2024年4月29日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 『古事記』の大人国の神生み2

 『日本書紀』では伊弉諾、伊弉冊が生んだのは海、川、山、木祖、草祖と三貴神プラス蛭子だった。すなわち、王朝にとって、神とは生命を生み育む自然が神として存在し、自然を祀る神祖は王祖の神子を生み、神子の子達が神()孫、それで十分である。その他の神は不要である。本来、大人国も同様だが、『古事記』も『舊事本紀』も多くの神を死後にまで生んでいる。理由は簡単で、複数の国が存在し、それらの国を支配したことを意味する。大人国には、周饒国王の佐神、流宮の大海祇、出雲の鞍山祇、沖津久須山祇、於漏知の国があり、当然、これらの国に其々神生み神話が存在する。

大臣の史書の『古事記』の国生み後に生んだのは大事忍男から十神で、最後が海神と水戸神で、水戸神が河神であった。最後が速国の水戸神の速秋津日子、速秋津比賣なのだから、この十神は加須屋大海祇(大綿津見)と無関係とは考えられない。大事忍男が事代主の祖だろうか、石土毘古、石巣比賣は海神社が有った円山川上流に出石神社がある。大戸日別は昼ヶ浦の分国の大国の港神、天之吹上男は伊吹山近辺の天野川の神、大屋毘古は対馬の昼ヶ浦の分祀の野洲の神で大山祇と同義の名前である。また、対馬から隠岐に移り住んだ、風木津別之忍男、隠岐に風早があり、忍男は臣の古形なのだろうか。大事忍男が9神の領域を支配下に置いたと考えられる。大人国の構成氏族の祖神を記したようで、事代主と類似する。

そして、速秋津日子と速秋津比賣が生んだ、すなわち、速日別国の加須屋大海祇が影響力を持った10神のペア神で、山祇や産巣日神を生む神である。沫那藝、沫那美、大津に粟津がある。頬那藝、頬那美の頬は津の集まり、「ラ」は接尾語で津の動詞形、若狭には津が沢山ある。水分は三国の熊に降ったことを意味し、熊野神社が散在し、小浜に熊野がある。久比奢母智は久々子と氣比の神の子の伊邪那美と伊邪那岐なのだろうか。母の「モ」は藻と同じで霊の集団と考えられる。

次の4神は加須屋大海祇の構成国で、志那都比古は那珂川の津だろうか。久久能智は東の「狗奴國」の狗古智卑狗と同じなので速日国の霊、鹿屋野比賣は熊襲の王が鹿文で、比賣は熊襲の日別の女神である。そして、大山上津見、『伊未自由来記』では加須屋の大神祇、次の世代が大海祇の次の世代が出雲の大山上津見であり、その次が鞍山祇で、大国の神生みに続く。

2024年4月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 『古事記』の大人国の神生み1

 『山海經』によると、日本には周饒国という武力を持たない中心勢力の国が有ったが、その背景には大人国という造船し市場を開いて貿易する国の存在があった。周饒国の神話が『伊未自由来記』であり、『古事記』は大人国から生まれた史書である。『伊未自由来記』に登場する始祖の木葉比等は神を生まず、神木の木根を立てたと思われる。その後、海人の佐神が於母島の東に住み、木葉比等の神木を「汝木(奈岐)」と呼んだと考えられる。佐神が於佐の奈神の奈美と呼ばれ、その場所が奈岐の浦であった可能性が高い。

その後、沖津久斯山祇が小之凝呂島の神として現れた。沖津久斯山祇は出雲の鞍山祇の神子であり、若狭の神のようだ。そして、於母の島の東大津に於漏知が襲来した。この際、流宮の加須屋の大神祇が援助し、その一族も多く島にやってきた。そして、宇都須山祇の子である大人様が加須屋大海祇の協力を受け、於母の島の王になった。つまり、沖津久斯山祇と宇都須山祇以外に神が生まれていないので、国を征服したときに、神が生まれたことが分かる。

