私は、蘇我氏の古墳に銘文が書かれているとの記事をネット上で見つけ問い合わせたが友達でないから相手にしないと怒られてしまい諦めた。しかし、このフェィスブックは古代文字で書かれた文書を礼賛するページで昔の胡散臭かった、既に捨て去った本を思い出した。これらがどれぐらい進化したかと眺めてみたが全く進化しておらず、虚しさのみ増幅された気持ちになったが、幸い古文献の原文がネット上に有ることがわかり、原文を簡単に読んでみた。いわば、ひらがなで日本語を読んでいるような文なので苦労したが、ところどころ、漢字を知っている人間が翻訳している箇所が散らばっていると感じ、室見川の銘板以降の作成ということは想像できた。内容も大局的にみると古事記と同じか遅い内容で、国産み前に多くの国が存在したり、事細かなしきたりが書いてあって、いわば身近な自治体の歴史の様相を呈している。
ただし、『秀真伝』という文献に日本書紀の神より前に「わか」の「わかひめ」が記述されていて、これで私の天皇の系図が完成できた瞬間となった。天皇家の系図は大物主の配下の一人鵜茅ふきの「あえず」の子がニギハヤヒ・ウマシマジの支配する神国の「倭」三輪山近辺の「伊波礼」の長官になり、その子は神国直属の「沼河」の長官に、さらに磯城縣主と姻戚になって「師木津」の長官若しくは配下、「大」国の「倭」の長官若しくは配下、「御真津」の長官若しくは配下、丹波王と姻戚になって「大倭」君若しくは配下、「帯日子」というのは国を治める王の意味で、「アマタラシヒコ」は天国を治める王ということになり、日本書紀には7世紀でも巨勢氏を豊足臣と記述している。
『隋書俀国伝』
「俀王姓阿毎字多利思北孤」
『日本書紀』
白雉四年五月壬戌 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子
続いて、「大」国の「倭」の「根子」(倭から拡張された国)の長官若しくは配下が2代、「若」国の倭根子は同じなので「倭根子」は「若」国または「大倭」国が分国して「若倭」国になったと考えられるが、「わか」という国が有ったようなので「若倭」ではなく「若」国の「倭根子」と考えられる。さらに続いて、「御真木」に侵入した長官若しくは配下、「伊久米」に侵入した長官若しくは配下、「大国」王若しくは皇子、「若国」の国王、さらに「仲国」の国王、そして天皇で前に国が付かない帯日子の第2皇太子の「中彦」、そして天皇に上り詰めた。天皇なので役職や氏は不要で「品陀和気」で日本中に通る名前になり、その代わり、今まで天皇で不要だった「物部氏」や「尾張氏」に氏がつけられたということだ。私は「天彦」が天皇と考えていたが、天皇に氏が不要であることを忘れていた。もちろん、この系図は葛城氏の系図で、「大倭根子」の長官の頃に天皇と姻戚になり、日本書紀に記述として出現することになった。
ニギハヤヒが畿内に侵略してから磐余彦が侵入し、磐余彦を含めて4代の間物部氏が東鯷国と並立して神国を統治していたことが解る。もちろん、1代の人物に長男が継承して1人とした人物も当然あり、「大倭」君の配下の時期が紀元前80年頃で天皇になったのは西暦400年頃までで10代の人物で足りるはずがない。
胡散臭そうな古文献と考えていた文献も、ところどころ、記紀と関連していて、たとえば、高千穂宮が580年続いたとの古事記に対して、70代のしかも兄弟姉妹が継承する王家の話が有ったり、履中紀の四方志を思わせる記述が有ったりした。研究者の曇った目ではなく、冷静な分析を期待したい。
『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」