2023年7月31日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇前期3

輕嶋豐明宮天皇は印葉、印葉は纏向日代宮天皇多遅麻と五十琴彦の娘の安媛の子である。五十琴彦は膽咋大臣の子で、印葉は309年に大臣に降格した。莵道稚郎子の父の輕嶋豐明宮天皇が崩じ、莵道稚郎子が大臣になったと思われる。莵道稚郎子の母は宮主矢河枝比賣、丸迩の比布禮の意富美(大臣)の娘である。印葉と宮主矢河枝比賣は兄妹だ。すなわち、五十琴彦が膽咋大臣を受け継いで、襲名した多遅麻の香坂が丸迩の比布禮である。

皇位継承は輕嶋豐明宮天皇と建稲種の娘、尾綱根と輕嶋豐明宮天皇の妹が互いに婚姻する。その後、娘婿が誰になるかで決まるが、八田若郎女に婿がいなかった。それで、輕嶋豐明宮天皇の妹の宮主矢河枝比賣の子の莵道稚郎子が後継者となった。また、はじめ、尾綱根は八田若郎女を妃にできず、皇位は品陀(眞若)天皇、その大臣となった。しかし建稲種の娘の品陀妃の金田屋野姫と尾綱根は皇位を奪取した。金田屋野姫の娘の高木之入日賣は『日本書紀』では八尺日賣の娘の高木比賣に含まれた。中日賣はおそらく、五百木比賣、弟日賣はそのままだ。中日賣は葛城国造の妃と思われ、木之荒田郎女が娘である。弟日賣は尾綱根を継承し、三野郎女の夫が弟彦と思われる。木之菟野郎女の夫が意乎巳連武内宿祢で子が木兎宿祢と思われる。品太天皇尾綱根の二・三世代程度の系図だろう。武内宿祢が難波朝開始と同じ313年の生まれである。

そして、350年に八田若郎女を皇后に、武内宿祢が大臣となった。大臣が統治する女国は皇后の夫が大連天皇ではない。『紀氏家牒』に「仕応神・仁徳・履中三代天皇執国政」と405年まで意乎巳連と呼ばれたようだ。難波朝には大連がおらず、実権は比布禮の後継者の丸迩臣の祖の難波根子武振熊が握ったと考えられる。最終的に難波は大別が継承して、品陀和気、大別、伊耶本和気と継承されている。大別と伊耶本和気と水歯別は()兄弟である。考えられるのは兄弟の墨江中王の妃の羽田矢代宿禰の娘の黒媛で、羽田矢代宿禰の義子と思われる。また、大別は丸迩臣比布禮の娘の子、かつ、羽田矢代宿禰の婿で、大雀と交代したのは木兎だ。すなわち、紀伊国造が丸迩臣である。

そして、水歯別は丸迩臣許碁登の娘に婿入りすることで、大別を後継した。また、磐余稚櫻朝天皇伊莒弗は倭國造の祖の比香賀君の娘の玉彦媛を妃にした。大荒田の娘が玉姫とあるように、葛城国造荒田彦の子の曾都毘古の親族と思われ、女国王の娘である。遷都前に丹比柴籬宮天皇は草香幡梭皇女を皇后にして遷都した。草香幡梭皇女が比香賀君の娘の玉彦媛と考えられる。倭國造は女国崩壊後に國造になると思われ、それまでは、羽田矢代宿禰が倭君だったと思われる。

2023年7月28日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇前期2

   291年の輕嶋豐明宮天皇の妃は大帯日子の妃の兄媛の説話だった。兄媛の子の仲彦、すなわち、帯中日子と仲国の王の役職を持ち、稻速別は、吉備小国王を継承し、弟彦は八坂之入日賣の婿になった。葛木氏の御真木入日子は318年に、子の大碓の兄弟の若帯日子は355年に薨じた。若帯日子はおそらく20歳代の313年に建内宿禰の和訶奴氣を生んでいる。従って、稻速別や仲彦、弟彦も若帯日子と同年代、290年頃に生まれたと思われる。仲彦は息長帯日売の夫で、362年以前に薨じたと思われる。そして、品陀和気が394年に薨じているので、年齢的には362年頃の薨は符合する。

兄媛は難波の媛で、父は、吉備に赴任していると記述している。しかし、兄媛の長男の稻速別は難波に住んで兄媛の庇護者と思われる。難波の王は凡河内国造の忌寸で、稻速別はその婿の建稲種と考えられる。建稲種の娘の尾綱真若刀婢は八坂之入日賣の子の五百城入彦の妃になった。建稲種の娘は五百城入彦の子の品陀真若の妃にもなっている。従って、尾綱真若刀婢は建稲種の妹と考えたほうが理に適う。尾綱根は大臣の時、襲名した建稲種、葛城国造の荒田彦本人か義兄弟であった。すなわち、三野国造りの祖の五百城入彦は兄媛の義子ということになる。

