2024年8月30日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降1 天降った場所

  大国主は支配地を伯耆まで拡げ、胸形の多紀理毘賣を妃にして大山津見の孫の奈賀命に隠岐を統治させ、丈夫国と友好関係を築いた。しかし、天照大御神は、大国主の力の源泉である大山津見を滅ぼし、出雲氏は亀岡の出雲神社周辺へ追い出された。大国主の別名である葦原醜雄を「出雲醜」と解釈し、出雲醜大臣すなわち大国主を追放したと考えた。

次に、帯中日子の背景である仲国の建国説話が始まる。正勝吾勝勝速日天忍穗耳が目指す葦原醜雄の国の「葦原中國」、天照大御神の孫である番能迩迩藝が目指す「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、豊国の吾達(吾氏)の土地神の我国(吾岐)の神の岬の国である。吾氏の土地は国中にあり、その一つが豊国の安芸、その一つが豊国ではない仲国である。

「長」は那珂川の港か、五百は五百年続いたという意味かもしれない。胸形の大山津見を後見する王朝の力を弱め、出雲醜大臣を追放したのが前477年頃で、この時高千穂宮が出来れば、「伍佰捌拾歳」とあるように、580年後は西暦100年頃、「倭國王帥升等獻生口」は107年の事で、倭国が高千穂宮王朝を滅ぼしていた。125年(延光四年)の永宮は訓読みなら「ナガノミヤ」は「一國之魁帥」の奴国にいる壹国女王の夏磯姫が造ったのだろうか。物部君の祖の物部夏花が『後漢書』の邪馬臺国の大倭王だろうか。

『日本書紀』での火瓊瓊杵の説話では、火を「hi」ではなく「huǒ」と理解する人々の説話が語られる。この説話では、天(天草や五島)に住み、燕や漢、魏に臣従してきた倭人や、聖人の熊襲(くまそ)に関する説話が含まれている。これは大伴氏や曾都毘古の母系の人物に関する説話である。

火闌降と火火出見、火明は「ホ」と読むなら九州の人々と解り、神武天皇の名は火火出見と記述され、火火出見王朝の子が去來穗別、履中天皇であったことが解る。『日本書紀』は雄略天皇、大伴氏が記述した史書なので、「ヒ」ではなく「ホ」と読むべきなのだろう。

2024年8月28日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り4 国譲りの結果

  事代主朝廷の最高実力者である政大夫の宇摩志麻治は、「奉齋大神」として、大神君の祖である天日方奇日方が祀る神に奉斎した。彼の子の彦湯支もまた最高実力者の政大夫となった。「食國政大夫者今大連大臣」とあるように食国の政大夫は大臣と同等なので、彦湯支の子の出雲醜が政大夫ではなく大臣なのは、食国の神ではない、大国の大臣(大国主)であることを示す。大国主は食国の官位、安寧朝まで、名目上隠岐の支配下だったことを示す。食国を離れた出雲醜が大臣(大国主)になれたのは、母の出雲色多利姫が建比良鳥から継承された大国主の娘だからなのだろう。大国主が事代主から政権を取り戻したことを意味する。

国譲りは、懿徳朝が終わる紀元前477年頃に起きた出来事だった。懿徳朝大臣の出雲醜は倭志紀彦の妹である真鳥姫を妃に迎え、大木食を生み、安曇川から大国の中の木国に遷った。そして、出雲醜は孫の建甕槌によって亀岡の出雲神社の地域に隠居させられた。建甕槌は伊勢幡主(伊勢神麻績連の祖の八坂彦、後に八坂入彦が婿入りする)の娘である賀貝呂姫を妃にして、布都御魂は伊勢遺跡がある野洲の伊勢神宮に祀られた。

建甕槌の曾孫の阿田賀田須は大倭國民磯姫を引き継いで阿田氏を継承し、後裔は和迩君である。そして、弟の建飯賀田須が迦毛大御神の後裔の大物主である陶津耳の娘の鴨部美良姫に婿入りして大物主を継承した。

