2017年10月30日月曜日

最終兵器の日本古代史 天皇の系図

 私は、蘇我氏の古墳に銘文が書かれているとの記事をネット上で見つけ問い合わせたが友達でないから相手にしないと怒られてしまい諦めた。しかし、このフェィスブックは古代文字で書かれた文書を礼賛するページで昔の胡散臭かった、既に捨て去った本を思い出した。これらがどれぐらい進化したかと眺めてみたが全く進化しておらず、虚しさのみ増幅された気持ちになったが、幸い古文献の原文がネット上に有ることがわかり、原文を簡単に読んでみた。いわば、ひらがなで日本語を読んでいるような文なので苦労したが、ところどころ、漢字を知っている人間が翻訳している箇所が散らばっていると感じ、室見川の銘板以降の作成ということは想像できた。内容も大局的にみると古事記と同じか遅い内容で、国産み前に多くの国が存在したり、事細かなしきたりが書いてあって、いわば身近な自治体の歴史の様相を呈している。
 ただし、『秀真伝』という文献に日本書紀の神より前に「わか」の「わかひめ」が記述されていて、これで私の天皇の系図が完成できた瞬間となった。天皇家の系図は大物主の配下の一人鵜茅ふきの「あえず」の子がニギハヤヒ・ウマシマジの支配する神国の「倭」三輪山近辺の「伊波礼」の長官になり、その子は神国直属の「沼河」の長官に、さらに磯城縣主と姻戚になって「師木津」の長官若しくは配下、「大」国の「倭」の長官若しくは配下、「御真津」の長官若しくは配下、丹波王と姻戚になって「大倭」君若しくは配下、「帯日子」というのは国を治める王の意味で、「アマタラシヒコ」は天国を治める王ということになり、日本書紀には7世紀でも巨勢氏を豊足臣と記述している。
『隋書俀国伝』
「俀王姓阿毎字多利思北孤」
『日本書紀』
白雉四年五月壬戌 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子

続いて、「大」国の「倭」の「根子」(倭から拡張された国)の長官若しくは配下が2代、「若」国の倭根子は同じなので「倭根子」は「若」国または「大倭」国が分国して「若倭」国になったと考えられるが、「わか」という国が有ったようなので「若倭」ではなく「若」国の「倭根子」と考えられる。さらに続いて、「御真木」に侵入した長官若しくは配下、「伊久米」に侵入した長官若しくは配下、「大国」王若しくは皇子、「若国」の国王、さらに「仲国」の国王、そして天皇で前に国が付かない帯日子の第2皇太子の「中彦」、そして天皇に上り詰めた。天皇なので役職や氏は不要で「品陀和気」で日本中に通る名前になり、その代わり、今まで天皇で不要だった「物部氏」や「尾張氏」に氏がつけられたということだ。私は「天彦」が天皇と考えていたが、天皇に氏が不要であることを忘れていた。もちろん、この系図は葛城氏の系図で、「大倭根子」の長官の頃に天皇と姻戚になり、日本書紀に記述として出現することになった。
ニギハヤヒが畿内に侵略してから磐余彦が侵入し、磐余彦を含めて4代の間物部氏が東鯷国と並立して神国を統治していたことが解る。もちろん、1代の人物に長男が継承して1人とした人物も当然あり、「大倭」君の配下の時期が紀元前80年頃で天皇になったのは西暦400年頃までで10代の人物で足りるはずがない。
 胡散臭そうな古文献と考えていた文献も、ところどころ、記紀と関連していて、たとえば、高千穂宮が580年続いたとの古事記に対して、70代のしかも兄弟姉妹が継承する王家の話が有ったり、履中紀の四方志を思わせる記述が有ったりした。研究者の曇った目ではなく、冷静な分析を期待したい。
『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

