2018年11月30日金曜日

最終兵器の聖典 欠史8代神倭地祇王朝3

 それでは、紀元前660年に宮を築いた人たちがどんな人々かを考えるとき、1つの取っ掛かりがあり、それは『先代旧事本紀』「左手持白銅鏡則有化出之神是謂大日孁尊」で物部氏の大神は銅鏡を王者の璽としていて、『日本書紀』「天香山之五百箇眞坂樹 而上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡。一云眞經津鏡。」と天の岩戸説話で使い、『古事記』「八尺勾璁・鏡及草那芸釼」も同様だ。
勿論八尺もある鏡ではなく「八」国の1尺の鏡の意味で、全ての史書が鏡を王権の璽としているが、神武天皇建国時に鏡が出てくるのは、『先代旧事本紀』神武二年「八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治」だけで、『日本書紀』崇神天皇六〇年「出雲人祭。眞種之甘美鏡」、景行天皇十二年「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊」、『古事記』品陀和気命「貢上横刀及大鏡」と『日本書紀』・『古事記』の神武記紀に全く出てこない。
しかも、天皇が持っているものではなく他国の持ち物や贈り物で、『古事記』『日本書紀』では重要な宝物ではないということで、『古事記』・『日本書紀』の神武天皇は鏡を持って大和に入ってこなかった、しかも、生駒近辺を鵄と呼んでいた時代に鏡を持たない『日本書紀』の神武天皇は建国したということだ。
そして、生駒近辺を鵄と呼んだ時代の神武天皇は、都味齒八重事代主の親で、建御名方を諏訪に追い出した大巳貴の可能性が高く、『先代旧事本紀』に「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社 次須勢理姫神 大三輪大神嫡后」とおそらく、須勢理姫が兄倉下建御名方の弟の弟倉下を婿入りさせ、すなわち、大巳貴が入り婿となって弟倉下と呼ばれたことを示し、『日本書紀』神武天皇元年「太立宮柱於底磐之根」と『先代旧事本紀』「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱」と同じことを述べ、この時が紀元前660年だった可能性が高い。
一方、物部氏は『先代旧事本紀』「採天金山之銅令鑄造日矛此鏡少不全」と鏡や矛を作り、「天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔・・・」と王者の璽を作り、「宇摩志麻治命先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶十種」と饒速日から宇摩志麻治に璽を引き渡し、「棒天璽鏡劔奉正安殿」と神武天皇の宮殿に飾られた。
すなわち、饒速日の神武東侵は鏡や劔を持って侵略しており、その鏡が大和に出土、「多紐文鏡」が大和に出土して紀元前200年頃のものとされ、同時に銅鐸も出土しており、銅鐸はそれよりも早いということから、大巳貴の王朝の象徴だったことが解る。
それに対する多紐文鏡は中国遼寧省や沿海州・朝鮮に多数見つかり、『遼史』の蓋州→辰洲の領域に重なり、銅鐸は2世紀頃に埋められており、銅鐸の後三角縁神獣鏡が大量に出土し、おそらく、銅鐸を鋳つぶして三角縁神獣鏡を作成したのが原因と考えられ、同じように、日本では多紐文鏡が鋳つぶされて銅鐸にされたと考えられる。
三角縁神獣鏡をあれほどたくさん作成する人々が、出雲の大量な銅鐸・銅矛出土をさせる人々が、数枚の多紐文鏡で済ますことは有り得ない。
『日本書紀』の欠史8代は「天皇即帝位於橿原宮」の初代を含めて「都葛城。是謂高丘宮」「片鹽。是謂浮孔宮」「輕地。是謂曲峽宮」「掖上。是謂池心宮」「室地。是謂秋津嶋宮」「黒田。是謂廬戸宮」「輕地。是謂境原宮」「春日之地。是謂率川宮」は大神倭神に大巳貴を合祀し、初代大巳貴が兄倉下建御名方の須勢理姫を妃として弟倉下となり、須勢理姫の子は高倉下「武」氏として東鯷国を建国した。
大和周辺の神倭王朝、辰国(大国)も手に入れた大倭王朝と続き、『先代旧事本紀』「素戔烏尊帥其子五十猛神降於新羅曽尸茂梨」と銅鏡を持った素戔烏は多紐文鏡を出土する国新羅に渡り、『後漢書』「一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰・・・皆古之辰國也。馬韓最大」とまさに後漢以前の韓地を述べ大人国の後裔辰国が衰退し大倭王朝がとってかわった内容である。

2018年11月28日水曜日

最終兵器の聖典 欠史8代神倭地祇王朝2

 「火火出見」の神武天皇は中国の冊封体制に組み入れられていて、漢が元号を始め、既に漢字を覚えていたのでその元号に合わせて資料を作り始めたが、残念ながらその王名はほとんど残っていない。
暦を作った関東にある「羲和之国」を領有した国とは異なるかも知れないがその地域を含む銅鐸を作成する「君子国・大人国」の末裔は周の干支を含んだ太陰暦を当然理解しており、出雲には硯も出土するように文字先進国である。
『先代旧事本紀』の「大歳辛酉正月庚辰朔天孫磐余彦尊都橿原宮」と宮名が「橿原宮」かは不明だが紀元前660年に宮を作り、「元年庚辰春正月壬申朔已卯神渟名川耳尊即天皇位都是葛城謂高丘宮」と紀元前581年に高丘宮に宮を遷した。
『日本書紀』に安寧天皇は「廿五年春正月壬午朔戊子。立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子。」と綏靖天皇25年に皇太子になり、「卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四。」と綏靖天皇33年崩、そして、「卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七。」と安寧天皇が38年統治して57歳で崩じた。
すなわち、安寧天皇は即位年齢19歳、立太子は11歳だが安寧天皇前紀に「天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一」と10歳違い、安寧天皇「十一年春正月壬戌朔。立大日本彦耜友尊爲皇太子也」と立太子が21歳なら29歳で安寧天皇即位で40歳立太子で67歳崩と当然どちらも矛盾する。
一番矛盾の無い推定が、数え21歳満年齢20歳即位、数え38年満37年(38年目は次王の元年)なら57歳崩で辻褄が合い、立太子イコール天皇即位で独立していない皇太弟がいたが安寧天皇11年皇太弟が薨じ、立太子年齢は応神天皇を除いて全て13歳以上で皇太子適合年齢の皇子もいなかったため大日本彦耜友が皇太子イコール天皇になったという推定だ。
そして、その立太子イコール天皇即位の決まりは倭国の決まりと推定されたが、その決まりは倭国だけではなく大和にある国も同じと考えるのが普通の考え方で、立太子は倭国だが、残りの年数が不明になるが、これは簡単で、立太子は別王朝の話なのだから考えなければよく、天皇の即位から次の天皇即位の前年まで同一の宮が続き、天皇が変わった時は長男や長女ではない人物が皇位に就き宮も変わった、宮が天皇そのものということだ。
天皇の即位の日干支が正確なのだから、生きた天皇ではないが天皇と見做した宮自体が続いた年数が即位期間で、天皇が統治していない期間を含めたものが天皇の年齢となったと考えられる。
したがって、「七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。」と神武天皇の宮橿原宮は紀元前660年から76年間橿原宮で統治され、『古事記』「日子穂ゝ手見命者、坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と高千穂宮が580年続いたように、更に51年間その宮は残ったということを示している。
同様に、『先代旧事本紀』に記述される、紀元前548年の「浮穴宮」、紀元前510年の「典峽宮」、紀元前475年の「池心宮」、紀元前392年の「秋津嶋宮」、紀元前290年の「廬戸宮」、紀元前214年の「境原宮」、紀元前157年の「率川宮」、紀元前97年の「瑞籬宮」、紀元前29年の「珠城宮」、「日代宮」、「次天忍立命 纏向神主等祖 次萬魂尊 兒天剛風命 高宮神主等祖」と神国が続く。
尾張氏に神国を滅ぼされたのが『日本書紀』の紀元前25年「垂仁天皇五年 冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮 時天皇枕皇后膝而晝寢」の狹穗彦の事件で、垂仁天皇が高宮に居た、すなわち高宮を祀る人物だ。
垂仁天皇が寝ていた場所が『日本書紀』に「更都於纒向」と纏向の高宮で、高皇産霊尊の末裔がこの時の宮の纏向神主、高宮神主で、纏向遺跡には各地から弥生土器が集まってきて、卑弥呼の時代まで続き、230年の測定結果をもつ桃の種が出土しているので、西暦230年頃まで続いたことを示している。

