2023年5月1日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 孝霊天皇

  葛木彦が黒田廬戸宮で大倭根子・天皇に即位した。大倭根子は『続日本紀』にも、「大倭根子天之廣野日女」、「近江大津宮御宇大倭根子天皇」と記述する。文武朝廷の前の持統天皇と皇祖と呼ぶ天智天皇の職位である。初めて、天皇と呼べる人物が誕生した。廬戸宮は師木にある。恐らく、忍人の子の次代忍人に娘が無かったと思われる。そこで、先代忍人の妹の忍日女と葛木氏の師木津彦の娘が次代忍日女。その忍日女を皇后にしたのが、先代忍人の子の天戸目。そして、天戸目が皇位を継承した。先代の天忍人の弟の天忍男は、剱根の娘に婿入りして、葛木彦・葛木王になった。葛木彦の子は天戸目の妹の忍鹿比賣、すなわち、天忍人・葉江の娘の長媛を妃にした。天皇天戸目は葛木彦の娘の葛󠄀木避姫を皇后にした。そして、天皇師木縣主天忍人の娘の長媛・忍鹿比賣を妃にした葛木彦は皇位継承権を持った。葛木彦の娘を天皇天戸目が皇后にし、その娘細媛を皇后とする夫の孝霊天皇が葛木彦の孫である。細媛は「師木縣主大目之女」と首都師木の縣主天皇、後の大国王の大目の娘と記述されている。

 そして、天戸目の子の建斗禾は十市縣主、氏が建氏となった。『紀氏家牒』に「紀武内宿祢一或産二紀伊国一故名」と武内宿祢が紀伊国と命名したと記述される。従って、紀伊國造の紀伊はまだ無く、「山背國紀伊邑」の紀伊と思われる。それで、建斗禾は珍彦の子孫の木国造の智名曽の妹の中名草姫を妃にした。木国造は先々代の天皇の大神氏・建氏も娘の名草姫の婿である。中名草姫の子に手和迩、名草姫の孫は和迩君と、和迩氏の発祥が珍彦である。『古事記』木國造の祖の宇豆比古の娘の子が建内宿禰で、葛城襲津彦の父だ。

 前291年、「九月甲午朔丙午」に前天皇を埋葬し、「十二月癸亥朔丙寅」に廬戸宮を開いた。前290年、「正月壬辰朔癸卯」に葛木彦が即位した。忍日女が皇太后である。前289年、「二月丙辰朔丙寅」に細媛を皇后にした。

 葛木氏の『古事記』には日干支の紀年の記録を記述せず、紀年の記録を持っていなかったことが解る。しかし、孝昭・孝安・孝霊天皇と、正しい日干支の紀年が記述された。すなわち、紀年を記録したのは、朝廷ではなく、特定の宮が記録し保管したことを示す。正しい日干支の紀年は神武東征以前から残っていた。従って、九州の紀年の記録は高千穂宮にあり、珍彦が畿内に持って来て、宮柱を建てた宇迦能山の宮、そして、正しい紀年の須賀宮である。そして、葛木氏の宮には記録が無いので、建甕槌が須賀宮の記録を伊勢幡主に持ち込んだと思われる。そして、その伊勢幡主の記録が御井宮に保管され、記録を継続したと思われる。ところが、天忍人・波延の娘や妹が、皇太后や皇妃として、師木に移住した。そして、建斗禾が宇迦能山の王家と姻戚になった。それで、珍彦が高千穂宮の方法で始めた宇迦能山の記録を利用することになったと考えられる。その為、前215年、「二月丙午朔癸丑」の孝霊朝の崩壊の記録は晦が朔の九州の記録となった。


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