2017年10月27日金曜日

最終兵器の日本古代史 女系図8

 天智天皇の娘の持統・元明天皇は蘇我氏と天氏の娘たちで、蘇我氏の血縁が無い大友皇子は皇位を継げなかったが、天武天皇(文武天皇)は持統天皇(元明天皇)が天智天皇と蘇我氏の子として、物部氏や蘇我氏の末裔だと記述したのだろう。元明天皇の正当性を記述することで子の文武天皇が正統な天皇としたと考えられる。天武天皇の名も孝徳天皇からは天氏としてはいるが、天武天皇は役職名のような名前で、蘇我氏から継いでいない正統でない王の名前だからなのだろう。 天照大御神も古事記では別名が無いが、日本書紀では3つの名が記述され、初代女王の名前がいくつもあるなどということは有り得ず、3人の初代女王を一まとめにしていることが解る。
『日本書紀』
號大日孁貴。・・・一書云天照大神、一書云天照大日孁尊。
『古事記』
於是、洗左御目時、所成神名、天照大御神。

これに神を加えると大国の氏族の分だけ大神があり、蛭子・日孁貴・大国主・大物主・大神倭神・・・と数えきれず、それを祀っているのが、出雲大社・宗像大社・大三輪神社・元伊勢神宮・石上神宮・猪野皇大神宮などなのだろう。隠岐の島の島後の大島に建国し、蛭子の国に男王が侵略して追い出し蛭子の姫を娶って統治するが、また男王が侵略して前王の姫と政略結婚しその子が大国を統治する。侵略した男王は大富道に始まり、大穴牟遅・素戔嗚・大国主で、その皇子が大国(隠岐)を統治して、支配領域を大八島、八国の出雲、そして20国を支配する東鯷国に侵略して御炊屋姫を娶って畿内・越・丹波・東海・吉備を統治し、さらに、大物主の領域の安芸・周防・穴門へ拡大して、狗奴国・蝦夷にも侵略して九州東北・南部および関東まで配下にしたのが物部氏と尾治氏で神倭国→大倭国→日本国と国名を変えながら70余国を支配するに至った。そして、400年頃に瀬戸内海・九州南部を支配する葛城氏が尾治氏から政権を奪取して扶桑国を建国して、500年頃には葛城氏・平群氏を経て巨勢氏が筑紫(福岡平野)の倭国以外を支配した。しかし、倭国と麁鹿火の連合軍が巨勢氏を破り、倭国には50余国の九州を領有させて麁鹿火が秦王国を建国した。しかし、倭国と同盟関係の倭国に属する蘇我氏が政権奪取し、さらに倭国の天氏が政権を奪い、日本国と改名し、さらに、中臣氏が701年にクーデターで政権奪取した。原文の残っている古文書の女系の系図からこれだけの事を推定でき、記紀の内容や中国史書・朝鮮史書との矛盾が解消されている。日本国と名前を変えた倭国はもと福岡平野だけの小国で元々の大国日本国を併合した、福岡平野の筑紫国造の磐井の国が、歴史は周朝ができるより前からの歴史があり、中国の援助を受け、外交努力によって生き残ってきた小国が日本国の王となった。そして、日本史も中国との交流で対応が有ることで倭国の時計をもとに作り上げることができた。
舊唐書』  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
倭國者 古倭奴國也・・・四面小島五十餘國 皆附屬・・・或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地

女系の系図から日本の歴史を俯瞰したが、解ったことが、日本においては母系の神が重要で、現在言われている氏神というのは母親の神ということだ。夫々の氏族は男系の支配者の神と母系の氏神を祀ることで氏族を守った、氏族が地域で生き残る方策だった。男系の支配者は次々と変わったが、母系の氏神はその土地で永遠につなぐことができ、支配者は同一化したり、亦の名で残った。日本書紀の最初に出てくる神の国常立は初代天皇の母の氏神でおそらく伊都国の氏神、古事記は御中主で初代天皇の母は京都郡の地域が出自、先代旧事本紀は日国狭霧で初代天皇、この場合は麁鹿火で母は火国が出自で物部氏本来は月国狭霧で対岐すなわち対馬が出自と言える。従って、ほとんどすべての系図は、天皇や中心氏族に支配された時から系図が始まり、女系の系図を消し、姻戚関係が無くとも、支配者の神を合祀後に同一の神として系図が形作られたのだろう。なぜなら、母系は系図ができる以前からあるからこそ系図が始まる。夫婦で支配地に赴いても時がたてば手研耳のように破綻する。