そして、大人様の国生みの後援者は加須屋大海祇だった。この名前から、加須屋から大国に来た対馬の神を祖とする神であることが分かる。しかし、大神祇も大海祇も『古事記』には記述されていな。海神と対置されるのは山神と考えられ、海神は大綿津見、大海祇の次の世代神は山神と習合した大山津見と考えられる。大海祇は大神祇の次世代の流宮の神であり、大人様は大山祇の姫を娶っていることから、大山津見が流宮の神と推測される。

大綿津見の綿は、伝来が8世紀であり、古代には日本に綿布は存在していなかった。この「綿」は綿毛のような繭の絹糸のことと考えられる。『山海經』には、君子國の近辺に青丘國があり、「衣絲帛」と絹布を着ていると記されている。豊岡市には、仁徳朝から続く絹巻神社があり、かつての神社名は海神社であり、海神イコール綿津見と合致している。『三國志』に異文雜錦を中国に献上し、吉野ケ里遺跡には絹織物が出土していて、中国製と糸使いが異なる

2024年4月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国生み2

  自然の海や河、そして島や山を神と考え、島や山の神を祀るための対象が野の木や草に変化し、それを祀る人物を神と同一視した。廼馳は土地の神霊で、木霊の句句廼馳は豊の久士(比泥別・日根別)の国神で、草霊の野槌は津島出身の神である。対馬日国の島の神霊と河の神は、日女(女王の意味)の日孁と日子(天子の意味)の蛭子を生んだ。日国の蛭子は他の国に天降って、別の国の祖神となる。このような神々の出生連鎖によって、六合では多くの国が生まれた。

『山海経』には数多くの国が記述されているが、「国」という単語が付加されている国は多くない。その中で、国は「海内経」と「海外経」に集中し、特に、「海外経」には多くの国が記されている。その理由は、「海外南経」の六合で神霊が生まれるからだ。国が形成されると、神霊()も生まれる。神の帝俊が神霊の娥皇と「三身国」を生んで、さらに、娥皇の子にも国霊が生まれる。娥皇は土地の河神であり、中国語でも娥(é)と河(hé)は音が似ている。実際、「神」という言葉の語源は河と考えられ、日本語の漢字の読みは漢代のものに近いと言われている。

『日本書紀』は、大八島について『古事記』が含めた壱岐や対馬を大八島から除外し、その代わりに越洲と大洲を含めた。壱岐や対馬は天を付加する倭国の領地なので、倭国から分裂した大伴氏は壱岐対馬を含めなかったのだろう。『三国志』でも、壱岐や対馬は「邪馬壹國」に含まれている。『古事記』において、大国と高志国は淡国と共に、大倭国そのものである。そのため、『古事記』は淡島を「不入子之例」として子に含めず、代わりにこれらの3つの国を合わせて淡道之穗之狹別とした。

淡道州は琵琶湖岸の大津から敦賀や若狭の間と考えられる。伊豫二名州は、二つの名なので、4国ではなく、道後と道前の国のことだろう。神も二名の愛上比賣と飯依比古で、国も讚岐と土佐で併せて伊豫である。粟国の大宜都比賣は大国の神で、淡海の大津の神だろう。大津に粟津があるのは偶然だろうか。そして、『古事記』が日向国を記述しないのは、『古事記』を記述した巨勢氏に敵対する氏族である大伴氏が日向国の王であるためかもしれない。

2024年4月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 国生み1

  『海内經』には、「西海之内流沙之中」に、「壑市」と呼ばれる国が存在していた。流沙之中はおそらく砂漠の中のオアシスのことだろう。この国は市場を開いて繁栄したようだ。『伊未自由来記』の中の大人様は、この「壑市」を参考にして、「海東經」で黄海の中に市場を開いた。さらに、「大荒東經」では太平洋沿岸に「大人之國」という分国を建国し、「有大人之市」という市場を開いたようだ。同様に、「大荒北經」ではオホーツク海にも分国を建国した。

