日本書紀 慶長版は
「三十九年是年也太歲己未(四十年四十三年)四十六年春三月乙亥朔遣斯摩宿祢于卓淳國於是卓淳王末錦旱岐告斯摩宿祢曰甲子年七月中百濟人久氐祢州流莫古三人到於我土曰百濟王聞東方有日本貴國而遣臣等令朝其貴國故求道路以至于斯土若能教臣等令通道路則我王必深德君王時謂久氐等曰本聞東有貴國然未曾有通不知其道唯海遠浪嶮則乗大舩僅可得通若雖有路津何以得達耶於是久氐等曰然即當今不得通也不若更還之備舩舶而後通矣仍曰若有貴國使人來必應告吾國如此乃還爰斯摩宿祢即以傔人爾波移與卓淳人過古二人遣于百濟國慰勞其王時百濟肖古王深之歡喜而厚遇焉仍以五色綵絹各一疋及角弓箭幷鐵鋌四十枚幣爾波移便復開寶藏以示諸珍異曰吾國多有是珍寶欲貢貴國不知道路有志無從然猶今付使者尋貢獻耳於是爾波移奉事而還告志摩宿祢便自卓淳還之也」
【三十九年は太歳己未だ。(四十年・四十三年)、四十六年の春三月の乙亥の朔に、斯摩宿祢を卓淳國に派遣した。そこで、卓淳の王の末錦旱岐は、斯摩宿祢に「甲子の年の七月の中に、百濟人の久氐・彌州流・莫古の三人が、我が国に到って『百濟の王が、東方に日本の貴国が有と聞いて、臣等を派遣して、その貴国に参内させた。それで、貴国への通好方法を求めて、この国にやってきた。もし私達に方法を教えて、通好出来れば、わが王はきっと深く君王の徳を高められる』といった。その時に久氐達に『元々東方に貴国が有ることを聞いていた。しかし、まだ通好できていないので、その方法を知らない。ただ海路は遠く浪は険しい。それで大船に乗っても、ほんの一握りが通好できただけだった。もし海路が有っても、どの様にしたら通好出来るのか』といった。そこで、久氐達が『それなら、すぐに通好はできない。しかし、もう一度帰って船舶を整えて、その後で通好しろ』といった。また『もし貴国の使人、来ることが有ったら、きっとわが国に連絡してほしい』といった。こうして帰った」と末錦旱岐が言った。ここで斯摩の宿祢は、使者の召使の爾波移と卓淳人の過古と二人を、百濟国に派遣して、その王を慰労した。その時に百濟の肖古王が、とても喜んで、厚遇した。それで五色の鮮やかな絹それぞれ一匹、および角弓箭とあわせて鉄の板四十枚を、爾波移に与えた。また宝の蔵を開いて、諸々の珍しいものを見せて、「私の国には多くのこのような珍宝が有る。貴国に献上しようと思うが、方法が解らない。献上しようと思ってもできない。しかし今、使者と一緒に、尋ねて貢獻しよう」と言った。そこで、爾波移は、その事をうけて帰り、志摩の宿祢に告げた。それで卓淳から帰った。】とあり、四十六年三月乙亥は2月30日で2月が小の月なら標準陰暦と合致する。
ここの記述しなかったところは魏志が景初三年正始元年四年の記事を記述したところで三十九年、四十年、四十三年をこの文書を記述した時に239年、240年、243年と見做した雄略天皇は言っていて、雄略天皇の時代の年代認識の正しさを示している。
正しい年代観を持ちながら、ズレて記述しているのであり、中国史書も『百濟記』も読んではいるが、『三国志』は理解できても『百濟記』の年代観は理解できず、「貴国」や「久氐」は雄略天皇と縁が無い畿内政権の説話を神功紀や応神紀の王と見做してそのまま記述し、卑弥呼の魏との説話は卑弥呼を神功皇后にあて、倭の5王を記述した史書は入手していないから記述されていない。
そして、『三国志』倭人伝をそのまま鵜呑みにせず、景初二年記事を「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・其年十二月詔書報倭女王曰・・・今以汝爲親魏倭王假金印紫綬」と1年変更し、巻4の「齊王・・・四年・・・冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」は神功皇后摂政四三年の正始四年に入れ込んでいる。
この微妙な違いは『三国志』とは異なる資料、すなわち、卑弥呼の資料が残り、卑弥呼の統治39年・40年・43年だった証拠なのである。
また、倭と百済は200年前後の肖古王の頃も350年前後の近肖古王の頃も通好しておらず、『三国史記』の阿莘王六年397年の「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」が初出でしかも太子を人質にして友好的とは言えず、『宋書』に425年記事に「太祖元嘉二年・・・自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」とそれを裏付け、この記事は倭国ではない、日本との通好開始記事で4世紀後半の近肖古王の時代に日本で新しい朝廷が出現して通好を始めたことを意味している。
『後漢書』三韓に「皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王」と三韓は辰国の領地で「辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觞相呼為徒有似秦語」と辰を秦に書き換えているが、秦なら、秦語は中国語で中国を秦と書き換えていることになってしまい、全く意味が通らない。
すなわち、「秦之亡人」は「辰之亡人」、「秦語」は「辰語」で「諸國邑各以一人主祭天神號為天君又立苏涂建大木以縣铃鼓事鬼神」と天神を祀って、その指導者を天君とよび、そこに住む人々は『三国志』に「弁辰亦十二國・・・弁辰狗邪國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王・・・今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便步戰」と倭人に近く、辰人は自ら王とならないで馬韓人に治めさせている。
その馬韓である百済が弁辰の1国の卓淳国も治めていて、卓淳国も新たな日本国の王朝と通好しようと来日し、百済も新王朝と通好したいと求め、それを記述したのは葛城氏であり、新しい王朝は葛城王朝で、百済はそれ以前から日本に貴国という国が前からあり、関係があった、すなわち、貴国が辰国である。