2019年2月27日水曜日

最終兵器の目 序

 日本古代史を記述した史書は私たちが理解できる文字として漢字で書かれた『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』(古書には『舊事本紀』とあるので以降先代を略す)があるが、その他に、私たちが理解できない、所謂神代文字で書かれた文献がある。
しかし、これら史書は神代文字文献を含めて、漢字の知識抜きに記述したとは思われない。
なぜなら、どちらも、天上世界から降り立った神を始祖とする神話を記述するということは、中国語の天と地を輸入しないと意味が通らないことから理解できる。
中国文献『三海經』で、「天」は中原が天下、西の山の湯・水が涌くところが天、「大荒西經」に「有天民之國・・・有北狄之國」とその北部に天民の国が存在しその北が北狄で天民は夷蛮人ではない。
そして、「南山經」に「天虞之山」、「西山經」に「天帝之山」・「曰槐江之山・・・有天神焉」・「赤水出焉而東南流注于氾天之水」と中原を取り囲むように天が有り、「天山多金玉有青雄黃英水出焉而西南流注于湯谷」と天山は水が湧き出るところで、「北山經 」に「天池之山其上無草木多文石」と池があり、「中山經」「尸水合天也」と天地が合わさる河の流れがある。
これらを合わせた中国人の領域の「五臧山經」に「天下名山 經五千三百七十山 六萬四千五十六里 居地也・・・天地之東西二萬八千里 南北二萬六千里 出水之山者八千里 受水者八千里・・・此天地之所分壤樹穀也」と人が住む土地が合計6.4万里の広さで、そのうち、「中經之山大凡百九十七山二萬一千三百七十一里」2.1万里、そして、東西2.8万里、南北2.6万里が天地で水が出る山とそれを受ける場所が天地を分ける場所だと述べている。
そして、「大荒西經」に「吴姖天門日月所入」と西2.8万里に 吴姖天門があって日月が沈むところだとして、『周碑算經』の里単位1里70mなら、千九百Kmが中国人の世界となり、「中經之山」が天下となる。
すなわち、天は上空ではなく山岳地帯、水が湧き出るところであり、漢代になり里単位が1里400mになって変質して天が天空となったと考えられる。
水源地帯が天と呼ばれたが「海内經」「西南黑水之閒有都廣之野・・・蓋天地之中」と渤海も天地の中と沿岸から離れた潮の流れの上流も天と呼ばれ、これが、日本列島の漢字を理解し、漢より前に日本人の常識となり、漁場も人が住む天地、黄海や東シナ海が天、陸地が地で天下と呼ぶことが常識となった。
しかし、漢字が流入して以降、天を天上・天空と理解することが常識となり、史書もそれに倣い、現実離れをしたものになったのであり、神代文字の文書だからと言って、「あま」を天空と理解している文書は漢字が流入した後の漢字を理解している人々の文書で、だいたいが、「くに」などの組織が記述され、「きみ」などの地位が記述されたとき、既に神代とは言えず、漢字を理解し『日本書紀』の雄略紀前までの歴史を理解して、文書が発見された地域の歴史を漢字の読めない人々に流布したものと思う。
漢字が流入した時、応神天皇は『論語』や『千字文』を一緒に取り入れたように、筑紫や出雲など、硯が流入していた時に、手本として『易経』などの文書が入り、中国人も中国の常識も流入していたのであり、漢字の音を利用するだけでなく、字義も考えた文字選びをしていると考えなければならず、その前提で、史書を検証していきたい。
但し、一書や小文字で記述された『日本書紀』執筆時に付加されたと思われる部分は、後代の視点が入った記述なので重視するのを控え、解説文で重要と思われるところは説明する。
また、『古事記』・『舊事本紀』も同様だが、両書は私史でより主観が入るので、『日本書紀』と異なる部分を重点的に、考古学資料も含めて検証した。
但し、考古学は骨などの組織の炭素代謝物から縄文時代の食生活を特定しているが、『山海經』では各地域によって、「君子國・・・食獸」・「青丘國・・・食五穀」・「黑齒國・・・食稻」・「蒍國黍食」・「中容人食獸木實」・「大人之國・・・黍食・・・大青蛇・・・食麈」と食生活が異なり、一つの考古資料で画一的に決めつけることは避けようと考えている。
私は、史書を検証に使う研究者は史書を間違いと決めつけてはいけない、間違いと決めつけるなら、一切証明に使用してはいけない、そして、史書が間違いでないとする場合は検証で史書に矛盾があった場合、論証する責任があると考えてきた。
このシリーズはそれを実証しようと思っている。
なお、神や天皇などに敬称・尊敬語を使うと意味が脚色され、歴史を捻じ曲げる可能性があり使いませんので無礼とは存じますがご容赦ください。

