2024年2月28日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 漢の神

  帝顓頊は「黃帝之孫而昌意之子也」と記述する。さらに、帝嚳は「黃帝之曾孫也高辛父曰蟜極蟜極父曰玄囂玄囂父曰黃帝」と記述する。すなわち、帝顓頊の父は昌意と記述され、少昊ではない。しかし、『山海經』では「少昊之國少昊孺帝顓頊于此」とあるように、帝顓頊は少昊から少昊之國を譲られる。項目の初出の顓頊に帝を付加しないのは、奇異で、孺帝ではなく、乳飲み子の帝顓頊だろう。神格である孺帝なら帝孺と記述するべきだ。帝顓頊の系図は帝嚳に比べて曖昧だ。帝顓頊らは天子なのだから、最高神は天帝である。

 帝堯は朝廷で70年間統治後、帝舜に「令舜攝行天子之政」と政治を任せた。28年後、堯朝は崩壊し、「中國踐天子位焉是爲帝舜」と帝舜が天子に即位した。帝舜は、黄帝、昌意、帝顓頊、窮蟬、敬康、句望、橋牛、瞽叟、そして帝舜の黄帝から9世代の子孫だった。一方、帝堯の系図は黄帝、玄囂、蟜極、帝嚳、そして帝堯の4世代だ。この5世代の差は、約100年に相当する。堯朝が98年間続いたことと整合的である。ここで、帝堯が90年以上帝位にあるのは考えられない。これは数代の帝堯の存在を意味する。その後、「舜乃豫薦禹於天」という記述があり、帝舜は56年の在位期間で禹に天子位を譲った。夏禹は黄帝、昌意、帝顓頊、鯀と継承した鯀の子で、そして、帝堯と同世代である。『山海經』には「黄帝生駱明駱明生白馬白馬是為鯀」と記されている。黄帝5代目の夏禹が9代目の帝舜から天位を譲られるのは矛盾している

 すなわち、帝舜は天帝の末裔であり、夏禹は黄帝の末裔と考えられる。『史記』においては、夏朝も漢朝が龍神である黄帝の子孫の立場としている。しかし、『山海經』には帝顓頊の子孫である帝舜の祖である窮蟬の記述は無い。帝舜の母親についても記されていないが、帝舜は姚姓であることが知られている。姚姓は『山海經』に「帝俊妻娥皇生此三身之國姚姓」と記されており、帝俊の子孫である可能性が高い。帝堯は羲和に歴法を制定させた。「羲和者帝俊之妻」という記述から、帝俊の妃である羲和の子孫であると考えられる。帝俊は三身国王を生み、孫の義均は「是始作下民百巧」と100の技術を考案した。また、「舜子商均」という記述から、帝舜の子である商均も同様に均と名付けられている。商は殷のことである。ただし、帝舜と帝俊は発音が異なり、帝舜は帝堯よりも後の世代に位置し、帝俊の孫は帝堯と同世代である。帝舜は義均の子孫なのだろうか。

2024年2月26日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天帝

 


 

后稷は『山海經』に「帝俊生后稷」と記述されているが、『史記』には帝俊の記述はない。劉邦は「太公往視則見蛟龍於其上」と述べ、龍神の化身であるとされている。また、『南山經之首』には「神狀皆鳥身而龍首」と記述され、この龍神の化身が劉邦と思わせている可能性がある。「糈用稌米」という記述から、米があり、糈を供えて祀っていたことが分かる。『史記』は漢朝の史書であり、最初に黄帝を記述するのは、龍神が黄帝の化身であるとされているためだろう。黄帝は苗龍の親であり、應龍に冀州の野を攻めさせた。周朝の祖は后稷だが、その父である帝俊は記述されていない。帝俊は晏龍の父の龍神でもあり、周朝の始祖を黄帝に書き換えた可能性がある。それは、黄帝の八代後にあたる帝舜と、四代後にあたる夏禹が同時に記述されていることから、矛盾が生じているからである。中国では皇帝を天子と呼ぶことがあり、神である天の子と言い、帝は神であると考えられ、日本の天神と同様の意味を持っている。

