石耳と懿徳天皇とされ、後に書き直されて常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。『古事記』が息石耳を記述していないのは、皇位継承の常道に従い、安寧天皇の娘婿である玉手見(息石耳)が皇位を継承して2代目安寧天皇だからなのだろう。つまり、安寧天皇の子は阿久斗比賣、常津彦の某兄の玉手見(息石耳)と妹の真鳥姫、すなわち、常津彦の某弟の懿徳天皇と師木津日子(常津彦)であると推察される。

安寧朝が38年続いたため、2世代程度の継承があったと考えられる。波延の娘の阿久斗比賣の夫、玉手見(息石耳・2代目波延・師木津日子の義弟の猪手)の娘の泉媛と師木津日子との娘である天豐津媛(真鳥姫)が出雲醜妃となり、本来は皇太子である師木津日子が即位するはずであった。しかし、彦湯支と同様の政大夫だった出雲醜は大臣になった。すなわち、襲名した2代目師木津日子は、妹の婿の政大夫の出雲醜に皇位を奪われたのではないかと考えられる。宗教上の天皇は大祢の可能性が高く、醜の名前が安曇川周辺で祀られる「しこぶちさん」ならば、大祢が「彦根」だったのではないだろうか。

2024年11月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話6 天日方奇日方の矛盾

  天日方奇日方が神武朝と綏靖朝の2世代にわたって存在しなければ、いくつかの矛盾が生じた。天日方奇日方の娘と、媛蹈韛五十鈴命の皇子との間に神武朝最後の天日方奇日方の子の日子八井が生まれた可能性がある。神武朝が76年にわたって続いたため、約4代の世襲があったと考えられるので、日子八井が天日方奇日方の子で襲名したことに矛盾はない。日子八井と伊須氣余理比賣とは従兄妹の関係で、伊須氣余理比賣は分王朝なので、天日方奇日方と呼ばないで日子八井と呼んだと考えられる。

美良姫との子の建飯勝は安寧天皇の皇后の兄なのだから、綏靖朝の鴨王、神武朝の天日方奇日方の子である。天日方奇日方妃の賀牟度氏の姫の子が鴨王なら良く当て嵌まる。日子八井は茨田連の祖であり、仁徳朝において茨田堤を築いた際に茨田連衫子を河神への生贄にした。茨田連は河内に住んでいた氏族であり、天日方奇日方の後裔である大田田根子も河内にいた。このため、日子八井が綏靖朝の天日方奇日方であれば、矛盾は生じない。

すなわち、綏靖朝廷の初期には、日子八井が天皇であったと考えられる。その後、阿多君の妹の子である當藝志美美が、綏靖皇后を妃として即位した。彦湯支は当初、綏靖朝の足尼であり、その後に政大夫となった。このため、綏靖朝の初めには、2代目の天日方奇日方、つまり日子八井が政大夫であり、彼が亡くなった後に彦湯支がその地位を継いだと考えられる。神武朝の時、天日方奇日方は政大夫ではなく、宇摩志麻治が政大夫だった。

その後、綏靖天皇當藝志美美は伊須氣余理比賣の子である沼河耳の反乱により敗北した。これにより、2代目の天日方奇日方の娘である渟中底姫安寧皇后が、夫である縣主波延と共に皇位に就いた。初代政大夫・宇摩志麻治の子(?孫)と義弟の沼河耳と共に、阿多君・鴨王(神君)の三国朝廷から物部氏の朝廷に権力が遷った。

2024年11月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話5 政大夫の矛盾

『古事記』の神国(三国)の倭の王の神倭毘古にとっての主君(天皇)は阿多君でその娘を妃にした。皇位は、宇摩志麻治から璽を得て皇后の媛を名乗った媛蹈鞴五十鈴命、前に国名が無い媛が天皇で、その婿が阿多君である。そして子供は二人、すなわち「彦八井耳」と「神渟名河耳」と記述されたが、五十鈴依姫は妹でなく娘で、綏靖皇后だったため、彦八井耳は婿の可能性がある。皇位継承は皇后の兄弟の子を婿にするのが基本的な力関係なので、阿多君の男子よりも、事代主の男子の血統が優先される。

したがって、天日方奇日方の長男が媛蹈鞴五十鈴命の長女に婿入りするのが通常の流れなので、彦八井が婿の可能性が高い。また、媛蹈鞴五十鈴命の長男は、弟の天日方奇日方の娘に婿入りするのが通常の流れ、その婿が政大夫天日方奇日方(阿田都久志尼)であり、神武朝の76年間は交互に継承されたと思われる。

