2023年2月27日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』3

  『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は続けて「・・・白鳳五年秋八月・・・超拝紫冠増封八千戸俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子・・・故遷大紫冠進爵爲公増封五千戸前後并凡一万五千戸十二年冬十月天皇幸于難波宮即隨福信所乞之意思幸筑紫將遣救軍初備軍嘉(?)十三年春正月御船西征始就海路三月御船泊于娜太津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津夏五月遷居于朝倉橋廣庭宮以聽海表之政至秋七月天皇御體不悆・・・天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制是月蘇將軍与突厥王子契苾加力等水陸二路至于高麗城下皇太子遷居于長津宮猶聽水表之軍政時謂侍臣曰傳聞大唐有魏徴高麗有蓋金百済有善仲新羅有庾淳各守一方名振萬里此皆當土俊傑智略過人以此數子比朕内臣當出跨下何得抗衡冬十一月天皇喪至自朝倉宮殯于飛鳥川原」、【・・・白鳳五年、秋八月・・・超えて紫冠を与え、八千戸を増封。俄に天萬豐日天皇、すでに政務をはずれていて、崩じた。皇祖母尊が、土下座しての願いに従い即位して、全ての庶務を皇太子に委ねた。・・・それで、大紫冠に変更し、爵を公とし、五千戸を増封し、併せて一萬五千戸だ。十二年の冬十月、天皇難波宮に行き、福信の願いで、筑紫に行き、救援軍を派遣しようと、軍を備えた。十三年の春正月に船が西に遠征し、海路に就いた。三月、船は娜太津に停泊して、磐瀬行宮に居て、天皇は、この名を改めて長津とした。夏五月に朝倉橘廣庭宮に遷り、海外の状況を聽いた。秋七月になって、天皇の体がすぐれず、・・・天皇は、朝倉行宮で崩じ、皇太子が、素服して制稱した。この月に、蘇將軍と突厥の王子の契加力達が、水陸二路から高麗城下に至った。皇太子は、長津宮に遷居し、海外の軍事状況を聽いた。その時「『大唐に魏徴がいて、高麗に蓋金、百濟に善仲、新羅に庾淳がいる』と伝え聞いている。各々一方を守り、名は万里に轟いている、皆その地の俊傑で智略は人を超えている。この数人で、私内臣は足元にも及びません。どうして張り合えましょう」と侍臣が言った。 冬十一月、天皇の喪で、朝倉宮より、飛鳥の川原で殯をした。】と訳した。

そして、白鳳5年665年八月に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲」と即位僅か1年で豐日天皇が崩じ、「皇祖母尊俯從物願再應寶暦」と豐財重日が即位、豐日天皇には「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟」と皇祖母は豐財重日、皇太子中大兄、皇弟は古人で、豐財重日が即位して、古人は前の皇弟なので太皇弟と呼ばれたと思われる。

そして、麟德二年665年の『舊唐書』本紀第四「冬十月・・・丁卯將封泰山」、卷八十四列傳第三十四劉仁軌傳「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅」と豐財重日は即位後すぐに渡唐して高宗に謁見している。

643年皇極二年に「吉備嶋皇祖母命薨」と倭天皇が薨じたため、後継争いで、「蘇我臣入鹿獨謀將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇」とあり、入鹿は叔父の古人と共に山背皇子を追い落とし、勝利後、「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」と蝦夷が岡本宮天皇、そして、年令から考えると、その蝦夷の妃に吉備姫なら良く合致する。

そして、皇祖母はもう一人、天智3年「是月大紫蘇我連大臣薨或本大臣薨注五月」、「嶋皇祖母命薨」と吉備嶋の一文字を継承した嶋皇祖母が蘇我連これは「入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣」と記述され、入鹿が大臣なのに、大臣でない弟が大臣は奇異で、入鹿が物部連大臣と呼ばれたことを意味し、664年5月に「或本大臣薨注五月」も奇異で、本来6月だったのを5月と記述したと考えると論理的で、入鹿と嶋皇祖母が同時に殺害されたと考えるのが理に適う。

この時、入鹿が大臣なのだから、天皇は蝦夷のはずが、蝦夷は後に殺害され、この事件が乙巳の変と言うように乙巳の日、晦日に有り、すなわち、入鹿と皇祖母が同時に殺害された、上表文を儀式は天皇の前ではなく皇祖母の前で執り行われたことを示し、天皇蝦夷は『隋書』俀国王と同様に夜の宗教的王だった事を示している。


2023年2月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』2

   『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は続けて「後崗本天皇四年歳次乙巳夏六月中大兄詐唱三韓上表・・・擬殺入鹿山田臣許之策既定矣戊申・・・古麻呂等遂誅鞍作焉・・・己酉豐浦大臣蝦夷自盡于其第・・・庚戌天豐財重日足姫天皇欲傳位於中大兄〃諮於大臣對曰古人大兄殿下之兄也輕萬德王殿下之舅也方今越古人大兄而殿下陟天皇位便違人弟恭遜之心且立舅以答民望不亦可乎中大兄從之密以白帝〃以策書禪位于輕皇子是爲天萬()日天皇・・・天豐財重日天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子改元爲大化詔曰社稷獲安寔頼公力車書同軌抑又此擧仍拝大錦冠授内臣封二千戸軍國機要住(?)公處分」、【後崗本天皇の四年、乙巳の夏六月。中大兄、三韓の上表を読み上げて詐し、・・・乗じて、入鹿を殺そうと謀り山田臣が許可し策が決まった。戊申に・・・古麻呂達は、遂に鞍作を誅し、・・・己酉に豐浦大臣蝦夷が、自ずからその邸宅で尽きた。 ・・・庚戌に天豐財重日足姫天皇は、皇位を中大兄に傳えようと思った。中大兄は、大臣に聞いたら「古人大兄は殿下の兄だ。輕萬德王は殿下の舅だ。今、古人大兄を越えて、殿下が、皇位に就くのは、すなわち人の弟の謙譲の心に違い、かつ、舅を立てて民の望に答えるのが、よいかと」と答えた。中大兄、これに從い、密に帝に言い、帝は、辞令書で位を輕皇子に禪り、天萬豐日天皇とし、・・・天豐財重日天皇は皇祖母尊と言い、中大兄を、皇太子とし、大化と改元した。「国家安泰を得るためには、まことの公権力に頼る。天下をよく統一するのはこれだ。それで大錦冠を与え、内臣の位を授け、二千戸を封じ、軍國の重責を任す」と詔勅した。】と訳した。

『隋書』「内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信」、「頭亦無冠但垂髪於両耳上至隋其王始制冠以錦綵為之以金銀鏤花為飾」と600年開皇20年ころに俀国は冠を使用し、倭国若しくは秦王国が603年推古十一年「始行冠位大徳小徳大仁小仁大禮小禮大信小信大義小義大智小智并十二階並以當色絁縫之頂撮總如嚢」と冠位を定めた。

さらに、608年推古十六年「金髻華著頭亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅一云服色皆用冠色」、611年推古十九年「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金・・・」と色冠と対応付け、647年大化三年是歳「制七色一十三階之冠一曰織冠有大小二階・・・三曰紫冠有大小二階以紫爲之以織裁冠之縁服色用淺紫四曰錦冠有大小二階・・・」と紫冠や錦冠を制定した。