大物主の妃の鴨部美良姫は活玉依毘賣と記述された。事代主の妃は『舊事本紀』が活玉依毘賣で大物主の妃は三穂津姫、『日本書紀』事代主の妃が玉櫛媛、『古事記』の大物主の妃は勢夜陀多良比賣で、全て三嶋溝咋(高御産巣日)の娘で大国主(大物主)一家の系図で、大物主は一世代後だ。

『古事記』は大臣の史書であり、意富臣の始祖は神八井耳とされている。これは「井宮の三国の神」を意味する。つまり、朝廷の神倭()を淡海に遷して継承した三国の井宮、御井宮の和知都美が国譲りで皇位を継承したことを示している。

その継承者である娘たちの蝿伊呂泥と蝿伊呂杼は孝霊天皇の妃となった。すなわち、懿徳天皇から孝安天皇までの間、『日本書紀』の皇后が葉江の娘であったことから、淡道の御井宮で葉江朝廷が続いていたことを意味する。

2024年8月26日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り3 大国主の朝廷

  『舊事本紀』によると大国主の別名である大物主の妃は高浜の神と考えられる高御産巣日の娘、三穂津姫である。『古事記』では高御産巣日は三島溝咋、妃の三穂津姫は勢夜陀多良比賣である。国譲りが行われた場所は小浜で、事代主が薨じた場所は三穂之碕(御尾前)である。これらの神々は穂()と言う地域で活躍した。

大物主の妃である三穂津姫と同じ地域の姫の穂屋姫(同世代?)は、高倉下の妃であり、これらの地域の建甕槌、劔根、高倉下が大国主(大物主)から国を譲りうけた。三穂は「御尾」すなわち「三国の尾」、後の「三八()国の尾」と考えられ、高浜には「宮尾」があり、産霊神社が存在している。

国譲りは、高御産巣日(?三島溝咋)と天照大御神(?髙照光姫)が子供たちに実行させたものだった。大己貴から天菩比、その子の建比良鳥が大国主を引き継ぎ、すなわち、大背飯三熊之大人は大国、伊根の阿蘇湾、三方の日向湖を統治する、三国の小浜の熊野の主、これは、刺國大上神の可能性がたかい。

さらに、大国主の父の若日子(わかひこ)が矢で殺害され、下光比賣は兄の阿遅鍬高彦根と別人である阿遅志貴高日子根を兄と間違えた。阿遅志貴高日子根の妹(伊呂妹)は下光比賣の別名の「高比賣」である。この高比賣は事代主の妹である高照比賣が継承したと考えられ、阿遅志貴高日子根は神屋楯比賣の父である可能性が高い。

そして、刺國大上神の婿の若日子の妻の若比賣(下光比賣)の兄の阿遅鍬高彦根が大山津見であり、その妃が高比賣であった可能性が高く、大山津見の娘が神阿多都比賣である。山津見は神の意味で履歴書、阿遅鍬高彦根は役職名だ。一世代は2から3代以上の親子関係があり、顔が似ると言うことは、互いに従弟同士で婚姻しあっていることが予想される。君子国にとって、三国は接頭語()が付かない「唯の吾国」であり、三国と但馬は併せて「吾田」国とよばれ、事代主朝廷は「吾田の国の朝廷」だった。この世代で王と呼べるのは阿多小椅君のみ、そして、世代の違う胸形君と猿女君、九州の王である。

2024年8月23日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り2 建御名方

  建御名方は三方の神と考えられ、事代主の子である天日方奇日方も同じ地域の人物だ。『舊事本紀』では、「歸順之首渠者大物主神及事代主神」と記述されて、ここでは建御名方に変え大物主が登場している。しかし、大物主は世代が遅く、大物主の娘の伊須氣余理比賣を妃に迎えたのは、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美だ。つまり、大物主は阿多小椅君と同世代であり、阿多君は事代主の子の天日方奇日方が阿田都久志尼と阿多君の政大夫の阿多津の櫛の尼(禰宜)であったため、事代主の子の世代にあたる。阿田の王は君子国三国の君()の阿多君だ。