2018年11月26日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 神倭地祇王朝1

 有史時代は大彦の戦いから始まり、『日本書紀』孝元天皇即位前紀「母曰細媛命。磯城縣主大目之女也」と父孝霊天皇が磯城彦の娘婿の孫大彦と『日本書紀』「河内青玉繋女埴安媛生武埴安彦命」と河内の王武埴安、武埴安はまさに『日本書紀』神武東侵「膽駒山而入中洲。時長髄彦」と膽駒山の大阪湾側は河内で長髄彦も河内の人物で大彦と兄弟だ。
孝霊天皇の義父が磯城縣主大目・磯城彦なら孝霊天皇も磯城彦で、大彦の父孝元天皇も磯城彦、武埴安は兄磯城、磯城彦を襲名するのは当然で弟大彦は弟磯城で、『先代旧事本紀』「饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姫爲妃誕生宇摩志麻治」と大彦の説話は宇摩志麻治天皇の磯城彦の説話である。
そして、それを命じたのが『先代旧事本紀』「㝹田高倉山之巔瞻望域中時國見兵上有八十梟帥」と高倉山から磯城彦の領地を見下ろした『先代旧事本紀』「天香語山命 天降名手栗彦命 亦云髙倉下命」と髙倉下・香語山で、『日本書紀』「號曰熊野高倉下」「武甕雷神登謂高倉下」と熊野の住民で武甕雷を祀るやはり「たけ」氏である。
すなわち、もう一人の弟磯城、兄弟倉下の戦いでもあり、『日本書紀』の神武天皇は尾張「武」氏の大和侵略でもあり、大彦の戦いは尾張氏の内紛で、高見の見物をしたのは、義兄弟の宇摩志麻治で、この時「宇摩志麻治命奉齋殿内於天璽瑞寶奉爲帝后崇」と天皇の璽を持っていたのは宇摩志麻治である。
そして、『先代旧事本紀』「宇摩志麻治命天日方奇日方命倶拜申食國政大夫其申食國政大夫者今之大連亦云大臣也」と記述するように、宇摩志麻治と天日方奇日方の共同統治で、『先代旧事本紀』「天日方奇日方命者皇后之兄大神君祖」と記述するように、饒速日と長髓彦の関係で『先代旧事本紀』の神武天皇は饒速日のことだと述べいる。
天日方奇日方長髓彦は建御名方の父「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社」と三輪神に重ねた大己貴の孫で、「三世孫天日方奇日方・・・四世孫建飯勝・・・五代孫建甕尻・・・六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命・・・七世孫大御氣主・・・八世孫阿田賀田須・・・次建飯賀田須・・・九世孫大田田祢古命 亦名大直祢古命」という系図だ。
天日方奇日方の子が「たけ」氏の氏を得、大田田祢古を探さなければならなかったのは6世豊御氣主から建氏の傍流になったからのようで、大田田祢古は大直祢古すなわち大直根子で大倭根子と同等の地位で大彦より下位である。
さらに、「たけ」氏を羸津世襲の兄弟が『先代旧事本紀』「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖・・・次建額赤」と「たけ」氏を名乗り始める。
系図は前にも書いたが、同じ宮の直系の相続者は同じ世代で天日方奇日方は何代も存在し、しかも、女系が原則であるので、兄弟は義兄弟も兄弟で義理の従弟であっても兄弟になり得る。
大国の嫡男以外の皇子は大和の姫に婿入りして、その子たちは土地の氏とお国からの氏を名乗ることになるので、大巳貴は大国の王だが、各地を侵略して、そこの土地の姫と婚姻して子ができると都味齒八重事代主と「とみ」氏を名乗る。
「都味」すなわち『古事記』「登美能那賀須泥毘古」の「登美」で、『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年「皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑。今云鳥見。是訛也」と神武が侵略したところは、まだ「とび」と呼ばれていて、この説話は大巳貴の侵略説話で、鵄邑の名前を付け、神武侵略時には鳥見と呼ばれ、饒速日は「有乘天磐船飛降者」と飛び降りたとしているが、鵄に降ったということかもしれない。

