2019年9月30日月曜日

最終兵器の目 景行天皇12

 『日本書紀』慶長版は
五十一年春正月壬午朔戊子招群卿而宴數日矣時皇子稚足彥尊武內宿祢不參赴于宴庭天皇召之問其故因以奏之曰其宴樂之日群卿百寮必情在戲遊不存國家若有狂生而伺墻閤之隙乎故侍門下備非常時天皇謂之曰灼然則異寵焉秋八月己酉朔壬子立稚足彥尊爲皇太子是日命武內宿祢爲棟梁之臣初日本武尊所佩草薙横刀是今在尾張國年魚市郡?()田社也於是所獻神宮蝦夷等晝夜喧譁出入無禮時倭()命曰是蝦夷等不可近就於神宮則進上於朝庭仍令安置御諸山傍未經幾時悉代()神山樹叫呼隣里而脅人民天皇聞之詔群卿曰其置神山傍之蝦夷是本有獸心難住中國故隨其情願令班邦畿之外是今播磨讚岐伊豫安藝阿波凢五國佐伯部之祖也初日本武尊娶兩道入姫皇女爲妃生稻依別王次足仲彥天皇次布忍入姫命次稚武王其兄稻依別王是犬上君部武(武部)君凡二族之始祖也又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛生武鼓()王與十城別王其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也弟十城別王是伊豫別君之始祖也次妃穗積氏忍山宿祢之女弟橘媛生稚武彥王
五十一年の春正月の朔が壬午の戊子の日に、官僚を招集して数日饗宴した。その時に皇子の稚足彦尊と武内宿禰は、宴の庭に参上しなかった。天皇は呼び寄せて理由を聞いた。それで、「あの饗宴の日は、官僚や役人がきっと戯れ遊んで心ここにあらずになって、国家の大事ことを忘れてしまう。もし狂人がいて、門扉や垣根の隙間から反乱の好機を伺うかもしれない。それで、門に待機して非常時に備えていました」と奏上した。それを聞いて天皇は「なるほど」と言った。それで、特別に厚遇した。秋八月の朔が己酉の壬子の日に、稚足彦尊を皇太子に立てた。この日に、武内宿禰を棟梁の臣に命じた。はじめ、日本武尊が腰に差した草薙の横刀は、今、尾張の国の年魚市の郡の熱田の社にある。そこで、神宮に献上した蝦夷達が、昼夜かまわずやかましく騒ぎ立てて、神域への出入りのときも無礼であった。そこで倭姫命は「この蝦夷達は、神宮に近づけてはならない」と言った。それで朝庭に献上した。それで御諸山の傍に置いた。それからすぐに、残らず神山の樹を伐って、隣の里で叫びたてて、人民を脅した。天皇がそれを聞いて官僚に「あの、神山の傍に置いた蝦夷は、元々、獣のような輩で、国の中に住まわせるのは難しい。それで、その願いのとおりに、邦畿の外に分散しなさい」と詔勅した。今、播磨・讚岐・伊予・安芸・阿波の、五国の佐伯部の祖だ。はじめ、日本武尊は、兩道入姫皇女を娶って妃として、稻依別王を生んだ。次に足仲彦天皇。次に布忍入姫命。次に稚武王。そのなかの兄の稻依別王は、犬上君と武部君の二氏族の始祖だ。また、次の妃の吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛は、武卵王と十城別王とを生んだ。この兄の武卵王は、讚岐の綾君の始祖だ。弟の十城別王は、伊予別君の始祖だ。次妃の穗積氏の忍山宿禰の娘の弟橘媛は、稚武彦王を生んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。
前回書いたように倭武は出雲にもいたが、『古事記』に「弟橘比賣命生御子若建王」と関東の倭武の妃の皇子の若建王は「故上云若建王娶飯野真黒比賣生子須賣伊呂大中日子王此王娶淡海之是等()野入杵之女此等()野比賣生子迦具漏比賣命故大帯日子天皇娶此迦具漏比賣命生子大江王」となぜか倭武の曽孫が倭武の父親の大帯日子の妃となり、有り得ない記述があるが、襲名があるから崇神時代の出雲の倭武の子孫なら理に適う。
さらに、この出雲の倭武の敵対王朝は物部氏で尾張氏の王朝垂仁天皇とは姻戚となり、大江王は「大江王此王娶庶妹銀王生子大名方王次大中比賣命故此之大中比賣命者香坂王忍熊王之御祖也」と武内宿禰と敵対する王となる。
そして、伊勢が近江にあったことを示すように、若建王の子の須賣伊呂大中日子王は淡海の姫を娶り、『舊事本紀』には「穂積氏女忍山宿祢女弟橘媛生稚武彦王」、「大水口宿祢命穂臣積栗女臣等祖」と物部氏の別系統の姫とわかり、別朝廷の近江の伊勢が物部氏の都とわかる。
同様に、吉備武彦の姫を妃とした倭武は吉備の倭武で葛城王朝の時代の説話で、倭武の子が伊予や讃岐王になったことを意味し、『古事記』のみに記述される「足鏡別王者(鎌倉之別小津石代之別漁田之別祖也)」と関東の倭武の子が駿河湾にある鎌倉の王を意味し、次息長田別王の娘を妃にした倭武は、継体天皇につながり、息長氏は『古事記』に「生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王(三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖)息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王(多牟二字以音此者多遅摩國造之祖也)」吉備・播磨・阿蘇の祖とまさに倭武が活躍した国々だ。
そして、佐伯部の五国の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波もすべて葛城氏にかかわりがあり、倭武はいくつもの、しかも、時間を超えた王や皇子の記述を一まとめにして同じ王の事績にしていて、息長田別王の娘を妃にした倭武に多くの王・皇子を挿入していることがわかる。

