2019年6月28日金曜日

最終兵器の目 安寧天皇

  『日本書紀』慶長版は
磯城津彥玉手看天皇神渟名川耳天皇太子也母曰五十鈴依媛命事代主神之少女也天皇以神渟名川耳天皇二十五年立爲皇太子年二十一三十三年夏五月神渟名川耳天皇崩其年七月癸亥朔乙丑太子即天皇位元年冬十月丙戌朔丙申葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵尊皇后曰皇太后是年也太歲癸丑二年遷都於片鹽是謂浮孔宮三年春正月戊寅朔壬午立渟名底仲媛命先是后生二皇子第一曰息石耳命第二曰大日本彥耜友天皇十一年春正月壬戌朔立大日本彥耜友尊爲皇太子也弟磯城津彥命是猪使連之始祖也三十八年冬十二月庚戌朔乙卯天皇崩時年五十七
【磯城津彦玉手看天皇は、神渟名川耳天皇の太子だ。母は五十鈴依媛命という。事代主神の下の娘だ。天皇は、神渟名川耳天皇の二十五年に、皇太子に立った。年齢は二十一歳だった。三十三年の夏五月に、神渟名川耳天皇が崩じた。その年の七月の朔が癸亥の乙丑の日に、太子は天皇に即位した。元年の冬十月の朔が丙戌の丙申の日に、神渟名川耳天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬った。皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳癸丑だ。二年に都を片鹽に遷した。これを浮孔の宮という。三年の春正月の朔が戊寅の壬午の日に、渟名底仲媛命を立てて、皇后とした。この後、后は二柱の皇子を生んだ。第一を息石耳命という。第二を大日本彦耜友天皇という。十一年の春正月の朔が壬戌の日に、大日本彦耜友尊を立てて、皇太子とした。弟の磯城津彦命は、猪使連の始祖である(一書に出現)。三十八年の冬十二月の朔が庚戌の乙卯の日に、天皇は崩じた。その時年齢は五十七歳だった。】と、朔の日干支は全て標準陰暦と同じである。
この天皇の皇后の父は本文に記述せず、『舊事本紀』は「天日方奇日方・・・兒建飯勝命妹渟中底姫命」と建氏の妹で、『古事記』は安寧天皇「河俣毗賣之兄縣主波延之女阿久斗比賣」でこの縣主は『古事記』綏靖天皇「師木縣主之祖河俣毗賣」と師木縣主はまだ任命されていないので、師木縣主ではない。
そして、鋤友の妃も『古事記』「師木縣主之祖賦登麻和(訶)比賣」で、少なくとも鋤友以降に神武東征があったことを示しているが、磯城津彦玉手看は実際はもっと後代の人物だが3代目に挿入した可能性がある。
さらに、『舊事本紀』は「天日方奇日方・・・兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇」と宮がズレて当て嵌めが狂っているが、建飯勝が兄磯城、 天日方奇日方が磯城彦ということになり、もう一人の神武天皇建国で天日方奇日方が天皇を補佐したので、縁者の玉手看も出世することになる。
そして、この天皇の後ろ盾は磯城彦だったことが解り、さらに『舊事本紀』は「觀松彦香殖稻尊者磯城彦玉手看天皇太子」と磯城津彦ではなく磯城彦と記述して、『古事記』は「女阿久斗比賣生御子常根津日子伊呂泥命次大倭日子鋤友命次師木津日子命此天皇之御子等并三柱」と師木津日子を生んでいて、この天皇の中に磯城津彦そのものも組み入れられ、葛城氏は天皇の後ろ盾の勢力磯城彦の配下の磯城津彦に出世した。
さらに、『舊事本紀』に安寧天皇「四年夏四月以出雲色命為中食國政大夫復以大弥命為侍臣並宇摩志麻治命之孫」・「三世孫大祢命此命片塩浮穴宮御宇天皇御世為侍臣奉齋大神弟出雲醜大臣命」と出雲醜大臣が記述され、「なか」国から天降ってきた「神八井耳命者(意富臣・・・」の大臣でさらにもう一人の出雲出身の神武天皇の子が大祢となって、 天日方奇日方も義兄弟の父と『舊事本紀』の神武東征の準備が整い、その時期は、新しい文化流入である多紐文鏡の出土が紀元前200年頃と考えられているので、これが正しければ孝元天皇の頃だ。
そして、建飯勝命の妹の渟中底仲姫を妃にもつ安寧と波延の娘の阿久斗比賣を妃にもつ安寧が存在して、次男が勝っていたら宮が変わるので、渟中底姫を妃にもつ長男の安寧が勝利したと考えられる。
このように、何人もの時代が違う神武天皇の3代目の安寧天皇をまとめて記述し、そのそれぞれの皇后が『日本書紀』の「亦曰渟名襲媛」、「一書云磯城縣主葉江女川津媛一書云大間宿禰女糸井媛」と、力の背景が鴨王・磯城王・大間王であるそれぞれの皇后を持つ天皇がいたことを示し、渟名襲媛は初代安寧天皇の皇后、2代目安寧天皇の皇后が渟中底仲姫であろう。

2019年6月26日水曜日

最終兵器の目  綏靖天皇2

 『日本書紀』慶長版は
元年春正月壬申朔己卯神渟名川尊即天皇位都葛城是謂髙丘宮尊皇后曰皇太后是年也太歲庚辰二年春正月立五十鈴依媛爲皇后即天皇之姨也后生磯城津彥玉手看天皇四年夏四月神八井耳命薨即葬于畝傍山北二十五年春正月壬午朔戊子立皇子磯城津彥玉手看尊爲皇太子三十三年夏五月天皇不豫癸酉崩時年八十四
【元年の春正月の朔が壬申の己卯の日に、神渟名川耳尊は、天皇に即位した。葛城に都つくる。これを高丘宮という。皇后を尊んで皇太后という。の年は太歳庚辰である。二年の春正月に、五十鈴依媛を立てて皇后とした。すなわち天皇の叔母だ。后は、磯城津彦玉手看天皇を生む。四年の夏四月に、神八井耳命薨じた。すなわち畝傍山の北に葬った。二十五年の春正月の朔が壬午の戊子の日に、皇子の磯城津彦玉手看尊を立てて、皇太子とした。三十三年の夏五月に、天皇は病気で経過が良くなかった。癸酉の日に、崩じた。その時八十四才だった。】とある。
元年春正月壬申は標準陰暦と同じで二十五年春正月壬午は前日で大の月で概ね合致している。
そして、皇后はやはり大物主の娘で大物主の屋敷、すなわち、葛城の地に住み、大物主の娘婿となり、八井耳が大物主を継いだのだろうか。
私は、大環濠集落(宮)内の一軒が渟名川耳の家で、その環濠集落の外の環濠で守られていない渟名川の集落を支配したのだろうと思い描いている。
天皇家に戻って、綏靖天皇は神武天皇の皇后を葛城の宮に迎えて皇太后とすることで、橿原宮の配下の人々も綏靖天皇に服従し、日本の王朝継承の方法が定まり、天皇である神を宮に祀り、そこに、神と同等の禰宜がいて、人は天皇という宮にいる人も天皇と呼び、前天皇の皇后と現在の皇后と皇太子がいるワンセットが朝廷となり、その宮が天皇なのだから、そこで相続される限り同じ名前の天皇となり、同一人物であろうと、遷都すれば天皇名が変わるのである。
『古事記』は「娶師木縣主之祖河俣毗賣・・・天皇御年肆拾伍歳御陵在衝田」と、神渟名川耳に子は一人なのだから、この「渟名川」邑長は「河俣毗賣」の後に磯城縣主になる河俣宮に婿入りし、この父は磯城津彦で、その直属の配下に玉手看はなったのだろう。
しかも、『日本書紀』84歳死亡に対して、『古事記』は45歳で2倍年歴でもなく、『日本書紀』の84歳は宮があった年月で、古事記は13歳で神渟名川耳の名を得て33年間その地位にあったことを示し、さらに、『舊事本紀』は「至四十八歳神日本磐余彦天皇崩」と48歳で即位。在位33年で81歳死亡となり、神武29年生まれなのだから、この天皇は何代目かの神武天皇の従弟にあたりそうだ。
これに対して『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「孫都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒天日方奇日方命此命橿原朝御世勑為食國政申大夫共奉妹鞴五十鈴命此命橿原朝立為皇后誕生二兒即神渟名河耳天皇次彦八井耳命是也次妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后誕生一兒即磯城津彦玉手看天皇也」と事代主の娘は1人なので、天日方奇日方命の義妹が神渟名河耳天皇の皇后で『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「三世孫天日方奇日方命亦名阿田都久志尼命此娶日向賀牟度美良姫生一男一女兒建飯勝命」と天日方奇日方が婿入りした建氏の力で統治をした天皇であることが解る。
ここで、立皇子が問題になるが、玉手看は一人っ子なのだから、13歳になれば自動的に皇太子で渟名川は『古事記』の綏靖天皇は45歳死亡すなわち在位が33年なのだから12歳おそらく13歳になった時、後を継いでいるように、天皇以外は20歳以下でも継げ、皇太子は実質国を統治する人物である。
皇太子を立てたということは新しい統治者が決まったことを示し、王朝が変わったことを意味するので、ある王家の家系が変わったことを示し、葛城髙丘宮は宮が始まった時皇太子が居たので、それ以外の統治者が変わったことを示すに過ぎない。
すなわち、ある王朝の王を橿原宮の王の中に記述したが即位して32年目に違う家系の王が即位して髙丘宮の王として記述したことを意味し、それによって、中国の史書と対応させたのであり、そのような記録を持った王朝は漢と交流があった倭奴国しかないと論証してきた。
そして、『古事記』は『日本書紀』で描いた幾人かの綏靖天皇の一人を抜き出して太子になってから崩じるまでを記述した。