2018年11月23日金曜日

最終兵器の聖典  有史時代・・・序

 前項は倭国に関して述べてきたが、邪馬台国論争は新井白石(1725年死亡)が「古史通或問」(1716年) において奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いたことに始まった。
国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」(1796年)において、九州の熊襲による偽僭説を提唱し、崇拝する天皇家の先祖を冒涜した。
すなわち、大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫にあった小国で神功皇后・卑弥呼の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。
それから、長きにわたって邪馬台国論争を続けてきたが、所詮、「やまと」という字面のみから発生した名目論争で、「やまと」と似通った地名など掃いて捨てるほど存在し、世界中を探せば無数にあることが解っているのに、只々大和に持ってきたいがための初めに結論有りきの論争に過ぎなかった。
そのため、中国資料も『日本書紀』も合うはずが無く、嘘だ間違いだと偽書扱いだったが、私の分析で全てが間違いと言えないことを証明、邪馬台国は『日本書紀』が言う通り香椎宮に有ったことを証明、倭国は九州の筑紫大君の国で「古田九州王朝説」のような大国ではなく小国だったと証明した。
そして、日本は5千年以上前の『山海經』に出てくる君子国や大人国が始まりで、18年9月に丸木を彫ってできた船のみ海流を渡れたことを証明したニュースが有ったように、私が論じる天草周辺の倭国・山陰地方の大人国・北陸東海の君子国が共に船の出土する遺跡を持ちそれらの国が会稽・沖縄から北海道まで交流したと論じた私の理論を証明した。
ニュースのように「国立科学博物館などのプロジェクト」が述べる3万年前は本当に丸木舟が出来たか眉唾、後年台湾に出土するアンダーソン土器が沖縄に見つかったと聞いていないので、台湾に丸木舟が有ったか疑問で、一万数千年前なら、栫ヶ原出土の丸ノミ磨製石器が有り丸木舟を作成可能だ。
そして、大人国は事代主が支配した国、君子国は建御名方の支配した国と考えられ、神話で大巳貴が二神を追い出したのが最初の国譲り神話で、『先代旧事本紀』には「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社」と記述している。
そして、その三輪山の地の王だったのが武埴安で建御名方と漢字は異なるが神話の時代は漢字などないので、ひらがななら同姓で、弟の大彦が打ち破って物部氏の王朝が始まったと述べた。
大彦は弟宇迦であり、弟倉下であり、弟磯城でもあり、更に、磯城彦・葛城彦・羸津世襲でもあり、多くの初代の天皇の片腕の配下となったが、実際は別人で、それと同じくらいの神武天皇が存在した。
弟宇迦の上司の神武天皇の大巳貴・大国主・火瓊々杵の三人は「底津石根宮柱」を建ててもらい、更に、火火出見・狭野・若御毛沼・豐御毛沼などが神武天皇に当たる。
神武天皇が4人いたように、その他の天皇も複数の天皇が存在し、大臣・大連・大彦をはじめ、耳・首・主・造にも大が付いた王権があったと考えられ、『隋書』でタリシヒコは大王(大君)と呼ばれていて、王と君は共にキミで漢字の当てはめの違いだ。
神々の中で国々の中の中心国の大国の神が大神となった前例から使ったと考えられ、大神も・大宮も大社も大殿も同じ用例で、天皇も大臣・大連・大君(大王)の中の一人の最上位の人で大天皇は存在しない。
大人国の大人も倭語の「おおひと」を中国人が大人に字をあて、極東の標準文字の漢字を日本側が受け入れたことは大いに考えられる。

2018年11月21日水曜日

最終兵器の聖典  漢字輸入

  開化天皇の子供に「次妃和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と王の地位を与えたということは、開化天皇が王の中の王・宗教の王・天皇になり、勿論この時期は天皇ではなくおそらく『日本書紀』の「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇」のように聖皇と呼ばれ、和名宿祢と記述されたようだ。
聖王は新羅の王子が日本の王を自発的に聖王と呼んだはずが無く、日本の王が日本で呼ばれていたと考えるのが妥当で、この時、日本では漢字を理解していたと言える。
『二中歴』という所謂九州年号が書かれている書物があり、年代暦の書き出しは「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と「継体年号の前に記述されている。
そして、「継体五年 元丁酉」から「大化六年 乙未」と元号を並べ、その後「已上百八十四年々号丗一代?(不)記年号只有人傳言自大宝始立年号而巳」と記述されてから「大宝年号」に続いている。
継体元年から184年間元号が続いたとしていて記述と相違がないけれど、書き出しの569年間のうち39年間は「結縄刻木」で知らしめしたように書いているが、「明要 ?(十)一年 元辛酉 文書始出来結縄刻木??(止了)」とあり、 明要11年終了でも35年間しかたっていなくて39年と一致しない。
すなわち、書き出しの569年間は継体元年以前のことで、紀元前53年から年号が始まり、最初は漢字を民衆が理解できないから元号はなく、干支を「結縄刻木」で布告したが、紀元前15年から漢字で干支と元号も布告して、「結縄刻木」は西暦551年頃まで続き、元号を木に刻んでいたが、551年以降は交付する「文書」を使ったことを意味する。
紙の代用品は『梁書』「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云・・・有文字 以扶桑皮爲紙」と499年には扶桑皮に文字を書いていて、弥生時代には硯が出土していて、硯が輸入されて文字を輸入しないとは思えないし、竹は紀元前3000年ころに、網代編みの籠の圧痕が粘土に残っているので、中国を真似て竹簡を作れる。
すなわち、地方ではこの時も漢字ではなく「結縄刻木」やそれに代わる所謂神代文字が使われていて、神代文字そのままをネットに上げているか解らないが、どう見ても天や日など多数の漢字を知っている内容で、本来、天は海人・漁師の意味、日は火の意味で、『日本書紀』などを読んで、その地方の歴史を漢字で書き、地方の人々が解るように地方の言葉と神代文字に翻訳しただけだと思われる。
話を戻して、元号が紀元前から有った証拠が『日本書紀』に景行天皇元年「元年秋七月己巳朔卯己卯 太子即天皇位 因以改元」と西暦71年に改元していて、これは、西暦71年以前に天皇が元号を布告していたことを意味する。
『先代旧事本紀』に「年記御神 兒大香山戸神・・・次冬記若室葛󠄀根神」と饒速日が大和に侵入する以前から「結縄刻木」に干支を記す行為を行う人物がいて、それが「辛酉年春正月庚辰朔」の建国日の記述(刻木からの書写)となった。
新羅の王子が新羅では王のことを「尼師今」などと呼び、王子は自ら「于斯岐阿利叱智于岐」・于岐と理解しつつ、「聖王・聖皇」と書き、文字が一定しないということは「せいおう」と呼ばれ、日本語なら「聖君」を使うべきで漢字の知識の上の言葉である。
また、『後漢書』「馬韓・・・諸國邑各以一人主祭天神,號為天君」と後漢の時代には朝鮮人も日本人の海人を天と表記して極東の標準語になっており、前漢時代に日本が漢字を移入し、海人を天と書くようになったことを示している。
すなわち、少なくとも紀元前5年には漢字を理解し、元号を漢字で書き、太陽を「日」、宇宙の概念を覚えて『山海經』「朝陽之谷,神曰天吳」から「天」を輸入し、「火を知る」王の聖王・聖皇、太陽の運行を知る天皇という言葉を発明したと思われる。

