2019年11月29日金曜日

最終兵器の目 応神天皇8

 『日本書紀』慶長版は
三十九年春二月百濟直支王遣其妹新齊都媛以令仕爰新齊都媛率七婦女而來歸焉四十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問之曰汝等者愛子耶對言甚愛也亦問之長與少孰尤焉大山守命對言不逮于長子於是天皇有不悅之色時大鷦鷯尊預察天皇之色以對言長者多經寒暑既爲成人更無悒矣唯少子者未知其成不是以少子甚憐之天皇大悅曰汝言寔合朕之心是時天皇常有立菟道稚郎子爲太子之情然欲知二皇子之意故發是問是以不悅大山守命之對言也甲子立菟道稚郎子爲嗣即日任大山守命令掌山川林野以大鷦鷯尊爲太子輔之令知國事
四十一年春二月甲午朔戊申天皇崩于明宮時年一百一十歲是月阿知使主等自吴至筑紫時胸形大神乞工女等故以兄媛奉於胸形大神是則今在筑紫國御使君之祖也既而率其三婦女以至津國及于武庫而天皇崩之不及即獻于大鷦鷯尊是女人等之後今吴衣縫蚊屋衣縫是也
【三十九年の春二月に、百済の直支王の妹の新齊都媛を派遣して仕えさせた。そこで新齊都媛は、七人の婦女を率いて、来訪した。四十年の春正月の朔が辛丑の戊申の日に、天皇は、大山守命と大鷦鷯尊を呼んで、「お前達は、子が愛しいか」と聞いた。「とても愛しい」と答えた。また「長子と幼少の子とは、どちらがまさっている」と問いかけた。大山守命は、「長子です」と答えた。
これに、天皇は、不快な様子だった。その時に大鷦鷯尊は、あらかじめ天皇の様子を察して、「長子は、多くの夏冬を経て、すでに成人となりうれいが無い。ただ幼少の子は、とてもいじらしい」と答えた。天皇は、とても悦んで、「お前の言うことは、まことにわが心を得ている」と言った。この時、天皇は、いつも菟道稚郎子を太子に立てたいと思っていた。しかし二人の皇子の気持ちを知ろうと思った。それで、この問いかけをしようとした。それで、大山守命の答えた言葉を喜ばなかった。甲子の日に、菟道稚郎子を跡継ぎにした。その日に、大山守命に山川林野をつかさどるよう任命した。大鷦鷯尊を、太子のたすけとして、国政にあたらせた。四十一年の春二月の朔が甲午の戊申の日に、天皇は、明宮で崩じた。その時、年齢は一百一十歳だった。この月に、阿知使主達が、呉から筑紫に着いた。その時、胸形大神が、縫い女達を求めた。それで、兄媛を、胸形大神に献上した。これがすなわち、今の筑紫国にいる、御使君の祖だ。すでに、その三人の婦女を連れて、津国に着いて、武庫(?武器庫)に来たところで、天皇が崩じて間に合わなかった。それで大鷦鷯尊に献上した。この女人達は時がたって、今の呉衣縫・蚊屋衣縫だ。】とあり、甲午は1月30日で1月が小の月なら合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。
なお、『舊事本紀』の「三十年春正月辛丑朔戊申天皇召大山守命大鷦鷯尊問」と大山守説話は卌と卅の十年誤写されているようだ。
菟道稚郎子は物部氏の皇子で、物部多遅麻を襲名した人物が伊勢遺跡の天皇で、忍熊王は「至菟道以屯河北忍熊王出營欲戰」と宇治で最終決戦があり、吉師祖の五十狹茅宿禰と武内宿禰の連合軍に敗退し、五十狹茅宿禰は纏向遺跡の天皇名と同名で、大彦の氏族の可能性が高い。
この忍熊王が戦った土地で生まれた可能性が高い菟道稚郎子が皇太子となり、印葉が大臣となったことから、270年に即位した天皇は物部多遅麻と名乗るが、中心王朝の畿内政権から見れば配下の物部という氏姓をもつ伊勢王朝の終焉を描いている。
そして、御使君の祖が不明で、使主が臣とされるが、実のところ、主は『三国志』「伊都國官曰爾支」と国の官僚の最高位で、各国の王が使主、主を使う王であり、大使主が大王となり、大王はたくさん存在し、皇太子も大王で、大王の一人が天皇となる。
そうすると、使君は使王のことで、王の王が大王でそれとイコールとするには違和感が有り、しかも、これだけ御と敬称が付加され、天皇や天子と考えなければ理に適わない。
すると、胸形大神が後の天皇は意味が通らず、呉の工女も同様で、阿知使主・都加使主親子が御使君としないと理解できず、阿知使主等が胸形大神の地を領有したのであり、この記事を記述した雄略天皇の時代には、『宋書』夷蛮伝倭國 に「二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故」と6国の王となっていて、御使君と呼ぶにふさわしい。
また、この百済の直支王の記事は『三国史記』の腆支王の「十四年夏遣使倭國送白綿十匹」記事の可能性が高く380年即位の応神天皇も存在する。
『宋書』に「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」と自分達衆夷は三韓の三分の二の領域で、『三国志』の「自郡至女王國萬二千餘里」の中の「到其北岸狗邪韓國七千餘里」と前漢時代から変わっておらず、阿知使主は「並率己之黨類十七縣而來歸焉」とその中の十七縣、30国が宋時代に60国、すなわち、伊都国も2国に分国し、その2国が伊都縣で、17縣は34国と考えなければならず、その国々を引き連れて葛城王朝に帰順したのである。
また、応神天皇には『古事記』では「御陵在川内恵賀之裳伏崗也」と墓が記述されるが、『日本書紀』には記述されず、あの巨大古墳を全く記述しないことに違和感を感じるが、もともと、応神天皇も襲名されていて、1つの墓では済まないので陵墓群なのだろうが、あの巨大で立派な墓のことが全く記述されないことはやはり違和感を感じる。
畿内の前方後円墳は竪穴式石室で横穴式石室になるのは6世紀になってから、竪穴式石室は既にある締まった盛り土でないと崩れてしまい、後から上部から穴を掘って石で固めて中にお棺を安置させるもので、計画的に作るのなら、かなりの年月が必要で、老司古墳など同時代の4世紀の福岡市の横穴式石室の石室を造ってから土を盛る墓と意味が異なる。
すなわち、畿内の古墳は元々あった盛り土であり、盛り土は墓にするために計画的に作ったのではないと考えるべきで、畿内では崇神天皇の時代から池をたくさん造成しているが、残土はどうなったかと考えると、その残土を崩れないようにして、池の周りの水田を監視するために使用していたと考えた方が理に適う。
そして、巨大前方後円墳は墓が重要なのではなく、周りの堀が重要で、堀が池の代わりを担い、中央にできた盛り土に、あとから、墓にするため上部から穴を掘ったのであり、百舌鳥にある応神陵は『日本書紀』の応神陵ではなく396年即位の葛城氏の応神陵で『古事記』には履中・反正ともに「御陵在毛受也」とあり、『日本書紀』に埋葬記事がない反正天皇と考えている。
ある説に、盛り土は開墾による残土という人物がいたが、日本には棚田という、高い場所の土を低い場所に移しならして、段を造るという合理的な方法で、残土を発生させないことを見落としていて、この人物は、ただ、天皇が墓を造るだけのために使役したと考えたくないための方便に過ぎず、古墳は山の頂上にも存在し、物見の拠点と考えた方が理に適う。