『古事記』によると、伊須氣余理比賣の子は神沼河耳であり、彼の妃はまだ縣主になっていない、波延の妹である河俣毘賣だ。そして、『舊事本紀』にも同じく伊須氣余理比賣を媛蹈鞴五十鈴命の妹に記述するズレがあるため、伊須氣余理比賣の子が師木津日子玉手見ではなく、沼河耳である可能性が高い。

問題となるのは、天日方奇日方が神武天皇の世代でありながら、安寧天皇の父でもあることだ。これにより、神武天皇から綏靖天皇の2世代間で矛盾が生じる。したがって、天日方奇日方は2世代存在していなければ矛盾する。

天日方奇日方は食国の政大夫だった。天皇に対して、食国の大神の月讀が伊邪那岐に指名された最高実力者で、月讀に賜姓された政大夫が実質の天皇だった。政大夫の宇摩志麻治が食国から天皇の璽を媛蹈鞴五十鈴命に渡し、神朝廷が開かれた。おそらく、媛蹈鞴五十鈴命は天日方奇日方にも政大夫を賜姓したが、それは2代目の天日方奇日方だった。実際に成務を行うのは政大夫で、最高実力者なので、二人居るのは不自然だ。

2024年11月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話4 神武朝の矛盾

  国名がない「媛蹈鞴五十鈴命」が神武天皇である。史書を書いた人物にとって、誰もが知る最高位の人物の官位に国名など書く必要が無く、天皇(比賣・日子・縣主等)誰々だ。そうでない人物の官位には国名が付加される。『舊事本紀』によれば、事代主の子は「天日方奇日方」と「媛蹈鞴五十鈴命」であり、五十鈴依姫(伊須氣余理比賣)も媛蹈鞴(比賣多多良)を受け継ぐ姫だ。しかし、事代主の子は二児だったため、五十鈴依姫は媛蹈鞴五十鈴命の妹ではなく娘として記述されなければ、矛盾する。

すなわち、『舊事本紀』は媛蹈鞴五十鈴命を『古事記』の記述と合わせて、富登多多良伊須須岐比賣と同一人物としてしまったと考えられる。富登は神門(ミカド)に対する穂門の意味なのだろうか。媛蹈鞴五十鈴命の二児の子供には、五十鈴依姫と後継の長女の媛蹈鞴五十鈴命を襲名した媛が存在したのだろう。そして、『古事記』が記述するように、五十鈴依姫の子が神沼河耳だったと考えられる。日子八井命は襲名した媛蹈鞴五十鈴命の神八井耳は多藝志美美の娘婿の可能性がある。

『古事記』の神武天皇は神倭伊波礼毘古で、綏靖天皇は神沼河耳である。勿論、この名は臣下の名前で、神は「ミ」、君子国三国・神国を意味し、神国の臣下の倭の毘古であり、耳(三国の神)である。伊波礼毘古の倭は八国(野洲)を意味し、君子国配下の野洲の毘古(将軍)を意味し、伊波から野洲に遣って来た氏族を意味する。子の多藝志美美も若狭(出雲)の小濱に婿入りした耳(三国の神)、すなわち王族と言う意味だ。

神倭毘古は君子国の臣下であるが、神倭毘古の項に記述される王は阿多君のみ記述される。阿多君は出雲の大山津見の娘の神阿多都比賣の孫で、君は君子国の王の官位である。すなわち、君子国(神国)の王が阿多君ということになる。阿多君自体は阿多の君子国の王族だが、神倭毘古を配下に出来たのは、阿多君が媛蹈鞴五十鈴命の婿になったからと考えるべきだろう。

出雲は神倭毘古の頃は若狭にあったが、その出雲に神門臣という氏族がいたが、神の門は帝の意味で、初代天皇の一族がいた。門は河神の戸()なので、神神戸は意味不明、神国(ミクニ)の河神の「カ」の戸、「ミカド」臣が古い読み方と考えられる。神門臣の姫の名は大田田祢古の妃の美氣姫、気比の姫、崇神朝の頃の気比は神功皇后が伊奢沙和氣大神と氣比大神と名を交換する前なので大津にあった、大津の姫、大津に師木水垣宮があったと考えられる。

2024年11月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話3 神朝廷

  伊邪那岐が伊邪那美を葬る前に、杖から「岐神(船戸神)」が生まれた。『舊事本紀』には「投其杖是謂岐神」とあり、これが岐神だ。「港」を表すのに「岐」という漢字を用い、前に国を付けない岐神(キミ)の子の国が君子国を指すと理解できる。