2019年2月25日月曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝3

 『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)に「弘仁記云近江大津宮馭寓天武天皇二年歳在大俗同中呂大織冠藤原内大臣諱鎌子」と天武天皇2年に俗界の鎌足で存命と記述され、藤原姓を賜るのだから藤原の地に領地が有り、その領地に首都を持統四年690年に「觀藤原宮地。公卿百寮從焉」と誘致し、鎌足の姻戚の 中臣氏も天武天皇十二年683年に「小錦下中臣連大嶋」が天武天皇十四年685年に「藤原朝臣大嶋」と藤原氏の姓を贈られた。
そして、持統四年「神祗伯中臣大嶋」となっているが、大化4年、文武二年698年の「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」記事が反映されたもので、701年のクーデタで大嶋と鎌足の孫が天武天皇を追放して皇位に就き、大嶋は 持統七年693年「直大貳葛原朝臣大嶋賻物」と不明な姓を記述される。
これは、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻」が原因なら大嶋は死亡記事が無いが700年も存命で、不比等が持統三年689年「直廣肆土師宿禰根麿大宅朝臣麿藤原朝臣史」と16位で初出している。
それに対し、馬養が霊亀二年716年「正六位下藤原朝臣馬養爲副使」と16位での初出と差があるものの藤原姓を名乗って、霊亀年は正式に王朝を立ちあげた年号であることから、馬養は追い出した總持天皇と行動を共にした可能性があり、養老五年721年「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」の7位を最後に登場せず、馬養の子石木(石根?)からは中臣を名乗っている。
そして、712年には總持天皇の太子が年号を続けられず、霊亀元年、『日本書紀』では持統四年正月に「畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位」と元明天皇が正式に天皇になったことを宣言した。
持統十一年八月「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」すなわち、霊亀元年九月「天皇禪位于氷高内親王」と天皇位を禅譲して皇太后となることで、伝統的皇室、皇太后が存在し、宿殿に天皇が、20歳ではないためまだ天皇になれない実質天皇の15歳の皇太子が存在するワンセットの天皇が完成した。
そして、この王朝も長くは続かず、天智天皇の孫の光仁天皇が皇位に就き、天照大神の家系で、周代から中国に臣従した黄海の島々六合に住んだ倭が日本の国王天皇となり現代まで続いている。
藤原・中臣王朝は天武・文武・元明・元正・聖武天皇は『延喜式』巻二十一治部省國忌に入れてもらえず「天智天皇十二月三日忌崇福寺天宗高紹天皇(光仁天皇)十二月廿三日 忌東寺 桓武天皇三月十七日忌西寺」と天智・光仁・桓武天皇を入れて、天智天皇の末裔を認め、天皇に即位する時、聖武天皇から「淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と述べている。
以上史書と金石文、史書どおし、史書内での矛盾を究明することで、矛盾の原因究明と合理的な解消法を述べてきた。
歴史は権力者の目を通した書物だが、事実を歪めることなどはせず、主語を書かなかったり、主語を亦の名で誤解させたり、違う人物を同じ人物にしたりして、昔の有名な類似の事柄を入れ込むことで、史書を記述した王朝を正当化している。
複数の王を一人の王にすることで、王だった人物が違う王にとっては臣下となり、子になったり、親になったりして矛盾をきたすのであるが、だからと言って、書いてもないことを想像して歴史を作り出すことは、科学・歴史学とはとても思えないが、現代ではそれが横行していることが残念で仕方が無い。
次回からは史書の矛盾点を示しながら、『日本書紀』を検討していきたい。

2019年2月22日金曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝2

 前回、701年にクーデタで飛鳥清原天皇を打ち破って飛鳥清原で即位したと述べたが、『日本書紀』には持統八年694年に「遷居藤原宮」と遷都しているが、『続日本紀』に慶雲元年704年に「始定藤原宮地」と藤原に都を定めたと記述されている。
『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘」と689年に飛鳥浄御原大宮から評督を賜たが700年に亡くなって碑を建てたが藤原宮を一言も言及していないので藤原宮は700年より後と考えられる。
それに対して、707年死亡の『大村骨臓器銘文』に「後清原聖朝初授務廣肆藤原聖朝小納言闕」と記述され『続日本紀』慶雲三年706年に「從五位上猪名眞人大村」と記述され704年以降は確かに藤原朝でそれ以前に前後の清原聖朝がある。
『粟原寺鑪盤銘』には「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之」と浄御原宮天下天皇時に日並御宇東宮が死んだと述べ「至和銅八年」と715年6月以前に銘板を作成し、藤原天皇と書いていない。
さらに、『日本書紀』では持統二年688年に「藤原朝臣大嶋」と記述し、持統四年690年「中臣大嶋朝臣」、持統五年691年「中臣朝臣大嶋」と中臣に戻している。
この、中臣復帰は文武二年698年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」と神事を司る藤原は中臣姓に戻すという記事で、『続日本紀』養老五年721年大嶋の子馬養が「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」と藤原を名乗っている。
すなわち、『続日本紀』の698年が持統2年か3年に当たり、701年のクーデタで大嶋の家系は藤原に戻り、他の中臣氏は戻っておらず、さらに、『粟原寺鑪盤銘』で日並が薨じたのが694年頃で、この頃なら『粟原寺鑪盤銘』は「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋」と中臣で間違いなく、689年4月3日中臣復帰施行とこの銘文は考えたのだろう。
さらに、粟原寺建立を始めた大嶋が死んだので『粟原寺鑪盤銘』は「爾故比賣朝臣額田」と額田姫が後を継いでいて、普通に読めば大嶋の子が太子の時薨じたので、694年に粟原寺を建立したが途中で大嶋が薨じたので、日並の妃額田が後を継いで715年初旬に完成させ銘板を書いたと読める。
すなわち、日並は中臣朝臣日並と呼ばれた人物で、『日本書紀』天武天皇二年の「天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女」の天皇は『興福寺流記』「安置前像大臣不許」の像は日並の像の可能性があり、持統天皇・元明天皇が額田姫の可能性が高く、額田姫は『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)の「冬十月内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女請曰別造伽藍」と鏡王は鎌足の妻で、鎌足と大嶋の孫が文武天皇ということになるが、私はこの内大臣は入鹿と考えていて、物部氏の推古天皇が額田部で入鹿が物部氏の皇子で鏡王の娘が額田と十分あり得そうだ。
『大村骨臓器銘文』の「後岡本聖朝、紫冠威奈鏡公之第三子也」と威奈公の娘も否定はできないが王と呼ばれているのなら銘文に遠慮することは無く、『日本書紀』にも「胸形君徳善女尼子娘」と同じように威奈王鏡の娘と書かれるはずで、天武天皇十二年「天皇幸鏡姫王之家訊病」と『興福寺縁起草』の「鏡王女」と対応して記述して威奈王鏡の家とはしていないし、天武十二年に白鳳年間が終わり、鏡王女が皇后・皇太后だった期間で、物部王家の終焉だったのではないだろうか。
額田姫の子十市皇女は大友皇子妃で子は葛野王で、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻自今以後給中臣氏」と葛野が中臣氏の領地になり葛野の王は葛野王である。
従って、『日本書紀』の天武天皇が日並なら、持統天皇は額田姫で、天渟中原瀛眞人も高天原廣野姫も臣下の役職名だった可能性がある。