大物主の娘である伊須氣余理比賣が阿多君の妹の阿比良比賣の子である當藝志美美の妃であるならば、阿多君の娘もまた、大物主の子の夫である可能性が高い。阿多君の娘と考えられる阿俾良依姫は、穗屋姫の子である天村雲の妃であり、穗屋姫は大物主の妃の三穂津姫と姉妹である可能性が高い。

大物主は大国主の家系ではあるが、天日方奇日方の家系でもあり、大国主の孫の世代である。建御名方は、母である髙志の沼河姫の地元の翡翠と黒曜石と縄文土器で栄えた諏訪に逃れた三国の王だ。『舊事本紀』では、大物主が事代主と兄弟関係のある人物として記述され、大物主は事代主の子の世代だった。すなわち、大物主は建御名方の子が義兄弟になり、天日方奇日方とも義兄弟になる家系と考えられる。

大物主の子供は伊須氣余理比賣で、その最後の夫は阿多小椅君の妹の子である。伊須氣余理比賣は天日方奇日方の姪にあたり、阿多小椅君の妹の子の當藝志美美も義理の甥、神沼河耳は阿多小椅君の妹の子の義子だ。神沼河耳は建御名方の母の沼河姫の名を引き継いでいる。阿多君の祖は火照なので、火照が沼河姫の娘婿の建御名方の可能性が高い。

2024年8月21日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国譲り1 出雲氏

  国譲りの説話は、天照大御神と須佐之男の子である天菩比を送ったことから始まり、天菩比は大国主に媚びて臣従し、子の建比良鳥と共に出雲臣の祖とされた。その後、天津國玉(対馬国王)の子である天若日子が登場する。天若日子(若狭日子)は大穴牟遲と多紀理毘賣の子の阿遅鍬高彦根の妹の下光比賣(若狭比賣)を妃に迎え、義兄の阿遲鍬高日子根を追い出し、大国主を生んだと考えられる。阿遅鍬高彦根は迦毛大御神と呼ばれ、賀茂君は大物主の末裔なので、大物主の祖なのだろう。そして、天照大御神は建御雷に布都御魂を持たせ、天鳥船を伴にして国を譲らせた。なお、経津主は布都御魂を指すと考えられる。

建比良鳥は出雲臣の祖であり、出雲氏の初出は彦湯支の妃である色多利姫だ。色多利姫は出雲醜大臣の母であり、建比良鳥の末裔と考えられる。また、色多利姫は滋賀県安曇川上流にある思子淵神社の地域の姫である。天菩比は、大穴牟遲に媚びて若狭の鳥浜で臣下になったと考えられ、その子孫は高島の安曇川に住んでいたようだ。

色多利姫の子である出雲醜の子が沙麻奈姫であり、沙麻奈姫と建飯勝の子が建甕槌だ。建飯勝は安寧天皇の皇后である渟中底姫の兄であり、実質的に天皇であったと考えられる。渟中底姫の祖母は活玉依姫であり、事代主の妃だった。したがって、孫の渟中底姫は事代主を継承し、事代主朝廷の女王である。しかし、建飯勝の義父である出雲醜の力と高島の高木神の武力によって、この事代主朝廷が終焉を迎えた。建御雷は、布都御魂を使って叔母の事代主朝廷を滅ぼした。建御雷は事代主と大国主も滅ぼしたので、この大国主は出雲醜大臣の子だったのだろうか。安曇川にいた出雲氏の大国主を祀る出雲神社は亀岡にあった。

2024年8月19日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神4 木国と根国

羽曳野神を祀ったと考えた波比岐には、地名の命名に関する説話がある。しかし、例えば、神武天皇の「秋津州」や雄略天皇の「阿岐豆野」など、地名に関する説話が他にも存在する。

 秋津は「吾岐の津」、つまり「我が国の津」を意味し、我が国には無数の港が存在している。神話を記した氏族にとって、「津」は対馬を指し、「吾岐」は帯中日子の国、すなわち安芸や吉備まで勢力を広げた建日国の日向曾都毘古の国を意味する。

対馬の津国()と同様に、琵琶湖、奈良湖、巨椋池に挟まれた地域には「木国」があり、津と呼ばれていた木津周辺は「岐」と呼ばれていたと考えられる。これは、政権の中枢である宇豆比古の国であったためだ。その結果、他の木国は葉木、久久、隠岐、壱岐などと呼ばれるようになった。

