倭得玉彦の子には5男、大海部直の祖を生む弟彦や甲斐國造の祖を生む彦與曽、八坂之入日賣が生む五百木之入日子に繋がる五百木部連の祖などが存在する。これらは、高穴穂宮天皇の構成氏族である。ところが、5男以外に日女が記述され、5男の人物の妃を全く記述しない。そして、その子の世代も妃を記述しない。
これは5柱の比賣の婿が記述され、日女は跡取りを意味したと考えられる。そして、次世代も同様に比賣の婿や分家が記述されたと考えられる。勿論、垂仁朝が100年近くも続くのだから、5代程度の従妹婚があるので、兄弟・姉妹と記述される。『古事記』には比婆須比賣、眞砥野比賣、弟比賣の三娘と朝廷別しか記述せず、後で歌凝比賣を追加している。これは、朝廷別が分朝廷の纏向宮を開いた豐木入日子で、その妃が歌凝比賣すなわち佐波遲比賣を意味しているのだろう。
弟彦は弟国が出来てから、賜姓された名なのだから、すなわち、道主の娘の死によって名付けられたのだから、道主の跡取りの婿が弟彦である。日女は国名が無い比賣なのだから天皇(皇后)、同じように、国名が無い彦の彦與曽も天皇である。その天皇は、纏向と師木の天皇で、纏向天皇の豐木入日子・玉勝山代根古の妃の日女である。歌凝比賣は山代の相樂で崩じているので、(歌凝)比賣が佐波遲比賣である。
師木天皇の彦與曽は沙本毘古で、妃は沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣を生む阿邪美能伊理毘賣と考えられる。佐波遲比賣と同時期に薨じた、弟國の淵に落ちて薨じた眞砥野(圓野)比賣と考えられる。弟彦が後代に三野國造になるのだから美濃に住む八坂之入日子で、妃は尾張國の三野の別の大中津日子(大中津比賣)を生む氷羽州比賣である。
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