しかし、647年制定の紫冠が制定されていないにも関わらず、643年皇極二年十月「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」、645年皇極四年「大錦冠授中臣鎌子連爲内臣」が記述され、しかも、『家傳』は「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と『日本書紀』とも異なる642年皇極元年「天皇遷移於小墾田宮」以前に錦冠を授けられたと記述している。

そして、649年大化五年「制冠十九階一曰・・・五曰大紫六曰小紫七曰大華上・・・」と錦冠が華冠に変わって無くなり、654年白雉五年「紫冠授中臣鎌足連増封若干戸」、661年斉明天皇七年「織冠授於百濟王子豐璋」の授与が有って、664年天智三年二月「其冠有廿六階大織・・・大紫小紫大錦上・・・」と錦冠が復活し、その後、669年天智八年「授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏」と『日本書紀』は記述して、『家傳』は華冠変更を記述せず、664年以前の授与では矛盾が多い。

しかし、白鳳4年664年6月乙巳の日にクーデタが起こったのなら理解でき、647年の冠位は稲目の王朝の冠位で、その冠位に対して、647年大化三年十二月晦「災皇太子宮時人大驚恠」と豊浦大臣のクーデタがあり、豊浦大臣が嶋大臣飛鳥天皇が制定した冠位を649年に変更した可能性があり、643年九月「吉備嶋皇祖母命薨」で豊浦大臣夫妻が倭国の皇位を継ぎ、十月に入鹿を皇太子の大臣にしたと考えられる。

俀国と倭国の王朝と冠位が入り混じっていたため、混乱をもたらした。

2023年2月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』1

  『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は「内大臣・・・大臣以豐御炊()天皇卅(廿)()年歳次甲戌生於藤原之第・・・崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受・・・俄而崗本天皇崩皇后即位・・・後崗本天皇二年歳次癸卯冬十月宗我入鹿与諸王子共謀欲害上宮太子之男山背大兄等曰山背大兄吾家所生明德惟馨聖化猶餘崗本天皇嗣位之時諸臣云々舅甥有隙 (+灬:亦)依誅(?)境部臣摩理勢怨望已深方今天子崩殂(?)皇后臨朝心必不安焉無亂乎不忍外甥之親以成國家之計・・・大臣具述・・・策中大兄從之遂聘女于山田臣之家山田臣許之・・・其弟武蔵挑女將去・・・進少女中大兄怒武蔵之無禮將行刑戮大臣諌曰既定天下之大事何忿家中之小過中大兄即止矣・・・大臣於是薦佐伯連古麻呂稚犬養網田・・・須豫大事但二人耳中大兄從之」、【内大臣・・・大臣は、豐御炊天皇の三十四年、歳は甲戌に、藤原の邸宅で生まれた。・・・崗本天皇の初めに、良家の子なのでと錦冠を授け、宗業を嗣げとの命を、固辭して受け無かった。・・・急に崗本天皇が崩じ、皇后が即位した・・・後崗本天皇の二年、癸卯冬十月、宗我入鹿と諸王子達と謀って、上宮太子の男子の山背大兄達を害そうと「山背大兄は私の家の出で、天性の德が漂い、余りある徳を持っている。崗本天皇が位を嗣いだ時に、諸臣が『舅と甥に隙が有る』と言った。また境部臣摩理勢を誅したので、恨み深い。まさに今天子が崩じ、皇后が朝政に臨む気持ちはきっと安らかではない。騒乱がきっとおこる。妻の甥と近親で忍びないが、國家のために滅ぼそう」と言った。・・・大臣は・・・山田臣の家の娘を求める策を詳しく述べ・・・その弟の武蔵が、娘に挑んで連れ去ろうとし・・・少女を差し出した。中大兄は、武蔵の無礼に怒り、処刑しようとしたが、大臣が、「もう天下の大事を決めた。どうして家中の小さな咎に怒る」と諌め、中大兄は止めた。・・・大臣、ここに佐伯連古麻呂・稚犬養網田を薦して・・・大事をあらかじめ伝えられるのは二人のみ、中大兄は従った。】、と訳した。

著者は鎌足の曽孫の藤原仲麻呂、恵美押勝で既に『日本書紀』が造られたあとで、本来は父たちが造った『日本書紀』から、内容が外れてはならないが、『日本書紀』と異なる記述があり、自家の資料が詳しいと、自家の資料を採用したと思われる。

鎌足の出生年は34年と記述しながら干支は丙戌ではなく甲戌と記述したのは、丙申の記述を丙は甲と理解し、『日本書紀』に合致しないからで、恐らく推古11年「遷于小墾田宮」で翌604年を元年とした637年小墾田宮34年と考えれば、692年56歳薨で62歳720年薨の次男不比等なら鎌足23歳の子で良く合致する。

「崗本天皇御宇之初」は父の美気祐卿・中臣連彌氣の説話と思われ、また、鎌足の妃は車持君の娘で、車持部は履中紀に「筑紫之車持部」と車持部が筑紫にいるということは、輕皇子と仲が良かったのだから、鎌足は筑紫すなわち俀国王筑紫君薩野馬・輕皇子に仕えていた可能性が有り、輕皇子が百濟に滞在中、母の吉備姫が俀国王、そして、「古人大兄或本云古人太子」とあるように古人大兄が太子で、吉備姫が薨じた時、豐財重日が俀国王で古人大兄が「皇太子素服稱制」と政務を代行したと思われる。

それは、「古人大兄殿下之兄也輕萬德王殿下之舅也」とあるが、『日本書紀』は古人大兄の娘を妃に、兄妹の間人皇女を輕皇子が妃にして、輕皇子が義兄、古人皇子が舅だが、年令から考えると、叔父の輕皇子の娘を妃、輕皇子の妃の弟古人が義弟で輕皇子の太子と考えられ、吉備姫薨時は輕皇子が不在で古人は20歳以下なので豐財重日が俀王、中大兄が13歳で太子、義兄の古人大兄は先の太子なので、皇太弟ではなく大皇弟と呼ばれることになったと考えられる。

彦人の子の岡本天皇は岡本天皇の兄弟の茅渟王の子の輕皇子の叔父にあたり、豐財重日が岡本天皇の妃では年令を考えると理に適わず、彦人の子の岡本天皇の子、若しくは蘇我入鹿の妃と考えられ、舒明二年「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子」と古人皇子は入鹿の従弟で、相互の婚姻のため、豐財重日が舒明天皇蝦夷の妃になって、輕皇子が俀国王、さらに、輕皇子が百濟出兵で、吉備姫が皇祖母として、代わりに俀国王となった。