2018年11月19日月曜日

最終兵器の聖典  里単位

 ここで、中国史書の里単位を確認するが、一般に1里は現在中国では500mだそうで、日本が4Km、朝鮮が400mで、中国古代も朝鮮と同じく400mと言われ古代の中国の単位が現代でも朝鮮でいきづいているが、日本では8世紀頃の曲尺が若干短いので500m余だった。
後に1時間に歩く距離を1里としたが、まさしく『隋書』の「夷人不知里數但計以日」と中国の里単位を知らないから日数で距離を測ると記述しているが、この記述が影響したのだろうか。
そして、『隋書』は「其國境東西五月行南北三月行各至於海」と記述しているが、長崎県平戸から千葉県銚子までナビで距離を測ると約1500Km、南北は測れないため屋久島から佐渡ヶ島を同経度で測ると900Km程度で一月300Km、おそらく、重い荷物を担いだ日程なのだろう。
さらに、『三国志』「東行至不彌國百里・・・南至投馬國、水行二十曰」と不彌国から投馬国間 水行二十曰とあるが、不彌国を志賀島で投馬国を枕崎市として沿岸水行(壱岐・唐津間の直線距離は40Kmと短く沿岸水行なら50Kmとなる)すると約630Kmで水行十曰300Km程度で『三国志』「女王之所都、水行十日、陸行一月」「自郡至女王國、萬二千餘里」、すなわち、 萬二千餘里は600Kmで一里50mである。
先に書いたとおり、壱岐の面積138.6㎢で壱岐を円形とすると直径13.28Kmで「至一大國・・・方可三百里」と直径三百里なので一里44m、実際に壱岐勝本浦から印通寺浦まで16.5Kmで一里50.5㎝と正しく、ここでもまた、一里50mが証明された。
そして、方三百里は三百里の正方形に収まる最長三百里の意味で、古田氏が言う半周六百里なら水行で陸行していないことになってしまうことを述べたが、「末廬國 有四千餘戸濱山海居 草木茂盛行不見前人」と 末廬国が浜辺や海上に住み陸地内は草木が茂って歩けないと、領内陸行していないのに対し、「對馬國・・・土地山險、多深林、道路如禽鹿徑」・「一大國・・・多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」と領内を記録している。
海路の一点航行だと250Kmで100Km長くて距離が合わず、やはり、国境間最短ルートを使い、領内を陸行していないと辻褄が合わない。
ここで、魏使は船行なら二十日でこれたものを四十日もかけて来倭したのは不思議なのだが、距離の記述が国境間だったことから、領内は末廬国を除いて必ず歩行と言うことが解り、すなわち「 陸行一月」はすべて倭国領内で、水行の残り150Kmは倭地ではない、陸行の残り150Kmは韓地の倭領だと考えられる。
そして、『三国志』「南有狗奴國 男子爲王其官有狗古智卑狗 不屬女王」と邪馬台国の南は倭国ではないから南の投馬国は水行で記述していると考えられる。
この項で、最初に『隋書』を持ち出し、倭人は里数を知らないことを述べたが、同時代の史書『梁書』、隋朝の前の王朝の史書には里数が出てきて、日本人僧が『梁書』「説云 扶桑在大漢國東二萬餘里」と述べていて、カナダに有るというのだから、確かに日本人は里数を知らないと言われても仕方がない。
しかし、日本人が一里50mを使っていることを自覚していて、日本人は二千五百里と魏の里単位で言ったのであって、『梁書』の筆者は日本人が八分の一の短い里単位を使っていることを知っているので、日本人が述べた二千五百里を日本人は8倍した「二萬餘里」で使用させていると解釈した。
すなわち、日本人僧は大漢国の東125Kmに扶桑国があると述べていたのであって、「文身國 在倭國東北七千餘里」も約九百里45Km、「大漢國 在文身國東五千餘里」も約六百里30Kmと考えられ、倭国から45Kmの倭国糟屋郡の東北にある文身国の国境は北九州市で『山海經』の三身国と呼ばれた九州の分国のような名前で、大漢国国境は周防、扶桑国の国境は吉備と想定される。
文身国が後の倭国で糟屋の屯倉を得た国、大漢国が安芸から熊襲征伐に出陣した本拠で広国すなわち「廣國押武金日・武小廣國押盾」の広国で、蘇我氏は東漢直駒の義父で安芸の皇子かもしれず、吉備は『日本書紀』に臣下として出現する旧日本の本体に含まれ、梁建国時の500年代初頭の状況だ。
隋朝は『隋書』「上遣文林郎裴淸使於俀国」と裴清が来日していて、実際に距離をしり、「 夷人不知里數但計以日」と倭人は里数を知らない、すなわち中国の里単位を知らないから、日数でしか図ることができないから、『梁書』の里数は全くの間違いと記述したのである。
そして、『旧唐書』「去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行」と長安から一萬四千里5600Km若干距離が長い気がするが、実際の道程とすればこの程度は有るかと思われ、日程の東西五月、南北三月は『隋書』と同じで、『隋書』は俀国と倭国と秦王国を含めた領域を俀国伝で記述していて、その三国を併せた領域が東西五月南北三月ということだ。

