2021年7月30日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第七段4

  続けて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「因此而常夜往於是万神之聲者狭蝿那須滿万妖悉發是以八百万神於天安之河原神集集而高御産巣日神之子思念金神令思而集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵而求鍛人天津麻羅而科伊斯許理度賣命令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉命而内抜天香山之真男麻(?鹿)之肩抜而取天香山之天婆々迦而令占令麻迦那波而天香山之五百津真賢木矣根許士尓許士而於上枝取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉於中枝取繋八尺鏡於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而」、【これで常夜に行った。萬の神が言うに、騒ぎ声が満ちて、萬での悪いことが発生した。それで八の百柱の萬神は、天の安の河原に集って高御産巣日の子の思念金に考えさせて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせて、天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵を取って、鍛冶の天津麻羅を求めて、伊斯許理度賣に命じて鏡を作らせ、玉祖に命じて、八の尺の勾璁の五百津のみすまるの珠を作らせて、天兒屋、布刀玉を呼んで、天の香山の眞男鹿の肩の骨を拔いて、天の香山の天のウワミズザクラを取って、占わせて天の香山の五百津眞賢木を根をねじり抜いて、上枝に八の尺の勾璁の五百津のみすまるの玉を取りつけ、中枝に八の尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を垂した。】と訳した。

続けて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「故万神之聲如狹蝿鳴万妖悉發往常世國故群神憂迷手足内廣凡厥庶事燎燭而辨矣于時八百万神於天八湍河河原神會集而議計其可奉祈謝之方矣高皇産靈尊兒思兼神有思慮之智深謀遠慮議日聚常世長鳴之鳥逓使長鳴遂聚令鳴覆宜圖造日神御像奉振祈祷矣覆鏡作祖石凝姥命爲冶工則採天八湍河之川上天堅石覆金剥真名鹿皮以作天之羽?()矣覆採天金山之銅令鑄造日矛此鏡少不全則紀伊國所坐日前神是成覆使鏡作詛天糠戸神召石凝姥命之子也採天香山之銅使圖造日像之鏡其狀美麗矣而觸窟戸有子瑕其瑕於今猶存即是伊勢崇秘大神(?)謂八咫鏡亦名真經津鏡是也覆令玉作祖櫛明玉神作八坂瓊之五百箇御?()之珠矣櫛明玉神者伊奘諾尊之兒也覆宜令天太玉神卒諸部神造幣帛覆令麻續祖長白羽神種麻以爲青和幣令衣穪白羽此其縁也覆令津咋見神種殖穀木綿以作白和幣並一夜蕃茂也覆令粟忌部祖天日鷲神造木綿者 別行覆令倭文造祖天羽槌雄神織文布者覆令天棚機姫神織神衣(?)謂和衣者亦尓攴大綺覆令紀伊忌部遠祖手置帆負神爲作笠者並一食覆令彦狭知神爲作盾者覆令立作部遠祖豐球玉屋神爲造立者覆令天目一箇神爲造刀斧乃鐵鐸者謂佐切政覆令野槌者採五百筒野薦八十玉籤覆令手机負彦狭二神以天御量詔大小量雑器類名覆伐大狭少狭之材而造瑞殿古語美豆阿弖川覆令山雷者堀天香山五百箇真賢木古語左弥左自乃弥右自上枝懸八咫鏡亦名真經津之鏡中枝懸八坂瓊之五百箇御?()之玉下枝懸青和幣白和幣凡厥種種諸物儲備之事具如(?)謀也」、【そのため、万の神の騒ぎ声が満ちて、万での悪いことが発生し、常世の国に行ってしまった。神達は右往左往して、お手上げで、灯りをともさないとなにもできなかった。八の百柱の万神は、天の八の湍河の河原に集まって、どう祈るか相談した。高皇産霊の子の思兼は思慮深くよく考えて「常世の長鳴鳥を集めて、長鳴きさせよう」と言って鳴かせた。また、日の神の人形を作って、祈った。また、鏡作の祖の石凝姥を職人にして、天の八の湍河の河上の天の堅石を採らせた。また、真名鹿の皮を丸剥ぎにし、天の羽鞴を作り、天の金山の銅を採って、日の矛を作らせた。このとき作った鏡は不出来だった。紀伊国にいる、日前の神がこれだ。また、鏡作の祖の石凝姥の子の天の糠戸に、天の香山の銅で日の形の鏡を作らせた。その出来上りは美麗だったが、岩戸に触れて傷がついた。その傷は今もあり伊勢にお祀りする大神だ。いわゆる八の咫鏡、またの名を真経津鏡がこれだ。また、玉作の祖の櫛明玉に、八坂瓊の五百筒の御統のための玉を作らせた。櫛明玉は、伊奘諾の子だ。また、天太玉に、諸々の部の神を率いて幣帛を作らせた。また、麻積の祖の長白羽に麻を植えさせて、これを青和幣とした。いま、衣を白羽と言うのはこれが由来だ。また、津咋見に穀木綿を植えさせ、これで白和幣を作らせた。どちらも一晩で生い茂った。また、阿波の忌部の祖の天日鷲に、木綿を作らせた。また、倭文造の祖の天の羽槌雄に、文布を織らせた。また、天の棚機姫に、神衣を織らせた。いわゆる和衣だ。また、紀伊の忌部の遠祖の手置帆負を、笠作にした。また、彦狭知に、楯を作らせた。また、玉作部の遠祖の豊球玉屋に、玉を作らせた。また、天目一箇に、諸々の刀・斧・また鉄鐸を作らせた。また、野槌に、たくさんの野薦・玉をつけた木を集めさせた。また、手置帆負と彦狭知に、天のはかりで大小の様々な器の容量で名をつけさせた。また、大小の谷の材木を伐って、瑞殿を造らせた。また、山雷に、天の香山の枝葉のよく茂った賢木を堀りとらせた。古語でサネサジノネユジという。賢木の上の枝には八の咫鏡、またの名を真経津の鏡を掛けた。中ほどの枝には八の坂瓊の五百箇の御統の玉を掛けた。下の枝には青和幣・白和幣を掛けた。およそ、その様々な物を設け備えることは、打ち合わせどおりだった。】と訳した。

ここの常夜は『日本書紀』の神功皇后紀の「晝暗如夜已經多日時人曰常夜行之也」の用法で、垂仁紀の「田道間守至自常世國」とは別物で『日本書紀』と『古事記』の前後関係をよく表している。

元々の日神の神話は、北部九州を舞台にした神話で、『伊未自由来記』にある、概略「出雲の国を奪った踏鞴でオロチ型武器を作って強力だったので三つ子の島も奪い於母の島にも攻め込んできたが、かすやの神の援助で米を作った」と「カスヤ」は日国で、「八岐」すなわち八国の遠呂智に支配された萬神が相談して、日国の高の神の産巣の日神の子の思金の力を借りたと考えると良く整合し、九州の神話を隠岐の神話に利用したと考えられる。

そして、鏡も隠岐には黒曜石が豊富にあり、その切断面は日が反射し、採掘した堅石(黒曜石)を伊斯許理度賣(石凝姥)に鏡へ加工させたと、隠岐の物産と整合し、日神の配下に祀らせたので、『日本書紀』の卑弥呼に想定した「曰神夏磯媛上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」、筑紫の狗奴國王の狗古智卑狗に推定した人物の「岡縣主祖熊鰐周芳沙麼之浦上枝掛白銅鏡中枝掛十握釼下枝掛八尺瓊」、「伊覩縣主祖五十迹手上枝掛八尺瓊中枝掛白銅鏡下枝掛十握釼」とやはり日国の祭祀儀礼を記述し、よく内容に合致している。

そして、『舊事本紀』は「瑞殿」を造らせ、八国風の石鏡を銅鏡の真経津鏡に書き換え、度量衡を定めるなど、王の爾を作り、王宮を造り、秤を作ったのだから、建国で、素戔嗚と戦い勝利したと思われ、銅鏡を作り始めた前200年以降の神話である。


