それでは、紀元前660年に宮を築いた人たちがどんな人々かを考えるとき、1つの取っ掛かりがあり、それは『先代旧事本紀』「左手持白銅鏡則有化出之神是謂大日孁尊」で物部氏の大神は銅鏡を王者の璽としていて、『日本書紀』「天香山之五百箇眞坂樹 而上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡。一云眞經津鏡。」と天の岩戸説話で使い、『古事記』「八尺勾璁・鏡及草那芸釼」も同様だ。
勿論八尺もある鏡ではなく「八」国の1尺の鏡の意味で、全ての史書が鏡を王権の璽としているが、神武天皇建国時に鏡が出てくるのは、『先代旧事本紀』神武二年「八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治」だけで、『日本書紀』崇神天皇六〇年「出雲人祭。眞種之甘美鏡」、景行天皇十二年「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊」、『古事記』品陀和気命「貢上横刀及大鏡」と『日本書紀』・『古事記』の神武記紀に全く出てこない。
しかも、天皇が持っているものではなく他国の持ち物や贈り物で、『古事記』『日本書紀』では重要な宝物ではないということで、『古事記』・『日本書紀』の神武天皇は鏡を持って大和に入ってこなかった、しかも、生駒近辺を鵄と呼んでいた時代に鏡を持たない『日本書紀』の神武天皇は建国したということだ。
そして、生駒近辺を鵄と呼んだ時代の神武天皇は、都味齒八重事代主の親で、建御名方を諏訪に追い出した大巳貴の可能性が高く、『先代旧事本紀』に「大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社 次須勢理姫神 大三輪大神嫡后」とおそらく、須勢理姫が兄倉下建御名方の弟の弟倉下を婿入りさせ、すなわち、大巳貴が入り婿となって弟倉下と呼ばれたことを示し、『日本書紀』神武天皇元年「太立宮柱於底磐之根」と『先代旧事本紀』「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱」と同じことを述べ、この時が紀元前660年だった可能性が高い。
一方、物部氏は『先代旧事本紀』「採天金山之銅令鑄造日矛此鏡少不全」と鏡や矛を作り、「天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔・・・」と王者の璽を作り、「宇摩志麻治命先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶十種」と饒速日から宇摩志麻治に璽を引き渡し、「棒天璽鏡劔奉正安殿」と神武天皇の宮殿に飾られた。
すなわち、饒速日の神武東侵は鏡や劔を持って侵略しており、その鏡が大和に出土、「多紐文鏡」が大和に出土して紀元前200年頃のものとされ、同時に銅鐸も出土しており、銅鐸はそれよりも早いということから、大巳貴の王朝の象徴だったことが解る。
それに対する多紐文鏡は中国遼寧省や沿海州・朝鮮に多数見つかり、『遼史』の蓋州→辰洲の領域に重なり、銅鐸は2世紀頃に埋められており、銅鐸の後三角縁神獣鏡が大量に出土し、おそらく、銅鐸を鋳つぶして三角縁神獣鏡を作成したのが原因と考えられ、同じように、日本では多紐文鏡が鋳つぶされて銅鐸にされたと考えられる。
三角縁神獣鏡をあれほどたくさん作成する人々が、出雲の大量な銅鐸・銅矛出土をさせる人々が、数枚の多紐文鏡で済ますことは有り得ない。
『日本書紀』の欠史8代は「天皇即帝位於橿原宮」の初代を含めて「都葛城。是謂高丘宮」「片鹽。是謂浮孔宮」「輕地。是謂曲峽宮」「掖上。是謂池心宮」「室地。是謂秋津嶋宮」「黒田。是謂廬戸宮」「輕地。是謂境原宮」「春日之地。是謂率川宮」は大神倭神に大巳貴を合祀し、初代大巳貴が兄倉下建御名方の妹須勢理姫を妃として弟倉下となり、須勢理姫の子は高倉下「武」氏として東鯷国を建国した。
大和周辺の神倭王朝、辰国(大国)も手に入れた大倭王朝と続き、『先代旧事本紀』「素戔烏尊帥其子五十猛神降於新羅曽尸茂梨」と銅鏡を持った素戔烏は多紐文鏡を出土する国新羅に渡り、『後漢書』「一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰・・・皆古之辰國也。馬韓最大」とまさに後漢以前の韓地を述べ大人国の後裔辰国が衰退し大倭王朝がとってかわった内容である。