2023年5月10日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 開化天皇1

  葛木氏の孝元天皇は尾張氏に対抗して、物部氏との姻戚関係を受け入れた。すなわち、天皇は内色許男の妹の内色許賣や娘の伊迦賀色許賣を妃にした。また、内色許男は孝元天皇の妹と思われる、活目長砂彦(長髄彦)や大倭根子の妹を妃にした。その娘が伊迦賀色許賣と思われる。神屋王朝の葛木氏玉手見は賦登麻和訶比賣の兄と思われる和知都美に師木を奪われた。葛木氏の御眞津日子は、奧津余曾に追い出されて、物部氏のいる丹波大国の御眞津に移住した。出雲醜は和知都美に敗れた神屋王朝に代わって大国王大臣となって、尾張氏と別け合った。

  出雲醜の弟に大国王を継いだ出石心大臣が存在している。葛木氏にも天忍人の妃になった出石姫が存在し、出雲醜の妃倭志紀彦妹真鳥姫は葛木氏の可能性が高い。出石姫が出石心大臣の妹か娘の可能性がある。そして、出石心大臣の孫の大綜杵は髙屋阿波良姫、すなわち、高島・野洲・淡海の王の娘を妃にして、娘の伊迦賀色許賣は葛木氏の天皇の妃だ。それで、開化天皇は内色許男の子や伊迦賀色許男が大国・山背・師木を統治した朝廷である。

 それに対して、八井宮の後継者の繩伊呂泥は日子刺肩別を生み、若狭三方の王なのだろうか。そして、大吉備津日子、丹波と吉備の将軍と思われる子を生んだ。妹の蝿伊呂杼も日子寤間、若日子建吉備津日子を生んで、同じ系統の子である。共に大吉備諸進の妃の可能性が高く、尾張氏波延が後見していると思われる。内色許男大臣や伊迦賀色許男・大毘古によって、朝廷が分裂し、吉備と若国と倭国と根国に勢力圏が縮小したようだ。

 物部朝廷では、内色許賣の子の大毘古が『古事記』では内色許男の娘の、伊迦賀色許賣を妃にしたと記述する。天皇の長男が皇后の兄弟の娘を妃に、皇后の娘に皇后の兄弟の長男が婿になって皇位を引き継ぐ。だから、大毘古が内色許男の姫の伊迦賀色許賣を妃にした。それに対して、内色許男の甥の伊迦賀色許男は倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃にした。伊迦賀色許男の子の建新川は倭志紀縣主の祖で、志紀は、師木水垣宮と朝廷がある場所で天皇である。建新川は沼河別の可能性が高い。このように、大毘古と伊迦賀色許男が皇位を継承した。そして、内色許男の妃は活目長砂彦、すなわち、生駒の難河の砂()彦の妹の芹田真稚姫・御炊屋姫と思われる。芹田真稚姫が生駒、すなわち、河内の青玉の娘の波迩夜須毘賣の可能性がある。

 前157年、春正月庚午朔癸酉の皇太后、十月丙申朔戊申の遷都、前153、二月丁未朔壬子、前98年の十月癸丑朔乙卯の葬天皇は正しい暦だ。孝元天皇から引き続いて、大国王の内色許男の子の伊迦賀色許男と大毘古の説話である。伊迦賀色許男が倭志紀彦の娘を妃にしたのに対し、倭得玉彦の妃が伊我臣の祖の大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妃にしている。内色許男から倭得玉彦が皇位を奪取した。また、開化天皇の皇后が大綜杵の娘の伊迦賀色許賣で、葛木氏の妃である。前152年、春正月辛丑朔甲寅、春正月壬寅晦と有ったのを、書き換えたと考えられる。珍彦の暦を使っている葛木氏の妃の「伊香色謎命爲皇后后生御間城入彦五十瓊殖」の記事だ。


0 件のコメント:

コメントを投稿