2019年2月20日水曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝1

 天武天皇紀以降は大化6年以降の記事を中心に書かれている巻で、舎人親王達が記述し、壬申の乱は701年の文武天皇のクーデタを孝徳天皇の弟と蘇我氏の残党のクーデタや天智天皇の相続争いを使って記述したもので、『日本書紀』の複数の神武東征を一まとめにした記述と同じ一貫した記述方法である。
『古事記』序文では「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜竜体元洊雷応期」と「飛鳥清原大宮御大八州天皇」が統治する時に、天武天皇が統治している時に、元明天皇の先代は龍が潜んで善徳を身に着け、世の混乱に応じて立ち上がったと序文の対象天皇を述べている。
そして、673年2月に飛鳥清原に宮を遷すときの辛苦と同じように、飛鳥清原天皇の時代に先代は飛鳥清原で新王朝を打ち立て、その治世は「道軼軒后、徳跨周王」と中国の王朝の創始者黄帝の道や周朝の創始者周王の徳を比較して、元明天皇の先代はまさしく王朝の創始者だと述べてまだ天子にはなっていないとしている。
そして、序文を贈る『古事記』「伏惟皇帝陛下」と元明天皇に対して「可謂名高文命徳冠天乙矣」と伝説の王朝創始者夏の禹王や殷の湯王より優れているとご機嫌を取り、元明天皇が王朝の創始者だと言っているのである。
そして、壬申の乱の論功が、『日本書紀』に記述しないで、『続日本紀』の701年7月に詳細に記述していて、特に大伴連御行など何度も昇進しているが壬申年功に触れず、死亡時にも触れず、701年の『続日本紀』大宝元年二月庚午「車駕至自吉野宮」と吉野から帰った飛鳥清原天皇を2月29日壬申の日に起こしたクーデタを壬申の乱と呼び701年の論功と考えた方が理に適う。
『日本書紀』での壬申の論功者を701年に記述しているが、 榎井連小君・ 大伴連御行・阿倍普勢臣御主人・神麻加牟陀君兒首は『日本書紀』に記述されず、716年に45年もったってから再度恩賞を与えているが、それほどの論功者文直成覺・尾張宿祢大隅は『日本書紀』に記述されず、大伴連御行 は701年に死んでいるが論功していない。
藤原不比等は文武天皇の義父だが『続日本紀』文武四年六月「直廣壹藤原朝臣不比等」と官位が10番目だが、大宝元年三月「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と5番目に特進していて、大伴宿祢御行は文武四年「大伴宿祢御行並授正廣參」と6番目から「正廣參阿倍朝臣御主人正從二位」と4番目で不比等の特進ぶりが目立つ。
不比等は鎌足の子とは言え、『日本書紀』持統十年「直廣貳藤原朝臣不比等」と12番目が初出で皇太子の義父の地位としては低く、701年に文武天皇が新王朝を打ち立てて即位したと考えれば納得できるし、他の冠位の順当さも良く理解できる。
そして、慶雲元年704年「大納言從二位藤原朝臣不比等」で4番目、和銅元年708年「藤原朝臣不比等並正二位」で3番目、養老四年720年「就右大臣第宣詔贈太政大臣正一位」と死後1番目の冠位となり、子の「武智麻呂」は天平六年「 以從二位藤原朝臣武智麻呂爲右大臣」で、10番目和銅四年「 從五位下藤原朝臣武智麻呂」から神亀元年「 藤原朝臣武智麻呂。藤原朝臣房前並正三位」と5番目に昇進するのに13年かかっている。
この、壬申の論功の不可解さは3つの壬申の乱があり、3つの壬申の乱に新王朝が関わり、新王朝に貢献した人物を701年に新王朝を打ち立てた時に3つまとめて論功し、特に不比等が中心的役割を果たしたため特進し、615年正式に新王朝が璽を手に入れ、唐にも承認されて、霊亀と改元して正式な王朝を打ち立てて、再度壬申の乱から15年経って代替わりしているので子供たちに論功を与えたということである。

