2017年10月9日月曜日

最終兵器の日本古代史 秦王国から倭国

 継体天皇の新王朝開始の次に璽の移動があるのは推古天皇で590年頃になり、隋書ではタリシヒコの時代になる。このタリシヒコは旧唐書では用明天皇とされ、私も2代のずれを証明したし、日本書紀の継体天皇は古事記の仁賢天皇として矛盾を生じなかった。そして、用明天皇の末年は物部の守屋が滅んだ記事が書かれていて、物部麁鹿火と物部守屋は同じ物部氏ではあるが物部麁鹿火は石上神社のある畿内から外れた別流だ。麁鹿火の家系は物部石弓・毛等若子兄弟で途絶え、物部大連尾輿の家系が後を継いで璽を手にした。物部傍流の九州の麁鹿火と異なり、本流の物部氏は仏教を拒否して九州の倭国と対立して守屋が破れて、629年に倭国(蘇我氏)が王朝を奪った。室屋のまたの名弓削が蝦夷と同世代と記述されていて、570年から活躍したら化け物になってしまい、馬子と争っていて妹が馬子の子の蝦夷の妃なのだから600年代前から629年までが活躍の場だ。そして、蘇我氏は日本書紀で最後の大王が天皇に即位した。
  継体天皇元年二月甲午 
「大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・寡人敢不乖 乃受璽符 是日即天皇位 以大伴金村大連爲大連 許勢男人大臣爲大臣 物部麁鹿火大連爲大連」
推古天皇即位前紀 「以將令踐祚 皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三乃從之因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午 「天皇之璽印獻於田村皇子・・・大王先朝鍾愛・・・即天皇位」
安閑天皇即位前紀 「大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故」
  安閑天皇元年閏十二月是月 
「廬城部連枳唹女幡媛 偸取物部大連尾輿瓔珞 獻春日皇后・・・以贖女罪 物部大連尾輿恐事由己」
宣化天皇元年二月壬申朔 「以大伴金村大連爲大連 物部麁鹿火大連爲大連」
欽明天皇即位前紀 「大伴金村大連 物部尾輿大連爲大連」
敏達天皇元年四月是月 「以物部弓削守屋大連爲大連」
  敏達天皇十二年是歳 
「日羅更蘇生曰此是我駈使奴等所爲非新羅也言畢而死 屬是時有新羅使故云爾也 天皇詔贄子大連糠手子連令収葬於小郡西畔丘前以其妻子」
敏達天皇十四年三月丙戌 「屬此之時天皇與大連卒患於瘡 故不果遣」
用明天皇即位前紀 「以蘇我馬子宿禰爲大臣物部弓削守屋連爲大連」
  崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月 
「而誅大連并其子等由是大連之軍忽然自敗・・・蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也大臣妄用妻計而殺大連矣・・・而聞大連滅」
皇極天皇二年十月壬子 「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」
舒明天皇元年正月丙午 「大王先朝鍾愛幽顯屬心宜纂皇綜光臨億兆即日即天皇位」

 乙巳の変で蘇我氏が滅び孝徳天皇が即位して白村江で百済とともに大敗して咸亨元年670年頃国名を日本に変えたが、630年・632年の唐との交渉に失敗したが、貞觀22年648年の倭国はまだ新羅と友好関係で、新羅に仲介してもらって唐に施設を送っている。すなわち、この遣使の失敗によって親新羅・親唐から親百済に舵を切ったため白村江の大敗北となって、再度、親唐路線に戻して倭国の名前を捨て去ったのだろう。この時の混乱が壬申の乱で661年から683年まで白鳳年号が続いているということは、この間天皇は元号を変える力が無かった、すなわち天皇より強い人物が存在したことを意味し、おそらく唐の占領状態、筑紫都督府による占領状態だったのだろう。天皇に力があれば白村江敗戦や壬申の乱、浄御原遷都の時に改元したはずだ。
舊唐書   「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢」
舊唐書   「又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」
舊唐書   「至二十二年 又附新羅奉表 以通起居」
新唐書   「咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本」
『日本書紀』
舒明天皇四年十月甲寅 「唐國使人高表仁等到干難波津」
孝徳天皇即位前紀 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位・・・輕皇子不得固辭升壇即祚」

 ところで、推古天皇前紀記事で王朝が変わったと書いたけれど、以前書いた「日本舊記」からわかるように、守屋の王朝以前は「日本」と呼んで、「扶桑国」の史書は「古事記」で日本は現れないが、日本書紀では紀元前28年の記事から書かれている。麁鹿火は扶桑国から日本国を復活させ守屋は秦王国と国名を変え、物部氏は倭国に、そして、天智天皇が日本国を復活させたと考える方が妥当に感じる。

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