2021年7月28日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第七段3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は「速須佐之男命白于天照大御神我心清明故我所生之子得手弱女因此言者自我勝云而於勝佐備離天照大御神之營田之阿埋其溝亦其於聞看大嘗之殿屎麻理散故雖然爲天照大御神者登賀米受而告如屎酔而吐散登許曽我那勢之命爲如此又離田之阿埋溝者地矣阿多良斯登許曽我那勢之命爲如此登詔雖直猶其悪態不止而轉天照大御神坐忌服屋而合織神御衣之時穿其服屋之頂逆剥天斑馬剥而所随(?堕)入時天衣織女見驚而於挨(?梭)衝陰上而死故於是天照大御神見畏開天石屋戸而判(?刺)許母理坐也尓高天原皆暗葦原中國悉闇」、【ここで速の須佐の男は、天照に「私は清廉潔白だ。だから、私が生んだ子はやさしい娘であった。これで、私が勝った。」と言って、勝ち誇って、天照の営む田の阿(?)を引き離して、その溝を埋め、またその大嘗を行う御殿に便を撒き散らした。それでも天照は咎めないで、「便などは、酔って吐き散らすのと同じだ。私の大事な貴方はどうしてこのようなことをした。また田の畔を切り離し、溝を埋めた土地も惜しくはない。私の大事な人、貴方は私にどうしてこのようなことをした。」と問いただしたが、なおその悪態が止まずにますます酷くなった。天照は祭礼の服を織る所に居て、神衣を織っていた時、その機屋の屋根に穴を開けて、天の斑馬を逆剥ぎに剥いで投げ入れた時に、天の機織の女が見て驚き、梭で陰部を衝いて死んだ。それで天照が見て畏れて、天の石屋戸を開いて入って籠った。そこで高天の原がすべて暗くなり、葦原中國は残らず暗闇になった。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「伊奘諾伊弉冉二尊相生火神迦具突智與土神埴安姫二神・・・(後述)・・・養蝅之道乃起絍織之業者也」、「天照太神天垣田爲御田亦御田有三處号日天安田天平田天邑併田並皆良田之處雖經霖旱而無(?)損傷矣素戔鳥尊田有三處号日天樴田天川依田天口?()田並皆磽地而雨則流之旱則焦之素戔鳥尊之爲行也甚以無狀妬害姉田之時春則重播種子且?()其畔捶籤放樋廢渠埋溝也秋則放天斑駒使伏田中昌以絡繩捶籤伏馬也覆見天照太神嘗 大嘗亦新嘗時則於新宮御席之下放尿送糞日神不知徑坐席凡厥諸事一日無息盡是無狀雖然日神思親之意不慍不恨皆以悉容焉天照太神方織神衣居齊服殿則天斑駒生剝逆剝穿殿甍而投納之時天照太神驚動以捘傷身矣一説織女稚日姬尊乃驚而隨機以(?)怯損傷體而神退矣其稚日姬尊者天照太神之妹也天照太神謂素戔鳥尊日汝猶有黒心不欲與汝相見乃入于天窟閇磐戸而幽居焉故高天原皆闇亦葦原中國六合之内常闇不知晝夜之殊」、【天照は、天の垣田を御田とした。また、御田は三ヶ所あり、名づけて天の安田・天の平田・天の邑并田という。これらはみな良田だった。長雨や旱魃にあっても、損なわれることがなかった。素戔烏にも三ヶ所の田があった。名づけて天の樴田・天の川依田・天の口鋭田だ。これらはみなやせ地だった。雨が降れば流れ、日照りになると旱魃になった。素戔烏は成果が出ないため、、妬んで姉の田を害した。春には種を重ねて蒔き、畔を壊し、竹串をさし、筧を置いたり、用水路を崩したり、溝を埋めたりした。秋には天の斑馬を放って、田の中を荒した。縄を結んで、竹串をさして、馬で荒した。また、天照が神嘗・大嘗・新嘗を見て、新宮の席の下に放尿脱糞した。日の神は知らずに席に着いた。こんなことは、一日も止むことはなく、確かに無作法だったが、日の神は、親心を持ってとがめず恨まず、すべて赦した。天照が神衣を織るために機屋へ行った。そこへ素戔烏は、天の斑馬を生きたまま皮を剥いで、機屋の屋根に穴をあけて投げ入れた。このとき天照はとても驚いて、機織の梭で体を傷つけた。一説には、織女の稚日姫が驚いて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけ亡くなったという。その稚日姫は、天照の妹だ。天照は素戔烏に「お前はやはり邪心がある。もうお前と会いたくない」と言って、天の岩屋に入り、磐戸を閉じ隠れた。そのため、高天の原は暗くなり、また葦原の中の国も六合も真っ暗になって、昼夜の区別が無くなった。】と訳した。

『舊事本紀』の前半は、類似の説話が後で『古事記』に対応した内容で記述されるので、後に回した。

この説話の3史書の異なる点が有り、『日本書紀』は全て大神の事件で、天照が傷つけられたので怒って岩屋に閉じこもったので、六合が暗くなり、大神の会話は葦原中國にかわったのに対し、『古事記』は同じく全て大神で、大神は我慢していたが、天の機織女が殺され閉じこもったので、高天の原が暗くなり、付け加えて葦原中國も暗くなった。

それに対し、『舊事本紀』は大神が途中から日神に書き換わり、日神は我慢したが、大神が傷ついたので怒って閉じこもり、高天の原が暗くなり、付け加えて、葦原中国も六合も暗くなったと記述している。

すなわち、高天の原も葦原中国も六合も全て異なる王の支配地域で、『日本書紀』は六合、すなわち、黄海・玄界灘・日本海南西部を支配する『山海經』の大人国の氏族の神話で、『古事記』は高天原を支配する氏族の神話に「なか国」を支配する『山海經』の君子国の神話を付け加え、『舊事本紀』は高天原を支配する氏族の神話に六合を支配する氏族の神話と「なか国」を支配する『山海經』の丈夫国・豊日の氏族の神話を付け加えたことを意味する。

そして、本来の元となった神話は、高天原を支配する日神の地域に素戔嗚が来て農法を改良して国を取られそうになったが、我慢していた日神の氏族の機織女の稚日姫が傷ついたので、日神が閉じこもった説話と考えられる。

大神が支配する氏族が、この神話の日神や稚日姫を大神に置き換えたのが『日本書紀』で、大国が三身国(日国)の綱で建国したように、日国王の日神の神話を大国がつかい、そして、『古事記』は日向国と「なか国(豊国の分国)」の神話を付け加え、『舊事本紀』は『古事記』に『日本書紀』の神話を加え、神話の時系列と史書の時系列が一致する。

2021年7月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第七段2

  次の一書は、一書()一書曰是後日神之田有三處焉號曰天安田天平田天邑幷田此皆良田雖經霖旱無所損傷其素戔嗚尊之田亦有三處號曰天樴田天川依田天口鋭田此皆磽地雨則流之旱則焦之故素戔嗚尊妬害姉田春則廢渠槽及埋溝毀畔又重播種子秋則捶籤伏馬凢此惡事曾無息時雖然日神不慍恒以平恕相容焉云云至於日神閉居于天石窟也諸神遣中臣連遠祖興台産靈兒天兒屋命而使祈焉於是天兒屋命掘天香山之真坂木而上枝懸以鏡作遠祖天拔戸兒巳凝戸邊所作八咫鏡中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿乃使忌部首遠祖太玉命執取而廣厚稱辭祈啓矣于時日神聞之曰頃者人雖多請未有若此言之麗美者也乃細開磐戸而窺之是時天手力雄神侍磐戸側則引開之者日神之光滿於六合故諸神大喜即科素戔嗚尊千座置戸之解除以手爪爲吉爪棄物以足爪爲凶爪棄物乃使天兒屋命掌其解除之太諄辭而宣之焉世人愼收己爪者此其縁也既而諸神嘖素戔嗚尊曰汝所行甚無頼故不可住於天上亦不可居於葦原中國宜急適於底根之國乃共逐降去于時霖也素戔嗚尊結束青草以爲笠蓑而乞宿於衆神衆神曰汝是躬行濁惡而見逐謫者如何乞宿於我遂同距之是以風雨雖甚不得留休而辛苦降矣自爾以来世諱著笠蓑以入他人屋內又諱負束草以入他人家內有犯此者必債解除此太古之遺法也是後素戔嗚尊曰諸神逐我我今當未去如何不與我姉相見而擅自俓去歟廼復扇天扇國上詣于天時天鈿女見之而告言於日神也日神曰吾弟所以上来非復好意必欲奪之我國者歟吾雖婦女何當避乎乃躬裝武備云云於是素戔嗚尊誓之曰吾若懷不善而復上来者吾今囓玉生兒必當爲女矣如此則可以降女於葦原中國如有清心者必當生男矣如此則可以使男御天上且姉之所生亦同此誓於是日神先囓十握剱云云素戔嗚尊乃轠轤然解其左髻所纒五百箇統之瓊綸而瓊響瑲瑲濯浮於天渟名井囓其瓊端置之左掌而生兒正哉吾勝勝速日天忍穗根尊復囓右瓊置之右掌而生兒天穗日命此出雲臣武藏國造土師連等遠祖也次天津彥根命此茨城國造額田部連等遠祖也次活目津彥根命次熯速日命次熊野大隅命凢六男矣於是素戔嗚尊白日神曰吾所以更昇来者衆神處我以根國今當就去若不与姉相見終不能忍離故實以清心復上来耳今則奉覲已訖當隨衆神之意自此永歸根國矣請姉照臨天國自可平安且吾以清心所生兒等亦奉於姉已而復還降焉廢渠槽此云祕波鵝都捶籤此云久斯社志興台産靈此云許語等武湏毗太諄辭此云布斗能理斗轠轤然此云乎謀苦留留爾瑲瑲此云乎奴儺等母母由羅爾」、【一書に、この後、日神の田が三所有って名付けて天の安田・天の平田・天邑幷田という。これは皆良田だ。長雨や旱魃にあっても、被害を受けなかった。素戔嗚の田も三所有った。名付けて天の樴田・天の川依田・天の口鋭田という。此は皆やせ地だ。雨なら流され、旱魃だと枯れた。それで、素戔嗚は、妬んで姉の田を害した。春は溝を壊したり埋めたりして、畔を壊し、重ねて種子を播いた。秋は作物を串刺しし、馬を伏せて土を固めた。すべて悪事で止めようとしなかった。それでも、日神は、怒らず、いつも平静を保って容認した、云云。日神が、天の石窟に閉じ籠るに至って、諸神は、中臣の連の遠祖の興台産靈の子の天の兒屋を派遣して祈った。そこで、天の兒屋は、天の香山の眞坂木を掘って、上枝に、鏡作の遠祖の天の拔戸の子の石凝戸邊が作った八咫鏡を懸げ、中枝には、玉作の遠祖の伊奘諾の子の天の明玉が作った八坂瓊の曲玉を懸げ、下枝には、粟の國の忌部の遠祖の天の日鷲の作った木綿を懸げて、忌部の首の遠祖太玉に執らせて、広く厚く称えて祈った。その時に、日神が聞いて、「この頃は、人が多く誓願するといっても、未だこの様にりっぱで美しい言葉はなかった」と言った。それで細く磐戸を開けて窺った。この時に、天の手力雄が磐戸の側に控えて、引き開けたので、日神の光が、六合に滿ちた。それで、諸神は大変喜んで、素戔嗚に千座置戸の解除を科して、手の爪を吉の爪の棄物とし、足の爪を凶の爪の棄物とした。それで天の兒屋に、その解除の太祝詞を司って宣べた。世の人は、愼んで自分の爪を集めるのは、これがその縁だ。既に諸神は、素戔嗚を、「お前の所行は甚だ無頼だ。それで、天上に住んではならない。また葦原の中國にも居てはならない。すみやかに底根の國にゆけ」と責めて、それでみなで放逐して去らせた。その時に、長雨が降った。素戔嗚は、青草を結び束ねて、笠蓑として、宿を衆神に乞うた。衆神は、「お前は自分の行いが汚らわしくて、放逐された者だ。どうして宿を私に乞う」と言って、同じように拒んだ。それで、雨風が甚しくても、留って休むこと得が出来ず、辛く苦しみながら降った。