『山海經』の冒頭は『南山經』であり、そこには龍神が存在している。この『南山經』には「西海之上」、「會稽之山」、「天虞之山」という地名が記されている。これらは東シナ海に面した地域で、天子が生まれた天民の国が存在した場所と考えられる。次に登場するのは「西山經」で、ここでは「玉山是西王母所居也」と記述されている。これは西王母が住むとされる場所であり、古代に月支国近辺にあった湖の沿岸だった可能性がある。また、『海西經』でも最後に西王母が言及されており、「西南陬以北者」と揚子江から上流と示唆されている。

西王母が住む玉山から50㎞西に「長留之山」があり、少昊が住んでいた。少昊は「少昊孺帝顓頊」と記述されており、帝顓頊の父であり、大壑に子供を置き去りにした。「長留之山」の西80㎞には天山があり、「英水出焉・・・實為帝江也」という記述がある。この場所は天帝の川が流れ出す場所とされている。中国人も日本人も神は海や川、生命が生まれる場所であると思っていると考えられる。さらに、西王母が住む「玉山」から東に60㎞離れた場所に「槐江之山」がある。その文末の「有天神焉其狀如牛而八足二首馬尾其音如勃皇見則其邑有兵」という記述は、天神が軍隊によって王となった牛の化身である皇帝、天帝を表している。神霊が生まれた場所は「六合」と『山海經』は記述している。「六合」は黄海・シナ海・渤海・日本海南部・東部のことと考えられる。この天神は東王父・扶桑大帝なのだろうか。扶桑は鳥取砂丘から北の日本海東部を記述した『海外東經』の「湯谷」の北に位置している。天神の天帝も「六合」で生まれたと考えるべきだろう。

2024年2月23日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神話から歴史へ

  史書にとっての神話は、記述した王朝の拠り所となる神の説話で、氏族によって祖神は異なる。『史記』での「五帝本紀」の黄帝、帝顓頊、帝嚳までが神話と考えられる。これは、その後の帝堯の説話に、例えば「八月西巡狩十一月北巡狩皆如初」とか、「堯立七十年得舜」といった具体的な時期が記述されているからである。これらの時期が記録されていなければ、帝堯の統治がいつ始まり、いつ行われたのかがわからない。

帝堯は、「命羲和敬順昊天數法日月星辰敬授民時」と、羲和に対して歴法の制定を命じた。これは、年や季節、月、日を決め、特定の日付を記録する必要性があったためだろう。農耕が始まり、特定の時期に特定の農作業を行う計画が必要だったからだ。そして、その経験を活かすためには、記録が不可欠だった。中国では、ちょうどその頃に甲骨文字が使われていた。甲骨文字は殷の遺跡から発見されたが、おそらく帝堯の時代には文字が既に使用されていたと考えられる。もちろん、文字は骨や甲羅にだけ刻まれていたわけではないだろう。限られた量しかない甲骨ではなく、竹簡や木簡にも記録され、束ねて保存されていただろう。束ねる際には順序を考慮しており、そうでなければ記録として機能しないからだ。甲骨に文字を刻むことができたのなら、竹や木にも同様に刻むことが可能だったと考えられる。

神話の『山海經』には、「帝俊生后稷・・・稷播百榖始作耕」と記述され、農耕は后稷が始めたとされている。また、「稷之孫曰叔均始作牛耕」ともあり、牛耕は叔均によって初めて行われたとされる。「西周之國」の王の叔均は、帝嚳の元妃の子であり、帝堯と同じ時代に農耕を始めた人物だ。「叔均乃為田祖」という記述からも、田祖とは農業の神である神農氏の可能性が高いと考えられる。しかし、『史記』は叔均には触れず、神農氏や后稷に項を設けていない。漢朝にとって、あまり意味のない神なのだ。

『山海經』には「有都廣之野后稷葬焉 ・・・膏稻膏黍膏稷百榖自生」と記され、后稷が亡くなるまで、自生した稲を食べた。稲を粉にして餅状の糈を作り、「皆用稌糈米祠之」と神に供えられたとされる。糈は調理せずに提供されたようだ。

