2021年7月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段7

 



 前項の解説のつづきである。

そして、「天津彦根」も同じで、『日本書紀』では「凡川内直・山代直」の祖だが、『古事記』では「凡川内國造額田部湯坐連木國造倭田中直山代國造馬來田國造道尻岐閇國造周芳國造倭淹知造高市縣主蒲生稲寸三枝部造等之祖」で、『舊事本紀』は高皇産靈の指示で国譲りに参加した「天御陰」が「凡河内直等祖」、その子孫が「凡河内國造橿原朝御世以彦巳曽保理」とある。

ただし、前川茂右衛門寛永版は木国造で、茨木国造ではなくどちらが正しいかわからないが、仁徳紀に茨田の屯倉が記述され、茨(まむ)の木国の可能性がある。

しかし、「茨城國造」が「天津日子根」の孫なら、応神朝の「道江岐閇國造」(建許呂命兒宇佐比乃祢)、「馬來田國造」(茨城國造祖遣許呂)と同じ政務朝に与えられた「師長國造」(茨城國造祖建許呂兒宮富鷺意弥)・「須志國造」(茨城國造祖<紀記>連許詔命兒大布日意弥)が『古事記』に記述されず、すなわち、これらの国造が「天津彦根」の家系と巨勢王朝の後に、若しくは巨勢王朝に敵対する勢力と、姻戚になったと考えられる。

すなわち、「天津日子根」の家系は『舊事本記』の「輕嶋豊明朝茨城國造同祖加米乃意美定賜國造」と応神朝に 「周防國造」となり、「日向襲津彦命奄智君祖」とあるように、「天津日子根」の子孫は周防から熊襲征伐に出発し、日向王になった葛城氏の神武天皇「襲津彦」が「倭(大和)」に侵略して「倭淹知造」、そして、河内を首都に天皇になったことを示す。

大和が首都なら、大和の国造など有り得ず、大和の国造が存在する時は大和に首都がなったことを意味し、同様に『日本書紀』に「剱根者爲葛城國造」とあるが、同様に葛城は綏靖・孝昭天皇の首都で、「三世孫・・・天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻・・・四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦・・・天忍男命之子此命池心朝御世為大連・・・妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后」と孝昭天皇が孫娘の婿と剱根が首都の国王になってしまい矛盾を起こしてしまう。

神武天皇の時に 剱根が葛城國造になって、綏靖の時、葛城の天皇と葛城王が存在し、親子関係から懿徳天皇の時に剱根は葛城國造ではなく葛󠄀木の土神と呼ばれ、孝昭天皇の時代も、剱根の孫が葛󠄀木彦と首都葛城に天皇と葛城王が存在し、剱根を葛城王にしたのは、物部氏の神武が葛城氏から皇位を奪って葛城国造に任命したと考えられる。

また、『三国志』の壱岐や対馬の官が彦であるが、『舊事本記』は縣主と主で、『三国志』以降に官名が変わり、国造の初出が『古事記』の崇神天皇の「木國造荒河刀辨」で景行天皇が「賜國々之國造亦和氣及稲置縣主也」と与えている。

そして、吾子篭が仁徳紀に倭直となり、雄略紀に既に大倭國造吾子篭宿禰となっていて、吾子篭の説話が「珍彦爲倭國造・椎根津彥命爲大倭國造」の説話と解り、『古事記』の雄略記に「堅魚作舎者誰家荅志幾之大縣主家尓」と磯城に住む大縣主すなわち大国王の家が天皇と同じ宮殿造りだったと怒り、それが、崇神天皇の「師木水垣宮」か垂仁天皇の「師木玉垣宮」の王家と解る。

すなわち、仁徳紀は吾子篭にとっては、神話及び神武紀の時代だったことが理解できる。


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