2017年10月23日月曜日

最終兵器の日本古代史 女系図6

 物部氏から蘇我氏への権力の移動において、璽の移動も、推古天皇での移動と舒明天皇の移動は同じことを指している可能性と守屋が物部氏本家から簒奪した2つの可能性がある。そして、日本書紀では推古天皇が敏達天皇の皇后としているが、崇峻天皇の皇后で物部石上贄古の夫人の布都姫は推古天皇の系図にピタリと当てはまる。
『日本書紀』
推古天皇即位前紀 「以將令踐祚 皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午 「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子」

 ここで、物部贄古は敏達天皇・守屋の皇子に天氏の皇子を記述していることに矛盾を感じると言われそうだが、推古天皇を擁立した倭国の天氏や蘇我氏を天皇の一部として記述してその時代に活躍した天皇と同一人物に融合したのではないか。すなわち、布都姫を皇后とした敏達天皇、廣媛を皇后とした敏達天皇、菟名子夫人を皇后とした敏達天皇だ。私は天氏の系図を研究して押坂彦人を天氏とすると整合性を持ち、後日述べようと思っているが、彦人と馬子のつながりを証明している。そして、物部贄古たちが皇位を継ぐことができたのは倭国のおかげで、しかもこの皇位は名目で、政権も実質馬子が大刀自を妃で大刀自を天皇にした実質天皇で実権を持っている。従って、物部贄古は推古天皇を大刀自にあて、入鹿は推古天皇を馬子に当て、舒明天皇を蝦夷に割り当て、紀伝体・列伝で記述されている。天皇の前後関係も天皇の即位年も記述されないので、天皇が実際は誰かということすら意味が無く、日本国で、ある天皇の時期の不明な王の在位年の事績を記述しているだけなのではないか。王名は更名を使い、王妃をまとめて1天皇に複数の人物を付け加えるという手法で史書を完成させたのが最も考えられる手法に感じるし、実際神話時代から同じ手法神の亦の名を使って、1柱の神の事績に複数の神の事績が記述される。
入鹿は古事記・日本書紀を記述する時、自分の出自が日子人なら、なにも「 亦名麻呂古王」を追記する必要がないのに記述している。すなわち、入鹿は息長という地域を支配していた稲目の子の麻呂子(馬子)と守屋の娘糠手姫の子の蝦夷が舒明天皇だと記述していることがわかる。
『日本書紀』
敏達天皇四年正月甲子 立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男・・・押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。
敏達天皇四年正月是月 次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生・・・與糠手姫皇女。更名田村皇女。
舒明天皇即位前紀 息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女
『古事記』
娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。・・・日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。

そして、天氏は蘇我氏にとって主家にあたる王家で以前「最終兵器のミサ 船王墓誌」に書いた天氏の内紛の隙に天皇位を奪取したと思われ倭国を標榜するのはそのためで、主家を無視できなかったと思われる。古事記の欽明天皇の孫、推古天皇と敏達天皇の子葛城皇子と日本書紀の稲目の孫小姉君と欽明天皇の子葛城皇子は同一皇子で蝦夷の可能性がある。古事記にとって欽明天皇(物部尾輿)・小姉君が推古天皇、馬子が敏達天皇だということを示している。
『日本書紀』
欽明天皇二年三月 堅鹽媛同母弟曰小姉君。生四男。一女。其一曰茨城皇子。其二曰葛城皇子。
『古事記』
娶庶妹豊御食炊屋比売命、生御子、・・・次、葛城王。・・・

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