また、后稷と叔均は叔父甥と関係が深く、叔均は黄帝の子の魃(バツ)に命じて、「令曰神北行先除水道」と北方に行かせ、水路を止めさせた。黄帝と后稷が同じ時代の人物であることが示されている。

后稷は周朝の始祖とされ、その周王朝は天帝の帝嚳から天位を継承したと主張する。しかし、黄帝の末裔であると主張する漢が天位を取り戻した。漢は正統な天帝の継承王朝であると主張している。周と漢は祖神が異なるからである。『史記』は漢朝の主張を記述した書であり、都合の良い神話を記述し、都合の悪い神話は省略されている。『山海經』も中国人にとって都合の良い神話だが、それでも利害関係が少ない遠交近攻の時代の書である。遠方の内容は信頼できる。

2024年2月21日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国3

  『薬師寺東塔の擦管』には「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」と記されており、これが中宮天皇の崩御時期を示している。680年、天豊財の崩御で、天智が完全な最高実力者となった。同年、天武九年十一月四日に、「高麗人十九人返于本土」と高麗に帰った。「是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と、天豊財の葬儀に参加していた者が帰国を20年延期したと記されて奇異である。「建子之月」は11月と合致し、葬儀は十一月四日にあったのだろう。天豊財中宮天皇の葬儀の為の大和への弔問で、帰国記事を葬儀の日付に記述したのである。

高麗使節は斉明天皇六年七月に乙相賀取文が帰国後、天智天皇五年正月に能婁が来日、そして六月帰国以外無かった。高麗滅亡後は帰国しない使節があったが、亡命者の可能性が高い。葬儀に参列した使節が実際に帰国したのは681年、天武十年五月に「高麗卯問歸之」として帰国した。この葬儀の使節の日本訪問は、「遣・・・朝貢」の為の、680年の天武九年五月の「高麗使人卯問等於筑紫」の訪日である。この時期は、筑紫都督のもとに首都が在り、「饗高麗客卯問等於筑紫賜祿有差」と饗応も俸禄も筑紫で行った。

饗応場所の記述がある、天武天皇元年から持統六年まで31回ある。本来饗応場所は決まっているので、記述する必要が無い。しかし、その中の19回が筑紫、飛鳥寺が4回、難波舘が2回と、筑紫が圧倒的だ。しかも、中宮が生存中は筑紫以外で饗応していない。これは、この間天皇が筑紫に滞在した、筑紫が首都だったと考えられる。そして、中宮死後、天皇が畿内に戻ったと考えられる。晩さん会は王が出席することに意味がある。王が出席しない晩さん会を、史書に記述する意味が無い。出席できなかった持統四年には、饗応するよう命じている。

『日本書紀』は77%の朔の日干支が合っていた。もちろん、その77%のうちには23%の間違いの可能性もある。史書は、記述する政権に都合の悪い部分は記述しない傾向がある。足りない情報は他の資料と組み合わせることで補完した。しかし、説得力を持たせるための日付によって、矛盾が生じた。古代には日付を精密に算出することができなかったが、現代では可能である。私たちは複数の資料から朔の日干支を証拠に正確な歴史を示すことができるようになった。そして、この他文献との対比によって新しい歴史を示すことが出来た。

2024年2月19日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国2

『日本書紀』には、650年から670年まで、「即位未幾」や「」で崩御した天皇は存在しない。孝徳天皇の在位は大化と白雉の10年、斉明は7年、天智も10年である。また、短命政権の5年在位の崇峻や2年の用明にはそのような記述がない。しかし、『家伝』には、「俄而崗本天皇崩」、「俄而天万豊日天皇已厭萬機登遐白雲」という記述があり、崗本天皇と天万豊日は短命政権であることが示されている。95%以上が正しい『新唐書』と77%の『日本書紀』、『新唐書』に優位性がある。

『日本書紀』も、存在しない孝徳元年から孝徳十年を記述できないため、白雉年号を使用した。そして、白雉だけでは足りないため、大化年号も使った。この時期の『日本書紀』を記した際、唐も大化の天皇や元正天皇にとっても、蝦夷と入鹿の統治の痕跡を残せなかったのだろう。倭国は670年文武王十年十二月に、「倭國更號日本」と国号が変わった。