2018年11月16日金曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国8

 すなわち、664年から新しい宮に皇極・孝徳天皇が遷ったが、共に岡本宮天皇と呼ばれるのだから舒明天皇と同じ難波京で即位したようだ。
『藤氏家伝』「十四年 皇太子攝政」と552年に即位し白雉を建元した天皇14年が665年で、『舊唐書』665年「麟德二年 封泰山仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と天皇が中国へ、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と667年には天皇が病気で665年から667年まで天皇が成務を行えず、天智天皇が摂政として代行し、『日本書紀』天智天皇七年「皇太子即天皇位 或本云六年歳次丁卯三月即位」と668年に即位した。
『日本書紀』皇極天皇四年「譲位於輕皇子。立中大兄爲皇太子」は664年のことが証明され、『日本書紀』推古天皇元年593年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」から664年まで「太子為利歌彌多弗利」の宮が筑紫君の宮で「太子為利歌彌多弗利」の長男押坂彦人大兄その長男茅渟王その長男、押坂彦人の義父息長眞手王は息長足日廣額天皇の氏族すなわち皇極天皇と蝦夷は親類関係で、押坂彦人の父の敏達天皇は蘇我馬子の父稲目の可能性がある。
すなわち、氣長足姫(神功皇后) の子誉田別(応神) ・稚野毛二派(子)・意富富杼(二世孫)・乎非(三世孫)・彦主人(四世孫)・意富富杼(五世孫)が蘇我氏の継体で、阿豆が天國排開廣庭(稲目)、真手が橘豐日(馬子)、息長足日廣額と息長氏の家系で、泊瀬部・渟中倉太珠敷は馬子の義兄弟で物部氏、武小廣國押盾・勾大兄廣國押武金日は稲目の義兄弟の可能性が高い。
馬子の娘婿が磐井の子の東漢直駒なのだから、馬子の宮が糟屋郡や豊に有った可能性があり豐日の名前は十分あり得るし、蘇我氏の応神六世の孫の広国の王継体阿豆が継体・筑紫連合軍に勝利して、豊と天国糟屋郡を得て息子稲目が天國排開廣庭の官名を得たと考えれば辻褄が合う。
更に、『古事記』・『日本書紀』の継体天皇は馬子たちが記述しているので、応神天皇は葛城氏の応神天皇4世紀後半の武内大臣の可能性が高く、 『古事記』応神記「息長真若中比売、生御子、若沼毛二俣王」と真若中比売が氣長足姫の正統の後継者でその血統が息長足日廣額に引き継がれた。
もちろん、これらの人物は宮の名前で、一人で複数遷ったり、一代に複数人の長男相続が有ったのは当然で、息長足日廣額は651年から664年までの蝦夷と661年から664年までの入鹿が一代で、馬子も皇太子の馬子と大臣馬子が存在し、「厩戸豐聰耳」豊の地の王で厩で生まれたから馬子とよく合い、嶋大臣の子で別名馬子太子(いわゆる聖徳太子)で、太子死亡で『先代旧事本紀』の執筆を中止した。
『新唐書』では日本のことを「更以天皇爲號徙治大和州」と大和で天皇を号した日本が始まり、「次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通」と多利思比孤の時に初めて中国と通じたのであり、それ以前の中国との交流は日本との交流ではなかったと述べている。
「日本古倭奴也」と古い時代の倭国の交流を認めながらも、それは、現在の日本ではなく、文化交流は有ったが正式に貢献していない扶桑国・秦王国を滅ぼして大和に建国した倭国でもない、俀国の末裔の国が現在の日本だと述べているのであり、それ以前の倭奴は現在の日本と別国の国だったということだ。
『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』と『三海經』から『新唐書』までの中国史書などの海外史書と齟齬が無く、現代叫ばれている偽書・造作・間違い扱いは当該外れの論理だということがよく解り、現天皇家の王朝は紀元前200年頃からで六合に住む倭の歴史は7千年以上前のアカホヤ噴火から始まり、倭人は南九州に1万年以上前から轟土器につながる土器を作成していた人々から始まった。

2018年11月14日水曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国7

 そして、593年火中君の子の兄弟が新しい宮で即位し、『隋書』「多利思北孤」が兄、弟の太子『隋書』「太子為利歌彌多弗利」で、兄は『隋書』「國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云」と隋の天子に対抗して自ら帝号をつけて「法興」帝とし、弟の太子も実質天子なので「聖徳」帝と呼んだかもしれない(聖徳帝は馬子の可能性もある)。
法興を九州年号の1つと主張する人々がいるが、九州年号と言っても痕跡は九州だけでなく全国に広がり、『日本書紀』に白雉・朱鳥・大化が『続日本紀』神亀元年「白鳳以來。朱雀以前」と複数の年号が王朝が変わっても記述された。
すなわち、九州王朝のものだから隠されたなどと言うのは当たらなく、白雉や朱鳥は書いた王朝が制定したから華々しく書いただけで、隠したわけでもなく、王朝が違うだけで日本国天皇が制定した年号で、その年号が同年代に重複することは無い。
また、利歌彌多弗利は出家して『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇」これは天皇の皇ではなくおそらく皇帝の皇で、母は「鬼前太后」で妃が「干食王后」で大王の妻を『隋書』「王妻號雞彌」と大王后も王だとわかり、天皇も同じで天皇の母は太皇、政治に携われば皇祖母、天皇の妃は天皇后、皇太子も大王、姫も皇子も王で大王の母や大王の祖母である太王が一番偉いことがここでもわかる。
そして、最後の筑紫君は薩夜麻で、『日本書紀』持統四年「天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。」、天智天皇一〇年「對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」と天智3年と10年と年数が異なる。
同行3人の違いは「博麻謂土師富杼等曰」と天智三年に日本に帰国する富杼等の船に博麻が身を売って4人を同乗させてもらったことを記述しているからで、天智紀を書いた天武天皇が理解している天智10年は実際は異なる王の10年すなわち、孝徳天皇の白雉・大化を加えた年数で、地の文で書かれた天智三年664年のことを記述している。
664年は『日本書紀』天智天皇三年「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物。」と初めて来日し、この時なら、初めて戦争相手の国を訪問するのだから、敵に対する防備に六百人と諍いが起こらないように水先案内人が必要で良く合致する。
さらに、『藤氏家伝』に「十四年 皇太子攝政」と斉明天皇は7年間しかないのに十四年とし、「後崗本天皇四年歳次乙巳」と乙巳の変が起こり、直後に「白鳳五年 秋八月 詔曰 尚道任賢 先王彜則 褒功報德 聖人格言 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸」と665年の記事で白鳳年号は後崗本天皇が制定した年号と解る。
そして、『日本書紀』天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と蘇我大臣が薨ずるが、『先代旧事本紀』「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」豊浦大臣は入鹿連すなわち「蘇我入鹿連豊浦大臣」ということで、蝦夷は664年に死亡で、乙巳の変は664年に起こった。
670年日本国に改名した王は天智天皇で俀国王筑紫君の皇太子で、王朝を奪ったのは664年で、その時の筑紫君は薩夜麻で、帯刀して後から入ってきたのは入鹿で薩夜麻は「恐近天皇。不覺流汗」と怖気づくだけで、『藤氏家伝』白鳳5年に続けて「俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦 悉以庶務 委皇太子 皇太子毎事諮決」と高徳天皇が急死したので、皇祖母が天智天皇に摂政を命じたと記述している。

