2023年5月12日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 開化天皇2

  開化天皇の兄弟に、比古布都押之信という人物がいる。比古布都押之信は尾張連の祖の竟富那毘の妹の葛城高千那毘賣を妃にする。竟富那毘は孝元天皇天戸目の子の建斗米の子の建宇那比、妹は宇那比姫である。しかし、孝元天皇の子の比古布都押之信とは年代が合わない。そのため、尾張連の祖の奧津余曾・葛木彦を引き継ぐ建宇那比の子の建諸隅の妹の大海姫、亦の名、葛󠄀木髙名姫のことかと思われる。奧津余曾も大海姫も尾張連の祖と記述されている。比古布都押之信は木國造の祖の宇豆比古の妹を妃に、建内宿禰を生む。すなわち、孝霊天皇の子の比古布都押之信の妃が崇神天皇の妃の大海姫?。当然同一人物では理に適わない。葛木氏は比古布都押之信を襲名して、襲名した建諸隅の妹を妃にしたと思われる。それに対し、襲名した比古布都押之信の兄弟の葛󠄀木直祖大諸見足尼の妹の諸見巳姫が建諸隅の妃となったと思われる。諸見巳も諸隅も諸神の意味、諸神子・諸津神と考えられる。

 同様に、建内宿禰は『古事記』で若帯日子・帯中日子・品陀和気・大雀で説話が記述される。開化天皇と同時代の人物の子なのに、崇神・垂仁・景行の時代を飛ばして記述されている。さらに、同様に、建内宿禰の子の葛城曾都毘古は大雀の義父で、建内宿禰は大雀の義祖父だ。葛城曾都毘古の子の葦田宿禰は伊耶本和気の義父である。伊耶本和気は兄弟の允恭天皇が450年頃崩じているので、390年頃の生れである。すなわち、葦田宿禰は370年頃、葛城曾都毘古は350年頃なので、建内宿禰は330年頃の生れと言う事である。

 建内宿禰の子の木菟宿禰は、『日本書紀』で応神天皇時から記述される。建内宿禰の兄弟の甘美内宿禰も同様に応神天皇時に記述される。『日本書紀』の応神天皇は辰斯王殺害を応神三年に記述し、実際は392年だった。すなわち、この頃に建内宿禰の子達が活躍した可能性が高い。そして、375年の百濟肖古王薨が神功皇后55年に記述され、321年が元年の王朝が存在する。この王朝が建内宿禰を大臣にした王朝の可能性が高い。そして、『日本書紀』は建内宿禰が生れたのが、大足彦三年「二月庚寅朔」の時と記述している。しかし、この日干支は間違いで、321年2月1日が庚寅で、この年なら理に適っている。『古事記』の天皇の崩御の日付が始まるのが、御真木入日子の戊寅年十二月である。『日本書紀』の辛卯年と異なる。『古事記』は王の紀年が記述されていない。なので、戊寅年十二月はいつの戊寅年なのか特定できないのに使用している。すなわち、干支だけでは日付は特定出来ない。特定できるのは、間隔が60年以内の時に特定できる。すなわち、『古事記』の崩御間隔は60年以内と解る。従って、『古事記』の最後の推古天皇戊子年628年から遡ると、318年が戊寅年である。この時崩御した王の子の兄弟が推古天皇の一族の王朝を引き継いだことが解る。

 すなわち、大足彦が318年に襲名した比古布都押之信と述べている。忍代別は息長氏の支配地の忍坂にある社の王朝の分家と考えられ、恐らく、321年に建内宿禰を大臣にした。その、大臣にしたのが若帯日子である。従って、若帯日子は屋主忍男武雄心を襲名した人物で、建内宿禰が大臣すなわち大国王になった。それで、屋主忍男武雄心が父と『日本書紀』は理解した。建内宿禰が『古事記』では宇豆比古の妹の山下影日賣、『紀氏家牒』では「紀伊国造道彦之女」だ。すなわち、生駒生れの襲名した比古布都押之信・大帯日子が、若帯日子、帯中日子の分家をつくったと考えられる。

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