648年以降、東夷伝に倭国は記載されない。史書は利害に関わるため、歪めて記述されることがある。従って、利害が無い中国史書や朝鮮史書の日本像が『日本書紀』より正しいと考えられる。逆に、書かれなかった部分には、正しい史実が隠されている可能性がある。書かれなかった蝦夷と入鹿の歴史は、『家伝』の短命な2天皇の間にあった。

『家伝』は俀国、後の日本国の皇統を記述していると思われる。そのため、崗本天皇は智奴王、「崗本天皇崩皇后即位」の皇后は吉備姫と考えられる。「後崗本天皇四年」は俀王の天万豊日の年号と考えられる。664年6月の乙巳の日晦日に郭務悰の指示でクーデターが起こり、嶋皇祖母と大紫蘇我連大臣が殺害された。紫冠を賜った人物は、入鹿と鎌足のみで、入鹿は連も名乗った。物部大臣を弟と記述するが、代理の大臣が2人は奇異で、2代目豊浦大臣蝦の弟、鎌媛の子の入鹿が物部大臣と考えられる。

2024年2月16日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭国1

   磐井が敗れ、その子である筑紫君葛子が粕屋以東を放棄し、倭国は「俀国」と粕屋以東の「倭國」に分裂した。筑紫君の子は火中君と火君であり、俀国の領域は小国で筑後と肥前に限られたようだ。肥後では、『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』が発見され、「獲□□□鹵大王」の記述は、倭国王の上殖葉皇子である可能性が高いと思う。

『舊唐書』は、「日本舊小國併倭國之地」と記述している。日本はもと俀国の旧倭奴国が分裂した国であり、一方の倭国が畿内で政権を掌握した。631年、貞觀五年に、日本国王として倭国が朝貢、唐も来日してきたが、交渉は決裂した。648年、貞觀二十二年には、新羅と唐が同盟し、「又附新羅奉表」として記されている。そして、『新唐書』には「令出兵援新羅未幾孝德死其子天豐財立」とあり、つまり、664年には白村江の戦いでの敗北、天命開別、鎌足のクーデター、郭務悰による九州占領が起きた。クーデターで俀王の崗本天皇が即位したが、「俄而崗本天皇崩」と、わずかで孝徳が崩御し、天豐財が即位した。

 665年、麟徳二年に泰山で仁軌が管理した、「新羅及百濟耽羅倭」の「四国酋長」と唐の皇帝が会談した。日本側の酋長である天皇は中宮天皇の天豐財である。『新唐書』には「孝德即位改元曰白雉」・「未幾孝徳死其子天豐財立」という記述があり、これは実際に会談に参加した人物であるため名を知っていたのだろう。こうして、白雉を建元した孝徳帝が智奴王であったと唐朝は理解したことが分かる。そして、智奴王が崩御し、倭王の蝦夷・入鹿親子が権力を握ったため、『新唐書』がこれを記述しなかったのであろう。これは、天萬豐日が記述されなかったのも、白村江で戦った「筑紫君薩野馬」だったためだろう。

2024年2月14日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』とその後の倭奴国

  倭国は最初、「親魏倭王」と魏の支配下にあった。しかし、286年の泰始二年当時の魏の武帝のもとに「倭人來獻方物」と朝貢したが、それ以降不平不満を持ったようだ。276年、咸寧二年には「東夷八國歸化」とあるように、晋が倭国領と見なしていた八国を併合した。さらに、280年、太康元年には「東夷十國歸化」、282年、太康三年春には「東夷二十九國歸化」と併合して、晋側に47国余が加わった。

『晋書』の四夷傳の三韓の馬韓の条の「咸寧三年復來明年又請」の記述がある。これは百濟を中心とする「馬韓・・・凡五十餘國」の中の47国が含まれていたことを示している。その後、さらに「東夷二十國朝獻」と倭国から20国が離脱したようだ。289年太康十年には「東夷遠三十餘國」と『三國志』の邪馬壹国の国は晋と断絶した。それに対して、同年応神二十年に「都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」とあるように、倭国の一部が畿内政権に加わった。しかし、416年の腆支十二年に、「為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と、百濟が晋の将軍に任命された。それに対抗して、413年、安帝義熙九年の「倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」のように、交流を再開したが、認められなかったようだ。