2023年2月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』5

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「裏書 庚戌春三月学問尼善信等自百済還住櫻井寺今豊浦寺也(初櫻井寺云後豊浦寺云)曾我大臣云豊浦大臣云云觀勒僧正推古天皇之即位十年壬戌來云云佛工鞍作鳥祖父司馬達多須奈或本云播磨水田二百七十三町五段廿四歩云云又本云三百六十町云云有本云請願造寺恭敬三宝十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云云注云辛丑年始平地癸卯年立金堂云戊申始僧住己酉年三月廿五日大臣遇害癸亥年構塔癸酉年十二月十六日建塔心柱其柱礎中作圓穴刻浄土寺其中置有蓋大鋭一口内盛種々珠玉其中有塗壷壷内亦盛種々珠玉其中有銀壷壷中内有純金壷其内有青■■■瓶其内納舎利八粒丙子年四月八日上露盤戊寅年十二月四日鋳丈六佛像 乙酉年三月廿五日點佛眼山田寺是也注承歴二年(戊午)南一房冩之真曜之本云々曾我日向子臣字無耶志臣難波長柄豊碕宮御宇天皇之世任筑紫大宰帥也甲寅年十月癸卯朔壬子爲天皇不悆起般若寺云云■■京時定額寺之曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣(曾我也)臥病爲大臣之男女并一千人■■■■又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」、【裏書に庚戌春三月、學問尼善信達が百済から還り、櫻井寺に住んだ。今の豊浦寺だ(初め櫻井寺といい、後に豊浦寺という)。曾我大臣は豊浦大臣と云々という。觀勒僧正、推古天皇の即位十年の壬戌に来る。佛工鞍作鳥。祖父は司馬達多須奈だ。或る本に、播磨の水田二百七十三町五段廿四歩云々。また本に、三百六十町云々。有る本に、寺を造る請願をし、三宝を敬う。十三年辛丑春三月十五日に始めて浄土寺云々。注に、(641年)辛丑年、始めて地をならし、癸卯年、金堂を立て云々。戊申、始めて僧が住み、己酉年の三月廿五日、大臣が害に遇い、癸亥年に、塔を構え、癸酉年十二月十六日に、塔の心柱を建てた。その柱の礎の中に円い穴を掘り、浄土の寺を刻み、中に蓋の有る大鋭を一口を置いて、中に種々の珠玉を盛る。その中に塗壷が有り、壷の中にまた種々の珠玉を盛った。その中に銀の壷が有り、壷の中に純金の壷が有り。その中に青■■瓶が有り、その中に舎利八粒を納めた。丙子年の四月八日、露盤を上げた。戊寅年の十二月四日、丈六の佛像を鋳造した。乙酉年の三月廿五日、佛眼を点じた。これが山田寺だ。注したのは承歴二年(戊午)、南一房を写した直曜の本だ。曾我日向子臣、字は無耶志臣。難波長柄豊碕宮天皇の世、筑紫の大宰帥に任ぜられた。甲寅年の十月、癸卯朔の壬子、天皇の爲に般若寺を起した云々。■■京時、定額寺云々。曾我大臣は推古天皇の卅四年秋八月、嶋大臣(曾我だ)病に臥した。大臣の爲に男女、并せて一千人■■■■。また本に、廿二年甲戌の秋八月、大臣病に臥した。卅五年の夏六月辛丑に薨じた。】と訳した。

山田寺の説明だが、山田寺は653年「多造佛菩薩像安置於川原寺或本云在山田寺」と川原寺のことで、「運川原寺伎樂於筑紫」と筑紫に近く、像の作者が 佛工鞍作鳥で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に堂釈迦三尊像の作者が「司馬鞍首止利佛師造」と同一人物で、釈迦三尊像は上宮法皇のために造った俀国の像だ。

釈迦三尊像は621年、此処で言う像が653年の像では奇異で、釈迦三尊像のことをこの『上宮聖徳法王帝説』は述べているのだから、ここの説明も釈迦三尊像の説話で、618年戊寅に佛像を鋳造と上宮法皇の爲に造った釈迦三尊像だが621年に薨去したため光背銘を刻んで625年乙酉に佛眼を開いたことを述べている。

従って、この説話は俀国の説話で、畿内は難波高津宮天皇大別が「難波大別王寺」を建てていて、そこに佛像があり、『梁書』に「齊永元元年其國有沙門慧深」と僧も存在し、畿内ではなく、俀国の法興帝即位前年に百濟から僧を連れてきて、法皇帝兄弟が仏教に帰依して、607年大業3年に「沙門數十人來學佛法」と百濟僧では物足りないので隋へ佛法を学びに行っている。

そして、上宮法皇の子と思われる漢王の妹大俣王の子の、舒明天皇の皇太子茅渟王やその子の天豐財重日足姫・天萬豊日達が川原寺に多くの像を寄進し、川原寺は686年點佛眼の翌年に「設無遮大會於五寺大官飛鳥川原小墾田豐浦坂田」と大會を行っている。

すなわち、己酉589年「大臣遇害」は橘豐日のことで、587年の池邉天皇崩は穴穂部皇子守屋の崩とわかり、池邊天皇治天下三年と倉橋天皇治天下四年と『日本書紀』と異なるのに、注記は『日本書紀』どおりという理由は、池邉天皇丁未年崩は池邉(穴穂部)天皇2年初代守屋天皇の崩で、池邉(穴穂部)天皇4年橘豐日崩、穴穂部の倉橋天皇2年即位、「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と、穴穂部間人皇女は穴穂部皇子守屋の妹と合致する。

2023年2月17日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』4

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「丁未年六七月蘇我馬子宿祢大臣伐物部室屋大連時大臣軍士不尅而退故則上宮王擧四王像建軍士前誓云若得亡此大連奉爲四王造寺尊重供養者 ()軍士得勝取大連也(依此即造難波四天王寺也)聖王生十四年也志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日百済國聖明王始奉度佛像經敎并僧等勅授蘇我稲目宿祢大臣令興隆也庚寅年焼滅佛殿佛像流却於難波堀江少治田天皇御世乙丑年五月聖徳王與嶋大臣共謀建立佛法更興三寶即准五行定爵位也七月 立十七條法也飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣■■林太郎坐於伊加留加宮山代大兄及其昆第等合十五王子等悉滅之也■■天皇御世乙巳年六月十一日近江天皇(生年廿一)殺於林太郎■■■以明日其父豊浦大臣子孫等皆滅之志歸嶋天皇治天下卌一年(辛卯年四月崩陵檜前坂合岡也)他田天皇治天下十四年(乙巳年八月崩陵在志奈我原也)池邊天皇治天下三年(丁未年四月崩秋七月奉葬或云川内志奈我中尾稜)倉橋天皇治天下四年(壬子年十一月崩實爲嶋大臣所滅也陵倉橋岡在也)少治田天皇治天下卅六年(戊子年三月崩陵大野岡也或云川内志奈我山田寸)上宮聖徳法王又云法主王甲午年産壬午年二月廿二日薨逝也(生卌九年少治田宮爲東宮也墓川内志奈我岡也)」、【丁未年の六七月、蘇我馬子宿祢大臣が物部室屋大連を伐った時に大臣の軍は、勝てず退いたから、上宮王は四王像を掲げ、軍の前に建てて、「もし大連を亡ぼせれば、四王の爲に寺を造り尊んで重々供養しよう。」と誓った。それで軍が勝利を得て、大連を破ったので難波に四天王寺を造った。聖王十四の年だ。志癸嶋天皇の世、戊午年十月十二日に、百済國の主の明王が始めて渡ってきて佛像・經敎、并せて僧達をもたらした。蘇我稲目宿祢大臣に授けて、興隆させた。庚寅年、佛殿・佛像を焼き滅し、難波の堀江に流し捨てた。小治田天皇の世、乙丑年の五月に、聖徳王と嶋大臣、共に謀って佛法を建立して、更に三宝を興し、五行に准じて、爵位を定めた。七月、十七餘法を立てた。飛鳥天皇の世、癸卯年の十月十四日、蘇我豊浦毛人大臣の児の入鹿臣■■林太郎。伊加留加宮にいて、山代大兄及びそれに続く者達、合わせて十五王子達を悉く殺した。■■天皇の世、乙巳の変の年六月十一日、近江天皇(生れまして廿一年)、林太郎■■を殺す。明くる日に、その父の豊浦大臣と子孫達を皆殺しにした。・・・略・・・】と訳した。

