『日本書紀』では景行朝で拡大した領域の国境・郡境・縣境・邑境を整備したとしている。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「若帯日子天皇坐近淡海之志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王一柱故建内宿祢爲大臣定賜大國小國之國造亦定賜國國之堺及大縣小縣之縣主也天皇御年玖拾伍歳乙卯年三月十五日崩也御陵在沙紀之多他那美也」、【若帶日子天皇は近淡海の志賀の高穴穗宮で天下を治めた。
穂積臣の祖の忍山垂根の娘の弟財郎女を妃に、生んだ子が和訶奴氣王一柱で建内宿禰を大臣にして、大國小國の國造を定め、亦、國國の堺、及び大縣小縣の縣主を定めた。天皇は、玖拾伍歳乙卯の年の三月十五日に崩じ、陵は沙紀の多他那美に在る。」と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「成務天皇諱稚足彦尊者大足彦忍代別天皇第四太子也母皇后八坂入姬命即八坂入彦皇子之女也大足彦天皇四十六年立為太子年二十四六十年冬十一月大足彦天皇崩元年歳次辛未春正月甲申朔戊子皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮二年冬十一月癸酉朔壬午葬於大足彦天皇於倭國山道上陵三年春正月癸酉朔己卯以武内宿祢為大臣也四十八年春三月庚辰朔甥足仲彦尊立為皇太子大足彦天皇皇子日本武尊第二皇子之子也日本武尊娶兩道入姬皇女為妃生三男一女兒稻依別王犬上君武部君等祖次足仲彦尊次布忍入姬命次稚武王近江速部君祖宮道君祖妃吉備武彦女吉備穴戶武姬生二男兒武卯王讚岐綾君等祖次十城別王伊豫別君等祖妃穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生九男兒稚武彦玉命尾津君揮田君武都次稻入別命次武養蝅命波多臣等祖次葦敢竈見別命竈口君等祖次息長田別命阿波君等祖次五十日彦王命讃岐君等祖次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖六十年夏六月己巳朔己卯天皇崩年百七歳凡王子十五之中十四男王一王女」、【成務天皇、諱は稚足彦で大足彦忍代別の第四子で、母の皇后は八坂入姫、八坂入彦の娘だ。大足彦の治世四十六年に、皇太子となり、二十四歳だった。六十年の冬十一月、大足彦天皇が崩じ、治世元年辛未年の正月甲申が朔の戊子の日、即位し、さきの皇后を皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。物部胆咋宿祢を大臣に、志賀高穴穂宮に都を置いた。二年の冬十一月十日、大足彦天皇を倭国の山辺道上陵に葬った。三年の春七日、武内宿祢を大臣とし、四十八年の春三月一日、甥の足仲彦を皇太子とした。足仲彦は、大足彦天皇の皇子の日本武尊の第二皇子だ。日本武尊は、両道入姫皇女を妃とし、三男一女を生んだ。(以下略)】と訳した。
『日本書紀』の政務紀の天文学的朔と違う記述は四年春二月丙寅朔「自今以後國郡立長縣邑置首」と四十八年春三月庚辰朔「立甥足仲彦尊爲皇太子」で共に晦日である。
四年には既に国造や縣主が存在し、崇神天皇十年に「其選郡卿」、前667に「使邑有君村有長」と、熊襲にも伊都縣主がいたので、これは恐らく、都督の彦狹嶋王の「東山道十五國」に置いた説話で、元君子国の支配地なので臣ではなく君で、彦狹嶋・倭建が『古事記』「御火焼之老人續御歌・・・是以誉其老人即給東國造也」と国造を置いている。
また、四十八年は西暦202年から48年後の249年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、卑弥呼の男弟王若しくはその子と思われる熊襲の川上梟帥で、中国の元号と対応させて正しい朔となっていたが、景初3年12月に、景初3年1月を景初2年「後の12月」に変更し、景初3年1月を正始元年1月にしたためにズレたと思われ、この記述も1年前の説話の可能性が有る。
『三国志』に「壹與年十三」とあるが、天皇は20歳以上でないと即位できないが、皇太子は大王と呼ばれ、王は13歳以上で即位でき、この頃の倭国は朝廷でなく、名目上は伊都の高千穂宮朝に倭国の神子の日神子が存在したと思われ、国が纏まらない時、天皇の皇子・皇女を戴く各王家の様子が理解でき、卑弥呼・夏磯媛もその一人である。
また、成務天皇五年の境界は景初4年鏡が存在するように、すでに三角縁神獣鏡をたくさん作っているので、その鏡を使って邑や縣の境界を決めたと考えられ、椿井大塚山古墳は木国にある古墳で、朝廷の中心人物の古墳と思われ、鏡をたくさん所有する王は領地が広い王で、鏡が多く必要だったのだろう。