『日本書紀』慶長版は
「閏六月乙酉朔庚寅大錦下百濟沙宅昭明卒爲人聡明叡智時稱秀才於是天皇驚之降恩以贈外小紫位重賜本國大佐平位壬辰耽羅遣王子久麻藝都羅宇麻等朝貢巳亥新羅遣韓阿飡金承元阿飡金祗山大舍霜雪等賀騰極幷遣一吉飡金薩儒韓奈末金池山等弔先皇喪其送使貴干寶真毛送承元薩儒於筑紫戊申饗貴干寶等於筑紫賜祿各有差即從筑紫返于國秋八月甲申朔壬辰詔在伊賀國紀臣阿閇臣等壬申年勞勳之狀而顯寵賞癸卯髙麗遣上部位頭大兄邯子前部大兄碩千等朝貢仍新羅遣韓奈末金利益送髙麗使人于筑紫戊申喚賀騰極使金承元等中客以上二十七人於京因命大宰詔耽羅使人曰天皇新平天下初之即位由是唯除賀使以外不召則汝等親所見亦時寒浪嶮久淹留之還爲汝愁故冝疾歸仍在國王及使者久麻藝等肇賜爵位其爵者大乙上更以錦繡潤飾之當其國之佐平位則自筑紫返之九月癸丑朔庚辰饗金承元等於難波奏種々樂賜物各有差冬十一月壬子朔金承元罷歸之壬申饗髙麗邯子新羅薩儒等於筑紫大郡賜祿各有差十二月壬午朔丙戌侍奉大嘗中臣忌部及神官人等幷播磨丹波二國郡司亦以下人夫等悉賜祿因以郡司等各賜爵一級戊戌以小紫美濃王小錦下紀臣訶多麻呂拜造髙市大寺司時知事福林僧由老辞知事然不聽焉戊申以義成僧爲小僧都是日更加佐官二僧其有四佐官始起于此時也是年也太歳癸酉」
【閏六月の朔が乙酉の庚寅の日に、大錦下の百済の沙宅の昭明が死んだ。人柄は聰明で叡智に富んでいて、一時は秀才と称された。天皇は、驚いて、恩賞を与えて外小紫の位を贈った。重ねて本国の大佐平の位を与えた。壬辰の日に、耽羅は、王子の久麻藝と都羅と宇麻達を派遣して朝貢した。己亥の日に、新羅は、韓阿飡の金承元と阿飡の金祇山と大舍の霜雪達を派遣して、最高位に登った事を祝賀した。あわせて一吉飡の金薩儒と韓奈末の金池山達を派遣して、先皇の喪を弔った。その送使の貴干寶と眞毛は、承元と薩儒を筑紫に送った。戊申の日に、貴干寶達を筑紫で饗応した。俸禄を与えそれぞれ差が有った。それで筑紫から国に返った。秋八月の朔が甲申の壬辰の日に、伊賀国にいる紀の臣の阿閉麻呂達に、壬申の年の功労の顕彰を詔勅した。癸卯の日に、高麗は、上部の位頭大兄の邯子と前部の大兄の碩干達を派遣して、朝貢した。それで新羅は、韓奈末の金利益を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。戊申の日に、最高位に登った祝賀の使者の金承元達は、中位の客人より以上の二十七人を京に呼んだ。それで大宰に命じて、耽羅の使者に「天皇は、新に天下を平定して、はじめて即位した。そのため、ただの賀使を除いて、それ以外は招待しなかった。それはお前たち自らが見たとおりだ。また時候は寒く浪が急峻になる。ながく留まっていると、帰るお前たちが困るだろう。だから早く帰りなさい」と詔勅した。なお、国にいる王や使者の久麻藝達に、はじめて爵位を与えた。その爵位は大乙上だった。さらに錦の刺繍で飾った。その国の佐平位にあたる。それで筑紫から帰った。九月の朔が癸丑の庚辰の日に、金承元達を難波で饗応した。種々の樂曲を演奏した。物を与え、各々に差が有った。冬十一月の壬子が朔の日に、金承元が帰った。壬申の日に、高麗の邯子と新羅の薩儒達を筑紫の大郡で饗応した。俸禄を与え各々差が有った。十二月の朔が壬午の丙戌の日に、大嘗の世話をする中臣と忌部及び神官の人達と、一緒に播磨と丹波の、二国の郡司、また以下の人夫達に、残らず俸禄を与えた。それで郡司達に、各々、爵位一級を与えた。戊戌の日に、小紫の美濃王と小錦下の紀の臣の訶多麻呂を、高市の大寺を造る責任者にした。この時、知事の僧の福林が、老いたので知事を辞めると申し出た。しかし許さなかった。戊申の日に、僧の義成を、小僧都にした。この日に、さらに記録係の二人の僧を加えた。その四人の記録係がいるのは、はじめてこの時に起った。この年は、太歳が癸酉だった。】とあり、八月甲申朔は前項と同じく704年の9月1日で、673年は5月に閏月があるので一月ズレたと考えられ、それ以外は標準陰暦と合致する。
しかし、同じように一月ズレると704年とも合致し、673年に新たに平定し初めての即位は大げさで、初位の天皇は神武と崇神で、神武は当然で、崇神は尾張王朝の始まり、おそらく『粟原寺鑪盤銘』の「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮」の内容から仲臣朝臣大嶋と額田姫の孫の文武天皇が『新唐書』の「子天武」を701年に筑紫にある浄御原から追い出し、704年に藤原宮も奪取して平定して、統一したことを表していると思われる。
日並は東宮で、これまで東宮と呼ばれた人物は、「聖徳太子」と「天智天皇」と「天武天皇」で天皇の子息ではなく甥や弟で日並が草壁皇子では有り得ず、日並は蘇我女系の天智の娘の婿で『新唐書』の「子天武」の義兄にあたあり、『新唐書』の「子天武」の母の家柄のため、皇太子になれなかったと考えられる。
すなわち、704年の藤原宮奪取によって、男系の俀国王朝から女系の蘇我倭国王朝に戻った。
そのため、朝鮮半島の国々も新しい王朝を承認し、高麗と百済は既に独立国でないため、朝貢という形で訪日し、宗主国の新羅に従っていて、畿内の旧朝廷に従っていた播磨と丹波が文武朝に率先して従い恩賞をうけたのだろう。