2019年6月24日月曜日

最終兵器の目   日本書紀巻第四  綏靖天皇1

 『日本書紀』慶長版
神渟名川耳天皇神日本磐余彥天皇第三子也母曰媛蹈韛五十鈴媛命事代主神之大女也天皇風姿岐嶷少有雄拔之氣及壯容貎魁偉武藝過人而志尚沆毅至四十八歲神日本磐余彥天皇崩時神渟名川耳尊孝性純深悲慕無已特留心於喪葬之事焉其庶兄手硏耳命行年已長久歴朝機故亦委事而親之然其王立操厝懷本乖仁義遂以諒闇之際威福自由苞藏禍心圖害二弟于時也太歲己卯冬十一月神渟名川耳尊與兄神八井耳命陰知其志而善防之至於山陵事畢乃使弓部稚彥造弓倭鍛部天津真浦造真麛鏃矢部作箭及弓矢既成神渟名川耳尊欲以射殺手硏耳命會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀時渟名川耳尊謂神八井耳命曰今適其時也夫言貴密事宜愼故我之陰謀本無預者今日之事唯吾與爾自行之耳吾當先開窨戸爾其射之因相隨進入神渟名川耳尊突開其戸神八井耳命則手脚戰慄不能放矢時神渟名川耳尊掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命一發中胸再發中背遂殺之於是神八井耳命懣然自服讓於神渟名川耳尊曰吾是乃兄而懦弱不能致果今汝特挺神武自誅元惡宜哉乎汝之光臨天位以承皇祖之業吾當爲汝輔之奉典神祇者是即多臣之始祖也
【神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇の第三子だ。母は媛蹈鞴五十鈴媛命という。事代主神の長女である。天皇は、、幼いころから容貌や仕草が堂々としていて、見るからに勇ましく、先頭に立っても並外れて優れ、武術も並外れていた。それで志は落ち着いてしっかりしていた。四十八歳になった時、神日本磐余彦天皇が崩じた。その時に神渟名川耳尊は、父母を敬い、葬りとむらう時は飾り気がなくとても深く悲しみ慕って自我を持たないことを特に心に留めた。その庶兄の手研耳命は産まれて年が既に長く過ぎ、朝廷の要として長く経ていた。そのため、委ねられた仕事をみずから行ったが、王に立って私心で国を治め、根本から人の道に背いた。そして、天皇が崩じた時には、人を思いのままに従わせ、欲いままだった。誰にも気付かれないように悪事を企み(『春秋左氏伝』)、二人の弟をそこなおうとした。その時、太歳己卯の冬十一月に、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命と、ひそかにその志を知って、上手く難を防いだ。山に葬ることを終えて、弓部稚彦に弓を造らせて、倭鍛部天津眞浦に小鹿を討つ鏃を造らせ、矢部に箭を作らせた。弓矢が完成したので、神渟名川耳尊は、手研耳命を射殺そうとした。手研耳命が、片丘の大きな部屋に一人でいるのを見たら、寝台の中で寝ていた。その時に渟名川耳尊は、神八井耳命に「今が丁度その時です。その計画は、忍んで、実行は慎重でなければならない。だから、私の陰謀を、もとから預かり知る人はいない。今日の事は、ただ私とあなたとで実行するのみ。私がすぐに部屋の戸を開けます。あなたは射って」と言った。それで共に連れ立って進入した。神渟名川耳尊は、その戸を突き開けた。神八井耳命は、手脚を振るい慄かせて、矢を射ることが出来なかった。それで神渟名川耳尊は、押し止めてその兄の持っている弓矢で手研耳命を射た。一発胸に命中した。二発目が背に命中して、遂に殺した。ここで、神八井耳命は、憤り恥じててみずから弟に服従した。神渟名川耳尊に皇位を讓って、「私は兄なのに、意気地なしで弱く結果を出せなかった。今あなたは特に抜きんでて神のように猛々しくて、自分で元凶を誅した。あなたは皇位に最適で、あなたが天皇位に光り輝いて臨んで、皇祖の本務を継承してください。私は、あなたを助けますから、神々に対する儀礼を奉納してください」と言った。これが多臣の始祖だ。】とある。
神武天皇が複数の人物の記事の寄せ集めであることを述べたが、実際の神倭磐余彦は神国の倭国造珍彦の配下の磐余の邑長で彦の配下でやはり彦でよいのだが、なぜか皇子の手研耳命は耳で、『三国志』の「伊都國官曰爾支」と甕棺墓の中心で「特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と一大率を置いた伊都国の冠位が主で、同じ甕棺墓を持つ投馬国が「投馬國水行二十日官曰彌彌」と耳の冠位を持っているのだから、下位の大和の冠位が耳で上位の神国は事代主のように主の冠位を持つ国だとわかる。
国の力関係が伊都国→投馬国(五萬餘戸)→一大国(三千許家)すなわち主→耳→彦の冠位の順である。
従って、五十鈴媛を妃にしたのは3代目くらいの磐余彦を襲名した手研耳で上司が事代主若しくは大物主、おそらく、『舊事本紀』に「都味齒八重事代主神坐倭國髙市郡髙市社亦云甘南備飛鳥社」と「とみ」・「は」の「八重国」の支配者事代主の配下となって、珍彦との力関係が同等以上になったのである。
『舊事本紀』に「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社」と三輪の地は大巳貴が支配していたが『古事記』の神武の皇后は大物主の娘なのだから、大物主が大巳貴の領地を奪ってその配下に手研耳がいて、この時が紀元前660年で「とみ・ながすね」の地は大巳貴を祀る長髄彦が支配していた。
神武東侵時に52歳の磐余彦と手研耳は共に戦っていて既に30歳位で大物主の娘に婿入りし、その子供が氏素性のよい王と認められるのだろう。
そして、綏靖天皇は 寝ている時に手研耳を暗殺したクーデタで葛城の宮で生まれ育った神渟名川耳が政権を奪い取ったのだが、この事件は、葛城氏の事件ではなく実際の天皇家の事件で、  最初から五十鈴媛の子で中れば支配地に受け入れられないのである。
橿原宮の天皇がクーデタで葛城高丘宮の皇子が政権を奪い、橿原宮の姫の子たちで51年間橿原宮が続いたことになり、葛城に宮があるということは、手研耳の上司が天皇になったことを意味し、葛城氏は天皇の部下になり、葛城氏はこの時に賜姓されたのかもしれない。
それが『古事記』の「建沼河耳」の建氏は天皇と同姓、建氏が天皇になったため葛城氏を与えられ、神国直属地の沼河の数千戸を支配する邑長に出世し、神国王の神主が天皇である。

