『日本書紀』
允恭天皇元年 「即日捧天皇之璽符再拜上焉皇子曰 群卿共爲天下請寡人寡人何敢遂辭乃即帝位」
清寧天皇即位前紀 「大伴室屋大連 率臣連等 奉璽於皇太子」
顕宗天皇即位前紀 「百官大會皇太子億計取天子之璽置之天皇之坐 再拜從諸臣之位曰此天子之位」
允恭天皇即位前紀 「今大王留時逆衆不正號位臣等恐百姓望絶也 願大王雖勞猶即天皇位」
允恭天皇元年十二月 「大王辭而不即位・・・乃即帝位」
雄略天皇即位前紀
「伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區 請以贖罪 天皇不許・・・天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位」
顕宗天皇即位前紀
「惟大王、・・・吾聞天皇不可以久曠 天命不可以謙拒 大王以社稷爲計百姓爲心」
顕宗天皇元年正月己巳朔 「即天皇位」
履中天皇即位前紀 「爰仲皇子畏有事將殺太子 密興兵圍太子宮」
武烈天皇即位前紀 「於是大伴大連率兵自將圍大臣宅」
允恭天皇五年七月己丑 「天皇設兵將殺玉田宿禰 乃密逃出而匿家 天皇更發卒圍玉田家」
安康天皇元年二月戊辰朔 「圍大草香皇子之家而殺之」
履中天皇元年二月壬午朔 「皇太子即位於磐余稚櫻宮」
雄略天皇即位前紀
「竊語眉輪王 遂共得間而出 逃入圓大臣宅・・・縱火燔宅 於是 大臣與黒彦皇子 眉輪王 倶被燔死・・・泊瀬朝倉即天皇位 遂定宮焉 以平群臣眞鳥爲大臣」
武烈天皇即位前紀
「大臣平群眞鳥臣 專擅國政 欲王日本・・・泊瀬列城 陟天皇位 遂定都焉」
継体天皇元年正月甲子 「許勢男人大臣等僉曰 妙簡枝孫 賢者 唯男大迹王也」
『古事記』
履中天皇 「其弟墨江中王欲取天皇以火著大殿」
雄略天皇 「兄白日子王・・・興軍囲都夫良意富美之家・・・以刀刺殺其王子乃切己頚以死也」
清寧天皇 「平群臣之祖名志毘臣・・・即興軍囲志毘臣家乃殺也」
日本書紀は編年体のため、紀伝体の古事記の記述をどこに当てはめるかで矛盾が生じていて、古事記は許勢男人が記述した史書のため、古事記が正しい。そのため、日本書紀の継体天皇紀には許勢男人の記述、次の政権である物部麁鹿火の内容、倭国の内容が混じって記述されている。そして、531年に扶桑国は完全に潰えたが、武烈天皇立太子の494年を麁鹿火元年とすると、536年麁鹿火死亡が43年となり、516年麁鹿火23年に許勢男人死亡になり、翌517年に元号継体が始まって、まさしく新しい王朝の始まりで、秦王国と隋書で記述されている。
『日本書紀』
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・受璽符 是日 即天皇位」
継体天皇元年二月甲午 「大王子民治國最宜稱 臣等爲宗廟社稷計不敢忽・・・即天皇位」
継体天皇二三年九月 「巨勢男人大臣薨」
継体天皇二五年
「大歳辛亥三月 師進至于安羅營乞 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子倶崩薨」
雄略天皇二一年三月 「盖鹵王母弟也 日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
仁賢天皇七年正月己酉 「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」
『古事記』 「継体天皇 天皇御年肆拾参歳」
『隋書』 「又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」
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