市場を造るには物産が必要だ。その物産を仕入れ、市場で交換した物を送り届ける国があったのだろう。これが国生み神話の国なのだろう。大人國は特に船造りを特筆し、「削船」という造船技術を持っていたようだ。船は多くの土地で出土しているが、その造船の記述は大人國にしか見られない。

『舊事本紀』によれば、大八州の構成国は八国ではなく、淡路州が数に含まれないため、7州となる。一方、『日本書紀』では淡路洲が含まれており、9洲となる。つまり、八つの国ではなくて、大八国という連合国の構成国を記述していると考えられる。二つの名の国の伊豫之二名島については愛上比賣と飯依比古の名前が起源と考えられる。また、粟國の大宜都比賣は琵琶湖の淡國の比賣と考えられる。気比大神は名前を交換し、琵琶湖から敦賀に来た。

津島の天之狹手依比賣や小豆島の大野手上比賣など、比賣を記述する場所には分国や市場が造られたと考えられる。天を接頭語にした国がいくつかあり、その中の津島や伊伎が『後漢書』等によれば、倭国に含まれ、畿内とは別の国だった。天を接頭語にする国は旧倭国の倭奴国の構成国と見なすべきだろう。倭奴国は三身国の義均が定めた九州を意味する。これらの天を冠する国々が倭奴国の構成国として含まれているのは、大人國が貿易対象としていた国々だったからと思われる。したがって、これらの大八島の国々は国を生みしたのではなく、市を造ったと考えられる。

大人國は()狭の分国の淡道之穗(穴太)から始まり、多くの市場を手に入れ、分家を造ったと考えられる。大人様は宇都須山祇の子で、祇は海から対馬、山は野洲の霊、宇都は宇治の津の大津が神の履歴書である。つまり、大八国の勢力下の大津の神であり、加須屋大海祇大神の姻戚だったと思われる。

2024年4月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 ゲノム解析記事に対する考察

令和6年4月18日付けの新聞によると、理化学研究所の寺尾知可史チームがゲノム解析を通じて、興味深い解析結果が出た。それによると、日本の縄文時代や弥生時代に生きた人々に加え、もう一つの系統が見つかったというのだ。さらに、日本人はネアンデルタール人やデニソワ人とのつながりも示唆された。

私はこれまで、日本人と共通する人種がチベットやシベリアなどの辺境に孤立して存在することから、日本人は最初に極東に到達した民族と考えてきました。その後、温暖化が進み、スンダランドから現代の中華系民族(北方系も含む)が進出してきて、それによって辺境に押しやられたと考えています。その為、日本列島は多くの種族が集まる地域であり、『山海經』には日本列島を含む「海經」の「海外經」や東と南の「大荒經」、「海内經」の一部に多数の国や集団が記載されていることから、多様な人々が存在したと推測できる。

アフリカからの移民は同じ時期に到達したものの、スンダランドにまとまった種族と、広い東アジアに散在した種族が存在しただろう。後者の散在した種族が、日本列島に押しやられたと理解している。この中には、ネアンデルタール人やデニソワ人と交雑した種族も含まれていたと考えられる。特に、デニソワ人は東アジアに広く散在していたとされている。

歴史書の解析から、天と呼ばれた「海内經」の地域に住む倭人や聖人と東日本列島人との交流について述べてきた。さらに、葛城襲津彦の日向の妻やその子たち、日向の日臣大伴氏、宇佐の姫と中臣氏との子ら、曲浦の珍彦と同系の人々によって王朝交代が起こった。その後も、文身国(後に俀国と分裂した倭国となる)や大漢国(後に広国となる)の王である蘇我氏、そして俀国の王である天氏の天智天皇など、権力者が変遷してきた。襲津彦らは多くの配下を引き連れて熊襲に移動し、引き連れた者たちは熊襲との婚姻関係を通じて熊襲と血縁関係を持った。このような熊襲との血縁関係は、畿内を支配すると、畿内の有力者たちが姻戚関係を競い合って拡がる要因となる。一方で、権力のない中国人や扶余人が来ても、姻戚関係は拡がらなかったと考えられる。