『上宮聖徳法王帝説』は『帝記』を参照して記述され、『古事記』が敏達天皇の崩が甲辰四月ではなく『日本書紀』と同じ乙巳年八月、また、『日本書紀』は皇極元年642年壬寅に「天皇遷移於小墾田宮」とあるのに、「飛鳥天皇」と記述しているので、『日本書紀』が係れた大化6年700年より以前に記述されたと考えられる。

論理的に考えられる皇位継承は540年継体天皇目連が24年に崩じ、目連には子が無く、皇太子は荒山、さらにその子の尾輿が20歳頃に皇位を継ぎ、木蓮子の娘宅媛の婿の義兄弟の稲目・倭古の娘小姉君と稲目の、おそらく、磐井の娘との子の堅鹽媛を妃に2代続いて、2代目は20代で即位後数年、571年に崩じ、皇太子の弟の御狩は20歳に達しっておらず、2代目稲目で倭王の渟中倉太珠敷が即位したと思われ、彦人が585年他田天皇死亡時に20歳になる前に、秦王国の穴穂部皇子に渟中倉太珠敷が殺害されたと思われる。

従って、他田天皇も20代で572年に即位、即位時に橘豐日・初代馬子も20代で、池邊天皇崩時587年、子の長男の2代目馬子の豊浦皇子は20歳より前、上宮聖徳法王は14歳なので、橘豐日は30代で死亡となり、また、穴穂部皇子との戦いも勝利して、倭国・秦王国の皇位は橘豐日の姉の夫泊瀬部が即位し、592年に泊瀬部が馬子の婿に殺害され、皇位は妃の豊御食炊屋姫、皇太子は秦王国を継いだ穴穂部間人の子の上宮聖徳法王がなったと思われる。

そして、豊御食炊屋姫は601年に田眼皇女と豊浦皇子に任せ、603年に小墾田皇女と彦人が豐浦宮を出て、628年に豊御食炊屋姫が崩じ、彦人は585年に20歳前なので、629年には薨じていて、彦人の子の息長足日廣額が継ぎ、弟の茅渟王が太子になったが、嶋の子の豐浦宮蝦夷が岡本宮飛鳥天皇を継ぎ、茅渟王の子の天萬豊日は俀王として筑紫、更に百濟に渡って、664年に帰国、小墾田宮には母の吉備姫皇祖母、661年には天豐財重日足姫が跡を継ぎ、13歳になった天命開別が俀国太子となって、664年に後岡本宮蝦夷と入鹿を殺害し、さらに、叔父の唐に嫌われた天萬豊日は殺害若しくは自殺、天命開別が668年20歳になったので即位した。

炊屋姫は、他田天皇時に20代、即位時40歳以上と考えられ、豐浦宮で皇位が継承されていると考えられ、鎌足の年令や皇位継承を考えると、この様に論理づけられる。

2023年2月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』3

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等娶巷奇大臣名伊奈米足尼女名吉多斯比彌乃彌己等爲大后生名多至波奈等己比乃彌己等復娶大后弟名乎()尼乃彌己等爲后生名孔部間人公主斯歸斯麻天皇之子名(草冠+麩:怒)奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等娶庶妹名等己弥居加斯支移比彌乃彌己等爲大后坐乎沙多宮治天下生名尾治王多至波奈等己比乃弥己等娶庶妹名孔部間人公主爲大后坐(+)邊宮治天下生名等己刀弥〃乃弥己等娶尾治大王之女名多至波奈大女郎爲后歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天之雖恐懐心難止使我大王與母王如期従遊痛酷无比我大王所告世間虚假唯佛是真玩味其法謂我大王應生於天壽國之中而彼國之形眼所叵看悕因圖像欲觀大王往生之状天皇聞之悽然告曰有我子所啓誠以爲然勅諸采女等造繍帷二張畫者東漢末賢高麗加西溢又漢奴加己利令者椋部秦久麻右在法隆寺蔵繍帳二張縫著龜背上文字者也更々不知者云々巷奇彌字已字至字白畏天之者太子崩者従遊者天壽國者天皇聞之者令者上宮薨時臣勢三杖大夫歌 伊加留我乃止美能乎何波乃多叡波許曾和何於保支美乃弥奈和須良叡米美加弥乎須多婆佐美夜麻乃阿遅加氣尓比止乃麻乎志和何於保支美波母伊加留我乃己能加支夜麻乃佐可留木乃蘇良奈留許等乎支美尓麻乎佐奈」、【・・・略・・・明くる年の二月廿二日甲戌の夜半に太子が崩じた時に多至波奈大女郎が、哀しみ嘆いて、「天を恐れるように畏れ多くても思う心が止めがたく、我大王と母王が亡くなり、痛ましいこと比べるものが無い。我大王が『世間は胡麻化しで、ただ佛だけが真だ。』と告げた。その法を「我大王が言うのは、まさに天壽國に生れた。しかし彼の国の様子は解らな所。ねがわくは画像で大王が往生した様子を観たいと思う。」と考えた。天皇が聞きて哀しみ沈んで「一人の我が子が、言ったのは本当にその通りだ」と告げた。諸々の采女達に繍帷二張を造らせた。画は東漢末賢、高麗の加西溢、または漢の奴加己利が、椋部秦久麻が指示した。右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けた亀の背の文字だ。誰もが知っている。・・・巷奇弥の字(或いは賣音を当てる)。己の字(或いは余の音を当てる)至の字(或いは知の音を当てる)。白畏天之は(天即ち小治田天皇だ)。太子崩は(即ち聖王だ)。従遊は(死だ)。天壽國は(猶は天のみ言う)。天皇聞之は(小治田天皇だ)。令は(監だ)。上宮が薨じた時に臣勢三杖大夫の歌()】と訳した。

繍帳の内容は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の厩戸豊聰耳を上宮法皇と見做しての記述で、実際は豊浦皇子が橘豐日の死後に間人を妃にしていて、斑鳩の厩戸豊聰耳に対して、間人は豐浦に住み、翌日に死ぬほど重体のしかも聖王が、妃が水を欲しているのを、修行とも言える態度で水を与えないという命令するというのは、実感が湧かない。

巨勢臣徳太代大派皇子而誄」と水派宮の彦人の子の舒明天皇に誄を述べるなど、側近として王の死に対して哀悼を表する人物として徳太は相応しく、飛鳥天皇が嶋・嶋高祖母に対して、『古事記』の「息長眞手王女廣姫」と息長氏の孫の彦人の子の「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女の子の岡本宮天皇息長足日廣額、そして、高祖母は小墾田皇女となり、皇太子は息長足日廣額の弟の茅渟王である。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」とある。

丙午年は586年か646年で、586年は池邊が即位したばかりで、病に罹ったのは翌年で理解不能、646年は常色改元前で、天皇の崩の可能性があり、丁卯年は607年で、「丈六銅像坐於元興寺金堂」と仏像をおさめたのは前年元興寺で、607年には奉納が記述されず、667年は天智が皇太子で天皇は母中宮小墾田天皇で、「我奉皇太后天皇之所勅」と小市岡上陵は小墾田天皇の皇太后で天皇にも就任したとする、小墾田天皇を祀り、641年に死んだ船王の墓誌には小治田治天下天皇ではなく、「等由羅宮治天下天皇」である。