2019年6月21日金曜日

最終兵器の目 神武天皇4

 『日本書紀』慶長版は
四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神渟名川耳尊爲皇太子七十有六年春三月甲午朔甲辰天皇崩于橿原宮時年一百二十七歲明年秋九月乙卯朔丙寅葬畝傍山東北陵
【四十二年の春正月朔が壬子の甲寅の日に、皇子の神渟名川耳尊を立てて、皇太子とした。七十六年の春三月の朔が甲午の甲辰の日に、天皇は橿原宮に崩じた。この時、年一百二十七歳だった。明年の秋九月の朔が乙卯の丙寅の日に、畝傍山の東北の陵に葬った。】とある。
四十二年正月壬子と七十有六年三月甲午は前日の晦日で明年九月乙卯は合い概ね標準陰暦と符合している。
年齢の127歳は2倍年齢との説があるが、年齢70歳、在位50年でも長すぎ、漢からの中国の年号と対応せず、安寧天皇の項で検証するが、橿原宮の時が127年でこの神武天皇は27年間、親子数代で襲名し続けたことを意味し、磐余彦の役職に就いたのが橿原宮で52年過ぎたあと磐余彦として橿原宮天皇に76年間仕えたことを意味する。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「所持之兵入殺當藝志美々故亦稱其御名謂建沼河耳命尓神八井耳命譲弟建沼河耳命」と神国の冠位名は素戔嗚の時代と同じ官位の耳で『古事記』の神武東征時の大将「美和之大物主神」は『三国志』の邪馬台国と同じ官位大系で主・彦・耳が混在し、紀元前660年に大国・なか国連合が大和に侵略して建氏が葛城と命名された土地の磐余で邑長になったことを意味し、『古事記』のみ記述される「科野國之州羽海將殺時建御名方」と同じ建氏で葛城氏は御名方の残党なのだろう。
そして、『古事記』の「神八井耳命者(意富臣小子部連坂合部連火君大分君阿蘇君筑紫三家連
雀部臣雀部造小長谷造都祁直伊余國造科野國造道奥石城國造常道仲國造長狭國造伊勢舩木直尾張丹羽(波)臣嶋田臣等之祖也)」は『古事記』執筆時の考察が注釈文で、出雲国・なか国につながる葛城氏の神武東征である熊襲侵略と日向からの東征などで後に得た国がこれらで、御毛沼・當藝志美々・神八井耳で神倭磐余彦の官職名の襲名なのだろう。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造其國造者自此而始矣此則大倭連等祖也」と記述していて、『日本書紀』は「國神名曰珍彥釣・・・賜名爲椎根津彥」・「珍彥爲倭國造」と記述していて、珍彦が磐余彦の上司で倭国造→大倭国造→『古事記』「木國造之祖宇豆比古」と木国造の祖とここで葛城氏と地位が逆転して、葛城氏が珍彦を後に任命したと記述しているのである。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
都橿原宮肇即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立爲皇后・・・復當斯之時帝之與神其際未遠同殿共床以此爲恒故神物宮物亦未分別矣
【橿原宮を都として初めて即位し鞴五十鈴媛を皇后として・・・また、この時、天皇と神は境が遠くなく同じ御殿で床を共にし、そのため、神の物と宮の物も分けていなかった」とある。
すなわち、宮が有って初めて天皇位で神と天皇は遠くない、すなわち、皇祖が神で、宮と神が別れていない、すなわち、宮そのものが神で皇祖であって、その子たちは神の子で、死ぬと神になり、その子が繋ぐのである。
従って、天皇と呼ばれる皇太子の父は神と同等で祀られる側で、「大神奉齋殿内即蔵天璽瑞寶以爲天皇鎮祭」と天皇の言葉は神の言葉で、実際の政務は皇太子や側近で行われ、その齋殿が「擎天璽鏡剱奉安正殿」と正安殿とよび、「寵異特甚詔日近宿殿内矣因號足尼」と宿祢は宿殿内の人物、すなわち、神のそばで仕える人物で、天皇と同等の権力を持つ人物である。
そして、「髙皇産霊尊兒天富命率諸齋神部擎天璽鏡剱奉安正殿矣」と最初に三種の神器(璽鏡剱)を捧げたのは天富命で、「とみ」の地名を持つこの人物が紀元前660年に「橿原宮」で皇位に就いた人物なのだろうか。