2019年9月27日金曜日

最終兵器の目 景行天皇11

 『日本書紀』慶長版は
日本武尊更還於尾張即娶尾張氏之女宮簀媛而淹留踰月於是聞近江膽吹山有荒神即解剱置於宮簀媛家而徒行之至膽吹山山神化大蛇當道爰日本武尊不知主神化虵之謂是大蛇必荒神之使也既得殺主神其使者豈足求乎因跨虵猶行時山神之興雲零水峯霧谷曀無復可行之路乃
捷遑不知其所跋渉然凌霧強行方僅得出猶失意如醉因居山下之泉側乃飲其水而醒之故号其泉曰居醒泉也日本武尊於是始有痛身然稍起之還於尾張爰不入宮簀媛之家便移伊勢而到尾津昔日本武尊向東之歲停尾津濱而進食是時解一剱置於松下遂忘而去今至於此剱猶存故歌曰烏波利珥多陀珥霧伽幣流比苫菟麻菟阿波例比等菟麻菟比苫珥阿利勢磨岐農岐勢摩之塢多知波開摩之塢逮于能褒野而痛甚之則以所俘蝦夷等獻於神宮因遣吉備武彥奏之於天皇曰臣受命天朝遠征東夷則被神恩頼皇威而叛者伏罪荒神自調是以卷甲戢戈愷悌還之冀曷日曷
時復命天朝然天命忽至隙駟難停是以獨臥曠野無誰語之豈惜身亡唯愁不面既而崩于能褒野時年三十天皇聞之寢不安席食不甘味晝夜喉咽泣悲摽擗因以大歎之曰我子少碓王昔熊襲叛之日未及倊角久煩征伐既而恒在左右補朕不及然東夷騷動勿使討者忍愛以入賊境一日之無不顧是以朝夕進退佇待還日何禍兮何罪兮不意之間倐亡我子自今以後與誰人之經綸鴻業耶即詔群卿命百寮仍葬於伊勢國能褒野陵時日本武尊化白鳥從陵出之指倭國而飛之群臣等因以開其棺櫬而視之明衣空留而屍骨無之於是遺使者追尋白鳥則停於倭琴彈原仍於其處造陵
焉白鳥更飛至河內留舊市邑亦其處作陵故時人号是三陵曰白鳥陵然遂髙翔上天徒葬衣冠因欲錄功名即定武部也是歲天皇踐祚四十三年焉
【日本武尊が、尾張に帰り、それで尾張氏の娘の宮簀媛を娶って、月をこえてとどまった。そこで、近江の五十葺山に人々を荒らす神がいると聞き、剱を解いて宮簀媛の家に置いて、手に何も持たないで出かけた。膽吹山についたら、山の神は、大蛇に化けて道にいた。そこで日本武尊は、主神が蛇に化けた事を知らないで「この大蛇は、きっと人々を荒らす神の使者だろう。主神を殺すには、使者ではものたりない」と言った。それで、蛇を跨いでさらに行くと山の神は、雲を興して氷雨を降らし峯に霧、谷を覆い隠して、行くべき路が解らず、慌てて近道を歩き回って遭難した。しかしそれでも霧を無視して強行した。そして何とか出ることが出来た。それでもやはり、訳が分からず酔ったようだった。それで山の下の泉の畔にいて、その水を飲んだら酔いが覚めたように意識が戻った。それで、その泉を、居醒泉となづけたという。日本武尊は、ここで、体を痛めた。それでなんとか起き上がって、尾張に帰った。そこで宮簀媛の家に入らず、伊勢に移って、尾津に着いた。さきに日本武尊が、東に向った歳に、尾津の濱に停泊して食事をした。この時に、ひとつの剱を解いて、松の下に置いた。それで忘れて去った。ここに至って、この剱がまだあった。それで、歌って()太刀を帯びて能褒野について、痛みが甚だしくなった。それで俘虜の蝦夷達を、神宮に献上した。それで吉備武彦を派遣して、天皇に「私は、命令を天皇から受けて、遠く東の夷を征った。それで神の恩恵によって、天皇の威光に頼って、反逆者を、罪に伏させて、人々を荒らしまわる者は、自然に、和らいだ。これで、甲を巻いて、戈を収めて、戦乱を和らげ従わせて帰った。いつか天皇に復命をしたいと思っていました。しかしにわかに天命で、隙間から馬が走る僅かな時も(隙駟:唐の資料に漢武帝が使ったとあり荘子は隙駒を使用)停ることが出来ない。それで、一人孤独に広野に臥せっています。誰にも語ることが出来ない。どうして身が亡ぶことを惜しみましょうか。ただ残念なことに、面前で報告できないことです」と奏上させた。そのときすでに能褒野で崩じていた。その時、年齢は年三十歳だった。天皇は訃報を聞いて、眠れず、食事についても味が解らず昼夜むせび泣いた。胸を叩いて大変嘆いて「我が子の小碓王は、昔、熊襲が反乱した時に、まだあげまきもまゝならぬうちに、長く征伐に悩み、既に、いつも付き人となって私のおよばないところを補った。それなのに東の夷が騷動を起こしたが、討つ者が居なかった。けなげに賊の境に入り込んだ。一時も思いめぐらさないことが無かった。それで、朝に夕に進むに退くにその都度、帰る日を佇んで待った。何の禍いも、何の罪も、知らないうちに、我が子が突然の死亡した。今から以後、誰と一緒に大業を治めればよいのか」と言った。それで群卿に詔勅して役人に命令して、伊勢国の能褒野の陵に葬った。その時、日本武尊が、白鳥となって、陵から出て、倭国を目指して、飛んだ。群臣等が、それで、その棺を開いて視たら、浄衣だけ空しく留っていて、屍が無かった。それで、使者を派遣して白鳥を追ひ求めた。すると倭の琴彈の原に停っていた。それでそこに陵を造った。白鳥が、また飛んで河内について、古市の邑に留った。またそこに陵を作った。それで、その当時の人が、この三つの陵を、白鳥の陵となづけたという。そしてついに高く翔んで天に上った。何もなしにに衣冠を葬った。それで功績と名をとどめようと、武部を定めた。この歳、天皇が天子の位を受け継いで四十三年となっていた。】とある。
前の項で書いたように尾張から伊勢は大回りで、大和に帰るのに伊吹山→醒井→能褒野は経路上異常で、伊吹山へ行く前に伊勢に行くべきで、この伊勢は前に述べた伊勢遺跡の伊勢が候補である。
敵国の伊吹山周辺に対して尾張氏は犬山・各務原・岐阜更に木曽三川下流の津島大社と対岸の熱田神宮で伊勢市はかなり南方、そして、伊勢遺跡の王朝は員弁・伊賀そして伊勢遺跡がある野洲市その北方に醒ケ井があってその北が伊吹山で敵領だ。
倭武の墓が伊勢・大和・河内にあるということは、少なくともこの三人の倭武がいたことを示し、その検証は次回の倭武の妃や子供の詳細を見ることで明らかとなるだろう。
ここでは、倭武の熊襲と蝦夷征伐が異なる人物の説話の証明として、『古事記』の「出雲國欲殺其出雲建而到即結友故竊以赤檮作詐刀爲御佩共沐肥河尓倭建命自河先上取佩出雲建之解置横刀而詔爲易刀故後出雲建自河上而佩倭建命之詐刀」の説話があり、この説話は『日本書紀』の出雲振根説話の「兄竊作木刀形似真刀當時自佩之弟佩真刀共到淵頭兄謂弟曰淵水清冷願欲共游沐弟從兄言各解佩刀置淵邊沐於水中乃兄先上陸取弟真刀自佩後弟驚而取兄木刀共相擊矣弟不得拔木刀兄擊弟飯入根而殺」が全く同じ説話で、『日本書紀』はこの説話を倭武に使用せず崇神天皇の事績に入れ込んだことが解る。
すなわち、正史では出雲の倭武は筑紫と同盟した反逆者で、「出雲臣之遠祖」出雲振根と子孫が出雲の支配者になるということは、朝廷の反逆者が後の朝廷では反逆者でないことを意味し、葛城朝廷の協力者ということになるから、『古事記』では英雄なのである。
そして、逆に関東の倭武は『古事記』の朝廷にとっては不都合な倭武だから記述していないが、『日本書紀』は出雲の倭武も関東の倭武も出雲振根説話を記述したように関東の倭武も雄略天皇の時期には畿内政権の臣下となったため説話に残したのである。
このように、西暦100年前後に熊襲の地で活躍した皇子は倭武、紀元前に出雲で活躍した皇子も倭武、河内の皇子も、大和の皇子も、近江も、美濃も、関東でも皇子や王を倭武とを西暦450頃に同じ人物と見做して記述してもだれも否定できなかった、すなわち、この地域が一つの王朝の宗主国になったことを意味する。

2019年9月25日水曜日

最終兵器の目 景行天皇10

 『日本書紀』慶長版は
夫冬十月壬子朔癸丑日本武尊發路之戊午抂道拜伊勢神宮仍辭于倭姫命曰今被天皇之命而東征將誅諸叛者故辭之於是倭姫命取草薙剱授日本武尊曰愼之莫怠也是歲日本武尊初至駿河其處賊陽從之欺曰是野也糜鹿甚多氣如朝霧足如茂林臨而應狩日本武尊信其言入野中而覓獸賊有殺王之情放火燒其野王知被欺則以燧出火之向燒而得免王曰殆被欺則悉焚其賊衆而滅之故号其處曰燒津亦進相摸欲往上總望海髙言曰是小海耳可立跳渡乃至于海中暴風忽起王舩漂蕩而不可渡時有從王之妾曰弟橘媛穗積氏忍山宿祢之女也啓王曰今風起浪泌王舩欲沒是必海神心也願以妾之身贖王之命而入海言訖乃披瀾入之暴風即止舩得著岸故時人号其海曰馳水也爰日本武尊則從上總轉入陸奧國時大鏡懸於王舩從海路𢌞於葦浦横渡玉浦至蝦夷境蝦夷賊首嶋津神國津神等屯於竹水門而欲距然遙視王舩豫怖其威勢而心裏知之不可勝悉捨弓矢望拜之曰仰視君容秀於人倫若神之乎欲知姓名王對之曰吾是現人神之子也於是蝦夷等悉慄則褰裳披浪自扶王舩而着岸仍面縛服罪故免其罪因以俘其首帥而令從身也蝦夷既平自日髙見國還之西南歷常陸至甲斐國居于酒折宮時舉燭而進食是夜以歌之問侍者曰珥比麼利菟玖波塢湏擬氐異玖用伽祢菟流諸侍者不能荅言時有秉燭者續王歌之末而歌曰伽餓奈倍氐用珥波虛虛能用比珥波苫塢伽塢即美秉燭人之聰而敦賞則居是宮以靫部賜大伴連之遠祖武日也於是日本武尊曰蝦夷凶首咸伏其辜唯信濃國越國頗未從化則自甲斐北轉歷武藏上野西逮于碓日坂時日本武尊毎有顧弟橘媛之情故登碓日嶺而東南望之三歎曰吾嬬者耶故因号山東諸國曰吾嬬國也於是分道遣吉備武彥於越國令監察其地形嶮易及人民順不則日本武尊進入信濃是國也山髙谷幽翠嶺萬重人倚杖而難升巖嶮磴紆長峯數千馬頓轡而不進然日本武尊披烟凌霧遙?()大山既逮于峯而飢之食於山中山神令苦王以化白鹿立於王前王異之以一箇蒜彈白鹿則中眼而殺之爰王忽失道不知所出時白狗自來有導王之狀隨狗而行之得出美濃吉備武彥自越出而遇之先是度信濃坂者多得神氣以瘼臥但從殺白鹿之後踰是山者嚼蒜塗人及牛馬自不中神氣也
【戊午に、道を外れて伊勢神宮を礼拝した。それで倭姫命にいとまごいして「今、天皇が命令を受けて、征東で諸々の反逆者を誅殺しようとしている。そのため、おいとまします」と言った。そこで、倭姫命が、草薙劒を取りだして、日本武尊に授けて「慎重に、油断するな」と言った。この歳、日本武尊は、初めて駿河に到着した。そこの賊は、うわべは服従したようにして「この野に、大鹿がいっぱいいる。息をすると朝霧のように曇り、足元を見ると茂った林のように足が見える。そこに行って狩をなさい」と言った。日本武尊は、その言葉を信んじて、野の中に入って獣を探し求めた。賊は、王を殺そうとその野焼のために火を放った。王は、騙されたと知って、すぐに火打石で火を点けて、向かい火でまぬかれれた。王は「騙されて危なかった」と言った。それでことごとくその賊軍を焚いて滅ぼした。それで、そこを焼津となづけたという。また相模に進出して、上總に行こうとした。海を望んで声高に「ここは小さな海だけだ。さっと渡ろう」と言った。それで海にはいり、途中暴風が急に起こって、王の船が漂流して渡ることが出来なかった。その時に王に従っている側室がいた。弟橘媛という。穗積氏忍山宿禰の娘だ。王に「今、風が立ち浪が船の中にしみ込んでいて、王の船が沈もうとしている。これはきっと海神のしわざだ。できましたら卑しい我が身を、王の命にかえて海に入ります」と言った。言い終わると直ぐ、浪の中に身を投げた。暴風はそのためやんだ。船は、岸に着くことが出来た。それで、当時の人はその海を馳水となづけたという。そして日本武尊は、上総から移って、陸奧国に入った。その時に大きな鏡を王の船に懸けて、海路で葦浦を廻った。横に玉浦を見ながら渡って、蝦夷の境界に着いた。蝦夷の賊の将軍の嶋津王・国津王等が、竹水門に駐屯して防御しようとした。しかし遠くに王の船が見えて、戦う前からその勢力を恐れて、内心で勝てないことを知って、のこらず弓矢を捨てて、敬意を払って土下座して「見上げて君の姿を視ると、人としての道徳が(人倫:孟子滕文公「皆所以明人倫也人倫明於上」)抜きんでている。まるで神のようだ。名を教えてください」と言った。王は、「私は、(神の言葉を人民に指し示す)大王の子だ。」と答えた。そこで、蝦夷等は、のこらず恐れおののいて、裳のすそを持ち上げ、浪を押し分けて、みずから王の船を協力して岸に着けた。それで両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらして罪人として従った。それで、その罪を問わなかった。それで、その首領を捕虜として、身柄を引きまわした。蝦夷は既に平定して、日高見国から還って、西南の、常陸を歴て、甲斐國について、酒折宮に居た。その時に明かりを上から灯して食事をした。その夜に、歌で従者に聞いた()ら 諸々の従者は答えることが出来なかった。その時に明かりを手に持つ者がいた。王の歌の後に続けて、歌い()明かりを手に持った人物の聡明さを褒めて、多くの褒美を与えた。それでこの宮に居て、軍隊を大伴連の遠祖の武日に与えた。そこで、日本武尊は「蝦夷のよこしまな首領は、みなそのとがに伏した。ただ信濃国・越国だけ偏ってまだ家来になっていない」と言った。それで甲斐から北の、武藏・上野を順を追って廻り、西方の碓日坂におよんだ。その時に日本武尊は、いつも弟橘媛を思いめぐらし、それで、碓日の嶺に登って、東南を望んで三度溜め息をついて「我が妻よ」と言った。それで山の東の諸国を、吾嬬国となづけたという。そこで、道を別れて、吉備武彦を越国に派遣して、その地形の様子や人民の情況を見届けた。それで日本武尊は、信濃に進入した。この国は、山が高く谷底が見えない。みどりの山々は沢山重なり人は杖に頼らないと登るのが難しい。崖は急峻で数千もの岩坂を曲がり廻って、長い道のりの頂きで、馬のくつわを引いても立ちどころに進まない。それでも日本武尊は、煙った場所にわけ入って、霧をしのいで、遥かな大山を急いで進んだ。峯におよんだとき、ひもじくなった。山の途中で食事をした。山の神が、王を苦めて、白鹿に化けて王の前に立った。王は怪しんで、一箇の蒜で白鹿を弾いた。それで眼に当てて殺した。そこで王は、道に迷って山を下りれなかった。その時に白い犬がやって来て、王を導いているようだった。犬に付いて行くと、美濃に出ることが出来た。吉備武彦は、越から脱出して日本武と会った。これから以降、信濃坂を渡るものは、多くの神の毒気で弱って臥せった。そして白鹿を殺した以降、この山を越える者は、蒜を噛んで人や牛馬に塗った。そうすると神の毒気に当たらない。】とあり、標準陰暦と合致する。
この説話は「以大彦命遣北陸武渟川別遣東海」と毛野君の説話を使った記述と思われ、『古事記』は「焼退還出皆切滅其國造等」も同じく焼津で戦闘があり、駿河から夷の国で、続いて「佐賀牟能袁怒迩」と相模で弟橘媛が死に、「荒夫琉蝦夷等亦平和」と蝦夷を平定して、「足柄之坂本於食御粮處其坂神化白鹿」と足柄で白鹿と戦っている。
すなわち、駿河・焼津・相模湾は敵国なのに上総では戦闘が無く陸奥でやはり戦闘があり、すなわち、上総の王の征服譚の話で、常陸・甲斐は上総の王の領地で信濃と越は敵国である。
その後、「甲斐坐酒折宮」、「誉其老人即給東國造也自其國越科野國乃言向科野之坂神先日所期美夜受比賣之」と甲斐で東国造を指名し、甲斐は『舊事本紀』「大八椅命甲斐國造等祖」と尾張氏の領地で尾張朝廷が毛野君と同盟したことを示している。
すなわち、『古事記』が実際の倭武の事績で、『日本書紀』の王は毛野君の事と考えるのが妥当で、葛城氏が天皇になったときは信濃や越も既に朝廷の領域になっているが、『舊事本紀』は「日本景武尊平東夷還参未参薨於尾張國矣」と無かったように記述し、『日本書紀』の説話の時点では越も信濃も夷の人々で、それは当然で、夷は「武内宿禰自東國還之奏言東夷之中有日高見國」と東国で東北ではない。
関東は、『尚書』堯典に「命羲和欽若昊天曆象日月星辰敬授人時分命羲仲宅嵎夷曰暘谷・・・帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歲」と辺境の暘谷に住む羲和と羲仲に暦を作らせたが、『山海經』大荒南經に「東南海之外甘水之間有羲和之國有女子名曰羲和」および「帝堯帝嚳帝舜葬于岳山」、海外南經にも「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と、すなわち、日本列島の関東に住む羲和の国は大人国や君子国・三身国と並ぶ古い歴史のある国で、『常陸風土記』「或曰倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県」とただの皇子とは違う天皇が東夷の国を巡狩している。

