2023年7月5日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后前期3

  神功皇后は五十琴姫の子の五十功彦の妃で、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢大連の妹か娘と考えられる。在位は201年から200年以上、五十琴宿祢の子の伊莒弗まで磐余稚櫻宮は継承されている。纏向日代宮天皇多遅麻大連の娘の香兒媛の子が20世代程度継承している。五十琴宿祢の父は膽咋宿祢大臣、母は志賀高穴穂宮天皇の娘の比咩古である。纏向日代宮天皇多遅麻大連は五十琴姫・五十琴彦兄弟によって追放された。

五十功彦は三川三保君の祖なので、三川宿祢、三川女王が五十琴姫の可能性が高い。そして、三川大伴部直の祖の倭宿祢、三河長谷部直の祖の五十狹城入彦が五十琴彦や五十琴宿祢の可能性がある。五十功彦は伊勢刑部君の祖でもあり、五十功彦の子が輕嶋豐明宮天皇印葉大連の妃になったと考えられる。おそらく、大中津比賣の子の香坂、忍熊の子と考えられる。

『舊事本紀』に「攝政元年物部多遅麻連公為大連」と纏向日代宮多遅麻大連が大連になったと記述する。そして、三年に「磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と大連が重複する。すなわち、201年に忍熊が殺害され、纏向日代宮大連に多遅麻が復帰したことを示している。そして、多遅麻の娘は輕嶋豐明宮天皇妃の香室媛で、磐余稚櫻宮大連の五十琴宿祢の妃の香兒媛と思われる。「香」という地域に住んだことを示し、香坂王の兄妹か娘の可能性が高い。すなわち、香坂は兄妹なら輕嶋豐明宮大連印葉とわかる。香室媛は山無媛・宮主宅媛で、復帰した纏向日代宮大連は香坂で、遷都して印葉となった。

その遷都は纏向遺跡から人が消えた240年頃と考えられる。201年から240年頃まで、多遅麻、310年まで印葉を襲名した天皇である。宮主宅媛の娘の女鳥媛は「納雌鳥皇女欲爲妃以隼別皇子」と隼別が伊勢に向かったように、伊勢にいた。すなわち、印葉は後に伊勢に遷ったことが解る。纏向日代宮大連多遅麻、大中日子は、志賀高穴穗宮天皇の妹を妃に迦具漏比賣を生んだ。「香・迦という地域で育った姫で、孫が大中日女で、その子が香坂である。また、品陀和気の妃も迦具漏比賣で娘が忍坂大中比賣である。『日本書紀』では、忍坂大中比賣は若沼毛二俣王が父、すなわち、応神天皇は若沼毛二俣王と記述する。

0 件のコメント:

コメントを投稿