2019年11月27日水曜日

最終兵器の目 応神天皇7

 『日本書紀』慶長版は
二十五年百濟直支王薨即子久爾辛立爲王王年幼大倭木滿致執國政與王母相婬多行無禮天皇聞而召之二十八年秋九月髙麗王遣使朝貢因以上表其表曰髙麗王教日本國也時太子菟道稚郎子讀其表怒之責髙麗之使以表狀無禮則破其表三十一年秋八月詔群卿曰官舩名枯野者伊豆國所貢之舩也是朽之不堪用然久爲官用功不可忘何其舩名勿絁而得傳後葉焉群卿便被詔以令有司取其舩材爲薪而燒鹽於是得五百籠鹽則施之周賜諸國因令造舩是以諸國一時貢上五百舩悉集於武庫水門當是時新羅調使共宿武庫爰於新羅停忽失火即引之及于聚舩而多舩見焚由是責新羅人新羅王聞之讋然大驚乃貢能匠者是猪名部等之始祖也初枯野舩爲鹽薪燒之日有餘燼則奇其不燒而獻之天皇異以令作琴其音鏗鏘而遠聆是時天皇歌之曰訶羅怒烏之褒珥椰枳之餓阿摩離虛等珥菟句離訶枳譬句椰由羅能斗能斗那訶能異句離珥敷例多菟那豆能紀能紀佐椰佐椰三十七年春二月戊午朔遣阿知使主都加使主於吳令求縫工女爰阿知使主等渡髙麗國欲達于吴則至髙麗更不知道路乞知道者於髙麗髙麗王乃副久禮波久禮志二人爲導者由是得通吳吴王於是與工女兄媛弟媛吴織穴織四婦女
【二十五年に、百済の直支王が薨じた。それで、子の久爾辛が、立って王と為った。王は、年幼で木滿致が、国政を執った。王の母と密通して、大変無礼であったと天皇は、聞いた。二十八年の秋九月に、高麗王が、使者を派遣して朝貢して書簡を奏上した。その書簡に、「高麗王が、日本国に教てやろう」といった。その時、太子の菟道の稚郎子は、その書簡を読んで、怒って、高麗の使者を責めて、書簡の内容が無礼だとして、その書簡を破り捨てた。三十一年の秋八月に、群卿に「官船を、枯野と名付けたのは、伊豆国から献上された船だからで朽ちて使えなくなった。それでも長く官用となって、功績を忘れられていない。どうにかして其の船の名を絶えることなく、後の世に伝えることが出来ないだろうか」と詔勅した。群卿は、詔勅を受けて、役人に命令して、その船の材料を取って、薪にして塩を焼かせた。そこで、五百篭の塩を得ることができた。それでまわりの諸国に施した。それで船を造らせた。諸国は、一斉に五百の船を献上した。のこらず武庫の水門に集合した。この時に、新羅の年貢を納める使者が、みな武庫に停泊した。新羅が停泊したら、うっかり失火した。そのため引火して、集まった船に及んだ。それで多くの船を焼いた。そのため、新羅人を責めた。新羅の王は、これを聞いて、怖じ気づいて大変驚き、それで有能な職人を献上した。これが、猪名部達の始祖だ。初め枯野の船を、塩の薪にして焼いた日に、燃え残り有った。すなわちその燃えないことを怪しんで献上した。天皇は、奇妙に思って琴を作らせた。その音は、鳴り響いて遠くまで聞こえた。この時、天皇は、歌った()三十七年の春二月の戊午の朔の日に、阿知の使主と都加の使主を呉に派遣して、縫い女を求めさせた。そこで阿知の使主達は、高麗国に渡って、呉に行こうと思った。すなわち高麗に着いたが、それ以降の道を知らなかった。道を知る者を高麗にもとめた。高麗の王は、すなわち久禮波と久禮志の二人をそえて、道案内とした。このため、呉に着くことが出来た。呉の王は、縫い女の兄媛と弟媛、呉織、穴織の四人の婦女を与えた。】とある。
『三国史記』の腆支王「十五年春正月戊戌星孛于大微冬十一月丁亥朔日有食之十六年春三月 王薨」の11月1日は419年で、標準陰暦と合致するするので、この応神25年は420年で、すなわち、396年が元年の応神天皇が存在し、高句麗は『好太王碑文』に西暦404年のことを「十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と倭を撃退し、412年に『三国史記』の 長壽王元年「遣長史高翼入晉奉表獻赭白馬安帝封王高句麗王楽浪郡公 」と楽浪郡公を東晋の安帝から任じられ、葛城王朝に対して高圧的となることはよくわかる。
倭は北朝時代の魏・西晋と朝貢関係にあったが、南部に逃れた東晋では朝貢が出来ず、したたかに、高句麗を頼って南朝と再度朝貢関係を結び、421年に宋が建国すると、『宋書』夷蛮伝倭國に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授詔曰倭讚遠誠宜甄可賜除授」とすぐに朝貢して南朝との関係が復活できた。
また、この南朝との仲立ち依頼と菟道稚郎子の怒りと話が合わないのは、菟道稚郎子の王朝と阿知使主と都加使主を派遣した王朝が違うためで、『梁書』の扶桑国は「名國王爲乙祁貴人第一者爲大對盧」と高句麗の官名を使用している。
また、菟道稚郎子はまだ立太子していないのに皇太子と呼ばれ、神功皇后の皇太子に続き、ここでも立太子記事が別王朝の記事で、菟道稚郎子も390年以降に元年の王朝の皇太子ではないようだ。

2019年11月25日月曜日

最終兵器の目 応神天皇6

 『日本書紀』慶長版は
二十二年春三月甲申朔戊子天皇幸難波居於大隅宮丁酉登髙臺而遠望時妃兄媛侍之望西以大歎於是天皇問兄媛曰何爾歎之甚也對曰近日妾有戀父母之情便因西望而自歎矣冀暫還之得省親歟爰天皇愛兄媛篤温凊之情則謂之曰爾不視二親既經多年還欲定省於理灼然則聽之仍喚淡路御原之海人八十人爲水手送于吉備夏四月兄媛自大津發舩而往之天皇居髙臺望兄媛之舩以歌曰阿波旎辭摩異椰敷多那羅弭阿豆枳辭摩異椰敷多那羅弭豫呂辭枳辭摩之魔儾伽多佐例阿羅智之吉備那流伊慕塢阿比瀰菟流慕能秋九月辛巳朔丙戌天皇狩于淡路嶋是嶋者横海在難波之西峯巖紛錯陵谷相續芳草薈蔚長瀾潺湲亦麋鹿鳧鴈多在其嶋故乗輿屢遊之天皇便自淡路轉以幸吉備遊于小豆嶋庚寅亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之則以其兄弟子孫爲膳夫而奉饗焉天皇於是看御友別謹惶侍奉之狀而有悅情因以割吉備國封其子等也則分川嶋縣封長子稻速別是下道臣之始祖也次以上道縣封中子仲彥是上道臣香屋臣之始祖也次以三野縣封弟彥是三野臣之始祖也復以波區藝縣封御友別弟鴨別是笠田(臣)之始祖也即以苑縣封兄浦凝別是苑?(臣)之始祖也即以織部縣賜兄媛是以其子孫於今在于吉備國是其縁也
【二十二年の春三月の朔が甲申の戊子の日に、天皇は、難波に行幸して、大隅宮に居た。丁酉の日に、物見やぐらに登って遠くを望み見た。その時、妃の兄媛が横にいた。兄媛が西を望み見て大変嘆いた。そこで、天皇は、兄媛に「どうしてお前はそんなに大きく嘆くのか」と聞いた。すると、「近ごろ、私は、父母を恋しくてたまらない。それで西の故郷を望み見ると、自然に悲しくなります。出来ましたら暫く還って、親を省みたい」と答えた。そこで天皇は、兄媛が温かく清らかな心情をとても愛らしく思い、それで「お前の両親の地を去って、すでに多くの年を経た。還って親に孝を尽くそうとすることは、道理が明らかだ」と言った。すなわち帰省を許した。それで淡路の御原の海人を八十人を呼んで水手として、吉備に送った。夏四月に、兄媛は、大津から出向して往った。天皇は、物見やぐらにいて、兄媛の船を望み見て、歌った()秋九月の朔が辛巳の丙戌の日に、天皇が淡路嶋へ狩に出かけた。この嶋は海に横たわって、難波の西に在る。峯は巖しく入り混じって、陵と谷が交互に続く。芳草がさかんに茂って、大きくなみだち、さらさらそそぎめぐる。また大小の鹿・ちどり・かもなど、多くその嶋にいる。それで、天皇は輿に乗って、時々遊んだ。天皇は、淡路からうつって、吉備に行幸して、小豆嶋に遊んだ。庚寅の日に、亦、葉田の葦守の宮に移っていた。その時に、御友別が参上した。則ちその兄弟子孫を膳夫として饗応した。天皇は、御友別がつつしみ畏まって世話する様子を見て、悦んだ。それで吉備国を割いて、その子等に封じた。すなわち川嶋の縣を分けて、長子の稻速別に封じた。これは、下道の臣の始祖だ。次に上道の縣を中子の仲彦に封じた。これが、上道の臣・香屋の臣の始祖だ。次に三野縣を、弟彦に封じた。これが、三野の臣の始祖だ。また、波區藝の縣を、御友別の弟の鴨別に封じた。これが、笠の臣の始祖だ。すなわち苑の縣を、兄の浦凝別に封じて、是が、苑の臣の始祖だ。即ち、織部の縣を兄媛に与えた。ここで、その子孫が、今の吉備の国にいる。これが、其の由来だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
この兄媛は景行天皇四年「八坂入媛爲妃生七男六女第一曰稚足彦天皇第二曰五百城入彦皇子第三曰忍之別皇子第四曰稚倭根子皇子第五曰大酢別皇子第六曰渟熨斗皇女第七曰渟名城皇女第八曰五百城入姫皇女第九曰麛依姫皇女第十曰五十狹城入彦皇子第十一曰吉備兄彦皇子第十二曰高城入姫皇女第十三曰弟姫皇女」の高城入姫のことで、「立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子先是天皇以皇后姉高城入姫爲妃」と皇后の姉で八坂入媛の子で、纏向の宮の姫である。
すなわち、兄の吉備兄彦と『古事記』の「大吉備津日子命者(吉備上道臣之祖也)次若日子建吉備津日子命者(吉備上(下)道臣笠臣祖也)」と『舊事本紀』の「次妃吉備上道臣女稚媛生二男長日磐城皇子少日星川稚宮皇子」がゴッチャになっていて、織部の縣は岐阜県土岐市、川嶋の縣は岐阜県羽島郡川島町、三野の縣は岐阜県美濃市で尾張氏天皇がいたところ、兄媛が出発した場所が大津なのだから、この天皇は伊勢遺跡の天皇で「幸近江國居志賀三歳是謂高穴穗宮」の天皇で成務天皇は宮を遷しておらず、忍熊皇太子の討伐で「皇后之船直指難波」と難波を目指している。
そして、妃の里帰りで妃を吉備に送ったのに、天皇が吉備に出かけて妃にあったとも記述せず、明らかに応神天皇の吉備の国の由来に雄略天皇の妃の説話を混ぜ込んだ説話であることがわかる。