 倭国は宋朝が興ると国交を回復し、425年には「都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍」のように、百濟を含む倭領と認めさせようとした。しかし、451年には「新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍」とあるように、百濟は含まれなかった。これは百濟が中国に内附しているため、倭領を認めることができなかったからだ。

倭国が主張する支配域は、「海北九十五國」と韓地の95国、「西服眾夷六十六國」と九州の66国、そして「東征毛人五十五國」と中国地方の55国と考えられる。磐井に勝利したなら、「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と述べられ、中国地方の文身國、大漢國まで、旧豊国・仲国の支配を示唆している。

2024年2月12日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』

『山海經・海内東經』によれば、倭は「蓋國在鉅燕南倭北」とされ、蓋州すなわち遼東半島の南、黄海の東部に存在した。蓋は「蓋天地之中」・「華山青水之東・・・至于天」という記述から、天に位置して、山東半島や遼東半島周辺が天地であるとされている。また、「西北海之外赤水之西有天民之國」とあるように、赤水は対馬海流を指しようで、西北海は渤海の西部を示していると考えられる。山東半島の外側、つまりシナ海岸側、山東半島南部に天民の国があり、その子孫が天子になったと考えられる。その対岸には倭人が住んでおり、天草などの韓西岸や九州西岸や島々に存在していたと思われる。

そこに住む人々が、漢の時代に「樂浪海中有倭人・・・分為百餘國」と記述され、百余国が朝貢していた。「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」及び「朝鮮今樂浪郡也」と記述され、これは遼東半島南東部に位置する朝鮮という国を指している。つまり、樂浪海中は黄海の中にある国である。その樂浪海中の百余国が朝貢し、倭人だったと記述する。

そして、西暦57年、建武中元二年には「倭奴國奉貢朝賀・・・倭國之極南界也」と朝貢が行われた。金印は志賀島で発見され、志賀島が南の境界であるとされた。この朝貢は九州の黄海沿岸の30国を倭国が引き連れて朝貢した。「衆夷六十六國」の残りの36国は東の拘奴國と南の狗奴國に属していたと思われる。百余国の残りの34国余は、韓地にあったようである。

「狗奴國」は三笠と周芳娑麼から出撃して奪った八女、菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名である。日向国もその中に含まれる。東の「拘奴國」は神武東征の際に速吸之門の曲浦、菟狹、安藝などと考えられる。

そして、『魏志倭人伝』において、豊国は拘奴國で、豊国の記述が見当たらない。このことから、3世紀の時点では「邪馬壹國」の領域は豊国や大国には及んでいなかったと推測される。つまり、神倭や大倭などの、『古事記』の対象とされる倭と「邪馬壹國」は異なる地域であったと言える。

2024年2月9日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と遺物

  『三國志』の武器と『古事記』の武器は異なるもので、『三國志』の倭奴国では矛が主流であったのに対し、畿内では剣が一般的だった。「其兵有矛楯木弓竹矢或以骨為鏃・・・宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」と祭祀のための矛では無かった。実戦で使い慣れた矛だから役立ち、威嚇にもなる。そして、『後漢書』から『三國志』の時代に、漢や魏の臣下の倭奴國と畿内政権の大倭と熊襲との戦乱が始まった。

すなわち、『古事記』は『三國志』の世界とは一線を画した史書であり、青銅器の分布からも異なる武器の使用が示されている。瀬戸内地域は青銅の剣の出土地帯であり、九州とは異なる傾向が見られる。大国の神話において刀剣が登場することも、考古学的な証拠と合致している。また、武器の分類には長さなどの要素が関わることもあるが、矛と剣は別物として扱われる。

