2023年7月12日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇前期2

  輕嶋豐明宮天皇大連は稻依毘賣の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。世代から考えると、五十琴彦の娘の安媛が香坂王の妃と思われる。五十琴彦は志賀高穴穂宮天皇の妹の比咩古の子、忍山宿祢の娘の弟媛の子達の一人と考えられる。子達には、武部君の祖の稚武彦、稻入別、波多臣の祖の武養蝅がいる。波多臣は武内宿祢の子の波多八代宿禰が祖である。さらに、阿波君の祖の息長田別、この阿波君は淡海君のことと思われ、淡海臣は波多八代宿禰が祖である。五十日彦と伊賀彦は五十琴彦と五十琴宿祢を思わせる。尾張國丹羽建部君の祖の武田王、これは、建稲種の義父の迩波縣君の祖の大荒田だ。さらに、参川御使連の祖の佐伯、この血筋で、五十功彦が三川三保君の祖となったと思われる。また、武内宿祢は葛城国造の荒田彦の娘を妃にしている。荒田彦は迩波縣君の祖の大荒田の子の可能性が高い。そして、これらの子達が、八坂之入日賣の子達に含まれている。

香坂王の妃と思われる安媛は五十琴彦と三川蘰連の祖の竹古の娘との子で、竹古は佐伯、もしくは、その子の可能性が高い。すなわち、香坂王はおそらく234年に纏向遺跡から伊勢に逃れたと思われる。なぜなら、五十功彦が伊勢刑部君の祖なのだから、香坂王は伊勢刑部君の可能性が高い。伊勢王は倭姫が豐鋤比賣から受け継いだ。伊勢の品遲部君の曙立は大中日子、倭姫の兄弟である。大中日子の子の大江王は伊那毘能若郎女の娘に婿入りして、日子人之大兄と呼ばれたようだ。娘が大中比賣で、伊勢刑部君は大中比賣が倭姫を引き継いだからのようだ。大中日子は十市の義弟の八瓜入日子だった。

八瓜入日子の子の八坂彦は伊勢神麻績連の祖、伊勢太神を祀ったのは五百野である。五百野は三尾氏磐城別の妹の水齒郎媛が生んだ。三尾氏磐城別は三尾君の祖の石衝別王で、妹は石衝毘賣、布多遲能伊理毘賣である。すなわち、五百野は布多遲能伊理毘賣の娘である。布多遲能伊理毘賣は帶中津日子の母だが、帶中津日子は362年に薨じた息長帯日売の夫なので、布多遲比賣と考えられる。布多遲比賣の子は稻依別、すなわち、五百野は稻依毘賣と姉妹と考えられる。すると、五百木之入日子と息長宿禰は義兄弟ということが解る。すなわち、香坂王も息長宿禰と義兄弟で、伊勢麻績を継承した。そして、息長宿禰の許に逃れ、伊勢王の継承者の稻依毘賣の子の大多牟坂、印葉に皇位を継承した。そして、稻依毘賣の夫の息長宿禰の姫が伊勢王を継承し、印葉の兄妹の宮主宅媛、山無媛である。

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