2019年11月22日金曜日

最終兵器の目 応神天皇5

 『日本書紀』慶長版は
十六年春二月王仁來之則太子菟道稚郎子師之習諸典籍於王仁莫不通達故所謂王仁者是書首等之始祖也是歲百濟阿花王薨天皇召直支王謂之曰汝返於國以嗣位仍且賜東韓之地而遣之八月遣平群木菟宿祢的戸田宿祢於加羅仍授精兵詔之曰襲津彥久之不還必由新羅之拒而滯之汝等急往之擊新羅披其道路於是木菟宿祢等進精兵莅于新羅之境新羅王愕之服其罪乃率弓月之人夫與襲津彥共來焉十九年冬十月戊戌朔幸吉野宮時國樔人來朝之因以醴酒獻于天皇而歌之曰伽辭能輔珥豫區周塢菟區利豫區周珥伽綿蘆淤朋瀰枳宇摩羅珥枳虛之茂知塢勢磨呂俄智歌之既訖則打口以仰咲今國樔獻土毛之日歌訖即擊口仰咲者蓋上古之遣則也夫國樔者其爲人甚淳朴也毎取山菓食亦煮蝦蟆爲上味名曰毛瀰其土自京東南之隔山而居于吉野河上峯嶮谷深道路狹巘故雖不遠於京本希朝來然自此之後屢參赴以獻土毛其土毛者栗菌及年魚之類焉二十秋九月倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉
【十六年の春二月に、王仁が来た。それで太子の菟道の稚郎子は師とした。諸々の典籍を王仁に習い深くその道に達した。所謂、王仁は、書の首達の始祖だ。この歳、百済の阿花王が薨じた。天皇は、直支王を呼び寄せて、「お前は、国に返って王位を嗣ぎなさい」と言った。それでまた、東韓の地を与えて派遣した。八月に、平群の木菟の宿禰と的の戸田の宿禰を加羅に派遣した。やはり精兵を授けて、「襲津彦が、長い間帰還しない。きっと新羅の抵抗のため留まっているのだろう。お前たちは、急いで行って新羅を撃って、新羅への道を確保しろ」と詔勅した。そこで、木菟の宿禰達は、精兵を進軍させ、新羅の境に‎臨んだ。新羅の王は、怯えて其の罪に服した。すなわち弓月の人夫を率いて、襲津彦と一緒に来訪した。十九年の冬十月の朔が戊戌の日に、吉野宮に行幸した。その時に國樔の人が朝廷に来た。それで、天皇に甘酒を献上して、歌って()、歌い終わったら、口を打ち上を見て大笑いしたが、國樔が、国の土産を献上した日に口を打ち上を向いて大笑いしたのは、きっと昔のしきたりだったのだろう。國樔の人となりはとても純朴で、いつも山の木の実を取って食べる。またヒキガエルを煮ておいしくつくる。毛瀰と名付けられた。その国は、京の東南、山を隔てて、吉野の川上にある。峯は険しく谷は深くて、道路は狭くて険しい。それで、京に遠くないが、むかしから来朝することは稀だった。しかし、これ以降、たびたび参上して、国の土産を献上した。その国の土産は、栗やキノコおよびアユの類だ。二十年の秋九月に、倭の漢の直の祖の阿知の使王と、その子の都加の使王が、一緒に二人の配下の十七縣を率いて、帰参した。】とあり、標準陰暦と合致する。
やはり、この、応神16年は390が元年の16年で405年に阿花王が薨去しており、『三国史記』の「六年夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」、百済本記「元年腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送」と腆支王が倭の人質となっていたことを記述しており、天皇は倭国から呼び寄せて、領地を与えている。
すなわち、尾張氏の応神天皇が倭王なら288年の記事で辻褄が合わず、405年に 平群木菟宿禰や襲津彦が韓に派遣されて、『三国史記』の「四年夏四月倭兵来攻明活城」と武内宿禰の子たちと倭軍が新羅を攻めて、倭は一連の武内宿禰との共同戦線によって認められたので、葛城氏の配下になった。
後述するが、倭国王の倭漢直の祖が帰属した十七縣は実際は須恵器の分布から福岡平野と考えられ、武内宿禰は尾張氏から受け継いだ関東から畿内、自国の瀬戸内と紀伊・なか国・筑前・豊後・熊襲、倭国と領有し、名実共に氏を持たない天皇譽田となった。