建稲種の妃は大荒田の娘で、武内宿祢の義父の葛城国造の荒田彦は大荒田の子の世代である。荒田彦は建稲種本人か義兄弟で、息長帯日売の母の葛城高額比賣は建稲種の義兄妹と考えられる。息長帯日売は輕嶋豐明宮天皇大多牟坂の妹である。兄媛の子の仲彦は息長帯日売を妃に品陀和気が生まれ、「中彦命兒多佐臣」と吉備上道国造の多佐臣である。多佐は韓地の多沙城に赴任したことを意味し、襲津彦は韓地に長く留まった。武内宿祢は天皇の側近、襲津彦は品太天皇尾綱根の甥で大雀の義父だ。

尾綱真若刀婢(恐らく建稲種の妹)は五百城入彦の妃に品陀眞若を生む。建稲種は葛城国造の祖の大荒田の娘を妃に尾綱根と金田屋野姫を生む。品陀眞若は金田屋野姫を妃に高木之入日賣、中日賣、弟日賣を生む。尾綱根の妹が品陀眞若の妃、とすると、記述されていないが、尾綱根の妃は五百木之入日子の妹が妃と考えられ、八尺入日子からつながる三野国造の弟彦が生まれた。八尺入日子、娘の八坂之入日賣、娘の五百木之入日賣、弟彦とつながっている。すなわち、品太天皇尾綱根の妃は品陀眞若の娘の弟日賣、娘が三野郎女で夫が弟彦なのだろう。仲姫は娘に木之荒田郎女が存在し、葛城国造の荒田彦・尾綱根の義子意乎巳の妃と考えられる。すなわち、武内宿禰の妃、曾都毘古の母の葛比売だ。大雀は大酒(大阪)主の娘の弟媛の子の品夜和氣、仲姫の娘に婿入りしたと思われる。また、高木之入日賣は輕嶋豐明宮天皇印葉の子、すなわち、皇位に就かなかった莵道稚郎の妃と考えられる。

2023年7月26日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁徳天皇前期1

難波高津宮天皇大連は存在しない。大別が「難波高津宮天皇御世詔為侍臣」、「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と記述された。丁卯427年に天皇大別が崩じたと記述されている。その代わり、尾綱根が「譽田天皇御世爲大臣」、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大江(?)大連」と記述される。譽田応神天皇大臣、品太(品陀)天皇大臣大連、そして、「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」。尾綱根以降は妃が記述されず、大別も同じく妃が記述されず系図は不明である。しかし、大別は難波高津宮天皇皇后の矢田の叔父の家系、宇遲能和紀郎子が従弟の家系だ。309年に襲名した印葉の宇遲能和紀郎子は尾綱根と皇位継承争いをした。そして、313年に難波高津宮で品太天皇尾綱根大連が即位した。

尾綱根は建稲種と迩波縣君祖大荒田の娘玉姫との子である。「倭國造祖比香賀君女玉彦媛」と、後に倭国造になる家系と同一地域の人物である。襲津彦の祖父の葛城国造の荒田彦は大荒田の子、尾綱根の義兄弟と思われる。葛城高額比賣は葛比売の姉妹か叔母の可能性が高い。また、建稲種は手止與と尾張大印岐の娘との子である。印岐は忌寸で凡河内国造である。すなわち、建稲種は河内王で、子の尾綱根は河内の難波で天皇に即位した。そして、葛城国造の荒田彦は息長帯日売の叔父か従弟である。すなわち、息長帯日売の子の品陀和気は輕嶋豐明宮天皇の皇位継承権をもつ人物となる。

輕嶋豐明宮天皇紀は291年の説話、難波大隅宮で吉備臣の祖の御友別の妹兄媛を記述した。兄媛の子は下道臣の始祖の稻速別、上道臣の始祖の仲彦、三野臣の始祖の弟彦だ。『事本紀』は上道國造が中彦の子、三野國造が弟彦、下道國造が兄彦、亦名稻建別とある。建稲種は丹後国造の祖でもあり、隣接する多遲摩國造の祖を生む稻依毘賣と義兄妹であった可能性が高い。また、吉備上道國造が稻依毘賣の甥の品陀和気の可能性が高い。

