2023年7月19日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇1

  輕嶋豐明宮天皇印葉は元年春正月丁亥朔、270年に応神天皇大連に即位した。その間、日觸使主が朝廷を引き継いだと思われる。娘が神の朝廷の女王で、日觸本人は大臣と呼ばれている。磐余には五十琴宿祢が天皇大連に在位していた。400年二月壬午朔に伊莒弗が天皇大連に即位するまで襲名した多遅麻の香坂の娘と五十琴宿祢との子が磐余稚櫻宮で皇位を継承した。伊勢刑部君が輕嶋豐明宮天皇、三川王が磐余稚櫻宮天皇と考えられる。五十琴宿祢の妃は多遅麻を襲名した香坂と香余理比賣の娘と思われる香兒媛を妃にしている。二年春三月庚戌朔の「立仲姫爲皇后」は間違いの日干支である。実際は333年の日干支である。334年正月「八田皇女將爲妃」と関係がありそうだ。

応神天皇三年の「百濟辰斯王立」は385年、尾綱根大連を襲名した、針名根が即位して3年なのだろう。紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰が百濟へ叱責に訪れた。武内宿禰が313年生まれなので、子達は385年なら50歳程度である。応神十六年「的戸田宿禰於加羅も397年の説話と考えられる。的戸田宿禰は襲津彦の子である。その結果、「王與倭國結好以太子腆支爲質」と和解して、皇太子を質にとった。ただし、応神十六年「是歳百濟阿花王薨」は当然404年で、392年の辰斯王薨のまちがいだろうか。

八年春三月の百濟人來朝は「阿花王立」なら392年である。的戸田宿禰が百濟に残って、辰斯王を殺害させて、阿花王に王位を継がせたと考えられる。応神七年「九月時命武内宿禰領諸韓人等作池」、応神九年「遣武内宿禰於筑紫」の記事は大臣を記述していない。すなわち、345年から350年の大臣未就任の時期で、武内宿禰が28から38歳頃の事柄と思われる。

髪長媛の「髪長媛至自日向」の説話は日向の泉長比賣を品太天皇か品陀和気の妃にした説話と思われる。間違った日干支の仁徳二年三月辛未朔戊寅の「日向髮長媛生大草香皇子」は407年の日干支である。大泊瀬が大草香の妹を妃にするので、これでも早いくらいである。そして、この説話を使用したと考えられる。泉長比賣の娘の幡日之若郎女が髪長媛の可能性がある。髪長媛の娘にも波多毘能若郎女がいるからである。

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