2019年6月19日水曜日

最終兵器の目 神武天皇3

 『日本書紀』慶長版は
二年春二月甲辰朔乙巳天皇定功行賞賜道臣命宅地居于築坂邑以寵異之亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地今号來目邑此其縁也以珍彥爲倭國造又給弟猾猛田邑因爲猛田縣主是菟田主水部遠祖也弟磯城名黑速爲磯城縣主復以剱根者爲葛城國造又頭八咫烏亦入賞例其苗裔即葛野主殿縣主部是也四年春二月壬戌朔甲申詔曰我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬今諸虜已平海內無事可以郊祀天神用申大孝者也乃立靈畤於鳥見山中其地号曰上小野榛原下小野榛原用祭皇祖天神焉三十有一年夏四月乙酉朔皇輿巡幸因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰姸哉乎國之獲矣雖內木錦之真迮國猶如蜻蛉之臀呫焉由是始有秋津洲之号也昔伊弉諾尊目此國曰日本者浦安國細戈千足國磯輪上秀真國復大己貴大神目之曰玉牆內國及至饒速日命乗天磐舩而翔行太虛也睨是鄕而降之故因目之曰虛空見日本國矣
【二年の春二月朔が甲辰の乙巳の日に、天皇は、手柄の有無を考え功績に応じた賞を与えた。道臣命に邸宅を建てる土地を与え、築坂邑に住まわせ、特にかわいがられた。また大来目を畝傍山の西の川端の土地に住まわせた。今、来目邑と名付けられているのは、その縁である。珍彦を倭國造とした。また、弟猾に猛田邑を与えた。それで猛田縣主とする。これは菟田の主水部の遠祖だ。弟磯城、名は黒速を、磯城縣主とした。また劒根は、葛城國造とした。また、八咫の烏の棟梁もまた恩賞に入れた。その後裔は、すなわち葛野の主殿の縣主部がこれである。四年の春二月朔が壬戌の甲申の日に、「我が皇祖の靈は、天から降って他人と比べてみると、私の体を考えて助けてくださった。今、諸々の敵を已に平定し、国の中は何事もない。それで天神を祀って、神に仕えることを申し述べたい」と詔勅した。すなわち霊を祭る場を鳥見山の中に立てて、そこをなづけて、上小野の榛原・下野原の榛原という。そこで皇祖天神を祭った。三十一年の夏四月の乙酉が朔の日に、天皇は輿に乗って巡って行幸した。それで腋上の嗛間の丘に登って、国の様子を廻らし望み見て、「なんと美しい国を獲たことだろう。内木綿(衾の中の綿?)のように薄く本当に狭い国と言っても、蜻蛉のとなめのようである」と言った。これよって、始めて秋津州と名付けられた。昔、伊奘諾尊が、この国を目にして、「日本は海岸が穏やかな国、細戈で千を治めた、国、磯が湾曲して上流にある磯の輪の上の本当に秀でた国だ」と名付けて言った。また大己貴大神が、見て、「石垣の中の国だ」と言った。饒速日命は、天の磐船に乗り、広い荒廃した地に肘を張って急いで行き、この地を様子を見ながら降って、それで、その地を見ながら、「荒涼とした土地に見えた大和の国」と言った。】とある。
四年春二月壬戌は1月の晦日、三十一年四月乙酉朔は合い、概ね標準陰暦と符合している。
そして、恩賞では全く出現してこなかった葛城氏の劒根が出現して葛城国造と認められ、神武東征時には既に葛城国王で、神武侵略の時追認され、磐余彦はそれより何代も前で『舊事本紀』に「天香語山命天降名手栗彦命亦云髙倉下命 ・・・次天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」とあるように、髙倉下と同世代でこの神武天皇は事代主を祀る氏族なのだろうか。
葛城の地名説話は「鳥見山中」とあるように饒速日が鳥見に天下った時の言葉で実際は、大己貴が安芸国を征服した時の円形の湾が山と海に挟まれて狭く、蜻蛉のトナメのようと言った説話で、雄略3年に畿内の蜻蛉野の命名説話があり、海人国ではなく安芸を国生みした奘諾尊は細戈で「千」は「ち・地」の事だろう。
内木綿のような意味不明な言葉を枕詞と長い間言われているが、『日本書紀』を書いた人々が、昔の説話の意味が解らず異なる場所で流用した為に起こった現象で、元々は目前にあったことを写し取った言葉を意味を知っている人々が漢字にした文節なので、全て漢字の意味を使って解釈して検証した。

2019年6月17日月曜日

最終兵器の目  神武天皇2

 『日本書紀』慶長版は
媛命以爲正妃辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歲爲天皇元年尊正妃爲皇后生皇子神八井命神渟名川耳尊故古語稱之曰於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根峻峙搏風於髙天之原而始馭天下之天皇号曰神日本磐余彥火火出見天皇焉初天皇草創天基之日也大伴氏之遠祖道臣命帥大來目部奉承密策能以諷歌倒語掃蕩妖氣倒語之用始起乎茲
【辛酉年の春正月の庚辰が朔日に、天皇は、橿原宮で帝に即位した。是歳を天皇の元年とした。
正妃を尊んで皇后とした。皇子の神八井命・神渟名川耳尊を生んだ。それで「畝傍の橿原に、太い宮柱を立てて底に敷いた磐を拠り所にした。「はふ」が大きく立派で高の海人の原に立てた。それで、始めて天下を治める天皇を、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇という」と宣言した。初めて、天皇が 天の土台を建てる日だ。大伴氏の遠祖の道臣命が大来目部を率いて、密かに練った策を受けて、作った歌と返歌を歌うのはここに初めて起こった。】とある。
この日が唯一つの特別な干支が並ぶ日で、前日は小の月の12月29日で間違うと12月30日となってしまう日で、この日に建国宣言を常とう句のように記述している。
この「宮柱於底磐之根」は大国主、大己貴、火瓊々杵、神武が建てていて、 大己貴は大国主に就任したのだから、初代大国主が高天原に建てて、「始馭天下之天皇」となり、それぞれの王朝の初代天皇はみな「始馭天下之天皇」なのである。
そして、その天皇というのは、宮柱を基礎に立派な「はふ」がある宮殿があり、当然そこは神殿で神様が祀られ、その神様が天皇で、この宮が続く限り天皇は代わらず、例えば葛城神、物部神と代を継いで同名の天皇となる。
そこには、天皇神と一心同体の禰宜、例えば磐余彦が代々襲名し、その土地の姫を皇后として、また、その禰宜の長男・長女が皇太子として天皇と一心同体の国を統治する最高権力者となり、原則、皇太子は13歳以上でないと就任できず、また、天皇も原則20歳以上でないと即位できず、そうでないと叔父の婿入り先に政権が遷ってしまう。
原則というのは、本来宮の象徴は姫で、王朝が変わった時、前天皇の皇后を招き入れて、皇太后として王朝を継承するが、皇太后が存命なら皇后が皇位を継承することができるようで、神功皇后や推古天皇、皇極天皇、斉明天皇がそれにあたり、証拠がないが白鳳年号が683年まで続いた原因は「鏡姫王薨」の記事で『興福寺流記』の「内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女」の内大臣は入鹿ではと考えている。
それなら、『日本書紀』天武天皇二年の「天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女」はこの天武天皇が日並とすれば、元明天皇は蘇我氏の嫡流で正当な倭王となり、ずっと引っ掛っている白鳳23年683年の疑問、天智天皇即位時も日本建国時も改元されなかった疑問が払しょくされる。
すなわち、敏達天皇の皇后の「太珠敷天皇之皇后額田部皇女」と額田の姫推古天皇によって物部王朝から蘇我王朝に、蝦夷の皇后皇極天皇によって蘇我王朝から天氏王朝、並行して物部鎌姫の子の入鹿の皇后の娘元明天皇によって蘇我王朝から中臣王朝で、天氏と中臣氏の家系が相争ったということになる。
それで、「是歲爲天皇元年」が意味を持ち始め、『二中歴』の「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」の記事にも意味があり、紀元前53年に即位した天皇から初めて元号が始まり、この時は干支だけだったのであり、紀元前53年は孝昭天皇の時代の途中なのだから、ここから、天皇個人が変わった時改元したのであり、宮の天皇すなわち王朝が変わった時の改元が紀元前660年から始まったということである。
この後、日本書紀は王朝天皇の改元を710年まで記述し続け、紀元前53年から天皇その人が交替した時も改元し、紀元前14年から干支に合わせて元号も記述、517年の継体元年からは天皇個人の交代に加えて、適時、記念すべきトピックがあると改元したと考えられる。