すなわち、646年、皇太后で天皇の高祖母小墾田皇女が病気になり、岡本宮息長足日廣額、さらに茅渟王が後継したが、652年に豐浦大臣と鏡媛に政権を奪われた茅渟王の子で、岡本宮息長足日廣額の妃になった小墾田天皇、実際は年令的に見ると豐財重日の母の吉備姫が皇太子天萬豐日に仏像を奉納させようとし、繍張の内容は小墾田中宮天皇が奉納した法隆寺の薬師如来像と多至波奈大女郎の説話を関連付けたのではないだろうか。 

2023年2月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』2

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は続けて「流傳之間壬午年二月廿二日夜半聖王薨逝也慧慈法師聞之奉爲王命講經發願曰逢上宮聖王必欲所化吾慧慈来年二月廿二日死者必逢聖王面奉浄土遂如其言到明年廿二日發病命終也池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召大王天皇與太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪者少治田大宮治天下大王天皇及東宮聖徳王大命受賜而歳次丁卯年仕奉右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文師寺造始縁由也法興元世(?)一年歳次辛巳十二月鬼前大后崩明年正月廿二日上宮法王枕病弗悆干食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及與国臣深懐愁毒共相發願仰依三宝當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法王登遐癸未年三月中如願欲造釋迦尊像并侠待及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安隠出生入死随奉三主紹隆三宝遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如件釋曰法興元世(?)一年此能不知也但案帝記云少治田天皇之世東宮厩戸豊聰耳命大臣宗我馬子宿祢共平章而建立三宝始興大寺故曰法興元世(?)也此即銘云法興元世(?)一年也後見人若可疑年号此不然也然則言一年字其意難見然所見者聖王母穴太部王薨逝辛巳年者即少治田天皇御世故即指其年故云一年其無異趣鬼前大后者即聖王母穴太部間人王也云鬼前者此神也何故言神前皇后者此皇后同母弟長谷部天皇石寸神前宮治天下若疑其姉穴太部王即其宮坐故稱神前皇后也言明年者即壬午年也二月廿一日癸酉王后即世者此即聖王妻膳大刀自也二月廿一日者壬午年二月也翌日法皇登遐者即上宮聖王也即世登遐者是即死之異名也故今依此銘文應言壬午年正月廿二日聖王枕病也即同時膳大刀自得労也大刀自者二月廿一日卒也聖王廿二日薨也是以明知膳夫人先日卒也聖王後日薨也則證歌曰 伊我留我乃 止美能井乃美豆 伊加奈久爾 多義氐麻之母乃 止美能井乃美豆 是歌者膳夫人臥病而将臨没時乞水然聖王不許遂夫人卒也即聖王誄而詠是歌即其證也但銘文意顕夫人卒日也不注聖王薨年月也然諸記文分明云壬午年二月廿二日甲戌夜半上宮聖王薨逝也出生入死者若其往反所生之辭也三主者若疑神前大后上宮聖王膳夫人合此三所也」、【布教の間の壬午年二月廿二日の夜半、聖王が薨じた。慧慈法師は聞いて、王の爲に經を講じようと、「上宮聖王は、きっと化けて逢えると思う。私は来年二月廿二日に死んだら、聖王に浄土で逢いたい。」と発願して、言ったとおり、翌年二月廿二日に、発病して命が尽きた。・・・『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』略・・・解釈は、法興元世一年、これはよくわからない。但し『帝記』で読み解くと、小治田天皇の世に、豊聰耳、大臣馬子と共に三寶の建立を計画し、大寺を興して法興元世と言ったから法興元世一年なのだろう。後に見た人が若し年号と疑うかもしれないがこうとしか思えないが一年の字が解らない。しかし見た所、聖王の母の穴太部王が、辛巳年に薨逝したのは、小治田天皇の世なのでその年を指したから一年という以外理解できない。鬼前大后は、聖王の母の穴太部間人王で鬼前というのは神前だ。どうして神前皇后と言うかは、この皇后の同母弟の長谷部天皇が石寸神前宮で天下を治しめたからで、疑おうにも、姉の穴太部王がその宮にいたのだから神前皇后と言ったのだ。明年とは壬午年二月廿一日癸酉、王后の即世は、聖王の妻の膳大刀自だ。二月廿一日は、壬午年の二月だ。翌日法王が登遐とは、上宮聖王のことだ。『即世』・『登遐』は、即ち死の異名だからこの銘文によって、壬午年の正月廿二日に、聖王病に枕すと言うべきだ。それで同じ時に、膳大刀自が疲れ二月廿一日に卒っし、聖王は廿二日に薨じた。これで解ったのは、膳夫人は先に、聖王は後日に薨じた。それで歌にあかして(歌略)。この歌は膳夫人の病いに臥せて没する時に水を求めたが聖王が許さず、遂に夫人が卒し、聖王が悼んでこの歌を詠んだ其のあかしだ。銘文で、夫人の卒した日は明らかで、聖王の薨じた年月を示さないが、諸々の説文で解るように、壬午年の二月廿二日甲戌の夜半に、聖王薨逝と。出生入死は、きっと往き反り、生れるという言葉だ。三主は、疑いなく神前大后、上宮聖王、膳夫人の三所だ。】と訳した。

『上宮聖徳法王帝説』は法興年号の説明もできず、「乎阿尼命生児倉橋宮治天下長谷部天皇」と本文に記述しているのに神前宮と書き換え、鬼イコール神という苦しいこじ付けを使わないと穴太部王と鬼前大后が合致せず、また、干食王后も膳部臣の娘「菩岐岐美郎女」と「刀自古郎女」も同じ人物にして、蘇我氏が滅亡して、権力中枢に蘇我氏の末裔がおらず、言い伝えも存在しないので、上宮法皇と厩戸豊聰耳をゴッチャにしてしまったようだ。

『隋書』の「聽政跏趺坐・・・日出便停理務云委我弟」との趺坐して昼間は政務を任せる俀国王と厩戸豊聰耳では全く合致しないが、俀国王の法興帝が多利思北孤に対する上宮法皇が利歌彌多弗利だったらよく合致する。

厩戸豊聰耳は穴穂部皇子と戦った時に「廐戸皇子束髮於額古俗年少兒年十五六間束髮於額」と15歳程度の記述で、田目皇子が穴穂部間人を妃にするのだから厩戸豊聰耳よりかなり年上で、橘豐日の太子は稲目の娘、おそらく、岐多斯比賣の妹の意富藝多志比賣の子の田目皇子と考えられ、『古事記』も太子は彦人と記述し、また、厩戸豊聰耳が太子なのに豐浦宮にも小墾田宮にも住まず、厩戸豊聰耳は磐余に住む穴穂部皇女の宮から馬子の領地の斑鳩に移り住んだ、秦王国の太子だったと思われ、馬子の娘の刀自古郎女の子の山代大兄も「掩山背大兄王等於斑鳩」と斑鳩に住み、馬子の直系を示している。

