2023年7月7日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后

 皇后三年春正月丙戌朔戊子の立太子は倭國の臺輿の即位した249年の記事である。しかし、この日干支自体は234年の日干支である。丁度、纏向遺跡から人が消えた時期に符合し、偶然とは思えない。五十功彦が200年に崩じ、纏向天皇太子の忍熊王が破れ、香坂王が纏向天皇になったと思われる。香坂王は八瓜の娘の香余理比賣に婿入りしていたと考えられる。兄弟に吉備之兄日子、弟比賣が存在し、大碓が婿入りした吉備之兄日子と思われる。香坂王は多遅麻を襲名し、後代が輕嶋豐明宮に遷都して印葉を襲名した。印葉は吉備臣の祖の御友別の妹の兄媛を妃にしている。帯中日子はその皇子の中の一人で、その子が吉備上道国造の多佐臣と思われる。『古事記』が八坂之入日賣と妾の子に分けたのは世代が違うからと考えられる。

『舊事本紀』は神功皇后の皇太后即位201年「十月癸亥朔甲子」を202年の「十月丁巳朔甲子」と記述している。202年は卑弥呼の即位日と考えられる。神功皇太后は香坂王多遅麻を排除できなかった。五十琴宿祢が成人していなかったからと思われる。五十琴宿祢に問題がなかったら、五十琴宿祢をすぐに大連にすればよい。そして、皇后三年、実際は234年と思われるが、五十琴宿祢が磐余謂稚櫻宮天皇大連となって、朝廷が分裂した。201年に五十琴宿祢が生まれ、34歳なら、皇太子適齢期の13歳の子がいたと考えられる。天皇は皇太子や皇太弟がいないと即位できず、王朝交代になる。

十三年春二月丁巳朔甲子」「武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」は363年の説話である。息長帯日売が362年の壬戌年六月十一日に薨じ、息長帯日売の生まれた宮に武内宿禰が参拝した。「四十六年春三月乙亥朔遣斯摩宿禰于卓淳國」は370年、百濟肖古王25年である。高句麗故国原王が前年に百濟を侵略したので、日本に援助を求めたと思われる。援助を求められて、日本と呼ばれているのは磐余謂稚櫻宮天皇大連五十琴宿祢である。「七枝刀一口七子鏡一面」の獻上は372年の説話を当て嵌め間違えたと最初は考えた。それは、肖古王の曾孫が生まれた記念に倭王へ送ったと思ったからだ。しかし、百濟の文字使用は375年からなので、符合しない。「奇生聖音」は読経と考えを変え、百濟仏教の始まりの384年と考えた。また、倭王は日本に帰順していたので、石上の物部天皇を祀る神社に奉納した。

日本は中国に対して秦王国と自称し、元号の「秦?」は日本の元号と考えられる。元年にあたる381年に、新羅が国号を変えた理由を述べている。しかし、新羅は503年まで「國名未定」で変える国名がない。新羅は秦之亡人で言葉が秦人の言葉に似ていた。初代新羅王の氏を朴と名付けた(賜姓)のは辰王で、辰王の配下とわかる。朝廷の王に氏は不要である。その辰王が後代秦と記述され、国号が変わった。その国名を使った元号を使うのは当然である。神功六二年、実際は382年、「百濟記云壬午年新羅不奉貴國」に襲津彦が新羅を攻撃した。前年に新羅が「遣衛頭入苻秦貢方物」と中国北朝の前秦に貢献したことに対する報復と考えられる。そして、倭人ではなく、宗主国の日本なので、『三國史記』には記述されていない。

0 件のコメント:

コメントを投稿