それ以来、世間では、蓑笠を着けて、他人の屋内に入ること諱む。また束の草を負って、他人の   家内に入ること諱む。これを犯した者は、必ず解除を求めた。これは、太古の遺法だ。この後に、素戔嗚は「諸神が私を放逐した。私は、今から永遠に去る。どうして私の姉と会わないで、かって気ままに自らまっすぐに去れるか」と言って、また天を扇いで國を扇いで、天に上り至った。その時に天の鈿女が見て、日神に告げた。曰神が、「私の弟が上って来た理由は、きっと好い心掛けでは無い。必ず私の國を奪うつもりだ。私は、婦女と言ってもどうして避けずにいられようか」と言って、それで身体に武器を備え装い、云云。ここに、素戔嗚は、誓って、「私は、もし善くないことを考えて、上って来たのなら、私は、今玉を囓んで生む子はきっと女だ。それなら、女を葦原の中國に降してください。もし清い心が有ったら、必ず男を生むから、男に天上を御させてください。また姉の生むのも、この誓に同じでしょう」と言った。ここで、日神は、まず十握劒を囓み、云云。素戔嗚は、すなわち轆轤のように、その左の髻に纏いた五百箇の統の瓊の綸を解いて、瓊が静かに響き合い、天の渟名井で濯いで浮くその瓊の端を囓んで、左の掌に置いて、生れた子は、正哉吾勝勝速日天忍穗根。また右の瓊を囓んで、右の掌に置いて、生れた子は、天穗日。これは出雲臣・武藏國造・土師連の遠祖だ。次に天津彦根。此は茨城國造・額田部連の遠祖だ。次に活目津彦根。次に熯速日。次に熊野大角。すべてで六男。そこで、素戔嗚は、日神に「私がまた来た理由は、衆神が、私を根國に所払いした。今すぐに就きに去ろうとしている。もし姉と会えなければ、どうして忍んで離れることが出来ましょう。だから、ほんとうに清い心で、上って来ただけだ。今、会うことが出来た。ほんとうに衆神の思うように、ここから永遠に根國へ行きます。お願いだから、姉よ、天國を照して臨むことで、自ずから平安になりましょう。また私が清い心で生んだ子達を、また姉に差し上げます」と言った。それでまた還り降った。廢渠槽これをひはがつという。捶籤をくしざしという。興台産靈をこごとむすひという。太諄辭をふとのりとという。轆轤然ををもくるるにという。瑲瑲をぬなとももゆらにという。】と訳した。

この神話は一書()より後の時代の神話で、中臣氏に伝わる神話のようで、兒屋の父が興台産靈と「日」の出身で、『舊事本紀』に「素戔鳥尊將昇天時有一神號羽明玉此神奉進以瑞八坂瓊之曲玉」と明玉は曲玉を素戔嗚に献上した安芸の神、安芸は以前は豊日国に支配され、中臣氏は「なか」国の王で、足仲彦の臣下になった頃の神話だろうか。

また粟国の日鷲は一書()では忌部の遠祖が太玉だったのが忌部首の遠祖に代わって、忌部の遠祖とされ、すなわち、女系は同じ忌部だが、一書()の神話を造った時代の忌部の祖が太玉で、一書()の時代は日鷲の男系が忌部氏に婿入りし、太玉の男系はその配下にされたということだろう。

天穗日に武蔵国造の祖が含まれ、武蔵国造は政務天皇が付与しているので、政務天皇以降に纏められた説話と解り、天津彦根に「凡川内直山代直等祖」が記述されず、『日本書紀』本文には「茨城國造・額田部連」が記述されないのは、天津彦根が平郡氏とは疎遠で、それに対して、中臣氏は物部氏・尾張氏・葛城氏全てに仕えたようで、尾張氏の氏姓の臣の中臣烏賊津と物部氏の氏姓の連の烏賊津連を持ち、中臣烏賦津使主と平郡氏に臣従している。

2021年7月23日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第七段1

  日本書紀慶長版は「後に、素戔嗚が蛮行を行い(実際は善政)怒って天の石窟に籠ったので六合が暗闇に。 萬神は考えて思兼神が常世長鳴鳥あつめて鳴せ、手力雄神に磐戸の側に置き、中臣連の遠祖の天兒屋・忌部の遠祖太玉は天香山の眞坂樹を掘って上枝に八坂瓊の五百箇御統を懸け、中枝に八咫鏡を懸け、<あるいわ眞經津鏡と云う>下枝に青和幣白和幣を懸けて祈った。 又、猨女君の遠祖天鈿女は手に茅纏の茅を持ち、天の石窟の戸の前に立ち、演じた。 天の香山の眞坂樹を鬘とし、蘿を手繦として、火處を燒き、覆槽を置き、顯神明の憑談をした。それを天照が聞いて、自分がいないのに賑やかなので奇妙に思い磐戸を開いて窺ったので手力雄神が引き出した。 中臣神・忌部神、端出之繩で結界して、諸神は罪過を素戔嗚尊に科して、千座置戸に幽閉罪を贖わせ、手足の爪を拔き放逐した」と天石窟の説話である。

本文は、銅鏡を使う時代の神話で、「なか国」の安芸での説話で、後に中足彦より前に「なか国」王となる天兒屋や珍彦と関係がありそうな鈿女と神武東征の協力者の神話を使っている。

そして、一書()一書曰是後稚日女尊坐于齋服殿而織神之御服也素戔嗚尊見之則逆剥斑駒投入之殿內稚日女尊乃驚而墮機以所持梭傷體而神退矣故天照大神謂素戔嗚尊曰汝猶有黑心不欲與汝相見乃入于天石窟而閉著磐戸焉於是天下恒闇無復晝夜之殊故會八十萬神於天髙市而問之時有髙皇産靈之息思兼神云者有思慮之智乃思而白曰宜圖造彼神之象而奉招禱也故即以石凝姥爲冶工採天香山之金以作日矛又全剥真名鹿之皮以作天羽韛用此奉造之神是即紀伊國所坐日前神也石凝姥此云伊之居梨度咩全剥此云宇都播伎」、【一書では、この後に、稚日女が齋服の御殿にいて神の服を織っていた。素戔嗚はそれを見、斑駒を逆剥して御殿の中に投げ入れた。稚日女は驚いて機から墮ち、持った杼で体を傷つけて死んでしまった。それで、天照は素戔嗚に「お前にはまだ邪心が有る。お前とは会いたくない」と言って、天石窟に入り、磐戸を閉じ、天下を真っ暗にして昼夜の区別が無くなった。それで、八十萬の神を天高市に集めて聞いた。その時に高皇産靈の子の思兼という者がいて思慮分別が有った。「神の象を造り、祈祷しよう」と考えて言った。そのため、石凝姥を冶工として、天香山の金を採って、日矛を作った。また眞名鹿の皮を全て剥ぎ、天の羽鞴を作った。これを用いて造った神は、即ち紀伊國に坐す日前神だ。石凝姥をいしこりどめと言う。全剥、をうつはぎと言う。】と訳した。

この神話は、天照ではなく大倭国の日女と銅矛を使う丈夫国発の素戔嗚の神話と考えられ、それは、大国が三身の綱で建国しているので、丈夫国の支援の中に大倭国があると思われるからである。

そして、丈夫国の横暴に対して、八国である君主国の十人の王・つみが集まって『舊事本記』に「八意思兼」と記述されるように八国の信濃の王の活躍で丈夫国を懐柔したと考えられ、八岐大蛇の説話に繋がるのだろう。

次の一書は、一書()一書曰日神尊以天垣田爲御田時素戔嗚尊春則塡渠毀畔又秋穀已成則冒以絡繩且日神居織殿時則生剥斑駒納其殿內凢此諸事盡是無狀雖然日神恩親之意不慍不恨皆以平心容焉及至日神當新嘗之時素戔嗚尊則於新宮御席之下陰自送糞日神不知俓坐席上由是日神舉體不平故以恚恨廼居于天石窟閉其磐戸于時諸神憂之乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡忌部遠祖太玉者造幣玉作部遠祖豊玉者造玉又使山雷者採五百箇真坂樹八十玉籤野槌者採五百箇野薦八十玉籤凢此諸物皆来聚集時中臣遠祖天兒屋命則以神祝祝之於是日神方開磐戸而出焉是時以鏡入其石窟者觸戸小瑕其瑕於今猶存此即伊勢崇祕之大神也已而科罪於素戔嗚尊而責其秡具是以有手端吉棄物足端凶棄物亦以唾爲白和幣以洟爲青和幣用此解除竟遂以神逐之理逐之送糞此云倶蘇摩屢玉籤此云多摩倶之秡具此云波羅閉都母能手端吉棄此云多那湏衞能餘之岐羅毗神祝祝之此云加武保佐枳保佐枳枳遂之此云波羅賦」、【一書に、日神は天の垣田を御田とした。ある時に素戔嗚が春には渠を埋めて畔を壊す。又、秋の穀物が実った時に、向う見ずに縄で結ぶ。また日神が織殿に居る時に、斑駒を生きたまま皮を剥いで、御殿の中に置いた。すべてこの諸々の事、残らず非道だ。しかし、日神は温情があって咎めず恨まなかった。全て平静を保って容認した。日神が新嘗した時に、素戔嗚は新宮の席に密かに糞を放った。日神は知らずに直接席の上に坐った。これで、日神は立ち上がって心がおだやかでないようだった。それで、怒って天石窟に入ってその磐戸を閉じた。その時に、諸神は、憂えて、鏡作部の遠祖の天糠戸に鏡を造らせた。忌部の遠祖太玉に幣を造らせた。玉作部の遠祖豐玉に玉を造らせた。又、山雷は五百箇の眞坂樹の八十玉籤を採らせた。野槌は五百箇の野薦の八十玉籤を採らせた。すべてこの諸物をもって、みな集まり来た。その時に中臣の遠祖の天兒屋は神を祀った。ここで、日神は磐戸を開けて出てきた。この時に、鏡を以て石窟に入ったら、戸に觸れて小さな瑕がついた。その瑕は今もある。これが伊勢に密かに崇拝される大神だ。すでに罪を素戔嗚に科して、お祓いの道具で責めた。これで、手の端の吉い棄物と足の端の悪い棄物が有った。また唾を白和幣として、洟を青和幣として、これを祓いに用いて、神逐の方法で追い祓った。送糞をくそまるという。玉籤をたまくしという。祓具をはらへつものという。手端吉棄をたなすゑのよしきらひという。神祝祝之をかむほさきほさききという。逐之をはらふという。】と訳した。