島根で矛と銅鐸がまとまって出土した遺跡があるが、『古事記』には出雲に関する矛や銅鐸の説話は見られない。『出雲風土記』にも矛の記述が無い。実際、現代の島根県は『古事記』の出雲ではない。「大人國」に出雲があり、『山海經』では大人國は(鳥取)砂丘の(東)北方、伊根の経ヶ岬の南にあった。『日本書紀』でも出雲振根は木刀、弟は眞刀であり、出雲で刀剣に関する記述が見られる。『古事記』に登場する矛は祭器としてのものであり、出雲臣たちが東の「拘奴國」との戦いや畿内政権から奪った武器や祭器を埋めた可能性も考えられる。

現代の神器は、天沼矛ではなく草薙剣・草那芸之大刀・天叢雲剣であり、剣と刀を区別していない。また、神事では矛と剣をあいまいにしていない。『古事記』の対象地域は豊国以東の地域であり、豊国は『日本書紀』の中で日臣が得た地域と一致する。『日本書紀』の雄略朝廷は大伴室屋が最高権力者と考えられ、大伴氏の遠祖が日臣である。したがって、『日本書紀』が日臣の神話を使用するのは自然なことだ。

2024年2月7日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の武器

 倭人の武器を『三國志』は、「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃」と記述する。そこで、『古事記』の武器を調査した。同時代と宣言している神功皇后以前の武器を見ると、古事記で剣が13例、刀が65例、矛が15例、劔が5例と、圧倒的に矛の数が少ない。

 「古事記」矛

天沼、其沼、八千神、此八千神、握横刀之手上由気、宇陀墨坂神祭赤色楯、大坂神祭黒色楯、縵八縵・、縵四縵・(2回)、羅木之八尋

「古事記」剣

御佩之十拳(3回)、御佩之十掬(2回)、神度、其前、以納于、自懐出自其胸刺通、自尻刺通、賜草那芸置其美夜受比売之許而

「古事記」 釼

抜其所御佩之十拳、亦取成刃。八尺勾鏡及草那芸、其弟破御佩之十拳、御陵在池之中崗上也

「古事記」刀

人名 16

訓或云麻比、布玉命() 二字以音、於底津石根宮柱布斯理、如先期美阿多波志都、伊古夜能伊毛能美許等、久米能摩伊比売、名荒河弁之女、弁二字以音、苅羽田弁、弟苅羽田

使用例(使用の動詞有り、若しくは、動詞+前置詞有り) 39

著其御前之血、著御本血亦、集御之手上血、因御所生之神者也、御之刃毀、思恠以御之前、取此大、汝所持之生大・生弓矢以而、持其大・弓、取佩頭椎之大、以槽小析其口、解所佩之槽小、齎一横、受取其横之時、問獲其横之所由、専有平其国之横、可降是、此者坐石上神宮也、降此状者、信有横、以是横而献耳、即握横之手上、毎人佩、抜一時打殺也、令作横壱仟口、即作八塩折之槽小、以此小刺殺天皇之寝、其后以槽小為刺其天皇之御頚、作八塩折之槽小授妾、莫動其、作詐、取佩出雲建之解置横而、詔為易、佩倭建命之詐、云伊奢合、各抜其之時、出雲建不得抜詐、抜其而打殺出雲建、所忘其地御

刀の名 7

所斬之名謂天之尾羽張、在都牟刈之大、是者草那芸之大也、其持所切大名謂大量、此名云佐士布都神、先以其御苅撥草、以其御之草那芸剣

祭祀 3

御幣登取持而、布詔戸言祷白而、取持其大神之生大与生弓矢及其天沼琴而

以上

剣・刀等の多くは実際に武器として使用・携帯し、矛は神事で出現する。中国の使者は矛と刀や剣と見間違えたか、省略したのか、見分けがつかないのだろうか。すくなくとも中国ではすべてまとめて矛と言わない。全て中国語、漢字で、刀や剣は矛と全く別物である。