2019年2月18日月曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝5

 天智天皇を分けた理由は、天智天皇が宮を難波・飛鳥浄御原・近江と宮を遷ったからと書いたが、その裏付けは天武天皇十二年「凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波」で宮を2・3造ると言って難波にまず造ろうと言い、実際、外交使節の饗応を推古天皇十六年「饗客(唐客)等於難波大郡」と推古天皇が難波大郡、斉明天皇元年に「於難波朝饗北」と蝦夷と百済を朝廷で、斉明天皇二年「於飛鳥岡本更定宮地。爲張紺幕於此宮地而饗焉」と高麗百濟新羅を饗応した以外は場所を記述しない。
これは、外交で饗応する場所は首都の宮殿に決まっているので、それ以外で饗応するときに記述するのであって、推古天皇は難波大郡ではなく推古天皇十一年「遷于小墾田宮」、斉明天皇も難波朝や岡本宮ではなく斉明天皇元年「天皇位於飛鳥板盖宮」と違う場所が首都である。
そして、663年から5回、672年以降27回外交的饗応を行っているが、671年までは場所が記述されず、首都での饗応で、692年までは2回首都でほとんどが筑紫、飛鳥寺が4回筑紫館が2回、難波館が2回である。
そして、『続日本紀』でも慶雲元年に「始定藤原宮地」と藤原遷都前のみ難波館で以降は首都で饗応しており、これは、首都が筑紫や難波以外すなわち近江に有り、672年以降は首都は近江に残しながら首都機能が筑紫に遷り、その他に難波にも首都機能が有ったことを意味し、大宰府市の条坊跡は井上信正氏によると丁度670代頃に当たると述べられている。
さらに、首都飛鳥浄御原が飛鳥板葺宮に有ったのなら、飛鳥寺で饗応する意味が無く、飛鳥浄御原は首都でなく、688年までは少なくとも首都が近江に有ったと考えられ、690年に筑紫での饗応に天皇が出席せず報告を受けたのみで、それ以降筑紫での饗応を記述しない。
天智天皇一〇年671年に「以大友皇子拜太政大臣」、持統四年690年に「以皇子高市爲太政大臣」と太政大臣を決めた時、首都機能が筑紫へそして新たな首都へと変化しているということは、大友皇子が太政大臣になって671年に首都機能を筑紫に置き、太政大臣を高市皇子に受け継いだことを意味している。
そして、天武天皇十年に「立草壁皇子尊爲皇太子」と2代目天智天皇(大友皇子?)が実質皇位を継承して皇弟草壁皇子が実質皇太子となったが、690年におそらく2代目天智天皇の長男高市皇子が太政大臣となって実務を行い実権を手中にし、天智天皇崩の前に皇太子を廃されて、大皇弟となった。
天智天皇一〇年に「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴」と皇太子が記述され、その後大友皇子は皇太子と呼ばれず、壬申の乱では皇太子は出現せず大皇弟が出現し、皇太子が天皇に即位したことが解る。
すなわち、第二の壬申の乱が発生し、大友皇子の皇太子高市皇子と廃嫡された大皇弟の戦いで、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立」と弟天武では無く、その子総持と更に直系の皇子が皇位を継承して、血縁関係のない文武が新たな王朝を立ちあげるのである。
そして、文武以降は中国とつながりが希薄になり、阿閇と阿用、霊亀が白亀と正確性を欠き、宋史も「次阿閉天皇次皈依天皇」と、続日本紀とどちらが正しいか、それとも他王朝の天皇名か解らず、すなわち、実質の初代天皇は「子阿用立」もしくは「皈依」と元明天皇の子の元正天皇で、霊亀元年715年が実質の王朝交代で2王朝が併存していたと『新唐書』は述べているのである。

2019年2月15日金曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝4

  『日本書紀』の皇極から天智までは天武天皇が大化五年699年まで書いたと述べたが、天智天皇七年「阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂(或本云名姪娘曰櫻井娘)」と699年以降の記事があって、指摘を受けそうだが、『日本書紀』は原則原文を修正せず、後代に間違いと思われるところや説明は小文字で追記しているが、舎人親王達は「倭」を「日本」に、「命」を「尊」に説明抜きで書き換えている。
すなわち、この、元明天皇の説明は舎人親王達が付加したもので、元明天皇の父が天智天皇か不明で、持統天皇とも母が実際は姪で、もし義理の姪となるとかなりの氏族が血縁となり、父は血縁関係が有るか不明、母も遠縁でほぼ赤の他人で、自分の兄弟が良くわかっていないなどと言うことは有り得ない。
720年頃、兄弟がかなり高齢になったとは言え、父母が良くわからないなどと言うことは有り得ず、また、元明天皇の父を天智天皇とすると40歳の年齢差は異様で、世代としてもやはり天智天皇は690年代まで生きていないと常識的とは言えず、前項の鎌足692年死亡の推定に合致する。
壬申の乱で出現する人物は「大皇弟」「天皇」「大友皇子」「大津皇子」「高市皇子」で「草壁皇子」は戦っておらず、天皇の弟は本来「皇弟」で、用明天皇に「皇弟皇子者穴穗部皇子」、孝徳天皇には「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等」と出現し、天智天皇の弟ならやはり「皇弟」で、皇嗣ならやはり立太子した皇太子で「大皇弟」とは呼ばず、孝徳天皇の皇弟が天智天皇の代になって「大皇弟」と呼ばれたと考えた方が順当だ。
しかも、壬申の乱には死んだはずの天皇が出現し、天智天皇は皇極天皇即位時は「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と16歳で壬申の乱の時「天皇謂高市皇子曰其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無與計事者唯有幼小少孺子耳」と天皇が近江の大臣が謀反を起こして、自分に従うのは幼い子供たちだけと嘆き、672年時点では高市皇子を含めて幼い子たちだけで、かろうじて、大友皇子と大津皇子が13歳以上なのだろう。
天武天皇八年「天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰、朕今日與汝等倶盟于庭・・・則草壁皇子尊、先進盟曰・・・吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹」と芝基皇子が兄弟ではないはずなのに兄弟と述べ、矛盾をきたしている。
天智天皇一〇年「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛」と立太子無しで皇太子に就任しており、天智天皇の長男が皇太子になり、大皇弟が大臣らと反乱を起こしたのが壬申の乱で、天智天皇が勝利して、天武天皇十年681年に草壁皇子が皇太子になっているのだから、草壁皇子が皇弟で2代目天智天皇が就任したとも考えられ、第2の壬申の乱が695年に退位させられた草壁皇子(大海皇子)が政権を奪った可能性も否定できない。
664年の孝徳天皇死後、天智天皇が20歳以上なら、摂政などではなく天皇に即位すればよく斉明天皇四年「方今皇子年始十九未及成人可至成人而待其徳」と有間皇子を成人でないと諫めていて、20歳以上が天皇になるための最低条件のようである。
孝徳天皇死後、天智天皇即位前紀「皇祖母尊即天皇位」と天豐財重日足姫皇祖母が天皇に即位して、『旧唐書』665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」中国に赴き、『新唐書』「其子天豐財立死子天智立」と皇帝が対面した天豐財の名が残り、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年中宮天皇が大病を患ったと記述されている。
そして、『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇」と680年に伽藍を建てたと中宮天皇を先皇の大上天皇と呼んでいる。

