2023年7月21日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇2

 応神十四年からの、「貢縫衣工女」、「百廿縣而歸化」、「阿直岐亦能讀經典」、「習諸典籍於王仁」記事は390年頃の説話と考えられる。百濟には枕流王の時の384年に、「遣使入晉朝貢」と晉に朝貢し、僧摩羅難陁が「佛法始於此」と仏教が入った。応神卅七年二月戊午朔の「遣阿知使主都加使主於呉」は399年の日干支である。390年百濟と倭は高麗と同族の靺鞨を攻めた。翌年、『好太王碑文』「倭以辛卯年來渡海破百残」と百濟は破ったが、倭に勝っていない。それもあって、この時、高麗と紛争になって『好太王碑文』「九年己亥百残違誓與倭和」の記事である。南朝呉の東晋は317年以降419年までである。

『三国史記』、381年に前秦王苻堅が秦韓の衛頭に「卿言海東之事與古不同何耶」と聞いている。海東は日本のこと、前秦と秦韓は陸続きである。そして、秦は衛頭に「亦猶中國時代變革名號改易今焉得同」と国号が同じになったと言った。辰韓の名が変わって、前秦と同じ名の秦韓となった。新羅は宗主国が日本で、503年智證麻立干四年まで、「國名未定或稱斯羅或稱斯盧或言新羅」と国名がなかった。すなわち、国号が変わったのは日本で、辰国・日本から秦国と変わり、前秦と同じ秦を使ったことを述べている。秦の国号は、幡梭皇女や羽田矢代の「はた」だろうか。そして、384年、百濟は「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮禮敬焉佛法始於此」と百濟仏教が始まった。381年、日本が秦に国号を変え、『七支刀』「秦■四年十■月」は秦初四年だろうか、「奇生聖音」は奇跡が生まれる読経であろう。

習諸典籍於王仁」は『古事記』にも記述されている。「和迩吉師」が「論語十卷千字文一卷」を献上した。362年壬戌年六月十一日より後、394年甲午年九月九日以前のことである。息長帯日売の説話は神話性が色濃く、記録というより、言い伝えと思える。しかし、品陀和気は説話が具体的である。論語や千字文という教科書に、阿知使主が家庭教師となって、記録されたと思われる。応神七年秋九月の武内宿禰が韓人池を作った説話も、照古王在位が356から374年である。おそらく、神功五十一年三月の「百濟王亦遣久氐朝貢」の時が有力である。息長帯日売が362年薨、大臣は313年生まれで50歳前、品陀和気はおそらく20歳代なので一番有力だ。

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