2023年2月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』1

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は「伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇娶庶妹穴穂部間人王爲大后生児厩戸豊聰耳聖徳法王次久米王次殖栗王次茨田王又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子伊志支古那郎女生児多米王又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子伊比古郎女生児乎麻呂古王次須加弖古女王(此王拝祭伊勢神前至于三天皇也)合聖王兄弟七王子也聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子名菩岐岐美郎生児舂米女子次長谷王次久波太女王次波止利女王次三枝王次伊止志古王次麻呂王次馬屋古女王又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子刀自古郎女生児山代大兄王(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也後人与父聖王相濫非也)次財王次日置王次片岡女王又聖王娶尾治王女子位奈部橘王生児白髪部王次手嶋女王合聖王児十四王子也山代大兄王娶庶妹舂米王生児難波麻呂古王次麻呂古王次弓削王次佐々女王次三嶋女王次甲可王次尾治王聖王庶兄多米王其父池邊天皇崩後娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支廣庭天皇(聖王祖父也)娶檜前天皇女子伊斯比女命生児他田宮治天下天皇(聖王伯叔也)怒那久良布刀多麻斯支天皇又娶宗我稲目足尼大臣女子支多斯比賣命生児伊波礼池邊宮治天下橘豊日天皇(聖王父也)妹少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇(聖王姨母也)又娶支多斯比賣同母弟乎阿尼命生児倉橋宮治天下長谷部天皇(聖王伯叔也)姉穴太部間人王(聖王母也)右五天皇無雑他人治天下也(但倉橋第四少治田第五也)少治田宮御宇天皇之世上宮厩戸豊聰耳命嶋大臣共輔天下政而興隆三寶起元興四天皇等寺制爵十二級大徳少徳大仁少仁大礼少礼大信少信大義少義大智少智池邊天皇后穴穂部間人王出於厩戸之時忽産生上宮王王命幼少聰敏有智至長大之時一時聞八人之白言而辧其理又聞一知八故号曰厩戸豊聰八耳命池邊天皇其太子聖徳王甚愛念之令住宮南上大殿故号上宮王也上宮王師高麗慧慈法師王命能悟涅槃常住五種佛性之理法華三車權実二智之趣維摩不思議解脱之宗且知經部薩婆多兩家之弁亦知三玄五經之旨並照天文地理之道即造法華等經疏七卷号曰上宮御製疏太子所問之義師有所不通太子夜夢見金人來敎不解之義太子寤後即解之乃以傳師師亦領解如是之事非一二耳太子起七寺四天王寺法隆寺中宮寺橘寺蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池後寺葛木寺賜葛木臣戊午年四月十五日少治田天皇請上宮王令講勝鬘經其儀如僧也諸王公主及臣連公民信受無不嘉也三箇日之内講説訖也天皇布(施聖王物播磨國揖保郡佐勢地五十万代聖王)(以此地爲法隆寺地也)慧慈法師上宮御製疏還歸本國」、【・・・略・・・王は幼少より聰敏で智が有り、成長すると一時に八人が言うのを聞いて理解した。また、一を聞いて八を知るので厩戸豊聰八耳という。天皇は聖徳王をとても愛しく思い、宮の南の上の大殿に住まわせたので上宮王という。 上宮王の師は、高麗の慧慈法師で王命は能く涅槃常住・五種佛性の理を悟り、法花三車・權實二智の趣を明らかに開き、維摩不思議解脱の宗に通じ達した。そして經部薩婆多両家の辨を知り、また三玄・五經の旨を知り、天文地理の道を知り、法花等の經疏七卷を造り、「上宮御製の疏」といった。太子が求めた義に、師を理解できないことが有った。太子は、夢で金人を見て、解らない義を悟り、目覚めて理解した。それで師に伝え、師も認めた。こんなん事は一度や二度で無かった。太子は七寺、四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛木寺(葛木臣に与えた)を建てた。戊午年四月十五日、少治田天皇が上宮王に頼んで勝鬘經を講義させた。それは僧のようで、諸王公主や臣連公民が信じて、みなが歓び、三日の内に終わった。天皇は聖王に播磨國揖保郡佐勢の地五十万代を与え、法隆寺の地とした。慧慈法師は、上宮に疏をもたらして、本國に帰った】と訳した。

内容は『古事記』より『日本書紀』に似ているが、『日本書紀』「菟道貝鮹皇女更名菟道磯津貝皇女也是嫁於東宮聖徳」の菟道貝鮹皇女の名が記載されず、この皇女が厩戸豊聰耳の妃でないことが解る。

『上宮聖徳法王帝説』は厩戸豊聰耳の系図が詳しいが、太子なのに妃に皇室が存在せず、兄多米王のほうが皇后を妃にして、太子に相応しくて奇異であるが、稲目や馬子が怒那久良布刀多麻斯支天皇や橘豊日天皇なら文句なしに、皇位継承権が有る。

すなわち、『上宮聖徳法王帝説』の天皇は、倭国の天皇を記述しているようで、「天皇聘唐帝其辭曰東天皇敬白西皇帝」の隋朝への、それを引き継ぐ唐朝に対する立場と良く合致し、日本に敗れ、敗れた政権は蘇我氏の倭国、そして、この厩戸豊聰耳も兄多米王も、蘇我氏なので、『日本書紀』に後継の天皇が記述されなかったと思われる。

そして、『舊事本紀』と異なり、「少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇」と豐浦宮が記述されず、

厩戸豊聰耳皇太子は豐浦宮太子ではなく、伊波礼池邊宮太子で、少治田は豐浦の一部なので、603年の「遷于小墾田宮」で橘豊日の子の馬子が首都に入城して、実権を握ったのではないだろうか。

2023年2月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『二中歴』2

  「定居七年辛未注文五十具従唐渡」の611年改元は前年大業6年610年に『隋書』「倭國遣使貢方物」と大業4年に隋に認められた後、正式な遣使を行って、俀国の官位を取り入れたので改元して、「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾」 の服装で藥獵を行ったと思われる。

倭京五年戊寅二年難波天王寺聖徳造」の618年改元は、「高麗遣使貢方物因以言隋煬帝興卅萬衆攻我返之爲我所破」と隋滅亡とその挨拶で高麗が貢献したため、倭国が隋に変わって最高権威となったと宣言したのではないだろうか。

豐聰耳皇子命薨」の621年も「大臣薨」の626年も、推古「天皇崩之」の628年も改元対象でなく、「仁王十二年癸未自唐仁王経渡仁王会始」の623年改元は「大唐學問者僧惠齊惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之」と確かに唐から僧が来日しているが、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」の年で彦人が水派宮に遷都した爲だろうか。

僧要五年乙未自唐一切経三千余巻渡」の635年改元、「命長七年庚子」の640年改元、の対象が見当たらず、「常色五年丁未」の647年改元は、「災皇太子宮時人大驚恠」の時に仁王元年から続いた小墾田皇女の政権の死んだ太子と思われる茅渟王の母の吉備姫王が高祖母・最高権威者になったのではないだろうか。

『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末 歳次辛丑」、『上宮聖徳法王帝説』「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」から、嶋大臣が阿須迦天皇と考えられ、大臣イコール天皇で、建元者はそれ以上の権威者がいて、皇后や皇太后、高祖母、夫人がそれに当たり、「布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人」は、「石上贄古・・・異母妹御井夫人爲妻」と『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶尾治王女子位奈部橘王」と炊屋姫の子の尾張皇子の娘の橘王が御井夫人、「贄古大連之子・・・鎌媛大刀自・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政・・・宗我嶋大臣為妻」が石上夫人・嶋高祖母の田眼皇女で、嶋大臣がもう一人の舒明・阿須迦天皇のようだ。