この理化学研究所の記事は、「最終兵器の目」の研究の正統性を示すものとして、急遽掲載した。

2024年4月17日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神の履歴書

「名は体を表す」と言われるように、神の名前にはその神を祀って移り住んだ地名を継承している。最初の神は水を生み、魚を生む、天の恵みそのものが神である。そして、人々は島や土地に住み、その土地の神は島や土地ごとに異なる名前で呼ばれた。例えば、魔や遲や馳や祇などである。神靈を生んだ六合というのは神に名を付けたことを意味した。

最初に日本語を話した人は他の島の住人に会うと、自分を「吾」と言い、相手は「汝」と呼ぶ。吾の身内は「男夫叔伯 ()」、汝の集団の代表者は「主(ヌやウ)」、それ以外は「氏()」と呼ばれる。子どもたちが生まれて、男性は夫であり、上の者は兄()、下の者は弟()、女性は賣()と呼ばれた。しかし、寿命は約30歳程度であり、孫を見ることなく死んでいった。そのため、神の名前も同様に女や男や子で呼ばれた。そして、人々にとっての神は死んでいった爺(ジ・地)や婆(バ・場)で、比古遲・比婆なのだろう。木の葉比等の同族を木の葉爺・木の葉婆・箕爺・箕婆などといったが、箕は三国の野なのだろうか。

氏族の神も同様で、最初の日本語を話した島民の吾魔(海士・天民)は国神を吾魔神(奄美)と呼び、新天地の津に到着すると、その土地神を津島と呼び、天神を津見()と呼ぶ。常世から来た神は夜に木を祀る津の木神の月読だろう。それに対して、津島の住民は昼間に海を昼ヶ浦で祀り、昼国・日国と呼び、神子は昼子や昼女や日子や日女である。日国は日別の速国に分国を造り、そこ住む自国を木と呼ぶ速人が隠岐に行く。すなわち、速の比等が於島に来島して木神を祀り、その後に岬に住む佐之男が於島に来島して於佐神を祀った。漁師海士の佐之男は於島でも岬に住む。天神の佐之男が於島の岬で祀って於佐神、菅の岬で祀って須佐之男、速国で祀って速須佐之男、熊襲の国で祀って、建速須佐之男と名前を変えて(合祀習合して)佐之男を襲名する。

『日本書紀』では國常立が祖神だったが、伊邪那岐にペア神の伊邪那美が居たように、『古事記』が記述するように天常立が居たが書かなかった。そして、神の履歴書から、天より来た常の国の但馬の霊、そして、元々住んでいた國常立である。その祖神が『日本書紀』に記述される名が無い神の「天地之中生一物状如葦牙」、それが、『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遲、その神が対馬の昼ヶ浦から美浜近くの常神半島に降ってきた。

2024年4月15日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神話のペア神

  史書の神話は、その王朝の祖がどのように生まれ、国を建国したかを物語るものである。通常、王朝の祖を生んだ人物は両親しかいないので、複数のペア神は必要ない。しかし、『日本書紀』では神を生む伊邪那岐・伊邪那美のペアのみが登場するが、『舊事本紀』と『古事記』では他の神を生むペア神も登場する。それは、速秋津日子・速秋津比賣のペアや大山上津見・野椎のペアだ。

速秋津日子・速秋津比賣は河海に因んで生んだとされるが、海神は大綿津見であり、水戸神の速秋津日子と速秋津比賣とは関連があるものの、海とはやや遠い存在である。本来なら海神はウ神()、河神はカ神()であると考えられる。つまり、名前のない海神の津見と河神の土が沫那藝・沫那美、頬那藝・頬那美、天之水分・國之水分、天之久比奢母智・國之久比奢母智の4ペア8柱の神を生み、また、山神の山椎と野神の野椎は山野に因んで天之狹土・國之狹土、天之狹霧・國之狹霧、天之闇戸・國之闇戸、大戸惑子・大戸惑女の4ペア8柱の神を生んだと思われる。しかも、海は淡海、河は野洲川だろう。

