2023年7月10日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇前期1

応神天皇は201年には香坂王、すなわち、襲名した多遅麻が即位した。そして、270年から、輕嶋豐明宮大連印葉である。印葉は多遅麻と五十琴彦の娘の安媛との子である。纏向日代宮天皇の香坂王は234年、五十琴宿祢に纏向を追い出された。印葉の父の多遅麻は香坂王と思われ、香坂王の大中比賣の系統の稲依別は吉備上道国造となったと思われる。五十琴彦は胆咋宿祢の子である。五十功彦は三川三保君の祖なので、三川宿祢が五十琴姫の系統の可能性が高い。印葉は胆咋宿祢を継いだ大臣でもある。成務元年に胆咋宿祢が大臣、成務「三年春正月癸酉朔」の「武内宿禰爲大臣」は350年の出来事だった。そして、応神「三十年春正月辛丑朔戊申」の「印葉連公為大臣」は四十年の日干支309年である。すると、胆咋宿祢から継いだ大臣は尾綱根ということになる。尾綱根は、「譽田天皇御世爲大臣」と308年まで大臣、そして、その後、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」と、品太天皇大連となっている。それでは、尾綱根は誰から大臣を継いだのだろうか?

尾綱根の父は建稲種、母は迩波縣君の祖の大荒田の娘、妹は五百城入彦の妃である。稲種は稲田宮主の稲田+根、すなわち、倭得玉彦の別名の大稲日、五百木部連の祖の若都保の家系と思われる。志賀高穴穂天皇の妹の河俣稻依毘賣、実際は稻入毘賣が稻の地に入って稻依毘賣、あるいは娘が、となった可能性が高い。稻入別は忍山宿祢の孫、忍山宿祢の孫の中には稚武彦王、武田王のように建部君の祖がいる。また、参川御使連の祖の佐伯がいる。そして、胆咋宿祢は三川穂國造美巳止直の妹や、阿努建部君の祖の大玉の娘を妃にしている。すなわち、胆咋宿祢の義父の穴太足尼は忍山宿祢である。

五十功彦は三川三保君の祖、母五十琴姫は三川穂國造美巳止直と義兄妹で理に適う。輕嶋豐明宮天皇は吉備臣の祖の御友別の妹を妃に子の仲彦が吉備上道国造になった。また、義兄弟の兄日子の稲速別が吉備下道国造である。稲速別は輕嶋豐明宮の時に国造になったのだから、兄日子の兄弟か義兄弟が輕嶋豐明宮天皇大連を継いでいる。兄日子が稲速別・稻建別なので、親が稻依別と思われる。稻依別の妹の子、すなわち、継いだ輕嶋豐明宮天皇大連印葉は稻依毘賣の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂と思われる

0 件のコメント:

コメントを投稿