2017年10月25日水曜日

最終兵器の日本古代史 女系図7

 孝徳・皇極天皇は母吉備姫が蘇我氏や物部氏として、父は茅渟王で敏達天皇の皇子としてはいる。しかし実際は更名もあって不明で2人とも天氏を名乗り、物部氏とも蘇我氏とも言えない。皇極天皇は天氏で茅渟王の娘だが、舒明天皇は天氏ではなく、天智天皇の父では有り得ないのだから、もう一人の夫の高向王は十分父の可能性がある。647年に皇太子の宮が燃えて大騒動しているが、この太子が高向王の可能性があり、天智天皇の親の可能性がある。倭国は大王のタリシヒコ法興帝と弟の聖徳法王が治め、聖徳法王の家系が高向王、法興王の家系が茅渟王の可能性がある。少なくとも法興王の曽孫の皇極天皇・孝徳天皇が政権を蘇我氏から奪い、孝徳天皇の時に璽が移動し、私は天皇の即位順は孝徳・皇極の順だと証明した。
『日本書紀』
敏達天皇五年三月戊子 「其三曰小墾田皇女 是嫁於彦人大兄皇子」
崇峻天皇五年十一月丁未 「使東漢直駒弑于天皇 或本云 東漢直駒東漢直磐井子也」
崇峻天皇五年十一月是月 「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘 蘇我馬子宿禰女也」
皇極天皇即位前紀 「天豐財重日足姫天皇・・・押坂彦人大兄皇子孫 茅渟王女也 母曰吉備姫王」
孝徳天皇即位前紀 「天萬豊日天皇 天豐財重日足姫天皇同母弟也」
大化三年十二月晦 「災皇太子宮 時人大驚恠」
斉明天皇即位前紀 「天豐財重日足姫天皇 初適於橘豐日天皇之孫高向王 而生漢皇子」
『古事記』
沼名倉太玉敷命 「日子人太子・・・娶漢王之妹 大俣王 生御子 知奴王」

 そして、皇極天皇の子、天智天皇は蘇我氏を妃に迎えたが、蘇我氏の皇子が生まれないため国内がまとまらず、壬申の乱などで蘇我氏を徹底的に滅ぼさなければならなかった。そして、天智天皇は自家の家系が中国との関係から対応があるため、自家の時計を使って史書を構成しなおし、日本書紀の原型、天氏の宮をその時代の天皇に対応させた形式が完成した。
 天武天皇以降と乙巳の変や大化改新記事は元正天皇が記述していて、天武天皇・持統天皇は文武天皇・元明天皇のことを記述している。要するに、中臣大嶋の子の日並の子の文武天皇は天智天皇の姫の菟野皇女を皇后として政権をクーデターで奪い、文武天皇が早死にしたため、妻の菟野皇女が皇位を継ぎ、璽も得たという王権の正当性を記述したと考えられる。元正天皇は日本書紀を記述するのに、何も遠慮する必要がなく、思い通りに天武・持統紀を記述でき、血統も最高実力者が宣言すれば従い、血統は孝謙天皇まで継ったが、結局、天智天皇の家系に戻った。当然、璽を得る以前の天智天皇すなわち天氏の家系も存続していて、天智天皇の子の天渟中原瀛眞人、その子の総持天皇だ。『粟原寺鑪盤銘』には額田が出現し、推古天皇や天武天皇に出現し関係がありそうだ。蘇我氏の血筋持つか持たないかの差が天氏と中臣氏の差となり、たやすくクーデタを成功させることができた原因なのだろう。
『日本書紀』
推古天皇即位前紀 「豊御食炊屋姫天皇・・・幼曰額田部皇女」
天武天皇即位前紀 「天渟中原瀛眞人天皇 天命開別天皇同母弟也 幼曰大海人皇子」
天武天皇二年二月癸未 「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」
  『粟原寺鑪盤銘』
「此粟原寺者 仲臣朝臣大嶋 惶惶誓願 奉為大倭国浄御原宮天下天皇時 日並御宇東宮 故造伽檻之 爾故比賣朝臣額田 以甲午年始 至和銅八年」
新唐書』
「天智死 子天武立 死 子總持立」