2019年2月13日水曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝3

 孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年に「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊立中大兄爲皇太子」とあるように、皇祖母は俀国王が王位を引き継いだ時に女性の大王が襲名する地位で、天皇に対する皇后ではなく皇太后と同じ感覚のようで、天皇が前皇后を尊んで襲名したことを意味する。
すなわち、この皇祖母は孝徳天皇の前代の皇后で、天智天皇が皇太子になったのは孝徳天皇が前代の大王の弟なので、天皇の甥は立皇太子で、それ以前は高祖母の夫が大王で太子は古人大兄が皇太子と考えられる。
そして、高祖母の夫は俀国王すなわち筑紫大君「筑紫君薩野馬」で、皇極天皇元年「葬息長足日廣額天皇于滑谷崗」・皇極天皇二年「葬息長足日廣額天皇于押坂陵或本云呼廣額天皇爲高市天皇也」と舒明天皇を2回葬しているのは、一方は蘇我天皇で一方は薩野馬と思われ、後代高市天皇と呼んだのだから、高市皇子は嫡流の皇子で、薩野馬の宮殿の姫の皇子の可能性が高い。
薩野馬は天智天皇一〇年帰国と記述されるが、天智天皇八年に到着した郭務悰は帰国しておらず、唐の大軍の先触れなら天智天皇三年のほうがふさわしく、この時の郭務悰来日の陣容は記述されず、持統四年記事も「天命開別天皇三年」と記述される。
すなわち、664年5月郭務悰が来日して筑紫君も一緒だったのだが、病気のためか死んでいたか解らないが十一月に「對馬國司遣使於筑紫大宰府言」と対馬国司から報告があって帰国を知り見つけ出したが崩じていて皇極天皇二年に埋葬され、皇太子の古人皇子は権力闘争に負け皇太子を廃位させられた。
この権力闘争の経緯は、大君が唐との戦いで661年に捕虜となり、祖母の吉備嶋皇祖母が薨去したため、古人皇子が天皇代行で天智天皇が摂政となって権力を集中して実権を持ってしまった。
そして、鎌足と郭務悰とで664年5月に天皇と皇太子を殺害するクーデターで対唐戦の責任を負わせるため、責任者の天皇・皇太子を殺害し、当然、俀国王も俀国皇太子も戦犯で天皇即位など考えられず、薩野馬は日本に帰っても唐に幽閉させられ、古人太子はクーデターに協力することを条件に仏門に入ることで許されたと考えられる。
天智天皇三年(664)五月「大紫蘇我連大臣薨或本大臣薨注五月」と五月に書かれながらわざわざ五月と書いていることから、おそらく六月二十九日乙巳の日にクーデターが起こり、天皇の前で帯刀が許される大臣で皇太子の入鹿が誰よりも後に入室し、天智達に騙されて刀を外され殺された。
そして、蝦夷も俀国の最高権力者の天智天皇の祖母も「六月嶋皇祖母命薨」と殺害され、 孝徳天皇が即位したが、『藤氏家伝』に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と孝徳天皇は即位して俄に白雉五年十月壬子「天皇崩于正寢」と4ヶ月で崩じた。
そして、全権を握った天智天皇が天智天皇三年「十月饗賜郭務悰等」と唐に天智の母で皇祖母の復帰の承認を得て。「十二月甲戌朔乙酉郭務悰等罷歸」と664年12月に皇祖母から復帰した皇極天皇が『舊唐書』に665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」と唐の天子と会見し天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等・・・廿二日進表函焉」と唐天子の表とともに帰国した。
すなわち、唐と戦った責任者の嫡流は全て責任を取らされ、天智天皇四年「二月癸酉朔丁酉間人大后薨」、斉明天皇四年十一月「遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂」、大化元年おそらく664・5年「古人大兄斬古人大兄與子其妃妾自經死」と孝徳天皇の皇后皇子・俀国王と全て一度に死亡して皇太子天智と皇極天皇・孝徳天皇の弟のみが生き残った。

2019年2月11日月曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝2

 天智天皇は天智天皇即位前紀に「息長足日廣額天皇太子也母曰天豐財重日足姫天皇」と舒明天皇と皇極天皇の子と記述されているが、皇極天皇は皇極天皇即位前紀に「 渟中倉太珠敷天皇曾孫 押坂彦人大兄皇子孫 茅渟王女也 母曰吉備姫王」としていて、欽明天皇の皇子桜井皇子の子と言われているが記紀に書かれず吉備姫の親が不明だ。
『古事記』沼名倉太玉敷に「娶伊勢大鹿首之女・・・次宝王亦名糠代比売王・・・日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇・・・娶春日中若子之女老女子郎女生御子・・・大俣王・・・娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」とやはり知奴王の母親にも矛盾が有って、漢王が誰か解らない。
漢王は応神天皇二十年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と十七縣を従えて天皇に帰順した阿知使主親子が雄略天皇十六年に「賜漢使主等賜姓曰直」と漢直を賜り、崇峻天皇五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と東漢直は筑紫国造磐井の子と記述されるのだから、西には同じ磐井の子の葛子が筑紫君と呼ばれ、その子たちの中に漢直が考えられ、筑紫君は朝廷内で漢王とされていた可能性が高い。
そして漢直は斉明天皇七年五月「人東漢草直足嶋所讒」と出現し、天武天皇六年六月に「詔東漢直等曰汝等黨族之自本犯七不可也是以從小墾田御世至于近江朝常以謀汝等爲事今當朕世將責汝等不可之状以随犯應罪然頓不欲絶漢直之氏故降大恩以原之從今以後若有犯者必入不赦之例」と過去の罪を叱責されこれ以降、『続日本紀』延暦元年に「倭漢忌寸木津吉人等八人言吉人等是阿智使主之後也是以蒙賜忌寸之姓可注倭漢木津忌寸」と倭漢直祖阿知使主の末裔として出現している。
出現しない期間はまさしく天智天皇が皇位に就いた時からで、叱責されたのはおそらく文武天皇6年の王朝奪取後の可能性が高い。
すなわち、『隋書』の「多利思北孤」も『古事記』・『日本書紀』では2代ずれたとすると敏達天皇に当てはめて、『先代旧事本紀』の推古天皇には「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」・「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と敏達天皇の中に用明天皇も含まれているので、『新唐書』の「次用明亦曰目多利思比孤」は敏達天皇と考えてもよく、太子「利歌彌多弗利」を日子人に当てた可能性が高い。
そして、皇極天皇三年正月に「請納蘇我倉山田麻呂長女」と倉山田麻呂長女を妃に迎え、大化五年三月是月に「皇太子妃蘇我造媛聞父大臣爲鹽所斬・・・造媛遂因傷心而致死焉」と妃が死んでいるのに斉明天皇四年に「皇孫建王八歳薨」と死んでから10年後に8歳の皇子が薨じ矛盾している。
さらに、『藤氏家伝』では、「改元爲大化 ・・・抑又此擧 仍拝大錦冠 授内臣 封二千戸」のあと続けて、「白鳳五年 秋八月・・・其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸」と加増し、直後に「俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲」と孝徳天皇が崩じている。
白鳳と白雉の間違いのように見えるが、続けて、「十二年冬十月天皇幸于難波宮」・「十三年春正月御船西征」・「十四年 皇太子攝政」と斉明天皇は7年間の在位で皇極天皇の4年間を併せても11年間で 十四年は矛盾しており、『日本書紀』が出来上がってから記述された文献なのだから、『日本書紀』に従うのが当然なので、『藤氏家伝』は『日本書紀』と対象の天皇が異なる表現をしていると考える方が理にかなっている。
すなわち、誕生は物部王朝推古、乙巳の変は蘇我王朝後崗本白鳳、そして天氏王朝で表現したが、『日本書紀』が常識となっていたため、鎌足の死が56歳の制約で669年死亡としたが、実際は不比等の620年62歳死亡の年齢と藤原賜姓が藤原宮建設時と考えた方が理にかない、692年死亡と私は考えている。