一書()は天照が記述されない、おそらく、一番の元となった神話と考えられ、素戔嗚が農耕を改良したが、保守派が怒り、素戔嗚の粗相(本来は田に肥料を撒いた)に怒り岩戸に籠ったので神を祀って戻ってもらったと、太玉や天兒屋達神主の始まりの神話で、山雷・野槌と対馬の神の神話が大元のようで、豐玉彦は神武天皇の母方の祖父なので、日向襲津彦の母系の先祖神、豊国の神話と考えられる。


2021年7月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段7

 



 前項の解説のつづきである。

そして、「天津彦根」も同じで、『日本書紀』では「凡川内直・山代直」の祖だが、『古事記』では「凡川内國造額田部湯坐連木國造倭田中直山代國造馬來田國造道尻岐閇國造周芳國造倭淹知造高市縣主蒲生稲寸三枝部造等之祖」で、『舊事本紀』は高皇産靈の指示で国譲りに参加した「天御陰」が「凡河内直等祖」、その子孫が「凡河内國造橿原朝御世以彦巳曽保理」とある。

ただし、前川茂右衛門寛永版は木国造で、茨木国造ではなくどちらが正しいかわからないが、仁徳紀に茨田の屯倉が記述され、茨(まむ)の木国の可能性がある。

しかし、「茨城國造」が「天津日子根」の孫なら、応神朝の「道江岐閇國造」(建許呂命兒宇佐比乃祢)、「馬來田國造」(茨城國造祖遣許呂)と同じ政務朝に与えられた「師長國造」(茨城國造祖建許呂兒宮富鷺意弥)・「須志國造」(茨城國造祖<紀記>連許詔命兒大布日意弥)が『古事記』に記述されず、すなわち、これらの国造が「天津彦根」の家系と巨勢王朝の後に、若しくは巨勢王朝に敵対する勢力と、姻戚になったと考えられる。

すなわち、「天津日子根」の家系は『舊事本記』の「輕嶋豊明朝茨城國造同祖加米乃意美定賜國造」と応神朝に 「周防國造」となり、「日向襲津彦命奄智君祖」とあるように、「天津日子根」の子孫は周防から熊襲征伐に出発し、日向王になった葛城氏の神武天皇「襲津彦」が「倭(大和)」に侵略して「倭淹知造」、そして、河内を首都に天皇になったことを示す。

大和が首都なら、大和の国造など有り得ず、大和の国造が存在する時は大和に首都がなったことを意味し、同様に『日本書紀』に「剱根者爲葛城國造」とあるが、同様に葛城は綏靖・孝昭天皇の首都で、「三世孫・・・天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻・・・四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦・・・天忍男命之子此命池心朝御世為大連・・・妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后」と孝昭天皇が孫娘の婿と剱根が首都の国王になってしまい矛盾を起こしてしまう。

神武天皇の時に 剱根が葛城國造になって、綏靖の時、葛城の天皇と葛城王が存在し、親子関係から懿徳天皇の時に剱根は葛城國造ではなく葛󠄀木の土神と呼ばれ、孝昭天皇の時代も、剱根の孫が葛󠄀木彦と首都葛城に天皇と葛城王が存在し、剱根を葛城王にしたのは、物部氏の神武が葛城氏から皇位を奪って葛城国造に任命したと考えられる。

また、『三国志』の壱岐や対馬の官が彦であるが、『舊事本記』は縣主と主で、『三国志』以降に官名が変わり、国造の初出が『古事記』の崇神天皇の「木國造荒河刀辨」で景行天皇が「賜國々之國造亦和氣及稲置縣主也」と与えている。

そして、吾子篭が仁徳紀に倭直となり、雄略紀に既に大倭國造吾子篭宿禰となっていて、吾子篭の説話が「珍彦爲倭國造・椎根津彥命爲大倭國造」の説話と解り、『古事記』の雄略記に「堅魚作舎者誰家荅志幾之大縣主家尓」と磯城に住む大縣主すなわち大国王の家が天皇と同じ宮殿造りだったと怒り、それが、崇神天皇の「師木水垣宮」か垂仁天皇の「師木玉垣宮」の王家と解る。

すなわち、仁徳紀は吾子篭にとっては、神話及び神武紀の時代だったことが理解できる。


2021年7月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段6

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「天照太神勑日原其物根則玉者是吾物也故化生六男悉是吾兒乃取而子養令治天原也其劔者是汝物也故吾(?)生三女是(?尓・爾)兒也授素戔鳥尊則降居于葦原中國也宜降居築紫國菟狹嶋在北海道中号曰道中貴因教之曰奉助天孫而爲天孫(?)祭則宗像君(?)祭之神一云水沼君等瀛津島姬命者是(?)居于遠瀛者此田心姬命也邊津島姬命者是(?)居于海濱者此瑞津嶋姬命也中津島姬命者是(?)居于中嶋者此市杵嶋姬命也」、【天照太神が「その元を考えると、玉は私の物だから、この成り出た六柱の男神は全部私の子だから、引き取って子として養い、高天原を治めさせよう。その剣はお前の物だから、私が生んだ三柱の女神はお前の子だ」三柱の女神たちを授けて素戔烏は、葦原の中国に降らせた。筑紫国の宇佐嶋に降らせるのがよい。北の海路にいる、名が道主貴は「天孫を助け、天孫のために祀りなさい」と示した。これがすなわち、宗像君が祀る神だ。一説には、水沼君らが祀る瀛津島姬神がこれである。瀛津嶋姫は、遠沖にいる田心姫命のことだ。辺津嶋姫は、海浜にいる瑞津嶋姫のことだ。中津嶋姫は、中嶋にる神で、市杵嶋姫のことだ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「於是天照大御神告速須佐之男命是後所生五柱男子者物實因我物所成故自吾子也先所生之三柱女子者物實因汝物所成故乃汝子也如此詔別也故其先所生之神多紀理毘賣命者坐胸形之奥津宮次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮次田寸津比賣命者坐胸形之邊津宮此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也故此後所生五柱子之中天菩比命之子建比良邊命(此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也)次天津日子根命者(凡川内國造額田部湯坐連木國造倭田中直山代國造馬來田國造道尻岐閇國造周芳國造倭淹知造高市縣主蒲生稲寸三枝部造等之祖也)尓」、【ここで天照大神は、速須佐之男に「この後で生れた五柱の男子は、元はと言えば私の物からなったので、私の子だ。先に生れた三柱の女子は、元はと言えばお前の物によってなったからお前の子だ。」と言った。それで、その前に生れた神、多紀理毘賣は、胸形の奧津宮にいる。次に市寸島比賣は、胸形の中津宮にいる。次に田寸津比賣は、胸形の邊津宮にいる。この三柱の神は、胸形君達が祀る伊都久三前の大神だ。それでこの後で生れた五柱の子の中で、天の菩比の子、建の比良鳥は出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津島縣直、遠江國造等の祖だ。次に天津日子根は、凡川内國造、額田部湯坐連、木國造、倭田中直、山代國造、馬來田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稻寸、三枝部造等の祖だ。】と訳した。

この三女神が『舊事本紀』のみ水沼君が祀るとしているのは、「物部大市御狩・・・譯語田宮御宇天皇御世」の同世代の「目大連之子・・・物部阿遅古連公水間君等祖」と『古事記』の記述後に物部氏の領地になったからで、物部阿遅古の母が瀛津嶋姫の出自だったからと考えられる。

同じように、『日本書紀』の「天穗日」は出雲臣と土師連の祖と記述されるが、『古事記』では、その子の建比良邊が出雲だけでなく7国の国造や国造を含む氏姓の直を得て、出雲臣が先で、一部が土師連に分岐し、出雲臣の子孫の家系が多くの国造りになって、物部氏が出雲大臣も含めて、それぞれの国に婿入りして、国造りになったということである。

出雲醜の母の出雲色多利姫の兄弟が出雲臣を賜姓され、その娘出雲臣女子沙麻奈姫が事代主の孫、綏靖天皇の甥、安寧天皇の義兄の建飯勝の子の建(武)甕槌が「經津主武甕槌二神降到於出雲國」と物部氏は懿徳天皇の頃に出雲臣の力を借りて大臣すなわち大国の王となった。

臣は国神・国の王の意味で、恐らく、元々は周饒国・隠国の神・隠神のことで、君子国の王の岐神(きみ)に対して、支配された隠岐神は隠神・臣と呼ばれ、君子の配下の王を臣と呼び大人国・大国の臣が大臣で、君も臣もインフレを起こし、王の王は大君・大王となり、臣下の臣の臣が大臣となり、天皇は本来皇后が主役で、大君・大臣の妃が天皇の家系の姫を娶っている者が天皇になった。

出雲氏の出自は島根県の出雲ではなく、雲が出るのは暖かい対馬海流に大陸の寒気がぶつかる日本海の嶋の地域が当てはまり、壱岐の津岐に藻が湧く様に見た地名と考えるべきで、出雲氏は壱岐対馬から丹波大国の醜と言う地域に勢力を得て、その後、島根に領地を得て崇神朝の頃に出雲と呼ぶようになったのだろう。