2019年11月20日水曜日

最終兵器の目 応神天皇4

 『日本書紀』慶長版は
十一年冬十月作剱池輕池鹿垣池厩坂池是歲有人奏之曰日向國有孃子名髮長媛即諸縣君牛諸井之女也是國色之秀者天皇悅之心裏欲覓十三年春三月天皇遣專使以徵髮長媛秋九月中髮長媛至自日向便安置於桑津邑爰皇子大鷦鷯尊及見髮長媛感其形之美麗常有戀情於是天皇知大鷦鷯尊感髮長媛而欲配是以天皇宴于後宮之日始喚髮長媛因以上坐於宴席時撝大鷦鷯尊以指髮長媛乃歌之曰伊奘阿藝怒珥比蘆菟弥珥比蘆菟瀰珥和餓喩區瀰智珥伽遇破志波那多智麼那辭豆曳羅波比等未那等利保菟曳波等利委餓羅辭瀰菟遇利能那伽菟曳能府保語茂利阿伽例蘆塢等咩伊奘佐伽麼曳那於是大鷦鷯尊蒙御歌便知得賜髮長媛而大悅之報歌曰瀰豆多摩蘆豫佐瀰能伊戒珥奴那波區利破陪鶏區辭羅珥委遇比菟區伽破摩多曳能比辭餓羅能佐辭鶏區辭羅珥阿餓許居呂辭伊夜于古珥辭氐大鷦鷯尊與髮長媛既得交殷勤(慇懃)獨對髮長媛歌之曰彌知能之利古破儾塢等綿塢伽未能語等枳虛曳之介逎阿比摩區羅摩區又歌之曰瀰知能之利古波儾塢等綿阿羅素破儒泥辭區塢之敘于蘆波辭彌茂布十四年春二月百濟王貢縫衣工女曰真毛津是今來目衣縫之始祖也是歲弓月君自百濟來歸因以奏之曰臣領己國之人夫百二十縣而歸化然因新羅人之拒皆留加羅國爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅然經三年而襲津彥不來焉十五年秋八月壬戌朔丁卯百濟王遣阿直伎貢良馬二匹即養於輕坂上厩因以以阿直岐令掌飼故号其養馬之處曰厩坂也阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師焉於是天皇問阿直岐曰如勝汝博士亦有耶對曰有王仁者是秀也時遣上毛野君祖荒田別巫別於百
濟仍徵王仁也其阿直岐者阿直岐史之始祖也
【十一年の冬十月に、劒池・輕池・鹿垣池・廐坂池を作った。この歳に、ある人が「日向国に少女がいる。名を髮長媛という。諸縣の君の牛の諸井の娘だ。国中でも秀でて美しい」と奏上した。天皇は、悦んで、探し求めたいと思った。十三年の春三月に、天皇は、使者として身の回りにいる者を派遣して、髮長媛を呼び寄せた。秋九月の中旬に、髮長媛が、日向からやってきた。桑津の邑に丁重に迎え入れた。そこで皇子の大鷦鷯尊が、髮長媛を見かけて、その容姿が美しくあでやかに思い、恋情が頭から離れず何も手に付かなかった。それで、天皇は、大鷦鷯尊の髮長媛への思いを知り、めあわせようと思った。それで、天皇は、後宮での宴の日に、はじめて髮長媛を呼んで、宴の席に座らせた。その時大鷦鷯尊を招いて、髮長媛を指挿して、歌い()大鷦鷯尊は、歌をきいて、髮長媛を得ることが出来ると知って、大喜びして、歌を返して()大鷦鷯尊は、髮長媛と親しく交わり、髮長媛に対して歌って()また、歌った()。十四年の春二月に、百済王が、縫衣工女を貢いだ。眞毛津という。これは、いまの来目の衣縫の始祖だ。この歳、弓月の君が、百済から帰って来た。それで「臣は、我が国の人々百二十縣を引き連れて帰化した。しかし新羅人が拒んだため、皆が加羅國に留まっている」と奏上した。それで葛城の襲津彦を派遣して、弓月の国の人々を加羅に集めた。しかし三年経っても、襲津彦から報告がない。十五年の秋八月の朔が壬戌の丁卯の日に、百済王は、阿直伎を派遣して、良馬二匹を貢献した。それで輕の坂上の廐で養わせた。それで阿直岐に馬を飼育させたのでその馬を飼ったところを廐坂と名付けた。阿直岐は、経典を上手く読んだ。それで太子の菟道の稚郎子の先生にした。天皇は、阿直岐に「お前に勝る博士がいるか」と問いかけた。「王仁といふ者がいる。この人物が秀れている」と答えた。その時、上毛野の君の祖の、荒田別と巫別を百済に派遣して、王仁を呼び寄せた。それで阿直岐は、阿知岐の史の始祖だ。】とあり、標準陰暦と合致する。
諸縣君の牛の諸井は続く一書に「一云日向諸縣君牛仕于朝庭」と朝廷に出資していたと記述しているが、本文に記述していない理由は、この応神十一年是年記事は葛城王朝の応神十一年記事で髮長媛の輿入れ記事は別王朝の皇太子への輿入れの可能性が有る。
今朕之子與大臣之子同日共産並有瑞是天之表焉以爲取其鳥名各相易名子爲後葉之契也則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子取木菟名號大臣之子」と名前を取り換えたと記述するが、実際は当然取り換えてはいなくて違う王朝が記述したから名を取り換えたと述べているのであって、応神十一年の大鷦鷯は『日本書紀』を記述した雄略天皇の王家の皇太子の可能性が高い。
そのため、この記事は『日本書紀』が朝廷の話なのだから朝廷と書く必要がないが、雄略天皇時には、名前を取り換えたことにして、この記事が木菟の話になってしまうので一云で朝廷を記述したのだと考えられる。
十五年の秋八月の朔が壬戌が284年と合致するが、百済に文字が伝わったのが『三国史記』375年の近肖古王三十年「古記云 百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記 然高興未嘗顯於他書」、百済に仏教が伝わったのは、『三国史記』枕流王の 「近仇首王之元子・・・九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉佛法始於此二年春二月創佛寺於漢山度僧十人冬十一月王薨」 と384年で、『隋書俀国伝』にも「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」と仏教とともに文字を得たと記述して、王仁を呼び寄せたのは405年のことのようだ。
『二中歴』にも「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」とと517年継体元年より569年前、紀元前53年から刻木で元号公布が始まったと述べ、弥生時代には硯も見つかり、日本では昔から、『三国志』に「男子無大小皆黥面文身」と入れ墨をするように木に溶かした墨を刻み込んだ、いわば、ドットプリンタのような方法で文字を刻み込んだのだろう。
『梁書』にも457年大明二年 に「賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」、499年永元元年に「有文字以扶桑皮爲紙」と葛城王朝の文字使用や仏教帰依を記述している。
勿論、125年の『室見川銘版』や184年から188年の『中平銘大刀』など、畿内の尾張朝廷の一部や倭国の一部は文字を知っていたので、多数の官僚など知識階級の文字知識のことと思われ、『旧唐書』には631年貞觀五年に「頗有文字俗敬佛法」と仏教が普及して官僚の多くや地方でも帰依して文字を使っていたのが「 頗有文字」だ。

2019年11月18日月曜日

最終兵器の目 応神天皇3

 『日本書紀』慶長版は
九年夏四月遣武內宿祢於筑紫以監察百姓時武內宿祢弟甘美內宿祢廢兄即讒言于天皇武內宿祢常有望天下之情今聞在筑紫而密謀之曰獨裂筑紫招三韓令朝於己遂將有天下於是天皇則遣使以令殺武內宿祢時武內宿祢歎之曰吾無貳心以忠事君今何禍矣無罪而死耶於是有壹伎直真根子者其爲人能似武內宿祢之形獨惜武內宿祢無罪而空死便語武內宿祢曰今大臣以忠事君既無黑心天下共知願密避之參赴于朝親辨無罪而後死不晩也旦時人毎云僕形似大臣故今我代大臣而死之以明大臣之丹心則伏剱自死焉時武內宿祢獨大悲之竊避筑紫浮海以從
南海𢌞之泊於紀水門僅得逮朝乃辨無罪天皇則推問武內宿祢與甘美內宿祢於是二人各堅執而爭之是非難決天皇勅之令請神祇探湯是以武內宿祢與甘美內宿祢共出于磯城川濵爲探湯武內宿祢勝之便執横刀以毆仆甘美內宿祢遂欲殺矣天皇勅之令釋仍賜紀伊直等之祖也
【九年の夏四月に、武内の宿禰を筑紫に派遣して、百姓を監察させた。その時に武内の宿禰の弟の甘美内の宿禰が、兄を廃嫡させようとして、天皇に「武内の宿禰は、いつも天下盗ろうとする気持ちが有って筑紫で、ひそかに謀って『私が筑紫を裂いて奪い、三韓を招いて自分に朝貢させ、天下を自分のものにしよう』と聞いている」と讒言した。それで、天皇は、使いを派遣して、武内の宿禰を殺そうとした。その時に武内の宿禰は、嘆いて、もとから二心は無く、忠心で君主に仕えてきた。今何のとがで、罪も無く死ななければならないのか」といった。そこに、壹伎の直の祖の眞根子という者がいた。この者は人格が良く武内の宿禰に似ていた。武内の宿禰一人が、罪も無いのに空しく死のうとしていることを惜しんで、武内の宿禰に、「今、大臣は忠心で君子に仕えていて邪心が無い事は、天下の皆が知っている。出来るなら、密かに逃げて、朝廷に参上して、自分から無罪を弁明して、その後で死んでも遅くない。また、世間がいつも、『私の容姿が、大臣に似ている』と言われている。それで、今、私が、大臣に代わって死んで、大臣のまごころを明らかにしてほしい」と語って、剱に覆いかぶさり自ら死んだ。その時に武内の宿禰は、誰もいないところで大変悲しんで、ひそかに筑紫を逃れて、海で南海から廻って、紀の水門に停泊した。ほんの少し朝廷に参内することが出来、それで無罪を弁明した。天皇は、武内の宿禰と甘美内の宿禰に問いただし、二人は、それぞれかたくなに争ったので、是非の判断が出来なかった。天皇は、神祇に願い求めて探湯をすると詔勅した。それで、武内の宿禰と甘美内の宿禰と、共に磯城の川の辺に出て、探湯を行った。武内の宿禰が勝って横刀を執って、甘美内の宿禰を打倒して、ついに殺そうとした。天皇は、許すよう詔勅した。それで紀の直達の祖を賜わった。】とある。
壱岐は『三国志』に「一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於」と伊都国が支配する地域で倭国の領域の壱岐の王に子孫が就任するのであるから、武内の宿禰と倭国の同盟によって辰斯王を殺させたことが解り、武内の宿禰は「なか国」の中の複数存在する王の一人で、「なか国」の中の筑紫、すなわち、宗像から京都郡を手中にして「なか国」を奪おうとしていると述べている。
武内の宿禰は『古事記』に「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢(此者山代内臣之祖也)又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と武内の宿禰の子孫が紀直等の祖でなければ意味不明な贈姓になってしまい、山代内臣之祖也は巨勢氏の仁賢天皇の時もしくは推古天皇の時蘇我氏が記述したのであるから、これも筋が通らなくなってしまう。
甘美内の宿禰が後に山代の内の臣ということは、武内の宿禰は武という地域に居る内氏の意味、甘美内宿禰は「うまし」という地域の内氏、すなわち、宇摩志麻遅と同じ地域の氏族ということが解る。
『勘注系図』に乎縫の父に意富那比が記述され、『舊事本紀』に「九世孫弟彦命・・・次彦與曽命十世孫淡夜別命・・・次大八椅命甲斐國造等祖彦與呂()命之子次大縫命次小縫命」と小縫父が彦與曽と意富那比イコール彦與曽の可能性が高く、『舊事本紀』に「八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」とまたの名が市大稲日と記述して、意富那毗と語感が似通い、その子たちが伊賀彦と呼ばれる。
味師内の宿祢は意富那毗の姻戚となり、「九世孫弟彦命」の子が「次玉勝山代根古命山代氷主雀部連軽部造蘇冝部首等祖」と山代の王で味師内の宿祢は山代内の臣の祖で神功皇后は角鹿にいて、南侵した仲哀天皇は木国に滞在し、木国と角鹿の南の山代は敵対関係であると証明し、その敵対関係の地に味師内の宿祢の子孫が領地を得ていた。
そして、紀の水門に停泊したのも、自分の母の領地なのだから当然で、実際は、「なか国」の中で倭国や伊勢遺跡の朝廷と同盟して孤立したが、畿内朝廷からも木国・筑前・日向の領有を認められた可能性が高い。