2019年6月14日金曜日

最終兵器の目 神武天皇1

 『日本書紀』慶長版は
三月辛酉朔丁卯下令曰自我東征於茲六年矣頼以皇天之威凶徒就戮雖邊土未清餘妖尚梗而中洲之地無復風塵誠宜恢廓皇都規摹大壯而今運属此屯蒙民心朴素巣棲穴住習俗惟常夫大人立制義必隨時苟有利民何妨聖造且當披拂山林經營宮室而恭臨寶位以鎮元元上則荅乾靈授國之德下則弘皇孫養正之心然後兼六合以開都掩八紘而爲宇不亦可乎觀夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎可治之是月即命有司經始帝宅庚申年秋八月癸丑朔戊辰天皇當立正妃改廣求華胄時有人奏之曰事代主神共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒号曰媛蹈韛五十鈴媛命是國色之秀者天皇悅之九月壬午朔乙巳納媛蹈韛五十鈴媛命以爲正妃
【三月朔が辛酉の丁卯の日に、「私が東征を始めて、これで六年になった。海人国の王の威光に頼って、謀反を起こした者を殺しつくした。辺境の地は未だにさっぱりしておらず、残りの怪しい者たちはまだ邪魔をしてはいるけれど、中洲の土地は、戦乱が無い。本当に広々と大きい皇都は、大変立派で手本とするべきだ。しかし運命的に国の始めを任されそして民の心はすなおである。家や洞窟に住む習慣が常識となっている。それで大人国の制度が始まって、人道に従ってきた。かりに人民に利が有れば、とうして聖人が造った決まりを邪魔だてしようか。まさに山林を開き払って、宮室を経営して、つつしんで天子の位に臨んで、よって立つ人々を鎮めよう。上は北西の神霊が授けた国の道徳に答え、下は皇孫が養う正しい心をひろめる。その後に、六合も一緒に都を開き、八の紘(つな)でおおって天地四方としよう。これができるのだろうか。見ると、かの畝傍山を見ると、東南の橿原の地は、思うに国の奥地で力が及んでいないから、治めよう」と命令を下して言った。この月に、役人に命じて、帝の家を造り始めた。庚申年の秋八月朔が癸丑の戊辰の日に、天皇は、正妃を立てようとした。改めて広く高貴な生まれの姫を求めた。その時に、ある人がいて「事代主神が三嶋溝橛耳神の娘の玉櫛媛と共に生んだ子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命といいます。この姫は、国柄がすぐれた人物だ」と奏上した。天皇はよろこんだ。九月の朔が壬午の乙巳の日に、媛蹈韛五十鈴媛命を納めさせて、正妃とした。】とある。
標準陰暦と比較すると、辛酉は2月30日で2月を小の月とすると合致し、庚申年の八月は7月が小の月にも拘らず合致している。
天皇の下命の内容は新しく即位するときの常とう句のようで、北西の神霊は隠岐の島後の神、六合は天の付く6島の国で、隠岐の大島は「八」国の綱で国引きして建国し、その六合と綱で作った国を併せた国の制度が大人(国)の制度すなわち、大人国の建国の宣言で、その様子は洞窟に住む人と家に住む人が混在していた。
そして、その国は「なか国」で宇迦の山がある地出雲の地で、『山海經』の海外東經・大荒東經・大荒北經の船を造る大人國在其北為人大坐而削船一曰在镸丘北」、海外南經の神靈が生まれる地之所載六合之閒四海之內照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歲神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道海外自西南陬至東南陬者」と記述される場所である
この様子を常とう句に「なか国」建国に使い、さらに、事代主が支配していた磐余にまず住まいを作って適当な婿入りできる領主、ここでは人柄を重視せず国柄を重視して探して、事代主の娘五十鈴媛に婿入りできたのであり、なぜ「なか国」かといえば、最初に『日本書紀』の安康天皇まで記述した女系王朝の出発点が「なか国」だったからである。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「勢夜陀多良比賣・・・美和之大物主神・・・生子名謂富登多多良伊須須岐此賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」と「美和之大物主」の娘「伊須須岐此賣」、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「皇妃姫韛五十鈴姫命立爲皇后即大三輪神女」と「三輪神」の娘の「五十鈴姫」、さらに、「事代主神與三嶋溝撅耳神之女立櫛媛所生之鬼號曰姬媛蹈鞴五十鈴姬」と『日本書紀』と同じ「事代主」の娘「五十鈴姫」で同一史書で2人の神武天皇を記述している。
すなわち、姫の名「たたら・いすす」は地名で、そこに生まれた姫は代々それらを名乗り、新しい支配者が来るたび政略結婚で迎え入れたのであり、最初に三輪神、次に大物主、次に事代主、そして、それら、三輪神が支配した時に配下になった神武、大物主が支配した時に配下になった神武、事代主が支配した時に配下になった神武がいた。
そして、実際の神武天皇は溝撅の義理の子供すなわち、『舊事本紀』に「都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒天日方奇日方命・・・妹鞴五十鈴命此命橿原朝立為皇后・・・次妹五十鈴依姫命」とあるように天日方奇日方がそれにあたる。
系図上の兄弟は義理の兄弟も従弟も含まれて、血縁系図ではなく、宮に住む縁者の家族構成を示し、後継の長男は父親と同一視されて、直系の皇子は直系の姫も含めて襲名として親と同じ名前で記述されず、直系が途絶えた時に系図が次に進むと考えられ、溝撅の子が一男一女なのに2人の姉妹がいることから証明されていて、五十鈴依姫は五十鈴姫の次女で直系の五十鈴姫が存在する。
『日本書紀』の対象である1400年間の26世代41代の天皇の家系では確実に足りず、1世代20年(親子の年代差)とすると70世代、1世代30年でも47世代が必要で、古代のどんな系図を見ても、それほど歴史がある系図を見ないのは、宮を単位とした系図だからであり、3~4世代もあれば1人くらい子が生まれなかったり、子が早死にして家系でが途絶えたり、権力が有れば有るほど暗殺や戦乱で命を落とす。
『日本書紀』は長男・長女が相続する女系の王朝で、分家すなわち男系が相続するときに王朝が変わり、男系王は新たな異なる王朝の女系天皇に婿入りし、前王朝の皇后を皇太后として迎え入れるのである。
そして、だから『日本書紀』は信じられないと思考停止の声が聞こえてくるが、何度も言うが日干支の朔を8世紀の官僚がどのように計算したか、どうして、想像なら適当に書き加えればよいのに欠史8代が存在するか、元明・元正天皇はどうして複数の訛りが混在して読みづらい史書を許したか、どうして、中国史書と『日本書紀』の内容があっていたり間違っていたりするのかと、このような疑問に答えなければならないし、間違っているにしろ、合っているにしろどちらも、史書を流用する場合は合っている理由と間違っている理由が必要である。
私は『日本書紀』が首都の歴史で、首都の出来事は正しく、その中に他の複数の王朝の王が記述されていて、その王たちは違う時代の人物だと証明してきたので、時代が違っている理由のみ証明している。