『舊事本紀』では、「出雲國造」が「瑞籬朝以・・・定賜國造」と崇神朝に国造りになっていて、この時は出雲大臣の曽孫で出雲臣の子孫、「三野後國造」(物部連祖)・「无耶志國造」(出雲臣祖)・「参河國造」(出雲大臣之子が祖)・「嶋津國造」(出雲臣祖)・「无耶志國造」(出雲臣祖)・「菊麻國造」(无耶志國造祖兄)・「上海上國造」(天穗日命八世孫)・「遠淡海國造」(物部連祖伊香色雄命兒)が政務朝、「下海上國造」(上海上國造祖)が応神朝と物部氏の系列で「天穗日」が実際の物部氏の初代、崇神朝から応神朝が物部王朝の時代だったことが解る。


2021年7月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段5

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「素戔鳥尊以天照太神御手(?)纏髻鬘八咫瓊五百箇御(?)王濯浮於天真直井亦云去來真名井齬然咀嚼而吹棄氣吹狹霧之中化生六男之神乃含左御鬘玉左手掌中化生之神号日正哉吾勝勝速天穂別尊覆含左御鬘玉右手掌中化生之神号日天穂日命覆含左御髻玉著於左臂化生之神号日天津彦根命覆含右御髻玉著於右臂化生之神号日活津彦命覆含左御手腋玉自左足中化生之神号日熯之速日命覆含右御手腋玉自右足中化生之神号日熊野豫樟日命」、【素戔烏が、天照太神の手と髻鬘に巻いた八咫の瓊の五百筒の玉の御統を、天の真名井(または去来の真名井)にすすぎ浮かべて、噛み砕いて吹きだすと、息吹の霧の中から、六柱の男神が生まれた。すなわち、左の鬘の玉を含んで左の手のひらに生まれた神の名を、正哉吾勝々速天穂別という。また、右の鬘の玉を含んで右の手のひらに生まれた神の名を、天穂日という。また、左の髻の玉を含んで左の肘につけて生まれた神の名を、天津彦根という。また、右の髻の玉を含んで右の肘につけて生まれた神の名を、活津彦という。また、左の手の玉を含んで左足に生まれた神の名を、熯速日という。また、右の手の玉を含んで右足に生まれた神の名を、熊野豫樟日という。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「速須佐男命乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而奴那登母々由良尓振滌天之真名井而佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命亦乞度所纏右御美豆良之珠而佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名天之菩卑能命亦乞度所纏右御美豆良之珠而佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名天津日子根命又乞度所纏左御手之珠而佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名活津日子根命亦乞度所纏右御手之珠而佐賀美迩迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名熊野久須毘命并五柱」、【速須佐之男は、天照大神が左の美豆良に巻いた5百の貫いた八の玉を30cmに繋げたの美須麻流の珠を渡してもらって、玉の音がもゆらとするように、天の眞名井に振って滌いで、何度も噛みしめて、吹きつけた息吹の狹の霧によって成った神の名は、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳。また右の美豆良に巻いた珠を渡してもらって、何度も噛みしめて、吹きつけた息吹の狹の霧によって成った神の名は、天の菩卑能。また美豆良に巻いた珠を渡してもらって、何度も噛みしめて、吹きつけた息吹の狹の霧によって成った神の名は、天津日子根。また左の手に巻いた珠を渡してもらって、何度も噛みしめて、吹きつけた息吹の狹の霧によって成った神の名は、活津日子根。また右の手に巻いた珠を渡してもらって、何度も噛みしめて、吹きつけた息吹の狹の霧によって成った神の名は、熊野久須毘。あわせて五柱だ。】と訳した。

『日本書紀』・『舊事本紀』・『古事記』の神話は、本来、『山海經』海外南經の「六合之閒四海之内照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歳神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と六合の地である日本海・黄海・東シナ海・太平洋の間にあって、異形の神が生まれる土地の説話で、まさしく神話だ。

伊弉冉死後、自然の摂理に反する物体が神に化けるという神生みが始まり、これは、子を産むのではなく、侵略したり、侵略されて王権が交代する現象を記述したのであり、女王は王だが侵略するのではなく、防衛が役割で、男王が他国へ侵略して婿入りし、女王をもうけて侵略地を支配するという方法で国を広げ、あるいは侵略地の女王を人質として連れ去った神話だと考えられる。

そして、『日本書紀』も『古事記』も葛城王朝の後裔の史書なのだから、本家は葛城だが平郡・巨勢と分流の「なか」国の安芸出身で、葛城氏は日向国王となった日向襲津彦の母方、日向髪長大田根の先祖で、母方の本家があった日向は『古事記』に「肥国謂建日向日豊久士比泥別」と「肥国」の一部で日向髪長大田根の先祖は『三国志』に「一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と伊都国が検察した配下で、「投馬國水行二十日官曰彌彌」と耳という官位を持った一族である。

この項は、実質の皇祖の記述で、『古事記』の官位は耳と『日本書紀』に同じ、大八国に支配されていた『三国志』より以前の人物、穂という地域に侵略した人物で、『舊事本記』の皇祖は、その侵略された穂という地域から逃げたか、忍穂耳の国を分国させた人物を示しているようで、『舊事本記』の推古天皇まで記述した蘇我馬子と『古事記』の巨勢氏、『日本書紀』の平郡氏の素性が理解できる。

それ以外の人物は、葛城氏・平郡氏・巨勢氏のバックボーンになった王家の王祖の人物で、出雲臣の祖の天穂日は君子国の王家の建飯勝を迎え入れ、その末裔で建飯賀田須が大物主で『古事記』の巨勢氏はその娘婿の家系と主張し、巨勢氏や蘇我氏は蘇我氏の韓子宿禰が紀氏の大磐宿禰に殺され、蘇我氏が殺した紀氏の大磐宿禰の墓を土師連小鳥が「作冢墓」と敵対して、『日本書紀』で穂日が祖とする土師氏を『古事記』や『舊事本紀』は祖と記述せず土師氏をバックボーンとしていない。

2021年7月14日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「則掘天之眞名井三處矣天照太神與素戔鳥尊共隔天之安河而相對乃立誓約曰汝若有姧賊之心者汝所生之子必女矣如生男者即以為子令治天原矣天照太神素戔鳥尊共誓約曰吾以(?)纏之玉可以授汝矣汝以(?)帶劔可以授吾矣如此約束相共換取巳畢天照太神乃以素戔鳥尊(?)帶三劔亦云十握劔爲三以化生三神振濯於天真直井 亦云去來真名井 齬然咀嚼而吹棄氣(?嘖 口+賣)狹霧之中化生三女之神十握劔化生之神号曰瀛津嶋姬命亦名忍姬亦日田霧作九握劔化生之神号曰湍津嶋姬命八握劔化生之神号曰市杵嶋姬命」、【そして天の真名井の三ヶ所を掘って、天照太神と素戔烏尊は天の安河をへだてて向かい合い、「お前にもし邪心があるのなら、お前の生む子はきっと女だ。もし男を生んだら、私の子として、天原を治めさせよう」と誓約した。天照太神は、「私が身につけている玉をお前に授けよう。お前が帯びている剣を私に授けなさい」と素戔烏に誓約した。このように約束してお互いに取り替えた。天照太神は、素戔烏が帯びていた三ふりの剣(または十握剣を三つにして、生じた三神)を、天の真名井(または去来の真名井)で振りすすいで、噛み砕いて吹きだすと、息吹の霧の中から三柱の女神が生まれた。十握剣から生まれた神の名を、瀛津嶋姫(または田心姫、または田霧姫)という。九握剣から生まれた神の名を、湍津嶋姫という。八握剣から生まれた神の名を、市杵嶋姫という。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故尓各中置天安河而宇氣布時天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劔打折三鍜(?段)而奴那登母由良尓振滌天之真名井而佐賀美尓迦美而於吹棄氣吹之狭霧所成神御名多紀理毗賣命亦御名謂奥津嶋比賣命次市寸嶋比賣命亦御名謂狭依毘賣命次多岐都比賣命」、【そのため各々天の安河を間に置いて誓約する時に、天照大神はまず建速須佐之男が帯びた十拳の劒を頼まれて渡して、三つに折って、玉の音がもゆらとするように天の眞名井で振って滌いで、何度も噛みしめて吹きつけた息吹の狹霧によってなった神の名は、多紀理毘賣。亦の名は奧津島比賣という。次に市寸島上比賣。亦の名は狹依毘賣という。次に多岐都比賣の三柱。】と訳した。

これまで、後継者は一人若しくは夫婦であったのに、三貴神から三人以上の後継者を記述するが、実際は三貴神でも国を統治するのは素戔嗚で、この説話で素戔嗚から天照大神に子を取り換えて変更しているのであって、実際は王朝交代を述べているのに過ぎず、元々の神話は一組の夫婦の後継者が記述されたと考えられ、奇肱之国や女子国の神話が基となっている殷時代以降の神話の可能性がある。

『古事記』の基の説話は狹国の霧から生まれたのだから多紀理毘賣と狹依毘賣と多岐都比賣と解り、『舊事本紀』が隠岐・対岐・壱岐の女神に引き継がれているのだから、隠岐の3女神の神話、すなわち、多岐は「おき」と本来は呼ばれていたものが大国の大岐が建国されて、「多岐」→「湍」と表意文字は変化したが、表音は変わらず「おき」なのではないだろうか。

『古事記』は剣で生むのに「奴那登母由良尓」と玉の擬音を記述し、もともと、素戔嗚の瑞八坂瓊と天照の八咫瓊のどちらも王の爾で、どちらが支配するかを決めたと考えられ、基の説話は、剱が無い時代の説話で、その後に剣を使用しだした君主国・八国が受け継いだ神話と考えられ、『舊事本紀』は複数の矛を用いた青銅器時代の神話と考えられ、これらの姫がそれぞれの国の日国の配下の女王となる。

そして、後継女王は其々の王朝の女王で『舊事本紀』では羽明玉から貰った瑞八坂瓊から生まれたのだから、豊国の秋瑞穂之地の女王がおそらく対馬の湍津嶋姫と隠岐の瀛津嶋姫と壱岐の市杵嶋姫で安芸の国の影響下にあると述べている。