2019年11月11日月曜日

最終兵器の目 応神天皇2

 『日本書紀』慶長版は
三年冬十月辛未朔癸酉東蝦夷悉朝貢即役蝦夷而作厩坂道十一月處處海人訕哤之不從命則遣阿曇連祖大濱宿祢平其訕哤因爲海人之宰故俗人諺曰佐麼阿摩者其是緑也是歲百濟辰斯王失禮於貴國天皇故遣紀角宿祢羽田矢代宿祢石川宿祢木菟宿祢嘖讓其无禮狀由是百濟國殺辰斯王以謝之紀角宿祢等便立阿花爲王而歸五年秋八月庚寅朔壬寅令諸國定海人及山守部冬十月科伊豆國令造舩長十丈舩既成之試浮于海便輕泛疾行如馳故名其舩曰枯野六年春二月天皇幸近江國至菟道野上而歌之曰知婆能伽豆怒塢弥例磨茂茂智儾蘆夜珥波母弥喩區珥能朋母彌喩七年秋九月髙麗人百濟人任那人新羅人並來朝時命武內宿祢領諸韓人等作池因以名池号韓人池八年春三月百濟人來朝
三年の冬十月の朔が辛未の癸酉の日に、東の蝦夷が全て朝貢し蝦夷を使って、廐坂道を作らせた。十一月に、処々の海人が、騒ぎ立てて(?漢字としては誹謗する様子と容姿は口ひげがふさふさしている)命令に従わない。それで、阿曇連の祖の大濱の宿禰を派遣して、その騒ぎを平定した。それで海人を取り仕切らせた。それで、世間の諺で、「さまの海士」というのは、これが縁だ。この歳に、百済の辰斯王が立ったが、貴国の天皇に礼が無かった。それで、紀の角の宿禰と羽田の矢代の宿禰と石川の宿禰と木の菟の宿禰を派遣して、其の無礼を責めた。これで、百済国は、辰斯王を殺して謝罪し。紀の角の宿禰達は、すでに阿花を立てて王にして帰った。五年の秋八月の朔が庚寅の壬寅の日に、諸国に命じて、海人及び山守部を定めた。冬十月に、伊豆国に法に従って割り当てて、船を造らせた。長さ十丈(約18m)の船が既に出来上がった。試しに海に浮かせた。それで軽やかに浮かび馬が走るように早く進んだ。それで、その船を枯野と名付けた。六年の春二月に、天皇は、近江国に行幸して、菟道野辺に着き、歌った()。七年の秋九月に、高麗の人と百済の人と任那の人と新羅の人が一緒に来朝した。その時、武内の宿禰に、諸諸の韓人達を使って池を作るよう命じた。それで、池を韓人の池と名付けた。八年の春三月に、百済の人が来朝した。】とあり、標準陰暦と合致する。
「海人訕哤」と海人の様子を述べているが、『伊未自由来記』に木の葉比等は髪を切らないし、髪も延びたままで、目だけくるくるして恐ろしい姿だったが人柄は良かったと述べていたのを思い出した。
そして、『古事記』は「阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神」、『舊事本紀』は「底津少童命中津少童命表津少童命此三神者阿曇連等齊祠筑紫斯香神・・・天造日女命阿曇連等祖」と阿曇連は志賀島に祀られる神で天国の女王が祖先で綿津見神の末裔とあり合致している。
そして、応神三年に「この年」といかにも後から挿入したように記述する年の実際の年は392年で『三國史記』に辰斯王の「八年夏五月丁卯朔日有食之・・・王薨時年少故叔父辰斯繼位八年薨 卽位」と日干支も合致して、雄略天皇の時代が想定する応神三年が392年だったことが解る。
ちなみに、『三国史記』の日干支も紀元前54年の赫居世四年「夏四月辛丑朔」も 紀元前2年の赫居世五十六年「春正月辛丑朔」 、続いて日干支が解る紀元前34年の赫居世二十四年「夏六月壬申晦」も標準陰暦と合致し、中国が紀元前72年に『漢書』「・・・建太學,修郊祀,定正朔」と朔の基準を決定した以降だが、『三国史記』は中国の干支の決め方が異なっていて、『三国史記』も『日本書紀』と同じく文字で記録した資料を基にした史書であった。
前年の応神二年に『好太王碑文』に「倭以辛卯年來渡海破百残」と辰斯王は倭と葛城王朝との連合軍に敗れ王を挿げ替えられ、当然、畿内政権の日本に朝貢する余裕が無く、畿内政権も百済を助ける力も無かったことが解り、390年即位の応神天皇は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の父の武内宿禰とわかり、もちろん、武内宿禰一代ではなく武内宿禰家で襲名していて、それ以前にも武内宿禰が存在して数代続くのは当然だ。
また、船の長さの一丈を1.8mとしたが、周時代に身の丈が1.8mとは考えにくくもっと短いと思われ、出土した船の推定値は10mを超えるとされるが、この船が特別言及した船であることからもう少し大きい船で、科の文字を使っていることから、何らかの法令が有ったことが推定される。