2019年2月8日金曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝1

 『古事記』までは純粋な紀伝体の史書で、どちらかと言えば事典に近かったが、『先代旧事本紀』からは編年体に近い紀伝体の史書となり、著者は馬子なので蘇我氏中心の物部王朝史を記述している。
そして、物部氏は大神を守ってきた家系なのだから首都の宮変遷の記録を持っており、その記録に蘇我氏の男系の先祖の葛城氏・平群・巨勢・蘇我氏の系図を当てはめ、更にその同時代に権力を有していた王の記録を付加し、家系を記述した姿が『先代旧事本紀』である。
しかし、『先代旧事本紀』は『日本書紀』に比べて圧倒的に時事情報が少なく見劣りする史書であるが、推古天皇は現代史で現在の王が統治している宮の歴史で、しかも、記述者自身が統治しているのであるから、詳細に記述することになる。
『先代旧事本紀』の記述方法は、一つの事件を記述するのに、似た事件の記録を流用して記述しており、それは、『古事記』や『日本書紀』の前段階の史書などを踏襲したことによるのだが、『先代旧事本紀』は流用という技法を使い、唐との外交を俀国の蘇因高の説話を流用した。
馬子にとっては、それほど悪意があるわけではなく、古代の常識的方法で記述したのであり、『先代旧事本紀』「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩 卅九年當于泊瀨部天皇五年」と崇峻天皇まで39年間は同じ家系の人たちが統治して宮を遷しただけだと記述している。
推古天皇40歳で天皇即位で36年間在位は考えられず、皇后即位から36年としたが、それでも、皇后に26歳で就くのは高年齢過ぎるので、ある天皇家が39年続いたと考える方が理に適っていて、その推古天皇を593年に遷都した宮に当てはめ、なぜなら、推古天皇は稲目の宮の住人だからだ。
そして、『先代旧事本紀』の皇太子が馬子に書かせたように、「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」と『日本書紀』の記述者が蘇我氏で推古・舒明紀にもこの記述法は適応されて乙巳の変まで記述された。
そして、天武天皇は同じ手法の『日本書紀』と俀国の外交資料や王朝内記録を記述した『日本世記』を記述し、『日本書紀』は推古天皇・舒明天皇(乙巳の変を含む)が記述されていた巻末へ、皇極天皇・天智天皇(白鳳・斉明・天智)、そして天武天皇の大化5年までの664年から699年まで記述した。
天智天皇を分けた理由は、天智天皇が宮を難波・飛鳥浄御原・近江と宮を遷ったからで、その『日本書紀』に舎人親王が藤原宮・平城京を追加し、712年に天皇の璽を手に入れて正式に皇位に就くまでを記述したが、文武天皇は飛鳥浄御原天皇の時に政権を奪取したので、新王朝は697年に文武天皇が成人して中臣家を継いだ時を新王朝元年とさせたのである。
そして、白鳳を白雉として後ろの大化を白雉の前に追加して白鳳すべてが後ろの難波長柄豊崎の岡本宮天皇を3つに別け、皇極天皇の前にあった孝徳天皇即位前紀を皇極天皇の後ろに置き換え『日本世記』の記事を入れ込み時系列の『日本書紀』を完成させた。
大化5年までの後ろの飛鳥浄御原宮を首都とする宮の紀伝体記事だった『日本書紀』なら、矛盾がありながらもそれなりに意味が通る史書であったが、持統天皇11年を697年に指定してしまったために、偶然隋書と唐との外交記事が合致してしまって推古天皇イコール『隋書』「多利思北孤」とされ、男女の違いから「多利思北孤」イコール聖徳太子と後代の歴史家を間違えさせた。
これは、稲目の宮のある場所が首都の時、王が稲目・馬子・推古・多利思北孤・聖徳太子・目・守屋などが存在し、全てまとめて実際は530年代に在位した推古天皇と見做して記述したのである