そして、「白雉九年壬子国々最勝会始行之」の652年の改元は651年「十二月晦大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」と難波京に都を遷した改元、 「白鳳廿三年辛酉対馬銀採観世音寺東院造」の661年の改元は「天皇崩于朝倉宮」と吉備姫高祖母の死亡で、次の最高権威者は蝦夷の夫人の鏡媛だったのではないだろうか。

天皇は法興帝のように、神や仏に仕える役割で、実際の統治は皇后や皇太后・夫人・皇太子・大臣が執行していたと考えられる。

鏡媛が『興福寺流記』の「天命即位八年冬十月内大臣枕席不安嫡室鏡女王請曰敬造伽藍安置尊像大臣不許」と669年の鎌足死亡記事に鎌足の妃としているが、嫡室は天皇や神の妃に記述されていて、さらに、鎌足は、子の不比等が659年生れの720年62歳死亡、孫の武智麻呂が680年生れの737年58歳死亡で、鎌足は56歳死亡で不比等が次男なので、695年頃の死亡でないと理に適わず、天智天皇崩が694年で、692年の死亡と考えられる。

天武天皇の妃に鏡王の娘の額田姫王がいて、この額田姫が襲名した鏡姫で、天智天皇のために伽藍を造ろうとしたのではないだろうか。

朱雀二年甲申兵乱海賊始起又安居始行」の684年改元は、「京師而定宮室之地」や「八色之姓」の制定などを行っていて、「朱鳥九年丙戌仟陌町収始又?(方)始」の686年改元は、「仍名宮曰飛鳥淨御原宮」と宮の名を命名し、「大化六年乙未覧初要集云皇極天皇四年為大化元年已上百八十四年々号丗一代?(不)記年号只有人傳言自大宝始立年号而巳」の695年改元は686年の「天皇病遂不差崩于正宮」が694年の死亡で翌年新天皇が大化と改元したと考えられ、朱雀からは天皇が実権を握って、天智天皇やその子の天武天皇が改元したようだ。

2023年2月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『二中歴』1

  『二中歴』は「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」と継体元年の五百六十九年前の紀元前53年から元号が始まり、2代目崇神天皇が即位したと思われる時に、日干支を記録している物部氏に元号開始の記録を命じた、すなわち、「天璽瑞寶」を物部氏が献上したと考えられ、木片におそらく「瑞籬宮元己巳」と刻み、日葉酢媛の兄弟の弟彦が前14年、木片におそらく「垂仁年元丁未」と刻み、そして、『日本書紀』「太子即天皇位因以改元」と、おそらく、紀元後71年に「景行元辛未」を刻んだと思われる。

継体元年丁酉は517年で、当然この年に継体天皇は即位していて、『日本書紀』や『舊事本紀』の継体天皇元年と異なるのは、史書を記述したのが葛城氏や巨勢氏・平郡氏・蘇我氏が物部氏の日干支の記録などに、『古事記』のような伝聞・記録を当て嵌めたためで、継体天皇の家系は、史書を記述していなくて、麁鹿火や継体の兄麻佐良、荒山が記述していたと考えられ、この様な元年の相違を呈したと思われる。

従って、白鳳が661年から683年まで続いて天武天皇の即位と合致しないのは、元号を管理する、継体天皇の血筋の人物が、天皇と別に存在したことを示し、『隋書』に天子が昼間の政務を弟に委ねたように、権威を持つ人物、「物部馬古・・・難波朝御世・・・奉齋神宮」と馬古の家系が天皇に政務を任せていたと考えるべきだろう。

続いて『二中歴』は「善記四年元壬寅同三年??(発誰)成始文善記以前武烈即位」と継体の文字は『日本書紀』にも記述されて、武烈天皇が善記より前は並立ではなく単独で皇位に就いていたと『二中歴』の著者は考え、善記元年522年に継体天皇が即位した年と注記している。

続いて「正和五年元丙午」は526年「遷都磐余玉穗」で改元、「教倒五年元辛亥舞遊始」は531年「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」と巨勢政権を倒して改元、「僧聴五年元丙辰」は536年「遷都于桧隈廬入野因爲宮號也」と遷都による改元、「明要?(十)一年元辛酉文書始出来結縄刻木??(止了)」と541年継体元年から25年後、継体24年の継体天皇は「乎繼體之君欲立中興之功者」と宣言し、翌25年「天皇崩」継体帝が崩じて新しい天皇が即位し、紙の使用が始まったと考えられる。

続いて「貴楽二年元壬申」の552年改元は不明だが、百濟から「獻釋迦佛金銅像一躯」と銅像を献上され、「法清四年元甲戌法文唐渡僧善知傳」は554年元年に「五經博士王柳貴代固徳馬丁安僧曇惠等九人代僧道深等七人」と仏法を持って来た。

兄弟六年戊寅」558年改元、「蔵和五年己卯此年老人死」559年は兄弟の6年間に含まれ、「師安一年 甲申」の564年元年は兄弟年号が終わり、「和僧五年乙酉此年法師始成」565年改元、「金光六年庚寅」570年改元、「賢?(称)五年丙申」576年改元、「鏡當四年辛丑新羅人来従筑紫至播磨焼?(之)」581年の改元、「勝照四年乙巳」585年の改元の後、『和漢年契』に「告貴十年終按一説推古元年為喜楽二年為端正三年為始哭自四年至十年」と596年から602年まで始哭年号が有り、「端政五年己酉自唐法華経始渡」と589年が元年の端政が推古元年に含まれる。

これは、推古帝以外に元号を制定する継体帝の後継者が元号を制定し、兄弟元号が有るように、目天皇に兄弟が太子になって、翌年に蔵和年号を制定し、元号を制定すると言う事は、別朝廷を開いた事を意味するのではないだろうか。

磯城嶋宮大連が目連と尾輿連、更に呉王(足尼)と物部氏に複数人の王が存在し、呉足尼は蘇我氏で大漢国→倭国王で稲目と想定される倭古の父かもしれない。

このように、兄弟の王朝が併存して、尾輿の子の炊屋姫が即位して、炊屋姫は目連の孫の泊瀬部の妃のため、目連朝が601年穴穂部皇女の子の豐聰耳が「皇太子初興宮室于斑鳩」と豊浦宮を去り、602年始哭年号が終わり、翌603年に「遷于小墾田宮」と小墾田皇女の2代目彦人皇子出産によって別宮を造(初代彦人が小墾田皇女の小墾田宮に通い婚)った。

豊浦宮には嶋・豊浦皇子と田眼・鎌媛大刀自が住んで、馬子を後ろ盾にした炊屋姫が権力を握り倭国となったと思われ、建元は炊屋姫の権限となり、「金光六年庚寅」570年改元は「蘇我大臣稻目宿禰薨」の、「勝照四年乙巳」585年の改元は、「天皇病彌留崩即天皇之位」と穴穂皇子・穴穂部間人皇女の即位の改元と思われる。 