2019年11月8日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十 応神天皇1

 日本書紀慶長版
譽田天皇足仲彥天皇第四子也母曰氣長足姫尊天皇以皇后討新羅之年歲次庚辰冬十二月生於筑紫之蚊田幼而聰達玄監深遠動容進止聖表有異焉皇太后攝政之三年立爲皇太子初天皇在孕而天神地祇授三韓既産之宍生腕上其形如鞆是肖皇太后爲雄裝之負鞆故稱其名謂譽田天皇攝政六十九年夏四月皇太后崩元年春正月丁亥朔皇太子即位是年也太歲庚寅二年春三月庚戌朔壬子立仲姫爲皇后后生荒田皇女大鷦鷯天皇根鳥皇子先是天皇以皇后姉髙城入姫爲妃生額田大中彥皇子大山守皇子去來真稚皇子大原皇女澇田皇女又妃皇后弟弟姫生阿位皇女淡路御原皇女紀之菟野皇女次妃和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女次妃宅媛之小甂媛生菟道稚郎姫皇女次妃河派仲彥女弟媛生稚野毛二派皇子次妃櫻井田部連男鉏之妹糸媛生隼總別皇子次妃日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子凢是天皇男女幷二十王也根鳥皇子是大田君之始祖也大山守皇子是土形君榛原君凢二族之始祖也去來真稚皇子是深河別之始祖也
【誉田天皇は、足仲彦天皇の第四子だ。母を足姫尊という。天皇は、皇后が新羅を討った年、歳次庚辰の冬十二月に、筑紫の蚊田に生まれた。幼い頃から賢くて物事の道理に通じていた。森羅万象を深遠に観察し、たちいふるまいはメリハリが有り、聖なる考えは際立っている。皇太后の攝政三年に、皇太子に立った。その時三歳だった。天皇を妊娠して、天神地祇によって、三韓を授かった。産まれた時の体は、腕が盛り上がり、鞆のような形をしていた。皇太后勇ましい裝いで鞆をつけていたので、その名をたたえて、田天皇という。攝政六十九年の夏四月に、皇太后が崩じた。その時の年齢は百歳だった。元年の春正月の朔の丁亥の日に、皇太子は即位した。この年は太歳庚寅だった。二年の春三月の朔が庚戌の壬子の日に、仲姫を皇后に立てた。后は、荒田皇女・大鷦鷯天皇・根鳥皇子を生んだ。これより前に、天皇は、皇后の姉の高城入姫を妃として、額田大中彦皇子・大山守皇子・去來眞稚皇子・大原皇女・澇來田皇女を生んだ。また妃で、皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女・淡路御原皇女・紀菟野皇女を生んだ。次妃は、和珥臣の祖の日觸使の娘の宮主宅媛、菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女を生んだ。次妃の、宅媛の妹の小甂媛は、菟道稚郎姫皇女を生んだ。次妃河派仲彦の娘の弟媛は、稚野毛二派皇子を生んだ。次妃の、櫻井田部男鉏の妹の糸媛は隼總皇子を生んだ。次妃日向泉長媛は、大葉枝皇子・小葉枝皇子を生んだ。凡てでこの天皇は男女あわせて二十王だ。根鳥皇子は、大田君の始祖だ。大山守皇子は、土形君・榛原君の二族の始祖だ。去來眞稚皇子は、深河別の始祖だ。】とあり、元年は標準陰暦と合致するが二年は合致せず、209・266・333・390年の候補が有り、応神天皇八年「遣王子直支于天朝」、『三国史記』百済「六年夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」が392年すなわち390年が元年の応神天皇が存在するので可能性が高い。
誉田王が足仲彦と伊勢遺跡の氏族の息長氏の姫との子で葛城王朝の王であることは確かであるが、実際の270年即位の畿内・近江の応神天皇が誰かは不明であるが、応神の父仲哀の妃で息長の足姫が皇后で大中姫は前皇太子の母だが大足彦の妹で名前が大中姫、大国王の妹なら大国の中姫と考える方が理に適い、尾張氏王朝の皇后は弟媛で皇太子が誉屋別皇子の可能性が高い。
皇太子の誉屋別の誉は『古事記』の「沙本比古王其伊呂妹亦從也故率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙作二俣小舟」と垂仁天皇が狭穗媛の子の譽津別と遊んだ美濃の相津との関係や倭武の一人とした尾張氏の弟彦の妹『舊事本紀』の「九世孫弟彦命妹日女命」の日女は弟彦と対応させれば弟日女と考えられ、譽屋別が畿内の応神天皇かも知れない。
そして、応神天皇の祖父倭武には『舊事本紀』に「妃穗積氏祖忍山宿祢女弟媛生九男・・・次伊賀彦王次武田王尾張國丹羽建部君祖次佐伯命参川御使連等祖」と物部氏の亜流の穂積氏のやはり「弟媛」の子の中に伊賀彦と丹羽君の祖がいて、「十二世孫建稲種命此命迩波縣君祖大荒田女子玉姫爲妻」 と丹羽君の祖を娶って子の「尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣」と大臣となっている。
応神天皇の項には皇太后とした記述が無いのだから伊賀美濃を基盤とした王朝が継続していることを示していて、建稲種の孫が『舊事本紀』に「此命譽田天皇御世爲大臣供奉妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦命生品色真若王次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女王則高城入姫命次仲姫命次弟姫命此三命譽田天皇並爲后妃誕生十三皇子姉髙」と応神天皇の皇后になり、義兄とその子の品色真若王の襲名も記述されている。
そして、その仲姫は荒田皇女・大鷦鷯を生み、大鷦鷯は天皇、荒田皇女は「迩波縣君祖大荒田」と無関係とは思えない。
また、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」は『日本書紀』の「和珥臣等始祖天足彥國押人命」とあるが、『古事記』に「天押帯日子命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壱比韋臣大坂臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟耶臣都怒山臣伊勢飯高君壹師君近淡海國造之祖也」、「若帯日子天皇坐近淡海之志賀高穴穂宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と近江の国造、伊勢飯高君の祖、成務天皇の太子の母が穂積氏、穂積氏の祖は内色許男、内色許男の娘が大毗々の皇后の伊迦賀色許賣、大彦は大伊賀彦の可能性が高い。
そして、『舊事本紀』の「忍山宿祢」は『古事記』では「建忍山垂根」と氏は建氏で垂根すなわち足祢は根を統治するという意味で、近江の天皇の皇太子がいる宮は伊勢遺跡の王の可能性があり、『舊事本紀』に「十世孫物部印葉連公多遅麻大連之子此連公輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連奉齋神宮姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女」とある。
すなわち、「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」イコール「物部山無媛連」で、『舊事本紀』に「次妃物部多遅麻大連女香室媛生三皇子兒菟道稚郎子皇子尊次矢田皇女仁徳妃次雌鳥皇女」と香室媛とも記述し、多遅麻は武諸遇の子で武諸遇も武氏を名乗り、「矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連奉齋神」と宮主となり、『古事記』に「丸迩之比布礼能意富美之女名宮主矢河枝比賣」と比布礼は大臣、すなわち、前代が天皇だったことを意味し、宮主は伊勢遺跡の宮主で菟道稚郎子は伊勢遺跡の王朝の皇太子の可能性が高く、「物部斤葉連公為大臣」と香室媛の兄が大臣となった。
そして、矢田部造を賜姓されたのが、『舊事本紀』に「矢田皇女・・・而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓」と大別連で、『舊事本紀』に仁徳天皇「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と大別が天皇と記述している。