2021年7月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段4

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「素戔鳥尊請日吾令奉敎將就根國故欲暫向於髙天原與姉相見而後(?)退矣勑許之乃昇(?)於天也伊奘諾尊功既至矣徳亦大矣神(?)既畢當(?)登矣天報命留宅於日之少宮覆孁運當遷是以搆幽宮於淡路之洲寂然長隱亦坐淡路之多賀者矣<重複▽-素戔鳥尊請日吾令奉敎將就根國故欲暫向髙天原與姉相見而後(?)退矣伊奘諾尊勑許之乃昇(?)之於天也-△>素戔鳥尊將昇天時有一神號羽明玉此神奉迎而進以瑞八坂瓊之曲玉矣素戔鳥尊持其瓊玉而昇天之時溟渤以之鼓盪山岳為之鳴呴此則神性健雄使之然也矣於天上詣之時天鈿賣命見而告言於日神矣天照太神素知其神暴惡至聞來詣之狀乃勃然驚動曰吾弟(?)以來者豈以善意當有奪我高天原之心欤夫父母既任諸子各有其境如何棄置當就之國敢窺窬此處乎乃解御髮纏御髻結御髮為御鬘縛御裳為御袴而即於左右鬘亦於左右御手及腕各纏八咫瓊之五百箇御統之瓊玉覆背負千箭之靭並五百箭之靭覆臂著稜威之高柄振起弓彇急握劔柄踏堅庭而陷股若沫雪蹋散而舊稜威之雄詰發稜威之(?嘖 口+賣)讓而徑詰問何故上來焉素戔鳥尊對曰吾元無黑心但父巳有嚴勑永將就于根國如不與姉相見吾何能敢去亦欲獻珎寶八坂瓊之曲玉耳不敢別有意也是以跋渉雲霧遠自來叅不意阿姊翻起嚴顏于時天照太神覆問日若然者何以將明尓之赤心汝言虛實何以為驗素戔鳥尊對曰請與姉共誓約之中必當生子如吾(?)生是女者可以為有濁心若是男者可以為有清心」、【素戔烏が「私は、命令に従って、根の国に行きます。そこで高天原に行って、姉に会ってから別れしようと思います」と願い出て、伊奘諾尊が「許す」と言ったので、天に上った。伊奘諾は、仕事を終え、偉大で徳が有るとの名声を得て将軍を引退し、天に帰って報告し、日の少宮に留まり住んだ。そして、また、孁に行こうとした。そこで、隠居の宮を淡路の地に造って、静かに永く隠居した。また淡路の多賀にいるともいう。素戔烏が「私は今、命令にしたがって、根の国に行きます。そこで高天原に行って、姉に会ってお別れしたいと思います」と願い出た。伊奘諾は「許す」と言ったので天へ海流を昇った。その時、一柱の神がいた。名を羽明玉という。この神が迎えて、瑞の八坂瓊の勾玉を献上した。素戔烏がその玉を持って天に昇る時、大海はとどろき渡り、山岳も鳴りひびいた。これはその性格が猛々しいからだ。天に昇る時に、天鈿売がこれを見て、日の神に報告した。天照太神は、もとからその神の荒くよからぬことを知っていて、やってくる様子を見て、とても驚いて「私の弟がやってくるのは、きっと善意ではない。きっと高天原を奪おうとしているのだろう。父母はすでに子供たちに命じて、境を設けた。どうして自分の行くべき国を棄てて、こんなところに来るのか」と言い、髪を解いて髻にまとめ、髪を結いあげて鬘とし、裳の裾をからげて袴とし、左右の鬘、左右の手および腕にもそれぞれ玉五百を緒に貫いた2mの統を巻きつけた。また、背には大型の靱と半靱を負い、腕には立派な高鞆をつけ、弓弭を振り立て、剣の柄を握り、堅い地面を股まで嵌まり込むほど踏み、土を沫雪のように散らし、勇猛な振る舞いと厳しい言葉で「どういうわけで上って来た」と詰問した。素戔烏は「私にははじめから邪心はない。ただ父の厳命があって、長く根の国に就くのに、姉に会わないで、私はどうしておいとまできますか。また、珍しい宝の八坂瓊の勾玉を献上したいと思うだけだ。他に考えていません。そのため雲霧を踏み越えて、遠くからやって来たのです。思いがけなく姉の厳しい顔を見ようとは」と答えた。すると天照太神がまた「そうなら、何でお前の潔白を証明するのか。お前のいうことが嘘か本当か、どのように証拠とするのか」と尋ねた。素戔烏が「どうか私と姉とで、ともに誓約して子を生みましょう。もし私の生んだ子が女だったら、邪心があると思いなさい。もし男だったら、潔白です」と答えた。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故各随依賜之命所知看之中速須佐之男命不治所命之國而八拳須至于心前啼伊佐知伎也其泣状者青山如枯山泣枯河海者悉泣乾是以悪神之音如狭蝿皆満満物之妖悉發故伊耶那岐大御神詔速須佐之男命何由以汝不治所事依之國而哭伊佐知流尓荅白僕者欲罷妣國根之堅洲國故哭尓伊耶那岐大御神大忿怒詔然者汝不可住此國乃神夜良比尓夜良比賜也故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也故於是速須佐之男命言然者請天照大御神將罷乃参上天時山川悉動國土皆震尓天照大御神聞驚而詔我那勢命之上來由者必不善心欲奪我國耳即解御髪纏御美豆羅而乃於左右御美豆羅亦於御縵亦於左右御手各纏持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而曽毗良迩者負千入之靭比良迩者附五百入之靭亦所取佩伊都之竹鞆而弓腹振立而堅庭者於向股蹈那豆美如沫雪蹶散而伊都之男建蹈建而待問何故上來迩速須佐之男命荅白僕者無邪心唯大御神之命以問賜僕之哭伊佐知流之事故白都良久僕欲往妣國以哭尓大御神詔汝者不可在此國而神夜良比夜良比賜故以爲請將罷往之状参上耳無異心尓天照大御神詔然者汝心之清明何以知於是速須佐之男命荅白各宇氣比而生子」、と凡そ同じだ。

根の国が、『古事記』では出雲、『舊事本紀』では紀伊熊野と其々の王朝によって異なったように、伊弉諾の出身地も天照大神を生んで、大神なのだから大国と考えられ、『舊事本紀』が「孁」に帰ろうとしたと記述するが、「孁」は「大日孁」の「孁」で、蛭子が対であるように、子に対する「孁」で女神を表し、母のもとの日国に帰ろうとしたことを示す。

伊弉諾の出身地が『日本書紀』は淡路島で、そこを追い出されて安芸で建国して、淡路島に葬られ、『古事記』は淡島が出身地で、淡島を追い出されて淡路島で建国して、志賀淡海の多賀に葬られ、『舊事本紀』では淡路が出身地で、淡路島へ移動して伊予で建国して淡路島で葬られている。

日の少宮は恐らく淡路島近辺に有ると考えられ、少はこ・小・子の表意文字の一つで、日の兒宮と考えられ、「吉備兒嶋謂建日方別」と吉備の小国は建日の分国で、まさに日国の小宮を意味すると考えられる。

史書がどの文字を使うかは史書を書いた時代の感覚で「あわ」が粟か淡かそれとも別か解らないが、史書を書いた時期では巨勢氏のおそらく、母系の出身地が近江で「あわ」と呼ばれたようで、物部氏のおそらく母系の出身地が淡路島で、平郡氏も淡路島と考えられる。

『山海經』の九州から朝鮮半島東部を記述する「海外西經」に日本海と黄海に面した壱岐を思わせる女丑、その北に二女王が支配する女子国が記述され、まさに、天照と月弓で、共に天国に戻され、当然、古代は王が武器を持って戦い、天照が武器を持った様子を生き生きと示している。

2021年7月9日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段3

  次の一書は、一書()一書曰日神與素戔嗚尊隔天安河而相對乃立誓約曰汝若不有奸賊之心者汝所生子必男矣如生男者予以爲子而令治天原也於是日神先食其十握剱化生兒瀛津嶋姫命亦名市杵嶋姫命又食九握剱化生兒湍津姫命又食八握剱化生兒田霧姫命巳而素戔嗚尊含其左髻所纒五百箇統之瓊而著於左手掌中便化生男矣則稱之曰正哉吾勝故因名之曰勝速日天忍穗耳尊復含右髻之瓊著於右手掌中化生天穗日命復含嬰頸之瓊著於左臂中化生天津彥根命又自右臂中化生活津彥根命又自左足中化生熯之速日命又自右足中化生熊野忍蹈命亦名熊野忍隅命其素戔嗚尊所生之兒皆已男矣故日神方知素戔嗚尊元有赤心便取其六男以爲日神之子使治天原即以日神所生三女神者使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣今在海北道中號曰道主貴此筑紫水沼君等祭神是也熯干也此云備」、【一書に、日神と素戔嗚が天の安河を隔てて、相対して立って誓約して、「お前がもし反逆心が無いのなら、お前が生む子は、必ず男だろう。もし男が生まれたら、私の子として、天原を治めるだろう」と言った。ここで、日神は、まずその十握劒を食べて生れた子は、瀛津嶋姫。または市杵嶋姫。又、九握劒を食べて生れた子は、湍津姫。又、八握劒を食べて生れた子は、田霧姫。すでに素戔嗚は、その左の髻に纏めた五百箇の統の瓊を含んで、左の掌中に置いて、男を生んだ。それで「私が勝った」と言った。それによって名づけて、勝速日天忍穗耳という。また右の髻の瓊を含んで、右の掌中に置いて、天穗日を生んだ。また頚にまわした瓊を含んで、左の腕に置いて、天津彦根を生んだ。又、右の腕の中から、活津彦根を生んだ。又、左の足の中から熯之速日を生んだ。又、右の足の中から熊野忍蹈を生んだ。亦の名は熊野忍隅。それが素戔嗚が生んだ子で、皆男だ。それで、日神は、素戔嗚の、清心だったことを知り、その六人の男を取って、日神の子として、天原を治めさせた。すなわち日神の生んだ三人の女神は、葦原中國の宇佐嶋に降り住まわせた。今、海の北の道の中に在る。名付けて道主の貴という。これは筑紫の水沼君達が祭る神がこれだ。熯は、干。これをひという。】と訳した。

