2023年5月22日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇1

   『舊事本紀』にとっては大連が天皇で、垂仁天皇が大新河だったと記述した。大新河が垂仁「二十三年秋八月丙申朔丁巳」に「大連之號始起此時」と、大連の初代になったと記述している。ところが、崇神「六十五年春正月武諸隅命為大連」、「羸津世襲・・・池心朝御世為大連」と矛盾している。八月丙申朔は正しくない朔で間違った嵌め込み、前193年が当てはまる。孝元紀の内色許男が大臣の頃の年なら、武諸隅よりかなり前に大連就任だ。そして、大新河が襲名した初代御眞津日子・羸津世襲 ・御真木入日子と考えてみる。それなら、 葛木彦の羸津世襲・御眞津日子が襲名して葛木氏の天皇の大倭根子であると考えられ、理解はできる。羸津世襲が初代大新河で、内色許男の娘の伊迦賀色許賣を妃に比古布都押之信が生れる。そして、内色許賣の子の大毘古は大綜杵の娘の伊迦賀色許賣を妃に、御眞津比賣が生れる。すなわち、比古布都押之信は大毘古の娘の御眞津比賣を妃にし、御眞津比賣の夫は御真木入日子である。すなわち、御眞津比賣の兄妹の御真木入日子の名を襲名し、その子が大新河の子の伊香色雄と考えられる。伊香色雄は皇位を倭得玉彦に譲ったので、大連ではない。このように、前193年に大新河を襲名し、初代物部天皇の大連になったと考えられる。

  大新河の母は山代縣主の娘、比古布都押之信の子が山代の内臣の祖である。山代の内臣の祖の味師内宿禰と山代縣主は姻戚と考えるのが理に適い、伊久米伊理毘古の子の大帯日子は建内宿禰、若しくは、襲名した子と考えられた。そして、御真木入日子は荒河刀辨の娘を妃に、大新河も荒河刀辨の娘を妃にしている。荒河刀辨は木國造、木國造の娘と思われる節名草姫の子が尾張氏の建諸隅である。尾張氏の建諸隅は腋上池心宮の大臣で、大臣は天皇に次ぐ権力者だ。そして、木國造の娘の子は「和迩君」の祖や「手和迩」がいる。そして、「丸迩臣」の祖の妹の子が坐王、節名草姫の孫が倭得玉彦である。さらに、大新河の子が武諸遇で崇神六十五年に大連になっている。すなわち、葛木彦の家系が物部氏と交差して、大連を継承した、大新河だったと考えられる。

 崇神六十五年、前30年に、武諸遇の孫の豐木入日子が淡海朝廷の天皇、妹の豐鋤比賣が伊勢大神宮を祀って、朝廷が分裂した。大新河の師木朝廷を継承したのが大伊賀姫の夫の倭得玉彦。そして、倭得玉彦の叔母(恐らく従妹)の意祁都比賣・意富阿麻比賣と(恐らく従弟の)建諸隅。意富阿麻比賣の子の美知能宇斯、その子の氷羽州比賣。氷羽州比賣の子の印色入日子と大中姫兄弟が継承したと思われる。また、垂仁八十一年の「二月壬子朔」の十市根が「賜姓物部連」と物部氏に賜姓されて大連になったと記述される。しかし、この朔の日干支は違っていて、前30年の可能性が高い。前33年に武諸遇が分朝廷を開き、残った師木朝廷を前30年に大連として継承した。そして、前29年垂仁天皇元年に正式に即位したと考えられる。そして、大新河も纏向珠城宮で「賜物部連公姓」と分裂した朝廷が、互いに、物部連の姓を与えた。天皇には姓が無いのだから当然だ。


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