中国人は、これらの木国の一つを「鬼国」と呼び、その宗教を「邪教の鬼道」と称した。しかし、自国を「鬼」や「悪魔」と呼ぶ国は存在しない。これは、圧倒的に強い敵国に対して、攻められる側がつけた呼び名と考えられる。『日本書紀』では「鬼国(guǐguó)」が「貴国(guìguó)」と記されている。宗教も「鬼道」ではなく「貴道」岐()神の道と呼んでいたと考えられ、天皇家の天照大御神のように氏の祖を祀る神道のことだ。卑弥呼の「惑衆」は統率力があったことを意味している。

中国人にとって「鬼国」は、中国と戦う強敵を指していた。『山海經』には「鬼国」が蓋州市周辺に存在したと記述された。『三国志』の倭人伝にも倭の30国の中に鬼国・鬼奴国が登場し、朝鮮でも鬼道を行ったが、中国の臣下になったと描かれている。

木国と同様に、須佐之男が向かった「根国」も、複数の「根」が存在し、王朝によってその場所は異なる。例えば、伊邪那美を葬った比婆の山の「根国」は伊根を指し、伊邪那岐の多賀近辺であれば彦根が該当する。彦根の「彦」は天皇を表す役職名であり、「天皇根」を意味すると考えられる。「根」とは木の幹、すなわち宮の大黒柱を指し、八国の中心であったことを示している。

2024年8月16日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神3 大年神の子達

  大年神は、神活須毘神の娘である伊怒比賣を妃に迎えるが、伊怒の地と思われる糟屋の猪野に皇大神宮があり、加須屋の大海祇の出身地である。

つまり、韓神などを生む大年神を祀る加須屋の大海祇が三国や新羅、百済、筑紫、肥等の国を領有していたと主張している。また、大年神は香用比賣を妃に迎え、子が大香山戸臣なのだから、山背の御香宮神社、今の伏見稲荷の近辺を領有したと主張した。さらに、倭の知詞島に降ったと思われる天知迦流美豆比賣を妃として倭を支配した。大年神の子によって、隠岐(奧津日子・奧津比賣)、大国(大山上咋)、山背(香用比賣)、大和(香山戸臣)を統治したとの主張だろう。蓋州南の五島列島の知迦島の姫と()知と()加使主は偶然ではなく、倭国の出身地なのだろう。

大年神の子の庭津日神・庭高津日神は『尾張國丹羽建部君』の国に関係し、津島や津に祀られていた神々と考えられる。阿須波神は飛鳥、香山戸臣神は橿原の天香山神社、羽山戸神は宇治、大土神は大津を指しているのかもしれない。波比岐神については、河内の羽曳野か比良山地の端、宇治近辺の神である可能性がある。

これらの地域は、すべて4世紀後半に曾都毘古の東征によって支配された国々である。曾都毘古たちにとって、4世紀はまだ神話時代であった。これは、神功皇后の神名交換説話や雄略天皇の一言主の説話が記録されていることからも伺える。

大年神と天知迦流美豆比賣との子の羽山戸神は大氣都比賣を妃に若山咋神、若年・若沙那賣神兄妹、彌豆麻岐神、夏高津日神(夏之賣神)、秋毘賣神、久久年神、久久紀若室葛根神を生んでいる。久久年神、久久紀若室葛根神は若年・若沙那賣同様兄妹なのだろう。すなわち、大年は帝の門と連の氏で年、宇迦能山に朝廷を開いた王は知迦島出身の王の力を借りて若狭、三国、夏磯姫の那珂川河口、安芸、そして狗古智卑狗が治める東と南の拘奴國を領有したことを示す。

2024年8月14日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神2 久延毘古

大年神と同様に、『古事記』は大国主の物語の最後に少名毘古那と久延毘古についても記述している。少名毘古那は常世の国へ去り、久延毘古は御諸山に祀られているとされている。この御諸山に祀られている神は大物主であり、久延毘古の後に大物主が祀られた。

