俀国と倭国には、仏教伝来まで「文字がなかった」という。紙のない時代、人々は器や道具に文字を刻んだ。おそらく、文字は使ったが、筆で書かないで、刻んだのだろう。その姿は、『日本書紀』の欽明・敏達紀に描かれる文化の黎明に重なる。
『俀国伝』には、こうある。「夷人 不知里數」距離の単位を知らない者たち。日本の一里は、わずか五十メートル。中国の一里は四百メートルに変わった。隋とは空間の感覚も、異なった。
忘れてはならないもう一つの記録。『梁書』に記された、扶桑国。「仏教も 文字も 頗る有り」。それは、俀国でも倭国でもない。秦王国の前の王朝だったのでは?
三王家のうち、『光背銘』に記される〝法皇″は俀国の太子だった可能性が高い。『隋書』俀国伝には、こうある。「天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」、天子は夜明けまで政を行い、昼間は弟に委ねた。つまり、太子(弟)は昼の政治を担っていたけれど、天子(兄)とは別の人格だった。『日本書紀』の太子像とは、異なる構造。この聖徳太子は、天皇の甥ではなく、弟だ。
さらに、『光背銘』には「法興元丗一年」とある。これは、中国の年号ではない。俀国独自の帝号、法興帝。隋の煬帝に対して、自らを天子と名乗った者。ならば、法興帝と呼ぶのは、自然なこと。
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