2019年11月6日水曜日

最終兵器の目 神功皇后10

 『日本書紀』 慶長版は
五十二年秋九月丁卯朔丙子久氐等從千熊長彥詣之則獻七枝刀一口七子鏡一面及種種重寶仍啓曰臣國以西有水源出自谷那鐵山其邈七日行之不及當飲是水便取是山鐵以永奉聖朝乃謂孫枕流王曰今我所通海東貴國是天所啓是以垂天恩割海西而賜我由是國基永固汝當善脩和好聚歛土物奉貢不絁雖死何恨自是後毎年相續朝貢焉五十五年百濟肖古王薨五十六年百濟王子貴湏立爲王六十二年新羅不朝即年遣襲津彥擊新羅六十四年百濟國貴湏王薨王子枕流王立爲王六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王六十六年(是年晉武帝泰初二年)六十九年夏四月辛酉朔丁丑皇太后崩於稚櫻宮冬十月戊午朔壬申葬狹城盾列陵是日追尊皇太后曰氣長足姫尊是年也太歲己丑
【五十二年の秋九月の朔が丁卯の丙子の日に、久氐達が千熊長彦に従って参上した。それで七枝刀を一口・七子鏡を一面、そして種々のたいせつな宝物を献上した。それで「私の国の西方に河が有り、水源は谷那の鉄山が水源だ。その距離は遠くて七日行っても着かない。この水を飲んで、この山の鉄を取って、永遠に尊い朝廷に献上する」と説明した。それで孫の枕流王に「今私が交流する海の東にある貴国(尊い国OR国名「貴国」)は、天がひらいた国だ。それで、天恩を人に示し、海西を割いて我々に与えた。これで、国の基礎は永遠に堅固だ。お前は良好な関係をもって、物産を集めて、貢献を絶えなければ、私が死んでも恨みに思うことは無い」と言った。これより後、年毎に王の言う通り朝貢した。五十五年に、百済の肖古王が薨じた。五十六年に、百済の王子の貴須が、王に立った。六十二年に、新羅が朝貢せず、その年に、襲津彦を派遣して新羅を撃たせた。六十四年に、百済国の貴須王が薨じた。王子の枕流王が王に立った。六十五年に、百済の枕流王が薨じた。王子の阿花は年少で。叔父の辰斯が王位を奪って立った。六十六年。(この年、晉の武帝の泰初二年だ。)六十九年の夏四月の朔が辛酉の丁丑の日に、皇太后は、稚櫻宮で崩じた。この時、年齢百歳だった。冬十月の朔が戊午の壬申の日に、狹城の盾列の陵に葬むった。この日に、皇太后を尊んで追号して、氣長足姫尊と言った。是の年、太歳は己丑だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
肖古王の薨は『三国史記』に「冬十一月王薨古記云 百濟開國已來未有以文字記事」と375年11月でこの記事が最初の文字で記述したものと述べていて、神功55年が375年で、ある王朝の55年目が375年に当たる321年が元年の王朝を示し、『三国史記』に近仇首王「十年・・・夏四月王薨 」、枕流王「二年・・・冬十一月王薨 」と384年が神功64年、385年が神功65年と同じ王朝の時系列である。
それに対して、『日本書紀』を記述した雄略朝は神功66年が秦初2年、「神功皇后7」で省略した「四十年魏志云正始元年」、「四十三年魏志云正始四年」を含めて201年即位の王朝を当てはめて、年代観が間違っているわけでは無い。
何度も述べるように、『日本書紀』は紀伝体で一人の王()に複数の王()を記述して王朝は長男継承は同じ王の名で継承されていて、ある王をどの畿内王朝に当て嵌めるかによって120年もずれてしまうのである。
それは、おそらく『三国史記』も同じで、『三国史記』の406年の腆支王 二年「二月遣使入晉朝貢 」、416年の腆支王十二年「東晉安帝遣使冊命王爲使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王 」とあるが、416年記事は『宋書』416年の晉義熙十二年「以百濟王餘映為使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王」と合致するが、406年記事は『晉書』386年の太元十一年「夏四月以百濟王世子餘暉爲使持節都督鎮東將軍百濟王」と辰斯王2年に相当し、当て嵌めがズレている。
そういったズレは、『三国史記』阿達羅尼師今に「二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」と173年に記述されるが、実際は「奈解尼師今」二十年で215年の可能性が高く当てはめ間違いが見て取れる。
そして、神功皇后摂政五十二年の「獻七枝刀一口」は『石上神宮伝世の七支刀』と考えられ、倭国に送られた刀をその宗主国の畿内政権に献上したもので、「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」(※■は不明文字)と銘があり、 西晋の「泰始四年」268年と東晋の「太和四年」369年と 劉宋の「泰始四年」468年の説があるが、私は、泰■四年は『二中歴』が紀元前53年から元号が始ったと記述している日本の年号(百済は日本が宗主国の立場で元号を持っていないと考えられる)で旧暦372年七月十六日と考えている。
十■の■は七の下棒線が消えたものと考えられ、この372年七月十六日は丙午にあたり、孫の枕流王に皇子阿莘王が生まれた記念の刀を送ったと思われ、枕流王は385年に崩じ、皇太子は「六十五年百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」とまだ13歳で若いため、枕流王の弟辰斯王が即位し、阿莘王が392年20歳で即位している。
これも、321年即位の神功皇后がいて、その52年目で、「五十五年百濟肖古王薨」は375年、「六十四年百濟國貴須王薨王子枕流王立爲王」は384年と裏付けていて、久氐や襲津彦の記事は321年即位の神功皇后の年表で考えなければならない。
4世紀末の年表を裏付けるように、「六十二年新羅不朝即年遣襲津彦撃新羅百濟記云壬午年」と382年は壬午年で、朝鮮半島の南東部に出土する筒型銅器が畿内の南部にも出土し、時期的にはこの頃が全盛である。
また、神功皇后は神功皇后摂政元年に「群臣尊皇后曰皇太后」と、皇太后と呼ばれたにもかかわらず、再度神功皇后摂政六九年に死後に「追尊皇太后」と追号し、二人の神功皇后がいたことを認めている。

2019年11月4日月曜日

最終兵器の目 神功皇后9

   『日本書紀』慶長版は
五十年春二月荒田別等還之夏五月千熊長彥久氐等至自百濟於是皇太后歡之問久氐曰海西諸韓既賜汝國今何事以頻復來也久氐等奏曰天朝鴻澤遠及弊邑吾王歡喜踊躍不任于心故因還使以致至誠雖逮萬世何年非朝皇太后勅云善哉汝言是朕懷也増賜多沙城爲往還路驛五十一年春三月百濟王亦遣久氐朝貢於是皇太后語太子及武內宿祢曰朕所交親百濟國者是天所致非由人故玩好珍物先所未有不闕歲時常來貢獻朕省此款毎用喜焉如朕存時敦加恩惠即年以千熊長彥副久氐等遣百濟國因以垂大恩曰朕從神所驗始開道路平定海西以賜百濟今復厚結好永寵賞之是時百濟王父子並顙致地啓曰貴國鴻恩重於天地何日何時敢有忘哉聖王在上明如日月今臣在下固如山岳永爲西蕃終無貳心
【五十年の春二月に、荒田別達が帰った。夏五月に、千熊長彦と久氐達は、百済から着いた。ここで、皇太后は、よろこんで久氐に「海の西の諸々の韓を、もうお前の国に与えた。今何があってしきりに来る」と問いかけた。久氐達が「天皇の政治は庶民を大きく潤し、遠く私どもの卑しい邑に及んでいる。私の王は、踊るように喜んで、どうしようもなく心苦しい。それで、使者が帰って、とても謙虚になって、ずっとと言っても、いつ朝貢すればよいのか」と聞いた。皇太后が「お前の言葉はとてもよろしい。これは私も考えるところだ」と詔勅した。多沙の城を追加して与え、行き来の路の宿駅とした。五十一年の春三月に、百済の王が、また久氐を派遣して朝貢した。そこで、皇太后は、太子と武内宿禰に「私の親しくする百済の国は、天から自然に導かれたもので、人に従ったのではない。手に取る珍しいものは未だ見たことが無い。四季折々間をあけずいつも貢献する。私は、この真心をよく考えると、いつも喜びが沸き起こった。私が存命の時にしたように厚遇しなさい」と語った。その年に、千熊長彦を、久氐達と一緒に百済の国へ派遣した。それで、大恩を受けた心情を、「私は、神のお示しに従って、百済との交易を始めた。海西を平定して、百済に与えた。今また、親密な友好を結んで、永遠にいつくしむ」と表した。この時に百済の王の父子は、並んで土下座して、「貴国の大恩は、天地全てよりも重い。ずっと忘れることが出来ない。聖王が私たちの上にいらっしゃることは、日月があるように当然だ。今私は、山のように堅固な配下となります。ずっと貴国の西の境の国となることに二心を持ちません」と表明した。】とある。
『三国志』には「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と記述されるように、弁辰の領主の辰王(日本)は自ら王を建てないで馬韓人(百済)に任せ、『晉書』には「弁辰亦十二國合四五萬戶各有渠帥皆屬於辰韓」と前項を証明するように新羅が領有した。
さらに、『 宋書』では「都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」と倭が主張するが、416年義熙十二に「以百濟王餘映為使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王」と百済の領有を認めず、新羅と加羅諸国は倭領と認めている。
この、倭の領有は、百済が倭の領土でないのに倭が領有を主張したように、新羅も加羅諸国も倭領ではなく、辰国領だったが、倭が辰国も自領と主張しているため、中国が辰国を認めていないので倭領としたのである。
すなわち、中国史書や朝鮮史書と『日本書紀』がかみ合わないのは、中国が認めない敵国の辰国日本が南韓の宗主国で馬韓百済に領有を任せたが、中国が認めない辰国を中国史書や朝鮮史書は記述せず、中国に朝貢する倭のみ記述し、中国は敵対しなくなった時に扶桑国・秦王国と記述し、唐は日本に対する戦勝国となって朝貢が始まったので日本を記述し、朝鮮も対等の倭国日本、俀国日本を記述し、それに対して倭種としか記述されなかった日本が漢王朝と戦った記述は負けたので記述していないのである。