久延毘古は御諸山を「倭の東」と記述しているが、三輪山がある桜井市は大和の中央部にあり、大和郡山が大和の中心ならば南に位置する。しかし、九州の倭()奴国「イ()ナクニ」を基準にすると、建日方別の吉備児島(少国)が東の境界となり、大和が少国(少名毘古の領地)の東でよく符合する。「倭の東」は我東の意味だった。

『日本書紀』の神話時代(縄文時代)の大和(山戸)には「木津」という地名が生まれた。つまり、この時代には大和湖や巨椋池が存在し、木津から船で瀬戸内に向かうことができたという時代背景がある。若帯日子が支配する前の仲国には中臣氏が王だった。香山戸臣は、大和が豊かな土地となり、大和池があった時代の、纏向宮時代より前の神と考えられる。

大物主は大和三山の争いを仲裁しようとし、播磨まで来たが引き返しているので、播磨以東に影響力はあるものの、実際の領地ではなかった。最終的に、大国主の後を継いだ大物主が、加須屋の山田にいる久延毘古や吉備の少名毘古那と共に、肥国建日向日豐久士比泥別、熊襲建日別、土左建依別、吉備建日方別とあるように、九州から吉備に至る王朝を築いたことを示している。

『古事記』には「久延毘古者於今者山田之首富騰者也」と記述されており、猪野皇大神宮の近辺には山田があり、久原(クバラ)という地名も存在し、久延毘古はそこの男人だった。

2024年8月12日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神1 神産巣日と大年神

  速須佐之男の子である大年神の系図を後回しにして、『古事記』はまず大国主の説話を記述している。これは、『古事記』の編纂者たちの祖先である曾都毘古が、熊襲の力を借はしたが、皇位を奪取したからだと考えられる。曾都毘古という名前は、暗殺された熊襲の戦士である日向曾都毘古から受け継がれたものだったと思われる。曾都毘古は、熊襲の戦力を背景に伊耶本和気を皇位に就けた人物だ。そして、日向曾都毘古の祖神が大年神である可能性がある。

『古事記』は、最初に登場する神々として、天之御中主、高御産巣日、神産巣日を記述している。天之御中主は中臣氏の祖神であり、高御産巣日が葛木氏の祖神と思われる。劔根が高倉山に住み、宝剣を発見したので当然のことだ。高御産巣日という名は「高神産巣日」を意味し、実際は神産巣日が『古事記』における祖神と考えられる。

まさに、神産巣日は『古事記』に「神産巣日御祖」と記されており、神産巣日が祖神である。さらに、神産巣日は保食神である大氣都比賣から種子を得て、農耕を始めた。『日本書紀』の一書では、天熊人が神産巣日であり、その子が天御食持とされている。この「天」は淡海の天、大氣都比賣のことを指すのだろう。つまり、「食」や「気」は農耕技術の継承者、すなわち王を意味し、須佐之男も悪神ではなく、動物を使って耕し、糞尿を肥料として農業を改良した善神であったと考えられる。

神産巣日の後裔として、火之迦具土の後に生まれた神として和久産巣日が存在する。火之迦具土は九州で火を意味する「迦」と呼ばれる神であり、それに続く和久産巣日も和久の言葉から九州に分祀された神だと考えられる。その子は豐宇氣毘賣と名付けられ、豊国の宇佐の保食神を受け継ぐ農耕の神であったと見られる。

また、建速須佐之男の娘は胸形で祀られており、建速須佐之男の子が大年神である。この大年神の系図は、竺紫日向の高千穂に天降るという説話の前にわざわざ記されている。つまり、対馬の昼ヶ浦、津のある州から胸形、そして畿内へ渡った加須屋の大神祇の末裔が日向曾都毘古であると述べている。

2024年8月9日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 宮の記録

  『山海經』の「大荒東經」において、紀伊半島から瀬戸内辺りに「羲和之國」があり、一年が366日の暦を創った。すなわち、366以上の数値を記録したことを示す。日本は縄を結んで元号の年月日を記録した。一十廿卅卌は福建省南部の方言で中国では一般的でなく、廿をniàn、中国語の二十はèrshiと読み、「ni」は元々日本語なのではないだろうか。ちなみに、「卅卌」は「sà xì」で、「サン・シ」と読め、「三十、四十」は「sānshí sìshí」でどちらとも取れる。また、字形は如何にも縄に縄を結び付けた形状に似ており、縄文土器文化の記録に符合する。中国は年数などを数えるのに壹弐参・・・を一二三・・・と記述するが、羲和が日にちを数える数値を持ち込んだと考えられる。一二三も結縄の形に見える。

