2023年5月24日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇2

  十市根が前29年、大連に即位した。前天皇の「葬于山邊道上陵」が、「明年秋八月甲辰朔甲寅」と「十月癸卯朔癸丑」と異なる埋葬日が記されている。しかし、八月甲辰朔は9月癸卯晦の変換ミスだった。どちらも、朔日から11日目だ。すなわち、これは、二王朝が記録を残したと考えられる。天皇の即位と皇太后即位は、共に、木国の宇迦宮の暦で、「立狹穗姫爲皇后」は正しい暦だ。しかし、前7年、垂仁二三年の、「譽津別王是生年既卅」と矛盾する。垂仁四年の「狹穗彦王謀反」の直前に生まれた子なら、19年後に30歳ではなく19歳だ。また、「狹穗彦王謀反」の日干支は一月違いの9月ではなく8月で、同様の年を探すと前57年がある。それなら、30歳は前28年で、それなら、「九月丙寅朔」は朔日ではなく晦日で、木国の暦となる。

 譽津別の鵠、すなわち白鳥伝説と倭武の白鳥伝説は同じ伝説を使用していると考えられる。豐木入日子が東国毛野君の始祖、倭武も東国に侵攻した。そして、豐木入日子の孫の彦狭嶋が「東山道十五國都督」、「能等國造」、「上毛野國造」だ。そして、彦狹嶋は「不得向任所而早薨」と若くして薨じて、倭武と合致、沼河別の記事の「遣東方十二道」とも一致する。倭武の伝説は野洲王朝の武氏の複数の王達の説話を併せた説話である。山邊道上陵は伊吹山から伊勢遺跡に向かう途中の陵墓と考えられる。「伊勢國能褒野陵」の伊勢国は滋賀県の伊勢遺跡の伊勢国と思われる。伊吹山から首都に帰るのに、亀山は逆だ。また、古代は1国15から20㎞四方程度で、亀山近辺を伊勢国とは呼べない。伊賀と名張間も15㎞で、亀山から三重県の伊勢まで50㎞もあり、これは『三国志』の国境間の距離だ。

 すなわち、前86年大毘古が遠征中に坐王が丹波道に侵攻して、皇位に就いた。沼河別が前58年に沙本毘古の反乱に遭い、そして、前50年に東方十二道に遠征して、帰路、三重菰野で薨じて、前29年に再度、首都野洲近辺で埋葬した。その結果、前28年に諸別王の説話へと繋がったと考えられる。伊吹山近辺は、息長氏の勢力圏で、近淡海の安直の祖の水之穗眞若や大碓の義父の神大根の勢力に敗れたと考えられる。

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