大国主は支配地を伯耆まで拡げ、胸形の多紀理毘賣を妃にして大山津見の孫の奈賀命に隠岐を統治させ、丈夫国と友好関係を築いた。しかし、天照大御神は、大国主の力の源泉である大山津見を滅ぼし、出雲氏は亀岡の出雲神社周辺へ追い出された。大国主の別名である葦原醜雄を「出雲醜」と解釈し、出雲醜大臣すなわち大国主を追放したと考えた。
次に、帯中日子の背景である仲国の建国説話が始まる。正勝吾勝勝速日天忍穗耳が目指す葦原醜雄の国の「葦原中國」、天照大御神の孫である番能迩迩藝が目指す「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は、豊国の吾達(吾氏)の土地神の我国(吾岐)の神の岬の国である。吾氏の土地は国中にあり、その一つが豊国の安芸、その一つが豊国ではない仲国である。
「長」は那珂川の港か、五百は五百年続いたという意味かもしれない。胸形の大山津見を後見する王朝の力を弱め、出雲醜大臣を追放したのが前477年頃で、この時高千穂宮が出来れば、「伍佰捌拾歳」とあるように、580年後は西暦100年頃、「倭國王帥升等獻生口」は107年の事で、倭国が高千穂宮王朝を滅ぼしていた。125年(延光四年)の永宮は訓読みなら「ナガノミヤ」は「一國之魁帥」の奴国にいる壹国女王の夏磯姫が造ったのだろうか。物部君の祖の物部夏花が『後漢書』の邪馬臺国の大倭王だろうか。
『日本書紀』での火瓊瓊杵の説話では、火を「hi」ではなく「huǒ」と理解する人々の説話が語られる。この説話では、天(天草や五島)に住み、燕や漢、魏に臣従してきた倭人や、聖人の熊襲(くまそ)に関する説話が含まれている。これは大伴氏や曾都毘古の母系の人物に関する説話である。
火闌降と火火出見、火明は「ホ」と読むなら九州の人々と解り、神武天皇の名は火火出見と記述され、火火出見王朝の子が去來穗別、履中天皇であったことが解る。『日本書紀』は雄略天皇、大伴氏が記述した史書なので、「ヒ」ではなく「ホ」と読むべきなのだろう。