2019年11月1日金曜日

最終兵器の目 神功皇后8

 『日本書紀』慶長版は
四十七年夏四月百濟王使久氐弥州流莫古令朝貢時新羅國調使與久氐共詣於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣群臣皆莫不流涕仍檢校二國之貢物於是新羅貢物者珍異甚多百濟貢物者少賤不良便問久氐等曰百濟貢物不及新羅奈之何對曰臣等失道至沙比新羅則新羅人捕臣等禁囹圄經三月而欲殺時久氐等向天而呪詛之新羅人怖其呪詛而不殺則奪我貢物因以爲己國之貢物以新羅賤物相易爲臣國之貢物謂臣等曰若誤此辭者及于還日當殺汝等故久氐等恐怖而從耳是以僅得達于天朝時皇太后譽田別尊責新羅使者因以祈天神曰當遣誰人於百濟將檢事之虛實當遣誰人於新羅將推問其罪便天神誨之曰令武內宿祢行議因以千熊長彥爲使者當如所願於是遣千熊長彥于新羅責以濫百濟之獻物四十九年春三月以荒田別鹿我別爲將軍則與久氐等共勒兵而度之至卓淳國將襲新羅時或曰兵衆少之不可破新羅更復奉上沙白蓋盧請増軍士即命木羅斤資沙沙奴跪領精兵與沙白蓋盧共遣之倶集于卓淳擊新羅而破之因以平定比自㶱南加羅㖨國安羅多羅卓淳加羅七國仍移兵西𢌞至古爰津屠南蠻忱彌多禮以賜百濟於是其王肖古及王子貴湏亦領軍來會時比利辟中布弥支半古四邑自然降服是以百濟王父子及荒田別木羅斤資等共會意流村相見欣感厚禮送遣之唯千熊長彥與百濟王于百濟國登辟支山盟之復登古沙山共居磐石上時百濟王盟之曰若敷草爲坐恐見火燒且取木爲坐恐爲水流故居磐石而盟者示長遠之不朽者也是以自今以後千秋萬歲無絶無窮常稱西蕃春秋朝貢則將千熊長彥至都下厚加禮遇亦副久氐等而送之
【四十七年の夏四月に、百済の王が久氐彌州流莫古を朝貢させた。その時に新羅の国の年貢の使者が、久氐と一緒に遣ってきた。そこで、皇太后と太子の譽田別の尊が大変喜んで、「前王が望んでいた国の人が、今、来朝した。天皇の存命中に来朝しなかったことは残念だ」と言った。役人は、皆涙を流さない者が無かった。それで二国の貢物調べた。ここで、新羅の貢物は、珍品でとても多かった。百済の貢物は、少く、粗末で良くなかった。それで久氐達に「百済の貢物は新羅に劣るがどうしてだ」と問いかけた。「私達は、道に迷って、沙比の新羅についてしまった。それで新羅の人は、私達を捕えて牢獄に監禁した。三月経って殺そうとした。その時久氐達は、天(?)に向って呪詛した。新羅の人は、その呪詛を怖れて殺さなかった。それで私達の貢物を奪って、それで、自分の国の貢物としてしまった。新羅の見窄らしい物と交換して私の国の貢物とした。私達に『もしこの事をやりそこなったら、国に帰って時にお前たちを殺す』といった。それで、久氐達は、恐れて従った。そのため、やっと天の朝廷に遣ってくることが出来た」と答えた。その時、皇太后と譽田別の尊は、新羅の使者を責めて、それで、天神に「誰を百済に派遣して、事の虚実調べさせるべきか。誰を新羅に派遣して、推し量って罪に問うべきか」と祈った。それで天神が「武内の宿禰と相談して千熊の長彦を使者とすれば、きっと願いどうりになるだろう」と教えた。そこで、千熊の長彦を新羅に派遣して、百済の献上物を力で乱用したことを責めた。四十九年の春三月に、荒田別と鹿我別を將軍とした。それで久氐達と、軍馬と一緒に渡って、卓淳国に着いて、新羅を襲おうとした。その時にある人が、「軍兵が少ないと、新羅を破ることが出来ない。また、沙白と蓋蘆に書状を送って、増軍を要請してほしい」と言った。それで木羅斤資と沙沙奴跪に命じて、精兵を引き連れて、沙白と蓋盧が派遣された。みな卓淳に集まって、新羅を撃破した。それで、比自㶱、南加羅、㖨國、安羅、多羅、卓淳、加羅の七国を平定した。それで軍を移して、西を廻って古奚津に着いて、南蛮の忱彌多禮をさいて、百済に与えた。そこで、その王肖古と王子の貴須が、軍を引き連れて集まってきた。その時に比利と辟中、布彌支、半古の四邑が、自然に降服した。これで、百済の王の父子と荒田別、木羅斤資等が、共に意流村で会って、互いに喜び合い、手厚い礼で見送り派遣した。ただし千熊の長彦と百済の王のみは、百済の国に着いて、辟支の山に登って誓いあった。また古沙の山に登って、ともに岩の上に佇んでいたときに百済の王が、「もし草を敷いて座っていたら、おそらく燒かれるだろ。また木に坐っていたら、恐るらく水に流されるだろう。それで、岩で誓うことは、長く朽ちることが無い事を示す。それで、いま以後、ずっと、永遠に耐えることが無い。いつも西の国と言って、春と秋に朝貢する」と誓った。それで千熊の長彦を引き連れて、都に着いて手厚い礼儀で処遇した。また久氐達を添えて見送った。】とある。
三韓は『後漢書』「韓有三種・・・皆古之辰國也」と辰国領で、百済は『後漢書』や『三国志』では「馬韓」と呼ばれ、『後漢書』「馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉」と辰国王は王にならないで馬韓に三韓の王を任せた。
そして、新羅は「辰韓」と呼ばれ、『後漢書』「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦」、『三国志』「辰韓在馬韓之東・・・馬韓割其東界地與之」と百済の東を割いて独立した。
そして、辰国の三韓で特に影響力を持っていたのが弁辰で、『三国志』「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」とやはり、辰王が馬韓人に任せていた。
ところが、『三国史記』新羅本紀の奈解尼師今に「六年春二月加耶國請和・・・十七年 春三月加耶送王子爲質」と後漢末には新羅と伽耶が同盟して、百済の影響力が低下していた。
そして、日本に朝貢する百済は『三国史記』百濟本紀の近肖古王に「二十三年 春三月丁巳朔日有食之遣使新羅送良馬二匹 」と388年に新羅と講和して国を安定させると高句麗と戦って近肖古王は「二十四年秋九月高句麗王斯由帥步騎二萬來屯雉壤分兵侵奪民戶王遣太子以兵徑至雉壤急擊破之獲五千餘級其虜獲分賜將士」、「二十六年高句麗擧兵來王聞之伏兵於浿河上俟其至急擊之高句麗兵敗北冬王與太子帥精兵三萬侵高句麗」と高句麗に勝利した。
また、481年には『三国史記』新羅本紀の炤知麻立干に「炤知麻立干三年三月高句麗與靺鞨入北邊取狐鳴等七城又進軍於彌秩夫我軍與百濟加耶援兵」と百済とともに高句麗と戦い、それに対して『三国遺事』に「第二十一蓋鹵王・・・己未年倭國兵來侵」と倭国が百済を侵略し、新羅と共通の敵となった。
『宋書』に「自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と百済も新羅も領地と倭が主張し、『日本書紀』継体天皇二一年に「磐井掩據火豐二國勿使修職外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」と倭王磐井が年貢を治めさせ、それに対して「近江毛野臣率衆六萬欲往任那爲復興建新羅所破南加羅」と畿内日本も加羅に進軍している。
『日本書紀』の記述の神功皇后47、49年は西暦370頃の記事と考えると良く合致し、仲()国王の足仲彦の子譽田別が天皇に即位する前の別王朝の大臣だった時の説話で、5王が百済の領有を主張したり、磐井の年貢の横取りと良く合致し、朝鮮半島で友好的な畿内政権と、そうでない倭の5王と磐井の構図である。