事代主の母の神倭王朝の創始者の神屋楯比賣の宮では、この結縄で十六夜(イザヨイ)、十七夜(カナギ)等を記録したのだろう。そして、前667年頃から、干支を記録して歴史時代に突入する。暦を創った紀伊半島の住民と思われる羲和は、日にちを数え、朔日も縄に記録した。

十二支のね・うし・とら・・・、十干の「キノエ・キノト」等は中国語でなく、「甲子」(カッシ)など漢字が輸入される前から「きのえのね」が有り、縄を結えれば、糸も結えるので、絹糸に符合を付けるか色でも塗れば区別でき、かさ張らない。入れ墨が刻めれば、記号も刻め、船を削れば木片が有り、それを糸に結んで記号を刻めばよい。日本語に無かった立春や立秋など二十四節季は中国語を使っている。この微妙な季節観から考えれば、羲和の和制中国語なのだろうか。

漢は劉邦が龍の化身、黄帝の化身と見做したが、『山海經』の「海經」では、龍に「乘兩龍」と記述され、龍は乗り物の舟の事と考えられる。日本では龍を「タツ」と読み、但馬の津の舟と理解した可能性が高い。また、中国語の龍は「lóng」、日本語で櫓を漕ぐことを意味する事だろうか。すなわち、朝鮮半島にあった辰国は龍国、但馬の王と同族の国の可能性が高い。『日本書紀』の一書には素戔嗚の子の五十猛が新羅に天降っている。婆神「バケ」と同じ但馬「タ」の神「ケ」の出身で伊根の神なのだろう。

2024年8月7日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主の子達

  『古事記』では大国主の子は八上比賣の子の木俣(御井)神、多紀理毘賣の子の阿遅鋤高日子根と高比賣兄妹、神屋楯比賣の子の事代主、鳥耳の子の鳥鳴海とされる。ところが、『舊事本紀』では、大国主の子は百八十一神で、それは、大己貴、大國主、大物主、國造大穴牟遅、大國玉、顯見國玉、葦原醜雄、八千矛の八柱、八島士奴美(=大穴牟遅)以下、遠津山岬帶の17世代の子達なのだろう。さらに、『舊事本紀』は事代主に髙照光姫という妹があり、沼河姫に建御名方が生まれたと記述されている。

髙照光姫は阿遅鋤高日子根の妹の高比賣と亦の名下光比賣(下照比賣)を併せたような名で、下照比賣は天若日子の妃である。下照比賣は天若日子の死後、阿遲志貴高日子根を天若日子と見間違えているので、阿遅鋤高日子根と阿遲志貴高日子根は別人と解る。阿蘇道の鋤出身と淡道の師木出身の高島の人物なのだろう。

天若日子は大国主の母の刺国若比賣の夫の天之冬衣と考えられ、阿遲志貴高日子根は淡海の師木に天降った人物なのだろう。そして、阿遲志貴高日子根に対応した、同じ高島の姫の髙照光姫も阿遲志貴高日子根の妃の可能性がある。すなわち、事代主が大国主の父と同世代の王朝の可能性が高い。

尾張連・意乎巳連の祖の天火明は天道日女を妃にして天照大御神を祀った。それに対して、大物主は八島士奴美の後裔の八島牟遲能神と野洲王、そして木国造の娘の紀伊名草姫の子の天之甕主と姻戚関係になった。さらに、襲名した大物主は天狹霧神の娘を妃にて遠津山岬帶と伊勢遺跡のある津、すなわち草津王となったようで、その後裔の豐鋤比賣が伊勢大神を祀った。宇迦の宮柱から近い津の大津に対して、遠い津の草津と考えた。