しかし、『舊事本紀』では、沫那藝は六代耦生天神の青橿城根の別名であり、國之狹土も二代化生天神の國常立の別名であるとされ、世代が矛盾している。つまり、國之狹土を生んだ大山上津見・野椎は最初の祖神である。沫那藝を生んだ速秋津日子・速秋津比賣も、七代耦生天神の伊邪那岐・伊邪那美よりも前に生まれた。このことから、『古事記』・『舊事本紀』は伊邪那岐・伊邪那美以外にも神を生む神がいることを主張し、複数の王朝が存在したことを示唆している。さらに、『舊事本紀』はこれらの神々の順序まで示している。つまり、『古事記』は大臣の王朝の神である伊邪那岐・伊邪那美に対して、速秋津日子と速秋津比賣の生んだ王朝と、大山上津見・野椎の生んだ王朝が存在したことを述べている。

2024年4月12日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 氏族の祖神と神子

  『日本書紀』の神話を記述した大伴氏の祖神は国常立であった。しかし、そこには、宇摩志阿斯訶備比古遲を取り除いて、記述されたことが推測された。『日本書紀』ではこの宇摩志阿斯訶備比古遲のかわりに、国常立のペア神である天常立が常で祀られ、その常立を祖神としたのだろうと考えられる。さらに、最後に記述された『舊事本紀』では、天常立の代わりに天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊を祖神に置き換え、『古事記』の天御中主と可美葦牙彦舅の前に記述された。

『古事記』は大臣の歴史書であり、『舊事本紀』は大連の歴史書である。つまり、両書とも、元々は宇摩志阿斯訶備比古遲が大臣・大連の祖神であったことを示している。可美葦牙彦舅の「シ」は島や氏の「シ」と解釈され、彦は昼ヶ浦の日神の神子を指し、葦牙は吾シ()の河()の日(日神)を指す。そして、神子の妻(女王)にとって舅に対し姑が存在するはずで、姑が国常立であると考えられる。この神は若狭美浜に天から降った神を象徴している。美浜は常神半島と敦賀半島に挟まれており、敦賀半島には馬背峠、常神半島には日向湖がある。また、宇摩志麻治の母は鳥見の姫であり、鳥浜は美浜の隣に位置している。そして、宇摩志麻治の父である饒速日は大臣と大連の祖である。

『古事記』と『日本書紀』では、ペア神として敦賀の気比の神の伊邪那岐・伊邪那美が描かれているが、『舊事本紀』ではおそらく、「二代化生天神」と「三代耦生天神」がペア神と考えられる。これらは、天八下尊が対馬から大津に降った宇都須山祇を、天三降尊が出雲の鞍山祇之大神と対応させたものと思われる。

『舊事本紀』によれば、大神君の祖である大夫の天日方奇日方と共に、事代主を大神として奉齋したのが宇摩志麻治であった。事代主の娘である活玉依姫は、常神半島の日向湖の近くの日向で祀られたと思われる事代主を祀る、恐らく、生倉の女王と考えられる。高御産巣日は高島の神であり、劔根が高倉山で神剣を得て、孫の羸津世襲が初代の大連となった。そして、「素戔鳴尊此則筑紫胸肩君等所祭神是也」という記述から、胸形丈夫国の神が須佐之男であり、つまり速須佐之男であると考えられる。これが大伴氏の祖とされる神子なのだろう。

2024年4月10日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神3

饒速日の祖神は『舊事本紀』が天常立に替わって記述する狹霧尊と考えられる。『日本書紀』には、狹霧尊は存在せず、代わりに、國常立と同等の國狹槌と豐斟渟が存在している。南の「狗奴國」の討伐の際、「志我神直入物部神直入中臣神」という三神を祈った。この三神によって、大伴氏は日向諸縣を手に入れた。直入物部神の祖も狹霧と考えられ、これは國狹槌が祀られる地形と同じ豊の土地の神と考えられる。中臣神は仲国王の祖神、安芸も豊の国であり、豊国の神である豐斟渟となのだろうか。当然、志我神は日臣の祖神と思われ、大伴氏の祖の神であると考えられる。狹霧の狹は「先・岬」を意味する「さ」であり、企救半島の神であると思われる。企救半島には足立山(霧ヶ岳)があり、霧の発生が多いとされている。3氏とも征服したので拘奴国での女系の神と考えられる。新しい土地に住めば、新しい祖神に世代交代する。男系のみなら1柱の神で十分で、多くの神を記述する理由は女系で、移り住んだ場所の神を祀ったからである。