三野前國造は八瓜、その後裔は八尺入日子、その娘の八坂之入日賣、その子の若帶日子と続く。八瓜の娘は吉備臣の祖の孫の大碓の妃で、大碓は美濃に封じられ、八尺入日子を受け継いでいる。その後継者が「元封弟彦命次定賜國造」と、元々封じられていた弟彦が三野國造になった。大碓の妃の兄比賣の子は三野の宇泥須和氣の祖で、三野國造・弟彦につながる人物である。大碓と弟比賣の子の弟日子は牟宜都君の祖、すなわち、景行天皇の子の牟宜都君の祖の弟別である。これは、弟別が弟比賣の娘に、稻速別も兄比賣の娘に婿入りし、仲彦は吉備を受け継いだようだ。すなわち、針間之伊那毘能大郎女の子達が、八坂之入日賣の娘たちに婿入りしたことを示している。

2023年7月24日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇3

  応神十六年の「必由新羅人拒」記事は、364年近肖古王九年の「倭人大敗走」記事の事だろうか。倭の阿知使主が新羅と争い、襲津彦が加戦したが破れ、平群木菟宿禰、的戸田宿禰を追加派遣した。応神廿年九月の阿知使主親子の「並率己之黨類十七縣而來歸焉」は386年頃の可能性がある。辰斯王二年に百濟餘暉が「使持節都督鎮東將軍」に叙せられ、晋が倭との同盟を見直した。後ろ盾を失った倭国が畿内政権を後ろ盾にしようとしたと考えた。しかし、官位は吉師と14位の待遇に怒り、賛が401年に阿知使主から政権を奪って、畿内政権から離反したと思われる。それで、賛は413年に広開土王の薨去に伴い、高麗と和平を結んだ。そして、共に晋に朝貢し、宋が建国すると、421年永初二年に倭讃は「賜除授」と除されて、宋の臣下となった。

応神天皇二五年の「百濟直支王薨」は419年である。応神卅九年春二月の「百濟直支王遣其妹新齊都媛」は直支王十四年415年の「遣使倭國送白綿十匹」の時と思われる。百濟が晋朝の臣下になるには、倭や日本からの外患の心配を無くさなければならなかったと思われる。それで、腆支王五年409年に「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」と倭を優待した。また415年、倭が新羅戦に敗れると、白綿を献上した。そして、日本にも妹を質に送って、腆支王十二年に鎮東將軍に叙せられた。

応神天皇四一年の「阿知使主等自呉至筑紫」記事は応神卅七年二月戊午朔の399年の説話である。兄媛が筑紫國御使君の祖、使主が臣・国王なので、御使君は俀国王朝の祖である。三姉妹も阿知使主の姉妹で、御使君の賛の妃と考えられる。これらは、427年丁卯年八月十五日に薨ずる大雀王の説話である。

応神四十一年二月甲午朔戊申の「天皇崩」は336年の印葉の崩の可能性が高い。『舊事本紀』は正月辛丑朔309年に印葉が大連から大臣に降格したと記述した。輕嶋豐明宮天皇は印葉で、その天皇が二月甲午朔となる年、336年に大臣として崩じたと記述した。309年に皇位を継いだのは印葉と宮主宅媛との子の菟道稚郎子である。菟道稚郎子は完全な即位ができず、天皇は品太天皇大連の尾綱根と記述されている。大山守は山川、すなわち、共に神のことで、伊勢大神を祀ったと思われる。大雀は食國の政を執行、すなわち、臣を従える大臣になれと命令された。すなわち「譽田天皇御世爲大臣」の尾綱根で、菟道稚郎子から皇位を奪取した。

2023年7月21日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇2

 応神十四年からの、「貢縫衣工女」、「百廿縣而歸化」、「阿直岐亦能讀經典」、「習諸典籍於王仁」記事は390年頃の説話と考えられる。百濟には枕流王の時の384年に、「遣使入晉朝貢」と晉に朝貢し、僧摩羅難陁が「佛法始於此」と仏教が入った。応神卅七年二月戊午朔の「遣阿知使主都加使主於呉」は399年の日干支である。390年百濟と倭は高麗と同族の靺鞨を攻めた。翌年、『好太王碑文』「倭以辛卯年來渡海破百残」と百濟は破ったが、倭に勝っていない。それもあって、この時、高麗と紛争になって『好太王碑文』「九年己亥百残違誓與倭和」の記事である。南朝呉の東晋は317年以降419年までである。

