2017年10月20日金曜日

最終兵器の日本古代史 女系図5

 継体天皇は応神天皇(物部印葉)の5世の孫、垂仁天皇の7世の孫としているが、「女系図3」から垂仁天皇は物部氏、応神天皇は尾治氏で物部氏の姫を妃にしている天皇の5世・7世の孫と言っている。垂仁天皇(武諸遇)→景行天皇(田道馬)→応神天皇(物部印葉)の後に血縁を書かずに直系でない1世真掠→2世布都久留→3世木蓮子→4世麻佐良→5世物部麁鹿火、の血筋にピタリと当てはまる。しかし、王名は男大迹と次代の廣國押武金日とは名前の性質が全く異なり、どちらかというと、袁祁・意祁の名前に近い。この混乱の理由は簡単で、仁賢天皇紀には物部麁鹿火が出現せず、武烈天皇から宣化天皇までは物部麁鹿火が出現して大連としているのは本人が書くのなら物部麁鹿火大連は天皇で出現しないはずだ。金村と2人の大連が出現するのは一方が天皇で片方が実際の大連だからだと考えられ、さらに、尾輿が麁鹿火と同時に大連となっていて、欽明天皇まで続いている。すなわち、日本書紀を欽明天皇まで守屋が記述していることが解り、同様に、敏達・用明・崇峻は恐らく、日本書紀が中国風の漢文で記述され、蘇我氏と姻戚関係のため物部贄古が記述した。そして、入鹿が推古・舒明天皇の記述と古事記に舒明天皇の記述があることから古事記の完成を行ったと考えられる。
続けて系図を考えていこう。系図的には継体天皇(麻佐良)は巨勢氏から武力で簒奪して璽を得たため、もともと政略結婚していた尾張氏草香の姫目子の子安閑天皇(麁鹿火)に政権を譲り大成経では璽の移動がある。そして、宣化天皇(押甲)と継承されたが、女系の巨勢氏の継承が無く、仁賢天皇(巨勢氏)の姫手白香皇女の子欽明天皇が即位することで国が治まったようで、ここでも、大成経では璽の移動がある。そして、物部の本流の欽明天皇(尾輿)は麁鹿火の孫石姫と巨勢男人の孫欽明天皇の子の敏達天皇に皇位を継承した。実際の物部氏の系図から見ると継体天皇は物部麻佐良、安閑天皇は物部麁鹿火、宣化天皇は物部押甲欽明天皇は物部尾輿、敏達天皇は物部大市御狩となる。用明天皇に対応する物部守屋は弓削と亦の名を持ち尾輿の子との確証が無く、妃に蘇我稲目の娘の子で人物が置き換わっている可能性があり、天皇名も橘豊日王と如何にも豊国と日()国の王の名前に見える。そのため、守屋は日本書紀を記述するにあたって麁鹿火や尾輿を大連と記述して天皇は自分の血縁でないと記述したのだと思われる。物部石上贄古の娘大刀自は布都姫と混同しているが蝦夷の妃で、そして、崇峻天皇は物部石上贄古となる。さらに、入鹿は日本書紀で推古天皇が崇峻天皇(物部石上贄古)の兄弟の娘で馬子の妃大刀自とし、天智天皇は日本書紀で蝦夷の妃が大刀自おそらく布都姫としていて推古天皇は蝦夷として記述しているようだ。炊屋比売は物部氏が長髓彦から政権を奪ったときの姫の名前、物部氏の先祖の宇摩志麻治の母の名前で、蘇我氏が政権を奪う女王にピタリの名前だ。日本書紀から見れば、推古天皇は馬子、舒明天皇は蝦夷で皇太子の入鹿が古事記を完成させ、日本書紀の推古・舒明天皇の記事を記述し、聖徳太子系の文書はここまでの歴史を基本に記述していると考えられる。もちろん先代旧事本紀も例にもれず、聖徳太子は物部恵佐古想定していると考えられる。そして、蘇我氏は漢文の知識が少なく、日本書紀の記述が中国風には書けなかったことが考えられる。
『古事記』
継体天皇 
「娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、広国押建金日命。 次、建小広国押楯命・・・娶意祁天皇之御子、手白髪命、是大后 生御子、天国押波流岐広庭命」
宣化天皇 娶意祁天皇之御子、橘之中比売命、生御子、石比売命
欽明天皇 娶檜坰天皇之御子・石比賣命、生御子、八田王、次沼名倉太玉敷命
『日本書紀』
継体天皇元年三月癸酉
元妃尾張連草香女曰目子媛・・・生二子・・・其一曰・・・廣國排武金日尊・・・其二曰・・・武小廣國排盾尊。
欽明天皇二年三月 次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛・・・一曰・・・橘豐日尊・・・豊御気炊屋比売命
皇極天皇二年十月壬子 入鹿。擬大臣位。復呼其弟曰物部大臣。大臣之祖母物部弓削大連之妹
『先代旧事本紀』
長髓彦乃遣行人言於天孫曰嘗有天神之子・・・吾妹御炊屋媛遂有兒息名曰宇摩志麻治・・・十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄古大連女宮 古郎爲妻生二兒・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人・・・物部鎌束連公 贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公・・・孫物部恵佐古連公 麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連

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