2019年9月23日月曜日

最終兵器の目 景行天皇9

 『日本書紀』慶長版は
四十年夏六月東夷多叛邊境騷動秋七月癸未朔戊戌天皇詔群卿曰今東國不安暴神多起亦蝦夷悉叛屢略人民遣誰人以平其亂群臣皆不知誰遣也日本武尊奏言臣則先勞西征是役必大碓皇子之事矣時大碓皇子愕然之逃隱草中則遣使者召來爰天皇責曰汝不欲矣豈強遣耶何未對賊以豫懼甚焉因此遂封美濃仍如封地是身毛津君守君二族之始祖於是日本武尊雄誥之曰熊襲既平未經幾年今更東夷叛之何日逮于大平矣臣雖勞之頓平其亂則天皇持斧鉞以授日本武尊曰朕聞其東夷也識性暴強凌犯爲宗村之無長邑之勿首各貪封堺並相盜略亦山有邪神郊有有姦鬼遮衢塞俓多令苦人其東夷之中蝦夷是尤強焉男女交居父子無別冬則宿穴夏則住樔衣毛飲血昆弟相疑登山如飛禽行草如走獸承恩則忘見怨必報是以箭藏頭髻刀佩衣中或聚黨類而犯邊界或伺農桑以略人民擊則隱草追則入山故往古以來未染王化今朕察汝爲人也身體長大容姿端正力能扛鼎猛如雷電所向無前所攻必勝即知之形則我子實則神人寔是天愍朕不毀旦國不平令經綸天業不絶宗廟乎亦是天下則汝天下也是位則汝位也願深謀遠慮探姦伺變永之以威懷之以德不煩兵甲自令臣?()即巧言調暴神振武以攘姦鬼於是日本武尊乃受斧鉞以再拜奏之曰嘗西征之年頼皇靈之威提三尺剱擊熊襲國未經浹辰賊首伏罪今亦頼神祗之靈借天皇之威往臨其境示以德教猶有不服即舉兵擊仍重再拜之天皇則命吉備武彥與大伴武日連令從日本武尊亦以七掬脛爲膳夫冬十月壬子朔癸丑日本武尊發路之
【四十年の夏六月に、東の夷が多数反乱を起こし、辺境で騒動が起きた。秋七月の朔が癸未の戊戌の日に、天皇は、役人に「今、東国は落ち着かず、暴徒がたくさんいる。また夷がことごとく反乱を起こしてしきりに人をさらう。誰を派遣すればその反乱を平定できるか」と詔勅した。役人は皆、誰を派遣すればよいか見当がつかなかった。日本武尊が「私は以前に西征で働いた。今度の戦争は絶対に大碓皇子の仕事だ」と奏上した。その時大碓皇子は、とても驚いて、草の中に逃げ隱れた。それで使者を派遣して招集した。そこで天皇は「お前が出来ないことをどうして強いると言うのだ。どうして敵と対決しもしないで、最初からそんなに恐れるのだ」と責めた。それで、美濃に閉じ込められ、それで、流刑のようだった。大碓皇子は身毛津君・守君、全てで二族の始祖だ。そこで、日本武尊は、「熊襲は既に平定し、まだそれほど月日が経っていないのに、今また東方の夷が反乱した。何時になったら大平となるのだ。私は、労を惜しまないので、急いでその乱を平定しよう」と役人に大声で告げた。それで天皇が、斧とまさかりを、日本武尊に授けて「私が聞くところによると、その東方の夷は、考え方が荒くて強引だ。力ずくで他国を侵犯することを考えている。村に宗主がなくて、邑に首領いない。それぞれが村邑の境界を飽くことなくほしがって、互いに略奪しあう。また山に邪な者がいる。街はずれに悪賢い禍をもたらす者がいる。要衝で遮り道を通れなくする。多くの人を苦しめる。その東方の夷の中で、蝦夷は尤も強敵だ。男女が一緒に住んで父子も別れて住まない。冬は穴で寝て、夏は木の上に住む。毛皮を衣て血を飮んで、兄弟は互いに疑いあっている。山に登るときは飛ぶ鳥のようで、草むらを獣のように走る。恩を受けても忘れ。恨みを持ったら必ず報復する。それで、くさびをもとどりに隠し、刀を衣服の中に隠す。あるいは徒党を組み、境界を侵犯する。あるいは桑が茂って貯えが出来た時を見計らって人民から略奪する。矢でうとうとすると叢に隱れる。追っていけば山に入る。それで、昔からまだ王化されていない。今、私が、お前をみると、体つきは身長が高くてがっしりしていて、顔つきは見事だ。力は大亀を持ち上げるほど強い。あらあらしく強くて稲妻のようだ。向う所敵なしで、攻めれば必ず勝つ。姿かたちは良く知っている我が子だが、実際は神ではないかと感じる。ほんとうに、私を害い国が乱れることを憐れんで、国家の秩序をととのえ治め、宗廟を絶やさないようにする天の思し召しだ。またこの天下はおまえの天下だ。天皇の位はおまえの位だ。できたら先々まで考え深く計画を立て、不正を探り、異常を伺って胸中の威徳で兵力を煩わさないで自然に従う臣としろ。すなわち、言葉巧みに荒々しい王を教育して、武器を振るって、悪賢い鬼のような者を追い払え」と言った。そこで、日本武尊は、斧と鉞を受け取って、再度ぬかずいて「かつて、西方を征った年に、朝廷の威光に頼よって、1mの剱を堤て、熊襲国を撃った。まだ、星が一巡りしても、賊長は罪に服していない。いままた神祇の霊に頼って、天皇の威光を借りて、敵地に往ってその境界を臨んで、徳のおしえでも、服従しないのなら、挙兵して討とう」と奏上した。それで再度重ねてぬかずいた。天皇は、すなはち吉備武彦と大伴武日連とに命じて、日本武尊に従わせた。また七掬脛を料理人とした。冬十月の朔が壬子の癸丑の日に、日本武尊は、出発した。】とあり、標準陰暦と合致する。
この記述は興味深い内容で、この当時の畿内王朝の人々は親子・男女別々に暮らしている、すなわち、朝廷の宮が有って傍に姫の宮や皇子の宮が別々に点在し、蝦夷も賊と記述しているが、それはもちろん名目上で対立した国の一つで、集落の出入り口には守衛がいて、要衝にも守衛がいて、王は一段高い岡に居を構えているようだ。
蝦夷国は毛皮を着て血を飲むのだから肉も食しているようで、『山海經』の海外東經の「君子國在其北衣冠帶劍食獸」と食習慣が合致し、現代でもスッポンの血を飲む習慣があり、「大蛇」は神話時代からの敵対勢力である。
また、皇位も大碓を幽閉したのだから、小碓は皇太子になって、天皇が天下は皇太子のもの、皇位は皇太子のものと言ってあたかも皇太子が天皇だと呼んで、ここでの日本武尊は熊襲での華奢で助走が出来る日本武尊とは全く別人で、熊襲の日本武尊説話は市乾鹿文の記述を証明して、何人もの人物が日本武尊の説話として記述されている。
これは私が主張する、皇太子は実質国を経営する最高責任者で天皇は祭祀的代表者に過ぎないと言ってきたそのものの記述で、同家の皇位後継者が皇太子で外戚の次代もしくは前代の皇位継承者が大臣で地位としては同等である。
なお、封地を流刑地としたのは、古史に封建制度の封地の用語が見つからなかったからで、領地なら、国造になったと記述するはずで、婿入りしたのなら封じたとわざわざ記述する必要もなく、また如の文字も封地の用語に合わない。