本来、始祖神は「()ミ」か「()マ」、海が神で島が霊である。そして、始祖神の海()の子が天子である。そして、天子は移住して、皇后の母、女系の皇太后がペア神となって、天子の子が統治する天孫である。ペア神は氏族それぞれに存在し、大臣の葛木氏達の始祖が伊邪那岐・伊邪那美であった。大臣は隠岐の於母島、周饒國の中心人物であり、臣は隠岐の於母島の国の支配下の神を指し、隠岐に支配される大国の臣が大臣である。於母島の奈岐の浦の神が伊邪那岐・伊邪那美の本来の形と考えられる。そして、伊奢沙和氣大神は息長帯日売の子と名を交換して氣比大神と名乗った。すなわち、伊奢は現代の敦賀の気比であり、伊邪那岐・伊邪那美は気比の神であった。

大伴氏が大臣家の葛木氏の政権を奪取したことから、伊邪那岐・伊邪那美を大伴氏の祖神と思われる常立の後に記述したと考えられる。大国は名目上、隠岐の於母島の王の配下にある。『山海經』には「周饒國在其東・・・冠帶」と記述され、これが於母島であると考えられる。一般に一国を統治する王が存在しても、象徴の冠は不要である。多くの国を支配する王には象徴の冠が必要だが、周饒・丈夫・君子の3国以外では記述されていない。大倭根子、大臣、大連の史書は偶然ではないのだろう。

2024年4月8日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神2

  「天常立」は六合を行き交った聖人、その出身地の肥後国を含む九州に関する記述は、『古事記』には肥国が「建日向日豐久士比泥別」とあり日向國は無く、熊曽国は「建日別」とある。一方、『舊事本紀』では肥国も熊襲国も「建日別」、日向国は「豐久士比泥別」とされている。つまり、拘奴への東征の前は肥・豊・熊襲・日向の4国がまとまっていて、日根別の豊の「久」(j iǔ)士、すなわち4国併せて拘(jū)州で、東征後は「建日別」の肥・熊襲と豐と日向に3分裂した。豊の中臣、日向の大伴、建の伊襲縣主、『三國志』の伊都爾支である。

日向国は東の拘奴の豊国からの分国で、火國(建日別)の分国の始祖の國背()別の子と思われる日向襲津彦が王だったのだろう。諸縣君牛諸井(君牛は君主だろう)の娘は日向國の髪長媛、諸縣は君の中の主がいる日向国の中心国であり、諸縣は諸縣君泉媛から景行天皇が譲られていて、泉媛の父が日向国を命名したのだろう。すなわち、日向髪長大田根も日向襲津彦も拘奴国崩壊後に生まれた人物と解る。『日本書紀』の日向國造の始祖の豐國別は『舊事本紀』には吉備別の祖と記述され、「吉備兒嶋謂建日方別」とあるように拘奴国の分国で襲津彦の東征の軍備補給地の王になっている。すなわち、豐國別の後裔は日向王、更に、吉備王となり、豐國別の妃が泉媛の可能性がある。豐國別の母の御刀媛は筑紫で生まれた時量師神を祀る姫なのだろう。