岐神は三国(神国)の神、つまり三島溝咋などのことだ。「咋」は「君子国の神」を意味し、これは「熊や倉」の「ク」や、皇大神宮がある位川の「イ」と関連しそうだ。『伊未自由来記』の結果から、三島溝咋と出雲の大山祇との間には大乱が起きたが、美豆別之主、丈夫国の胸形の出身の高皇産巣日、そして八国の事代主との同盟によって勝利したようだ。高皇産巣日の孫の迩迩藝の妃は大山祇の娘の神阿多都比賣、迩迩藝は阿多氏の王になった。

高皇産巣日は「高皇」、恐らく、出雲氏を追い出して高浜王となった。神を皇に置き換えて「ミ」と読むようになったこの神は、三国の神ではなく、高浜に来た海神を指していると考えられる。『古事記』でも「御」という漢字を用いており、天照大御神と同じ表記法だ。そして、その部下である活玉命の妹、活玉毘賣と三島溝咋の間に生まれた娘が活玉依姫だったと考えられる。依姫の名は、王朝の分家の後継者を意味し、王権交代があったことを示唆している。それは、活玉依姫の娘の比賣蹈鞴五十鈴と夫の阿多君(君は君子国の王家官位)の神朝廷である。

また、番能迩迩藝と神阿多都比賣の子である火照は、阿多君の祖だ。世代から考えて、その子が阿多君であり、阿多君は三国の王、つまり三島溝咋の娘婿の王の可能性が高い。三島溝咋の娘が活玉依姫なら、活玉姫が跡取りだろう。そのため、火照の妃は活玉姫と考えられ、事代主と義兄弟になったと考えられる。さらに、天太玉の妹であると考えられる豊玉毘賣と火遠理の間に生まれた子が葺不合だったので、その妃が()玉依姫だ。自国の妃に国名を書くことは無い。

小椅君の妹である阿比良比賣の婿は高木神を祖とする人物だが、高皇産巣日の子には葛木氏の祖と言われる天活玉も存在し、この人物が高木神と考えられる。劔根の父は玉依彦、玉は王、王家の分家を意味し、玉依姫を継承している。

2024年11月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話2 君子国

  君子国は周饒国を「衣冠帶劍」という武力を担う「於漏知」を使って侵略した。黄帝は『山海經』に「天地鬼神是食是饗君子服之以禦不祥」として、不運を避けるために鬼神を祀り、君子も鬼神に服したとされている。日本人は「木神」を祀る国が君子国と理解したので王に君の文字を使ったと思われる。ここでの鬼神とは、木根()を神として祀る対象にしていることを指していると思われ、遼東半島にあった「鬼国」もまた、君子国の兄弟国であったと考えられる。この鬼国の本家が「於漏知」であり、三国の君子国がその鬼国を統治していた。

周朝は、東の「周饒国」(隠岐・あまねく豊かな国)に対し、西の周を名乗った。これは、後の殷を継いだ西周の話ではなく、黄帝が活躍した夏朝が開かれる前の出来事だ。

紀元前660年以前には『日本書紀』の内容を記録した文字に類するものがすでに存在しており、九州では延光四年、125年に篆書体を交えた文字が発見されている。篆書体が使われたのは秦までで、それ以前から文字を使用していたことを示す。正しい日干支とそれに付随した記事があるのだから、漢字でなくとも文字に類するものが無ければ記録を残すことは不可能だ。

隠岐の「食国」は、月讀や於佐の神が統治していたが、君子国に敗北した。『伊未自由来記』は交易によって、収まったと述べるが、実質は敗北と思われる。そのため、月讀や蛭子の説話がほとんど残されていないのではないだろうか。

対馬から遣って来た「津見」の一族、大山津美や加須屋の海祇(海の神)は牟遲や産巣日などの地名を持って移住してきた。アカホヤの噴火で逃げた人々も多く存在し、その一部が蓋州や朝鮮北部に逃げ、他の人々は黄海の朝鮮半島西南岸や済州島に逃れた。これが天(吾魔・倭)であり、日本海や太平洋沿岸に逃れたのが阿蘇(吾祖・委奴)であったと考えられる。天橋立にも阿蘇海が存在するのは、阿蘇の名を持って遣って来た痕跡かもしれない。