2018年11月12日月曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国6

 史書には倭国王を筑紫君と呼び、『隋書』では大君と呼ばれているが、中臣氏の系図を見ると、中臣烏賊津使主が大臣、中臣勝海連が大連を名乗ったようで、中央では臣や連でも地元では大臣・大連と自称しており、『筑後國風土記逸文』「縣南二里,有筑紫君磐井之墓」と君でも地元では自称大君と呼び、部下にも大君と呼ばせ、「君が代」も「王の代」で「天皇の代」ではない。
そして、磐井の宮は494年から553年まで続いていて、『梁書』天監元年502年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と武の時代が含まれ、武は『南齊書』建元元年479年「倭王武號爲鎮東大將軍」と記述され、この王朝は478年から始まっているので、武・磐井・葛子三代以上が長男相続を行った。
そして、『日本書紀』応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主」、応神41年「阿知使主等・・・今在筑紫國御使君之祖支。」と安康天皇までを書いた510年頃までの時代に、『先代旧事本紀』雄略「東漢掬直曰大泊瀨天皇之遺・・・軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺」と漢直という氏姓ができ、その祖阿知使主が連れてきた宗像に住む工人は筑紫大君の支配で、『日本書紀』崇峻天皇五年「東漢直駒東漢直磐井子也。」と賛に東漢直を授与して磐井は筑紫君、長男葛子も筑紫君で次男が東漢直、三男が倭漢直の氏姓を得たということだ。
『古事記』にも「漢直之祖、及知醸酒人、名仁番、亦名須ゝ許理等参渡来也故、是須ゝ許理、醸大御酒以献」と渡来の酒を献上して、須ゝ許理は賛の父と思われる。
日本側にとって筑紫君は歴史的な敵国中国の配下で、日本側の現在呼んでいる呉にたいして漢を使って、また筑紫君自ら将軍位を授与され『漢委奴国王』から倭の漢の配下の王を自負し西の漢に対する東の漢とした可能性もある。
そして、東漢直は元々糟屋王で戦いに敗れて糟屋屯倉とともに蘇我氏の配下となり、『日本書紀』崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇。或本云。東漢直駒東漢直磐井子也。」と馬子の命令で崇峻天皇を暗殺した。
「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻。河上娘。蘇我馬子宿禰女也。」と馬子の娘を隠れて強奪と記述するが、崇峻紀を記述しているのは馬子で、しかも、 河上娘は馬子の宮に住んで、駒が通ってきているのだから常識として知らないはずがなく、言い訳で、どのみち、馬子の天下なのだから何を言われても気にもしないだろう。
継体天皇二五年531年の敗戦により筑紫本体の俀国と倭国発生地糟屋郡の倭国が分裂し、俀国は『日本書紀』欽明天皇十七年「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」と記述されるように、欽明天皇十五年554年葛子の次男火君が新しい宮で立太子、さらに、568年火君の弟火中君が立太子して俀国筑紫君を継いだ。
分裂は『隋書』俀国伝「大業三年・・・明年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」と俀国との交流を絶ったが、『隋書』煬帝上「大業四年 三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物。」と俀国でない倭国と交流している。
唐と倭国の交流は『旧唐書』倭國「貞觀五年,遣使獻方物・・・至二十二年,又附新羅奉表」と631年から交流しているが、『日本書紀』舒明天皇四年632年「唐國使人高表仁等到干難波津」と対応し、『旧唐書』日本「日本舊小國,併倭國之地」と倭国王馬子が崇峻天皇を殺害して倭国が日本を奪ったこと、そして、倭国が小国で元倭国の俀国によって670年に奪われたことを証明している。

2018年11月9日金曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国5

 前項で倭国の神武天皇が紀元前186年に建国したと述べたが、『漢書』「樂浪海中有倭人,分為百餘國」と漢初紀元前200年頃、倭人が千戸程度(魏志倭人伝で1国千戸)の国が群立状態だったが、紀元前186年頃、『後漢書』「使驛通於漢者三十許國」と複数国の代表が生まれ、その中に篠栗の神武が建国し、『後漢書』「其大倭王居邪馬臺國」とその中の代表「大王」になったのが、「建武中元二年」より以前の前漢の時代、私は紀元前100年頃と考えている。
なぜなら、実質の記事が記述されるのは『日本書紀』「惟我皇祖。諸天皇等。光臨宸極者。豈爲一身乎。蓋所以司牧人神經綸天下」の記事の紀元前94年で、漢皇帝に認められ、漢から文字記録を習い、元号というものを覚えたのが紀元前100年から始まった仮名孝昭の宮の初代大王と考えられるからだ。
『先代旧事本紀』の磯城彦・葛城彦・大彦の「羸津世襲」も『日本書紀』の孝昭天皇の時代に当てはめているのは偶然とは思えない。
そして、初代倭大王(大君)が紀元前100年に誕生したが、『古事記』「「神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君」・『先代旧事本紀』景行天皇「草木命 日向君祖」・『肥前國風土記』 「磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世・・・賜姓名曰-火君健緒純,便遣治此國因曰火國」と不思議なことに筑紫君が応神天皇より前に出現せず、畿内の日本国とは別国ということが解る。
そして、『日本書紀』応神四一年「阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大神。是則今在筑紫國御使君之祖支。」と阿知使主が筑紫國御使君之祖と記述され、「使主」は「おみ」と訳されるが、「臣・おみ」とは読めず、「ぬしつかい」で畿内日本国の支配下でない国の記述法で、実質は臣で、臣とは多数の主を使役する立場の意味となり、「使君」は同じく「きみつかい」で複数の君(王)を使役する大王の意味だ。
すなわち、後に筑紫大君になる阿知が織物の職人を連れてきたということで、応神紀を記述した500年頃筑紫大君と呼んでいたことがわかるが、『日本書紀』応神三年「百濟國殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」応神三年が392年と対応し、応神四一年は430年で『宋書』元嘉七年「是月 倭國王遣使獻方物」と対応し、都加使主が実質大王の皇太子賛と考えられる。
それは、『日本書紀』履中天皇「圍太子宮。時平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人、啓於太子。太子不信」、『古事記』履中天皇「阿知直白、墨江中王、火著大殿。」と阿知使主が400から405年の履中天皇に記述されていることから、430年に子の都加使主が活躍する年代とわかる。
さらに、筑紫大君の祖阿知使主が『日本書紀』応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主。其子都加使主。並率己之黨類十七縣而來歸焉。」と十七縣(国)を引き連れて畿内日本に帰順したと記述するが、対倭国戦に勝利したが、臣や君と呼んでいないので名目上の配下で筑紫国を認めた程度、物部氏が認めるのは、磐井を国造と呼んで、葛子から筑紫君と認められた。
古田氏は『筑後國風土記逸文』「昔此堺上,有麤猛神,往來之人,半生半死。其數極多。因曰人命盡神。于時,筑紫君、肥君等占之,令筑紫君等之祖甕依姬,為祝祭之自爾以降,行路之人,不被神害」から甕依姬が卑弥呼と述べるが、卑弥呼には子が無くおそらく台与のことで、『日本書紀』継体天皇二一年「磐井掩據火豐二國」と火・豊を占領するが豊君等之祖と記述していないことから、筑紫君は「筑紫君葛子恐坐父誅。獻糟屋屯倉。求贖死罪」と糟屋郡を献上しているので火国・福岡平野西部と磐井の墓が八女にあるので筑後までが俀国領域のようだ。
そして、磐井が国造と呼んだのは秦王国で、巨勢氏は墨江中王 との戦いで働きがあったので筑紫君と認めたのが雄略天皇から仁賢天皇までの間まで大君で、巨勢氏と筑紫君対物部・蘇我連合との戦いで、勝った蘇我氏が糟屋屯倉・熊襲以東・安芸以西を得て糟屋に宮を置き、倭国を名乗り、物部氏が吉備以東を手に入れた可能性が高い。

