『日本書紀』慶長版は
「五十一年春正月壬午朔戊子招群卿而宴數日矣時皇子稚足彥尊武內宿祢不參赴于宴庭天皇召之問其故因以奏之曰其宴樂之日群卿百寮必情在戲遊不存國家若有狂生而伺墻閤之隙乎故侍門下備非常時天皇謂之曰灼然則異寵焉秋八月己酉朔壬子立稚足彥尊爲皇太子是日命武內宿祢爲棟梁之臣初日本武尊所佩草薙横刀是今在尾張國年魚市郡?(熱)田社也於是所獻神宮蝦夷等晝夜喧譁出入無禮時倭(姫)命曰是蝦夷等不可近就於神宮則進上於朝庭仍令安置御諸山傍未經幾時悉代(伐)神山樹叫呼隣里而脅人民天皇聞之詔群卿曰其置神山傍之蝦夷是本有獸心難住中國故隨其情願令班邦畿之外是今播磨讚岐伊豫安藝阿波凢五國佐伯部之祖也初日本武尊娶兩道入姫皇女爲妃生稻依別王次足仲彥天皇次布忍入姫命次稚武王其兄稻依別王是犬上君部武(武部)君凡二族之始祖也又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛生武鼓(卵)王與十城別王其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也弟十城別王是伊豫別君之始祖也次妃穗積氏忍山宿祢之女弟橘媛生稚武彥王」
【五十一年の春正月の朔が壬午の戊子の日に、官僚を招集して数日饗宴した。その時に皇子の稚足彦尊と武内宿禰は、宴の庭に参上しなかった。天皇は呼び寄せて理由を聞いた。それで、「あの饗宴の日は、官僚や役人がきっと戯れ遊んで心ここにあらずになって、国家の大事ことを忘れてしまう。もし狂人がいて、門扉や垣根の隙間から反乱の好機を伺うかもしれない。それで、門に待機して非常時に備えていました」と奏上した。それを聞いて天皇は「なるほど」と言った。それで、特別に厚遇した。秋八月の朔が己酉の壬子の日に、稚足彦尊を皇太子に立てた。この日に、武内宿禰を棟梁の臣に命じた。はじめ、日本武尊が腰に差した草薙の横刀は、今、尾張の国の年魚市の郡の熱田の社にある。そこで、神宮に献上した蝦夷達が、昼夜かまわずやかましく騒ぎ立てて、神域への出入りのときも無礼であった。そこで倭姫命は「この蝦夷達は、神宮に近づけてはならない」と言った。それで朝庭に献上した。それで御諸山の傍に置いた。それからすぐに、残らず神山の樹を伐って、隣の里で叫びたてて、人民を脅した。天皇がそれを聞いて官僚に「あの、神山の傍に置いた蝦夷は、元々、獣のような輩で、国の中に住まわせるのは難しい。それで、その願いのとおりに、邦畿の外に分散しなさい」と詔勅した。今、播磨・讚岐・伊予・安芸・阿波の、五国の佐伯部の祖だ。はじめ、日本武尊は、兩道入姫皇女を娶って妃として、稻依別王を生んだ。次に足仲彦天皇。次に布忍入姫命。次に稚武王。そのなかの兄の稻依別王は、犬上君と武部君の二氏族の始祖だ。また、次の妃の吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛は、武卵王と十城別王とを生んだ。この兄の武卵王は、讚岐の綾君の始祖だ。弟の十城別王は、伊予別君の始祖だ。次妃の穗積氏の忍山宿禰の娘の弟橘媛は、稚武彦王を生んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
前回書いたように倭武は出雲にもいたが、『古事記』に「弟橘比賣命生御子若建王」と関東の倭武の妃の皇子の若建王は「故上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等(柴)野入杵之女此等(柴)野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王」となぜか倭武の曽孫が倭武の父親の大帯日子の妃となり、有り得ない記述があるが、襲名があるから崇神時代の出雲の倭武の子孫なら理に適う。
さらに、この出雲の倭武の敵対王朝は物部氏で尾張氏の王朝垂仁天皇とは姻戚となり、大江王は「大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也」と武内宿禰と敵対する王となる。
そして、伊勢が近江にあったことを示すように、若建王の子の須賣伊呂大中日子王は淡海の姫を娶り、『舊事本紀』には「穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王」、「大水口宿祢命穂臣積栗女臣等祖」と物部氏の別系統の姫とわかり、別朝廷の近江の伊勢が物部氏の都とわかる。
同様に、吉備武彦の姫を妃とした倭武は吉備の倭武で葛城王朝の時代の説話で、倭武の子が伊予や讃岐王になったことを意味し、『古事記』のみに記述される「足鏡別王者(鎌倉之別小津石代之別漁田之別祖也)」と関東の倭武の子が駿河湾にある鎌倉の王を意味し、次息長田別王の娘を妃にした倭武は、継体天皇につながり、息長氏は『古事記』に「生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王(三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖)息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王(多牟二字以音此者多遅摩國造之祖也)」吉備・播磨・阿蘇の祖とまさに倭武が活躍した国々だ。
そして、佐伯部の五国の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波もすべて葛城氏にかかわりがあり、倭武はいくつもの、しかも、時間を超えた王や皇子の記述を一まとめにして同じ王の事績にしていて、息長田別王の娘を妃にした倭武に多くの王・皇子を挿入していることがわかる。