『三国史記』、381年に前秦王苻堅が秦韓の衛頭に「卿言海東之事與古不同何耶」と聞いている。海東は日本のこと、前秦と秦韓は陸続きである。そして、秦は衛頭に「亦猶中國時代變革名號改易今焉得同」と国号が同じになったと言った。辰韓の名が変わって、前秦と同じ名の秦韓となった。新羅は宗主国が日本で、503年智證麻立干四年まで、「國名未定或稱斯羅或稱斯盧或言新羅」と国名がなかった。すなわち、国号が変わったのは日本で、辰国・日本から秦国と変わり、前秦と同じ秦を使ったことを述べている。秦の国号は、幡梭皇女や羽田矢代の「はた」だろうか。そして、384年、百濟は「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮禮敬焉佛法始於此」と百濟仏教が始まった。381年、日本が秦に国号を変え、『七支刀』「秦■四年十■月」は秦初四年だろうか、「奇生聖音」は奇跡が生まれる読経であろう。

習諸典籍於王仁」は『古事記』にも記述されている。「和迩吉師」が「論語十卷千字文一卷」を献上した。362年壬戌年六月十一日より後、394年甲午年九月九日以前のことである。息長帯日売の説話は神話性が色濃く、記録というより、言い伝えと思える。しかし、品陀和気は説話が具体的である。論語や千字文という教科書に、阿知使主が家庭教師となって、記録されたと思われる。応神七年秋九月の武内宿禰が韓人池を作った説話も、照古王在位が356から374年である。おそらく、神功五十一年三月の「百濟王亦遣久氐朝貢」の時が有力である。息長帯日売が362年薨、大臣は313年生まれで50歳前、品陀和気はおそらく20歳代なので一番有力だ。

2023年7月19日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇1

  輕嶋豐明宮天皇印葉は元年春正月丁亥朔、270年に応神天皇大連に即位した。その間、日觸使主が朝廷を引き継いだと思われる。娘が神の朝廷の女王で、日觸本人は大臣と呼ばれている。磐余には五十琴宿祢が天皇大連に在位していた。400年二月壬午朔に伊莒弗が天皇大連に即位するまで襲名した多遅麻の香坂の娘と五十琴宿祢との子が磐余稚櫻宮で皇位を継承した。伊勢刑部君が輕嶋豐明宮天皇、三川王が磐余稚櫻宮天皇と考えられる。五十琴宿祢の妃は多遅麻を襲名した香坂と香余理比賣の娘と思われる香兒媛を妃にしている。二年春三月庚戌朔の「立仲姫爲皇后」は間違いの日干支である。実際は333年の日干支である。334年正月「八田皇女將爲妃」と関係がありそうだ。

応神天皇三年の「百濟辰斯王立」は385年、尾綱根大連を襲名した、針名根が即位して3年なのだろう。紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰が百濟へ叱責に訪れた。武内宿禰が313年生まれなので、子達は385年なら50歳程度である。応神十六年「的戸田宿禰於加羅も397年の説話と考えられる。的戸田宿禰は襲津彦の子である。その結果、「王與倭國結好以太子腆支爲質」と和解して、皇太子を質にとった。ただし、応神十六年「是歳百濟阿花王薨」は当然404年で、392年の辰斯王薨のまちがいだろうか。

八年春三月の百濟人來朝は「阿花王立」なら392年である。的戸田宿禰が百濟に残って、辰斯王を殺害させて、阿花王に王位を継がせたと考えられる。応神七年「九月時命武内宿禰領諸韓人等作池」、応神九年「遣武内宿禰於筑紫」の記事は大臣を記述していない。すなわち、345年から350年の大臣未就任の時期で、武内宿禰が28から38歳頃の事柄と思われる。

髪長媛の「髪長媛至自日向」の説話は日向の泉長比賣を品太天皇か品陀和気の妃にした説話と思われる。間違った日干支の仁徳二年三月辛未朔戊寅の「日向髮長媛生大草香皇子」は407年の日干支である。大泊瀬が大草香の妹を妃にするので、これでも早いくらいである。そして、この説話を使用したと考えられる。泉長比賣の娘の幡日之若郎女が髪長媛の可能性がある。髪長媛の娘にも波多毘能若郎女がいるからである。

2023年7月14日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇前期3

 大荒田の娘と思われる高額比賣は息長宿禰の妃になって、宮主宅媛を生んだ。また、大荒田の娘の玉姫は建稲種を夫に尾綱根を生んだ。建稲種は葛城国造の荒田彦と考えられる。建稲種の母は尾張邨の大印岐の娘、すなわち、凡河内国造の凡河内忌寸の娘と思われる。そして、荒田彦の娘は若帯日子の子の武内宿祢の妃に襲津彦を生んだ。荒田彦の子、尾綱根の妹の尾綱真若刀婢は伊勢王の五百城入彦の妃、子は品陀真若だ。