2017年10月23日月曜日

最終兵器の日本古代史 女系図6

 物部氏から蘇我氏への権力の移動において、璽の移動も、推古天皇での移動と舒明天皇の移動は同じことを指している可能性と守屋が物部氏本家から簒奪した2つの可能性がある。そして、日本書紀では推古天皇が敏達天皇の皇后としているが、崇峻天皇の皇后で物部石上贄古の夫人の布都姫は推古天皇の系図にピタリと当てはまる。
『日本書紀』
推古天皇即位前紀 「以將令踐祚 皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午 「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子」

 ここで、物部贄古は敏達天皇・守屋の皇子に天氏の皇子を記述していることに矛盾を感じると言われそうだが、推古天皇を擁立した倭国の天氏や蘇我氏を天皇の一部として記述してその時代に活躍した天皇と同一人物に融合したのではないか。すなわち、布都姫を皇后とした敏達天皇、廣媛を皇后とした敏達天皇、菟名子夫人を皇后とした敏達天皇だ。私は天氏の系図を研究して押坂彦人を天氏とすると整合性を持ち、後日述べようと思っているが、彦人と馬子のつながりを証明している。そして、物部贄古たちが皇位を継ぐことができたのは倭国のおかげで、しかもこの皇位は名目で、政権も実質馬子が大刀自を妃で大刀自を天皇にした実質天皇で実権を持っている。従って、物部贄古は推古天皇を大刀自にあて、入鹿は推古天皇を馬子に当て、舒明天皇を蝦夷に割り当て、紀伝体・列伝で記述されている。天皇の前後関係も天皇の即位年も記述されないので、天皇が実際は誰かということすら意味が無く、日本国で、ある天皇の時期の不明な王の在位年の事績を記述しているだけなのではないか。王名は更名を使い、王妃をまとめて1天皇に複数の人物を付け加えるという手法で史書を完成させたのが最も考えられる手法に感じるし、実際神話時代から同じ手法神の亦の名を使って、1柱の神の事績に複数の神の事績が記述される。
入鹿は古事記・日本書紀を記述する時、自分の出自が日子人なら、なにも「 亦名麻呂古王」を追記する必要がないのに記述している。すなわち、入鹿は息長という地域を支配していた稲目の子の麻呂子(馬子)と守屋の娘糠手姫の子の蝦夷が舒明天皇だと記述していることがわかる。
『日本書紀』
敏達天皇四年正月甲子 立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男・・・押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。
敏達天皇四年正月是月 次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生・・・與糠手姫皇女。更名田村皇女。
舒明天皇即位前紀 息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女
『古事記』
娶息長真手王之女、比呂比売命、生御子、忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。・・・日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇。