一書()は一書()・一書()と異なり「田心姫」が「田霧姫」と記述され、本文の最初の田心姫の接頭語の「濯於天真名井然咀嚼而吹棄氣噴之狹霧所生神號曰田心姫」の元となった姫の名で、神も日神で、九州の神話と考えられ、その神話を景行天皇が「拘奴國」を破ったあとの「拘奴國」の神で、豊後の宇佐の神だった。

恐らく宇佐の神は姫島の神で、姫島は「亦名謂天一根」と壱岐の故地で、その神が「田霧姫」で三女神がいて、後の道臣・日臣の道主貴が瀬戸内の東部から関門海峡を支配し、そこが豊国で、安芸も豊国に含まれ、後に「なか」国となるが、拘奴・熊襲が姫国の宇佐を支配し、その王が『後漢書』「自女王國東度海千餘里至拘奴國」から『三国志』「其南有狗奴國」と筑後の水沼君となり、この一書(3)は水沼君が残した神話と思われる。

そして、その宇佐を支配した熊襲の王が「其官有狗古智卑狗」と官名が狗国熊襲の狗ち彦と考えられ、「むち」・「つち」・「つみ」などは、女神「姫」に対する土地神の男神で「むち」は宗像の神、「つち」が対馬の神、「こち」はおそらく狗国の神で、大己貴神が『舊事本紀』に「大己貴神・・・先取宗像興都嶋神田心姫命」と宗像を支配し大己貴と素戔嗚を同一の人物という神話になった。


2021年7月7日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段2

  次の一書は、一書()一書曰素戔嗚尊将昇天時有一神号羽明 玉此神奉迎而進以瑞八坂瓊之曲玉故素戔嗚尊持其瓊玉而到之於天上也是時天照大神疑弟有惡心起兵詰問素戔嗚尊對曰吾所以来者實欲與姉相見亦欲獻珍寶瑞八坂瓊之曲玉耳不敢別有意也時天照大神復問曰汝言虛實将何以爲驗對曰請吾與姉共立誓約誓約之間生女爲黑心生男爲赤心乃掘天真名井三處相與對立是時天照大神謂素戔嗚尊曰以吾所帶之剱今當奉汝汝以汝所持八坂瓊之曲玉可以授予矣如此約束共相換取已而天照大神則以八坂瓊之曲玉浮寄於天真名井囓斷瓊端而吹出氣噴之中化生神号市杵嶋姫命是居于遠瀛者也又囓斷瓊中而吹出氣噴之中化生神号田心姫命是居于中瀛者也又囓斷瓊尾而吹出氣噴之中化生神號湍津姫命是居于海濱者也凢三女神於是素戔嗚尊以所持剱浮寄於天真名井囓斷剱末而吹出氣噴之中化生神號天穗日命次正哉吾勝勝速日天忍骨尊次天津彥根命次活津彥根命次熊野櫲樟日命凢五男神云爾」、【一書に、素戔嗚が天に上ろうとする時に、一神がいた。名は羽明玉。この神が迎えて、瑞の八坂瓊の曲玉を進呈した。それで、素戔嗚は、その瓊玉を持って、天に上った。この時に、天照は、弟に邪心があると疑い、挙兵して問い詰めた。素戔嗚が「私が来た理由は、本当に姉と会いたかっただけだ。亦、珍寶の瑞の八坂瓊の曲玉を献上したいだけだ。あえて別の気持ちはない」と答えた。その時に天照は、また「お前は言辞の虚実をどのように証明するのか」と聞いた。「お願いです、一緒に誓約しましょう。誓約の間に、女を生んだら、邪心が有るとしましょう。男を生んだら、清心です」と答えた。それで天の眞名井の三所を掘って、共に向かい合って立った。この時に、天照が、素戔嗚に「私が帯びた劒を、今、お前に進呈しよう。お前はお前が持っている八坂瓊の曲玉を、私に授けなさい」と言った。このように約束して、共に交換して取った。天照は、八坂瓊の曲玉で、天の眞名井に浮かせ引き寄せて、瓊の端を食いちぎって、吹き出した物が化った神を、市杵嶋姫と名付けた。これは遠海に居る者だ。また瓊の中程を食いちぎって、吹き出したものが化った神を、田心姫と名付けた。こは中程の海に居る者だ。又、瓊の尾部を食いちぎって、吹き出た物が化った神を、湍津姫と名付けた。これは海濱に居る者だ。すべて三女神。ここで、素戔嗚は持った劒で天の眞名井に浮べ引き寄せて、劒の末を食いちぎって、吹き出した物が化った神を、天穗日と名付けた。次に正哉吾勝勝速日天忍骨。次に天津彦根。次に活津彦根。次に熊野櫲樟日。すべて五の男神と、云々。】と訳した。

この一書()は、一書()と同系列だが、時代はもっと後で、すでに、大日孁が天照大神と習合・合祀された頃の神話で、市杵嶋、すなわち壱岐の神話と考えられ、『三国志』で、もし、伊都に一大率を置いたことを背景にしているのなら、『古事記』の「日子穂ゝ手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」と伊都に高千穂の宮で統治した日王の神話の可能性がある。

もし、そうなら、高千穂宮の記録が580年前から記録が有り、それが、前667年頃なのだから、前90年頃に伊都が一大率を置く倭奴国を建国した可能性が高く、この頃、壱岐の神が宗像の神に合祀された可能性がある。

一書(1)は三女神を降したというように、配下と考えているが、一書(2)は生んだと言っているが、既に、宗像に祀られた女神と矛盾した表現となっていて、三女神を産む瑞の八坂瓊の曲玉と言っているのだから、湍津姫のいる八国から貰った宗像の曲玉で3女神を生んだことになる。

『後漢書』には「大倭王居邪馬台國」と大八国が邪馬台国を統治して、「東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」と、その東の「拘奴國」も倭奴国ではなく、壱岐は倭奴国なのだから、壱岐の3女神が宗像に逃れたことを意味する。

漢の朝鮮北部への侵略は、倭が燕との交易路が無くなり、九州西部の島から六合・朝鮮半島へ進出し、畿内政権とぶつかる事となり、『三国志』の時代に、安芸の政権の「なか国」と同盟して、邪馬台国は卑弥呼が手に入れたようだ。

2021年7月5日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第六段1

 『日本書紀』の慶長版は続けて、概略、【素戔嗚は根の國に就任するので高天原に向い姉と会ってその挨拶をした。始め素戔嗚が天に上った時、大声で暴れまわったと天照が知り、その後で天照のもとに遣って来たので、なにか悪い考えがあると考え、國を奪おうとしていると思い闘う準備をした。 素戔嗚尊は挨拶に来ただけと言い、邪心が無い事の証明に誓約の中で子を生み、女なら邪心、男なら清心と訴え、天照が素戔嗚の十握劒を天眞名井に濯いで、生れた神が、田心姫・湍津姫・市杵嶋姫の三女。素戔嗚が天照の八坂瓊の五百箇御統を天眞名井に濯いで、生れた神が、正哉吾勝勝速日天忍穗耳・天穗日・天津彦根・活津彦根・熊野樟日併せて五男だった。この時に、天照が「八坂瓊之五百箇御統は我が物だから」と男神を得た。又、「その十握劒は、素戔嗚の物だから三女神は、お前の子」と素戔嗚に授けた。】のように「うけい」を記述する。 

そして、一書()一書曰日神本知素戔嗚尊有武健凌物之意及其上至便謂弟所以来者非是善意必當奪我天原乃設大夫武備躬帶十握剱九握剱八握剱又背上負靫又臂著稜威髙鞆手捉弓箭親迎防禦是時素戔嗚尊告曰吾元無惡心唯欲與姉相見只爲暫来耳於是日神共素戔嗚尊相對而立誓曰若汝心明淨不有凌奪之意者汝所生兒必當男矣言訖先食所帶十握剱生兒號瀛津嶋姫又食九握剱生兒號湍津姫又食八握剱生兒號田心姫凡三女神矣已而素戔嗚尊以其頸所嬰五百箇御統之瓊濯于天渟名井亦名去来之真名井而食之乃生兒號正哉吾勝勝速日天忍骨尊次天津彥根命次活津彥根命次天穗日命次熊野忍蹈命凡五男神矣故素戔嗚尊既得勝驗於是日神方知素戔嗚尊固無惡意乃以日神所生三女神令降於筑紫洲因教之曰汝三神宜降居道中奉助天孫而爲天孫所祭也」、【一書に、日神は、本から素戔嗚の、武健しく凌ぐ意志が有ることを知っていた。上って来たので、弟が来た理由は、善い考えではない。きっと天原を奪おうとしているので、すごい武備を準備した。躬に十握劒・九握劒・八握劒を帯びて、又、背に靫を負い、又、臂に 神聖な高鞆を着け、手に弓箭を捉って、親ら迎えて防御した。この時、素戔嗚は「私は元々邪心が無い。唯、姉と会いたかっただけで、ほんの少しだけ来ただけだ」と告げた。そこで、日神は、素戔嗚と共に、向かい合って立ち、「もしお前の心が清澄で力づくで奪う気持ちが無いのならば、お前が生む子は、きっと男だろう」と誓った。言い終わって、まず帯びていた十握劒を食べて生んだ子は、瀛津嶋姫と名付けた。また九握劒を食べて生んだ子を、湍津姫と名付けた。又、八握劒を食べて生んだ子を、田心姫と名付けた。三女神だった。すでに素戔嗚は、その頚に巡らした五百箇の御統の瓊で、天の渟名井、亦の名は去来の眞名井に濯いで食べた。それで生れた子を、正哉吾勝勝速日天忍骨といった。次に天津彦根。次に活津彦根。次に天穗日。次に熊野忍蹈。五男神だった。それで、素戔嗚はすでに勝った印を得た。そこで、日神は素戔嗚には、本当に邪心が無い事を知って日神の生んだ三女神を、筑紫洲に降した。それで 「お前たち三神は、道の中に降って住み、天孫を助けて、天孫に祀ってもらいなさい」と教えた。】と訳した。