 迩波縣君の祖の大荒田は忍山宿祢の娘の弟媛の子の尾張國丹羽建部君の祖の武田王と考えられる。建部君の祖は兄弟の稚武彦、義兄弟の稻依別や稚武王も存在し、倭建の子とされる。しかし、建部君は膽咋大臣の妃に阿努建部君の祖の大玉の娘の鴨が存在する。太玉は忌部首の祖、忌部は紀伊忌部と呼ばれ、古代の紀伊は山背の木国紀伊である。凡河内国造忌寸の忌寸は忌部が支配する木国を意味すると思われ、凡河内国造と大玉は姻戚と思われる。すなわち、大荒田は山背・河内に影響力をもつ葛木国造になった。 

若帯日子は穗積臣の祖の建忍山垂根の娘の弟財郎女を妃に和訶奴氣王を生んだ。そして、輕嶋豐明宮天皇は息長眞若中比賣を妃に若沼毛二俣王を生んでいる。史書で、若沼毛二俣王は天皇になっていない。「正月辛丑朔戊申」、309年と思われる年に印葉は大臣、大国王になった。そして、大臣だった尾綱根は品太天皇大連である。和訶奴氣王は武内宿祢で尾綱根の義兄弟、若沼毛二俣王の可能性が高い。武内宿祢の妃の葛比売は息長帯日売の母の高額比賣の姪、息長眞若中比賣が息長帯日売と考えられる。武内宿祢の母は紀伊国造莵道彦の娘、五百野皇女は弟苅羽田刀辨の孫である。苅羽田刀辨は山背の姫、木国は山背にある。そして、武内宿祢は山代の内臣の首領と考えられる。

すなわち、忍山宿祢か倭建が膽咋大臣で大臣は大荒田が引き継いだと考えられる。印葉天皇は309年に大臣になった。そして、おそらく、「譽田天皇御世爲大臣」の尾綱根が交代した。313年から「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」と天皇大連になった。輕嶋豐明宮天皇が譽田天皇で、後継者の妃は息長眞若中比賣である。建稲種の妹の大臣伊勢王高額比賣の子、すなわち、丸迩之比布禮能意富美の子の宮主矢河枝である。『梁書』に「慧深又云扶桑東千餘里有女國」の伊勢国女王が高額比賣、宮主矢河枝と考えられる。すなわち、倭比賣から続く、神の朝廷である。そして、350年に「意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と武内宿祢が大臣になった。神の朝廷の女王が八田皇后、夫が大萑朝と呼ばれた。

2023年7月12日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇前期2

  輕嶋豐明宮天皇大連は稻依毘賣の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。世代から考えると、五十琴彦の娘の安媛が香坂王の妃と思われる。五十琴彦は志賀高穴穂宮天皇の妹の比咩古の子、忍山宿祢の娘の弟媛の子達の一人と考えられる。子達には、武部君の祖の稚武彦、稻入別、波多臣の祖の武養蝅がいる。波多臣は武内宿祢の子の波多八代宿禰が祖である。さらに、阿波君の祖の息長田別、この阿波君は淡海君のことと思われ、淡海臣は波多八代宿禰が祖である。五十日彦と伊賀彦は五十琴彦と五十琴宿祢を思わせる。尾張國丹羽建部君の祖の武田王、これは、建稲種の義父の迩波縣君の祖の大荒田だ。さらに、参川御使連の祖の佐伯、この血筋で、五十功彦が三川三保君の祖となったと思われる。また、武内宿祢は葛城国造の荒田彦の娘を妃にしている。荒田彦は迩波縣君の祖の大荒田の子の可能性が高い。そして、これらの子達が、八坂之入日賣の子達に含まれている。

香坂王の妃と思われる安媛は五十琴彦と三川蘰連の祖の竹古の娘との子で、竹古は佐伯、もしくは、その子の可能性が高い。すなわち、香坂王はおそらく234年に纏向遺跡から伊勢に逃れたと思われる。なぜなら、五十功彦が伊勢刑部君の祖なのだから、香坂王は伊勢刑部君の可能性が高い。伊勢王は倭姫が豐鋤比賣から受け継いだ。伊勢の品遲部君の曙立は大中日子、倭姫の兄弟である。大中日子の子の大江王は伊那毘能若郎女の娘に婿入りして、日子人之大兄と呼ばれたようだ。娘が大中比賣で、伊勢刑部君は大中比賣が倭姫を引き継いだからのようだ。大中日子は十市の義弟の八瓜入日子だった。

