神武紀には不可解な記述がある。二年二月甲辰朔「皇師大擧 將攻磯城彦」・・・「弟磯城名黒速爲磯城縣主」、磯城彦がすでにいる時代に、弟とされる黒速を「磯城縣主」と呼ぶ。けれど、これは時代的に不自然。『古事記』では懿徳天皇の時まで「磯城縣主の祖」とされていて、その時代に〝磯城縣主″など存在していない。都の王が磯城彦(葉江)であるならば、その時代、首都に地方官など置かれるはずがない。
この記述こそ、実際には孝霊天皇の時代を反映していた。その頃、磯城には大目という王がいた。彼は、磯城を統治していた〝元首都″の天皇。のちに十市へ分家し、同じ二月甲辰朔の干支の前292年、弟が磯城の地を継ぐ。この〝弟″こそが、黒速、つまり、黒速=新たな磯城縣主=後の「崇神天皇」の出自。この時、葉江の娘の婿は? 大目が孝霊天皇に即位した。
『漢書』はこう語っている。「會稽海外有東鯷人 分為二十餘国」畿内は、最初から〝統一国家″などではなかった。それは、三王家を中心にして分立していた。君子国(大神家)、周饒国(物部家)、そして大人国。この三王家が、ついに〝統合″された瞬間、その都を置いたのが、磯城だった。これこそが、〝大和王権の始点″だ。その統合を果たしたのが、磯城彦・黒速の子孫、すなわち、崇神天皇だった。
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