2023年5月17日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇2

  前97年、「春正月壬午朔甲午」に倭得玉彦・坐王が野洲王朝の天皇になったと思われる。それに対して、「二月辛亥朔丙寅」の「御間城姫爲皇后」、前94年、「十月庚申朔壬午」の「共安天下不亦可乎」の宣言は正しい日干支ではない。その他の暦のある記述の多くが正しくない日干支である。また、前91年、「二月丁丑朔辛卯」の、「八月癸卯朔己酉」、前90年、「夏四月庚子朔乙卯」、「十二月丙申朔乙卯」の大田田根子説話は正しい日干支である。しかし、前91年、「十一月丁卯朔己卯」の説話は正しくない朔の日干支で、伊香色雄と共に記述された説話である。しかし、同じ物部氏の穗積臣の遠祖の大水口宿禰の説話は正しい日干支だ。穗積臣は内色許男が祖で、伊香色雄は甥にあたる。

 違いは、伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にし、木国の影響下にいた。木国は珍彦の暦を使用している。すなわち、この頃は、木国の九州の暦を使う勢力と天文学的に正しい暦を使う勢力が混在した。そして、前86年の「三月丁丑朔丁亥」の「朕初承天位」、「九月甲辰朔己丑」の「御肇國天皇」は正しい朔だ。すなわち、この政権は正しい朔を使う政権でである。「猶不受正朔」と正しい朔でないと不満を述べて、侵攻した政権は正しい朔を用いる政権であった。

 すなわち、前88年の三道侵攻の、大毘古の高志道、沼河別の東方十二道は本来正しい朔を用いる地域に侵攻した。だから、大毘古達の侵攻は倭得玉彦・坐王にとっては侵略であった。すると、丹波道の侵攻は、大毘古達の出撃中に、坐王が侵攻し、活目長砂彦と似た名の玖賀御笠耳を殺害した。玖賀は山背久我直がいるように、山背の王と思われる。すなわち、大毘古が埴安彦を倒して、支配下にしたので、対抗して坐王が侵攻した可能性がある。坐王の子の丹波道主が大毘古の領地を侵略し、勝利した。


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