2019年2月6日水曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝4

 推古天皇は物部氏ではあるが、「蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛 生七男六女・・・其四曰豐御食炊屋姫」と稲目の宮の堅鹽媛の娘でその宮は豊国を支配する王の宮で、稻目は豊国王だったので、豐御食炊屋姫が天皇になるということは豊国を支配する王の宮が「因以奉天皇璽印・・・皇后即天皇位於豐浦宮」と豊国王の浦宮が首都になったということで、それが、倭国の首都であった。
ここで、不明なことがあり、それは、蘇我氏と倭国王の接点で、蘇我氏は近江出身で不遇な立場で、『古事記』大倭根子日子国玖琉「蘇賀石河宿祢者、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等之祖也」と息長氏の祖でもなく、息長田別王・息長帯日売・息長真若中比売の皇子ではあるが豊国や筑紫王ではない。
そして、袁本杼が巨勢氏の跡継ぎとして継体天皇に協力して磐井を破って継体天皇側に引き込んで倭国発祥の地で倭国糟屋郡を手に入れ、その倭国王が息長真手王で、『古事記』袁本杼「娶息長真手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女」と息長氏に婿入りして倭王になったのではないのだろうか。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀「足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮・・・更造齋宮於小山田邑」と 息長帯日売は糟屋郡の猪野皇大神宮の齋王となり、継体天皇元年「次息長眞手王女曰麻績娘子生荳角皇女是侍伊勢大神祠」と、やはり皇女が大神を祀り、欽明天皇二年「堅鹽媛・・・其二曰磐隈皇女初侍祀於伊勢大神」と稲目の宮の姫が大神を祀り、敏達天皇四年「立息長眞手王女廣姫爲皇后・・・押坂彦人大兄皇子」と倭国王の姫廣姫が敏達天皇の皇后になり、彦人・馬子・推古天皇は兄弟で馬子が倭国王の跡取りと考えられる。
そして、崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇 或本云東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘蘇我馬子宿禰女也」と崇峻天皇を殺害したのが筑紫君葛子の分家で倭国王馬子の娘婿の皇子で、敏達天皇も蘇我氏の宮に婿入りしたのである。
そして、630年に豊浦宮から舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍」飛鳥に首都を遷して倭国の首都とし、「改脩理難波大郡及三韓館」と難波を唐の使節を迎えても恥ずかしくないように鴻臚館と同じような施設に改修し、舒明天皇四年「唐國使人高表仁等到干難波津」と唐使節を迎えたが、俀國は昼夜で政務を切り分け問題が無かったが、『旧唐書』「與王子争禮 不宣朝命而還」と倭国は実質天皇の皇太子と最高権力者で倭王の大臣が存在するので、唐が考える礼と倭国が考える礼が異なり、交渉がうまくできなかった。
そのため、大化二年「新羅而使貢質遂罷任那之調」と人質を差し出したが失敗し、任那経営を諦めて、大化三年正月「高麗新羅並遣使貢獻調賦」と、新羅と和解して『旧唐書』「至二十二年 又附新羅奉表 以通起居」と647年に新羅を仲介に唐と国交を再開し、白雉五年「褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物」のように唐と友好関係を築くことができた。
しかし、蘇我氏は『梁書』「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と官位を高句麗から取り入れたり、『古事記』「科賜百済国、若有賢人者貢上・・・即論語十巻・千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」のように百済・高句麗と関係が深く、新羅は倭の攻撃を史書に書いたように、倭ではなく、物部氏・尾張氏日本と友好的であったため、倭と敵対的なのか、658年に百済が滅び、その復興に倭と高句麗が同盟して唐・新羅連合と戦うことになった。
そして、『先代旧事本紀』「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と物部氏の血を引くことで、『日本書紀』皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿。擬大臣位」と紫冠を授かり入鹿が大臣となったと記述しているが、「復呼其弟曰物部大臣」と物部氏でもあるので弟を物部大臣と呼び入鹿は大臣の上司天皇で、その入鹿が664年『日本書紀』天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と薨じ蘇我王朝が崩壊した。

