2017年10月4日水曜日

最終兵器の日本古代史 扶桑国

 扶桑国の建国は大物主を祭神とする中国(安芸の金比羅の神を祀る)の配下で屋島の王の屋主忍男武雄心の先祖豊御毛沼が狗奴国(熊襲)と戦うために周芳から出発して京都郡で西暦82年に建国したことに始まる。京都郡には太祖神社があり、武内宿禰の宮が55年の時肖古王が薨じた西暦375だったということで、武内宿禰は神功皇后に対応させている。さらに、応神天皇十六年が阿莘王が薨じた西暦405年の王、応神天皇二五年が腆支王が薨じた西暦420年の王をそれぞれ応神天皇に割り当てているように、紀伝体を編年体に当てはめるときの矛盾が百済王との関係で浮き彫りになる。そして、百済は大倭国とはまだ国交を樹立しておらず、扶桑国は百済と友好状態で、新羅や高句麗も大倭国に引き続き扶桑国上位の友好関係だったようで、三国史記には朝貢の国を記述していない。
『三国史記』
卷第二十五 百済本紀第三  辰斯王
辰斯王 近仇首王之仲子 枕流之弟 爲人強勇聰惠 多智略 枕流之薨也 太子少 故叔父辰斯即位
卷第二十四 百済本紀第二  近肖古王
「三十年  冬十一月 王薨 古記云 百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記 然高興未嘗顯於他書 不知其何許人也」
卷第二十五 百済本紀第三  阿莘王 十四年 秋九月 王薨 
卷第二十五 百済本紀第三  腆支王  
十四年 夏 遣使倭國 送白綿十匹  十六年 春三月 王薨
『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰 天皇遂幸筑紫。到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。
爰屋主忍男武雄心命詣之。居于阿備柏原而祭祀神祇。仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛。生武内宿禰。
神功皇后摂政五五年 「百濟肖古王薨」
応神天皇三年是歳 「百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇」
応神天皇十六年二月 「習諸典籍於王仁」
応神天皇十六年是歳 「百濟阿花王薨」
応神天皇二五年 「百濟直支王薨」
応神天皇二八年九月 「高麗王教日本國也・・・讀其表 怒之責高麗之使 以表状無禮 則破其表」
応神天皇三七年二月戊午朔 
「渡高麗國欲逹于呉 則至高麗 更不知道路 乞知道者於高麗 高麗王乃副・・・二人爲導者 由是得通呉」
応神天皇三九年二月 「百濟直支王 遣其妹新齊都媛以令任 爰新齊都媛率七婦女而來歸焉」
履中天皇即位前紀 「以伺仲皇子入廁而刺殺」

 扶桑国は高句麗とも友好関係で、高句麗の對盧という官位を使い、宋大明二年西暦458年にはすでに仏教を取り入れられている。永元元年西暦499年の王は「乙祁」でこの頃の天皇は古事記には「袁祁・意祁」と記述されている。実際、「意祁」が古事記を書いた王で岩井と戦った王、いわゆる九州年号が始まった516年に「 意祁(巨勢男人)」が死んだ。そして、九州年号には536年が元年の「僧聴」という仏教に影響された年号があり、日本書紀の仏教伝来は欽明天皇でずっと後だ。
梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」
「 名國王爲乙祁 貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧 第三者爲納咄沙」
「 宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法 經像 敎令出家」

 西暦403年以前の内容は豊国関係の記事が3人の王と倭国・大倭国の王の話が入り組んでおり、十分検討してから資料としなければならない。
『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

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