そして、天氏は蘇我氏にとって主家にあたる王家で以前「最終兵器のミサ 船王墓誌」に書いた天氏の内紛の隙に天皇位を奪取したと思われ倭国を標榜するのはそのためで、主家を無視できなかったと思われる。古事記の欽明天皇の孫、推古天皇と敏達天皇の子葛城皇子と日本書紀の稲目の孫小姉君と欽明天皇の子葛城皇子は同一皇子で蝦夷の可能性がある。古事記にとって欽明天皇(物部尾輿)・小姉君が推古天皇、馬子が敏達天皇だということを示している。
『日本書紀』
欽明天皇二年三月 堅鹽媛同母弟曰小姉君。生四男。一女。其一曰茨城皇子。其二曰葛城皇子。
『古事記』
娶庶妹豊御食炊屋比売命、生御子、・・・次、葛城王。・・・

2017年10月20日金曜日

最終兵器の日本古代史 女系図5

 継体天皇は応神天皇(物部印葉)の5世の孫、垂仁天皇の7世の孫としているが、「女系図3」から垂仁天皇は物部氏、応神天皇は尾治氏で物部氏の姫を妃にしている天皇の5世・7世の孫と言っている。垂仁天皇(武諸遇)→景行天皇(田道馬)→応神天皇(物部印葉)の後に血縁を書かずに直系でない1世真掠→2世布都久留→3世木蓮子→4世麻佐良→5世物部麁鹿火、の血筋にピタリと当てはまる。しかし、王名は男大迹と次代の廣國押武金日とは名前の性質が全く異なり、どちらかというと、袁祁・意祁の名前に近い。この混乱の理由は簡単で、仁賢天皇紀には物部麁鹿火が出現せず、武烈天皇から宣化天皇までは物部麁鹿火が出現して大連としているのは本人が書くのなら物部麁鹿火大連は天皇で出現しないはずだ。金村と2人の大連が出現するのは一方が天皇で片方が実際の大連だからだと考えられ、さらに、尾輿が麁鹿火と同時に大連となっていて、欽明天皇まで続いている。すなわち、日本書紀を欽明天皇まで守屋が記述していることが解り、同様に、敏達・用明・崇峻は恐らく、日本書紀が中国風の漢文で記述され、蘇我氏と姻戚関係のため物部贄古が記述した。そして、入鹿が推古・舒明天皇の記述と古事記に舒明天皇の記述があることから古事記の完成を行ったと考えられる。
続けて系図を考えていこう。系図的には継体天皇(麻佐良)は巨勢氏から武力で簒奪して璽を得たため、もともと政略結婚していた尾張氏草香の姫目子の子安閑天皇(麁鹿火)に政権を譲り大成経では璽の移動がある。そして、宣化天皇(押甲)と継承されたが、女系の巨勢氏の継承が無く、仁賢天皇(巨勢氏)の姫手白香皇女の子欽明天皇が即位することで国が治まったようで、ここでも、大成経では璽の移動がある。そして、物部の本流の欽明天皇(尾輿)は麁鹿火の孫石姫と巨勢男人の孫欽明天皇の子の敏達天皇に皇位を継承した。実際の物部氏の系図から見ると継体天皇は物部麻佐良、安閑天皇は物部麁鹿火、宣化天皇は物部押甲欽明天皇は物部尾輿、敏達天皇は物部大市御狩となる。用明天皇に対応する物部守屋は弓削と亦の名を持ち尾輿の子との確証が無く、妃に蘇我稲目の娘の子で人物が置き換わっている可能性があり、天皇名も橘豊日王と如何にも豊国と日()国の王の名前に見える。そのため、守屋は日本書紀を記述するにあたって麁鹿火や尾輿を大連と記述して天皇は自分の血縁でないと記述したのだと思われる。物部石上贄古の娘大刀自は布都姫と混同しているが蝦夷の妃で、そして、崇峻天皇は物部石上贄古となる。さらに、入鹿は日本書紀で推古天皇が崇峻天皇(物部石上贄古)の兄弟の娘で馬子の妃大刀自とし、天智天皇は日本書紀で蝦夷の妃が大刀自おそらく布都姫としていて推古天皇は蝦夷として記述しているようだ。炊屋比売は物部氏が長髓彦から政権を奪ったときの姫の名前、物部氏の先祖の宇摩志麻治の母の名前で、蘇我氏が政権を奪う女王にピタリの名前だ。日本書紀から見れば、推古天皇は馬子、舒明天皇は蝦夷で皇太子の入鹿が古事記を完成させ、日本書紀の推古・舒明天皇の記事を記述し、聖徳太子系の文書はここまでの歴史を基本に記述していると考えられる。もちろん先代旧事本紀も例にもれず、聖徳太子は物部恵佐古想定していると考えられる。そして、蘇我氏は漢文の知識が少なく、日本書紀の記述が中国風には書けなかったことが考えられる。
『古事記』
継体天皇 
「娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、広国押建金日命。 次、建小広国押楯命・・・娶意祁天皇之御子、手白髪命、是大后 生御子、天国押波流岐広庭命」
宣化天皇 娶意祁天皇之御子、橘之中比売命、生御子、石比売命
欽明天皇 娶檜坰天皇之御子・石比賣命、生御子、八田王、次沼名倉太玉敷命
『日本書紀』
継体天皇元年三月癸酉
元妃尾張連草香女曰目子媛・・・生二子・・・其一曰・・・廣國排武金日尊・・・其二曰・・・武小廣國排盾尊。
欽明天皇二年三月 次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛・・・一曰・・・橘豐日尊・・・豊御気炊屋比売命
皇極天皇二年十月壬子 入鹿。擬大臣位。復呼其弟曰物部大臣。大臣之祖母物部弓削大連之妹
『先代旧事本紀』
長髓彦乃遣行人言於天孫曰嘗有天神之子・・・吾妹御炊屋媛遂有兒息名曰宇摩志麻治・・・十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄古大連女宮 古郎爲妻生二兒・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人・・・物部鎌束連公 贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公・・・孫物部恵佐古連公 麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連