2023年2月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「廾九年春二月己丑朔癸巳夜半皇太子上宮廄戶豐聡耳尊薨于斑鳩宮是時諸王諸臣及天下百姓皆共長老如失愛兒而塩酢之味在口不嘗少劣如亡慈父以哭泣之聲溢於行路乃耕夫止耟眷女不杵皆日月失耀天地既崩自今已後誰將恃哉是月葬皇太子於磯長陵當此之時高麗僧慧慈聞上宮皇太子薨以大悲之奉為皇太子請僧而設齋親(+)經之日誓願日於日本有聖人日上宮豐聡耳皇子因天攸従以玄聖之徳生日本之國苞貫三統纂先聖之宏獣恭敬三寶救黎元之危實是大聖也今太子既薨我雖異國心在断金其獨生之有何益矣我以來年二月五日必死矣因以迺上宮太子於浄土以共化衆生矣於是慧慈當年期日而死矣是以時人彼此共言其獨非上宮太子之聖慧慈亦聖也」、【二十九年春二月己丑朔癸巳、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨じた。このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう。」と皆がいった。この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。「日本の国に聖人がいた。上宮豊聡耳皇子と言う。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖徳をもって日本の国に生まれた。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をし、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救った。真の大聖だ。その太子が薨じた。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ない。自分一人生き残っても何の益もない。来年の二月五日には、自分もきっと死ぬだろう。上宮太子に浄土で会って、共に衆生に仏の教えを広めたいと思う。」そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人だ。」といった。】と訳した。

『舊事本紀』の豐聡耳の死亡記事には『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の「癸酉王后即世翌日法皇登遐」と癸酉の翌日の甲戌ではなく『日本書紀』どおりで、『上宮聖徳法王帝説』とは異なっていて、天智天皇以降の政権にとっての聖徳太子は上宮法皇、蘇我氏・物部氏にとっての聖徳太子は石上贄古・豐聡耳だったと主張し、慧慈の説話も太子の徳も真実だったことを示している。

蘇我氏は高市蘇我里の石河、武廣國押の満智→廣國押武金日の韓子→武小廣國押盾の馬背→馬背の子が稲目の宿祢のようで、磐井との戦いで天皇が麁鹿火に「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と分割案を提示し、結果、糟屋から広国までを馬背が支配して倭国を名乗り、江田船山古墳出土の『銀錯銘大刀』に記述されるように肥後も支配した上殖葉が倭王で、また、子の馬子が豊国王となるように豊国・肥後も領域と思われ、肥後も治めて 天國排開廣庭の姓を持ち、目天皇に対して偉那の目宿祢()大臣の姓で尾輿天皇と同等の権力を得て、『日本書紀』を記述した政権にとっては稲目が天皇と考えた。

上殖葉が『古事記』に記述されない理由は、押甲や荒山の子ではないためと思われ、上殖葉・稲目大臣は570年欽明三一年に「蘇我大臣稻目宿禰薨」と死亡し、上殖葉は536年から34年も大臣位に就いていたので、子が即位できず、孫の渟中倉太珠敷が14年間王位に就いても、太子が20歳未満で即位出来なかった。

すなわち、彦人が『古事記』584年「甲辰年四月六日崩」の太珠敷死亡時20歳未満だったから、渟中倉太珠敷も若いと考えられ、2代目は倉皇子の可能性が高く、堅塩媛の夫の倉皇子が570年に死亡し、渟中倉太珠敷の皇太子は弟の橘豐日(初代馬子)で、587年用明二年「天皇崩」で初代、626年推古三四年『日本書紀』「大臣薨」と2代馬子豊浦宮初代大臣、更に3代目と56年間、豊浦宮大臣を襲名したと思われる。

そして、推古二十年612年「改葬皇太夫人堅鹽媛於桧隈大陵」と稲目の娘の御狩皇太子夫人が、628年「戊子年三月十五日癸丑崩」に布都姫夫人・豊浦宮女帝が崩じて、さらに、岡本飛鳥天皇嶋大臣が『上宮聖徳法王帝説』「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」と641年辛丑に薨じた。

この大臣薨の卅五年は鎌媛大刀自が岡本宮に遷って35年目だったと思われ、前年の606年に「皇太子亦講法華經於岡本宮」と岡本宮が完成した事を記念した行事だった可能性がある。

2023年2月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書5

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「廾七年冬壬戌朔甲子制日夫不覔事君竭忠之臣者實在崇優二親之子也何者夫父者天也故順天謂孝矣復君者日也故従君謂忠矣其后者月也亦母也故順此謂臣亦云赤也故孝經日求之忠臣者必在於孝子之門矣是孝道至矣辞如零泉辟猶春雨生長万物君逆此道者遂為大禍減福之機如塩入水揔而言之課之道矣別而名之謂八義矣所謂八義者蓋謂孝悌忠仁礼義智信欤復天地日月星辰聖賢神祇者人倫所重也其壽稱官爵福徳營樂者貧生所貴矣可謂擧孝道而格榮祥勤礼儀而獲立身者矣是故比准八義冝制爵位其孝者天也紫冠爲一忠者日也錦冠爲二仁者月也繍冠爲三悌者星也繍冠爲四義者辰也緋冠爲五禮者聖也深緑爲六智者賢也淺緑爲七信者神也深縹爲八祇者祇淺漂爲九其地者母也因号立身黄冠爲十自今巳後永為恒成廾八年春二月甲午朔甲辰上宮廄戶豐聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿祢奉勅撰録先代舊事天皇紀及國記臣連伴造國造及八十部公民等本紀也 春三月甲子朔制日奉爲君后謂不忠者亦奉爲考妣稱不孝者若不舉達而隠之者同處其罪重科刑法也」、【二十七年冬壬戌朔甲子、太子が「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。すべてこのようなことを道という。別にこれを名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。孝は天であり、紫冠を第一とする。忠は日であり、錦冠を第二とする。仁は月であり、繍冠を第三とする。悌は星であり、纏冠を第四とする。義は辰であり、緋冠を第五とする。礼は聖であり、深緑を第六とする。智は賢であり、浅緑を第七とする。信は神であり、深縹を第八とする。祇は祇であり、浅縹を第九とする。地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。今より後、永く常の法とせよ」と定めた。二十八年春二月甲午朔甲辰、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔勅を受け、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。春三月甲子朔、「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」と定めた。】と訳した。

『日本書紀』には603年推古十一年「始行冠位」、604年推古十二年「皇太子親肇作憲法十七條」、十六年608年「衣亦服皆用錦紫繍織及五色綾羅」と『舊事本紀』の制定年二十七年619年と異なり、廾七年冬壬戌朔は605・36・41年に相当し、衣服からは647年の「十三階之冠」の織冠・繍冠・紫冠・錦冠及び深紫・淺紫・眞緋・紺・縁の5色と608年制定と同じで、643年の「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」が『日本書紀』に初出である。

また、『日本書紀』にない、「廾八年春二月甲午朔」、「春三月甲子朔」は646年で、641年に憲法制定、646年に冠位を制定し、嶋大臣が641年薨で626年が馬子薨なので、差が15年と嶋大臣は50歳頃の死亡で子の蝦夷が30歳程度、入鹿は冠位を得る年令ではなく、もっと後の記事と考えられる。

すなわち、十二年の「丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七條」は九州の暦で、俀国の法興帝の太子上宮法皇が作成したと思われ、俀王を天子と呼ぶのであるから、当然中国の天子と同じように、律令を真似て制定したと思われ、『上宮聖徳法王帝説』605年「少治田天皇御世乙丑年五月聖徳王與嶋大臣共謀建立佛法更興三寶即准五行定爵位也七月立十七條法也」を『日本書紀』の604年に記述し、それに対して、畿内では、『舊事本紀』に『日本書紀』とは異なる内容を記述していることから、この項で記述される憲法と冠位を其々の史書が流用したように、641年に天皇嶋・恵佐古が制定したものをこの項に流用したと考えられる。