2024年11月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話1 日本語

  三国は『山海經』に記述される「君子国」と呼ばれる国で、周朝が理想とした国だったようだ。首都は敦賀であり、舟を造る「大人国」の隣に位置していた。この君子国の建国は1万年前にさかのぼると考えられる。木の葉比等がアカホヤで隠岐に到着した際、出雲にはすでに大山祇が存在し、それが大人国だったようで、君子国の兵士と思われる於漏知と山祇が争っていたので、当然存在していたと推測される。

黒曜石は神津島から千葉や静岡に運ばれ、翡翠は九州や北海道、さらには朝鮮など、さらに広域にわたって取引されていた。おそらく君子国は、諏訪湖の黒曜石と糸魚川の翡翠を交易するため、大人国の舟を必要としていたのだろう。黒曜石を産出する八ヶ岳は、八国の信仰の対象であった可能性が高い。

建御名方が国譲りで敗れ、諏訪に逃れた理由は、諏訪湖が彼の故郷だったからだろう。諏訪で行われる御柱祭は、木神(鬼神)を祀る起源かもしれない。高度な縄文土器が創られた頃の事だろうか。

敦賀という地名は、「津に来た」川の神のことを意味し、八百万神は八国に百以上の種族がいて、「ついたち」に敦賀の津に寄り集まった神々(万神)を指していると考えられる。大人国の宮は舟を造る伊根の舟の港(フナ門)、隠岐は「神奈門(ミナト・奈岐神の宮の門)」、君子国は「神()(ミキド→ミカド)」なのだろうか。

海から来た人は「神子(ミコ)」、日国から来た人は「ヒコ」、胸形から来た霊は「ムチ」、日から洲、そして胸形を経由した神は「ムスヒ」と呼ばれる。これらの言葉の構造は「膠着語」と呼ばれている。

名詞に「ラ」行の動きをつける動詞で言葉を終わらせる。日国から来た子の「ひるこ」の「こ」のように、名詞に動詞に更に名詞を加えて名詞が膨らむ。於漏知は霊が雄々しく遣ってくる霊のことを意味し、山祇は「ヤ」魔(八国の霊)と津神の婚姻で生まれた神なのだろうか。名前は地名の履歴を表す。他氏族の子は定住する自氏族の子と分けるために、日子などと出身地を付加する。日子や牟遲、産巣日が集まった場所が敦賀や若狭、神話の中心地である。

2024年11月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話17 歴史時代

  葛木氏は御真木入日子の時代から歴史として記録され始めたと述べたが、『日本書紀』は紀元前667年から歴史時代が始まった。私はAI『日本書紀』の暦に関する論争を行い、勝利した。『日本書紀』に記述された朔の日干支は正確だが、それを求める計算には16世紀に採用されたグレゴリオ暦の知識が必要である。しかし、『日本書紀』には11世紀の岩崎本という、もっと古い写本が存在する。つまり、後から書き換えられたものではなく、古代に正確な記録が残されていたことを意味する。

AIも、「古代の人々は観察できた範囲で正確に朔の日を記録しており、その結果が現代の天文データとも一致している。これがもっとも矛盾の少ない説明である。」と認めた。

では、なぜ中国では晦や朔が混在していたのに、日本では朔がずっと朔として扱われていたのだろうか。それは日本語から簡単に理解できる。日本語では、晦日は「ミソカ」と呼ぶ。これは30日を意味するが、小の月では29日が晦日だ。このため、日本国は中国の「晦」を「ミソカ」と思い、それを30日目の朔日だと理解した。大の月の晦日は「オオミソカ」と呼ばれている。おそらく、中国の晦は年366日の太陽暦の名残で、太陰暦にした時に30日目が晦で朔と同意語だったのだろう。

倭国は中国の暦を使用していたが、「晦」が「朔」と理解していたため、日本国の29日や30日と1日のズレが生じた。しかし、日本語では朔日を「ツイタチ」と呼ぶ。これは「津に他氏族の神が集まった日」という意味がある。晦日は日本語では「ツゴモリ」と呼ばれ、神様()が津に籠る日を意味していた。そして翌日、神々が津に集まった。日本国は倭国と異なり、朔と晦は全く別物だった。

対馬の月讀が津に籠り、その配下が翌日津に集まった。食国の政大夫である宇摩志麻治や天日方奇日方、彦湯支、出雲醜も、朔日には食国にいたと考えられ、その記録が残されていたのだろう。しかし、葛木氏はそのような記録を持っていなかった。