八瓜入日子の子の八坂彦は伊勢神麻績連の祖、伊勢太神を祀ったのは五百野である。五百野は三尾氏磐城別の妹の水齒郎媛が生んだ。三尾氏磐城別は三尾君の祖の石衝別王で、妹は石衝毘賣、布多遲能伊理毘賣である。すなわち、五百野は布多遲能伊理毘賣の娘である。布多遲能伊理毘賣は帶中津日子の母だが、帶中津日子は362年に薨じた息長帯日売の夫なので、布多遲比賣と考えられる。布多遲比賣の子は稻依別、すなわち、五百野は稻依毘賣と姉妹と考えられる。すると、五百木之入日子と息長宿禰は義兄弟ということが解る。すなわち、香坂王も息長宿禰と義兄弟で、伊勢麻績を継承した。そして、息長宿禰の許に逃れ、伊勢王の継承者の稻依毘賣の子の大多牟坂、印葉に皇位を継承した。そして、稻依毘賣の夫の息長宿禰の姫が伊勢王を継承し、印葉の兄妹の宮主宅媛、山無媛である。

2023年7月10日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 応神天皇前期1

応神天皇は201年には香坂王、すなわち、襲名した多遅麻が即位した。そして、270年から、輕嶋豐明宮大連印葉である。印葉は多遅麻と五十琴彦の娘の安媛との子である。纏向日代宮天皇の香坂王は234年、五十琴宿祢に纏向を追い出された。印葉の父の多遅麻は香坂王と思われ、香坂王の大中比賣の系統の稲依別は吉備上道国造となったと思われる。五十琴彦は胆咋宿祢の子である。五十功彦は三川三保君の祖なので、三川宿祢が五十琴姫の系統の可能性が高い。印葉は胆咋宿祢を継いだ大臣でもある。成務元年に胆咋宿祢が大臣、成務「三年春正月癸酉朔」の「武内宿禰爲大臣」は350年の出来事だった。そして、応神「三十年春正月辛丑朔戊申」の「印葉連公為大臣」は四十年の日干支309年である。すると、胆咋宿祢から継いだ大臣は尾綱根ということになる。尾綱根は、「譽田天皇御世爲大臣」と308年まで大臣、そして、その後、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」と、品太天皇大連となっている。それでは、尾綱根は誰から大臣を継いだのだろうか?

尾綱根の父は建稲種、母は迩波縣君の祖の大荒田の娘、妹は五百城入彦の妃である。稲種は稲田宮主の稲田+根、すなわち、倭得玉彦の別名の大稲日、五百木部連の祖の若都保の家系と思われる。志賀高穴穂天皇の妹の河俣稻依毘賣、実際は稻入毘賣が稻の地に入って稻依毘賣、あるいは娘が、となった可能性が高い。稻入別は忍山宿祢の孫、忍山宿祢の孫の中には稚武彦王、武田王のように建部君の祖がいる。また、参川御使連の祖の佐伯がいる。そして、胆咋宿祢は三川穂國造美巳止直の妹や、阿努建部君の祖の大玉の娘を妃にしている。すなわち、胆咋宿祢の義父の穴太足尼は忍山宿祢である。

五十功彦は三川三保君の祖、母五十琴姫は三川穂國造美巳止直と義兄妹で理に適う。輕嶋豐明宮天皇は吉備臣の祖の御友別の妹を妃に子の仲彦が吉備上道国造になった。また、義兄弟の兄日子の稲速別が吉備下道国造である。稲速別は輕嶋豐明宮の時に国造になったのだから、兄日子の兄弟か義兄弟が輕嶋豐明宮天皇大連を継いでいる。兄日子が稲速別・稻建別なので、親が稻依別と思われる。稻依別の妹の子、すなわち、継いだ輕嶋豐明宮天皇大連印葉は稻依毘賣の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂と思われる

2023年7月7日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后

 皇后三年春正月丙戌朔戊子の立太子は倭國の臺輿の即位した249年の記事である。しかし、この日干支自体は234年の日干支である。丁度、纏向遺跡から人が消えた時期に符合し、偶然とは思えない。五十功彦が200年に崩じ、纏向天皇太子の忍熊王が破れ、香坂王が纏向天皇になったと思われる。香坂王は八瓜の娘の香余理比賣に婿入りしていたと考えられる。兄弟に吉備之兄日子、弟比賣が存在し、大碓が婿入りした吉備之兄日子と思われる。香坂王は多遅麻を襲名し、後代が輕嶋豐明宮に遷都して印葉を襲名した。印葉は吉備臣の祖の御友別の妹の兄媛を妃にしている。帯中日子はその皇子の中の一人で、その子が吉備上道国造の多佐臣と思われる。『古事記』が八坂之入日賣と妾の子に分けたのは世代が違うからと考えられる。