2019年9月20日金曜日

最終兵器の目 景行天皇8

 
 『日本書紀』慶長版は
十二月到於熊襲國因以伺其消息及地形之嶮易時熊襲有魁帥者名取石鹿文亦曰川上梟帥悉集親族而欲宴於是日本武尊解髮作童女姿以密伺川上梟帥之宴時仍剱佩裀裏入於川上梟帥之宴室居女人之中川上梟帥感其童女容姿則携手同席舉坏令飲而戲弄于時也更深人闌川上梟帥且被酒於是日本武尊抽裀中之剱刺川上梟帥之胸未及之死川上梟帥叩頭曰且待之吾
有所言時日本武尊留剱待之川上梟帥啓之曰汝尊誰人也對曰吾是大足彥天皇之子也名曰本童男也川上梟帥亦啓之曰吾是國中之強力者也是以當時諸人不勝我之威力而無不從者吾多遇武力矣未有若皇子者是以賤賊陋口以奉尊号若聽乎曰聽之即啓曰自今以後号皇子應稱日本武皇子言訖乃通胸而殺之故至于今稱曰日本武尊是其縁也然後遣弟彥等悉斬其黨類無餘唯一既而從海路還倭到吉備以渡穴海其處有惡神則殺之亦比至難波殺柏濟之惡神二十八年春二月乙丑朔日本武尊奏平熊襲之狀曰臣頼天皇之神靈以兵一舉頓誅熊襲之魁帥者悉平其國是以西洲既謐百姓無事唯吉備穴濟神及難波柏濟神皆有害心放毒氣令苦路人並爲禍害之藪故悉殺其惡神並開水陸之徑天皇於是美日本武之功而異愛
【十二月に、熊襲国に到着した。それで、熊襲の情勢や地形の善し悪しを調査した。その時に熊襲に一目置かれる棟梁がいた。名を取石鹿文という。とおり名は川上梟帥という。親族をのこらず集めて饗宴をしようとしていた。そこに、日本武尊は、髪を下ろして童女の姿に化けて、密に川上梟帥の饗宴の時の隙を狙っていた。それで剱を懐の中に隠して、川上梟帥が饗宴の部屋に入って、女達の中に隠れた。川上梟帥は、その童女の顔立ちに心を動かして、手を引いて隣の席に座らせて、坏を挙げて飲みかわし、戯れじゃれあった。宴会が盛大になり、半ばがすぎて、人がまばらとなった。川上梟帥も、酔った。そこで、日本武尊は懐の剱を抜き取り、川上棗帥の胸を刺した。死に際に、川上梟帥が頭を叩いて「一寸待て。私は言いたいことが有る」と言った。その時、日本武尊は、剱を抜かないで待った。川上梟帥は「お前は誰だ」と答を求めた。「私は、大足彦天皇の子だ。名は日本童男という」と答えた。川上梟帥は、「私は、国中の力自慢だ。それでこの世の人たちは、私に勝てない物に従がわない。私は多くの力自慢に会ったが、今までに皇子のような者はいなかった。これ以後、浅はかな賊の卑しい者の言葉ではあるが尊号を献上しよう。聞き入れてほしい」と答を求めた。「聞き入れよう」と言った。「今から、皇子を名付けて日本武皇子と唱えては」と求めた。言い終わったところで、胸を貫いて殺した。それで、今に至るまで、日本武尊と讃えているのはこのためだ。そうした後に、弟彦達を派遣して、のこらず中間を斬らして、生きている者がいなかった。それで、海路で倭に帰ろうと、吉備に着いて穴海(児島半島)を渡った。そこに敵王がいたので殺した。また難波に着くころに、柏の渡しの敵王を殺した。二十八年の春二月の朔が乙丑の日に、日本武尊は、熊襲を平定した状態を「私は、天皇の先祖からの威光を頼って、軍によって一挙・立ちどころに熊襲の首領をのこらず誅殺して、その国を平定した。これで、西の洲は既に静かになった。百姓は何事もなく、ただ吉備の穴の渡りの王と難波の柏渡りの王のみ、国を挙げて朝廷の邪魔をするつもりが有って、悪意で殺気立ち、通行の邪魔をして、被害が多数あった。それで、のこらずその邪魔な王を殺して、水陸の通行を共に出来るようにした」と奏上した。天皇は、そこで、日本武の功績を誉めて取り立てて寵愛した。】とあり、二十八年春二月乙丑朔は1月30日である。
この説話の矛盾は、16歳の皇子と姫を戯れて間違うはずが無く、劔を胸に隠した皇子に気を許すことなど有り得ず、市乾鹿文なら女性で娘か姪で戯れあっても何の不思議もなく、市乾鹿文に殺害され、市乾鹿文が死に際に王位を譲られたと言って新たな王となるのはよく理解できる。
そして、その混乱の中、姉妹で後継争いが起こって、市鹿文を援助して市乾鹿文を殺害して市鹿文が火国を得て、豊国は筑紫・豊後・日向を得たことを意味する。
そして、帰りの吉備と難波の戦いは、畿内政権の説話なら意味不明で、なぜ、出発時に難波→吉備ではないかが疑問であるが、京都郡の配下の王が日向国を出発して、吉備そして難波を攻撃したのならよく意味が通り、「然後遣吉備臣祖鴨別令撃熊襲國」「皇后之船直指難波」・「武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」と鴨別が吉備臣になり、武内宿禰と神功皇后が忍熊王と戦い勝利した事件が思い浮かぶ。
『古事記』「息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王(三柱此王者吉備品遅君針間阿宗君之祖)」と神功皇后の父が吉備や播磨の王の祖で、「娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毗能大郎女生御子櫛角別王次大碓命次小碓命亦名倭男具那命」とやはり吉備臣の祖の娘の子が倭武で吉備臣になっていない。
しかし、同じ景行記末に「娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王」と吉備臣が祖でなくなって、そして、神武東征では「國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐」と吉備まで神武天皇の領域と記述していて、神武東征が神功皇后以降にあり、「日向諸縣君牛仕于朝庭」と畿内に進出してこの説話につながり、倭武は吉備臣の祖の孫で倭武の活躍で義父や従弟が吉備臣になり、神功皇后も倭武の親世代以上前の人物で、兄弟以降の親族が吉備臣になるのだ。

