孝徳・皇極天皇は母吉備姫が蘇我氏や物部氏として、父は茅渟王で敏達天皇の皇子としてはいる。しかし実際は更名もあって不明で2人とも天氏を名乗り、物部氏とも蘇我氏とも言えない。皇極天皇は天氏で茅渟王の娘だが、舒明天皇は天氏ではなく、天智天皇の父では有り得ないのだから、もう一人の夫の高向王は十分父の可能性がある。647年に皇太子の宮が燃えて大騒動しているが、この太子が高向王の可能性があり、天智天皇の親の可能性がある。倭国は大王のタリシヒコ法興帝と弟の聖徳法王が治め、聖徳法王の家系が高向王、法興王の家系が茅渟王の可能性がある。少なくとも法興王の曽孫の皇極天皇・孝徳天皇が政権を蘇我氏から奪い、孝徳天皇の時に璽が移動し、私は天皇の即位順は孝徳・皇極の順だと証明した。
『日本書紀』
敏達天皇五年三月戊子 「其三曰小墾田皇女 是嫁於彦人大兄皇子」
崇峻天皇五年十一月丁未 「使東漢直駒弑于天皇 或本云 東漢直駒東漢直磐井子也」
崇峻天皇五年十一月是月 「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘 蘇我馬子宿禰女也」
皇極天皇即位前紀 「天豐財重日足姫天皇・・・押坂彦人大兄皇子孫 茅渟王女也 母曰吉備姫王」
孝徳天皇即位前紀 「天萬豊日天皇 天豐財重日足姫天皇同母弟也」
大化三年十二月晦 「災皇太子宮 時人大驚恠」
斉明天皇即位前紀 「天豐財重日足姫天皇 初適於橘豐日天皇之孫高向王 而生漢皇子」
『古事記』
沼名倉太玉敷命 「日子人太子・・・娶漢王之妹 大俣王 生御子 知奴王」
そして、皇極天皇の子、天智天皇は蘇我氏を妃に迎えたが、蘇我氏の皇子が生まれないため国内がまとまらず、壬申の乱などで蘇我氏を徹底的に滅ぼさなければならなかった。そして、天智天皇は自家の家系が中国との関係から対応があるため、自家の時計を使って史書を構成しなおし、日本書紀の原型、天氏の宮をその時代の天皇に対応させた形式が完成した。
天武天皇以降と乙巳の変や大化改新記事は元正天皇が記述していて、天武天皇・持統天皇は文武天皇・元明天皇のことを記述している。要するに、中臣大嶋の子の日並の子の文武天皇は天智天皇の姫の菟野皇女を皇后として政権をクーデターで奪い、文武天皇が早死にしたため、妻の菟野皇女が皇位を継ぎ、璽も得たという王権の正当性を記述したと考えられる。元正天皇は日本書紀を記述するのに、何も遠慮する必要がなく、思い通りに天武・持統紀を記述でき、血統も最高実力者が宣言すれば従い、血統は孝謙天皇まで継ったが、結局、天智天皇の家系に戻った。当然、璽を得る以前の天智天皇すなわち天氏の家系も存続していて、天智天皇の子の天渟中原瀛眞人、その子の総持天皇だ。『粟原寺鑪盤銘』には額田が出現し、推古天皇や天武天皇に出現し関係がありそうだ。蘇我氏の血筋持つか持たないかの差が天氏と中臣氏の差となり、たやすくクーデタを成功させることができた原因なのだろう。
『日本書紀』
推古天皇即位前紀 「豊御食炊屋姫天皇・・・幼曰額田部皇女」
天武天皇即位前紀 「天渟中原瀛眞人天皇 天命開別天皇同母弟也 幼曰大海人皇子」
天武天皇二年二月癸未 「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」
『粟原寺鑪盤銘』
「此粟原寺者 仲臣朝臣大嶋 惶惶誓願 奉為大倭国浄御原宮天下天皇時 日並御宇東宮 故造伽檻之 爾故比賣朝臣額田 以甲午年始 至和銅八年」
『新唐書』
「天智死 子天武立 死 子總持立」
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