2019年6月12日水曜日

最終兵器の目 神武東征11

 『日本書紀』慶長版は
己未年春二月壬辰朔辛亥命諸將練士卒是時層富縣波哆丘岬有新城戸畔者又和珥坂下有居勢祝者臍見長柄丘岬有猪祝者此三處土蜘蛛並恃其勇力不肯來庭天皇乃分遺偏師皆誅之又髙尾張邑有土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類皇軍結葛網而掩襲殺之因改号其邑曰葛城夫磐余之地舊名片居亦曰片立逮我皇師之破虜也大軍集而滿於其地因改号爲磐余或曰天皇往嘗嚴瓮粮出軍西征是時磯城八十梟帥於彼處屯聚居之果與天皇大戰遂爲皇師所滅故名之曰磐余邑又皇師立誥之處是謂猛田作城處号曰城田又賊衆戰死而僵屍枕臂處呼爲頰枕田天皇以前年秋九月潛取天香山之埴土以造八十平瓮躬自齋戒祭諸神遂得安定區宇故号取土之處曰埴安
【己未年の春二月朔が壬辰の辛亥日に、諸將に命じて兵士を鍛えた。この時に、層富の縣の波哆の丘の先に、新城戸畔という人がいた。また、和珥の坂下に、居勢の祝という人がいた。臍見の長柄の丘の先に、猪祝といい人がいた。この三所の土蜘蛛は、その勇しい力をたのみにして、来朝を拒否した。天皇はそれで一部の兵を分けて派遣して、皆殺しにした。また高尾張の邑にも、土蜘蛛がいた。その人となりは、身長は短く手足が長い。侏儒と似ている。皇軍は、葛の網を束ねて、被せる方法で襲撃した。それであらためてその邑を名付けて葛城という。それが磐余の地で、元の名は片居という。亦は片立という。我が皇軍の敵を破るにいたって、大軍が集まってその地に満ち溢れた。それで名付けて磐余とした。あるいは、「天皇が以前、厳瓮の糧を供て、軍を出撃して西を征った。この時に、磯城の八十梟帥が、そこに大勢が集まっていた。それで天皇と大戦した。ついに皇軍の為に滅ぼされた。それで、名付けて磐余の邑と名付けた」という。また皇軍が立ち上がって申しわたしたところを、猛田という。城を作った所を、名付けて城田という。又、賊達が戦死して倒れた屍が、肘を枕にしたところを頬枕田と呼んだ。天皇は、前年の秋九月に、密かに天の香山の土を取って、八国の十の平らな盞を造って、みづから身を清めて諸神を祭った。ついに天下を区分けして安定させた。それで、土を取った所を名付けて埴安いった。】とある。
やはり、標準陰暦と同じで、ここでは侏儒に似た柄が小さい土蜘蛛が登場するが、『山海經』大荒東經に「有小人國名靖人有神人面獸身名曰犁之尸」と小人国が有って神邑を思わせる有神と記述し、有名な『三国志』倭人伝の「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」は景行天皇の熊襲征伐の『日本書紀』「到速見邑有女人曰速津媛・・・土蜘蛛住・・・於直入縣祢疑野有三土蜘蛛・・・」と3文献が小柄な種族を記述している。
そして、磐余彦が住み着いた場所は元片居でこの侵略で磐余と変わり、それは葛城の領内だと記述している。
神武東征の大和侵入は、2つの分析法があり、1つは地名で、最初の侵略した地名は「長髄是邑之本号」と「長髓」でそれが「時人仍号鵄邑今云鳥見」と鵄そして鳥見と変化するのだが、饒速日は「飛降者謂是饒速日」と鵄に天降ったと思われ、神倭磐余彦が侵入した時に鵄と名前が付いたのだからその後である。
そして、鳥見に変化したが、神武天皇の皇后は(都味齒八重)事代主の娘若しくは孫で、この場合の饒速日は実際は大巳貴の可能性が高く、そこに事代主が侵略して、神倭磐余彦がさらに入ってきたのだから、この地を支配したのは事代主から神倭氏にさらに大国が支配した大倭に代わり、「宇摩志麻治」が「宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆亦帥軍平定海内」と「海内」は中国で言う天下の一部で、天下を平定して天皇の璽を持っていたので宇摩志麻治が大倭王だ。
もう一つ分析法は戦った相手で、最初は兄弟猾でこの支配者は大巳貴、それを破ったのは高倉下でそれを長髓彦が破り、そして、饒速日が長髓彦と義兄弟になり、長髓彦の分家の磯城彦が饒速日を破り、神武天皇が磯城彦の義兄弟(懿徳天皇から孝霊天皇は磯城縣主の娘を妃にしている)になったという構図で、磐余彦が侵入した時は神倭王朝で、それを継いで行くのが葛城氏の役職名(彦→耳→彦・神倭→大倭)と婚姻関係だ。

2019年6月10日月曜日

最終兵器の目 神武東征10

 『日本書紀』慶長版は
十有二月癸巳朔丙申皇師遂擊長髄彥連戰不能取勝時忽然天陰而雨氷乃有金色靈鵄飛來止于皇弓弭其鵄光曄煜狀如流電由是長髄彥軍卒皆迷眩不復力戰長髄是邑之本号焉因亦以爲人名及皇軍之得鵄瑞也時人仍号鵄邑今云鳥見是訛也昔孔舍衞之戰五瀬命中矢而薨天皇銜之常懷憤懟至此役也意欲窮誅乃爲御謠之曰()因復縱兵忽攻之凢諸御謠皆謂來目歌此的取歌者而名之也時長髄彥乃遣行人言於天皇曰嘗有天神之子乗天磐舩自天降止号曰櫛玉饒速日命是娶吾妹三炊屋媛遂有兒息名曰可美真手命故吾以饒速日命爲君而奉焉夫天神之子豈有兩種乎奈何更稱天神子以奪人地乎吾心推之未必爲信天皇曰天神子亦多耳汝所爲君是實天神之子者必有表物可相示之長髄彥即取饒速日命之天羽羽矢一隻及步靫以奉示天皇天皇覽之曰事不虛也還以所御天羽羽矢一隻及步靫賜示於長髄彥長髄彥見其天表益懷踧踖然而凶器已構其勢不得中休而猶守迷圖無復改意饒速日命本知天神慇懃唯天孫是與且見夫長髄彥禀性愎佷不可教以天人之際乃殺之帥其衆而歸順焉天皇素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效則褒而寵之此物部氏之遠祖也
【十二月朔が癸巳の丙申日に、皇軍はついに長髓彦を撃とうとした。連戦勝つことが出来なかった。その時ににわかに天が陰って氷雨が降った。金色に反射した霊力をもっていそうな鵄がいて、飛んで來て天皇の弓の弭に止まった。その鵄がさんさんと光り輝き、稲光のようだった。そのため、長髓彦の軍兵は、皆、とまどい、眩しくて、力が発揮できずに戦えなかった。長髓は邑の本来の呼び名だ。それで人名とした。皇軍は、鵄の目出度いしるしを得たため、当時の人が鵄邑と名付けた。今鳥見というのは、訛ったものだ。昔、孔舍衞の戦いで、五瀬命が、矢にあたって薨じた。天皇はこれを思って、常に怒り恨んだ思いがあった。この戦いに至って、感極まって誅殺しようとした。すなわち謠って()それでまた兵を放ってすみやかに攻めた。すべてのもろもろの謠を、皆来目歌という。これは歌う人をとって名付けた。この時、長髓彦は、人を派遣して、天皇に、「むかし、天神の子がいて、天の磐船に乗って、天から降って来た。櫛玉饒速日命と言った。これは私の妹の三炊屋媛を娶って、兒が生まれた。名を可美眞手命という。それで、私は、饒速日命を、君主として仕えてきた。それなのに天神の子が、どうして二柱いらっしゃるのか。どうして更に天神の子と名乗って、人の土地を奪うのか。私が推し量ったところ、あなたは偽っていると思った」と言上した。天皇が、「天神の子は多くいる。お前の主君とするのは、これが本当の天神の子なら、必ずしるしの物があるはずだ。見せてみろ」と言った。長髓彦は、すなわち饒速日命の天羽羽矢を一隻、および歩靫を取って、天皇に示した。天皇は、御覧になって、「嘘ではないな」と言って、帰って御所の天羽羽矢を一隻及び歩靫を持って、長髓彦に示した。長髓彦は、その天のしるしを見て、ますますおどおどした。しかし凶器をすでに構えていたので、その勢で、途中でやめることができなかった。またなほ筋が通らない思いのままに、改心することが無かった。饒速日命は、もともと天神で礼儀正しく、天下を統治するのはただ天孫のみかといふことを知っている。また長髓彦の見受ける態度は傲慢で逆らい、天人との違いを教えることができないので、殺した。配下はみなを率いて帰順した。天皇は、もともと饒速日命は、天から降ったということを聞いていた。それで、今約束を果たして臣下の真心の印とし、褒めてかわいがった。これが物部氏の遠祖だ。】とある。
この、「十二月癸巳朔」は標準陰暦では12月2日で11月は小の月なので大の月なら合致するが、1つ矛盾が有って、帰順した主語が抜けていて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「宇摩志麻治命本知天神慇懃唯天孫是與且見夫長髓彦凛性戻浪不可教以天人之際乃謀殺舅帥衆歸順焉」と宇摩志麻治が長髓彦を殺して帰順していて、『日本書紀』の主語の天皇は可美眞手とすれば整合性がある。
すなわち、この神武天皇は可美眞手で、義理の兄弟から皇位を奪った、長髓彦の父が天皇だったことを示していて、これで、猾・高倉下・磯城彦に加えて可美眞手が神武天皇として描かれ、以後、この神武東征の内容が孝元・開化・崇神天皇の時代の説話であったことを説明していこうと思う。