『舊事本紀』は神功皇后の皇太后即位201年「十月癸亥朔甲子」を202年の「十月丁巳朔甲子」と記述している。202年は卑弥呼の即位日と考えられる。神功皇太后は香坂王多遅麻を排除できなかった。五十琴宿祢が成人していなかったからと思われる。五十琴宿祢に問題がなかったら、五十琴宿祢をすぐに大連にすればよい。そして、皇后三年、実際は234年と思われるが、五十琴宿祢が磐余謂稚櫻宮天皇大連となって、朝廷が分裂した。201年に五十琴宿祢が生まれ、34歳なら、皇太子適齢期の13歳の子がいたと考えられる。天皇は皇太子や皇太弟がいないと即位できず、王朝交代になる。

十三年春二月丁巳朔甲子」「武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」は363年の説話である。息長帯日売が362年の壬戌年六月十一日に薨じ、息長帯日売の生まれた宮に武内宿禰が参拝した。「四十六年春三月乙亥朔遣斯摩宿禰于卓淳國」は370年、百濟肖古王25年である。高句麗故国原王が前年に百濟を侵略したので、日本に援助を求めたと思われる。援助を求められて、日本と呼ばれているのは磐余謂稚櫻宮天皇大連五十琴宿祢である。「七枝刀一口七子鏡一面」の獻上は372年の説話を当て嵌め間違えたと最初は考えた。それは、肖古王の曾孫が生まれた記念に倭王へ送ったと思ったからだ。しかし、百濟の文字使用は375年からなので、符合しない。「奇生聖音」は読経と考えを変え、百濟仏教の始まりの384年と考えた。また、倭王は日本に帰順していたので、石上の物部天皇を祀る神社に奉納した。

日本は中国に対して秦王国と自称し、元号の「秦?」は日本の元号と考えられる。元年にあたる381年に、新羅が国号を変えた理由を述べている。しかし、新羅は503年まで「國名未定」で変える国名がない。新羅は秦之亡人で言葉が秦人の言葉に似ていた。初代新羅王の氏を朴と名付けた(賜姓)のは辰王で、辰王の配下とわかる。朝廷の王に氏は不要である。その辰王が後代秦と記述され、国号が変わった。その国名を使った元号を使うのは当然である。神功六二年、実際は382年、「百濟記云壬午年新羅不奉貴國」に襲津彦が新羅を攻撃した。前年に新羅が「遣衛頭入苻秦貢方物」と中国北朝の前秦に貢献したことに対する報復と考えられる。そして、倭人ではなく、宗主国の日本なので、『三國史記』には記述されていない。

2023年7月5日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后前期3

  神功皇后は五十琴姫の子の五十功彦の妃で、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢大連の妹か娘と考えられる。在位は201年から200年以上、五十琴宿祢の子の伊莒弗まで磐余稚櫻宮は継承されている。纏向日代宮天皇多遅麻大連の娘の香兒媛の子が20世代程度継承している。五十琴宿祢の父は膽咋宿祢大臣、母は志賀高穴穂宮天皇の娘の比咩古である。纏向日代宮天皇多遅麻大連は五十琴姫・五十琴彦兄弟によって追放された。

五十功彦は三川三保君の祖なので、三川宿祢、三川女王が五十琴姫の可能性が高い。そして、三川大伴部直の祖の倭宿祢、三河長谷部直の祖の五十狹城入彦が五十琴彦や五十琴宿祢の可能性がある。五十功彦は伊勢刑部君の祖でもあり、五十功彦の子が輕嶋豐明宮天皇印葉大連の妃になったと考えられる。おそらく、大中津比賣の子の香坂、忍熊の子と考えられる。

『舊事本紀』に「攝政元年物部多遅麻連公為大連」と纏向日代宮多遅麻大連が大連になったと記述する。そして、三年に「磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と大連が重複する。すなわち、201年に忍熊が殺害され、纏向日代宮大連に多遅麻が復帰したことを示している。そして、多遅麻の娘は輕嶋豐明宮天皇妃の香室媛で、磐余稚櫻宮大連の五十琴宿祢の妃の香兒媛と思われる。「香」という地域に住んだことを示し、香坂王の兄妹か娘の可能性が高い。すなわち、香坂は兄妹なら輕嶋豐明宮大連印葉とわかる。香室媛は山無媛・宮主宅媛で、復帰した纏向日代宮大連は香坂で、遷都して印葉となった。