2017年10月18日水曜日

最終兵器の日本古代史 女系図4

 雄略天皇は葛城氏の姫を妃にしていて、安康天皇以前は葛城氏とわかり、尾張氏の仁徳天皇(意乎巳)は「女系図3」で示したように、葛城襲津彦の姫の磐之媛を妃にして葛城氏から続く王位と記述している。すなわち、履中・反正天皇は葛城氏の王朝だったと日本書紀は記述している。言い換えると、応神天皇(誉田・武内宿禰)・仁徳天皇(大鷦鷯・葛城襲津彦)・履中天皇(去來穗別・葦田宿禰)・反正天皇(瑞齒別・玉田宿禰)・允恭天皇(雄朝津間稚子・)・安康天皇(穴穗・市辺押磐)と想定して記述している。葛城氏が初めて仁徳天皇までを対象に史書を編纂して、次の平群氏が記述した履中天皇以降のなかで、允恭天皇を圓と見立てて璽の移動を記述した。この皇位の簒奪の事件が住吉仲皇子からの事件だと思われる。そして、日本書紀の文体から、安康天皇までは、文字の習熟度が低く綺麗な漢文で記述できなかったようだ。天皇名は成務・仲哀を除く名前が武内宿禰の家系の役職名で大物主を氏神とし、大物主の奈良南部侵略時の一人だ。西暦82年に京都郡で建国した彦太忍信すなわち豊御毛沼(孝元天皇)の子の家系の役職名と考えられる。葛城氏の天皇名は平群氏が記述しているため、拠点を置いた地名からの名前と実際の名、平群氏の先祖の名前との混合が考えられる。また、紀伝体で記述され、葛城氏の系図が不明で推定するしかないが、天皇名は少なくとも古事記や先代旧事本紀・梁書と王名が共通しているので日本書紀を見て書いたのではなくそれ以前から認識も共通だったと考えられる。最初に日本書紀を書いたのは葛城氏なのだから、天皇名を自王朝の先祖の名前を使うのは大いに考えられる。
『日本書紀』
履中天皇二年(辛丑401)十月 圓大使主共執國事
允恭天皇元年(壬子412)十二月 皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符
允恭天皇五年(丙辰416)七月己丑《十四》  葛城襲津彦之孫玉田宿禰・・・天皇更發卒圍玉田家而捕之乃誅
『古事記』
大雀命 此天皇、娶葛城之曽都毘古之女、石之日売命、大后。生御子、大江之伊耶本和気命。
伊耶本和気王 「此天皇、娶葛城之曽都比古之子、葦田宿祢之女、名黒比売命、生御子、市辺之忍歯王。」