2018年11月7日水曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国4

 私は3年前まで、『日本書紀』と『古事記』との比較のみで研究し、すべて、倭国の記録で作成されたと仮定して私の著書を書き上げたが、『先代旧事本紀』の原本を研究すると干支は東鯷国からの記録と知り、倭国の記録の必要性が中国年号との突き合わせに有ったことが理解できた。
そして、立太子と天皇の在位期間を検証すると垂仁天皇だけ立太子の年数と合わず、垂仁天皇の立太子後に景行天皇が収まってしまい、崇神天皇以前と異なることが解り、しかも、景行天皇と政務天皇の在位期間が60年と全く同じで、このことから垂仁・景行・政務天皇が並立していたと仮説を立て、検証したところうまく当てはまった。
『三国志』「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」と倭国の男王の仮名垂仁が倭国をうまくまとめられず、「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」と女王卑弥呼(仮名成務)を立て、「有男弟佐治國」と補佐に男弟王(仮名景行)を、更に死後男王(仮名仲哀)を補佐に、更に「卑彌呼以死」と卑弥呼死後「更立男王國中不服」と 仮名仲哀を大王としたがまとまらず、「復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」と卑弥呼の宗家仮名垂仁の姫台与(仮名神功)を大王とし仮名垂仁の宮で即位したとすれば、良く当てはまる。
卑弥呼が大王になった時、卑弥呼は独身なのだから皇太子がいないので、同時に立太子が必要で、弟が実質天皇の皇太子で、卑弥呼は祭祀を行うが、普通は神官が別にいて、神のお告げは神官の責任にするのだが、卑弥呼は神官を置かず、自らが神の代弁者となったのが「鬼道」だ。
そして応神天皇から葛城王朝の歴史としているので269年までが倭国の宮の歴史なのだから、神功摂政三年「立譽田別皇子。爲皇太子」で、267年に台与即位でまとめることができなかった男王は269年が垂仁99年になる171年崇神天皇四八年「立活目尊爲皇太子」と新しい宮で即位した。
そして、垂仁天皇三七年「立大足彦尊爲皇太子」と207年に卑弥呼とその男弟王が即位し、成務天皇四八年「立甥足仲彦尊爲皇太子」と255年卑弥呼が崩じ、男弟王の子が大王位を継いだが倭国内がまとまらず、景行天皇五一年「立稚足彦尊爲皇太子」と259年台与が大王位を継ぎ、270年から新たな宮の大王が即位した。
その後、309年応神天皇四十年、343年仁徳天皇三一年、401年去來穗別天皇二年ここに賛、434年允恭天皇二三年ここに『宋書』「讃死弟珍立」と賛の弟珍で宮を変更、更に『梁書』「賛死 立弟彌 彌死 立子濟」と珍の子濟、「濟死丗子興」と濟の子興と長男相続が続き、478年大泊瀬天皇廿二年ここに「興死弟武」と興の弟武で宮が変わり、483年清寧四年、486年顕宗二年、494年仁賢天皇七年ここにも武が訪宋するが途中で宮を変えただけで王が変わっていないと思われ、554年欽明天皇十五年、568年欽明天皇廿九年、593年推古天皇元年これは『隋書』「多利思北孤・・・日出處天子」と天子の宮殿を作り皇帝なのだから「法興帝」と名乗り、太子「太子為利歌彌多弗利」も実質天子で「聖徳帝」と名乗った。
倭国王仮名垂仁の前仮名崇神は開化天皇二八年126年で『室見川銘版』「高暘左王作永宮斎鬲 延光四年五」と126年に宮を作ったと残し『後漢書』「桓・靈閒 倭國大亂」と次の仮名垂仁まで大乱で2代で83年『三国志』「男子爲王住七八十年」で合致し、仮名開化は孝元天皇二二年99年で『後漢書』「倭國王帥升」の宮、仮名孝元は孝霊天皇三六年78年、仮名孝霊は孝安天皇七六年43年で「光武賜以印綬」の宮、仮名孝安は孝昭天皇六八年紀元前33年、仮名孝昭は懿徳天皇二二年紀元前100年、仮名懿徳は安寧天皇十一年紀元前121年、仮名安寧は綏靖天皇二五年紀元前131年、仮名綏靖は神武天皇三二年紀元前155年で倭国の神武天皇は紀元前186年太祖神社がある篠栗で即位したことになる。

