2023年7月24日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇3

  応神十六年の「必由新羅人拒」記事は、364年近肖古王九年の「倭人大敗走」記事の事だろうか。倭の阿知使主が新羅と争い、襲津彦が加戦したが破れ、平群木菟宿禰、的戸田宿禰を追加派遣した。応神廿年九月の阿知使主親子の「並率己之黨類十七縣而來歸焉」は386年頃の可能性がある。辰斯王二年に百濟餘暉が「使持節都督鎮東將軍」に叙せられ、晋が倭との同盟を見直した。後ろ盾を失った倭国が畿内政権を後ろ盾にしようとしたと考えた。しかし、官位は吉師と14位の待遇に怒り、賛が401年に阿知使主から政権を奪って、畿内政権から離反したと思われる。それで、賛は413年に広開土王の薨去に伴い、高麗と和平を結んだ。そして、共に晋に朝貢し、宋が建国すると、421年永初二年に倭讃は「賜除授」と除されて、宋の臣下となった。

応神天皇二五年の「百濟直支王薨」は419年である。応神卅九年春二月の「百濟直支王遣其妹新齊都媛」は直支王十四年415年の「遣使倭國送白綿十匹」の時と思われる。百濟が晋朝の臣下になるには、倭や日本からの外患の心配を無くさなければならなかったと思われる。それで、腆支王五年409年に「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」と倭を優待した。また415年、倭が新羅戦に敗れると、白綿を献上した。そして、日本にも妹を質に送って、腆支王十二年に鎮東將軍に叙せられた。

応神天皇四一年の「阿知使主等自呉至筑紫」記事は応神卅七年二月戊午朔の399年の説話である。兄媛が筑紫國御使君の祖、使主が臣・国王なので、御使君は俀国王朝の祖である。三姉妹も阿知使主の姉妹で、御使君の賛の妃と考えられる。これらは、427年丁卯年八月十五日に薨ずる大雀王の説話である。

応神四十一年二月甲午朔戊申の「天皇崩」は336年の印葉の崩の可能性が高い。『舊事本紀』は正月辛丑朔309年に印葉が大連から大臣に降格したと記述した。輕嶋豐明宮天皇は印葉で、その天皇が二月甲午朔となる年、336年に大臣として崩じたと記述した。309年に皇位を継いだのは印葉と宮主宅媛との子の菟道稚郎子である。菟道稚郎子は完全な即位ができず、天皇は品太天皇大連の尾綱根と記述されている。大山守は山川、すなわち、共に神のことで、伊勢大神を祀ったと思われる。大雀は食國の政を執行、すなわち、臣を従える大臣になれと命令された。すなわち「譽田天皇御世爲大臣」の尾綱根で、菟道稚郎子から皇位を奪取した。

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