雄略天皇は葛城圓の娘韓姫を妃にして政権を奪い清寧天皇に皇位を継ぎ、皇位を簒奪した清寧天皇は平群氏で、璽の移動があった。平群氏は葛城氏の歴史を記述し、雄略天皇(真鳥)・清寧天皇()で圓の子の韓姫の子にあたる鮪が璽を得た。この、皇位の簒奪の事件が眉輪王の事件と思われる。
『古事記』
雄略天皇 娶都夫良意富美之女、韓比売、生御子、白髪命
『日本書紀』
清寧天皇即位前紀 大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子

顕宗天皇葛城襲津彦→葛城葦田宿禰→蟻臣→荑媛の娘と履中天皇→磐坂市邊押羽皇子の子で葛城系の姫と武内宿禰・巨勢小柄宿禰の末裔の子の巨勢氏と間違うように記述して、璽の移動があった。雄略天皇から顕宗天皇まで歴史を記述した意祁は既に公にされている史書の履中天皇を巨勢小柄宿禰、市辺押磐を『紀氏家牒』に記述されている川辺宿祢顕宗天皇を同じく川上宿祢として、自らの出自としたと考えられる。ところが、日本書紀では武烈天皇が鮪から政権を奪っていて、武烈天皇が雄略天皇すなわち平群真鳥の娘を妃として武烈天皇を巨勢氏に見立てている。物部麁鹿火は仁賢天皇を史書に記述し、仁賢天皇を鮪、武烈天皇を袁祁とした。もちろん鮪との争いが巨勢氏の政権奪取だと思われる。
『古事記』
履中天皇 此天皇、娶葛城之曽都比古之子、葦田宿祢之女、名黒比売命、生御子、市辺之忍歯王。
清寧天皇 非今者難可謀、即興軍囲志毘臣家、乃殺也
顕宗天皇 伊奘本別王御子、市辺忍歯王御子、袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下
仁賢天皇 天皇、娶大長谷若建天皇之御子、春日大郎女、生御子、・・・小長谷若雀命。
『日本書紀』
顕宗天皇即位前紀 皇太子億計、取天子之璽、置之天皇之坐。再拜從諸臣之位曰、此天子之位、
仁賢天皇元年二月壬子 春日大娘皇女 大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也
武烈天皇即位前紀 戮鮪臣於乃樂山