2019年9月18日水曜日

最終兵器の目 景行天皇7

 『日本書紀』慶長版は
二十年春二月辛巳朔甲申遣五百野皇女令祭天照大神二十五年秋七月庚辰朔壬午遣武內宿祢令察北陸及東方諸國之地形旦百姓之消息也二十七年春二月辛丑朔壬子武內宿祢自東
國還之奏言東夷之中有日髙見國其國人男女並椎結文身爲人勇悍是捴曰蝦夷亦土地沃壤而曠之擊可取也秋八月熊襲亦反之侵邊境不止冬十月丁酉朔己酉遣日本武尊令擊熊襲時年十六於是日本武尊曰吾得善射者欲與行其何處有善射者焉或者啓之曰美濃國有善射者曰弟彥公於是日本武尊遣葛城人宮戸彥喚弟彥公故弟彥公便率石占横立及尾張田子之稻置乳近之稻置而來則從日本武尊而行之
【二十年の春二月の朔が辛巳の甲申の日に、五百野皇女を派遣して、天照大神を祭らせた。二十五年の秋七月の朔が庚辰の壬午の日に、武内宿禰を派遣して、北陸および東方の諸国の地形や、百姓の事情を観察させた。二十七年の春二月の朔が辛丑の壬子の日に、武内宿禰は、東国から帰って「東の未開の国の中に、日高見国が有る。その国の人は、男女共に槌を腰に結び入れ墨を施して、そのさまはいさましくて強い。これらを蝦夷という。また土壌は豊かで広いので、打ち破って土地を奪うべきだ」と奏上した。秋八月に、熊襲がまた反逆し、辺境への侵略が止まらない。冬十月の朔が丁酉の己酉の日に、日本武尊を派遣して、熊襲を撃たした。この時、年齢は十六歳だった。日本武尊が「私は弓の名手を与えてもらって、一緒に行軍したい。それでどこかに弓の名手はいないのか」と言った。或人が「美濃国に弓の名手がいる。弟彦公という」と教えた。それで、日本武尊は、葛城の宮戸彦を派遣して、弟彦公を召喚した。そのため、弟彦公は、石占横立を隣にして尾張の田子の稻置と乳近の稻置の軍団を率いてやってきた。そして日本武尊に従っていった。】とあり、二十年春二月辛巳朔は1月30日、二十七年二月辛丑朔も1月30日で、二十七年十月丁酉朔は1月ずれて合っていない。
二十七年の2月と10月のセットで干支が合うのは4年・128年・221年・345年・402年で『舊事本紀』は「九世孫弟彦命」と西暦4年か128年ならこの人物だが崇神や垂仁と同じ世代で登場人物に違和感が有り、「十四世孫尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」なら345年に挿入すべき説話と考えられるが、弟彦兄弟が大臣で天皇ではなくなっていて、葛城王朝は履中天皇の400年からの可能性が高く、402年が最適で、この時代なら武内大臣もまだ指示されて蝦夷を偵察していることから、履中天皇の皇太子になる。
402年なら天皇の叔父の葛城襲津彥の部下の宮戸彦に尾張に引きこもった弟彦を呼び出し蝦夷征伐をさせ、345年なら天皇の皇子の弟彦が大和武尊の一人で日向諸縣君牛の子の葛城襲津彥の配下を引き連れて蝦夷征伐をしたことを意味し、登場人物を考えるとやはり、402年か345年だ。
そして、九世孫弟彦命なら『舊事本紀』「十世孫淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子次大原足屋(?)筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子次大八椅命甲斐國造等祖彦與呂命之子」と名目上か筑紫豊国国造等祖と『後漢書』「拘奴國」の王が大原足尼で『古事記』「沙本毗古王者(日下部連甲斐國造之祖)」と狭穗彦の子孫でもある大原足尼が占領した甲斐が蝦夷ということになる。
また、応神22年に「次以三野縣封弟彦是三野臣之始祖也」と応神天皇時代に弟彦が記述され、仁徳以降に蝦夷らしい国の国造の祖はおらず、甲斐以外で関東以北なら蝦夷を領有できないので、毛野君が蝦夷征伐を行ったことになり、『常陸風土記』「或曰倭武天皇巡狩東夷之国幸過新治之県」の「倭武」が思いうかぶ。
応神22年三野臣と尾張氏が三野臣の祖、尾張大海媛の子の八坂入彦も美濃、垂仁天皇が狭穗媛の子の譽津別と遊んだのも美濃の相津と尾張が全く出てこないが、『猿投神社所蔵尾張国養老元年之図』を参照すれば理解でき、熱田神宮は岬、多度大社は島、入鹿屯倉 は犬山市にあり 、『古事記』「尾張丹羽臣」とあるが旧犬山藩は丹羽郡である。

2019年9月16日月曜日

最終兵器の目 景行天皇6

 『日本書紀』慶長版は
十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國始到夷守是時於石瀬河邊人衆聚集於是天皇遙望之詔左右曰其集者何人也若賊乎乃遣兄夷守弟夷守二人令覩乃弟夷守還來而諮之曰諸縣君泉媛依獻大御食而其族會之夏四月壬戌朔甲子到熊縣其處有熊津彥者兄弟二人天皇先使徵兄熊則從使詣之因徵弟熊而不來故遣兵誅之壬申自海路泊於葦北小嶋而進食時召山部阿弭古之祖小左令進冷水適是時嶋中無水不知所爲則仰之祈于天神地祗忽寒泉從崖傍涌出乃酌以獻焉故号其嶋曰水嶋也其泉猶今在水嶋崖也五月壬辰朔從葦北發舩到火國於是日沒也夜冥不知著岸遙視火光天皇詔挾杪者曰直指火處因指火往之即得著岸天皇問其火光處曰何謂邑也國人對曰是八代縣豊村亦尋其火是誰人之火也然不得主茲知非人火故名其國曰火國六月辛酉朔癸亥自髙來縣渡玉杵名邑時殺其處之土蜘蛛津頰焉丙子到阿蘇國也其國郊原曠遠不見人居天皇曰是國有人乎時有二神曰阿蘇都彥阿蘇都媛忽化人以遊詣之曰吾二人在何無人耶故号其國曰阿蘇秋七月辛卯朔甲午到筑紫後國御木居於髙田行宮時有僵樹長九百七十丈焉百寮蹈其樹而往來時人歌曰阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志魔幣菟耆弥伊和哆羅秀暮弥開能佐烏麼志爰天皇問之曰是何樹也有一老夫曰是樹者歷木也嘗未僵之先當朝日暉則隱杵嶋山當夕日暉?()阿蘇山也天皇曰是樹者神木故是國冝号御木國丁酉到八女縣則越前山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊旦美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主?()大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中故八女國之名由此起也八月到的邑而進食是日膳夫等遺盞故時人号其忌盞處曰浮羽今謂的者訛也昔筑紫俗号盞日浮羽十九年秋九月甲申朔癸卯天皇至自日向
【十八年の春三月に、天皇は、京に向おうと、築紫国を巡狩した。はじめて夷守に到着した。この時に、石瀬河の畔に、民衆が群がっていた。そこで、天皇が遠くから眺めて、側近に「あの集りは何をしているのだ。若しかしたら賊か」と詔勅した。それで兄夷守と弟夷守の二人を派遣して調べさせた。それで弟夷守が、帰って来て相談して「諸縣君の泉媛が、大盤振る舞いをして、その配下が集まっていました」といった。夏四月の朔が壬戌の甲子の日に、熊縣に到着した。そこの熊津彦という者が、兄弟二人でいた。天皇は、まず兄熊を呼び出して、使者に従ってやってきた。それで弟熊を呼び出したが来なかったため派兵して誅殺した。壬申に、海路で葦北の小嶋に停泊して、食事を求めた時に、山部の阿弭古の祖の小左を呼び出して、冷い水を求めた。この時に、嶋の中に水が無かったのでどうすることもできなかった。それで天を仰いで結局、天神地祇に祈った。するとたちまちに寒泉の崖の傍から水が涌き出した。それを酌んで献上した。それで、その嶋を水嶋となづけたという。その泉は今だに水嶋の崖に在る。五月の壬辰の朔に、葦北から出港し、火國に着いた。そこで日が暮れた。夜で暗くて接岸できなかった。遠くに火で光るのが見えた。天皇は、舵取りに「真っすぐ火のありかに船を向けなさい」と詔勅した。それで火を目指して行った。それで岸に著くことができた。天皇は、その火の光る所を「何という名の邑か」と聞いた。国の人が「これは、八代縣の豊村だ」と答えた。またその火を「これは、誰が灯した火だ」と尋ねた。しかしその人物は解らなった。そこで、人によらない火と知って、その国を火国と名づけたという。六月の朔が辛酉の癸亥の日に、高来縣から、玉杵名の邑に渡った。その時にそこの土蜘蛛の津頬という者を殺した。丙子に、阿蘇の国に到着した。その国は、街はずれの広く遠い原野で、人がいない。天皇は「この国に人はいるのか」と言った。その時に二柱の神がいた。阿蘇都彦と阿蘇都媛という。それで人に化けて歩き回ってやって来て 「私たちが二人いる。どうして人がいないというか」と言った。それで、その国を阿蘇となづけた。秋七月の朔が辛卯の甲午の日に、筑紫後国の御木に到着して、高田の行宮にいた。その時に倒れた樹が有った。長さ九百七十丈だ。百寮が、その樹を踏んで行き来する。当時の人は、歌った()。そこで天皇は、「これはどういう名の樹だ」と聞いた。一人の老夫いて「この樹は歴木という。昔、まだ倒れる前に、朝日が当たって輝き、杵嶋の山を隱した。夕日に当たって輝き、阿蘇山を覆った」といった。天皇は「この樹は、神木だ。だから、この国を御木の国とよべ」と言った。丁酉の日に、八女縣に到着した。それで藤山を越えて、南の粟岬を望み見た。「その山の峯と峯が重なって、きれいなことこの上ない。だから神はその山にいるのか」と詔勅した。その時に水沼の縣主の猿大海が、「女神がいます。名を八女津姫といいます。いつも山の中に居ます」と奏上した。それで、八女国の名は、この理由で名付けられた。八月に、的邑に到着して食事をした。この日に、料理人達が盞を忘れた。それで、当時の人が、その盞を忘れた所を浮羽となづけた。今、的というのは訛りだ。昔、筑紫の民衆は、盞を浮羽といった。十九年の秋九月の朔が甲申の癸卯の日に、天皇は、日向から到着した。】とあり、十八年七月辛卯朔は7月2日が辛卯で6月は小の月であり、大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
この一連の説話は京都郡に帰るときに筑紫国を巡回して帰ろう、すなわち、この王は筑紫国京都郡が首都の王の説話で、京都に帰るのに、日向から夷守これは『三国志』「大官曰卑狗副曰卑奴毋離」と官名で夷守は役所で諸縣君がいる場所、日向国内で日向国造豊国別はまだ子供で諸縣君が統治していたのである。
その後海岸線にある熊縣、鹿児島県にも熊野神社が多数あり1万年以上前の縄文土器が出土する地域で、八代海の葦北そして八代縣ここは火国、市鹿文に与えた国で長崎県の高来縣そして熊本県玉杵名(玉名)、阿蘇国、御木(三池)、八女(水沼縣)、浮羽と筑後川南岸を廻って筑紫の京都郡に帰った。
筑後川南岸は火国で北岸は火国の領域ではなく、筑紫後国も火国の領域で、浮羽の東北方が京都郡の王者の国だとわかるが、先にも書いたように戦いは3世紀初頭であるのに、日干支が正しいということは、この巡回説話は周防出発の王者以前の『後漢書』「拘奴國」王の巡行が考えられ、筑後川北岸は周防を出発にした王に押しやられた『三国志』の「狗奴國」だ。
ここで、クヌギの大木が長さ九百七十丈とあり、クヌギはだいたい15から20mまで大きくなり、世界有数の大木は25から30m、縄文杉も30mだから千丈約30mで1丈約3㎝、300mの巨木は聞いたことが無く、セコイアでも100mだ。

2019年9月13日金曜日

最終兵器の目 景行天皇5

 『日本書紀』慶長版は
十一月到日向國起行宮以居之是謂髙屋宮十二月癸巳朔丁酉議討熊襲於是天皇詔群卿曰朕聞之襲國有厚鹿文迮鹿文者是兩人熊襲之渠帥者也衆類甚多是謂熊襲八十梟帥其鋒不可當焉少興師則不堪滅賊多動兵是百姓之害何不假鋒刃之威坐平其國時有一臣進曰熊襲梟帥有二女兄曰市乾鹿文弟曰市鹿文容既端正心旦雄武冝示重幣以撝納麾下因以伺其消息犯不意之處則會不血刃賊必自敗天皇詔可也於是示幣欺其二女而納幕下天皇則通市乾鹿文而陽寵時市乾鹿文奏于天皇曰無愁熊襲之不服妾有良謀即令從一二兵於己而返家以多設醇酒令飲己父乃醉而寐之市乾鹿文密斷父弦爰從兵一人進殺熊襲梟帥天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文仍以弟市鹿文賜於火國造十三年夏五月悉平襲國因以居於髙屋宮已六年也於是其國有佳人曰御刀媛則召爲妃生豊國別皇子是日向國造之始祖也十七年春三月戊戌朔己酉幸子湯縣遊于丹裳小野時東望之謂左右曰是國也直向於日出方故号其國曰日向也是日陟野中大石憶京都而歌之曰波辭枳豫辭和藝幣能伽多由區毛位多知區暮夜摩苫波區珥能摩倍邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苫之于屢破試異能知能摩曾祁務比苫破多多瀰許莽幣愚利能夜摩能志邏伽之餓延塢于受珥左勢許能固是謂思邦歌也
【十一月に、日向国に到着して、行宮を起てた。これを高屋宮という。十二月の朔が癸巳の丁酉の日に、熊襲を討うと話し合った。そこで、天皇は、群卿に「私は襲の国に厚鹿文と迮鹿文という者がいると聞いている。この二人は熊襲の頭だ。仲間がとてもたくさんいる。これを昔から熊襲の八国の十勇士という。その矛先に近づいてはいけない。小規模の兵では賊を滅ぼすことが出来ない。多数の兵を動員すると、これは百姓に損害が出る。どうにかして矛や刀の力を借りないで、自然にその国を平定できないものか」と詔勅した。その時に一人の臣下がいた。進み出て、「熊襲の将軍に、二人の娘がいる。姉を市乾鹿文といい妹を市鹿文という。容姿は成熟して立派だ。心根はしっかりしていて勇ましい。沢山の貢物示して将軍に納まってもらいたいと言って、それでその動静をうかがい、不意をついて侵犯すれば、決して血を流さないで、賊は必ず自然に敗れることでしょう」と言った。天皇は、「それはいい」と詔勅した。そこで、贈り物を示し見せてその二人の娘を欺して、配下に招き入れた。天皇は、それで市乾鹿文の家に通いうわべでは可愛がった。その時に市乾鹿文は、天皇に「熊襲が降伏しないことを愁うることは有りません。私に良い謀略が有ります。すなわち一人か二人の兵を私に貸してください」と奏上した。それで家に返って、多くの発酵した酒を準備して、自分の父に飲ませた。それで酔って寝た。市乾鹿文が、密に父のゆみづるを切った。そこに従者の兵が一人、進み出て熊襲梟帥を殺した。天皇は、その親不孝が甚しいことを醜く思い、市乾鹿文を誅殺した。それで妹の市鹿文は、火国造をもらった。十三年の夏五月に、のこらず襲国を平定した。それで高屋宮に居ること、すでに六年たった。そして、その国に美人がいた。御刀媛という。それで召し入れて妃とした。豊国別皇子を生んだ。この皇子が、日向国造の始祖だ。十七年の春三月の朔が戊戌の己酉の日に、子湯縣に行幸し、丹裳の小野を遊覧した。その時に東を眺めて、側近に「この国はじかに日が出る方を向いている」と言った。それで、この国を日向と名付けた。この日に、野中の大石に登って、京都を思い出して、歌()
これを「国を思う歌」という。】とあり、標準陰暦と合致する。
この、合致する日付がある事件が熊襲梟帥暗殺で、『日本書紀』は2回に分けて熊襲梟帥を暗殺するが、『古事記』「姨之御衣御裳既成童女之姿交妾人之中入坐其室内尓熊曽建兄弟二人見成咸其嬢子坐於己中而盛樂故臨其酎酣時自懐出劔取熊曽之衣衿劔自其胸刺通之時其弟建見畏逃出乃追至其室之椅本取其背皮剣自尻刺通」と兄弟の熊曽建がいて、倭建が殺害し、『古事記』は市乾鹿文を倭建に当てはめた。
二十七年の熊襲魁帥暗殺も「時熊襲有魁帥者名取石鹿文」と熊襲魁帥の役職名が鹿文で同じ王家の中の人物で、さらに、妹の市鹿文が火国造なのだから、熊襲は火国を支配していたのであり、『後漢書』の「自女王國東度海千餘里至拘奴國」から『三国志』の「其南有狗奴國」と狗奴国がこの時に邪馬台国の東から南の領地(筑後)に領域を減らし、宗像・豊(豊前・豊後・長門・周防西部)・日向が「なか国」の領域となった。
また、日向国は17年に出来、もちろん、それ以前でも日向という地域は存在し、『古事記』「娶日向之美波迦斯毗賣生御子豊國別王」と日向国ではなく日向とされ、『古事記』は神話以外「日向國諸縣君」が最初、『日本書紀』は神武紀以外ではこの記述が最初で豊国別の()父が日向襲津彥皇子を類推でき、豊国別が安芸にある豊国王の子で現在の豊国である大分県と宮崎県の王で葛城氏が天皇になった時日向国造りになった本家なのだろう。
そして、『日本書紀』の神武紀はこれ以降に起こった説話である。

2019年9月11日水曜日

最終兵器の目 景行天皇4

 『日本書紀』慶長版は
冬十月到碩田國其地形廣大亦麗因名碩田也到速見邑有女人曰速津媛爲一處之長其聞天皇車駕而自奉迎之諮言茲山有大石窟曰?()石窟有二土蜘蛛住其石窟一曰青二曰白又於直
入縣祢疑野有三土蜘蛛一曰打猨二曰八田三曰國摩侶是五人並其爲人強力亦衆類多之皆曰不從皇命若強喚者興兵距焉天皇惡之不得進行即留于來田見邑權興宮室居之仍與群臣議之曰今多動兵衆以討土蜘蛛若其畏我兵勢將隱山野必爲後愁則採海石榴樹作椎爲兵因簡猛卒授兵椎以穿山排草襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上悉殺其黨血流至踝故時人其作海石榴椎之處海石榴市亦血流之處曰血田也復將討打猨侄度祢疑山時賊虜之矢横自山射之流於官軍前如雨天皇更返城原而卜於水上便勒兵先擊八田於祢疑野而破爰打猨謂不可勝而請服然不聽
矣皆自投洞谷而死之天皇初將討賊次于柏峽大野其野有石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈之曰朕得滅土蜘蛛者將蹶茲石如柏葉而舉焉因蹶之則如柏上於大虛故号其石曰蹈石也是時禱神則志我神直入物部神直入中臣神三神矣
【冬十月に、碩田国に着いた。その地形は広く大きくうるわしい。それで碩田と名づけた。速見邑についた。女性がいた。速津媛という。ひとかどの王だ。それで天皇が車駕に乗っていると聞いて、自ら迎えに出て「この山に大きな石窟が有って鼠の石窟という。二人の土蜘蛛がいてその石窟に住んでいる。一人目を青と二人目を白という。また直入縣の祢疑野に、三人の土蜘蛛がいる。一人目を打猨という。二人目を八田という。三人目を国摩侶という。このの五人は、ともにそのひととなりは力強く、また家来も多い。皆が「『天皇の命令に従わない』と言っている。もし強引に招集すれば、挙兵して拒みます」と言った。天皇は嫌がって、進軍できなかった。それで来田見邑に留まり、作戦を練る基地を建てた。それで群臣が「今、多くの兵を動して、土蜘蛛を討つとしよう。それでもし我が兵の勢いを畏れて、山野に隱れれば、きっと後の愁となる」と話し合った。それでつばきの樹を採って、槌にして武器とした。それで勇猛な兵をより分けて、武器の槌を授けて、山を貫き草を払って、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で破って、ことごとくその仲間を殺した。血がくるぶしまで流れた。それで、その時、人は、そのつばきの槌を作った所を、海石榴市といった。また血の流れた所を血田といった。また、打猨を討とうとして、愚かに祢疑山を渡って賊やその取り巻きの矢を左右の山から射た矢で官軍の目前では雨が降るようだった。天皇は、城原に返って、水上で占った。それで隊列を組んで、まず八田を祢疑野で撃ち破った。それで打猨は勝てないと思って、「降伏する」と嘆願した。しかし許さなかった。皆、崖に身を投げて死んだ。天皇は、初め、賊を討とうとして、柏峽の大野で乗り継いだ。その野に石が有った。長さ六尺、巾三尺、厚さ一尺五寸だ。天皇は「私が、土蜘蛛を滅すことが出来るなら、この石を跳ね上げて転がす時に、柏の葉のように上がれ」と祈った。それで、跳ね上げたら。柏のように上った。それで、その石を踏石と名付けた。この時に、祈った神は、志我神・直入物部神・直入中臣神、三柱の神だ。】とある。
官軍は京都郡から大分市碩田に進軍し、そこは速津媛が支配する土地で、この速津は「速素戔嗚」・「速水門」で「三身国」の『古事記』に「筑紫国謂白日別豊國謂豊日別肥國謂速日」と九州の大半は速国で『舊事本紀』「土佐國謂速依別」と土佐も速国で拘奴国の強大さは女王国の東の筑紫宗像から豊国は豊安芸までを含み、速国は土佐から肥までを領有し、大国建国も既にふれたように「三身の綱」と武器を援助し、素戔嗚は宗像の王者で「建」や「速」を名前の前にかざした。
そして、そこには、土蜘蛛がいて、土蜘蛛は「土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類」と侏儒で、『山海經』大荒東經に「有小人國名靖人有神人面獸身名曰犁之尸」と小人国が有って、有名な『三国志』倭人伝の「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」とあり、香椎宮から大分市役所まで高速を使って160Kmで1里50mで3.2千里なので一般道を走れば4千里位になる。
そして、直入は阿蘇山近辺の竹田市あたりで、大きな石を軽々と持ち上げるのだから当然軽石で、阿蘇山近辺なら軽石が有っても不思議ではない。

2019年9月9日月曜日

最終兵器の目 景行天皇3 卑弥呼現れる

 『日本書紀』慶長版は
十二年秋七月熊襲反之不朝貢八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼時天皇南望之詔群卿曰於南方烟氣多起必賊將在則留之先遣多臣祖武諸木國前臣祖菟名手物部君祖夏花令察其狀爰有女人曰神夏磯媛其徒衆甚多一國之魁帥也聆天皇之使者至則拔磯津山賢木以上枝挂八握剱中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊亦素幡樹于舩舳參向而啓之曰願無下兵我之属類必不有違者今將歸德矣唯有殘賊者一曰鼻垂妄假名号山谷響聚屯結於菟狹川上二曰耳垂殘賊貧婪屢略人民是居於御木川上三曰麻剥潛聚徒黨居於髙羽川上四曰土折猪折隱住於緑野川上獨恃山川之險以多掠人民是四人也其所據並要害之地故各領眷属爲一處之長也皆曰不從皇命願急擊之勿失於是武諸木等先誘麻剥之徒仍賜赤衣褌及種種奇物兼令撝不服之三人乃率己衆而參來悉捕誅之天皇遂幸筑紫到豊前國長峽縣興行宮而居故号其處曰京也
【十二年の秋七月に、熊襲が叛いて朝貢しなかった。八月の朔が乙未の己酉の日に、筑紫に行幸した。九月の朔が甲子の戊辰の日に、周芳の娑麼に着いた。その天皇は、南を望み見て、群卿に「南の方に烟がたくさん立ち上がっている。きっと賊が襲っているから何とかしよう」と詔勅した。それで娑麼に止まって、まず多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の菟名手・物部君の祖の夏花を派遣して、その状態を調べた。そこに女が1人いて、夏磯媛神といってその仲間たちはとてもたくさんいて一国を股に掛ける賊軍の大将だ。天皇は夏磯媛の使者が到着し報告を聞くために、磯津山の賢木を抜き取って、上の枝に八握劒を引っかけ、中間の枝には八咫鏡を引っかけ、下の枝には八尺瓊を引っかけ、また素のままの幡を船の舳に立てかけて戦いの準備をした。使者が目の前に来て「出兵を止めてください。私たちは類縁同士で、まったく異を唱える者はいない。いま丁度、教えに従おうとしていたが、従わない残党がいて一人を鼻垂という。慎みなく名を広めようとのニセの名で、山谷でよく知られていて人を集めて、菟狹の川上にかたまって寄り集まっている。二人目を耳垂といい、その残党は欲深くて、しばしば人々を略奪する。この者は御木の川上にいる。三人目を麻剥という。密かに徒党を組んで、高羽の川上にいる。四人目を土折猪折という。緑野の川上に隱れ住んで、ひとり山川の険しい地形を利用して、多くの人民を略奪する。この四人は、そこが拠点で要害の地だ。だから、夫々の家来を支配しひとかどの棟梁となった。皆が、『皇命には従えない』という。お願いだから急いで残党を討ってほしい。討たないと全て失いますよ」と働きかけた。そこで、武諸木等に、まず麻剥の家来を誘う。それで赤い衣褌やいろいろなの珍しい物を与えて、前から服従していない三人を指図してその家来を連れて参上したのですべて捕えて誅殺した。天皇は、それで筑紫に行幸して、豐前國の長峽縣に到着して、行宮を建ててくつろいだ。それで、そこを京と名付けた。】とあり、標準陰暦と合致する。
この戦いは、『古事記』・『舊事本紀』に記述されないので、畿内政権の事績でも葛城氏の事績でもなく、大足彦の上司兎上王の支配する「なか国」の説話と思われ、周防を出発し、『後漢書』に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」とある拘奴國を討った説話で、鼻垂・耳垂は鼻足・耳足で鼻の地を統治する王、熊襲の投馬国が「投馬國・・・副曰彌彌那利」とされ、鼻大耳の下で耳の冠位の人々を統治する王なのかもしれない。
また、この説話が『日本書紀』のみということは、この説話が違う王すなわち神功皇后12年の説話で景行12年に起こった違う事件に上書きした可能性が有り、神宮12年は漢の献帝の時代で、桓帝と霊帝のすぐ後で、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂・・・事鬼神道・・・於是共立為王」と後漢時代に女王が共立され、鬼神道と「神夏磯媛」の神は神の言葉を直接代弁する女王で卑弥呼そのものだ。
そして、筑紫は「豐前國長峽縣」と記述するように縣の上位に国があり、その国を支配する「夏磯媛」は夏が那の津で磯は伊蘇かも知れず、『日本書紀』「伊蘇國今謂伊覩者訛也」と今の糸島で、奴縣や伊都縣を支配する国の女王が神夏磯媛で卑弥呼の可能性が大きく、拘奴國を「なか国」と協力して打ち破って『三国志』の「其南有狗奴國・・・不屬女王」と女王国の南に押しやることが出来た。
そして、「なか国」は京都郡に宮を建設し、その近辺には太祖神社があり、建国の場所、京都郡の神武天皇の建国の場所であり、『後漢書』では東と南の拘奴國を「なか国」に助けてもらった夏磯媛は魏にも援助を求めて、死後に宗女、本家の倭奴(猪野)の姫が南の熊襲の残党拘奴國と闘ったのが『三国志』の内容だ。

2019年9月6日金曜日

最終兵器の目 景行天皇2

  『日本書紀』慶長版は
四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲國有佳人曰弟媛容姿端正八坂入彥皇子之女也天皇欲得爲妃幸弟媛之家弟媛聞乗輿車駕則隱竹林於是天皇權令弟媛至而居于泳宮鯉魚浮池朝夕臨視而戲遊時弟媛欲見其鯉魚遊而密來臨池天皇則留而通之爰弟媛以爲夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道今不勝皇命之威暫納惟幕之中然意所不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾姉名曰八坂入媛容姿麗美志亦貞潔宜納後宮天皇聽之仍喚八坂入媛爲妃生七男六女第一曰稚足彥天皇第二曰五百城入彥皇子第三曰忍之別皇子第四曰稚倭根子皇子第五曰大酢別皇子第六曰渟熨斗皇女第七曰渟名城皇女第八曰五百城入姫皇女第九曰麛依姫皇女第十曰五十狹城彥皇子第十一曰吉備兄彥皇子第十二曰髙城入姫皇女第十三曰弟姫皇女又妃()尾氏磐城別之妹水齒郎媛生五百野皇女次妃五十河媛生神櫛皇子稻背入彥皇子其兄神櫛皇子是讚岐國造之始祖也弟稻背入彥皇子是播磨別之始祖也次妃阿倍氏木事之女髙田媛生武國凝別皇子是伊豫國御村別之始祖也次妃日向髮長大田根生日向襲津彥皇子是阿牟君之始祖也次妃襲武媛生國乳別皇子與國背別皇子豊戸別皇子其兄國乳別皇子是水沼別之始祖也弟豊戸別皇子是火國別之始祖也夫天皇之男女前後幷八十子然除日本武尊稚足彥天皇五百城入彥皇子之外七十餘子皆封國郡各如其國故當今時謂諸國之別者即其別王之苗裔焉是月天皇聞美濃國造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟遠子並有國色則遣大碓命使察其婦女之容姿時大碓命便密通而不復命由是恨大碓命冬十一月庚辰朔乗輿自美濃還則更都於纏向是謂日代宮
【四年の春二月の朔が甲寅の甲子の日に、天皇が、美濃に行幸した。付き人が「この国に美人がいる。弟姫という。姿かたちが整っていて立派だ。八坂入彦皇子の娘です」と奏上した。天皇は、妃にしようと思って、弟姫の家に行幸した。弟姫は、天子が輿に乗ってきたと聞いて、竹林に隱れた。そこで、天皇は、弟姫が出てくるように考えて、泳宮にいて鯉を池に浮べて、朝から夕までに眺め視て遊んでいた。その時に弟姫が、その鯉が泳ぐ姿を見ようと、密にやって来て池を遠くから眺めた。天皇は、それで逃がさないようにと止めて池に通した。弟姫と夫婦になる方法は古も今も同じ方法だ。ところが、可愛そうなことに姫は天皇に「私は、関係を持ちたいと思わない。今は気分がすぐれず、天皇の命令で宮に招かれてしばらく考えけれど、気乗りせず、また私はすがたかたちもよくなく心もせまい。永く後宮に共に従うことが出来ない。ただ、姉がいて名を八坂入媛といいます。すがたかたちはきらびやかで美しく心根は操を固く守り、いさぎよい。後宮に呼び入れてください」と頼んだ。天皇が許して八坂入媛を妃に呼び寄せた。七人の男子と六人の女子を生んだ。第一を稚足彦天皇という。第二を五百城入彦皇子という。第三を忍之別皇子という。第四を稚倭根子皇子という。第五を大酢別皇子という。第六を渟熨斗皇女という。第七を渟名城皇女という。第八を五百城入姫皇女という。第九を麛依姫皇女という。第十を五十狹城入彦皇子という。第十一を吉備兄彦皇子という。第十二を高城入姫皇女という。第十三を弟姫皇女という。又妃の三尾氏磐城別の妹水齒郎媛は、五百野皇女を生んだ。次妃の五十河媛は、神櫛皇子・稻背入彦皇子を生んだ。その兄の神櫛皇子は、讚岐国造の始祖だ。弟の稻背入彦皇子は、播磨別の始祖だ。次妃の阿倍氏木事の娘の高田媛は、武国凝別皇子を生んだ。これは伊豫国の御村別の始祖だ。次妃の日向髮長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。これは阿牟君の始祖だ。次妃の襲武媛は、国乳別皇子と国背別皇子と豊戸別皇子とを生んだ。その兄の国乳別皇子は、水沼別の始祖だ。弟の豊戸別皇子は、火国別の始祖だ。それで天皇は男女、前後あはせて八十人の子を生んだ。しかし、日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子を除いた外の、七十人余の子は、みな国郡に封じて、おのおのの国に赴いた。それで、今、諸国の別というのは、その別王の名跡だ。この月に、天皇は、美濃国造の名は神骨の娘で、姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子、共にその国に美人がいると聞き、大碓命を派遣して、その女の容姿を観察させた。その時に大碓命が、密通して復命しなかった。それで大碓命を恨んだ。冬十一月の庚辰の朔に、輿に乗って、美濃から還った。それで纏向に都を造った。これを日代宮という。】とあり、標準陰暦と合致する。
もちろん、この子供たちは景行天皇一人の子ではなく、大足彦の長男相続と、この時代に当てはめた尾張王朝・物部王朝・倭国王朝・毛野王朝など多くの王の皇子・皇女たちをまとめてあると考えられる。
『古事記』「大帯日子天皇之御子等所録廿一王不入記五十九王并八十王」とあるように、21王が大帯日子王朝の代々の子で59王は他家の子で、祖とあるのは大足彦の王朝が新たに支配する領地で、妃日向髮長大田根の子が日向襲津彦、「日向國有孃子名髮長媛即諸縣君牛諸井之女」とやはり髮長に住む姫が仁徳妃で髮長姫は襲名され、日向諸縣君牛も襲名され、「日向諸縣君牛仕于朝庭」と日向諸縣君は畿内に出仕し、畿内へ一緒に出仕した皇子も当然襲津彦で神武東征の出発地は日向国で葛城氏が神武天皇だったので、襲津彦は葛城に養子して葛城襲津彦を襲名することになる。
豊国別皇子が日向国造の祖だが、君と国造では君が偉そうなので、豊国別は襲津彦の皇子の可能性が有り、『紀氏家牒』には葛城国造荒田彦の娘の葛比売が母親で「葛城長江曽都毗古」と言うように葛城の長江で生まれ、襲津彦は5世紀で景行天皇は2世紀と、かなりの襲名が続いている。
すなわち、大足彦と髮長大田根の子の日向襲津彦が日向諸縣君を継ぎ諸縣君襲津彦となりその姫の髮長姫と大雀である武内宿禰の子も諸縣君襲津彦でその皇子がすなわち襲名武内宿禰であり諸縣君襲名の襲津彦が葛城国造荒田彦の娘の葛比売に婿入りして子が葛城襲津彦と呼ばれたということで、日向襲津彦と葛城襲津彦は()兄弟若しくは(義理の)従弟の可能性がある。
要するに、襲名される名は役職の諸縣君・出身地の襲津・活躍している地名日向・葛城で武内宿禰も出身地が武の内で役職が宿祢・足彦で活躍地が紀伊や若国や「なか国」である。
ここから『日本書紀』の安康天皇までを書いた平群王朝が景行天皇から応神天皇は武内宿禰・襲津彦の葛城王朝、仁徳天皇は平群王朝の歴史を挿入したことを立証していくことになる。
そして、景行天皇の一人は美濃にいた皇子で、日葉酢媛の宮から八坂媛(尾張大海媛)の宮に首都が変って尾張氏王朝がゆるぎないものとなったようだ。
そして、尾張十世の一人は『舊事本紀』「大原足屋筑紫豊國國造等祖置津與曽命之子」と置津與曽の子で「四世孫羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と四世から十世まで、七世大海媛も含めて同じ宮・首都で過ごしている。

2019年9月4日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第七 景行天皇1

 『日本書紀』慶長版は
大足彥忍代別天皇活目入彥五十狹茅天皇第三子也母皇后曰日葉洲媛命丹波道主王之女也活目入彥五十狹茅天皇三十七年立爲皇太子(時年廿一)九十九年春二月活目入彥五十狹茅天皇崩元年秋七月己巳朔己卯太子即天皇位因以改元是年也太歲辛未二年春三月丙戌朔戊辰立播磨稻日大郎姫爲皇后后生二男第一曰大碓皇子第二曰小碓尊其大碓皇子小碓尊一日同胞而雙生天皇異之則誥於碓故因号其二王曰大碓小碓也是小碓尊亦名日本童男亦曰日本武幼尊有雄略之氣及壯容貌魁偉身長一丈力能扛鼎焉三年春二月庚寅朔卜幸于紀伊國將祭祀群神祇而不吉乃車駕止之遣屋主忍男武雄心念令祭爰屋主忍男武雄心命詣之居于阿備柏原而祭祀神祇仍住九年則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛生武內宿祢
【大足彦忍代別天皇は、活目入彦五十狹茅天皇の第三子だ。母の皇后を日葉洲媛命という。丹波道主王の娘だ。活目入彦五十狹茅天皇の三十七年に、皇太子になった。その時二十一歳だった。九十九年の春二月に、活目入彦五十狹茅天皇が崩じた。元年の秋七月の朔が己巳の己卯の日に、太子は天皇に即位した。それで元号を改た。この年は太歳辛未だった。二年の春三月の朔が丙寅の戊辰の日に、播磨稻日大郎姫を皇后とした。后は、二人の男子を生んだ。第一を大碓皇子という。第二を小碓尊という。その大碓皇子と小碓尊は、同じ日に同じ母の双子で生れた。天皇はめずらしがって、すなわち碓に擬えた。それで、その二人の王を名付けて、大碓・小碓と言った。この小碓尊は、またの名を日本童男。または日本武尊という。幼少の頃から勇ましく戦略家の気質が有った。大きく立派になって容貌は並外れて優れていた。身長180㎝(?)で、力強く鼎を担ぎあげた。三年の春二月の庚寅の朔に、紀伊國に行幸して、もろもろの神祇を祭祀しようと占ったところ、不吉とでた。それで車駕を止めた。屋主忍男武雄心命を派遣して祭らせた。そこで屋主忍男武雄心命は、神へのお参りのために阿備の柏原に居て、神祇を祭祀した。それで留まって九年たった。それで紀直の遠祖の菟道彦の娘の影媛を娶って、武内宿禰を生んだ。】とあり、三年二月庚寅朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
この天皇は皇后の長男の五十瓊敷に子がいなかったため、次男の宮に政権が遷り、その宮は皇后の宮だが、『日本書紀』は皇后の父を書かず、播磨国王と解るだけだが、『古事記』は「吉備臣等之祖若建吉備津日子」と『日本書紀』「倭國香媛・・・亦妃絙某弟生彥狹嶋命稚武彥命弟稚武彥命是吉備臣之始祖」と倭国造の姫でこの皇后は「なか国」王朝の皇后の説話でこの皇后の姻戚の忍代別が活目邑長から大国王となったことを意味する。
そして、大国王の皇子の屋主の武雄心が「紀直遠祖菟道彥之女影媛」、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」、『日本書紀』「珍彥爲倭國造」と倭国造の姫に婿入りして武內宿祢が生まれ、「なか国」王と義兄弟になったのであり、「兎上王」と「菟道彦」・「珍彦」の書き換えとの関係が伺える。
景行天皇は大彦と宇志王の子孫で、大彦は孝元天皇と欝色謎の皇子で宇志王は孝昭天皇と葛城彦の妹の世襲足媛の子の「天足彥國押人命此和珥臣等始祖」と天足彥國押人の子孫で「和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王」と和珥臣の祖の皇子の坐王の子である。
尾張氏の六世建田背の弟が建手和迩と和迩臣と関係がありそうで、妹宇那比姫は兎上(うなかみ)王、さらに、『舊事本紀』「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と伊賀臣の娘を娶っているが、伊賀臣は『日本書紀』「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖」と大彦で倭得玉彦の子に玉勝山代根古と山代の王族がいて、山代は武埴安の元領地だ。
そして、一番の注目点が、これ以降に大足彦・稚足彦これは大国や稚国の可能性が高いが、足仲彦・誉田別・・と姓が無く、すなわち、姓が不要な立場天皇であり、景行天皇も垂仁天皇と同じ纏向に宮を置くのであるから、言わば現代の新屋と考えるべきで、尾張氏の宮に都を置いて皇太后を擁立していないので、その宮には皇太后が既に存在し、2つの朝廷が存在する。