2017年10月18日水曜日

最終兵器の日本古代史 女系図4

 雄略天皇は葛城氏の姫を妃にしていて、安康天皇以前は葛城氏とわかり、尾張氏の仁徳天皇(意乎巳)は「女系図3」で示したように、葛城襲津彦の姫の磐之媛を妃にして葛城氏から続く王位と記述している。すなわち、履中・反正天皇は葛城氏の王朝だったと日本書紀は記述している。言い換えると、応神天皇(誉田・武内宿禰)・仁徳天皇(大鷦鷯・葛城襲津彦)・履中天皇(去來穗別・葦田宿禰)・反正天皇(瑞齒別・玉田宿禰)・允恭天皇(雄朝津間稚子・)・安康天皇(穴穗・市辺押磐)と想定して記述している。葛城氏が初めて仁徳天皇までを対象に史書を編纂して、次の平群氏が記述した履中天皇以降のなかで、允恭天皇を圓と見立てて璽の移動を記述した。この皇位の簒奪の事件が住吉仲皇子からの事件だと思われる。そして、日本書紀の文体から、安康天皇までは、文字の習熟度が低く綺麗な漢文で記述できなかったようだ。天皇名は成務・仲哀を除く名前が武内宿禰の家系の役職名で大物主を氏神とし、大物主の奈良南部侵略時の一人だ。西暦82年に京都郡で建国した彦太忍信すなわち豊御毛沼(孝元天皇)の子の家系の役職名と考えられる。葛城氏の天皇名は平群氏が記述しているため、拠点を置いた地名からの名前と実際の名、平群氏の先祖の名前との混合が考えられる。また、紀伝体で記述され、葛城氏の系図が不明で推定するしかないが、天皇名は少なくとも古事記や先代旧事本紀・梁書と王名が共通しているので日本書紀を見て書いたのではなくそれ以前から認識も共通だったと考えられる。最初に日本書紀を書いたのは葛城氏なのだから、天皇名を自王朝の先祖の名前を使うのは大いに考えられる。
『日本書紀』
履中天皇二年(辛丑401)十月 圓大使主共執國事
允恭天皇元年(壬子412)十二月 皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符
允恭天皇五年(丙辰416)七月己丑《十四》  葛城襲津彦之孫玉田宿禰・・・天皇更發卒圍玉田家而捕之乃誅
『古事記』
大雀命 此天皇、娶葛城之曽都毘古之女、石之日売命、大后。生御子、大江之伊耶本和気命。
伊耶本和気王 「此天皇、娶葛城之曽都比古之子、葦田宿祢之女、名黒比売命、生御子、市辺之忍歯王。」

雄略天皇は葛城圓の娘韓姫を妃にして政権を奪い清寧天皇に皇位を継ぎ、皇位を簒奪した清寧天皇は平群氏で、璽の移動があった。平群氏は葛城氏の歴史を記述し、雄略天皇(真鳥)・清寧天皇()で圓の子の韓姫の子にあたる鮪が璽を得た。この、皇位の簒奪の事件が眉輪王の事件と思われる。
『古事記』
雄略天皇 娶都夫良意富美之女、韓比売、生御子、白髪命
『日本書紀』
清寧天皇即位前紀 大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子

顕宗天皇葛城襲津彦→葛城葦田宿禰→蟻臣→荑媛の娘と履中天皇→磐坂市邊押羽皇子の子で葛城系の姫と武内宿禰・巨勢小柄宿禰の末裔の子の巨勢氏と間違うように記述して、璽の移動があった。雄略天皇から顕宗天皇まで歴史を記述した意祁は既に公にされている史書の履中天皇を巨勢小柄宿禰、市辺押磐を『紀氏家牒』に記述されている川辺宿祢顕宗天皇を同じく川上宿祢として、自らの出自としたと考えられる。ところが、日本書紀では武烈天皇が鮪から政権を奪っていて、武烈天皇が雄略天皇すなわち平群真鳥の娘を妃として武烈天皇を巨勢氏に見立てている。物部麁鹿火は仁賢天皇を史書に記述し、仁賢天皇を鮪、武烈天皇を袁祁とした。もちろん鮪との争いが巨勢氏の政権奪取だと思われる。
『古事記』
履中天皇 此天皇、娶葛城之曽都比古之子、葦田宿祢之女、名黒比売命、生御子、市辺之忍歯王。
清寧天皇 非今者難可謀、即興軍囲志毘臣家、乃殺也
顕宗天皇 伊奘本別王御子、市辺忍歯王御子、袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下
仁賢天皇 天皇、娶大長谷若建天皇之御子、春日大郎女、生御子、・・・小長谷若雀命。
『日本書紀』
顕宗天皇即位前紀 皇太子億計、取天子之璽、置之天皇之坐。再拜從諸臣之位曰、此天子之位、
仁賢天皇元年二月壬子 春日大娘皇女 大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也
武烈天皇即位前紀 戮鮪臣於乃樂山

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