2017年10月16日月曜日

最終兵器の日本古代史 女系図3

 先代旧事本紀の系図から伊香色雄(崇神)続いて、大新河(垂仁)・十市根(垂仁)・胆咋宿祢(成務)・五十琴宿祢(神功)と継承した。しかし、建諸隅と武諸遇で同じ名が尾張氏(孝昭)と物部氏(垂仁)と共に出現する。物部氏の武諸遇は成務天皇の大臣すなわち成務天皇本人の胆咋宿祢の娘を妃として応神天皇になってしまい前後関係に矛盾がある。すなわち、物部氏の崇神天皇を継いだ建諸隅(垂仁)・多遅麻(景行)・印葉(応神)が存在して尾綱根に皇位を簒奪され、その血筋は、孝元天皇(健額赤)→大彦(建箇草)の血筋の大海姫と崇神天皇(建田背)の子の八坂入姫と武諸隅(垂仁・八坂入彦)→多遅麻(景行・五百城入彦)の娘の仲姫と尾綱根(応神)の子が仁徳天皇(意乎巳)となる。物部系と尾張系との並立で尾張系が勝利したことになり、最初の南北朝のようだ。大成経では崇神・垂仁・神功・応神天皇で璽の移動があり、これらの混乱が反映され、 成務天皇の大臣は武内大臣ではなく 胆咋宿祢が大臣のようだ。伊莒弗が履中・反正共に大連に就任しており、No1の地位なら有り得ず、2人の天皇に仕えたNo2の地位だったと考えられる。すなわち垂仁天皇の時の倭国大乱で政務天皇と景行天皇が並立したことを示して、天皇としては次代の天皇の王朝が正規の王朝となるため、正規でない天皇名は若帯日子と帯中日子で、ただの官位名を記述して王名が記述されない。三国志の倭国大乱は宗主国の日本が混乱して、その結果、倭国内の国々が尾張氏と物部氏とどちらに付くかで混乱し、その隙に狗奴国も倭国に攻めたのだろうか。
『先代旧事本紀』 5巻
四世孫羸津世襲命・・・妹世襲足姫命・・・観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生・・・次日本足彦國杵人天皇是也・・・六世孫建田背命・・・七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男妹大海姫命 亦名葛󠄀木髙名姫命・・・八世孫倭得玉彦命・・・ 十三世孫尾綱根命此命譽田天皇御世爲大臣・・・十四世孫尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣供奉」
五世孫欝色雄命・・・妹鬱色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇・・・次春日宮御宇天皇・・・伊香色謎命 大綜杵大臣之子・・・誕生皇子即是磯城瑞籬宮御宇天皇・・・八世孫物部武諸遇連公 新河大連之子・・・九世孫物部多遅麻連公武諸遇大連之子・・・物部膽咋宿禰 十市根大連之子 此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲大臣・・・物部伊莒弗連・・・此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連
『日本書紀』
「妃尾張大海媛。 生八坂入彦命・・・八坂入彦皇子之女也。天皇欲得爲妃。・・・唯有妾姉。名曰八坂入媛・・・
八坂入媛爲妃。生七男六女。第一曰稚足彦天皇。第二曰五百城入彦皇子・・・大鷦鷯天皇。譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也」

 応神天皇は物部印葉と尾綱根が政権を争い尾張氏の大海姫と崇神天皇の末裔の仲姫との子の仁徳天皇(意乎巳)に皇位を継いで、しかも、大海姫は葛󠄀木髙名姫と接合している。そして、尾綱根から尾治氏が始まっていて、それ以前の尾治氏には氏が無い。天皇に氏は不要で、同様に大新河から物部の氏を持ったということは、物部氏も氏が不要な天皇だったことが解る。さらに、古事記では神功皇后の母は葛城高額姫で高額姫の両親は葛城氏ではない。古事記の開化天皇は葛城氏の王を想定した記述の可能性があり、武内宿祢も、神功皇后も古事記は葛城氏だと想定している。すなわち、応神天皇は尾張氏から天皇位を簒奪したということも記述して、応神天皇の記事には尾綱根・印葉・襲津彦・倭王などの内容が記述されているため、朝鮮王の死亡記事と合わないのである
『日本書紀』
崇神天皇元年二月辛亥 「次妃尾張大海媛 一云大海宿禰女八坂振天某邊」
『古事記』 開化天皇
「娶葛城之垂見宿祢之女 ?比売生御子建豊波豆羅和気」
「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女丹波能阿治佐波毘売生子迦迩米雷王・・・此王娶丹波之遠津臣之女名高材比売生子息長宿祢王 此王娶葛城之高額比売生子息長帯比売命」
『先代旧事本紀』 5巻
「十三世孫尾綱根命・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連勑尻納連日」
「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓」