そして、干支のずれとは別に、もっと大きな沈黙もあった。『古事記』には、そもそも死亡年が書かれていない天皇たちがいる。天国排開廣庭、武小廣国押盾、彼らがいつ亡くなったのか、その記録はない。もしかすると、彼らは、「もうひとつの王家」の王だったのかもしれない。並び立つ、別系譜の王権。記録された〝死″こそが、その王統の「正統性」の証だった。
ここで、ひとつの仮説が立ち上がる。
【仮説 >> 「同じ名前の天皇でも、死亡日が異なれば、それは別人である。」 つまり、「天皇」という称号は、ひとつの王家に属するものではなく、複数の王権が共有していた〝共通タイトル″だったのでは?】
同じ人が二度死ねないのだから、いたって普通の考え。この仮説が示す意味は大きい。
私たちが「天皇」と呼んできた存在は、実は日本列島に点在した複数の王家が、それぞれに名乗っていた、王の名のような「役職名」だったのかも。そう考えると、『日本書紀』と『古事記』の食い違いは単なる記録ミスではなく、多元的王権の痕跡として、静かに語りかけてくる。日本は、はじめから「ひとつ」だったわけではない。
天皇の名前が一致すること。それは、後の時代の編者が、複数の王統を一続きにまとめようとした努力の跡。しかし、死の年、それだけはどうしても合わせることができなかった。記録があれば、書き残したくなる。偉大な王の影を、後の世へと引き渡したくなる。であるから、死亡日のズレは、むしろ「正直な証言」だ。
ミスはたまに一つあるから。すべて違うのはミスではなく、「故意」、違う天皇と知っていた。そのわずかな違いに、耳をすませば、遠い昔のまだ地図にも描かれなかった王国の記憶が、静かに、今の時代に語りかけてくる。
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