2024年2月5日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の官位

  『古事記』に登場する国と『三國志』に登場する国は、異なる対象を指していたが、共通点がある。それは官位で、對海國や一大國の卑狗、伊都國の爾支、投馬國の彌彌などが挙げられる。つまり、對海(対馬)彦、一大(壱岐)彦、伊都()主、投馬耳となる。『古事記』や『日本書紀』には見られない官位としては、奴國の兕馬觚(しまこ)、不彌國の多模があるが、兕馬觚の「しま」は島(土地神)、国神の意味であり、觚()は子、天国神の子、天子と同じ意味である。多模は「賜う」の官位を与える人の意味だろうか。邪馬壹國の官位は伊支馬、伊島(伊国神)であり、これは伊都に常駐する一大率の役職を指しているのかもしれない。副官の卑奴毋離も、『三國志』は将軍の様で、『日本書紀』は辺境を守る低い身分の扱いである。邪馬壹國王が神官、恐らく他の国々も、王は王妃の巫女と考えられる。

「一」と「伊」はどちらも読みは「」であり、異なる文字で表現されているため、異なる国を指している可能性が高い。当然ながら、壱岐の「壱」は「一」を指している。卑弥呼の名は『日本書紀』では「一国神夏磯姫(イクニカミナツイソ姫)」であり、壹国王になる那珂川の伊都()姫も一大率を意味するのだろう。夏磯姫は「事鬼神道・・・於是共立爲王」と共立され、一国の「魁帥」になったと記述される。

神功皇后は「筑紫橿日宮時・・・更造齋宮於小山田邑」と小山田邑に齋宮を造ったとされる。「猪野皇大神宮」の齋宮の可能性が高い。息長帯日売は4世紀の人物であり、別の若狭の女王の事績と考えられる。『後漢書』に「建大木以縣鼓事鬼神」、『三國志』に「名之爲蘇塗立大木縣鈴鼓事鬼神」と記述される。枝に矛や鏡や瓊を垂らし、そこを境に神域に区切ったとされる「蘇塗」は、二本の木を建てた門や鳥居を連想させる。

小山田邑に対して「穴門」にも山田邑が記述されて、出張所のような扱いである。齋宮を置く山田は、「山」の神を抑えるための宮のようだ。そして、「穴門山田邑」に齋宮を置いた王が「邪馬臺国」王だと考えられる。そして、200年には「穴門山田邑」に齋宮を置いていた王と思われる印岐美が、卑弥呼を女王と認めたと考えられる。『邪馬壹国』は201年に倭奴国の実権を握り、206年に承認されたと考えられる。これにより、東の「拘奴國」だった久努、久努直の祖の物部印岐美(猪君)がよく符合する。

2024年2月2日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代2

  434年、允恭二三年の「爲太子」は、「讃死弟珍立」が記述されるように、珍が皇太子になったことを意味する。その後は、珍の子である濟が継承し、「濟丗子興」とその子の興が後を継ぎ、親子で継承している。その為に「爲太子」がなかったようだ。

401年、履中二年には讃が太子となった。343年、仁徳卅一年には都加使主が皇太子になり、その後阿知使主を名乗ったようだ。阿知使主は289年から400年まで記述され、襲名する役職名と考えられる。阿知使主の王朝は、289年に「來歸焉」と、十七縣を引き連れて畿内政権に帰順した。この時、残りの30余国は別の王朝、おそらくは日向諸縣君として分裂した可能性がある。日向髪長大田根の子の日向襲津彦は『古事記』に記述がなく、代わりに諸縣君牛諸井の娘である髪長媛がおり、諸縣君が襲津彦を賜姓された可能性が高い。熊襲の津の長官である。

それ以前の応神四十年の「立菟道稚郎子爲嗣」には、阿知使主以前の記録がなく、倭国または高千穂王朝の記録しか残っていなかったのだろう。その記録は、『三国史記』の記録と同様だったと考えられる。この記録では、応神の四十年間の倭の王朝が存在し、新しい王朝の王がその40年目に皇太子になったことが示唆される。そして、使主を賜姓された阿知使主がその王朝を名乗り、289年は前王朝の40年目だろう。

前王朝は250年に壹與が皇太子になったが、前の男王では国がまとまらず、卑弥呼の宗家厚鹿文が復権し、市乾鹿文が女王、そして壹與が太子となった可能性がある。同様に、248年は成務四八年、元年は201年で、卑弥呼女王、皇太子は男弟王だった可能性がある。この女王が一國の魁帥である神夏磯媛で、206年には大倭王の皇太子である夏花に承認されたと考えられる。