神武東征は筑紫から「速吸之門」を通過して菟狹に着いた。関門海峡の近辺には曲浦があり、そこが日根別の速日国である。豊前国の京から南にある「狗奴國」の碩田を討伐する際、速見邑があり、速津媛という女王がいた。すなわち、豊前・豊後は速の国だったようであり、東の「拘奴國」の地域に含まれた。豊と日向を奪われて、「狗奴國」は建日別の国、すなわち、肥と熊襲の領域の国となった。その後、南の「狗奴國」は卑弥呼等によって滅亡し、邪馬壹国には對蘇國、蘇奴國、華奴蘇奴國、伊蘇()國が含まれていた。伊都は伊襲縣主が統治した熊襲、建日別国に含まれた国である。

2024年4月5日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『日本書紀』の始祖神1

『日本書紀』には、「開闢之初」と世界が生まれたとき、神聖の国常立が生まれたと記されている。ところが、「聖」は「ヒジリ」、つまり日本人が肥後をそう呼び、その地域の人々を指す。この「聖」の文字は、『山海經』の聖人に関連づけられるものと考えられる。本来、神には名前を必要とせず、海が神とされていただろう。その後、海の神を祀りアマやシマという名で呼ばれるようになり、海の神は天神と呼ばれた。一方、島の神は霊の「チ・シ・ジ・ヂ」である。島の人々のアイデンティティーが異なるため、異なる神々が信仰され、複数の神が存在するようになった。そのため、『古事記』や『日本書紀』では、「次に現れた神」「次に生まれた神」といった順序が示された。本来、祖神は複数ある必要が無いので、支配と被支配の関係と考えられる。

海は一つだが、複数の島があるので、違う島の住人たちは、ある島を自分たちの島の吾島(アマ)に対して吾汝方の「汝」河(ナカ)州や「汝」河(ナカ)国、彼方の「方」()島と呼んでいただろう。それで、但馬の国の神を「タ」の霊、「タチ」と呼んだ。生命を生み出すのは神である母、その子たちは生まれた土地で育ち、母親を尊重し、孫たちは亡くなった祖母を崇拝し、祖母は神として崇められる。

しかし、海から新しく神が来て、その国の土地に居を構える。元々の国の神である常立に加えて、新たな神も常立だ。新しい常立と既存の常立を区別するため、天と国や岐()と神()などが付け加えられて区別される。大伴氏の祖神の高御産巣日は、天から降った天常立ではなく、既存の国常立を祀る氏族だったのだろう。すなわち、『日本書紀』は「状如葦牙」の『古事記』の「如葦牙因萌騰之物而成神」の宇摩志阿斯訶備比古遲と思われる聖の天常立を消し去った。消し去った人物は『日本書紀』を最初に書いた雄略天皇である。

天常立は天から直通の神で、大伴氏の神の高御産巣日神は海から対馬(昼ヶ浦から?洲藻)そして宗像、三国を経由して高島の神になった。高御産巣日は『日本書紀』では國常立、泥土煮、大戸之道、面足、伊弉諾と続き、天照大神と同世代である。『舊事本紀』では伊邪那岐・伊邪那美と同世代、國常立が「二代化生天神」に対して高御産巣日は「七代耦生天神」の世代である。高御産巣日の名前の履歴書に合致する。

2024年4月3日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神4

  天之常立は『舊事本紀』に記述されず、可美葦牙彦舅は記述される。そして、天之常立に替わって、『舊事本紀』に記述されるのが、天祖天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊である。『舊事本紀』には狭土と大戸惑女が記述されているが、狹霧神について記述がない。おそらく、この狹霧神が『舊事本紀』の最初に記述された天祖の狹霧尊なのだろう。『舊事本紀』では、「一代生天神」の神が可美葦牙彦舅であり、美浜の神が物部氏の女系の祖神である可能性がある。美浜近辺には常神(ツネガミ)半島があり、常神社が美浜にもある。常立の生まれた場所のようだ。歴史書において、権力者の祖の神々をどのように位置付けるかが重要であった。

 従って、『舊事本紀』で可美葦牙彦舅と同列に扱われる天御中主も権力者の大連や大臣の姻戚だった可能性がある。葛木氏の葛木襲津彦の妃が阿武郡の奄智君の祖の日向襲津彦の娘で、その母、日向襲津彦の妃が中臣氏だったと私は考えている。日向襲津彦の母は日向髮長大田根、その大田を引き継いだと思われる、大田別の祖の豐門入彦が『舊事本紀』に存在し、安芸に大田別と思われる安芸太田がある。中臣氏の祖は天之(?)「タネ」で、豊門は穴門・長門の事、長門が仲国の発祥地なのだろうか。そして、355年乙卯年三月十五日に崩じた仲国王の帯中日子が葛木襲津彦だったと思われる。川上梟帥から名を譲られたが梟帥は姓で、熊襲日向の津彦、襲津彦が譲られた名だったのだろう。豐門入彦に対して、『日本書紀』と共通する國背()(豊戸別)が火國別の祖、母は()襲武媛で、仲国から分国した日向の王と思われる。97年十月丁酉朔は間違いの日干支で345年がピッタリ当て嵌まる。名を譲られた王が355年崩じた帯中日子だ。 

饒速日は、隠岐の西から船でやって来た。饒速日が祀る神は天祖の「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」であり、饒速日はその神の後裔の天孫である。饒速日は日月の国の対馬から降ってきた狹霧尊を祀っている。「饒」は二岐を意味し、若狭と敦賀を併せて二岐と呼ぶそうで、二岐の日別の速の神である。狹霧は、対馬から国を譲られた神であり、対馬「女子国」は二女王が統治し、月神と日神を祀っている。また、「狭」は岬のことのようで、ここでは、多くの岬がある若狭の岬を指すと考えられる。狹霧尊は、対馬から来た天狹霧であり、もともといた国神であるペア神國狹霧は対馬神の後裔の大山津見が生んだ神だ。

2024年4月1日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 日本 『古事記』の祖神3

宇摩志阿斯訶備比古遲と同じく「別(こと)天神」、天()神から別れた神が『日本書紀』のみに記される「天之常立」なのだろう。後から支配者になった氏族の祖神を前に置いたと考えられる。「天之常立」の立は但馬の「タ」プラス土地神の霊()だろう。常世の国は「田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される地域である。「時香菓」は高麗橘、済州島原産で、萩に群生する橘の事だ。すなわち、「常」は六合の地域を日本人は「トコ」と言い、済州島は常の「ヨ」の国と呼んだのだろう。そして、天はシナ海、黄海、渤海。六合の島々や日本海南岸の常神半島も常に含まれたと考えられる。

隠岐の最初の住人は木の葉比等であり、彼らは西方千里の地から来たとされる。『伊未自由来記』は昭和初期に作成されたものであり、中国の1里は約400mなので、西方千里はおおよそ200㎞の距離だろう。朝鮮半島までは300㎞と遠く、おそらく須佐の高山岬辺りから、木の葉比等や於佐神も同じ地域から来たのだろう。その後、沖津久斯山祇が後を継ぎ、於漏知が出雲を奪い、隠岐にも到来した。於島の山祇は大海祇の力を借りて戦った。その後、出雲鞍山祇の子である大人様が加須屋の大神祇の援助を受けて王になった。加須屋は「三身國」であり、大国は三身の綱で建国された。大神祇は丹波に居住し、丹波の出雲は「大人國」と呼ばれたのだろう。その後、天津神の御子である美豆別之主が於島を征服した。この天津神の御子は三方の常神半島にいた「宇摩志阿斯訶備比古遲」を祀る鹽土老翁から隠岐へ向かうように命じられたのだろう。

美豆別主は天津神の子で、「久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて来島」したとされている。また、天津神は天の津の対馬を支配していたが、天津神の神子の後裔の大山津見の子の狹霧尊が三子島に降り立った。物部氏の神武天皇の幼名が佐野尊、偶然だろうか。美豆別主は別名で「小之凝呂別」とも呼ばれている。隱伎の三子島の別名は「天之忍許呂別」であり、於島すなわち許呂島の分国である。隠岐の島後には黒島が点在しているが、これが許呂の語源と関連している可能性がある。