2019年6月7日金曜日

最終兵器の目 神武東征9

 『日本書紀』慶長版は
十有一月癸亥朔己巳皇師大舉將攻磯城彥先遣使者徴兄磯城兄磯城不承命更遺頭八咫烏召之時烏到其營而鳴之曰天神子召汝怡奘過怡奘過兄磯城忿之曰聞天壓神至而吾爲慨憤時奈何烏鳥若此惡鳴耶乃彎弓射之烏即避去次到弟磯城宅而鳴之曰天神子召汝怡奘過怡奘過時弟磯城惵然改容曰臣聞天壓神至旦夕畏懼善乎烏汝鳴之若此者歟即作葉盤八枚盛食饗之因以隨烏詣到而告之曰吾兄兄磯城聞天神子來則聚八十梟帥具兵甲將與決戰可早圖之天皇乃會諸將問之曰今兄磯城果有逆賊之意召亦不來爲之奈何諸將曰兄磯城黠賊也宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下弟倉下如遂不歸順然後舉兵臨之亦未晩也乃使弟磯城開示利害而兄磯城等猶守愚謀不肯承伏時椎根津彥計之曰今者宜先遣我女軍出自忍坂道虜見之必盡鋭而赴吾則駈馳勁卒直指墨坂取菟田川水以灌其炭火儵忽之間出其不意則破之必也天皇善其策乃出女軍以臨之虜謂大兵已至畢力相待先是皇軍攻必取戰必勝而介冑之士不無疲弊故聊爲御謠以慰將卒之心焉謠曰()果以男軍越墨坂從後夾擊破之斬其梟帥兄磯城等
【十一月朔が癸亥の己巳の日に、皇軍は大挙して、磯城彦を攻めようと、まず、使者を派遣して、兄磯城を呼んだが、兄磯城命は受け入れなかった。さらに、八咫の首領の烏を派遣し呼び寄せた。その時に烏は其の陣営について叫んで「天神の子がお前を招待している。喜び勇んでこい」と言い立てた。兄磯城は怒って「私達が祀らない天の神が来た、私が憤慨しているのに、烏よどうして忌々しく叫ぶ」と言って弓を引いて射た。烏は立ち去った。次で弟磯城の家について、「天神の子がお前を招待している。喜び勇んでこい」と言い立てた。その時に弟磯城は穏やかな容貌で、「私は、私達が祀らない天の神が来たと聞きて、朝から晩まではばかり畏れていました。よくぞ、烏さん。このように呼びかけてくれた」と言って、すなはち、ひらで八枚を作って、食物を盛ってもてなした。それで、烏はその足で帰って「我の兄の兄磯城は、天神の子が来たと聞いて、八国の十梟帥をあつめて、兵器を具えて、ともに戦おうとしている。すみやかに攻撃を実行すべきだ」と報告した。天皇すなわち諸將を集めて、「今、兄磯城は、やはり反逆しようとしている。呼びつけたが来ない。それでどうする」と問いかけた。諸將が「兄磯城はずる賢い敵だ。まず弟磯城を派遣して味方に付いた時の扱いをさとさせて、あはせて兄倉下・弟倉下に説明させましょう。もし帰順しなかったら、その後は挙兵して臨むので、それではもう遅い」と言った。それで弟磯城に、利害を教え解き示した。しかし、兄磯城等は、なお愚かな陰謀を守って、承伏しなかった。その時、椎根津彦は、計略を立て、「今はまず私の女軍を派遣して、忍坂の道から出撃しよう。敵はそれを見て必ず意気ごんでやってくるだろう。我々は強力な兵をただちに墨坂を目指して、駆けつけさせて、菟田川の水を取って、その炭火に注ぎ込んで、その隙に、その不意をついて出撃すれば、必ず破ることができる」と言った。天皇はその策を良として、すなわち女軍を出撃して臨んだ。敵は、既に大挙して兵が来たと言って、全力で相対した。これより先に、皇軍は攻めて必ず戦って勝利を勝ち取ると意気込んだ。しかし、甲冑の兵士は、疲弊して、そのため、気持ちを安らげるため謠をつくって、兵士達の心を慰やした。()それで男軍で墨坂を越えて、後から挟み撃ちで破り、その梟帥の兄磯城等を斬った。】とある。
やはり標準陰暦と同じで、敵の全滅させた男軍・女軍がいつのまにやら味方になり、すなわち、男軍・女軍が最初の神武東征の時に活躍したこの項で述べる軍が、次の神武東征の時に賊軍になる。
そして、兄弟倉下は尾張氏の祖で、弟磯城は『古事記』は「師木縣主之祖河俣毗賣生御子師木津日子玉手見」、『舊事本紀』は「神渟名川耳天皇太子磯城津彦玉手看尊母日五十鈴媛命事代主神之少女也」と記述されるように磯城彦が事代主で、大彦と武埴安彦の父國牽は磯城縣主の娘婿すなわち磯城彦で埴安彦が兄磯城・大彦が弟磯城となり、崇神天皇時代の背景と変わらない。
そして、事代主磯城彦が統治する国の将軍八十梟帥は、八十人もいたら東征が出来ず、何人もいる梟帥が称号で、ここでもやはり「八」国の十人の梟帥と考えた方が理に適う。 