2024年11月4日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話16 息長氏

  遠津臣の娘である高材比賣の子に息長宿禰が存在し、彼は葛城の高額比賣を妃に迎え、息長帯比賣を生んだ。遠津は、近い津である大津に対する「遠い津」で、草津のことを指すと考えられる。そして、伊勢遺跡がある守山市の隣町の草津の遠津氏の娘の子に豐鋤入日賣が存在したと思われる。

比古布都押之信の世代に、葛城の垂見宿禰の娘である鸇比賣が存在し、子に建豐波豆羅和氣がいる。葛城の宿禰なのだから、輕宮の葛木氏の天皇の娘であり、子が豐国に移住した人物のようだ。

高額比賣は多遲摩毛理の弟である多遲摩比多訶と、清日子の娘である由良度美との娘で、葛木氏は葛城の垂見宿禰からその氏を継承したと考えられる。なぜなら、多遲摩毛理は常世国から非時香菓(高麗橘)を持ち帰ったが、済州島(常世)と萩(多遲摩毛理の出発地)にのみその木が自生する。すなわち、伊久米伊理毘古の宮も萩近辺にあったと考えられる。神功皇后が穴門の山田邑に宮を建てた場所も、萩の隣であり、萩や穴門は豊国に属する。

つまり、伊久米伊理毘古、多遲摩毛理、豐鋤入日賣、息長宿禰は同じ系統の人物であったと考えられる。豐鋤入日賣は伊勢の女王、息長帶比賣は穴門と糟屋の斎王であった。そして、息長帶比賣は栗東市の坂田宮伊勢斎王禊祓所で禊祓を行った女王国の女王であったとも考えられる。『舊事本紀』によると「氣長足姫命是息長地名在近江國坂田郡」とあり、坂田は息長足姫が生まれた地である。

帯中日子も豊国の安芸の王であり、妃である息長帶比賣は品陀和気(襲津彦)の母であった。『紀氏家牒』の時代はすでに神話ではなくなっていたが、人の名前はその履歴書である。

師木に首都があったのに、御真木入日子や伊久米伊理毘古は矛盾しており、また、首都が纏向でも同様である。纏向宮に王が住んでいた場合、渟名城入姫がその王であった可能性が高く、渟名城入姫は大和神社を創建した。しかし、渟名城入姫を祀る渟名城入姫神社は、大和神社から離れた纏向に近い場所に祀られている。箸墓の被葬者の倭迹迹姫は世代が異なる。

2024年11月1日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話15 少名日子建猪心

孝元天皇の子である少名日子建猪心は、『日本書紀』に倭迹迹姫と言い換えられており、彼が倭迹迹姫の婿であったと考えられる。実際のところ、少名日子建猪心は景行天皇の時に記述されるように、比古布都押之信の後代の野洲王の名前である。少名日子建猪心は「少名日子」という名前の通り、吉備小国の王であり、若建吉備津日子の娘である針間之伊那毘能大郎女に婿入りした、吉備の王であったと考えられる。

御真木入日子の宮は318年まで続き、その後、若帯日子の宮が355年まで続いた。伊久米伊理毘古と大帯日子の宮が並行して存在していた可能性が高い。御真木入日子の宮の後に続いていたなら、王の薨去日の記録があるはずで、それを記述しないのは、傍系の王家だったためと考えられる。

少名日子建猪心という分家が開かれたのは、屋主忍男武雄心と呼ばれていた150年頃までに開かれたと思われる。景行3年西暦73年に屋主忍男武雄心は紀伊国、これは木国に祭祀する宮を造って、武内宿祢が生まれたと記述する。73年では日干支が間違いであり、纏向に首都が在り、その隣国は領域と考えられ奇異である。130年ならば、日干支も正しく、景行天皇は128年に穴穂へ追い出されているので、屋主忍男武雄心が木国に宮を建てるのは理に適う。宮を建てるということは、侵略して、山代の内臣の首領になったことを意味し、それが内臣の宿祢()の紀(木国)の武内大臣である。

そして、本家の屋主田心の曾孫が成務天皇の時代に高志国造の称号を授けられたので、少名日子建猪心は屋主田心から分かれた家系だろう。本家である紀氏は仲哀天皇まで仕え、200年頃には葛城国造の庇護を求めて移住した。

少名日子建猪心は若建吉備津日子の娘に婿入りし、その子である小碓が日向襲津彦を殺害し、襲津彦の地位を継承した。建猪心兄弟は、小碓と大碓の可能性がある。紀氏は仲哀天皇まで屋主であり、その名の通り、野洲の王であったが、大和の葛城に逃れた。この時、大臣の地位を武内大臣から丸迩の比布禮能意富美が奪ったと考えられる。