この一書は剱が3本、しかも、八から十握と長柄で、剣ではなく、矛で、多くを所有する銅矛の可能性が高く、さらに、日神と呼んでいるので、肥国の神話の可能性が高く、天原と呼んでいるのだから、すでに、天降りしていて、生んだ娘にも天が付加されないので、銅矛のある前漢時代の説話と考えられる。

そして、筑紫の宗像・速(日の)素戔嗚の家系の人物が海流を上って侵略し、すなわち、『後漢書』の大倭王が統治する邪馬台の東の天でない拘奴国を勢力下にし、海の道、すなわち、制海権を奪ったと考えられる。

『後漢書』に西暦5年「中元二年」に光武帝の印綬の力を背景に大倭王を排除しようとしたが、西暦107年「永初元年」の訪漢時には『三国志』で伊都に「一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と女王国以前は伊都国が力を持ち、倭王から倭奴国と伊都の倭国に記述が変わり、この政変と82年の景行天皇の侵略によって、桓・靈間の戦乱状態に陥り、大倭王が退却して卑弥呼が倭国王となった資料がある時代に移行していく、そんな時代の神話の1書と考えられる。

2021年7月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段16

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊滌御身之時(?)生之神三柱洗左御目時所成之神名天照太御神洗右御目時所成之神名月讀命並坐五十鈴以且謂伊勢齊大神洗御鼻之時(?)成之神名速素戔鳥尊坐出雲國熊野築杵神宮矣伊奘諾尊大歡喜詔日吾生之子而於生終時得三貴子召其御頭珠之玉緒母由良迦斯而賜詔其御頭珠名謂御倉板舉神伊奘諾尊詔天照太神云汝命者所知髙天原矣謂寄賜矣次謂月讀命汝命者所知夜之食國矣謂寄賜也次詔素戔鳥尊云汝命者所知海原矣謂寄賜矣故各隨寄賜命所知者之中速素戔鳥尊不治所命之國而八拳鬢至千心前啼泣矣伊奘諾尊詔日吾欲生御寓之珎子即化出之神三柱矣左手持白銅鏡則有化出之神是謂大日孁尊右手持白銅鏡則有化出之神是謂月弓尊廻顧(?目丐)之間則有化出之神是謂素戔鳥尊即大日孁尊及月弓尊並是質性明麗故素戔鳥尊是性好殘害故令下治根國矣伊奘諾尊勑任三子日天照太神者可以御治髙天之原也月讀尊者可以治滄海原之潮八百重也後配日而知天事所知夜之食國也素戔鳥尊者可以治天下覆滄海之原也素戔鳥尊年巳長矣覆生八拳髻鬢雖然不治所寄天下當以啼泣悉恨伊奘諾尊問之日汝何故恒啼如此耶素戔鳥尊對日吾欲從母國於根國只爲泣耳伊奘諾尊悪之日可以任情行矣乃退矣伊奘諾尊勑素戔鳥尊日何由不治所寄之國泣啼之矣素戔鳥尊日欲罷妣國恨之堅州國故泣矣伊奘諾尊大忿怒詔日汝甚无道不可以君臨宇宙不可住此國當遠適於根國遂矣」、【伊奘諾が体をすすいだときに三柱の神が生まれた。左の目を洗ったときに生まれた神の名は、天照大神。右の目を洗ったときに生まれた神の名は、月読。この二柱の神は、一緒に五十鈴川の河上いる伊勢にお祀りする大神だ。鼻を洗ったときに生まれた神の名は、速素戔烏。出雲の国の熊野神宮と杵築神宮にいる。伊奘諾尊は「私が生んだ子を生み終え、三柱の尊い子を得た」と、とても喜んだ。その首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らして授けた。その首飾りの珠に名を与え、御倉板挙という。伊奘諾が天照大神に「あなたは高天原を治めなさい」と詔勅して委任した。次に、月読に「あなたは夜の食国を治めなさい」と詔勅して委任した。次に、素戔烏に「あなたは海原を治めなさい」と詔勅して委任した。こうして、それぞれの言葉にしたがって治めたが、その中で速素戔烏だけは、委任された国を治めず、長い顎髭が胸元にとどくようになるまで、ずっと泣きわめいていた。伊奘諾は「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと」と言って三柱の神が生れ出た。左手で白銅鏡を取ったときに、生まれた神が大日孁という。右手で白銅鏡を取ったときに、生まれた神を月弓という。首を回して後ろを見たときに、生まれた神を素戔烏という。このうち、大日孁と月弓は共にひととなりが麗しいのに、素戔烏の性質はよく物を誤ってい壊すところがあった。そこで、降して根の国を治めさせた。伊奘諾尊は三柱の子に「天照太神は高天原を治めなさい。月読は青海原の潮流を治めなさい」と任命した。月読は後に、日の神にそえて天のことを司り、夜の世界を治めさせた。素戔烏に、天下および青海原を治めさせた。素戔烏は歳もたけ、また、長い髭が伸びていた。けれども、統治を任された天下を治めず、いつも泣き恨んでいた。伊奘諾が「お前はなぜ、いつもこんなに泣いているのか」とそのわけを尋ねた。素戔烏は「私は母のいる根の国に行きたいと思って、ただ泣くのです」と答えた。伊奘諾は、「勝手にしろ」と憎んだ。そうして素戔烏は親神のもとを退いた。伊奘諾が、素戔烏に「どうゆうわけで、私の任せた国を治めないで、泣きわめいているのか」と言い、素戔烏尊は「私は亡き母のいる根の堅州国に行きたいと思うので、泣いているのです」と言った。伊奘諾は、お前はたいへん無道だ。だから天下に君臨することはできない。この国に住んではならない。必ず遠い根の国に行きなさい」とひどく怒った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是洗左御目時所成神名天照大御神次洗右御目時所成神名月讀命次洗御鼻時所成神名建速須佐之男命右件八十禍津日神以下速須佐之男命以前十柱神者因滌御身所生者也此時伊耶那伎命大歓喜詔吾者生子而於生終得三貴子即其御頸珠之玉緒母由良迩取由良迦志而賜天照大御神而詔之汝命者所知高天原矣事依而賜也故其御頸珠名謂御倉板舉之神次詔月讀命汝命者所知夜之食國矣事依也次詔建速須佐之男命汝命者所知海原矣事依也」、【そこで左の目を洗った時に、生まれた神の名は、天照大御神。次に右の目を洗った時に、生まれた神の名は、月讀。次に鼻を洗った時に、生まれた神の名は、建速須佐之男。この時伊邪那伎は、とても歓喜して「私は子生んで、生み終に三はしらの貴い子を得た。」言って、即ち首輪の玉の端をゆらして、天照大神に「お前は、高天の原を治めなさい。」と言って与えた。それで、その首輪の名を、御倉板擧という。次に月讀に「お前は、夜の食国を統治しなさい。」と言った。次に建速須佐之男「お前は、海原を治めなさい。」と言った。】と訳した。

『舊事本紀』は既に三貴神を生んだのに、また白銅鏡を使って伊弉諾が生んでいるが、しかし、ここでの三貴神生みは『日本書紀』本文に従っていても、これまでの『舊事本紀』のように、後ろに物部氏の神話を追加したのであり、前項で述べたように『古事記』の巨勢氏は皇后の家系の神話を纏め上げたと考えられ、この神話は銅鏡が作られだした紀元前2世紀頃の多紐文鏡の時代の神話と考えられる。

『日本書紀』には崇神天皇の時に「出雲人祭眞種之甘美鏡」と出雲人が鏡を持ち込んでいて、出雲では鏡が祭祀に使われていたが、畿内では使われていないようで、崇神天皇まで銅鐸が主流の王朝だったと考えられ、「出雲色多利姬」の子の「出雲醜大臣」、孫の世代の「欝色雄」、弟の「伊香色雄」の子が崇神天皇なのだから、紀元前200年頃に畿内に鏡を持ち込んだ勘定になる。

『舊事本紀』に記述されているように、渟中底姫の甥の建飯勝が出雲臣の娘の沙麻奈姫を娶っているが、出雲大臣の母「出雲色多利姬」には臣も国も記述されず、崇神天皇時に記述される大田田祢古の子の大御氣持の妻が出雲の鞍山祇姫、建飯勝と出雲臣の娘の沙麻奈姫の子が建甕槌、大物主神が大田田祢古の父なのだから、建飯賀田須が大物主で、『古事記』の神武天皇につながる神話の時代を含む説話で、出雲醜は兄大祢が大国に「奉齋大神」と大神にあたり、本人は大の国神すなわち臣の大国の臣の大臣を受け継ぎ、大国のNo2になった。

饒速日は「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と河内・鳥見に天降り、その河内の青玉繋の娘が波迩夜須毘賣、その子が波迩夜須毘古と建氏の神の名で、地名による名なら河内彦若しくは鳥見に移って鳥見彦、すなわち、『古事記』の登美毘古・登美夜毘賣と合致し、登美毘古の姻戚に出雲醜の孫の鬱色謎がなり、大物主の阿田賀田須は和迩君の祖で和迩臣の祖の姥津の孫は彦坐王と最初に王と呼ばれる人物である。

そして、『舊事本紀』の神武天皇の皇后は大三輪神の娘、すなわち、事代主が大三輪神で大田田祢古の孫大鴨積が崇神朝に賀茂君を大友主が大神君を賜姓され、『舊事本紀』の神武東征は崇神紀にあったことを示している。

すなわち、『日本書紀』は事代主の娘婿の三八(神倭)国の神武、『古事記』は大物主の娘婿の葛城氏の説話を流用した扶桑国の神武、舊事本紀』の大三輪(大宮)の娘婿の神武天皇を記述している。