2024年8月5日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主4 拘奴國へ

  狭霧所成」で生まれた多紀理毘賣は但馬の日女であり、但馬の豊岡市には切濱という地名がある。「流宮加須屋大神祇大神」が住んだ流宮はこの豊岡の切濱であり、速国の速須佐之男と若狭の日向(湖)の天照大御神の子生みがあったと伝える。

大国主は多紀理毘賣を妃にして、東の「拘奴國」速日国への足掛かりとした。彼は八十神との伯伎国での戦い、そして速日国との戦いを挑んだ。子の大年神は白日神や聖神、韓神、曾富理神、大國御魂神などを生んでおり、三国と大国を支配し、韓地や三身国などに市を開いたのだろう。

『山海經』には、𨲠丘の西の国とされる昆侖虛の東に隠岐の三小島の三首國が南經の領域にあると記述されている。東經と分けているので、地勢的に繋がりがあったと考えられる。『古事記』にも、吉備兒島が「建日方別」という建国のグループの名で記述されているので、速日国の影響下だ。そして、大国主は、大物主へと継承され、高御産巣日の娘である三穂津姫から鴨部美良姫に大物主の名が継承された。

建甕槌が三国や野洲を含む大国から大国主を追い出したが、大物主は大和三山の仲裁を行ない、大和に影響力があった。大国主を祀った亀岡の出雲神社は、現代の出雲よりも播磨や大和に近い位置にある。崇神天皇の時代には、大物主は三諸山に住み、意富多多泥古も河内美努村に住んでいて、仲裁は理に適う。これにより、大物主の影響下の領域が、三国や大国からは撤退したが、韓地から九州、中国、大和まであったと考えられる。

崇神天皇の時代、大国が大和を支配し、名目上隠岐王の配下であった大国の臣の大臣が天皇となり、大物主を祀ることを許した。このことから、大臣の配下の臣という姓が与えられ、大和の神々も香山戸臣として賜姓されたのだろう。神話時代の縄文時代には、大和・山背は水底であり、神話の舞台にはなり得ない。陸地は橿原や飛鳥、河内などと考えられ、山(野洲)の門とはなり得ない。

2024年8月2日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主3 神と地名

  大穴牟遲(宇都須山祇)は八上比賣を妃にすることで、宇都志国王になった。八千矛神は野洲国を継いだ八馳(国神)であり、矛は王の意味だと考えられる。玉や瓊(ヌ)や神器の矛は王の象徴であり、天津国玉のように王の官位として使われたと考えられる。

八千矛神の妃は高志国の沼河比賣で、沼河は瓊河を意味し、翡翠を産出する糸魚川の姫だと私は考える。また、大国主の祖と思われる櫛名田比賣の子である八島士奴美の「奴美」も瓊神を意味するのだろうと考えられる。

 宇都須山祇の子である大人様が周饒国王になり、大人様の兄の襲名した宇都須山祇の宇都志國玉は山末之大主の官位を得たと考えられる。しかし、出雲で戦乱が起こり、出雲氏の力が衰えた。その結果が、若()比賣の子の大国主と多紀理毘賣との婚姻だろう。

大国主は出雲の大山祇を配下にするために、大山祇の宗主国の速日国の姫である多紀理毘賣を妃とした。彼らの子が阿遅鍬高彦根、その子が奈賀命で、奈賀命は隠岐国の王となった。その妃が丹波の須津姫、親は記述しないが、出雲の大山祇か加須屋の大神祇だろうか。

美豆別之主の時代、主栖の沖津久斯山祇が小斯凝呂山祇首として三子島を統治し、主栖は主栖津と呼ばれた。大津松野の地名を主栖に変え、胸形の神である多紀理毘賣を隠岐の主栖津に祀った(奧津宮)と考えられる。

阿遅鍬高彦根の子の奈賀命の妃は「丹波の須津姫」だが、姫の先祖が対馬の佐須川から丹波の須津に遷り住んでいて、大津松野に移住したため、大津松野が須津(栖津)と呼ばれるようになったのだろう。須津姫が多紀理毘賣なのだろうか。木里()が木津そして大倭国平群県の紀里、現代の紀州へと移動したように、地名は人の移動と共に移動する。