その遷都は纏向遺跡から人が消えた240年頃と考えられる。201年から240年頃まで、多遅麻、310年まで印葉を襲名した天皇である。宮主宅媛の娘の女鳥媛は「納雌鳥皇女欲爲妃以隼別皇子」と隼別が伊勢に向かったように、伊勢にいた。すなわち、印葉は後に伊勢に遷ったことが解る。纏向日代宮大連多遅麻、大中日子は、志賀高穴穗宮天皇の妹を妃に迦具漏比賣を生んだ。「香・迦という地域で育った姫で、孫が大中日女で、その子が香坂である。また、品陀和気の妃も迦具漏比賣で娘が忍坂大中比賣である。『日本書紀』では、忍坂大中比賣は若沼毛二俣王が父、すなわち、応神天皇は若沼毛二俣王と記述する。

2023年7月3日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神功皇后前期2

  息長帯日売の父は息長宿禰、遠津臣の娘の高材比賣の子で、豐鋤入日賣の母も遠津氏の娘の年魚目目微比賣である。そして、豐鋤入日賣の母の年魚目目微比賣は木國造の荒河刀辨の娘の子である。息長宿禰の父の迦迩米雷は叔父の伊理泥の娘を妃にした。迦迩米雷の父の山代之大筒木眞若の母も妃も意富阿麻比賣の姉妹である。すなわち、迦迩米雷の妃の伊理泥の娘が息長の氏を受け継いだことが解る。伊理泥は名から判断すると、息長水依の子の神大根の婿の可能性が高い。その娘を迦迩米雷が妃にして、子の息長宿禰が息長を継承した。息長宿禰の母は木國造の荒河刀辨の娘の子なので、大國の淵の娘の弟苅羽田刀辨の可能性が高い。迦迩米雷は弟苅羽田刀辨の娘に婿入りし、石衝別と呼ばれたと思われ、子が息長宿禰である。そして、石衝別の妹の布多遲比賣と意富多牟和氣との子が稻依別である。息長帯日売の父は成務天皇、仲哀天皇と義兄弟にあたると思われる。

『舊事本紀』は、『古事記』が実の兄弟ではないとする稻依別と帯中日子が兄弟と記述する。すなわち、『古事記』の細かな血縁関係を、『舊事本紀』は纏め上げて、義兄弟、甥、まで兄弟と記述している。数世代を兄弟に纏め上げているのである。『舊事本紀』の倭建の妃は布多遲能伊理毘賣と大吉備建(吉備穴戸武姫)比賣と弟()比賣に集約している。すなわち、布多遲比賣は布多遲能伊理毘賣の娘の可能性が高い。また、帯中日子は意富多牟和氣の義兄弟である。そして、稻依別が武部君の祖だが、弟の稚武が近江武部君である。首都近江の武部君だから、稚武が長男、すなわち、稻依別は稻依毘賣の夫の息長宿禰と考えられる。さらに、弟媛の子達に、武部君の祖の稚武彦、尾張國丹羽建部君の祖の武田が存在する。これは、布多遲比賣の子と弟橘比賣の子の間で婚姻したことを示す。そして、弟橘比賣の子に稻入別や息長田別が存在し、これが、稻依毘賣の義兄弟や夫と考えると、理に適う。すなわち、稚武彦もしくは息長田別が息長宿禰の可能性がある。息長田別は阿波君の祖であるが、阿波君は高屋阿波良姫の阿波、琵琶湖の阿波だ。すなわち、淡海君の祖、屋主忍男武雄心、すなわち、若帯日子の可能性がある。

武部君の祖の中に、尾張國丹羽建部君の祖の武田王が存在した。建稲種の義父の迩波(丹羽)縣君の祖の大荒田も同系統である。子は尾綱根、品太天皇の大連である。また、武内宿祢の妃で、襲津彦宿祢の母の葛比売は葛城国造荒田彦の娘である。尾綱根と武内宿祢は同世代なのだから、この荒田彦は大荒田の子と思われる。そして、大荒田は葛城高額比賣と兄妹、稻依毘賣は義兄妹なので大荒田は稻入別・稻依別・稻依毘賣の兄妹の武田王に組み込まれたと考えられる。政権交代は建稲種の娘と稻依毘賣の子との婚姻で、建稲種の娘の子が天皇となる。葛木近辺に首都が在って、その後、難波に遷都した。遷都したあと、そこの国造なのだから荒田彦は天皇の家系で、尾綱根、襲津彦は皇位継承権を当然持つ。