2019年6月5日水曜日

最終兵器の目 神武東征8

 『日本書紀』慶長版は
冬十月癸巳朔天皇嘗其嚴瓮之粮勒兵而出先擊八十梟帥於國見丘破斬之是役也天皇志存必克乃爲御謠之曰()謠意以大石喩其國見丘也既而餘黨猶繁其情難測乃顧勅道臣命汝宜帥大來目部作大室於忍坂邑盛設宴饗誘虜而取之道臣命於是奉密旨掘窨於忍坂而選我猛卒與虜雜居陰期之曰酒酣之後吾則起歌汝等聞吾歌聲則一時刺虜已而坐定酒行虜不知我之有陰謀任情徑醉時道臣命乃起而歌之曰()時我卒聞歌倶拔其頭椎剱一時殺虜虜無復噍類者皇軍大悅仰天而咲因歌之曰()今來目部歌而後大哂是其縁也又歌之曰()此皆承密旨而歌之非敢自專者也時天皇曰戰勝而無驕者良將之行也今魁賊已滅而同惡者匈匈十數群其情不可知如何久居一處無以制變乃徙營於別處
【冬十月癸巳朔に、天皇が、その厳瓮の糧を供える祀りを行い、兵力をととのえて出撃した。まず八十梟帥を国見の丘で撃ち破って斬った。この役で、天皇が志し、必ず勝と思っていた。すなわち謡って(略)その意味は、大きなる石をその国見の丘に喩えた。既に、残った輩はまだ煩わしくて、その気持ちを測ることができない。すなわち思いめぐらして道臣命に「大きな囲いを忍坂の邑に作って、盛大な宴席を設けて、敵を誘い入れろ」と詔勅した。道臣命がここに、密議を承り、あなぐらを忍坂に掘って勇猛な味方の兵を選んで、捕虜と一緒にした。ひそかに約束して「酒宴がたけなわになった後、私が起ち上がって歌う。お前たちは、私の歌声を聞いて、一斉に捕虜を刺せ」と言った。すでに坐る場所も定り、酒も行きわたり、捕虜が、我々の陰謀が有ることを知らないで、こころのまま、ほしいままに酔いしれた。その時、道臣命が、起ち上がり歌い(略)終わった時に我々の兵が、歌を聞いて、皆その頭椎の剱を拔いて、一斉に捕虜を食べ残しが無いほど殺した。皇軍は大変悦んで、見上げて咲った。それで歌って(略)今、來目部が歌った後に大きく哂うのは、これの縁だ。また歌って()これは皆、密事を承けて歌った。自ら勝手に行ったことでは無い。この時、天皇は「戦いに勝って驕らないことは、良い將の行いだ。今、賊の首領をすでに滅ぼして、同じく悪意のある者、かまびすしい十数の群がいる。その心情を知ることができない。どうしてずっとここに居て、政策を取り決めることが出来ようか」と言った。それで別の所に陣屋をうつした。】とある。
「十月癸巳朔」は標準陰暦と合致し、計算ではなく、日本国の前身の建国前からすでに干支を使った年代があった可能性が否定できない。
『史記』卷三 殷本紀 第三帝辛に「武王於是遂率諸侯伐紂 紂亦發兵距之牧野 甲子日紂兵敗」、『尚書』の武成 に「惟一月壬辰旁死魄越翼日癸巳王朝步自周于征伐商 厥四月哉生明王來自商至于豐」と紀元前1000年より以前の日干支が残り、『山海經』海外南經に「狄山帝堯葬于陽,帝嚳葬于陰」と暦を作った堯帝の墓が日本海南部にあり、『論衡』の恢国篇第五八に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と日干支を使っている成王と対面しているのだから、日本人の知識階級が知らないはずが無い。
歌は省略したが、この辺りはまだ直截的で理解できるが、恋歌になると背景も心情も複雑になり、論評も難しく正確性を欠くことになるため、直截的な歌も論評を控えたが、三史書とも載せていてかなり有名な歌のようで、『日本書紀』慶長版の「伽牟伽筮能伊齊能于瀰能於費異之珥夜」【神風の伊勢の海の大石にや】と久米歌に出現し、クジラ漁の歌を歌うクジラ漁をする久米氏の故郷に伊勢がある。
すなわち、伊勢が記述されたからと言って直線的に伊勢神宮のある伊勢とは言えない、そして、伊勢神宮もいくつかあることを頭にいれて理解しなければならない。
また、この敵の八十梟帥が出現しているが、久米氏のクジラ漁の歌と共に記述されていることから、本来は奈良県の山の中の戦いではなく、山の戦いの歌では陳腐なので、日本海の海沿いの戦いで大国と八国の戦いを神武東征に挿入した可能性が高い。

2019年6月3日月曜日

最終兵器の目 神武東征7

 『日本書紀』慶長版は
乃椎根津彥著弊衣服及蓑笠爲老父貌又使弟猾被箕爲老嫗貌而勅之曰宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣基業成否當以汝爲占努力愼焉是時虜兵滿路難以往還時椎根津彥乃祈之曰我皇當能定此國者行路自通如不能者賤必防禦言訖徑去時群虜見二人大咲之曰大醜乎老父老嫗則相與闢道使行二人得至其山取土來歸於是天皇甚悅乃以此埴造作八十平瓮天手抉八十枚嚴瓮而陟于丹生川上用祭天神地祇則於彼菟田川之朝原譬如水沫而有所呪著也天皇又因祈之曰吾今當以八十平瓮無水造飴飴成則吾必不假鋒刃之威坐平天下乃造飴飴即自成又祈之曰吾今當以嚴瓮沉于丹生之川如魚無大小悉醉而流譬猶柀葉之浮流者吾必能定此國如其不爾終無所成乃沉瓮於川其口向下頃魚皆浮出隨水噞喁時椎根津彥見而奏之天皇大喜乃拔取丹生川上之五百箇真坂樹以祭諸神自此始有嚴瓮之置也時勅道臣命今以髙皇産靈尊朕親作顯齋用汝爲齋主授以嚴媛之号而名其所置埴瓮爲嚴瓮又火名爲嚴香來雷水名爲嚴罔象女粮名爲嚴稻魂女薪名爲嚴山雷草名爲嚴野椎
【すなわち椎根津彦にぼろぼろの衣服と蓑笠を著けて、老父の姿にした。又、弟猾に箕を被せて、老嫗の姿にして「お前たち二人、天の香山に行って、潜んでその嶺の土を取ってかえってこい。計画の成否は、お前たちの結果しだいだ。謹んで努力しなさい」と詔勅した。この時に敵兵が路に満ちて行き来が難しかった。この時に椎根津彦は「我が君がこの国を治めるべきなら、行く路は自然と通れるようになる。もし出来なかったら、敵がきっとこの国守り切るだろう」と祈った。言い終わって道を通ろうとした。その時に敵が群れ囲んで二人を見て「なんと醜い老父と老婆だ」と大笑いした。すなわち二人とも道を通り過げた。二人は、山に着くことができ、土を取って帰りきた。それで、天皇はとても悦んで、この土で八十枚の平らな盞、天の手抉を八十枚、厳瓮を造って、丹生の川上にのぼって、それを用いて天神地祇を祭り祈ると、この菟田川の朝原に、水の沫のように、流れ着くところを見た。天皇は、それで、「私は八十枚の平らな盞で水無しで飴を造ろう。飴が出来れば、私は必ず鋒刃の力を借りないで、座ったまま天下を平定できよう」と祈った。それで飴を造った。飴は自然とできた。又、「私は嚴瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚の大小にかかわらず、のこらず醉って流れること、たとえば葉の浮き流れるようなら、私はきっとこの国を平定出来よう。もしそれが出来なかったら、成功できないだろう」と祈った。すなわち瓮を川に沈めた。その口が下に向き、しばらくして魚が皆浮き出て、水の流れるままに口をパクパクさせた。その時に椎根津彦は、これ見て奏上した。天皇は大変喜んで、丹生の川上の五百箇の眞坂樹を抜き取って、それで諸神を祭った。これで初めて厳瓮の置きものができた。その時、道臣命に「今、高皇産靈尊によって、私自ら祭祀の場を作ろう。お前を禰宜とし、嚴媛の名前を授ける。その置いた土器の瓮を厳瓮と名付けよう。又、焚く火の名を厳香来雷と名付けよう。供える水の名を厳罔象女としよう。供える糧の名を厳稲魂女としよう。薪の名を厳山雷としよう。草の名を厳野椎としよう」と詔勅した。】とある。
嚴瓮などの祭祀道具はすでにあったから作ることができ、『古事記』にはこの説話が無く、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「又撃兄師木弟師木之時御軍暫疲尓歌曰・・・故尓迩藝速日命」と磯城彦の説話があるのみで、兄弟倉下の説話は一切出現しないし、道臣に語りながら媛と名付けていて、これも本来は道臣への説話ではない。
これは、兄弟倉下の説話は『古事記』にとっては重要ではなく、尾張氏が王朝を創建した時には既に畿内には権勢がなく、葛城王朝の始祖は「なか国」や若国・大国に地盤を持っていたからで、そして、葛城氏が畿内に侵入した時には、尾張氏より前に侵入していて、兄弟倉下との戦いは不要で、宇陀に侵略した説話を宇迦斯との戦いを使って記述したのだろう。
勝った有名な戦いをわざわざ削除する権力者を聞いたことが無く、磯城彦も畿内侵略時に畿内に居たが埴安彦の時は畿内に居なかった。