2018年11月5日月曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国3

 前項で述べたように、三国時代も『三国志』「倭人在帶方東南大海之中」と黄海に、『晋書』「倭人在帶方東南大海中」、『宋書』「倭國在高驪東南大海中」と変わらず黄海にあるが、『梁書』には「大抵在會稽之東」と場所を示すことが出来ず、『三国志』の時代のことを書き綴り、扶桑国の距離も60倍にして、現代の日本の史家と同じ感性だ。
しかし、『隋書』では「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」と黄海にあると記述し、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と倭国のことと説明し、「夷人不知里數但計以日」と里単位を知らないため、かかった日数でと記述しているが、『梁書』に「沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」と里数を述べていて、『隋書』は北朝の里単位を知らないと言っている。
従って、『梁書』の里数は梁で使われた里単位ではないから、梁は倭国の位置を誤解していると『梁書』と同時代に書かれた『隋書』は認めている。
そして、『旧唐書』「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中」と黄海にあるが、『唐会要』咸享元年670年に「自言其國近日所出。故號日本國。」と日本に国号を変えるが、『新唐書』「日本古倭奴也・・・直新羅東南在海中島而居・・・居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州』と黄海にあった倭奴が筑紫にあり天皇を号した時大和に遷ったと記述している。
そして、天皇と呼ばれ始めた記述は『日本書紀』神功皇后に「吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。」と地の文で天皇と呼び、それが神功皇后の時代で、この時天皇は大和に住んでいたので、倭国は天皇ではなく『隋書』「阿輩雞彌」すなわち大王で、新生日本が始まった670年に倭王が天皇となった。
そして、『旧唐書』「倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。」と今の日本はもと唐初の古倭奴国で、そのもと倭国、『隋書』の「俀国」は小国で大きい現在の日本の地の倭国を併合したと述べ2つの倭国と述べている。
『隋書』俀国伝の最後は大業三年607年「此後遂絶」と記述するが『隋書』帝紀第三大業「六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物」と609年に俀国でない倭国が訪隋していて俀国でない倭国が存在し、『旧唐書』を証明している。
このように、倭国は周初『論衡』「成王時・・・倭人貢鬯」から燕『三海經』「倭屬燕」・前漢『漢書』「倭人 ・・・歳時來獻見云」・後漢『建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」・魏『三国志』「是後倭韓遂屬帶方」「景初二年・・・制詔親魏倭王卑彌呼」正始元年・晋『晋書』「泰始二年・・・倭人來獻方物」・宋『宋書』永初二年「倭讚萬里修貢」元嘉二年・元嘉七年・元嘉十五年・元嘉二十年・大明四年・昇明元年に貢ぎ、梁には貢物無しで将軍の授号を得、隋『隋書』「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」大業四年・大業六年、唐『舊唐書』「永徽五年・・・倭國獻琥珀」貞観五年・建中元年・長安元年・長安三年・天寶十二年・開成四年・開元十一年と貢献を欠かさず中国に臣従し、授号され、それを誇りとした。
このように貢献した倭国には中国の元号と対応する記録が残り、倭国が宮を変えた時の記録があったため、その記録をもとに『日本書紀』の記録と対応させたと思われる。
『日本書紀』の宮は神武東征で証明した通り武埴安の先祖、神話で大巳貴に敗れた建御名方を祀った国の建国が紀元前660年とこれ以降無い干支が残っていたが、その記録と極東の標準時間の中国年号と対応させる方法が無かったが、倭国にはあった。
その記録が立太子で、立太子によって宮が交代したので、立太子が倭国の大王即位年と思われ、立太子しない天皇が存在したり、立太子前に太子が存在し宮と全く連動しないが、倭国の王朝が変わって宮を遷した日をその時期の天皇家の宮と合体させたと考えれば理解でき、例えば『日本書紀』欽明天皇十五年554年に「十五年春正月戊子朔甲午 立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の新しい宮が始まったということだ。

2018年11月2日金曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国2

  最初に倭国が出現するのは後漢であるが、巷間言われるのが、『魏志』が早く書かれたので『後漢書』はそれを写した時に間違えた、いや、修正したとするが、天子が気に入らなければ首が飛ぶ正史を現代の間違いだらけの無責任な史家とごっちゃにするのは間違いで、『後漢書』は後漢時代を命がけで書き、『三国志』は魏朝の歴史を責任をもって正しく記述し、天子のお墨付きを得たことを忘れてはならない。
従って、倭国の初出は『後漢書』で、「倭在韓東南大海中,依山島為居」とやはり海中すなわち黄海にあると述べ、漢になって「漢者三十許國 國皆稱王」と三十余の王が訪中し「其大倭王居邪馬台國」と邪馬台国がその王の中の王の大(倭)王と大君(王)だと宣言した。
そして、建武中元二年「光武賜以印綬」と西暦57年に有名な金印『漢委奴國王』の印を授与され、王自ら漢皇帝の臣下の大夫と漢の臣下であることを誇りにしているように記述した。
そして、倭国の東には「自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王」と記述して、拘奴國と敵対し、この拘奴國は景行天皇紀に京都郡に宮を作った王によって、筑後川北部に追いやられ、『三国志』「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と記述され、神功皇后は御笠で熊襲と戦っていて、『後漢書』→『三国志』が証明される。
その、御笠で戦った女王は香椎宮に宮を置いていて、『日本書紀』「魏志云。正始元年」などと当てている。
『三国志』は「一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里」と壱岐の現在の面積138.6㎢を方三百里として、計算すると直径13.28㎞前後でグーグルマップで測ると13から17㎞、港の遺跡が島内にあるのでこれより大きいことは無い。
それを基に末盧国の唐津港から「東南陸行五百里到伊都國・・・千餘戸・・・東南至奴國・・・二萬餘戸・・・東行至不彌國百里・・・千餘家・・・南至邪馬壹國・・・七萬餘戸」と邪馬台国までの距離600里は約30㎞で沿岸を歩くと糸島までしか行けないが、糸島を千戸の不彌国とすると南に奴国と邪馬台国計9万戸は住めそうもない。
ここで、動詞無しの至は到着するの意味で、邪馬台国が目的地なので奴国は行程に含まれない到着の意味で「東行至」のように動詞があるのは東に行ったら着くの意味だ。
もともと、「海千餘里至對海國」・「一海千餘里名曰瀚海至一大國」・「渡一海千餘里至末盧國」と対馬や壱岐の島内は含まれず、記述される距離は国境間の距離で、領内距離は含まれていない。
従って、 千餘戸程度の国の領内は「一大國・・・方可三百里・・・三千許家」・「對海國・・・方可四百餘里・・・千餘戸」と三から四百里だと実際に歩いた距離を示し、総計「郡至女王國萬二千餘里」で「到其北岸狗邪韓國七千餘里」、「千餘里至對海國」、「千餘里名曰瀚海至一大國」、「千餘里至末盧國」、「五百里到伊都國」、「不彌國百里」で計萬六百里余、「對海國」・「一大國」・「伊都國」・「不彌國」領内の計千四百里で1国三から四百里でピッタリ、末盧國の唐津港は海の国境で河の国境松浦川があり東南の国境でもある。
従って、伊都国と不彌国の領内も三・四百里で20㎞付加され末盧国国境の唐津港から50㎞で福岡市東区が不彌国と邪馬台国の国境になるが、不彌国の南に奴国と邪馬台国が無ければならないが、これでは奴国を通り過ぎて不彌国を記述する必要が無い。
同じ距離で志賀島や海の中道を通れば、唐の原や新宮町で、国境間距離無しで南に糟屋郡があり、『日本書紀』が魏の使者を迎えた都とは香椎宮としたが糟屋郡に隣接し、海の中道の南方には那の津があり、伊都から東南5㎞程度の山越えで奴国とまさに重なる。
不彌国と伊都国の国境は海で5㎞程度で、不彌国と邪馬台国の国境は『日本書紀』政務天皇に「則隔山河而分國縣」と山や河で国境にすると記述され、河の国境間は百里未満で国境間距離無しとなり、『三国志』と『日本書紀』はよく合致している。