2019年2月4日月曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝3

 そして、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願」と642年から池邊大宮に遷都していた天皇が649年大病し、薬師如来像を造ったが、間に合わず、「丁卯年仕奉」667年に奉納したと記述している。
これも、推古天皇651年死亡と齟齬が無く、『上宮聖徳法王帝説』「上宮聖徳法王 又云法主王 甲午年産 壬午年二月廿二日薨逝也」と622年死亡しているが、もちろん、これは「右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文 即寺造始縁由也」と薬師像光後銘からの説だが、『日本書紀』推古天皇二九年「半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮」と『日本書紀』は621年の薨として矛盾している。
これが、推古616年即位説で調べると、 推古天皇二九年は644年で皇極天皇二年「終與子弟妃妾一時自經倶死也・・・山背大兄王等惣被亡於入鹿・・・棄捨其宮匿深山相也」と643年11月から始まった入鹿と山背大兄との戦いで「有人遥見上宮王等於山中」・「以渠梅野倶而喩燒上宮」と上宮の王と記述している。
山背大兄は宮を捨てて深山に匿れ山背大兄と上宮王の死を記述せず、上宮王の644年薨は十分あり得て、推古天皇の皇太子が聖徳太子なのだから、太子になるとき20歳以上なら推古天皇ではなく聖徳太子が天皇になればよいのだから、推古天皇即位時は20歳未満で、630年に太子で44年は34歳未満で山背大兄は10代である。
そして、7年後に田村皇子と生き延びた山背大兄が皇位を争い、山背大兄が20歳以上で皇位継承権があり、舒明天皇即位前紀「山背大兄亦遣櫻井臣告大臣曰先日之事陳聞耳寧違叔父哉」と蝦夷が山背大兄の叔父、すなわち、蝦夷と聖徳太子が兄弟と呼び、舒明天皇即位前で蝦夷が大臣になる前に大臣と呼んでいるが、これは、2代目の馬子だろう。
『先代旧事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と贄古の子が聖徳太子でその兄弟の鎌媛の夫が入鹿の父として豊浦大臣は義理の叔父で『先代旧事本紀』「守屋・・・弟娣生物部石上 贄古連公」と御井夫人の弟(用明天皇)の子が贄古(聖徳太子)で、嶋大臣と豊浦大臣を同じ人物、豊浦大臣と入鹿を同じにしている。
『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王」は関係ない「薬師像光後銘」を流用し、「叔尼」は稲目には「宿禰」を使用していて宿殿のある宮の王の意味で、馬子の宮が稲目の複数の宮の子で用明も娘婿で稲目の宮で聖徳太子はその子で叔宮にあたり、推古天皇の娘も叔宮の姫だ。
そして、643年推古天皇二八年に「皇太子 嶋大臣共議之録天皇記及國記臣連伴造國造百八十部并公民等本記」と『先代旧事本紀』を創り、推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と649年初代の馬子が薨じ、2代目馬子が大臣となり、『古事記』沼名倉太玉敷「娶息長真手王之女比呂比売命生御子忍坂日子人太子・・・日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と記述されるように、息長氏の皇子が天皇となった。
しかし、『日本書紀』には舒明天皇即位前紀「母曰糠手姫皇女」と田村王が記述されず、母が田村王の舒明天皇と母が糠手姫の舒明天皇が存在し、『藤氏家伝』「及崗本天皇御宇之初 以良家子 簡授錦冠 令嗣宗業 固辭不受 歸去三島之別業 養素丘園 高尚其事 俄而崗本天皇崩 皇后即位」と中臣鎌足が舒明天皇即位時の恩賞を固辞して三島に帰ったが、すぐに崗本天皇が崩じたと記述されている。
この、崗本天皇が孝徳天皇なら鎌足の栄華と合わないので舒明天皇で間違いなく、田村皇子は即位して、俄かに崩御し、馬子の夫人鎌媛大刀自が吉備嶋皇祖母で糠手姫を母に持つ馬子が天皇、蝦夷が皇太子の大臣となった。

2019年2月1日金曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝2

 物部氏は巨勢氏に対抗するためなのか、蘇我氏を見出し、蘇我氏の「広国」王は磐井の戦いで活躍して、崇峻天皇五年「東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘蘇我馬子宿禰女也」と磐井の子の糟屋郡の王を娘婿にして配下としたように、中国に承認された倭国を手に入れ天国倭王になり、臣の棟梁に据えられ、稲目の皇子たちを広国や豊国の王にして巨勢氏も取り込み、馬子の名は「廐戸」説話にピタリの名前で「廐戸豐聰耳」は豊国の皇子の名前である。
「天豐財重日足姫天皇渟中倉太珠敷天皇曾孫押坂彦人大兄皇子孫茅渟王女也」と息長氏の皇子彦人の孫皇極天皇も、「天萬豊日天皇天豐財重日足姫天皇同母弟也」と孝徳天皇も舒明天皇が叔父にあたり、豊の皇子としている。
蘇我氏稲目は欽明天皇十六年「吉備五郡置白猪屯倉」、欽明天皇十七年「備前兒嶋郡置屯倉」・「倭國高市郡置韓人大身狹屯倉」・「紀國置海部屯倉」、馬子も敏達天皇三年「吉備國増益白猪屯倉與田部」と巨勢氏の領地だった地域に影響力を持ったようだ。
そして、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年に馬子が「押坂彦人大兄皇子」が、もちろん彦人は押坂の生まれで、用明天皇二年「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之俄而知事難濟歸附彦人皇子於水派宮」と水派宮に遷ると決め、まだ、遷っていない時、しかも、彦人は立太子していないので、大王年なのだから、皇太子になった、すなわち、彦人の父が天皇になった623年に馬子がお祝いに鏡を作らせた。
そして、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「速往誅殺穴穗部皇子與宅部皇子」と彦人が大王になった年に薨じた皇子は穴穗部皇子で穴穗部皇子は彦人の前の皇太子だったのであり、『先代旧事本紀』には「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為」と用明天皇在位の2年間は敏達天皇に含まれている。
ここで、推古天皇はいつ即位したかを考えると、推古天皇十六年「皇帝問倭皇使人長吏大禮蘓因高等至具懷・・・饗唐客等於朝」と唐使裴世清が妹子親書の返礼で来日しているが、631年『旧唐書』貞觀五年「遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」に対応する記事だ。
『隋書』大業三年「・・・明年上遣文林郎裴清使于俀國」と608年記事では妹子の年齢に矛盾があり、相手国は唐で俀國ではなく倭国宛ての親書とこれも矛盾しており、おそらく、『隋書』を参照して『日本書紀』を記述した結果だと思われ、すなわち、推古16年は631年と解り、推古天皇が皇后になったのが616年、崩が651年だったということだ。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺」と守屋との戦いで宣言し、崇峻天皇元年「始作法興寺此地名飛鳥眞神原亦名飛鳥苫田」と創建した飛鳥寺の下層に須恵器が発掘されたが、この土器を基準に590年頃から須恵器の型が変わったとされる。
しかし、この土器を作った窯の基礎工事で使用した木片が613年以降に切り出した木片で、この窯から隋様式の硯が出土し、590年飛鳥寺創建は有り得ず、630年創建が正しいと思われる。
さらに、『船王後墓誌』「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇・・・三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑 」と船王は敏達天皇四年「遂營宮於譯語田」と敏達天皇時に生まれ、池邊雙槻宮・倉梯宮のころは子供で仕えず、推古天皇即位前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」から皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」まで仕え、641年薨じた。
この年が「阿須迦天皇之末」と墓誌に記述していて、皇極天皇二年643年遷都ではなく、641年まで阿須迦宮、628年まで等由羅宮、624年まで乎娑陀宮で池邊雙槻宮・倉梯宮は無かった可能性がある。